いざや、『魔界冒険都市』へ
その日。
魔界都市ポローヴェで農業を営むジーア家の晩餐に、ささやかな異変が訪れていた。
「……父さん、母さん。僕さ、卒業したら家を出ようと思うんだ」
発端は、農夫ザックと妻アリサの長男アシュトンがもたらしたこの発言である。
息子からの突然の告白に、しかしジーア夫妻の驚きは、さほど大きなものとはならなかった。
ただ、「ああ、ついに打ち明けてくれたのか」とでも言いたげに、軽く目配せをしたのみである。
ここのところ、息子の態度がおかしいことは承知していた。
家業の畑仕事こそ真面目に手伝うし、学校の課題とて欠かしていない。だがその一方で、声をかけても上の空であったり、夜は独りで自室に閉じ籠る日が続いていた。学校の卒業が近付くにつれて、そうした様子が目立つようになっている。
好きな娘でも出来たのだろうか。
それとも自分の将来について悩んでいるのだろうか。
汲めども尽きぬ湧水の如く、不安と心配は夫婦の心を満たしたが、彼らは敢えて愛息子へ手を差し伸べる事をしなかった。年頃の若者であれば誰しもが通る道であったし、すぐさま親が介入するよりも、まずは自身がたっぷりと悩んでからにするべきだというのが彼らの教育方針だったからだ。
特に何の疑問を持たず、父祖から農地を受け継いだザックとは違い、息子は昔から自分の中ではっきりと意見を組み立ててから行動する賢い子だった。考え続けるが故にかえってすぐ行動できない悪癖も時に見られたが、欠点としては些細に過ぎる。
近所に住む他の農家から「本当にお前の子なのか」と冗談めかして言われることもしばしばだ。ただ、それは性格や知識量といった内面的な部分のみに留まらず、外見について指摘するものでもあった。
日頃の農作業でがっしりとした体型と厳つい面相になったザックと違い、青年期に入った今でもアシュトンの外見は少年に近い。平均身長よりも低い背丈。どれだけ外に居ても日焼けしない、白くきめの細かい肌。ネコ科の動物を思わせる金色の癖毛。
加えて顔立ちや仕草は自他ともに女性的と認める程で、アルプに間違われて男からの告白を受けた事すらある。……もっとも、これらは本人にとってコンプレックスでしかないようだったが。
やや話が横道に逸れたが、愚直で大した学も無く、褒めどころのない容姿しか持たないザックにとって、アシュトンは自慢の息子だった。
この日アシュトンが話を切り出したということは、彼の中で何かしらの結論なり行き止まりなりに達したと思って良いのだろう。
ザックは食事の手を休めると、テーブルの対面に座る息子をまっすぐに見据えた。
普段は大人しく人見知りがちなアシュトンが、今日はしっかりとこちらの目を見返してくる。
彼なりの覚悟を感じ取り、ザックは無意識に居住まいを正した。
暫し頭の中で言葉を選んでから、ゆっくりとした口調で問い掛ける。
「……家を出て、どうする積もりなんだ?」
「冒険者になりたい」
がしゃん、と耳障りな音が食卓に響く。
一拍置いて、自分の手からフォークが零れ落ちた音なのだと気が付いた。
冒険者。
魔界化したポローヴェでは、既に馴染みの薄れた職業である。
しかし一昔前は、それこそ多くの若者たちが、一攫千金を夢見てこの職業を志したものだった。
かつて『貧困国家』と揶揄されたこの国では土地に根差した産業が育たず、飢餓と犯罪に支配されていた。軍や傭兵と違って特殊な技能や学識が必要でなく、腕一本のみで生きる世界に、誰もが希望を夢見たのである。
