爽やかな風が吹いています。
1
え?学校の作文でお父さんとお母さんのことを書くことになった?国語の宿題?そうか。いや、なにふと懐かしい気持ちになっただけだよ。でも、そうだな。面白い話ではないかもしれないな。お前はハッピーエンドの話が好きだろう?だから聞いていても退屈しちゃうかもしれないな。学校の作文にするならちょっと脚色を入れて……そのままがいいって?
ははは、参ったな。
どうしたもんか。いた、いたた。こらこら、そうぽかぽか叩かない。……わかったわかった。包み隠さず話すよ。ただ、作文にするならヘビーかもしれない。いや、間違いなく重いものになるだろう。子どもの頃の大人に対する憧れを砕いてしまうかもな。まぁなんせお母さんの種族は……わかるだろ?お前と一緒、うん、そうだな。ならいいか。あぁ、悪い。ちょっと台所の棚から酒を取って来るよ。あとタバコも。ははは、そう言うなって。一回死んだ身に身体に悪いなんて、そりゃ意味もない。お父さんのことをそうして心配してくれるのは悪い気分じゃないけどな。ありがとう。
でも、ちょっと素面では話せそうにないからな。……魔物娘っていう存在が認知されつつあるって言っても、まぁお父さんにとってお母さんはお母さんで、お前の成長が人のそれとは違うとわかっていても、父親顔したくなる時はあるのさ。
今でもお父さんだって?背筋がちょいと痒いな。いやいや、本当に痒いわけじゃないよ。ありがとうな。
さてどこから話したもんか。でも話すなら一番最初からなんだろうな。長くなるか短くなるかはお父さん次第だが、じゃあいくぞ。
2
お父さんの夢って話したことはあったっけ?ないか。実はお父さん子どもの頃からずっと憧れていた夢があったんだ。わたしの夢はお父さんのお嫁さん?ありがとう。それが変わろうが変わるまいが、お前が幸せならお父さんも幸せだよ。
笑わないで聞いてくれよ?お父さん、若いころからずっと物書きになりたかったんだよ。同級生が警察官とか、パイロットとか、平和に暮らせればそれでいいとか言ってる中で。格好良さとか大人ぶった安定だとかそんな希望や夢が混沌としてる中でのお父さんの夢がそれだったんだ。だった、っていうことは変わったのかって?お前は将来探偵になれるかもな。いやいや、茶化してるわけじゃないぞ?誰かの死の傍にいてやれる優しさはきっと、お前にしかできないことだからな。それなら探偵じゃなくてもいい?間違いない。まだお父さんの中にも夢の未練があったのかもな。
いや、その夢を諦めるエピソードがあったわけじゃない。ただ、自然と消えていったんだよ。大学生になって文学部に入って、文芸部でそれっぽいことをしたり作品を書いたりしてな。そうして話のようなものを積み重ねて、書き重ねていったりもしたけれど、それは大人になって次第に薄れていったんだ。
理由を細かく言うことはできるんだろうな、きっと。
仕事が忙しくなってきたとか、歳を重ねているうちに背中にのっかるものが増えていっていたり、久しぶりに物語を書いてみようとしても書き方をすっかり忘れてしまっていたりとか。兎も角、社会人の仲間入りを果たして二年目くらいだったかな。二年、長いようで短い時間だけど、お父さんの中から夢を希釈していくにはじゅうぶんすぎる時間だった。慌ただしい職場、入れ替わっていく人に増えていくやらなきゃいけないこと、休日がただ身体をベッドに沈めるだけの日に変わってから数えるのが面倒になって、考える力もなくなって。
そこからしばらくしてな、お父さん煙草を吸い始めたんだ。
今でも覚えてるよ、残業で朝帰りになった日だった。それまで吸ったこともなかったのにな、職場には吸っている人が多かったからその影響も多少あったのかもしれない。徹夜明けでおかしくなってたってのも間違いなくある。銘柄は色々知ってはいたけど、バージニアだったかな。とにかく一つそれを買って、アパートの駐車場の縁石に腰掛けて一服しようとしたんだ。
その時だったよ。お母さんと初めて会ったのは。
お父さん煙草を吸おうって決心したっていうのにライターを買い忘れちゃってな、それっぽく煙草を咥えたまま固まっちゃったんだ。なかなかマヌケな図だったと思うよ。火のないタバコを咥えたまんま縁石に座り込む成人男性ってのは。かと言って帰ってきたのに車をもう一度コンビニまで走らせる元気もなくて、なんだか自分でもおかしくなってきちゃって、俯いて、自嘲して、寝よう。当たり前のようにそう考えて停滞する幸せに身を浸そうって思った時だった。
『火、いりますか?』
話しかけられたんだ。
いつの間にかお父さんの隣に立っていた、黒ずくめの服に身を包んだお母さんに。それは本当に綺麗な光景で、真っ黒で艶々とした、そう、黒曜石でも砕いて梳かしたような髪の毛がよく朝焼けに映えてた。
着てた服もよく覚えてるよ。これまた黒を基調とした薄いヴェールを頭から被って、ぱっと見の印象は喪服に近かった。でもどこか婀娜っぽさもあってな、お母さんの場所だけがフィルムにすっぽりはまったみたいに、世界から輪郭が浮き上がってた。
朝方の寒さが足に絡まったせいなのかは知らないが、すぐに返事はできなかったよ。格好つけるなって?そうだな。ただ、あんまりにも綺麗で、そして不思議で。考える余裕すら奪われていた空っぽの頭の中にすとんとおさまったせいだろうな。誰だなんて疑問すら浮かばずに、しばらく惚けた後に有難く火を頂戴したんだ。
けど煙草の吸い方なんて、それまで一切嗜んでなかったお父さんがわかるはずもない。中々火を点けられなくて、どうやればいいんだって四苦八苦してようやく吸えばいいんだと気づいて、当たり前のように噎せた。慣れてないのに一気に吸い込みすぎちゃってな。朝っぱらからそりゃもうおっさんみたいに必死に咳をしてたよ。
涙までちょっと出てきちゃって、なんだか火も貸してくれたのに申し訳なくなってお母さんの方を見たら、向こうも泣いてたんだ。
わけがわからなかった。
何か失礼なことをしてしまったのか、どこか痛むんじゃないかって頭の中には浮かんだけど、どれもそのどれもが違うって自分の中で確信できるようなものだった。
煙草が燃えていく音はやけに鮮明に聞こえてさ、じりり、じりりと音を立てて、早く吸わないともったいないぞ一本いくらだって急かされている風にも思えて、とりあえず口に咥えたまんま、なんて声をかけていいかもわからず視線を逸らすこともできず、固まっちまった。大丈夫ですか?どうしたんですか?何かあったんですか?泡のように頼りない言葉はどれもが口に出そうとしてはそのまえに喉で消えて、白い煙になっていった。
十秒、二十秒くらい経った頃、ようやく、お母さんが口を開いたんだ。
『煙が、目に染みて』
