バニップ・ラブストラック
咄嗟に体を起こしても、何も見えない暗闇の中。それでも、さっきの夢より幾分マシだった。目を凝らせば遠くに穴があり、そこから僅かに光と風が差し込んでいる。ここは私……デフ渓谷の怪物が潜む洞窟だ。
ひんやりとした洞窟の岩肌が、さっき見た悪夢から解放された私を歓迎する。安心しきってついまた寝そうになるのを我慢しながら、眠気覚ましに毛並みを整えたり蛇腹を動かしたりしてみる。
私はバニップという種族であるということを知ったのは、幼い頃に浴びせられた心無い言葉だった。ラミアのような体をしていながら上半身から背中にかけて獣人のようにもっふりしていて、その珍しい特徴からよく爪はじきものにされた。
私の他に全く同じ特徴を持つ仲間に出会ったことはない。人間からは当然、ラミア属の魔物でさえ、何が気に入らないのか私を嫌った。石を投げられたり突然泣き出して逃げられたり。その反応はまるで怪物を前にしたようだった。
でもまあ、いいのだ。皆が私を嫌い恐れるなら、私は一人でいい。そう思ってこの渓谷付近に留まって幾年が経っただろう。岩場がゴツゴツとあって流れも早く元々人が多く来る場所ではなかったけれど、私が住み着いて数年が経つとめっきり人を見なくなった。それどころか魔物の姿さえも。
デフ渓谷の怪物の噂を耳にしたのは、何がきっかけだっただろう。もう思い出せないけれど、その怪物が私のことだというのは聴いていてすぐにわかった。食料を取りに行くところでも見られたのだろう。その噂のおかげで私は一人悠々自適に暮らせていると知り、帰ってちょっとだけ泣いた。悪夢のネタには事欠かない。
洞窟から出て日の光を浴び、グンと背伸びをする。ここは魔界にはない心地よさがあって好きだ。でもこの先これ以上暑くなると思うと、嫌な思い出が蘇る。“毛むくじゃらが暑苦しいのよ!”なんて。本当に小さい時に言われた言葉が今もこうして胸を抉る。一度毛をできる限り剃ってみたことがあるけれど、その時は恥ずかしくてとても外に出られたものじゃなかった。
別にそんな思い出を洗い流してくれるわけでもないけど水に飛び込む。いつものルートを行けば、様々な種類の魚が慌ただしそうに泳いでいるのが見える。私ほどの巨体が入って余りある程に底は深く、人の身であれば落ちたらひとたまりもないだろう。
コブのような岩を目印に顔を出すと……いた。青っぽい服を着た青年が釣りをしている。ここ数か月の晴れの日はずっとあの調子だ。側のカゴには既にいくつか魚が入っていて、この調子なら今日も大漁だろう。それにしても怪物が出るという噂の場所に毎日わざわざ来るなんて。確かに人も魔物もいない穴場ではあるけど、怖くはないのだろうか?
彼のたくましい腕が釣り竿を振る。優しそうな顔に澄んだ瞳が綺麗。ダメだ。これ以上見ていると襲ってしまいそうで、慌てて水の中へ潜り込む。もし襲いかかってしまえば……いや、私の姿を見ただけでもきっと、彼は怖がって二度とここへは来なくなるだろう。私が見たいのは彼の笑顔であって、恐怖にひきつらせた顔じゃない。
魚を釣り上げる彼を見ながら、この間ほんの少しだけ話した時のことを思い返す。天の声と称して、面と向かってではなかったけれど、あれは幸せなひと時だった。彼が竿を落として、私がそれを拾って。帰り道の彼の晴れやかな顔が眩しくて……。
今日はもう十分だ。帰ろう。そう自分に言い聞かせているにもかかわらず、身体は素直に帰ろうとしない。もうちょっと。もうちょっとだけここにいたい。あの腕に抱かれたら、あの手で撫でられたら、あの体を抱きすくめられたならどんなに幸せだろう。
ほんの一回、ちょっとした言葉を交わしただけなのに、どうしてあの人のことがこんなにも……好きなのだろう。
「……好き」
ちょっと言ってみただけ。ホントに小さな声だったのに、彼がこっちに振り向いた。反射的に私は水の中に飛び込んで身を隠す。まさか聞こえてた? そんなはずは……。
胸の鼓動が早くなる。今にも爆発しそうなほどに。彼とおしゃべりしたい。お出かけしたい。お食事したい……襲いたい。
衝動を振り払うべく、水の中をデタラメに泳ぎ回る。底に頭をぶつけたりして落ち着いたかと思うとふっと彼の顔がよぎって、また衝動が走り出す。せめて声をかけたい。でも嫌われるのは怖い。それに今の調子だとうまく話せず欲求のままに襲いかかってしまうから。こういう時は嫌な記憶を呼び起こして強制的にクールダウンさせるに限る。