生まれも育ちもポローヴェであり、魔界学者サプリエート・スピリカ氏によって祖国が魔界化する以前の苦難を経験したザックもまた、冒険者になることを選んだ友人を何人も見送ってきた。
その中には男も居れば女も居た。彼より年下の若者さえ居た。みな一様に話に聞いただけの理想郷に瞳を輝かせ、故郷を捨てる事に何の躊躇も後ろめたさもなく。むしろ先のない土地を離れられるという事に、何よりの魅力を感じているようにさえ思えた。
されど、生まれ育った土地を見限り、富と安定を求めて旅立った彼らとは、それきり再会できた試しがない。故郷が豊かな大地へと生まれ変わった今もなお、である。
遺跡のひとつも掘り当てられれば、なるほどそれはさぞロマンある話だ。
そこに財宝が眠っていたならば、億万長者とて夢ではない。
放浪の吟遊詩人が村々で冒険譚を詠おうものなら、名声さえも思いのままだ。
しかしながら、夢と現実には厳格に線引きが成されている。
多くの人々は、得てしてそれを超えられないものなのだ。
生きるためには金が要り、金を稼ぐためには夢ばかり見てはいられない。
だが、そもそも身分も不確かな自称『夢追い人』に仕事を任せようという手合いが、この世にはどれほどの数いるものだろうか。
ザックならば少なくとも、そうした手合いに頼み事をしようとは思わない。
結論として、故郷を捨てた彼らに与えられた選択肢は、決して華々しいものではなかった。
良くてスリや物乞い、何でも屋。女であれば売春婦。
最悪は犯罪の身代わりや借金漬けに仕立て上げられ、底の無い沼へ沈むが如くに、後戻りの利かないスラムの暗闇へと堕ちていった。
『冒険者』などと呼べば確かに聞こえは良いだろうが、世間一般からの認識はただひたすらに、『刃物を担いだ住居不定無職』でしかなかったのである。
この世はおとぎ話の世界ではない。
吟遊詩人の語る冒険譚など、現実には存在しないものなのだ。
「……駄目、かな」
父の無言を、拒絶と受け取ったのだろう。
気が付くと、つい先程までは背筋を伸ばしていたアシュトンが、空気の抜けた風船のように肩をすぼめて縮こまり、テーブルの木目に視線を這わせていた。
「あ、いや、その……なんというかだな」
「駄目だなんて、そんなこと言う筈ないじゃない。お父さん、ちょっと驚いてるだけよ」
しどろもどろになるザックへ助け舟を寄越したのは、隣に居た妻アリサだった。
彼女もまた、ポローヴェの暗黒時代を知る者のひとりである。アシュトンの出産後に栄養失調で一度はこの世を去ったものの、ポローヴェの魔界化と同時にグールとして蘇った。あげく性衝動を抑えながら独力で自宅まで辿り付き、何事もなかったかのように家事を再開したという女傑である。その波瀾万丈の経歴たるや、ザックなどよりはよほどに肝が据わっているらしい。
息子の言葉にさほど衝撃を受けた様子も見せず、彼女は微笑みを崩さないままに言葉を繋いだ。
「ただ、私たちはお前が将来、学者になるとでも言い出すものだとばかり思っていたのよ。
昔から好奇心がとっても旺盛だったし、学校の成績だっていつも一番だったから。
正直言って……冒険者になりたいだなんて想像すらしていなかったわ。
お前が決めたことだもの、反対はしないけれど……良ければ理由を聞かせてくれない?」
母親の言葉に安堵を覚えたのか、アシュトンはゆっくりと顔を上げる。
「ほら、お父さんもそろそろ落ち着いて。
多分この子の言ってる『冒険者』って、私たちが思ってるようなものじゃないと思うわよ」
長年を連れ添った妻には、自分が何を考えていたかなど薄紙のように見透かされてしまう。
軽くたしなめられたザックは、居心地の悪い思いを咳払いとともに心中から追い出すと、改めて息子へと向き直った。
