読切小説
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冬になずむ
1

 あぁ、違うな。目覚めた瞬間にそう思ったけど、その感覚が続いたのはぼさぼさの寝癖で鳥の巣をこしらえた自分の頭を鏡で見るまでだった。枕元から盛大に転げてベッドから落ちていた時計を見れば、時間は5時12分。同僚を起こさないようにそっとベッドから抜け出す。
 最近は快適な社員寮を提供する会社も多いとは聞くけれど、生憎と二組ずつのベッドと机を入れればぎゅうぎゅうになってしまうこの部屋を見るに、その例には当てはまらないようだった。
 女性二人の同居部屋と聞くと、どうにも麗しいイメージがあるかもしれないが、物置と言っても差し障りのない悲しい現状は床を見れば明らかで。まぁ、そんな中でもある程度最低限とも言える秩序はなんとかあって(これは秩序と言うより女とか、人としてのプライドなのかもしれないけれど)、そのおかげかどこに何があるのか把握するのには困っていなかった。
 手早く下着と上着を床から回収し、朝の諸々の支度を終えてから再び化粧のために鏡を覗き込む。セミロングの、社会人で許されるであろうギリギリのあたりでお洒落を頑張ってみましたで御在といった風な自分の髪型に、ナチュラルメイク。社会的には普通な印象、だったとしても、私の中では何かが違うという不定形の不安があった。もっともその不安だって、スーツ姿になってしまえば鳴りを潜めた。
 同僚を起こさないように足音を殺して、すっかり履きなれたハイヒールを履くときに一瞬だけ、また不安が鎌首をもたげたけれど、それはまた別の形で霧散した。
 そろそろと猫の額程度の玄関に向かい、いざ寮を出ようとした矢先に、何もないところで私は躓いてしまった。変な角度で勢いよくドアにぶつかり、したたかに肩を打ち付けると同時に大きな音が出て、しまったと思った時にはもう遅かった。
 いったい何に躓いたのかと確かめるように下を向いた時には、その仕掛けを施した張本人であろう同僚に対して小さな恨みが湧く。
 小さな逆氷柱が、床に生えていたのだ。それも気づかない程度にこっそりと。
 仕方がないとドアを開けてさっさと寮から出ようとした時にはもう遅かった。布団から上半身を起こした同僚の姿が見えると同時に、怒声が私の耳をつんざいた。

「ハル!あなた出勤するのはお互い一緒って言ったでしょ!?」
「あなただって私を起こさず男漁りしてるじゃないフユ!」

 怒鳴りつけられるのも構わずに言い返して、私は寮の外に出た。
 愉快な同居人であるフユと同期同士の友好関係が続いたのはたったの半年のことだった。その後は腐れ縁、いや、そんな言葉で片づけるのも違う気がする。
 世間に徐々に浸透してきた魔物娘という存在も、種族ごとに特徴なんてばらばらで、ましてや全員えっちとくれば誰だって変な目で見たりもするだろう。けれど、フユはどこか清楚というか、大人しい、言葉に変えてしまうと陳腐になってしまうけれど大和撫子というのがよく似合いそうな風だった。
 その似合いそうな印象に違わず礼節正しく折り目正しく井井たる女性、魔物娘であり、口さがない人々が言うようなイメージを払拭してしまいそうな清らかさが形になったよう、少なくとも、第一印象はそうだった。
 同じ寮の部屋になり、実際に話をしてみても、遊んでみても巷でまことしやかに囁かれていた淫靡さだとか、退廃した空気感なんてものは感じられず、ある意味で私は予想を裏切られた気持ちになった。
 もっとも、今のやり取りからも察せられるように二重に裏切られるのだが。いや、案外裏切るというのは人が募らせた身勝手な期待が云々。
 と、とりとめのないところにまで思考の枝葉が分かれ始めたところで、ちょうど会社までの近道である交差点で信号に引っかかってしまった。普段の時間通りに抜け出せれていればここの信号には引っかかることはないけれど、想定外の罠を仕掛けた悪友に内心称賛と舌打ちをしつつ、頓馬な信号機に苛立っているうちにタイムリミットはやってきた。
 いやに身体の周りが冷える感覚。気付けば膨れっ面のフユが隣に立ち、何か言いたげな視線を寄越していた。

「ひどいんじゃない?」
「そうだけど……」

 それ以上は言えず、口ごもりながらぼんやりと道行く人々の中に言い訳を探しながら私たちは信号が切り替わるのを待っていた。朝一番を挫かれたせいか、言い訳の気力もなくなって私は一言「ごめん」と言った。
 よろしいと満足げな顔をするフユに妙に温かい気持ちが湧き上がるも、錯覚だなと思いなおすのも須臾と経たないうちのことで、違うな、という感覚が脳裏を少し掠めた。

「ハルももう少し積極さがあればいい人が見つかりそうなのにね」
「フユの手が早いだけじゃない?」
「私のは夫探し!私を溶かしてくれるような熱の人に巡り合わないだけ、今にきっと見つかるんだから」

 熱。
 その言葉は、私の感覚に当てはめればきっと相性という言葉になるんだろう。……本当にそうなんだろうか。肌寒い、そんな心まで底冷えしてしまうような寒さを溶かしてくれる熱。それはきっととても穏やかで、狂おしいのだろう。
 脳裏にあった掠り傷がじんじんといやな疼きを発して、私はちらりとフユを横目で見た。魔物娘、氷柱女、淑女であり娼婦、理想の女性。そんなわかりやすい記号を彼女に当てはめたところで、納得する材料探しにもなりはしない。わかっていても、止める術は持たなかった。