恐い。私を怖がる人間が恐い。
恐い。私を忌み嫌う魔物が恐い。
恐い。こわがられるのが、恐い。
恐がられたって死ぬ訳じゃない。終わりじゃない。それはわかってる。終わらないからこそ、こわい。
私の中で恐怖と思慕がせめぎ合う。彼の顔を見る度に心が躍り、雨で彼を見られない日はその姿を思い出す。そうしていると体が疼いて仕方ない時もあり、最近は頻繁にそう。今もこうして発散していないと我慢できない。
でも、やっぱりこわい。いつか本当に我慢できなくなって、彼を襲ってしまう日はそう遠くないだろう。その時彼は泣いて謝りながら命乞いをするのだろうか。それともひどく怒った表情で拳を打ち付けてくるのだろうか。そう思うと、私はこわい。
……私は、怖がっているんだ。ピタッと泳ぐのを止めた私は、いまだに泳ぎ回る私の幻覚を見た。一心不乱に、無茶苦茶にうねる私を。そして、なんだか可笑しくなった。そうだ。私はあんなにも恐れている。何とも過剰に怯えている。
同時に私を見つめる視線にも気が付いた。無茶苦茶に泳ぐ私をじっと見ている私。とても不思議な光景だったけど、たとえ自分であっても私を怖がらずに見てくれる、ただそれだけで、なんだか楽になった気がした。
落ち着きを取り戻したから、今日はもう一回彼を見ても襲わずに済むはず。コブのような岩の目印へと戻り岩に上がると、青年の他にも十数人の人間がいた。なんとまあ珍しい。でもその人たちは釣り竿もカゴも持っていなくて、ただ険しい顔をしていた。
「困るんだよレージ。怪物を怒らせたらどうするんだ」
どうやら彼と同じ村に住む男達らしく、この渓谷に立ち入ったことを責めている。噂を信じている人たちからすれば――もっとも私は怒ったりしてないけど――怪物を刺激したくないのはわかる話。でも村人たちの言葉は決して彼を心配しているのでもなければ、怪物を本気で恐れている風にも見えなかった。
「悪かったよ。もうここへは来ない。約束する」
彼の言葉に耳を疑って、気が遠くなりかけるのを必死に耐えた。こんなことなら、早く声をかけておくんだった。そんな後悔が頭を駆け巡る。
「いや、そうじゃねぇ。せっかくの穴場なんだ。お前一人じゃ怪物に襲われた時何にも出来ねぇだろ? だから俺達も一緒にいてやるよ」
頭が真っ白になりかけていた私にとって、それは救いの言葉だった。彼がこれからもここに通い続けてくれるのならなんでもいい。いつか襲ってしまうことになっても、とりあえず今は。
「いいや、俺はやめとくさ。この釣り場はお前らに譲る」
え? なんで――。彼はそそくさと帰り支度をはじめて、村人たちは肩をすくめるだけで引き留めようとしない。このままだと彼が帰て二度と会えなくなっちゃう。そんなの、やだ。
長い尾をバネのようにして、男達の間に飛び込む。驚いた顔や声が並んでいるけど今となっては怖がられることを恐がってなんていられない。彼を失うこととは決して比べものにならないのだから。勢いそのままに彼を尾で巻き締めて、すぐに急流へ飛び込んだ。
一目散に洞窟まで戻って彼を確認すると、驚いたせいか締め付けすぎたせいか、ぐるぐる巻きの尾の中で眠っていた。私の魔力を帯びた毛は水の中でもその質感を維持できる。そのおかげか彼を特にケガ無く運ぶことができたようだ。
「それにしても」
幸せそうな寝顔。いつもは遠くから眺めているしかできなかった彼が今目の前にいる。ついまじまじと見つめていると、少しずつ近づいてしまっていたらしい。唇が、触れた。
いけない。こんなこと。せめてちゃんと彼の意識が戻ってからじゃないと。その考えも唇を啄ばむ度にかき消えていく。幸福と快感が同時に湧き上がる。
今なら彼を独り占めできる……。
散々独り占めした後、意識がはっきりとした彼は私の姿をはっきりと見てポカンとしていた。攫って襲ったことを謝っても、あいまいな返事が返ってからは気まずい沈黙が流れている。
とりあえずそれとなく共通の話題を振ってみよう。
「その、ずっと前に一度……釣り竿を、落としたでしょう?」
「あっ、貴女だったんですね、拾ってくれたのは。その節はどうも」
「い、いえ。こちらこそ?」
……誰かと面と向かって話すのが久しぶりすぎて、うまく続かない。
「あのさ」
「ひゃい!?」
「えっと、いつも僕を見てたのって、貴女であってます?」
「ええええええっとお!?」
なんでバレてるの!? ちゃんと隠れて見てたはずなのに!