父親の平静を待って、アシュトンは滔々と語り始める。
「……僕が行きたいのは、ここのことなんだ」
アシュトンが取り出したのは、一枚のチラシである。
そこには、実用的とは言い難い装飾過多な装備に身を固めた男が、大剣を構えて大見得を切る様が描かれていた。傍らには、鎧と呼ぶには露出の多い扇情的なそれを纏った女。2人は石造りの街を舞台に、紅い眼をぎらつかせた巨大な人影と対峙している。
「魔界冒険都市ミ・シェイロにて大好評開催中……体験型RPG『アルカディア』、君の登録を待つ?」
ザックはチラシから視線を上げると、何だこれはと呟いた。
農業一本で生きてきた彼には、RPGや新規登録といった文言は何ひとつ馴染みがない。
「アルカディアっていうのは、魔界冒険都市ミ・シェイロが、専用に調整された異界を使って運営している大規模なロール・プレイング・ゲームのことなんだ。
登録した参加者は『冒険者』と呼ばれる戦士になって、おとぎ話の世界に転送される。そこで、まるで物語のような大冒険を体験できるんだ」
「あー。つまり、なんだ。アシュトンはこのゲームを遊びに行きたいって事か? そういう事なら、まあ少し早いが卒業旅行ということで……」
「違うよ、父さん。旅行じゃなくて、僕はこの街に移住したいんだ」
ますます訳が解らなくなってきた。
「待て待て、ちょっと待て。……これは、その、ゲームなんだろう?
そのためだけに移住までして、どうする積もりだ。もう少し詳しく話してくれ。
何より生活はどうする。いくら魔界でも、お前はまだ独身だ。働かずに生きていく気か?」
アシュトンは頷くと、父の持っていたチラシをくるりと裏返す。
そこには美麗なイラスト付きで、アルカディアの詳細が記されていた。
「アルカディアを運営するミ・シェイロでは、ゲーム内で手に入る通貨を使用して自由に買い物ができるんだ。……この街限定のシステムだけどね。
その他にも、ゲーム内で手に入れたアイテムや武器なんかを現実に持ち出して売り買いする事だってできる。
例えばとあるモンスターを倒すと『受胎薬』って薬が手に入って、それを飲めば魔物の妊娠率をごくわずかながら上げられる効果があるんだ。けど、他の魔界じゃこれが大人気で、凄く高値で売れるのさ。
つまり、ゲームをプレイする事で生活を成り立たせることができるんだ。
……もっとも、ゲームを始めたばかりじゃ子供のお小遣い程度しか稼げないから、最初のうちはアルバイトなんかもしなきゃいけないけどね」
いまいちピンとこないが、生活に不自由しなくて済むのなら問題は少ない。
顎鬚をざりざりと掻き撫でながら、ザックはチラシの紹介文句をひとつひとつ読み進めていった。
あくまでゲームではあるものの、それを生きる術としている者達が存在するのは確かなようだ。チラシには1年間プレイし続けて実力をつけた者の平均年収が、一例として挙げられていた。
家庭を持つには足りないものの、独り暮らしを維持しながら並行して貯金もできる程度には稼ぐことができるらしい。
「向こうで生活するにあたって、おおよその物価は既に調べてある。少なくとも半年間は冒険に集中できるだけの資金も貯めた。勿論、その上できちんと副業もする積もりだよ。もしもお金が足りなくなったらその時はきちんと就職する。借金は絶対にしないからその点は安心して。
……あ、もちろん保険にも入るからさ。冒険者特約ってのがあってさ。少額の掛け金で入院費もきちんと補償してもらえるんだ。向こうで生活を始めたらすぐにでも加入するよ」