「どうしたの?信号変わってるよ、ほら、行かなきゃいい人だって見つからないしなんなら会社に遅刻しちゃう」

 言われて、はっと我に返ればとうに青に変わっている信号は規則正しいその音を止めようかというところで、私は慌ててコンクリートの感触を蹴った。
 自分に向けられた、違うという感覚はどこまでも纏わりついてくるくせに、いざ周囲を見渡してみれば姿の捉えどころがなくて、いやな焦りが湧いてくる。
 前はこんなことなかったのに、と思ってしまえばそこからは早かった。いつものように、その感覚を覚えるようになった出来事が、記憶の中から勝手にまさぐられてしまう。
 その日、私だけが遅く帰宅し、自分の部屋に違和感を感じて玄関から静かに入り、盗み見た光景。
 他人の情交。初めて目にした他人の生のセックス。彼女からすれば、それは自分の人生を彩る一環である夫探しのためだったのかもしれない。何度か目にする機会はあった彼女の身体は普段よりもずっと淫靡に輝いて、背筋に寒気が走るほどに凄艶だった。
 目を離してその場を離れたくはなかったと言えば嘘になる。が、どんな事情があったとしても私は地面に足が’くっついた’まま動くことはできなかった。まるで足が凍ってしまったかのような感覚と共に、背筋に走る寒さとは逆に内側から迸る熱に身を任せてしまいたいという思いもあった。
 普段のフユは清楚で、綺麗で、憧れのようなものにも近かったのかもしれない。そんな彼女に見せられたあの光景は、欲望のまま、理性と規範規律に雁字搦めにされた生活を送る中で、劇毒に近かった。砂糖でできた氷柱を胸に深々と打ち込まれた気がして、結局私は彼女の美躯が弓なりに反るまでそれを見届けてしまったのだ。
『途中から見られてることには気づいていたんだけど、あんまり熱心に見てくるから恥ずかしくなっちゃった。でも、ハルって見かけによらず意外とスケベさんなのね。なんだかちょっぴり親近感かも』
 黙っていればよかったものを、謎の罪悪感に駆られて白状した私にかけられた言葉はそんなものだった。『ね、ハルもよかったら夫探ししない?私と貴女の趣味、結構似てる気がするの』と続けたフユに頷くことしかできなかった私が利口だったのかどうかは、わからない。
 その頃から、一人でいると、なんだか自分の居場所が、いいや違う。居場所だけじゃなくあらゆるものが違っているなという感覚に苛まれるようになった。でもしっかりと根っこをただしてみれば、フユに出会う前からそんな感覚はどこかにあったような気もして、結局のところその正体というものは曖昧なままなのだ。自分の心の在り方というものが、ここではないどこかにあるからこそ来る感覚……根拠なくそう決めつけてはいても、消える気配は露ほどもなかった。
 いや、案外と違うなと思う感覚自体はずっと前から無意識下であって、フユと出会ったことでそれがただ単に表面化しただけに過ぎないのかもしれない、そう冷静に分析してみる自分がずっと上の方にいるのも確かなことで、だから私は時々宙に浮いているような錯覚にも襲われた。
 けれどこうしてフユと一緒に(たまに抜け駆けし、出し抜き合いつつ)夫探しをしていても、違うなという感覚は拡大していくことを止めてはくれない。
 どうしてあの時の私はフユの言葉に頷いてしまったのだろう。自分の中で何かが変わってくれると期待したのだろうか。 そんなティーンエイジャーが抱きそうな幻想に近い身勝手な産物は、とうの昔に卒業していたはずなのに。
 彼女が羨ましかった?こんな世間を笑ってしまいたかった?単純な気晴らしのつもりだった?私が彼女と行動を共にしたところで、彼女のようになれるわけじゃない、そんなことは頭の隅で嫌なほどに理解しているつもりなのに……。
 堂々巡りをしつつあった思考を持て余し、それらを溜め息にのせて吐き出していた時だった。

「ね、ね、最近どうなの?素敵な人との出会いとか」

 変わらない調子でかけられた声に「別に……」と素っ気ない返事を返し、あてもなく視線を彷徨わせた先にその子はいた。
 よく見かける顔、というより同じ会社の同僚の……名前は確か三宅悠。ややクセがかかった髪をしっかりとワックスで整えてはいるものの、どこかまだ社会の荒波にもまれきっていない、垢抜けない。そんな印象を与える男の子だった。仕事もそれなりにこなすけど、時折うっかりとしたことでミスもして上司に怒られる、平凡を絵に描いたような。
 何気にこうして会社の外という空間でその姿を見るのは初めてのことで、思いもしなかった新鮮さが胸の中を突き抜けていくのを感じた私はしばらくその姿に目を奪われていた。それを見、にまりと察した風な笑みを浮かべるフユに気づき、違うわよと視線で訴えながらも私はしばらく胸の中に押し固まっていたものの風通しがよくなったことの心地よさに身を委ねていた。

2

 私とフユが根本的に違うということがわかっていても、それでも、同性として嫉妬することが全くないと言えば、嘘になった。彼女はあまりにも、私の胸に暗い翳りを作るほどに綺麗で、完成されていて、それを仕方ないという言葉で片付けてしまうにはこの感情は重た過ぎた。
 仕事終わり、寮にたどり着いてあとは玄関の扉を開くだけというだけなのに、そんな気分に陥っている理由が扉に挟まれたフユの愛用している雪の結晶の刺繍が施されたハンカチだった。『互いにどうしても取り込み中になってしまった時にはこうしておきましょ』そう提案されてから私たちは互いにそれを律儀に守ってきた。いや、もちろん最善は近場でもどこでもホテルを取れれば一番互いのためだろう。どうしても相手が求めてきた時や、我慢が出来なくなった時の合図だ。あぁ、冬に我が家に帰れないというのは中々、憂鬱な気分にさせるのにはじゅうぶんに効きすぎる。

「カフェ……あぁ。でも、この寒さ」

 誰にでもなく独りごち、どっと身体が重くなるのを感じた。
 寒空はあてつけがましいほどに雲がなく、星がよく見えた。吐く息が白い形を持ちながら一瞬で霧散し、どこか煩わしくなった身体の重みを引きずりながらどこかで時間を潰そうと踵を返し、た、ところで。
 足が一瞬止まってしまった。
 漏れ出た喘ぎ声、フユのものではなく相手の声が。どこかで聞き覚えがあるような声で。そう、ちょうど今日、私の心を少しだけフレッシュにさせてくれたその相手の声のような。いや、まさか。何かを通した声なんてそうそう判別できるものじゃない。他人の空似だ。言い聞かせるように胸中に呟いても、頭の隅ではじんじんと嫌な疼きがあった。気になるなら、扉に耳でも当てて、こっそりと聞いてしまえばいい。それではっきりする。
 単純な解が出ていても、私にそれを手に取るだけの度胸はなかった。自分でも予想外に動揺しているとわかると、一目惚れしてた?と自問する声があったけど、それに対するアンサーというものを私は持ち合わせていなかった。
 確かめることはきっと行動を字面だけで表せば単純の一言で片づけられてしまう。でも、それを実行するにはあまりにも私の身体は鈍くなり過ぎた。一歩踏み出す恐怖を知りすぎてしまった、言い訳を探すことばかりが上手くなり過ぎた。
 急に、うわ、気持ち悪いという率直な感想が湧いて、私は寮をあとにした。
 何に対してかはわからない。主語が行方不明なのにも関わらず気持ち悪いということだけが宙ぶらりんに私の中であって、とにかくこの場にいてはいけないと思った。
 理不尽な感情が次々と湧いてくる。私が一等賞を取れないのはどうして?後悔ばかり植え付けられるのはどうして?思考があらぬ方向へと取っ散らかり、最近ヒステリー気味になりかけているなあと自嘲すれば、嫌になるほど急速に頭蓋が冷やされていくのがわかった。
 お酒でも呑もう。凝り固まった何かを流してくれる命の水を求めて、私はふらふらと夜の街に繰り出した。