てっきり火を貸してくれたから、お母さんも煙が大丈夫な人と都合のいい方に考えてたんだな。散々日頃喫煙者をなんだかなあ、という目で見ておきながら、いざ自分がその立場になってみれば煙の配慮なんて全然できてなかったわけだ。慌てて煙草を足ですり潰して、きちんと火が消えたかを確認してから顔を上げたんだが、その時にはお母さんの姿は消えていた。
幻でも見てしまったのかと思ったよ。でも、火がなけりゃ煙草はつかないし、どこかヒリヒリする舌の感覚は煙のそれだとわかったから、幻なんかじゃないって信じられた。何よりも、さっきまでそこにお母さんがいたところに、あったんだよ。安っぽい百円ライターが。
縁石に腰掛けたまんま、手を伸ばしてそれを取ってもう一回新しい煙草に火を点けた。そうしたらもう一回現れてくれるんじゃないかって淡い希望もあったからな。ま、当然ながらお母さんは現れてくれなかった。その代わりといっちゃなんだけど、最初よりは多少上手に煙草が吸えるようになってた。
何分だろうな。二分くらいか、じっくりと吸っているうちに朝焼けがどんどん眩しくなってきて、ああ、みんなの朝が来てしまうなって気持ちにさせられるのが嫌でさ、目を閉じたんだ。そうしても眩しいことに変わりはなかったんだが、でもただ眩しいだけじゃなかった。瞼の裏に、お母さんの影があってな?その昏さがひどく心地よかった。
たぶんその時だろうな。お父さんがお母さんに恋をしたのは。……おいおい、にやにやとするんじゃあない。これでも話している身としてはまだまだ恥ずかしいんだぞ?まったく、誰に似たんだか。俺じゃないとしたら、お母さんかもしれないな。やれやれ、将来有望な娘っ子だよ、お前は。
とまぁ、ここまでがお父さんとお母さんが初めて会った時の話だ。どうだ?作文はできそうか?最後まで聞かないとわからない?そうかい、我が娘ながらに随分と強かに育ったもんだ。そういう育て方は……してないとしても、子どもは勝手に育っていくもんだよな。いいよ。最後まで話そう。お父さんがどうやって死んだのか、お母さんがどうやってそれを見届けていたのかまで包み隠さず。作文にされるっていうのはやっぱ気恥ずかしいが、ま、愛する娘のためだ。一肌脱いでやるよ。
3
煙草を吸う様になってから、ずるずるとその本数は増えていった。ハイライト、バージニア、セブンスター、メビウス、ピアニッシモ。銘柄はどうでもよかったのかもしれないな。ただ口に咥えて、煙を吸って、何をするでもなくぼんやりとしている時間がいつの間にかふと心が落ち着く時間になっていった。
ん?ははは、吸い過ぎで死んだわけじゃないぞ。ヘビースモーカー一歩手前の喫煙量だったことは否定しないけどな。だからと言って禁煙するつもりもなかった。一度何か決まり事を破ってしまったら、ずるずるとハマっていくのと同じように、人生初体験の喫煙っていうのはあっさりとお父さんのルーティーンに組み込まれたのさ。仕事の合間、仕事終わり、休憩がてら、食後の一服。何かとどうでもいいような理由がきちんと頭の中にはあって、その理由を味方につけて、お父さんは煙草と付き合い始めた。
そうして初体験から一ヵ月もすれば立派な喫煙者が出来上がり、お母さんとの二回目の出会いはそんな頃だったよ。
お父さんが働いていた時は社員寮があってな。と言っても賃貸アパートの一部を寮として貸し出しているようなものだったんだが、何気に結構いい部屋だった。きちんと一階でも洗濯物を干して余裕のあるベランダもあった。そこで独り身には面倒極まりない洗濯物を干し終えた後とかに、臭い移りなんてのも気にせず煙草をふかしていた時だったよ。
昼間だっていうのに、お母さんのいる場所だけ夜中になってしまったような色彩だった。半端な光は吸い込んでしまいそうな黒を携えて、いつの間にかベランダ近くに立っていたんだ。ちょっとしたホラー映画に出てくる幽霊みたいだった。ははは、こう言ってたってのはお母さんには内緒だぞ?泣き虫に見えて、泣き虫だけれど、意地になって搾り取ってくるからな。
そりゃ驚きはした。以前もそうだったが、いきなり気づいたらいるんだからな。危うく咥えてた煙草を落としてしまいそうになって、慌てて押さえたさ。ただ初対面だった時よりかはいくらか冷静だった。あの時はまぁ、安っぽい表現にはなるけど限界を迎えてた時だったからな。あぁそういうこともあるんだなくらいにしか受け止める容量がなかったのが、マシになったんだ。そうとくれば、多少いいコミュニケーションは取れたさ。
以前は煙草の火をありがとうございますっていうちゃんとしたお礼から、煙で泣いていたことを思い出して、手すりに擦りつけて火を消そうともした。
『それ、美味しいのかしら』
だからそう訊ねられたときには、驚いたよ。喫煙者はどんどん隅っこへと追いやられていく世間一般の流れだったからな。足に根っこが生えてしまったと言っても、その根っこを切ってでも喫煙スペースへと向かう義務があった。
『よく、吸っているようだから』
そこまで見られていたのか。ひょっとしてご近所さんとか、案外働き始めてから挨拶の機会をすっかり逃したお隣さんだったか、なんて考えながら少し思案した。
さっきも言ったけど、お父さんは別に煙草に嗜好品らしいそれを求めてたわけじゃないんだ。もちろん銘柄によって吸いやすかったり吸いにくかったり、多少味がわかるものもあった。メンソール系とかな。
けど煙草が美味いなんて感じるのは結局そこは嗜好品、人それぞれ。お父さんの場合はそうじゃなく、単にぼんやりと落ち着くための一服っていう向きが強かった。だから、勧めてみたんだ。一本吸ってみますか?ってな。
だめだ、煙草は大人になってから。お前にはまだ早い。
その時はなんだったかな。確かピアニッシモだったような気がするが、まあどっちにせよ、それがお母さんとの交流の始まりだった。慣れない手つきでタバコを咥えて、火も持ってないようだったから火をかして。あの時と立場が逆になっているのが不思議な気分でな、自然と頬が緩んでしまったのをはっきりと覚えてる。火を点けてあげても中々煙が昇らなくてな、疑問符をたくさん頭の上に浮かべてるといった風な顔をしたもんだから、火を点けた時に吸うんだと教えたよ。ん?そりゃあ噎せたさ、お母さんも。もしかしなくても、お父さんよりもこっぴどく。
『しみる……』
そう言ってたよ。
その気持ちはよくわかった。まずは吸って肺に煙を入れて確実に噎せるし、煙で涙も出てくる。その後になにが美味いんだこんなものと馬鹿らしく思うか、味がわからなくてもどこか琴線に触れるものがあったのかどうかが、個人的には煙草を吸い続けるかどうかの分水嶺だとお父さんは思ってる。