アリサは反対しないと言ったが、やはり不安があるのだろう。アシュトンは父母が口を挟む暇も与えず、畳み掛けるように言葉を重ねる。表情を固く強張らせ、膝の上で拳を握り締めながら。
ザックは暫く無言のまま、チラシとアシュトンとを交互に眺めていたが、ふっと息を吐くと微苦笑を浮かべた。
「……まあ、そこまできちんと考えているのなら、問題なさそうだな」
「――じゃあ、良いの!?」
「ああ、もちろんだとも。それに、思えばこれまで家の手伝いばかりさせてきて、遠くに出かけるような経験もさせてやれなかったからな。これも社会勉強だろう。
母さんはどうだい?」
「ええ、私も賛成よ。心置きなく行ってらっしゃい。でもたまには手紙のひとつもちょうだいね。
それと、できれば可愛い彼女のひとりやふたり、連れて帰ってきてくれたら嬉しいわ」
「――――ぃやったあ!!」
アシュトンの表情から陰りが消え、ぱっと明るく移り変わる。彼は蹴倒さんばかりの勢いで椅子から立ち上がると、綺麗に食べ終えた食器をさっさと水場へ運んでから、自室へと駆け上がっていってしまった。
去り際に、そう急いで何をするのかと問い掛ける。「荷物の準備と貯金の確認!」と、今にも家を飛び出してしまいかねない勢いで返事がかえってっきた。
「向こうに行くのは卒業後だろうに……気の早い話だ」
「よほど嬉しかったのね。あの子らしいといえば、らしいんだけど」
2階にある息子の部屋から、早速どたんばたんと激しい物音が聞こえてくる。恐らくはタンスの中身をひっくり返す勢いで、準備とやらに取り掛かっているのだろう。
天井から響く騒がしさを微笑ましく見守る妻は、テーブルの下からそっとザックの手を握った。
彼もまたそれに指を絡めることで彼女に応える。
「……アシュトンが居なくなったら、少し寂しくなるかな」
「あら、そうかしら? 子供が巣立つのは喜ばしい事よ」
「……そう、だな。うん、きっとそうだ」
「これからは、第2の新婚生活ね」
「……ああ」
ゆっくりと2人は顔を近付け、やがて唇が重なり合う。
アシュトン・ジーアが魔界冒険都市ミ・シェイロへと旅立つ、これは半年前の出来事であった。
魔界都市ポローヴェで農業を営むジーア家の晩餐に、ささやかな異変が訪れていた。
「……父さん、母さん。僕さ、卒業したら家を出ようと思うんだ」
発端は、農夫ザックと妻アリサの長男アシュトンがもたらしたこの発言である。
息子からの突然の告白に、しかしジーア夫妻の驚きは、さほど大きなものとはならなかった。
ただ、「ああ、ついに打ち明けてくれたのか」とでも言いたげに、軽く目配せをしたのみである。
ここのところ、息子の態度がおかしいことは承知していた。
家業の畑仕事こそ真面目に手伝うし、学校の課題とて欠かしていない。だがその一方で、声をかけても上の空であったり、夜は独りで自室に閉じ籠る日が続いていた。学校の卒業が近付くにつれて、そうした様子が目立つようになっている。
好きな娘でも出来たのだろうか。
それとも自分の将来について悩んでいるのだろうか。
汲めども尽きぬ湧水の如く、不安と心配は夫婦の心を満たしたが、彼らは敢えて愛息子へ手を差し伸べる事をしなかった。年頃の若者であれば誰しもが通る道であったし、すぐさま親が介入するよりも、まずは自身がたっぷりと悩んでからにするべきだというのが彼らの教育方針だったからだ。
特に何の疑問を持たず、父祖から農地を受け継いだザックとは違い、息子は昔から自分の中ではっきりと意見を組み立ててから行動する賢い子だった。考え続けるが故にかえってすぐ行動できない悪癖も時に見られたが、欠点としては些細に過ぎる。