 火照った身体に当たる冷気はそれなりにざわついた心を落ち着かせる作用があるらしく、冷静になった頭が次に行うことは際限ない自己嫌悪の波だった。すっかり涼しくなった懐具合も気にする余裕はなく、アルコールの匂いと考える力だけを残した脳みそを引きずって私は帰宅した。
 その頃には、ハンカチを確認することも相手が三宅君だったらどうしようとかそういう思いは自暴自棄の海の中に消えていた。

「……ただいま」
「おかえりなさ……酒くさっ!」
「うるさい……」

 フユは一瞬顔をしかめたけれど、すぐに私に肩をかしてベッドまで歩くのを手伝ってくれた。介護されている、とそんな実感が襲ってきても泣く気力も失せて私は温かなベッドに沈み込んだ。水を用意しかけたフユをいいのと制し、でもと続けかける彼女にほっといてと被せるとそれ以上は何も言ってこなかった。
 心配そうに私の顔を覗き込むフユの表情は本当に心配してくれている顔で、よくできた子だと心の底から思う。嫌な人だ、私は。
 そう思って眠りの淵に身を委ねようとした刹那、揺らいだ視界の端で私はあるものを見た。キスマーク、それはちょっぴり内出血を起こしているくらいの、首筋のあたりに跡になったそれ。あぁ、そうか。そこまで一瞬でも愛してもらったのか。
 見てしまったが最後、意識を手放しかけていた身体が浮上していった。

「いいよね、フユは」

 眠りかけた私が零した言葉に、え?と疑問の声をあげるのに構わず、続ける。
 何を言っているんだろうと、自分でも思った。けれどわからない。どこに透明な引き金がったのかもわからないのに、一度発砲してしまった言葉の弾は口を閉じようとしても止められなかった。

「綺麗で、えっちで、弱点なんてなくて」
「そんなこと……」
「私も、フユみたいになれたらよかったのに」

 不意に口から出た言葉だったのに、一番しっくりときた言葉だった。ああ、わかってしまえばなんてことはない。あまりの単純さに思わず笑いたくなると同時に、ひどく軽さと重さを内包した自分の言葉が身体の隅々に染みわたっていくのを知覚してしまうと、溢れる感情が制御できなくなってしまった。

「もっと自分に素直になれればよかった。身勝手に動いて身勝手に恋して、身勝手に遊んで」
「楽なんてできないのは知ってた。社会人になってからそういうものなんだなって頭の隅っこで背伸びをしてた気分だった」
「でも違う。違う。楽観論にもたらされてきただけだった」
「愛され方がわかっている本能と、わかったつもりで大人になっているなんて勝負にもなってなかった。嫉妬してるのが間違いだった」
「でも、でも、でもね。私は綺麗にはなれないの。どうしよもなくて、貴女のことが大好きで大嫌い」

 誰にぶつけている言葉なのかわからない。
 さんざめいた感情の整理なんてつけられるはずもなく、普段から硬く押し固められていたものが溶けてしまえば、堰き止める防波堤などなんの役目も果たさなかった。
 ぐにゃりと表情筋が歪んでいるのがわかっているのに、自分の頬を抓ってやってもうんともすんとも言いやしない。

「…………ごめん」

 ちゃんと言えたかどうか確かでない。確信もなければ確証もない。ただ、自分の言葉はきっと今はフユよりも冷たいのだと思った。冬よりも凍えてしまうのだと思った。
 後悔だけが心の表面を上滑りしていくのに任せて、私は目を閉じた。
 どうして言ってしまったのだろう、と心の中で自問しても感情のエラーを起こしてしまったのに答えがわかる道理はない。酒で火照っているはずの身体はひどく寒く感じる。フユのせいだろうか。自分で吐く息の臭いなんてわかりはしない。
 少しずつ、フユの声も気配も遠ざかっていく。
 全部押し付けられてしまったなら、楽になれるのだろうか。今は彼女がどんな顔をしているのかも、どんな声をかけてくるのかも知りたくはなかった。それでも微かに目を開いてしまったのは、自分が悪いとわかりきっていたからなのか。
 私の視界に、部屋に、フユの姿はもうなかった。
 床には足跡のように逆氷柱が点々と玄関の方へと連なっている。

「バカ」

 口から衝いて出た言葉が、不思議なくらい胸に刺さった。

「バカ、バカ。違うって、わかってるのに」

 誰にも聞いてほしくない。けれど、だめ。聞いて欲しい。せめて冬の寒さだけは、私の声に耳を傾けてほしい。
 虫のいい話と理解しても、私は。

3

「私にとって一番幸せなことはなんだろうって、不思議と時々考えることがある」
「絶対的な命題ではあるけれど、結論、つまるところゴールはとてもわかりやすいもので、素敵な人と一緒にくんずほぐれつ、どろどろに溶かしてくれるような熱を伴った熱い人を見つけること」
「言うは易く行うは難し、とはならない」
「行っていけばそれはいずれ努力の実となって私の口の中で甘く蕩けるはずだし、その蕩け具合はきっと素晴らしい熱量で寒くて冷たく凍える身体を深々と温めてくれるはずだから。心身ともに」
「別に私のような子が珍しいというわけじゃない。素敵な人が見つからないのなら見つければいいというのはなるほどその通りだし、相性のいい人を探して身体を重ねて何千里幾星霜。大げさに言った風でもなく、元々私がいたあちら側でも普通のことだった」
「友人のサキュバスのリズなんて、未だに素敵な旦那様に出会えていないという連絡が来るのだから心中お察しする。もっとも向こうも私が似たような手紙を送っているから、苦笑いしているのかもしれないけれど」
「夫探しはやめられないとまらない」
「早く素敵な人に会いたいという気持ちは機関車のようなもので、走りながらきっと燃えているのと近いんだろうなと思う。燃えながら凍えて固まって、春の雪解けを待っている」
「そんな私の姿は、ハルの目にはどう見えているのかは気になっていた」
「同僚とか同じ部屋にいるからとか、そういう関わりではなく単純に放ってはおけない友人として。等身大で人のまま、女のまま悩みを抱えていたハルは私とは真逆に見えたから」
「そう、真逆」
「奇しくも名前も対称的な私たちは性格も鏡のように真逆のように、少なくとも私は感じた。私は良くも悪くも身体が手が足が腰が先に動くタイプ(ハルにそう言われた)で彼女は逆に動かない。手を伸ばさず、心のどこかで折り合いをつけて折り目をつけて動かなくなっている。溜め込まないタイプと溜め込むタイプの、典型的なコンビと言えるかもしれない」
「どうやったってどうなったってぶつかり合ったし、その度にキャットファイトを繰り広げたことは数知れず。互いに髪をボサボサにしながら、無言でビールを呷ったことも数知れず。知っているのは互いの悪いところと良いところ」
「だから今日のもそんな数えられない喧嘩の一つ、だと思っているのに。夜寒がどうにも身に染みてならない。謝ればいいのかがわからない」
「ハルの顔が、頭から離れない。ううん、きっとあの顔は誰であろうと暫くは忘れられない顔だと思いたい。どんな顔をすればいいのかわからないのに、涙だけはとめどなく滔々と溢れておさまりがつかなくなっていた、あの顔。投げかけられる言葉は辛辣だったのに、言う方がまるで張り裂けてしまいそうな悲痛さをひしひしと滲ませた顔が、見ていられなくなって」
「私は飛び出して」
「これからどうすればいいんだろう」

