第一話
電車が止まった。もうかれこれ10分は動かない。比較的混んでいる中、立っているのも疲れて来たところで車内アナウンスが流れ始めた。
どうやら2つ後、自分の降りる駅で信号トラブルが起こったらしい。この電車は次の駅までは行くようだが運転が再開されるのは30分後。これはそこから歩いたほうが早そうだ。
電車が駅に着いた。電車から吐き出され、多くの人はこの駅に留まる様子だ。改札をくぐり外へ出る。最寄りの隣でありながらこの駅で降りたのは初めてかもしれない。越してきてからは会社と自宅の往復しかしてこなかった。当たり前の話だ。休日は買い出し以外は外に出ず、寝るか読書するか。これといって趣味もなく、強いて言えば酒くらい。最近は忙しくてその酒も楽しむ気にもなれないが。安い発泡酒で喉を潤す日々が続く。
苦労して就いた職業だけに給料だけはいい。しかしそれを使う相手も長いこといないし、かといってお水の女に貢いだって虚しくなるだけ。通帳に記される残高は増える一方だ。
そんな時、いつもと違う駅の周りは、知らないというだけで存外好奇心が湧いてくる。どこにでもある大手のコンビニだって、店構えや周りの景色が違えば新鮮に見えるのだから不思議だ。
ひとまず線路沿いに一人で歩いていると、駅と駅の中程で半地下の店が目に留まった。こんな時間に開いている店というのもこの辺だと珍しい。幸い今日は金曜。入ってみることにした。店の前には小さな黒板が出ていて、酒らしき聞き覚えの無い銘柄と肴が書いてある。店名はBacchusとある。酒の神を店名にするのは少し粋かもしれない。期待しながらドアをくぐった。
🍷🍷🍷🍷🍷🍷🍷🍷
カランカランと音が鳴ってまず目に入ってきたのは壁一面の酒瓶だった。ワインセラーのように一本一本仕切られている。
「いらっしゃい」
低く落ち着いている声のする方を見るとひとりの女性がカウンターの奥に立っていた。身長は女性にしては高く、モデルの様なプロポーション。仕事ではおろか水の席でも会ったことのない美人だ。思わずまじまじと見てしまい、席に着くのも一瞬忘れてしまっていた。
「今日はそろそろ閉めようと思ってたところだったんだ。運がよかったね」
「気になって入ってしまいましたが…すいませんこんな遅くにいきなりで。軽く頂いて帰ります。」
「いやいや、好きなだけ飲んでいってくれ。最初は何にするかい。」
メニューを見ても分からない酒ばかりなのでマスターにおまかせしようと思い、
「すいません…オススメは何かありませんか」
「それじゃあ、ウチのオリジナルを。」
そう言ってマスターは壁の中から一本取りだして、グラスに注いだ。
「『バッカス』という。ギリシャ神話の酒の神、バッカスにちなんでだ。店の名前もここからだね。飲んでみてくれ。」
琥珀色をしたとろみのある酒だ。少しグラスを揺らしてみると香りが立ってきた。ウイスキーともワインとも違う、しかし深みがありながらフルーティなそれは、これから味わう舌と喉に期待を抱かせる。小さく一口。その瞬間口いっぱいに豊かな味が広がる。とろみがあるおかげで少し絡まるかと思ったが嚥下すると喉を潔く抜ける。そして何とも言えないさわやかな余韻が鼻の奥に残った。
「…すごい。こんなに旨いお酒は飲んだことがないです…」
深い感動とは裏腹に、飲んだ口から出る感想は陳腐なもので、この酒の1割も表せていない。もう少しいい言い方もなかったものかと思っていると、
「お口に合ったようで光栄だよ。もうそんなに飲んでくれているものね」
気付かぬうちに二口、三口と口をつけていたようだ。がっつくようで少々品の無い飲み方をしてしまったことを恥じながらも、そんな自分を嬉しそうに微笑みながら見るマスターを肴に飲むのは、それはそれは格別の時間だった。
🍷🍷🍷🍷🍷🍷🍷🍷
「これも…いただこうかな」
他の酒にも手を出し、もうグラス5杯は飲んだだろうか。ここはツマミもまた美味く、マスターがその酒に合ったものをつけてくれる。甘めのもったりした酒には塩気が効いたパテ、喉越しのいいきりりとした酒には味を抑えたピクルス…一口食べれば勝手にグラスに手が伸びる。その間マスターには様々な話を聞いてもらった。今日ここに立ち寄ったいきさつ、仕事のこと…マスターは職業柄ともいうべきか流石に話を聞くのが上手い。ついついこっちもしゃべりすぎてしまう。