近所に住む他の農家から「本当にお前の子なのか」と冗談めかして言われることもしばしばだ。ただ、それは性格や知識量といった内面的な部分のみに留まらず、外見について指摘するものでもあった。
日頃の農作業でがっしりとした体型と厳つい面相になったザックと違い、青年期に入った今でもアシュトンの外見は少年に近い。平均身長よりも低い背丈。どれだけ外に居ても日焼けしない、白くきめの細かい肌。ネコ科の動物を思わせる金色の癖毛。
加えて顔立ちや仕草は自他ともに女性的と認める程で、アルプに間違われて男からの告白を受けた事すらある。……もっとも、これらは本人にとってコンプレックスでしかないようだったが。
やや話が横道に逸れたが、愚直で大した学も無く、褒めどころのない容姿しか持たないザックにとって、アシュトンは自慢の息子だった。
この日アシュトンが話を切り出したということは、彼の中で何かしらの結論なり行き止まりなりに達したと思って良いのだろう。
ザックは食事の手を休めると、テーブルの対面に座る息子をまっすぐに見据えた。
普段は大人しく人見知りがちなアシュトンが、今日はしっかりとこちらの目を見返してくる。
彼なりの覚悟を感じ取り、ザックは無意識に居住まいを正した。
暫し頭の中で言葉を選んでから、ゆっくりとした口調で問い掛ける。
「……家を出て、どうする積もりなんだ?」
「冒険者になりたい」
がしゃん、と耳障りな音が食卓に響く。
一拍置いて、自分の手からフォークが零れ落ちた音なのだと気が付いた。
冒険者。
魔界化したポローヴェでは、既に馴染みの薄れた職業である。
しかし一昔前は、それこそ多くの若者たちが、一攫千金を夢見てこの職業を志したものだった。
かつて『貧困国家』と揶揄されたこの国では土地に根差した産業が育たず、飢餓と犯罪に支配されていた。軍や傭兵と違って特殊な技能や学識が必要でなく、腕一本のみで生きる世界に、誰もが希望を夢見たのである。
生まれも育ちもポローヴェであり、魔界学者サプリエート・スピリカ氏によって祖国が魔界化する以前の苦難を経験したザックもまた、冒険者になることを選んだ友人を何人も見送ってきた。
その中には男も居れば女も居た。彼より年下の若者さえ居た。みな一様に話に聞いただけの理想郷に瞳を輝かせ、故郷を捨てる事に何の躊躇も後ろめたさもなく。むしろ先のない土地を離れられるという事に、何よりの魅力を感じているようにさえ思えた。
されど、生まれ育った土地を見限り、富と安定を求めて旅立った彼らとは、それきり再会できた試しがない。故郷が豊かな大地へと生まれ変わった今もなお、である。
遺跡のひとつも掘り当てられれば、なるほどそれはさぞロマンある話だ。
そこに財宝が眠っていたならば、億万長者とて夢ではない。
放浪の吟遊詩人が村々で冒険譚を詠おうものなら、名声さえも思いのままだ。
しかしながら、夢と現実には厳格に線引きが成されている。
多くの人々は、得てしてそれを超えられないものなのだ。
生きるためには金が要り、金を稼ぐためには夢ばかり見てはいられない。
だが、そもそも身分も不確かな自称『夢追い人』に仕事を任せようという手合いが、この世にはどれほどの数いるものだろうか。
ザックならば少なくとも、そうした手合いに頼み事をしようとは思わない。
結論として、故郷を捨てた彼らに与えられた選択肢は、決して華々しいものではなかった。
良くてスリや物乞い、何でも屋。女であれば売春婦。