4

 夢を見た。
 どうして夢だとわかったのかは定かではなくて、ひょっとしたら明晰夢、というやつなのかもと思ったけれど、それも中身のあまりの繋がりのなさにどうでもよくなってしまった。
 場面は、雪山。
 都会の喧騒とも未だに明るいネオンのそれにもそぐわない、ただ雪が積もり、痛いくらいの静寂に包まれた雪山だ。
 一歩、また一歩と足を踏み出してみると、ぎゅっ、ぎゅっと足元で雪が悲鳴をあげて、私の靴の裏の形に圧縮されていく。
 それがなんだか気分がよくて、そう、気分がよくて。
 私はその場で小刻みに地団駄を踏んだ。
 何度も何度も雪の悲鳴を耳にして、それが心地よくって。新しい遊びに夢中になった子どものようにその行為に没頭していた。
 気分がいい。
 と、そこに、音もなく、一人の少女がいた。
 あれ、と思う。
 こうして小さな動作ですら雪の悲鳴が確かに耳に入って来るのに、どうしてこの子はその場に音もなく現れたのだろう。
 あまりに唐突で、異質で、だからこそ目が離せなかった。
 わたしと歳は変わらないはずなのに、ずっと大人びて、色んな事を知っていると思わせる冷たい表情。いや、硬い表情。
 氷のように。
 冷たくて、硬くて、悲しそうな表情だった。
 どうしてそんな表情で見られなきゃいけないのかがわからなくて、わたしはわからない。手が届きそうで絶対に縮まることのない距離がわたしたちの間にはあって、足を踏み出してもそのぶんかのじょは遠ざかってしまう。
 気分が。
 まってとは、言いたくない。けれどだいきらいなんてもっと言いたくない。どうしたいのか、だれかもわからないあの子に何が言いたいのかわたしはわからない。
 あの子はかわらない。わたしはわからない。
 わたしをそんな目でみないで。ちがうの、ちがうの。わたしは、わたしは。

5

「……さむっ」

 寝起きの気分は最悪で、特に肌にべっしょりといやな感じに張り付いた衣服が特にそう感じさせた。しこたま寝汗でも掻いたのだろう、すっかり冷え切ったそれの不快感もそこそこに、心なしか酒の匂い漂う汗を長そうと身体を起こした。
 時間は朝の五時。シャワーを浴びる時間はまだまだある。
 適当に衣類を投げうって(誰に見られているでもないし)温かいシャワーを浴びれば、汗はさっぱり、気分はすっきり。
 何か、変な夢を見ていたような気もするけれど、思い出せないということは大した夢じゃなかったのだろうと思うことにした。
 手早くタオルで身体を拭いて、贅沢にたまには通勤時間のギリギリまで二度寝でもしようかと、ふとそう思った矢先に、何かが足りないと。そう、気付かないようにしていた声が、脳内で無視を決めこむことを許さなかった。

「帰らなかったんだ」

 どうやって謝ればいいんだろう。
 誰に対するでもなく独りごちて、秘めた罪悪感を育てっぱなしだったことを遅れて自覚すると、身体に力が入らなくなった。四肢を投げうつ形で身体をベッドへと放り、湯冷めするのも厭わずに自己嫌悪が襲ってくる。子どもの頃から変わらない、大人になっても背伸びを許してくれない捨てたはずの呪いが氷の礫のように心を打ち据えて、痛みに頭が軋む。
 なんて言えばいいのだろう。
 幼少期からきっと、何回何十回と繰り返してきた諸々がどろどろになった整頓できない頭に一番利く処方箋は、寝ることだった。
 氷のように冷たく冷静になろうとしても、熱を居座らせたままの頭や心が受け付けるはずもない。
 自分の心にさえけんもほろろに断られて勝手に傷つくのは、いつものことではあっても傷つくのだ。
 短い二度寝であっても、落ち着くことはできるはず。そう決めこんで、決めたことにして、私はベッドに身を委ねて目を瞑る。と同時に。

「へぶしっ」

 誰もいないから遠慮こそしなかったけれど、それでも女性らしからぬくしゃみが一つ、私の鼻やら口やらから色んな体液を吹き飛ばしていった。むず痒さと寒気が一気に総身をひた走り、あ、風邪引いたと重くなった頭が実感をもたげさせるより前に、私は布団を頭からかぶった。
 寒さ厳しくなっている真っ只中、夜遅くまで出歩いて、そしてなんの用意もせず朝風呂まですれば自ら風邪を引きにいっているようなものでは、あるだろう。
 遅すぎるしまったという後悔があっかんべーをするのと、意識がぷつりと消えるのは同時だった。


 熱い。熱い。熱い。熱だ。身体の融点へとどんどん近づいていっているような感覚。
 このまま溶けてしまったらどれくらい楽なのだろう。
 どろどろに、いや、きっとそれは苦しいことなんだと思う。そこまで考えてようやく、目が瞼が開けるなと気がついた。
 おでこにある冷たい感覚はひんやりとして気持ちよくて、でも熱さまシートとかの心地じゃなかった。
 柔らかい、ナマモノがもっている柔らかさだった。

「ただいま」

 開口一番、物理的に上から目線で投げかけられた言葉はそれだった。

「……おかえり」

 感覚の方にどうしても引っ張られて、そもそもちょっと視界もぼやけているせいではっきりと判別できなかったけれど。フユが帰ってきていた。
 ぼやけていても、なんとなくわかるような表情で。