「いつからか視線を感じるなーとは思ってたんですけど、まさかこんなに綺麗だったとは」
「きれっ」
これは夢か!? 夢だね!? だって私を綺麗だなんて言ってくれる相手なんて一人もいなかったもん!
岩肌に頭をぶつけるの私を止めつつ、彼は続ける。
「でもどうして僕を攫ってその……あんなことを」
……私だって魔物娘だもん。ついそういうこともしちゃうのは仕方ないというかそうじゃなくて。
「もうここに来ないって言うから、いてもたってもいられなくなって……でもどうしてこないだなんて」
「うん……あれは、悪い癖なんだ」
そういうと彼は私の前に深く座り直した。こうして面と向かっているとなんだか毛皮の無い筈の顔が熱くなる。
「既に知っているかもだけど、ここは釣りには絶好の穴場なんだ。怪物の……貴女の噂のおかげで誰も手を付けない聖域で、僕はずっとここを誰にも喋らずにいた。昔っから、自分の見つけたものは自分だけの秘密にしたい性分で」
彼は照れたようにはにかんで頭を掻いた。
「でも村では誰か一人だけが得するっていうのはいい目で見られないものでね。そして今日ついに後を付けられたってことさ」
「そうだったの……でも“もう来ない”だなんて」
「うん。場所がバレちゃったからもう今までのような釣りは出来ないなって思ったのさ。なんだか自分の物を取られた感じがして意地になってたのもあるけどね」
それを聞いて、顔から血の気が引いていくのを感じる。さっき独り占めした時に初めてを取ってしまったのもそうだけど、私は彼を攫ったために、村ではもう死んでしまったことになっているだろう。つまり彼の帰る場所を奪ってしまったと気付いた。
「ごめんなさい! 私が攫っちゃったせいで」
「いいんだよ。どうせハブられ気味だったし。向こうも厄介者が消えてくれて清々してるだろうさ」
それを聞くとなんだかその村をどうにかしたくなってきた。
「それでいいの? 村襲ってくる?」
でも彼は笑って首を横に振った。「いいや、そんなことしたら住人たちを焚きつけかねない。それに襲うって言うとその、ね」
言わんとするところを察した。別にそういう意味で襲うと言ったのではないけれど。
「怪物の噂はより強くなっただろうから、しばらくここには誰も来ないだろうね。ということで、行く場所もないしここでお世話になってもいいかな?」
――。
「おーい?」
びっくりした。こんなことになるなんて考えもしなかった。妄想の中でさえさっきのような独り占めまでだったのに、二人で暮らすなんて。
「ところで名前は? 僕はレージ」
名前。そういえば名前なんて付けられたことなかった。“でかいの”や“怪物”としか呼ばれた記憶が無い。私はふるふると首を振った
「そうか……じゃあピュティシア、というのは、どうかな」
ピュティシア……ピュティシア。私の名前。何度も繰り返すうちに、視界が滲み始める。
「あっと、別のにするかい!?」
ふるふる首を振って、涙を拭う。私の物。私の名前。
「こうやって誰かに何かを貰うのが初めてで……それがレージさんで本当に良かった。レージさん、私の名前、呼んで?」
レージさんは立ち上がって私の頭を撫でながら、そっと私の名前を囁いた。それが嬉しくてうれしくて、彼の身体を尾で抱きしめ返す。
誰かに恐がられることはやっぱり恐いけど、もう私は大丈夫。彼がいる限り、ずっとそう思えるのだろう。
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ひんやりとした洞窟の岩肌が、さっき見た悪夢から解放された私を歓迎する。安心しきってついまた寝そうになるのを我慢しながら、眠気覚ましに毛並みを整えたり蛇腹を動かしたりしてみる。
私はバニップという種族であるということを知ったのは、幼い頃に浴びせられた心無い言葉だった。ラミアのような体をしていながら上半身から背中にかけて獣人のようにもっふりしていて、その珍しい特徴からよく爪はじきものにされた。