最悪は犯罪の身代わりや借金漬けに仕立て上げられ、底の無い沼へ沈むが如くに、後戻りの利かないスラムの暗闇へと堕ちていった。
『冒険者』などと呼べば確かに聞こえは良いだろうが、世間一般からの認識はただひたすらに、『刃物を担いだ住居不定無職』でしかなかったのである。
この世はおとぎ話の世界ではない。
吟遊詩人の語る冒険譚など、現実には存在しないものなのだ。
「……駄目、かな」
父の無言を、拒絶と受け取ったのだろう。
気が付くと、つい先程までは背筋を伸ばしていたアシュトンが、空気の抜けた風船のように肩をすぼめて縮こまり、テーブルの木目に視線を這わせていた。
「あ、いや、その……なんというかだな」
「駄目だなんて、そんなこと言う筈ないじゃない。お父さん、ちょっと驚いてるだけよ」
しどろもどろになるザックへ助け舟を寄越したのは、隣に居た妻アリサだった。
彼女もまた、ポローヴェの暗黒時代を知る者のひとりである。アシュトンの出産後に栄養失調で一度はこの世を去ったものの、ポローヴェの魔界化と同時にグールとして蘇った。あげく性衝動を抑えながら独力で自宅まで辿り付き、何事もなかったかのように家事を再開したという女傑である。その波瀾万丈の経歴たるや、ザックなどよりはよほどに肝が据わっているらしい。
息子の言葉にさほど衝撃を受けた様子も見せず、彼女は微笑みを崩さないままに言葉を繋いだ。
「ただ、私たちはお前が将来、学者になるとでも言い出すものだとばかり思っていたのよ。
昔から好奇心がとっても旺盛だったし、学校の成績だっていつも一番だったから。
正直言って……冒険者になりたいだなんて想像すらしていなかったわ。
お前が決めたことだもの、反対はしないけれど……良ければ理由を聞かせてくれない?」
母親の言葉に安堵を覚えたのか、アシュトンはゆっくりと顔を上げる。
「ほら、お父さんもそろそろ落ち着いて。
多分この子の言ってる『冒険者』って、私たちが思ってるようなものじゃないと思うわよ」
長年を連れ添った妻には、自分が何を考えていたかなど薄紙のように見透かされてしまう。
軽くたしなめられたザックは、居心地の悪い思いを咳払いとともに心中から追い出すと、改めて息子へと向き直った。
父親の平静を待って、アシュトンは滔々と語り始める。
「……僕が行きたいのは、ここのことなんだ」
アシュトンが取り出したのは、一枚のチラシである。
そこには、実用的とは言い難い装飾過多な装備に身を固めた男が、大剣を構えて大見得を切る様が描かれていた。傍らには、鎧と呼ぶには露出の多い扇情的なそれを纏った女。2人は石造りの街を舞台に、紅い眼をぎらつかせた巨大な人影と対峙している。
「魔界冒険都市ミ・シェイロにて大好評開催中……体験型RPG『アルカディア』、君の登録を待つ?」
ザックはチラシから視線を上げると、何だこれはと呟いた。
農業一本で生きてきた彼には、RPGや新規登録といった文言は何ひとつ馴染みがない。
「アルカディアっていうのは、魔界冒険都市ミ・シェイロが、専用に調整された異界を使って運営している大規模なロール・プレイング・ゲームのことなんだ。
登録した参加者は『冒険者』と呼ばれる戦士になって、おとぎ話の世界に転送される。そこで、まるで物語のような大冒険を体験できるんだ」
「あー。つまり、なんだ。アシュトンはこのゲームを遊びに行きたいって事か? そういう事なら、まあ少し早いが卒業旅行ということで……」
「違うよ、父さん。旅行じゃなくて、僕はこの街に移住したいんだ」
ますます訳が解らなくなってきた。
「待て待て、ちょっと待て。……これは、その、ゲームなんだろう?