「会社には連絡入れといたから。私も今日は看病で休む」
「いいよ、それくらい自分で」
「黙って寝て」
「……はい」

 負い目もあるせいか、風邪で自覚しているよりも体力を奪われてしまっていたのか、それ以上口ごたえする気にもなれず、私は大人しく目を閉じた。
 穏やかに深呼吸を繰り返す。すーはー、すーはーと。ともかく動悸を少しでも落ち着かせなきゃ、私でいられなくなる予感があった。
 身体の熱を少しずつ奪われているはずなのに、不快な寒気がやってこない。あの寒気が一番風邪のなかで嫌いで苦痛で仕方ない私にとって、それだけでも泣きそうなくらいにありがたかった。
 そう、泣きそうだった。
 心の状態は身体に引っ張られ、身体の状態は心に引っ張られ。いつ落ちるかもわからない氷柱のような不安定さで、私はふわふわと浮いていた。
 たまらず、縋るようにおでこから微動だにしないフユの手に、自らのそれを重ねる。

「どうしたの」
「軽い吐き気と……ドキドキが止まんない」
「寝なさい。起きたら林檎むいてあげるから」
「無理だよ。寝らんない」

 一度口から出た我が儘を止めることはできなかった。
 自分を産まれた姿のまま曝け出しているような気持ちにさせるがゆえにそうなるのか、それとも人がもっている弱さを活かすしたたかさなのかは判然としないけど、フユは困ったような顔を(たぶん)しながら言った。

「いいから寝て、善い子でしょ」

 善い子。

「善い子じゃないよ」

 反射的に、口から飛び出していた。
 黙って寝てと語気を荒げるフユに、けれど被せるように「私は善い子じゃないの」と続けてからは止められなかった。

「善い子は、私の中での善い子っていうのはきっと、嫉妬しなくて、気前がよくて、でも綺麗で、笑っていて」
「ねえお願いだから、寝て?話はゆっくり、聞いてあげるから」

 なにを喋っているという自覚すら前後不覚に陥りながら、「それっていつの話になるの?」と呟きがこぼれ落ちた。
 吐き出しても吐き出しきれないぐちゃぐちゃになった感情が、身体の末端からも溢れ出していき、じわじわと私が溶けていくのを知覚しながらも舌は縺れて、それでも止まることをしなかった。

「私、ずるいって思ってた。うらやましいって思ってた。けれど、嫌いにはなれないのにそんな気持ちばっかり額の奥で重たいものになっていくの。ねえなんで?どうして?私たちきっと嫌い合ってなんていないのに、どうしてこんな気持ちになっちゃうの?」
「……ハル」

 私を突き動かした病熱がすぐ喉元にまでこみ上げてくる。単純なことなのに、大きすぎてつっかえてしまったそれを吐き出そうとした唇は、ずんとその重みをまして動きを緩慢なものにさせていた。
 それでも、言葉一つを言わなきゃいけない。急に湧いた力の勢いに任せて上体を起こして、ぶつけかけた言葉は、けれど私の動きをお見通しだったかのように頬に添えられた手に遮られた。
 勢いを削がれた身体は力を失われ、上半身だけ起きただけで精一杯になり、そんな上体の頬を滑るようにして手は離れ、透き通った指先だけが私の唇をなぞり。人差し指が立てられて、それだけでやんわりと想いは封じられた。
 嘘だ。それだけじゃなかった。
 戸惑っているのに、真っすぐにこっちを捉えてくる湿度を孕んだ静かな目。
 包まれそう、と思った刹那に覗かせた笑みがぼやけた世界であってもピントをはっきりとさせて、封印は解けてしまった。
 言葉が力なく洩れるよりも先に手がフユの背中へと回され、頼りなく冷たい身体を抱き締めた。

「ごめんなさい。ごめんなさい」

 早まっていた動悸が少しずつ静かになり、胃をひっくり返そうとしていた吐き気が静かに息を潜めていく。「いいの」と鼓膜を共振させた優しく強い声に、肩が震えて、頬に再度添えられた手に縋るように自分からも頬擦りした。
 血が通っているはずなのに、冷たい手。でもそんな手にも確かなぬくもりを感じた私は、壊れたレコードのようにごめんなさいを繰り返すばかりだった。

「私もごめんなさい。きっと、ハルはたくさん考えて、たくさん悩んで」
「……」
「きっと、疲れちゃっただけだろうから」

 目の奥が、つんとした。
 寒い、自身では手の施しようがないくらいに寒いはずなのに、確かに感じる熱が目から溢れ、止められなかった。
 幼児退行、正当化、脊髄反射、様々な単語が頭の中で回転しては行き場を失い、双眸から雫となって落ちていく。
 生々しい弱さだった。
 何かを言おうとしてもそれは濡れた言葉になって、あ、あ、あ、と断続的に続く嗚咽がただ部屋に染入った。迷っていたのかもしれない、逃げていたのかもしれない。
 そのどれもが正しいと感じ、けれどそれよりも大きなものが――フユの前で泣いてしまったという事実が――腹の底でのたうち回った。
 どうしよう。泣いちゃった。大人なのに。しっかりしないといけないのに。こんなに弱々しくなってしまって。恥ずかしい。死にたい。
 でも、謝れた。
 そう思った瞬間に、ふわりと身体は軽くなって、けれど風邪の重々しさは残る不思議な感覚に包まれた。
 どうして、私はこうなのだろう。感情に備わっているはずのブレーキはいつも役立たずで、頭の隅では俯瞰しているつもりなのに、すぐにその役割は放棄されてしまう。
 楽になったそれと一緒くたになって訪れてきた自己嫌悪の波が心の表面を撫でるのを知覚しながら、フユはきっとそうじゃないと意想外の実感が身体に残っていた熾火にくべられると、そうだ、と心の中で声がした。
 フユは、私が持っていないものを持っている。羨ましいと思い手を伸ばしても高嶺の花であり続けた、嫉妬すら思わせるほどの。在り方を。
 私は、