「…久しぶりですよ、こんなにゆっくり酒を飲める日は。半年ぶりくらいですかね、もう忘れてしまいました。」
「そんなに忙しいのかい。」
「まあ、いつもこんな時間ですね、帰るのは。」
「他人事のようで悪いが、大変だね。」
またグラスに口をつける。酔いが程よく回ってきたのかつらつらと言葉が出る。
「いやぁ、残業代が出るだけありがたいっていうもんですよ。…まぁ、最近は使う用もないんですけどねぇ…。貢ぐ相手もいないですし。」
「貢ぐ相手が欲しいのかい?」
「いやいや、そういう訳じゃ…マスター位の美人なら、貢ぎ甲斐もあるってもんですけどね。」
思わずいつもなら出ないような軽口が飛び出す。
「おいおい、言ってくれるじゃないか。」
「ハハハ、じゃあ口説きがてらもう一杯頂きます。折角だから最初に頂いた…『バッカス』にしようかな」
「売り上げに貢献してくれるのか、そりゃ有難い。」
「いやあ、あのお酒、気に入っちゃって。」
「それは何より。」
そう言ってマスターはグラスをふたつ取り出す。厚底のボトルから琥珀色が注がれる。一つは私に、もう一つは手に取って軽く掲げた。
「今日、この出合いに、乾杯。」
こういうキザなセリフもサマになるから美人には敵わない。自分の頬が少し熱い。そうだこれは酒のせいだ。そう思うことにしておこう…
顔の火照りを払うために一気に酒を呷る。ますます熱くなる。馬鹿か俺は。
…いかん、視界がぼやけてきた。酔いつぶれて寝るなんて、大学生以来だ。それはみっともない…
「…眠いのかい?」
「いや、大丈夫です。いい時間ですからもう帰ります……」
「いいんだよ、帰らなくても」
「いやそれは、マスターにも悪いですし…」
「でも、もう限界が近そうだ。いいんだよ、無理しなくて…」
マスターの声を聞いていると、眠気に意識を奪われるような、そんな気がした。もう、抗えない…テーブルに、その身を委ねた。
瞼が落ちる直前、マスターがカウンターからこちらに乗り出すのが見えた。頬に湿った柔らかいものが触れ、鼻腔を、あのバッカスの匂いがくすぐった。
🍷🍷🍷🍷🍷🍷🍷🍷
朝の緩い日差しが、私をゆっくりと眠りの世界から抜け出させる。バーのカウンターが目に入る。私はカウンターの椅子に座ったまま眠っていたようだ。
凝り固まった背中を解すように大きく背伸びをする。欠伸をすると、一滴涙がこぼれた。
カウンターの奥から、艶のある女性が出てきた。ああ、昨日は酔ったまま寝てしまったのか。いい歳して、なんと情けない…しかし、夜のバーテンダー姿ではなく私服のマスターもまた…寝起きということもあり、年甲斐もなくスラックスの下から息子が出しゃばる。それを隠すように少し前屈みになりながら頭を下げ、
「いやいやお恥ずかしい…とんだご迷惑を…」
「いや、気にしなくていい。寝床を用意できなくてこちらこそ申し訳なかったね。我慢できなくなりそうだったから。」
最後の一言がよく分からなかったが、気を悪くしているようでは無さそうだ。
「朝も用意できるが、食べていくかい?」
「いやぁ、そんなことまでして頂くのは流石に悪いですし…そろそろお暇させていただきます。」
そう言って扉に向かおうと背を向けると、マスターがカウンターから出てきて言った。
「それならまた来てウチの売上に貢献してくれるかい?定休日は毎週水曜日、開くのは夕方5時半からだよ。たまに不定期でランチもやっているから、休みの日にでも来てみてくれ。それと…」
「キミのは、朝から張り切っているじゃないか。元気なのは良いことだ。気をつけて帰るんだよ。」
その時のマスターの表情を、私はもう忘れられないだろう。酒とは違う頬の熱さを誤魔化すようにドアを開ける。
「ご、ご馳走様でした…!」
明るい外に出て、愚息の安否を確認する。そろそろ幾分か落ち着いて欲しいものだ…
まだ人通りの少ない朝の土曜日の道を前屈みで不格好にひょこひょこ歩きながら、来週金曜日、またあの駅で降りようと決心したのだった。
18/10/06 17:50更新 / ダイゴウ
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