お母さんは……あれはどっちだったんだろうな。慣れるのは早かったように思うが、それでも目尻に涙を湛えてはいたから、微妙なところだ。
『舌が……痺れるわ』
『匂いも……なんだかすごい』
『涙も出てくる』
けれど、とお母さん言ったんだ。
『きっとこれは、こういうものなのでしょうね。だから、きっと貴方も好きなんでしょう』
そう言って涙をぽろりと流しながらお母さんは煙草を咥えてたよ。
いい青空だった。煙もすぐに見えなくなるほどに。そこから本格的にお父さんとお母さんの交流が始まった。そうは言っても、ほとんどはばったりと会ったところで立ち話をする程度だったんだけどな。
天気の話、昨今のニュースを騒がせている俳優の話、流行の映画の話、近所で何気なく起きた物騒な事件の話。どれもがどれも、煙草を吸っている時と同じくらいに落ち着く時間だった。他のことを考えずに一つの物事に集中できる時間っていうのが、今さらながらに貴重なんだと、社会人二年目にしてようやく若造が悟った瞬間でもあった。
大げさでも何でもないさ。実際にそういう時間はとても貴重なんだ。
仕事に集中していると思っていても、実のところノイズは入ってきている。それはトラブルだとか、雑談だとか、予定外の仕事だとかに形を変えて。だから誰にも邪魔されることなく、一つのことにじっくりと集中できるかけがえのない時間だったんだよ。
ヘンなのなんて言うなよ?お前だってそんなお父さんの娘だぞ?そのうちきっと同じ道を辿ることウケアイだぞ。主にお母さん側の。
ごほん。
そうして季節が流れていくようなスピードでお父さんとお母さんの交流は続いた。交流が続いていくと不思議なものでな、一つ一つ丁寧に社会人になって零していった感情っていうものが、拾い上げられていくことに気づいていったんだ。感情のポケットから零れていっていたこと自体すっかり忘れていたっていうのに。
例えば?簡単だよ。一つ一つがお前が普段から当たり前にできていること。人と話すことは疲れるけれど、楽しいこともあるんだなとか。他人と自分との何気ない共通点を見つけると嬉しいんだな、とか。お前にもあるだろう?好きな子が自分の好きなアニメを知っていて、それもその作品を好きでいてくれたならどう思う?嬉しいとか、やった!とか。少なくとも、悲しいとは思わないだろう。それが好きな子じゃなくて、初対面の子だったとしても、きっとそこからとんとんと話は進んでいい友達の一人になれるだろうさ。
ああ、そうだな。お前が普段からしていることで、愉しんでいることで、お父さんがいつの間にか忘れてしまっていたものだ。
お父さんはお母さんの薄く笑った顔を見るとほっとしたし、同じ好きなものがあればどこかほっとした。
たまに会って、話して、煙草を一緒に吸って。
それだけの関係かと訊かれてしまうとそれだけなんだと言うしかないけれど。でも人は、それだけのことでも相手を好きになれたんだなって思い出させてもくれた。
告白するつもりはなかったよ。
人間関係や、そもそも仕事の疲れですっかりと参っていた自分が歩いていた道のりの落とし物を拾ってくれていた、いや、落としていたものがあるっていうことに気づかせてくれただけでも、誇張でもなんでもなく幸せだったからな。
かっこつけていた、とも言える。
思い出の標本にして、忘れられない宝石箱として心の奥にしまい込んで、自分はただ相手を想っているだけでも満たされる。それ以上はない、とかな。青臭さが煮崩れたような塊だとも今なら思うが。
正確には臆病だったんだろう。
せめて、この今のぬるま湯のように心地いい関係を壊さずにだらだらと停滞していけたならと願わずにはいられないような、臆病な自尊心だったのかもしれない。授業で似たようなことを聞いた?そいつは結構。
きっとどれもが正解でどれもが不正解だったんだろう。
わかりにくい?はは、すまんすまん。大人ってのは、どうしても本題を話すのに回り道をしがちなんだ。そうしないと、自分の中身の整理すらつかないのさ。あまりにもごちゃごちゃとしていて、子どもの玩具箱の中身みたいに雑多だから。
そうだな、わかりやすい一言がある。
お母さんは泣き虫だったんだろうけど、お父さんは弱虫だったのさ。
人と人が触れ合うっていうことはどこまでも脆い硝子細工を、壊さないように一つ一つ仕上げていくのと似ていて、お父さんはそれが壊れるのが怖かったのさ。
いや、ひょっとすると怖くない人はいないんだろうな。でもそれを重ねていって、どうにか壊れないコツを掴んでいくのが大人なんだと思う。だから、ちょっと世間に出て一人で数年過ごした程度のお父さんは、まだまだ若造に片足突っ込んでいたんだろうな。それが良いことか悪いことかは一旦、脇に置いておいて。
どのくらいの距離から触れればいいのか、どの程度の力で触れれば罅割れずに済むのか。不器用、という言葉で片づけてしまうのはとても簡単だった。そしてそんな簡単にかまけて横着をしていたツケが回ってきたんだな、とも思った。
だからひどく苦労したよ。食事に誘うのも、近場で開かれた催し物に誘うのも。そのどれもでお母さんが感極まって泣いてしまうものだから、お父さんの方もその度に泣きたい気持ちになった。次第に慣れてきたことではあるものの、女の子を泣かせるなんて気分のいいものじゃないからな。それがどんな理由であれ。
嬉し泣き、だったんだとこれは思いたいなあ。お父さんの精神衛生上。
無事デートの約束を漕ぎつけても、そこからも大変だったけどな。何せ、お母さん色んな所で泣き始めるんだから。
一緒に食べるご飯が美味しくて涙を流す。一緒に買ったアクセサリーが可愛くて涙を流す。一緒に握った手のひらがあたたかくて涙を流す。一緒に眺めた星空が綺麗で涙を流す。一緒に過ごした時間が幸せで涙を流す。
そんなだからお父さんもデートの時にはハンカチを用意するのがすっかり定着した。お母さんにハンカチを貸す度に、目元をそっと拭ってあげる度に、お父さんの中でそのハンカチの重みはずしりと増えていくのがほっとした。
あたたかいものが自分の中に芽生えていくのが嬉しかった。
お母さんの心の中に、少しでも自分の居場所が出来ているような気がしてな。それが怖くもあり、楽しみでもあったんだ。
すっかりラブラブだって?いや、どうだったんだろうな。今でこそお父さんはお母さん一筋、たとえ海の中火の中水の中だってえんやこらと進んでいく気概は持ち合わせてはいるけれど。あの頃のお父さんの中にあったのは、そんな太陽みたいな光じゃなかったと思う。そう、もっと蛍の光のような、ぼんやりと暗がりの中で優しく光っては消えていくイメージの方が近いかもしれない。
ん?なんでそんなイメージかって?