「フユに、なりたい」

 内に溜め込んでいたらしい圧が上昇していたのか、思うだけでなく言葉として吐き出されると、「え?」と戸惑った声が投げかけられた。何を言っているのだろう、と自分でも思った。
 結局のところ嫉妬からくる動きの一つでもあったのだろうに、これ以上友人に何を恥ずかしいことを言うつもりなのだろうか。私にはないものを持っているのは、きっと他の誰もが考える普遍的なそれで、そういうものを四苦八苦しながら乗り越えて大人になっていくというのに。
 抜き身のまま感情を振りかざしていられるのは子どもだけの特権だと、反芻されきった事実はずんと身体に重くのしかかってくる。きっと仲直りできていたのに、これ以上私たちの間にどういう亀裂を入れようというのか。生き物として、存在として違うものをねだってもしょうがない。キリンのように大きくなりたいと願ったところで、時期がくれば無理なんだなという自覚すらせずに諦めたことすら忘れて日常へ溶け込んでいくのが普通だ。
 私が言っていることは、そういう無茶を通すこと。どだい無理なこと。無理を通して道理を貫く、聞こえがいいだけで、それでどれだけ迷惑を被る人がいるのかを考えないワガママでしかない。
 滔々と溢れてくる制止する言葉の群れに、でも、と反駁した。
 胸がずきずきと疼くような息苦しさを吐き出したくて、二の句を継ごうとしてフユの肩を掴んで身体を話した直後に、はっとした。
 とろりとした目だった。つつけば崩れてしまいそうと思わせるほどに弛んではいるのに、けれどじっとりと身体に纏わりついてくるような湿度を孕ませた、私の知らない目。吸い込まれそうなのに、冷えた宝石を想起させる底堅さも内包している、矛盾した目。
 飛び出しかけていた言葉や感情がぐっと腹の底に押し戻され、圧力をかけられると途端に息苦しさに胸が詰まってしまい、目が離せなくなる。
 耳が痛くなるくらい、冬の夜みたいに静かになった部屋の中で、自分の動悸がやけにうるさくなっていくのがわかると、いてもたってもいられなくなり、目を逸らしたい衝動に駆られた。けれど同時に、目を離してはいけないという確信もあって、八方塞がりになってしまった心が宙吊りになったまま、静かに時間が過ぎ、そして。
 唇が、微かに動いた。
 なんだ?なんて言ったの?自分の鼓動がうるさすぎて聞こえない。不安に衝き動かされるように瞬きが多くなり、視界のシャッターが何度も閉じられるうちに、フユの唇が確かな輪郭をなぞって問うた。「本当に?」と――。
 世界が、時が凍ってしまったと思えるほどに、静かに滑っていく流れの中で、自分の中にあった熱が急速に奪われていく感覚がした。私が私でいられる分水嶺を突き付けられ、呼吸が止まりかけ、意識と思考が遠のいていく中で、構わないと内側から大声をあげる自分がいた。
 憧れていた。綺麗な見た目だって、その奔放さだって。本当は優しいところだって。きっと私は一番近い距離で、フユのことを見ていた。誰よりも――男よりも。だから、一番近いからこそ、一番簡単に比較してしまったし、嫉妬もしてしまったし、自分に跳ね返ったりもした。
 私はそんな、狂おしいほど友達のフユになりたいと、

「思う」

 言葉の最後尾だけが、何とかやっとという思いで喉から絞り出された。
 怖い。これで私が私じゃなくなってしまうかもしれないという不安は、確かにあった。どうなってしまうのか、わからないことが怖い。
 腹の底で滞留している感情の渦が、今にも決壊してしまいそうになる。それでも、きっとやっぱり今のはナシだなんて、そんなの。
 違う。
 フユは私の不安を感じ取ったのか、ぞっとするほど凄艶な、けれど穏やかな笑みを浮かべて

「優しくしてあげる」

 とだけ言った。

6

 風邪で本調子ではないせいか、裸にひん剥かれると部屋の中であっても空気の寒さというものが余計に敏感に感じさせられるようではあった。
 それを気にしてか、身体に毛布を被せてくれる気遣いがあっても、することはしっかりとするのがフユらしく、抱かれてしまうという今さらながらの実感が顔を熱くした。
 不思議と嫌悪感は湧かず、それよりも同じように産まれた時のままの姿になったフユの身体の綺麗さに目を奪われ、そりゃあ当然男の人だったら夢中になるんだろうな、と間抜けな感想が宙に浮かんだ。

「じゃあ、キスから」
「は、はいっ」

 まるで初体験の時のような身体の強張り具合を察してか、優しくしてくれることが余計に辛くもあったけれど、身から出た錆だった。情けない上擦った返事を返すことが精一杯なのに対して、余裕を見せるフユの顔が近づいてくると、互いの呼気が肌えを撫でる。近い、綺麗な整った睫毛を見、手入れがされていないのにこれなのかと思うのと唇同士が触れるのはほぼ同時だった。
 柔らかくて、少し厚めかなと思うそれが数度触れ合う様に押し付けられると、次第に啄むようなキスに自然と変わっていき、馴れているな、と思った。
 触れ合っては離れ、触れ合っては離れていくのが心地よくて、もっと味わいたいと自然と思わせてしまうような口付けに身体に入っていた余計な力が抜けていくのを感じると、それを察知したのか押し付けられた唇から、ぬるりとした来訪者があった。
 冷たく、けれど生きていると思わせるにはじゅうぶんな滑りをもって口内に入ってくる舌を、どうしたらいいかわからずに自身のそれを引っ込めようとすると、見透かしたように蛇の交尾の如く絡め取られた。
 こみ上げてきた羞恥心ごと攫っていくような、濃密な絡み合いにぼんやりと思考が鈍化していくのを自覚しながらも、身体は動かなかった。唾液がどろりとシロップのように流し込まれ、どうすることもできない私は雛鳥よろしく口を目一杯広げてそれをこくこくと嚥下する。飲んで、飲んで、飲むたびに身体が少しずつ冷たくなっていくのがわかりながら、飲むことは止められなかった。
 どれくらいの間キスだけをしていたのだろうか、時間を見る余裕すら失われて、ふやけた唇同士が離されるとべたついた口周りを親指で拭うフユの仕草が様になっていた。

「顔」
「え?」
「キスだけでとろん、てしてる。私よりもえっちな顔」

 言われて、病熱以外の火が顔へ集まるのがすぐにわかっても、返事はできなかった。フユの綺麗な指が私の胸に沈み込み、ぐにゃぐにゃと揉みしだかれると上擦った悲鳴が洩れた。「やめて」とは言うものの心からの言葉ではなく、次第に荒くなっていく自分の息遣いすら興奮剤となってじわじわと天井へと連れ去られていく感覚をまざまざと知覚してしまうと、逃げ出したい気持ちになった。
 そんな心境を知ってか知らずか、胸の頂きを指の腹で探るような動きで円を描きながら徐々に上昇していくと、薄桃色の先端があっさりと指で捉えられ、腰が浮きそうな快感が総身を貫いた。
 違う、おかしい。
 普通のセックスだってこんなに心地よく、快感にいいようにされることは少なかったのに、ここまで乱れるなんて、おかしい。なぜ、どうしてという疑問符が浮かび上がって形になる前に、屹立したてっぺんをそれぞれ摘ままれるとあっさりと瓦解して快感の砂埃を立てるだけだった。
 身体が正直すぎるのか、フユの技巧が想像を遥かに超えるそれなのか判然としないままに、乳首をくにくにと挟まれて踊らされると理性の残滓のような嗚咽が漏れ出した。