そのためだけに移住までして、どうする積もりだ。もう少し詳しく話してくれ。
何より生活はどうする。いくら魔界でも、お前はまだ独身だ。働かずに生きていく気か?」
アシュトンは頷くと、父の持っていたチラシをくるりと裏返す。
そこには美麗なイラスト付きで、アルカディアの詳細が記されていた。
「アルカディアを運営するミ・シェイロでは、ゲーム内で手に入る通貨を使用して自由に買い物ができるんだ。……この街限定のシステムだけどね。
その他にも、ゲーム内で手に入れたアイテムや武器なんかを現実に持ち出して売り買いする事だってできる。
例えばとあるモンスターを倒すと『受胎薬』って薬が手に入って、それを飲めば魔物の妊娠率をごくわずかながら上げられる効果があるんだ。けど、他の魔界じゃこれが大人気で、凄く高値で売れるのさ。
つまり、ゲームをプレイする事で生活を成り立たせることができるんだ。
……もっとも、ゲームを始めたばかりじゃ子供のお小遣い程度しか稼げないから、最初のうちはアルバイトなんかもしなきゃいけないけどね」
いまいちピンとこないが、生活に不自由しなくて済むのなら問題は少ない。
顎鬚をざりざりと掻き撫でながら、ザックはチラシの紹介文句をひとつひとつ読み進めていった。
あくまでゲームではあるものの、それを生きる術としている者達が存在するのは確かなようだ。チラシには1年間プレイし続けて実力をつけた者の平均年収が、一例として挙げられていた。
家庭を持つには足りないものの、独り暮らしを維持しながら並行して貯金もできる程度には稼ぐことができるらしい。
「向こうで生活するにあたって、おおよその物価は既に調べてある。少なくとも半年間は冒険に集中できるだけの資金も貯めた。勿論、その上できちんと副業もする積もりだよ。もしもお金が足りなくなったらその時はきちんと就職する。借金は絶対にしないからその点は安心して。
……あ、もちろん保険にも入るからさ。冒険者特約ってのがあってさ。少額の掛け金で入院費もきちんと補償してもらえるんだ。向こうで生活を始めたらすぐにでも加入するよ」
アリサは反対しないと言ったが、やはり不安があるのだろう。アシュトンは父母が口を挟む暇も与えず、畳み掛けるように言葉を重ねる。表情を固く強張らせ、膝の上で拳を握り締めながら。
ザックは暫く無言のまま、チラシとアシュトンとを交互に眺めていたが、ふっと息を吐くと微苦笑を浮かべた。
「……まあ、そこまできちんと考えているのなら、問題なさそうだな」
「――じゃあ、良いの!?」
「ああ、もちろんだとも。それに、思えばこれまで家の手伝いばかりさせてきて、遠くに出かけるような経験もさせてやれなかったからな。これも社会勉強だろう。
母さんはどうだい?」
「ええ、私も賛成よ。心置きなく行ってらっしゃい。でもたまには手紙のひとつもちょうだいね。
それと、できれば可愛い彼女のひとりやふたり、連れて帰ってきてくれたら嬉しいわ」
「――――ぃやったあ!!」
アシュトンの表情から陰りが消え、ぱっと明るく移り変わる。彼は蹴倒さんばかりの勢いで椅子から立ち上がると、綺麗に食べ終えた食器をさっさと水場へ運んでから、自室へと駆け上がっていってしまった。
去り際に、そう急いで何をするのかと問い掛ける。「荷物の準備と貯金の確認!」と、今にも家を飛び出してしまいかねない勢いで返事がかえってっきた。
「向こうに行くのは卒業後だろうに……気の早い話だ」
「よほど嬉しかったのね。あの子らしいといえば、らしいんだけど」
2階にある息子の部屋から、早速どたんばたんと激しい物音が聞こえてくる。恐らくはタンスの中身をひっくり返す勢いで、準備とやらに取り掛かっているのだろう。
天井から響く騒がしさを微笑ましく見守る妻は、テーブルの下からそっとザックの手を握った。
彼もまたそれに指を絡めることで彼女に応える。
「……アシュトンが居なくなったら、少し寂しくなるかな」
「あら、そうかしら? 子供が巣立つのは喜ばしい事よ」
「……そう、だな。うん、きっとそうだ」
「これからは、第2の新婚生活ね」
「……ああ」
ゆっくりと2人は顔を近付け、やがて唇が重なり合う。
アシュトン・ジーアが魔界冒険都市ミ・シェイロへと旅立つ、これは半年前の出来事であった。
13/11/14 22:48更新 / ヤマカガシ
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