お父さんな、そんな甘酸っぱい青春のリフレインのような時間の中で、死んだんだ。
死んだんだよ。前触れもなく、告知もなく、宣言もなく。重い病気になったわけでも、不幸な事故があったわけでもない。
ただ死んだんだ。
過労で。
おいおい。そんなにぽかんとするなよ。ある程度予想はついたことだろう?お母さんはそういう種族なんだから。人の死に現れる黒いモノ、すすり泣く声、不吉のシルシ、悲しみ嘆く女たち。それがバンシーだ。
デートで身体が元気になるわけじゃない。煙草で健康になんてなれるはずもない。そうでなくとも、お父さんとお母さんが初めて出会ったあの時から、お父さんが死ぬことは決まってたんだとすら思う。喪服みたいな黒い服って言ったろう?じゃあ、喪に服す相手は誰なんだろうな。
ほら、泣くな。別嬪さんが台無しだぞ?
……前触れがあったわけじゃあない。スイッチをオフにしたら電化製品だってすぐに大人しくなるだろう?それと同じさ。いつも通り役立たずのタイムカードで打刻し、ふらふらの足で帰る場所に帰り、着替えるのも億劫になってベッドに身体を放り投げていつものように目を閉じる。いつもと違ったのは、瞼を閉じる直前に、聞き覚えのある泣き声が聞こえたような気がしたことくらいさ。
4
最初に感じたのは、温かい。次に感じたのは、柔らかい。そこまで思って、目を開こうとしたんだけど、上手く動けなかったんだ。せいぜいが半開きになった世界を焦点も合わずに眺めるくらいで、身体を動かすなんてとてもとてもだった。すっかりと冷たくなってしまった身体は言うことを聞く耳なんて持ってくれやしなかった。
視界のど真ん中で、見慣れた黒い影が、悲しそうに泣いていた。それだけはぼやけた視界でも見間違えなかった。見間違えてたまるかとすら思ったよ。
何度見たんだろうな。いつものように涙を流しながら、嗚咽を上げながら、それでもキスを止めないお母さんの姿は、ひどく安心した。こんな夢なら、覚めないで欲しいとベタな感想が浮かんでは消え、浮かんでは消えを繰り返しながらお父さんはされるがままだったよ。
たどたどしくも熱を孕んだ口付けが、いったい何分続いていたのかはわからない。でもそうしてキスをされていくうちに、次第に視界も意識もはっきりとしてきた。
お母さんの頬がはっきりと紅く染まっているのが見えた。自分の部屋の天井が見えて、乗っかられているんだなっていうこともわかった。それでも騒ぎ立てるとか、お母さんを跳ねのけるだとかをしなかったのは、そこまで心が動かなかったからなんだ。
ぴくりとも人間らしい感情が湧いてこなかったんだよ。
ああ今キスされているな。どうやって部屋に入ったんだろう。鍵でも掛け忘れていたんだろうか。そんなどうでもいいことばかり泡のように浮かんできた。
一周回って生々しいほどに冷静さを保った頭は、どうしようかと考えるばかりで働いちゃくれない。戸惑いも覚えず恐怖も感じず、考える脳が死んでしまったような――いや、実際に死んでしまった脳は、生きていれば当然のように覚える激しい感情のうねりを全部屑籠に捨ててしまっていたんだな。
押し当てられていた量感の暴力のような乳房も、徐々に肢体が絡まりもつれあっていく感覚も、どれもが無味乾燥で事実の列挙にしかならなかった。ぽろぽろとお母さんの目からとめどなく溢れていく液体は止まることを知らずにお父さんの頬に音をたてて落ちていき、中途半端なぬくさを一瞬知覚させては肌を伝って消えていくだけ。
ただ熱量を帯びた塊が身体の上を這っている、身体に好き勝手している。
ひどい言い草だろう?でも本当に、そうとしか感じなかったんだよ。脳は考えることを放棄し、心は動くことを投げうっていた。それでもお母さんは辛抱強く、キスを、愛撫を止めなかった。
赤い舌で、白魚のような指で、蠱惑的な肢体で。自分の持ち合わせている全てを使って。そうされていると不思議なことに、ほんの少しだけ、身体が温かいと感じるようになったんだ。お母さんのじゃないぞ?お父さんが自分の身体をあったかいなあと思うようになったんだ。
わけがわからなかったよ。
まるで生まれたばかりかのように身体に熱が灯り始めたと思ったら、次第に生理的な反応が戻ってきたんだから。
長時間密着されていれば汗もかく。愛撫を心地いいと感じれば血流は集まる。まるで今まで忘れていたと恍けたように心臓が動き始めた証だった。それでも身体は動かないんだから、もどかしかった。
どうしてお父さんの部屋の中にいるのかはどうでもいい。どうしてこんなことをしているのかもどうでもいい。きっと大人って言うのは沢山のどうしてを呑み込んで、器用に生きていくんだから。
だから、だから。
せめて抱き締めたかった。胸の中に湧いてきた、あたたかさを消したくはなかった。笑い話の一つだろ?あたたかさなんて綺麗な言い方をしちゃいるが、結局のところそれは、お父さんがお母さんに覚えていたそれは。
彼女の力によって励起されていた、生きたいという一番原始の感情だったんだから。お母さんとの交流でお父さんが感じていたのは、単に心の中の死にたくないっていう悲鳴と、無自覚の性欲そのもので――痛っ。
どうしたどうした。痛いからあんまり強く叩くんじゃない。何をそんなにむくれて……ああわかった。わかったよ。そうだな。そんなシニカルを気取ったところで。
ごめんな、謝るから、そんな目でお父さんを見ないでくれ。お父さんはお母さんもお前も、大好きだよ。
本当の、本当にそう思ってる。
お母さんと出会わなければ、こんなに穏やかになれることはきっとなかったし、お前と出会うこともなかったんだから。
うん、そんな大好きなお母さんの熱心な介抱、いや、解放の甲斐あって、お父さんは熱を次第に取り戻していった。
腕なんかは動かせないままだから、されるがままに変わりはなかったんだけどな。それでも舌はなんとか動かせて、喋れるなんて大層なものじゃないが、呻くぐらいはできるようになった。端から見ればゾンビみたいな有様だったと思うよ。
けれど、お母さんはそれを見て心底嬉しそうに、泣いていた。
我慢できなさそうに内股を擦り合わせて、きらきらと光る露を垂らしながら、はしたなくスカートをたくし上げた姿は本当に綺麗で、エロかった。プレゼントを待ちきれない子どもみたいな手つきでお父さんの息子を取り出して、まあ目を疑ったよ。一番生存本能が現れるのはやっぱりそこなのかとマヌケな感想すら過って、消えたよ。
柘榴みたいに熟れ切った泥濘に迎えられて、余裕があるはずもなかったからな。信じられないくらい熱く、熱という熱を集めきった女の肉のうねりが奥へ奥へと導いて、とん、と先にぶつかる感覚があった。