「すごいすごい。どんどん乳首、こりこりって芯が硬くなってくよ」

 指摘されるとなにも言えず、いたたまれない気持ちになって俯くしかなくなっても、それすら許されないのか、丹念に果実を弄っていた指先が小刻みになり、快感の棘を揺さぶられる気分を味わった。
 嬌声を抑えようとして抑えられるものでもなく、強引に胸の先端を引っ張られても普段なら痛いはずなのに、快さばかりが上塗りをしていく。「また硬くなった。ふふ、いい子。しこしこしてあげないと」と言葉で責めたてるフユの意地悪さに切れ切れに「いやぁ」と抵抗の声を上げるのが精々になってしまった私を気にする風でもなく、フユは言葉通りに愛撫を実行した。
 男性のそれにでも見立てたように、柔らかい指先が乳頭を挟み込むとギュッ、キュッ、とリズミカルに引っ張られ、ひっきりなしに刺激が先端へと注がれる。
 恨みがましい視線の一つでも投げかけたい気持ちはあっても、快感をどうにか逃がそうと視線の行く末は天井へと定められて叶わなかった。
 そうして、目を逸らしたのがいけなかったのかもしれない。乳房が、正確には先端の周りが途端になまぬるく冷たい粘膜に覆われて私はたまらず悲鳴をあげた。
 乳首を食まれた、と咄嗟に理解は追い付いても、もたらされる快感が冷静になることを許してはくれない。「んむぅ、じゅっる……はむ、ちゅう……」と乳首を口に含めたまま十中八九わざと喋り始めると、くすぐったさと気持ちよさが同時に襲ってきて、おかしくなってしまいそうだった。
 そのくせ、悪戯心たっぷりに胸の先端を前後になぶる動きは巧いのだから、性質が悪い。視界におさめてはいずとも、得意げなフユの顔が脳裏に浮かび、意地でも確かめたくないという気持ちが私の視線を天井へと縫い付けた。
 そのおかげで、快感と赤ん坊のように乳房をしゃぶり続ける濡れた音だけが五感を犯し、レコードのように私を喘がせる。
 じわじわと昇り詰めていく感覚と歩調を合わせて、腰が、身体が次第に動揺を隠せなくなると賢しくそれを察知したのか、ぱっと口を離し、意地悪に焦らそうと目論むフユの魂胆が明け透いた。と、思っていた刹那。
 じゅうう、と一際大きな水音を立てて、強烈に乳首に吸い付かれるのと、焦らされる心積もりで油断していた身体が一気に絶頂へと飛ばされるのは同じタイミングだった。
 あ、奪われる、とわけのわからない直感が到来し、濁音のついた、大よそ女を投げ捨てたような短い喘ぎ一つを溢して私は布団へ仰向けに倒れ込んだ。
 理性も体温も全てが乳房から吸われてしまったような、強烈としか言いようのない絶頂。何もかもが違い過ぎると呆然としつつも、身体は生理的な反応としてびくびくと痙攣を繰り返しながら、奪われていった熱を取り戻そうと必死だった。
 寒い、寒くて、切ない。
 これが、フユと、氷柱女と身体を重ねるということ。

「す……ご………」

 遅れてやってきた実感が言葉として溢れ、私の中の何かが変わっていくのを確かに理解した。
 イったばかりの私をさすがに気遣っているのか、嫋やかに太腿を撫でるだけに留まってくれていても、それすら微弱な快感となるのが泣きそうだった。どこもかしこも過敏になっているのか、深呼吸して乱れた何もかもを整えようとした矢先、股間を撫でた冷たい吐息に「ひっ」と怯えた声が勝手に出ていった。

「きれい、きちんと剃ってあるから、よけいにとろとろなのがわかっちゃう」

 丁寧に声に出して確認するフユに怒鳴りつけたい気持ちよりも、もう少しだけ休ませてほしいという懇願の方が勝った。か細くとも確かに声に出してお願いしようにも、指が肉のクレバスを開いただけで身悶えしてしまい、フユは愉快そうに声を弾ませた。

「あは……開いたとたんに、とろとろっておまんこ、溢れてきてるよ。ね、ね、自分でもわかるんじゃない?ひくひくクリちゃん動いちゃってるのとか、ナカが動いちゃうのとか」

 一言一句違わずその通りなのだろうと理解はさせられても、素直に認めることなんて到底できるわけもなく、「わかるわけ、ないでしょ」と返事をする。
 死んでしまいたい。恥ずかしさのあまり文字通りにそう思い、直後にそんなことを思うことすらなくなった。冷たい一本の指が肉の泥濘を掻き分けてぬるりと入り込み、反射的に仰け反る。「待って!」ととうとう叫びになって懇願が出てもフユは聞き入れるようすもなく、むしろ嬉々としてすんなり自身の指を受け入れた女の肉の心地を楽しんでいた。
 潤み切った肉の隘路は拒絶する素振りも見せず、むしろ引っ掻かれれば引っ掻かれるだけ、きゅうきゅうと指に吸い付いてしまう。脳天に突き抜けていく快感に二度目の絶頂を叩きこまれなかったのが不思議なほどで、蜜奥を指でいいようにされるだけで、胸がきゅんと疼く。
 甘く、そして切なく、寒さも伴ったいたたまれなくなる疼き。
 だめ。だめ。頭の中が、セックスしか考えられなくなっていく。身を任せてはいけないと、わかる。わかっては、いる。
 緩慢に指が前後するだけで決意にはヒビが入り、性感帯を擦られれば情けない楽器になりフユの耳朶へと届いていく。
 散らばった感情をかき集める余裕もなく、上からこんな言葉が浴びせられた。