私の他に全く同じ特徴を持つ仲間に出会ったことはない。人間からは当然、ラミア属の魔物でさえ、何が気に入らないのか私を嫌った。石を投げられたり突然泣き出して逃げられたり。その反応はまるで怪物を前にしたようだった。
でもまあ、いいのだ。皆が私を嫌い恐れるなら、私は一人でいい。そう思ってこの渓谷付近に留まって幾年が経っただろう。岩場がゴツゴツとあって流れも早く元々人が多く来る場所ではなかったけれど、私が住み着いて数年が経つとめっきり人を見なくなった。それどころか魔物の姿さえも。
デフ渓谷の怪物の噂を耳にしたのは、何がきっかけだっただろう。もう思い出せないけれど、その怪物が私のことだというのは聴いていてすぐにわかった。食料を取りに行くところでも見られたのだろう。その噂のおかげで私は一人悠々自適に暮らせていると知り、帰ってちょっとだけ泣いた。悪夢のネタには事欠かない。
洞窟から出て日の光を浴び、グンと背伸びをする。ここは魔界にはない心地よさがあって好きだ。でもこの先これ以上暑くなると思うと、嫌な思い出が蘇る。“毛むくじゃらが暑苦しいのよ!”なんて。本当に小さい時に言われた言葉が今もこうして胸を抉る。一度毛をできる限り剃ってみたことがあるけれど、その時は恥ずかしくてとても外に出られたものじゃなかった。
別にそんな思い出を洗い流してくれるわけでもないけど水に飛び込む。いつものルートを行けば、様々な種類の魚が慌ただしそうに泳いでいるのが見える。私ほどの巨体が入って余りある程に底は深く、人の身であれば落ちたらひとたまりもないだろう。
コブのような岩を目印に顔を出すと……いた。青っぽい服を着た青年が釣りをしている。ここ数か月の晴れの日はずっとあの調子だ。側のカゴには既にいくつか魚が入っていて、この調子なら今日も大漁だろう。それにしても怪物が出るという噂の場所に毎日わざわざ来るなんて。確かに人も魔物もいない穴場ではあるけど、怖くはないのだろうか?
彼のたくましい腕が釣り竿を振る。優しそうな顔に澄んだ瞳が綺麗。ダメだ。これ以上見ていると襲ってしまいそうで、慌てて水の中へ潜り込む。もし襲いかかってしまえば……いや、私の姿を見ただけでもきっと、彼は怖がって二度とここへは来なくなるだろう。私が見たいのは彼の笑顔であって、恐怖にひきつらせた顔じゃない。
魚を釣り上げる彼を見ながら、この間ほんの少しだけ話した時のことを思い返す。天の声と称して、面と向かってではなかったけれど、あれは幸せなひと時だった。彼が竿を落として、私がそれを拾って。帰り道の彼の晴れやかな顔が眩しくて……。
今日はもう十分だ。帰ろう。そう自分に言い聞かせているにもかかわらず、身体は素直に帰ろうとしない。もうちょっと。もうちょっとだけここにいたい。あの腕に抱かれたら、あの手で撫でられたら、あの体を抱きすくめられたならどんなに幸せだろう。
ほんの一回、ちょっとした言葉を交わしただけなのに、どうしてあの人のことがこんなにも……好きなのだろう。
「……好き」
ちょっと言ってみただけ。ホントに小さな声だったのに、彼がこっちに振り向いた。反射的に私は水の中に飛び込んで身を隠す。まさか聞こえてた? そんなはずは……。
胸の鼓動が早くなる。今にも爆発しそうなほどに。彼とおしゃべりしたい。お出かけしたい。お食事したい……襲いたい。
衝動を振り払うべく、水の中をデタラメに泳ぎ回る。底に頭をぶつけたりして落ち着いたかと思うとふっと彼の顔がよぎって、また衝動が走り出す。せめて声をかけたい。でも嫌われるのは怖い。それに今の調子だとうまく話せず欲求のままに襲いかかってしまうから。こういう時は嫌な記憶を呼び起こして強制的にクールダウンさせるに限る。
恐い。私を怖がる人間が恐い。
恐い。私を忌み嫌う魔物が恐い。
恐い。こわがられるのが、恐い。
恐がられたって死ぬ訳じゃない。終わりじゃない。それはわかってる。終わらないからこそ、こわい。
私の中で恐怖と思慕がせめぎ合う。彼の顔を見る度に心が躍り、雨で彼を見られない日はその姿を思い出す。そうしていると体が疼いて仕方ない時もあり、最近は頻繁にそう。今もこうして発散していないと我慢できない。