総身が何度も弓なりに反って、跳ねて。壊れたレコードのように同じ言葉しか吐かなくなったお母さんの目は完全に蕩け切っていた。泣きながら舌を突き出して、泣きながら腰を振って。
あっという間にお互いに限界を迎えて階段を駆け上ったら、急にぐったりと疲れたって思ってな。肩で息をしながら生々しい熱に包まれて、目を瞑ってた。
目を覚ました頃にはすっかりと日は登ってしまっていて、鈍った頭の中で今日が休みかどうかを確認してから、ベッドの傍らに目をやった。お母さんの姿はそこにはなくってな、幻だったのかとも思ったんだが、なんてことはない。ベランダに通じるガラス戸を開けて、部屋の換気をしようとしてくれていたところだった。
情事の後片付けもせずに取っ散らかった部屋は凄惨な有様で、シーツの染みや臭いが一気に逃げ場を求めて抜けていった。そんな確固たる証拠の数々もあったものだから、昨日のことが夢じゃないのは明白で、なんて声をかけたものかと悩んでたんだ。
ありがとうでもない、すみませんでもない。言葉に詰まった。もの悲しいような、不思議な息苦しさを感じた。頭の芯がずんと重くなったような、自分の住処なのに居心地の悪さを感じる感覚だった。
本当に明言化できない気持ちだったんだ。
でも何かしなくちゃいけない。そんな焦燥に捉われて、床に打っちゃられた下着を履きなおしてお母さんの傍へと行ったんだ。
息を呑んだ。
あまりにも爽やかな風が季節感すら置き去りにして頬を撫でてくれて、汗とか迷っていた気持ちとかを吹き抜けにしてしまうような清風で、溜め息を吐いたんだ。
噎せ返るような晴天だったけど、お互いに日陰が似合うと理由も根拠もなく思った。言葉もなく後ろからお母さんの肩を掴んでさ、情けないほど手は緊張で震えてた。ぎりぎり抑え込んでいた感情の行き場がいよいよ限界を迎えたんだろう。肩を掴まれたお母さんも共振するように小さく震えて、胸を衝かれたんだ。
何をしていたんだよ、だから愚図なんだよ。そんな自分自身を責める声が脳内で喧しく乱反射したけど、甘んじて受け入れてから、ようやく見つけた言葉をお母さんに言ったんだ。
これを言うべきだって確証はなかった。でも言ってからはたがいに決壊したようにガラス戸を締めるのも忘れてベッドに縺れ込んだ。支え合い重なり合う肉のぬくもりが愛しかった。甘く泣き咽ぶ声が耳朶を愛撫するたびにお母さんの手のひらに自分の手のひらを重ねた。
折れてしまいそうなほどに一部は華奢だというのに、括れて男を誘惑する稜線は艶めかしく描かれて、手を伸ばすのに躊躇いもなかった。
ふらり彷徨っていた魂が行き場を見つけたように、自然と臀部へぴったり張り付いた手が感触を愉しむようにぐっと指を沈めて、桃色の声が部屋に響いた。もうすっかりと歯止めは利かなくなっていたし、今さら利口なブレーキなんて持ち合わせてもなかった。
濡れそぼった肉の隘路は舌を伸ばせばそれだけで細かく蠕動して侵入した舌すら性器のようにもてなし、動かすことも一苦労だった。それでも半ば意地で顔を細かく左右に揺すってやったら腰が面白いように跳ねるもんだから、肉付きのいい尻をしっかりと掴んでその動きを堪能した。
もっともやられてばかりのお母さんじゃなかった。すっかり張り詰めてともすれば破裂してしまいそうな肉棒に躊躇なく舌を伸ばし、陰嚢と陰茎の境目にぬろりと這った軟体動物はそのまま陰嚢を口に含んだ。優しく、けれど快感を与える役目の舌は激しく。ぬるま湯の中でぐずぐずに溶かされていくような得も言われぬ喜悦に声が零れて、その度に舌は嬉しそうにそよめいた。
今まで経験したことがないほどにいきり立った象徴が、我慢できずに汁を洩らしていれば美味しそうに舐めとられ、こそばゆさと気持ちよさの分水嶺を絶妙に行き来する舌の往来が、子種を射出寸前にまでせぐり上がらせていったところで、反撃は終わった。
というより、もうお互いに頭の中は一つになりたいって欲求で満たされていたんだろうな。容量から溢れてもなお求める電気信号は止まらずに、心を突き放して身体が動いていた。最初の頃よりも鮮明に、感動すら覚える快感が腰から背筋に向かってひた走り、視界には顔だけが映っていた。
綺麗だったよ。
泣きながら、それでも頬を赤く染めて、嬉しそうに、唇を歪ませて。
心臓がとくんと脈打って、ようやく今になって自分は生を得たとすら感じた。
冗談じゃないぞ?本当に、その時はそう思ったんだ。この顔を見るまで自分は死んでいたんだってな。骨身惜しまず交わっていった中で。
細かい襞々は隙間なく肉の隘路を形成して、まるで吸われているような吸着感すらあったのに、奥へにこつんとぶつかると途端に柔くほぐれた洞が先端を包み込んできてな。そのあまりにはっきりとした肉路小路の分かれ目の差に呆気なく昇りつめてしまいそうだった。三擦り半でさすがに終わりたくないという悲鳴が心の中の崖っぷちの手を掴んでくれたお陰で、なんとかその悲劇は免れた。
独特の粘度を孕んだ中身をこっちも味わうように腰を動かしながら、けれど動かす度に襲い掛かってくる無数の舌で舐られるに等しい電流がどちらを選べど天国だと言ってくる。それでもなお、腰は動いた。そうしないと繋ぎ留められないような気がして、証を膣内に残していくように必死な性交が何時間続いたのかは覚えてない。
いくら白濁液を流し込もうが、結合部からいよいよ泡立った愛液精液がシーツに地図を作ろうが、萎える気配がないし燃え盛った火が消える気配はない。そうして、数えるのも面倒と感じる何回目かの射精を経て、お母さんもお父さんもこと切れたようにぴたりと止まったんだ。比喩じゃないぞ。
疲れ知らずだと思っていた、終わる果てがないと信じていたセックスは唐突にゴールテープを目の前に用意して、感動もなくそれをちょん切った。
最後はお母さんの上に覆いかぶさったまま精根尽き果てたせいで、重いだろうなとは慮ってもどうにもこうにもできず、申し訳なさで唇を重ねた。柔らかくて、シている最中にもう幾度だってしたキスはこれがファーストキスみたいに蕩けて、砂糖みたいな味がしたよ。
5
それからはお前も知っての通りだよ。お母さんとお父さんは思いの丈をぶつけ合って無事結ばれ、こうして可愛い愛娘も産まれた。めでたしめでたし、だ。
ん?肝心な部分が語られてないって?おいおい、全部言えって言うから濡れ場までしっかりと言ったのに辛辣な評価だな。娘に夫婦の初体験を語るのなんて、正直恥ずかしさで殺してほしくなるくらいの拷問なんだぞ?