「ね、ついでだし、潮もふけちゃうか試してみよっか」
「え?」

 何を、と続けるはずだった言葉は快感とも似つかない言いようもないそれに遮られた。挿入されていた指はいつの間にか二本へと増えて、浅い所、恥骨のあたりをぐりぐりと、溜まっていた快感をそうやって押し出すように圧される。
 二度、三度と圧しては膣内を優しくストロークで掻き乱し、快感を溜めてはまた浅いそこ、きっと女の急所とかされているんだろう場所を、同じように。
 けれど、襲ってくるのは快感――ではない、と思う。だって、これは、用を足す時とかの、襲ってくる。「待って、違う、これ、違う」と反射的に言っても、「大丈夫」と返されるだけだった時の絶望感たるや、凄まじいものだった。だめ、この感覚に乗らされては、と思っても、丁寧に蓄積されていった快感はどこまでも正直に下腹部へと集まっていく。違う、快感ではない。これを快感と捉えてしまったら、私は。待って、違う。待って。
 いよいよ身体を起こそうとして、力が入りきらずに起き上がれないことに気付いた私はぽろりと涙を零した。情けなく唇を歪め、いやいやと首を横に振りながらフユへと視線を注ぎ、その視界に、寒気が走るほどの優しい笑みを見た。
 声にならない声をあげての絶叫が先だったのか、イったのが先だったのかはっきりしない。確かなのは、イった後もフユの指は休んでくれず、イクのと潮とはまた別なんだなあと他人事のように考えて、思考をショートさせてしまったことだけだった。
 声が枯れ、布団の惨憺たる現状を見ても正気になることはできず、最後にフユが手に持っていたのは太い氷柱だった。男の人のそれそっくりの。
 何も言わずとも、さすがに意味を察すると抵抗する正気を根こそぎ奪われた私は甘く靄のかかった脳髄が導くままに、股を開いていた。
 考えることもない。ただ勝手に身体が動いて、フユもただ無言の肯定をもって、私を貫いた。気持ちいいと寒いを繰り返し刷り込まれた身体はあっさりと氷の性器を受け入れていき、ご丁寧に男の人相手にするように、腰まで動きだす。
 私が凍っていく。冬の寒さに熱を奪われて、抗いようのない自分を変えていく寒気に深々と溶けていく。あぁ、なんだ。
 怖いと最初は思っていたけれど、大したことないじゃないか。
 こんなに気持ちよくて、こんなに愛しく思える寒さなんて、拒否する方が、バカらしい。ね、フユ、ありがとう。
 こんなに気持ちよくしてくれて。こんなにきもちよくしてくれて。こんなにキモチよクしてクレテ。
 思考が分解し、冷たい熱が全身に広がってイク。現実と繋がっていた感情がことごとく断ち切られて、どろりと私というものが溶け、冷え固まっていくのを感じながら、私は蚊の鳴くような声を最後に零した。
 ありがとう。ごめんね。

7

 あぁ、寒い朝。目覚めた瞬間にそう思ったけど、その感覚が続いたのはぼさぼさの寝癖で鳥の巣をこしらえた自分の頭を鏡で見るまでだった。枕元から盛大に転げてベッドから落ちていた時計を見れば、時間は5時12分。同僚を起こさないようにそっとベッドから抜け出す。
 最近は快適な社員寮を提供する会社も多いとは聞くけれど、生憎と二組ずつのベッドと机を入れればぎゅうぎゅうになってしまうこの部屋を見るに、その例には当てはまらないようだった。
 女性二人の同居部屋と聞くと、どうにも麗しいイメージがあるかもしれないが、物置と言っても差し障りのない悲しい現状は床を見れば明らかで。まぁ、そんな中でもある程度最低限とも言える秩序はなんとかあって(これは秩序と言うより女とか、人としてのプライドなのかもしれないけれど)、そのおかげかどこに何があるのか把握するのには困っていなかった。こういうところは私が変わったからといって、さしたる変化がないのはちょっぴりと意外だった。強いて言うなら、少し、えっちなものが増えたくらい。
 手早く下着と上着を床から回収し、朝の諸々の支度を終えてから再び化粧のために鏡を覗き込む。肩よりもさらに伸びた髪はポニーテールとしてまとめられ、あまりにも変わった自分の髪型に、それでも誇らしげに鏡の前で笑みを零した。
 同僚を起こさないように足音を殺して、すっかり履きなれたハイヒールを履くときに一瞬だけ、また不安が鎌首をもたげたけれど、それはまた別の形で霧散した。
 そろそろと猫の額程度の玄関に向かい、いざ寮を出ようとした矢先に、何もないところで私は躓いてしまった。変な角度で勢いよくドアにぶつかり、したたかに肩を打ち付けると同時に大きな音が出て、しまったと思った時にはもう遅かった。
 いったい何に躓いたのかと確かめるように下を向いた時には、その仕掛けを施した張本人であろう同僚に対して小さな恨みが湧く。
 小さな逆氷柱が、床に生えていたのだ。それも気づかない程度にこっそりと。
 仕方がないとドアを開けてさっさと寮から出ようとした時にはもう遅かった。布団から上半身を起こした同僚の姿が見えると同時に、怒声が私の耳をつんざいた。

「ハル!あなた出勤するのはお互い一緒って言ったでしょ!?」
「あなただって狙ってる人は一緒でしょ!?早い者勝ちよ」

 怒鳴りつけられるのも構わずに言い返して、私は寮の外に出た。
 愉快な同居人であるフユと同期同士の友好関係が続いたのはたったの半年のことだった。その後は、きっとさらに密度を濃いものにして、続いている。
 私の選んだ道は、間違っていたのだろうか。フユに私を変えてもらってからも、ちょっとだけ悩んでしまうことがある。それでも、今は同じ熱を前にすると蕩けて、疼く身体を抑えられないのだから、きっとそれはいいことなのだろう。
 私が私らしく、やっと素直になれたということでもあると、思いたいから。
 と、とりとめのないところにまで思考の枝葉が分かれ始めたところで、ちょうど会社までの近道である交差点で信号に引っかかってしまった。普段の時間通りに抜け出せれていればここの信号には引っかかることはないけれど、想定外の罠を仕掛けた悪友に内心称賛と舌打ちをしつつ、頓馬な信号機に苛立っているうちにタイムリミットはやってきた。
 いやに身体の周りが冷える感覚。負けず劣らず私も冷気を司れるはずだけれど、どうにもフユには負けてしまう。彼女は、何か言いたげな視線を寄越していた。

「ひどいんじゃない?」
「昨日は私が仕掛けたから、おあいこってことにしない?」
「やむなし」
「ありがと」

 信号が青になり、私たちは同じように歩いていく。

「そう言えば、悠くんさ」
「なに?」
「私たちにプレゼントがあるってこの前」

 その言葉だけで単純に嬉しくなってしまう自分に呆れつつも、口角が上がるのは隠せなかった。
 結局私たちは同じ人を好きになり、同じように喧嘩したり、好きな人と三人でえっちしたり、代り映えはしなかったかもしれない。
 気になっていたあの夜のことを聞いてみれば、やっぱり結局のところ私の勘違いで、泣きそうになりながらフユに謝って、許してもらって。それでも一緒に好きになると、ちょっとどっちが夢中にさせられるか勝負をしてみたりして。
 変わらないんだね、とある日私はフユに言ったけれど、フユは嬉しそうにそうでもないよと言っていた。
 ずれているとは、もう思わない。

「じゃあ仕事帰りに私たちからもプレゼントしようよ」
「いいね。何にする?」
「この前開いたお店があったでしょ?あそこの飾り、私たちでも氷で頑張れば作れそうだから――」

 言葉の途中で、季節を感じさせる冷たい風がふいた。体温が奪われていくのを感じながら、白い息を吐き、早くあったまりたいなと、そう思った。
21/01/01 00:00更新 /

■作者メッセージ
そんなお話でした。楽しんでいただければ幸いです。

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