でも、やっぱりこわい。いつか本当に我慢できなくなって、彼を襲ってしまう日はそう遠くないだろう。その時彼は泣いて謝りながら命乞いをするのだろうか。それともひどく怒った表情で拳を打ち付けてくるのだろうか。そう思うと、私はこわい。
……私は、怖がっているんだ。ピタッと泳ぐのを止めた私は、いまだに泳ぎ回る私の幻覚を見た。一心不乱に、無茶苦茶にうねる私を。そして、なんだか可笑しくなった。そうだ。私はあんなにも恐れている。何とも過剰に怯えている。
同時に私を見つめる視線にも気が付いた。無茶苦茶に泳ぐ私をじっと見ている私。とても不思議な光景だったけど、たとえ自分であっても私を怖がらずに見てくれる、ただそれだけで、なんだか楽になった気がした。
落ち着きを取り戻したから、今日はもう一回彼を見ても襲わずに済むはず。コブのような岩の目印へと戻り岩に上がると、青年の他にも十数人の人間がいた。なんとまあ珍しい。でもその人たちは釣り竿もカゴも持っていなくて、ただ険しい顔をしていた。
「困るんだよレージ。怪物を怒らせたらどうするんだ」
どうやら彼と同じ村に住む男達らしく、この渓谷に立ち入ったことを責めている。噂を信じている人たちからすれば――もっとも私は怒ったりしてないけど――怪物を刺激したくないのはわかる話。でも村人たちの言葉は決して彼を心配しているのでもなければ、怪物を本気で恐れている風にも見えなかった。
「悪かったよ。もうここへは来ない。約束する」
彼の言葉に耳を疑って、気が遠くなりかけるのを必死に耐えた。こんなことなら、早く声をかけておくんだった。そんな後悔が頭を駆け巡る。
「いや、そうじゃねぇ。せっかくの穴場なんだ。お前一人じゃ怪物に襲われた時何にも出来ねぇだろ? だから俺達も一緒にいてやるよ」
頭が真っ白になりかけていた私にとって、それは救いの言葉だった。彼がこれからもここに通い続けてくれるのならなんでもいい。いつか襲ってしまうことになっても、とりあえず今は。
「いいや、俺はやめとくさ。この釣り場はお前らに譲る」
え? なんで――。彼はそそくさと帰り支度をはじめて、村人たちは肩をすくめるだけで引き留めようとしない。このままだと彼が帰て二度と会えなくなっちゃう。そんなの、やだ。
長い尾をバネのようにして、男達の間に飛び込む。驚いた顔や声が並んでいるけど今となっては怖がられることを恐がってなんていられない。彼を失うこととは決して比べものにならないのだから。勢いそのままに彼を尾で巻き締めて、すぐに急流へ飛び込んだ。
一目散に洞窟まで戻って彼を確認すると、驚いたせいか締め付けすぎたせいか、ぐるぐる巻きの尾の中で眠っていた。私の魔力を帯びた毛は水の中でもその質感を維持できる。そのおかげか彼を特にケガ無く運ぶことができたようだ。
「それにしても」
幸せそうな寝顔。いつもは遠くから眺めているしかできなかった彼が今目の前にいる。ついまじまじと見つめていると、少しずつ近づいてしまっていたらしい。唇が、触れた。
いけない。こんなこと。せめてちゃんと彼の意識が戻ってからじゃないと。その考えも唇を啄ばむ度にかき消えていく。幸福と快感が同時に湧き上がる。
今なら彼を独り占めできる……。
散々独り占めした後、意識がはっきりとした彼は私の姿をはっきりと見てポカンとしていた。攫って襲ったことを謝っても、あいまいな返事が返ってからは気まずい沈黙が流れている。
とりあえずそれとなく共通の話題を振ってみよう。
「その、ずっと前に一度……釣り竿を、落としたでしょう?」
「あっ、貴女だったんですね、拾ってくれたのは。その節はどうも」
「い、いえ。こちらこそ?」
……誰かと面と向かって話すのが久しぶりすぎて、うまく続かない。
「あのさ」
「ひゃい!?」
「えっと、いつも僕を見てたのって、貴女であってます?」
「ええええええっとお!?」
なんでバレてるの!? ちゃんと隠れて見てたはずなのに!