ああでもそうか。確かにそうだ。どうやってお父さんがお母さんへ素敵な言葉を贈ったのかは、まだ言ってなかったな。でもそれこそ、簡単な話なんだよ。
ありがとうでもない、ごめんなさいでもないなら。後はもう自分勝手な感情の羅列が吐き出されるだけなんだから。
好きだって伝えただけだよ。そう、お前となんら変わらない。青臭くて、身勝手で、擦り切れて摩耗していた心の最後の叫びみたいに、言ったんだ。
距離感の測り方も、人との正しいコミュニケーションの論法もすっかり消えてしまった野郎の、精一杯だっただけなんだ。なんだ、どうしてそんな嬉しそうな顔をするんだ。ああくそ、娘に見透かされた心地にさせられるのは癪だな。ほら、本当にこれで全部だよ。行った行った。お父さんもそろそろ一服したいんだ。
まったく。誰に似たんだか。とんだお転婆娘に育ったもんだ。
『ちょっぴりの意地の悪さは、アナタ譲りでしょう』
そうでもない、はずだ。
『でも隠し事がまだあるわ』
聞かれなかったから、言わなかった。いや、全部教えてほしいみたいなことは言ってたっけ。でも、これくらいは許して欲しい。プロポーズや告白には返事がつきものっていう大前提を見落としたのは、あの子なんだから。
『バカね。擦り切れそうで、自分の中で格好つけるのが精一杯で、甘えることもできなくなった等身大の大人』
刺さったよなあ。その返事。回りくどく娘に気づかれないように話したことがまるまる入ってるんだから。でもその返事にもちゃんと返事は返した気がするけれど、なんと言ったっけ。
ああそうだ思い出した。
『私は覚えていたのに。ひどいわね』
かっこつけたいんだよ。
『でしょうね、だって』
バカは死んでも治らないんだから。
さて、一服しようか。吸うだろ?一緒に。
なんせ今日は爽やかな風が吹いているんだから。
え?学校の作文でお父さんとお母さんのことを書くことになった?国語の宿題?そうか。いや、なにふと懐かしい気持ちになっただけだよ。でも、そうだな。面白い話ではないかもしれないな。お前はハッピーエンドの話が好きだろう?だから聞いていても退屈しちゃうかもしれないな。学校の作文にするならちょっと脚色を入れて……そのままがいいって?
ははは、参ったな。
どうしたもんか。いた、いたた。こらこら、そうぽかぽか叩かない。……わかったわかった。包み隠さず話すよ。ただ、作文にするならヘビーかもしれない。いや、間違いなく重いものになるだろう。子どもの頃の大人に対する憧れを砕いてしまうかもな。まぁなんせお母さんの種族は……わかるだろ?お前と一緒、うん、そうだな。ならいいか。あぁ、悪い。ちょっと台所の棚から酒を取って来るよ。あとタバコも。ははは、そう言うなって。一回死んだ身に身体に悪いなんて、そりゃ意味もない。お父さんのことをそうして心配してくれるのは悪い気分じゃないけどな。ありがとう。
でも、ちょっと素面では話せそうにないからな。……魔物娘っていう存在が認知されつつあるって言っても、まぁお父さんにとってお母さんはお母さんで、お前の成長が人のそれとは違うとわかっていても、父親顔したくなる時はあるのさ。
今でもお父さんだって?背筋がちょいと痒いな。いやいや、本当に痒いわけじゃないよ。ありがとうな。
さてどこから話したもんか。でも話すなら一番最初からなんだろうな。長くなるか短くなるかはお父さん次第だが、じゃあいくぞ。
2
お父さんの夢って話したことはあったっけ?ないか。実はお父さん子どもの頃からずっと憧れていた夢があったんだ。わたしの夢はお父さんのお嫁さん?ありがとう。それが変わろうが変わるまいが、お前が幸せならお父さんも幸せだよ。
笑わないで聞いてくれよ?お父さん、若いころからずっと物書きになりたかったんだよ。同級生が警察官とか、パイロットとか、平和に暮らせればそれでいいとか言ってる中で。格好良さとか大人ぶった安定だとかそんな希望や夢が混沌としてる中でのお父さんの夢がそれだったんだ。だった、っていうことは変わったのかって?お前は将来探偵になれるかもな。いやいや、茶化してるわけじゃないぞ?誰かの死の傍にいてやれる優しさはきっと、お前にしかできないことだからな。それなら探偵じゃなくてもいい?間違いない。まだお父さんの中にも夢の未練があったのかもな。
いや、その夢を諦めるエピソードがあったわけじゃない。ただ、自然と消えていったんだよ。大学生になって文学部に入って、文芸部でそれっぽいことをしたり作品を書いたりしてな。そうして話のようなものを積み重ねて、書き重ねていったりもしたけれど、それは大人になって次第に薄れていったんだ。
理由を細かく言うことはできるんだろうな、きっと。
仕事が忙しくなってきたとか、歳を重ねているうちに背中にのっかるものが増えていっていたり、久しぶりに物語を書いてみようとしても書き方をすっかり忘れてしまっていたりとか。兎も角、社会人の仲間入りを果たして二年目くらいだったかな。二年、長いようで短い時間だけど、お父さんの中から夢を希釈していくにはじゅうぶんすぎる時間だった。慌ただしい職場、入れ替わっていく人に増えていくやらなきゃいけないこと、休日がただ身体をベッドに沈めるだけの日に変わってから数えるのが面倒になって、考える力もなくなって。
そこからしばらくしてな、お父さん煙草を吸い始めたんだ。
今でも覚えてるよ、残業で朝帰りになった日だった。それまで吸ったこともなかったのにな、職場には吸っている人が多かったからその影響も多少あったのかもしれない。徹夜明けでおかしくなってたってのも間違いなくある。銘柄は色々知ってはいたけど、バージニアだったかな。とにかく一つそれを買って、アパートの駐車場の縁石に腰掛けて一服しようとしたんだ。
その時だったよ。お母さんと初めて会ったのは。
お父さん煙草を吸おうって決心したっていうのにライターを買い忘れちゃってな、それっぽく煙草を咥えたまま固まっちゃったんだ。なかなかマヌケな図だったと思うよ。火のないタバコを咥えたまんま縁石に座り込む成人男性ってのは。かと言って帰ってきたのに車をもう一度コンビニまで走らせる元気もなくて、なんだか自分でもおかしくなってきちゃって、俯いて、自嘲して、寝よう。当たり前のようにそう考えて停滞する幸せに身を浸そうって思った時だった。
『火、いりますか?』
話しかけられたんだ。
いつの間にかお父さんの隣に立っていた、黒ずくめの服に身を包んだお母さんに。それは本当に綺麗な光景で、真っ黒で艶々とした、そう、黒曜石でも砕いて梳かしたような髪の毛がよく朝焼けに映えてた。
着てた服もよく覚えてるよ。これまた黒を基調とした薄いヴェールを頭から被って、ぱっと見の印象は喪服に近かった。でもどこか婀娜っぽさもあってな、お母さんの場所だけがフィルムにすっぽりはまったみたいに、世界から輪郭が浮き上がってた。
朝方の寒さが足に絡まったせいなのかは知らないが、すぐに返事はできなかったよ。格好つけるなって?そうだな。ただ、あんまりにも綺麗で、そして不思議で。考える余裕すら奪われていた空っぽの頭の中にすとんとおさまったせいだろうな。誰だなんて疑問すら浮かばずに、しばらく惚けた後に有難く火を頂戴したんだ。
けど煙草の吸い方なんて、それまで一切嗜んでなかったお父さんがわかるはずもない。中々火を点けられなくて、どうやればいいんだって四苦八苦してようやく吸えばいいんだと気づいて、当たり前のように噎せた。慣れてないのに一気に吸い込みすぎちゃってな。朝っぱらからそりゃもうおっさんみたいに必死に咳をしてたよ。
涙までちょっと出てきちゃって、なんだか火も貸してくれたのに申し訳なくなってお母さんの方を見たら、向こうも泣いてたんだ。
わけがわからなかった。
何か失礼なことをしてしまったのか、どこか痛むんじゃないかって頭の中には浮かんだけど、どれもそのどれもが違うって自分の中で確信できるようなものだった。
煙草が燃えていく音はやけに鮮明に聞こえてさ、じりり、じりりと音を立てて、早く吸わないともったいないぞ一本いくらだって急かされている風にも思えて、とりあえず口に咥えたまんま、なんて声をかけていいかもわからず視線を逸らすこともできず、固まっちまった。大丈夫ですか?どうしたんですか?何かあったんですか?泡のように頼りない言葉はどれもが口に出そうとしてはそのまえに喉で消えて、白い煙になっていった。
十秒、二十秒くらい経った頃、ようやく、お母さんが口を開いたんだ。
『煙が、目に染みて』
てっきり火を貸してくれたから、お母さんも煙が大丈夫な人と都合のいい方に考えてたんだな。散々日頃喫煙者をなんだかなあ、という目で見ておきながら、いざ自分がその立場になってみれば煙の配慮なんて全然できてなかったわけだ。慌てて煙草を足ですり潰して、きちんと火が消えたかを確認してから顔を上げたんだが、その時にはお母さんの姿は消えていた。
幻でも見てしまったのかと思ったよ。でも、火がなけりゃ煙草はつかないし、どこかヒリヒリする舌の感覚は煙のそれだとわかったから、幻なんかじゃないって信じられた。何よりも、さっきまでそこにお母さんがいたところに、あったんだよ。安っぽい百円ライターが。
縁石に腰掛けたまんま、手を伸ばしてそれを取ってもう一回新しい煙草に火を点けた。そうしたらもう一回現れてくれるんじゃないかって淡い希望もあったからな。ま、当然ながらお母さんは現れてくれなかった。その代わりといっちゃなんだけど、最初よりは多少上手に煙草が吸えるようになってた。
何分だろうな。二分くらいか、じっくりと吸っているうちに朝焼けがどんどん眩しくなってきて、ああ、みんなの朝が来てしまうなって気持ちにさせられるのが嫌でさ、目を閉じたんだ。そうしても眩しいことに変わりはなかったんだが、でもただ眩しいだけじゃなかった。瞼の裏に、お母さんの影があってな?その昏さがひどく心地よかった。
たぶんその時だろうな。お父さんがお母さんに恋をしたのは。……おいおい、にやにやとするんじゃあない。これでも話している身としてはまだまだ恥ずかしいんだぞ?まったく、誰に似たんだか。俺じゃないとしたら、お母さんかもしれないな。やれやれ、将来有望な娘っ子だよ、お前は。
とまぁ、ここまでがお父さんとお母さんが初めて会った時の話だ。どうだ?作文はできそうか?最後まで聞かないとわからない?そうかい、我が娘ながらに随分と強かに育ったもんだ。そういう育て方は……してないとしても、子どもは勝手に育っていくもんだよな。いいよ。最後まで話そう。お父さんがどうやって死んだのか、お母さんがどうやってそれを見届けていたのかまで包み隠さず。作文にされるっていうのはやっぱ気恥ずかしいが、ま、愛する娘のためだ。一肌脱いでやるよ。
3
煙草を吸う様になってから、ずるずるとその本数は増えていった。ハイライト、バージニア、セブンスター、メビウス、ピアニッシモ。銘柄はどうでもよかったのかもしれないな。ただ口に咥えて、煙を吸って、何をするでもなくぼんやりとしている時間がいつの間にかふと心が落ち着く時間になっていった。
ん?ははは、吸い過ぎで死んだわけじゃないぞ。ヘビースモーカー一歩手前の喫煙量だったことは否定しないけどな。だからと言って禁煙するつもりもなかった。一度何か決まり事を破ってしまったら、ずるずるとハマっていくのと同じように、人生初体験の喫煙っていうのはあっさりとお父さんのルーティーンに組み込まれたのさ。仕事の合間、仕事終わり、休憩がてら、食後の一服。何かとどうでもいいような理由がきちんと頭の中にはあって、その理由を味方につけて、お父さんは煙草と付き合い始めた。
そうして初体験から一ヵ月もすれば立派な喫煙者が出来上がり、お母さんとの二回目の出会いはそんな頃だったよ。
お父さんが働いていた時は社員寮があってな。と言っても賃貸アパートの一部を寮として貸し出しているようなものだったんだが、何気に結構いい部屋だった。きちんと一階でも洗濯物を干して余裕のあるベランダもあった。そこで独り身には面倒極まりない洗濯物を干し終えた後とかに、臭い移りなんてのも気にせず煙草をふかしていた時だったよ。
昼間だっていうのに、お母さんのいる場所だけ夜中になってしまったような色彩だった。半端な光は吸い込んでしまいそうな黒を携えて、いつの間にかベランダ近くに立っていたんだ。ちょっとしたホラー映画に出てくる幽霊みたいだった。ははは、こう言ってたってのはお母さんには内緒だぞ?泣き虫に見えて、泣き虫だけれど、意地になって搾り取ってくるからな。
そりゃ驚きはした。以前もそうだったが、いきなり気づいたらいるんだからな。危うく咥えてた煙草を落としてしまいそうになって、慌てて押さえたさ。ただ初対面だった時よりかはいくらか冷静だった。あの時はまぁ、安っぽい表現にはなるけど限界を迎えてた時だったからな。あぁそういうこともあるんだなくらいにしか受け止める容量がなかったのが、マシになったんだ。そうとくれば、多少いいコミュニケーションは取れたさ。