「いつからか視線を感じるなーとは思ってたんですけど、まさかこんなに綺麗だったとは」
「きれっ」
これは夢か!? 夢だね!? だって私を綺麗だなんて言ってくれる相手なんて一人もいなかったもん!
岩肌に頭をぶつけるの私を止めつつ、彼は続ける。
「でもどうして僕を攫ってその……あんなことを」
……私だって魔物娘だもん。ついそういうこともしちゃうのは仕方ないというかそうじゃなくて。
「もうここに来ないって言うから、いてもたってもいられなくなって……でもどうしてこないだなんて」
「うん……あれは、悪い癖なんだ」
そういうと彼は私の前に深く座り直した。こうして面と向かっているとなんだか毛皮の無い筈の顔が熱くなる。
「既に知っているかもだけど、ここは釣りには絶好の穴場なんだ。怪物の……貴女の噂のおかげで誰も手を付けない聖域で、僕はずっとここを誰にも喋らずにいた。昔っから、自分の見つけたものは自分だけの秘密にしたい性分で」
彼は照れたようにはにかんで頭を掻いた。
「でも村では誰か一人だけが得するっていうのはいい目で見られないものでね。そして今日ついに後を付けられたってことさ」
「そうだったの……でも“もう来ない”だなんて」
「うん。場所がバレちゃったからもう今までのような釣りは出来ないなって思ったのさ。なんだか自分の物を取られた感じがして意地になってたのもあるけどね」
それを聞いて、顔から血の気が引いていくのを感じる。さっき独り占めした時に初めてを取ってしまったのもそうだけど、私は彼を攫ったために、村ではもう死んでしまったことになっているだろう。つまり彼の帰る場所を奪ってしまったと気付いた。
「ごめんなさい! 私が攫っちゃったせいで」
「いいんだよ。どうせハブられ気味だったし。向こうも厄介者が消えてくれて清々してるだろうさ」
それを聞くとなんだかその村をどうにかしたくなってきた。
「それでいいの? 村襲ってくる?」
でも彼は笑って首を横に振った。「いいや、そんなことしたら住人たちを焚きつけかねない。それに襲うって言うとその、ね」
言わんとするところを察した。別にそういう意味で襲うと言ったのではないけれど。
「怪物の噂はより強くなっただろうから、しばらくここには誰も来ないだろうね。ということで、行く場所もないしここでお世話になってもいいかな?」
――。
「おーい?」
びっくりした。こんなことになるなんて考えもしなかった。妄想の中でさえさっきのような独り占めまでだったのに、二人で暮らすなんて。
「ところで名前は? 僕はレージ」
名前。そういえば名前なんて付けられたことなかった。“でかいの”や“怪物”としか呼ばれた記憶が無い。私はふるふると首を振った
「そうか……じゃあピュティシア、というのは、どうかな」
ピュティシア……ピュティシア。私の名前。何度も繰り返すうちに、視界が滲み始める。
「あっと、別のにするかい!?」
ふるふる首を振って、涙を拭う。私の物。私の名前。
「こうやって誰かに何かを貰うのが初めてで……それがレージさんで本当に良かった。レージさん、私の名前、呼んで?」
レージさんは立ち上がって私の頭を撫でながら、そっと私の名前を囁いた。それが嬉しくてうれしくて、彼の身体を尾で抱きしめ返す。
誰かに恐がられることはやっぱり恐いけど、もう私は大丈夫。彼がいる限り、ずっとそう思えるのだろう。
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18/05/18 07:09更新 / 小浦すてぃ