以前は煙草の火をありがとうございますっていうちゃんとしたお礼から、煙で泣いていたことを思い出して、手すりに擦りつけて火を消そうともした。
『それ、美味しいのかしら』
だからそう訊ねられたときには、驚いたよ。喫煙者はどんどん隅っこへと追いやられていく世間一般の流れだったからな。足に根っこが生えてしまったと言っても、その根っこを切ってでも喫煙スペースへと向かう義務があった。
『よく、吸っているようだから』
そこまで見られていたのか。ひょっとしてご近所さんとか、案外働き始めてから挨拶の機会をすっかり逃したお隣さんだったか、なんて考えながら少し思案した。
さっきも言ったけど、お父さんは別に煙草に嗜好品らしいそれを求めてたわけじゃないんだ。もちろん銘柄によって吸いやすかったり吸いにくかったり、多少味がわかるものもあった。メンソール系とかな。
けど煙草が美味いなんて感じるのは結局そこは嗜好品、人それぞれ。お父さんの場合はそうじゃなく、単にぼんやりと落ち着くための一服っていう向きが強かった。だから、勧めてみたんだ。一本吸ってみますか?ってな。
だめだ、煙草は大人になってから。お前にはまだ早い。
その時はなんだったかな。確かピアニッシモだったような気がするが、まあどっちにせよ、それがお母さんとの交流の始まりだった。慣れない手つきでタバコを咥えて、火も持ってないようだったから火をかして。あの時と立場が逆になっているのが不思議な気分でな、自然と頬が緩んでしまったのをはっきりと覚えてる。火を点けてあげても中々煙が昇らなくてな、疑問符をたくさん頭の上に浮かべてるといった風な顔をしたもんだから、火を点けた時に吸うんだと教えたよ。ん?そりゃあ噎せたさ、お母さんも。もしかしなくても、お父さんよりもこっぴどく。
『しみる……』
そう言ってたよ。
その気持ちはよくわかった。まずは吸って肺に煙を入れて確実に噎せるし、煙で涙も出てくる。その後になにが美味いんだこんなものと馬鹿らしく思うか、味がわからなくてもどこか琴線に触れるものがあったのかどうかが、個人的には煙草を吸い続けるかどうかの分水嶺だとお父さんは思ってる。
お母さんは……あれはどっちだったんだろうな。慣れるのは早かったように思うが、それでも目尻に涙を湛えてはいたから、微妙なところだ。
『舌が……痺れるわ』
『匂いも……なんだかすごい』
『涙も出てくる』
けれど、とお母さん言ったんだ。
『きっとこれは、こういうものなのでしょうね。だから、きっと貴方も好きなんでしょう』
そう言って涙をぽろりと流しながらお母さんは煙草を咥えてたよ。
いい青空だった。煙もすぐに見えなくなるほどに。そこから本格的にお父さんとお母さんの交流が始まった。そうは言っても、ほとんどはばったりと会ったところで立ち話をする程度だったんだけどな。
天気の話、昨今のニュースを騒がせている俳優の話、流行の映画の話、近所で何気なく起きた物騒な事件の話。どれもがどれも、煙草を吸っている時と同じくらいに落ち着く時間だった。他のことを考えずに一つの物事に集中できる時間っていうのが、今さらながらに貴重なんだと、社会人二年目にしてようやく若造が悟った瞬間でもあった。
大げさでも何でもないさ。実際にそういう時間はとても貴重なんだ。
仕事に集中していると思っていても、実のところノイズは入ってきている。それはトラブルだとか、雑談だとか、予定外の仕事だとかに形を変えて。だから誰にも邪魔されることなく、一つのことにじっくりと集中できるかけがえのない時間だったんだよ。
ヘンなのなんて言うなよ?お前だってそんなお父さんの娘だぞ?そのうちきっと同じ道を辿ることウケアイだぞ。主にお母さん側の。
ごほん。
そうして季節が流れていくようなスピードでお父さんとお母さんの交流は続いた。交流が続いていくと不思議なものでな、一つ一つ丁寧に社会人になって零していった感情っていうものが、拾い上げられていくことに気づいていったんだ。感情のポケットから零れていっていたこと自体すっかり忘れていたっていうのに。
例えば?簡単だよ。一つ一つがお前が普段から当たり前にできていること。人と話すことは疲れるけれど、楽しいこともあるんだなとか。他人と自分との何気ない共通点を見つけると嬉しいんだな、とか。お前にもあるだろう?好きな子が自分の好きなアニメを知っていて、それもその作品を好きでいてくれたならどう思う?嬉しいとか、やった!とか。少なくとも、悲しいとは思わないだろう。それが好きな子じゃなくて、初対面の子だったとしても、きっとそこからとんとんと話は進んでいい友達の一人になれるだろうさ。
ああ、そうだな。お前が普段からしていることで、愉しんでいることで、お父さんがいつの間にか忘れてしまっていたものだ。
お父さんはお母さんの薄く笑った顔を見るとほっとしたし、同じ好きなものがあればどこかほっとした。
たまに会って、話して、煙草を一緒に吸って。
それだけの関係かと訊かれてしまうとそれだけなんだと言うしかないけれど。でも人は、それだけのことでも相手を好きになれたんだなって思い出させてもくれた。
告白するつもりはなかったよ。
人間関係や、そもそも仕事の疲れですっかりと参っていた自分が歩いていた道のりの落とし物を拾ってくれていた、いや、落としていたものがあるっていうことに気づかせてくれただけでも、誇張でもなんでもなく幸せだったからな。
かっこつけていた、とも言える。
思い出の標本にして、忘れられない宝石箱として心の奥にしまい込んで、自分はただ相手を想っているだけでも満たされる。それ以上はない、とかな。青臭さが煮崩れたような塊だとも今なら思うが。
正確には臆病だったんだろう。
せめて、この今のぬるま湯のように心地いい関係を壊さずにだらだらと停滞していけたならと願わずにはいられないような、臆病な自尊心だったのかもしれない。授業で似たようなことを聞いた?そいつは結構。
きっとどれもが正解でどれもが不正解だったんだろう。
わかりにくい?はは、すまんすまん。大人ってのは、どうしても本題を話すのに回り道をしがちなんだ。そうしないと、自分の中身の整理すらつかないのさ。あまりにもごちゃごちゃとしていて、子どもの玩具箱の中身みたいに雑多だから。
そうだな、わかりやすい一言がある。
お母さんは泣き虫だったんだろうけど、お父さんは弱虫だったのさ。
人と人が触れ合うっていうことはどこまでも脆い硝子細工を、壊さないように一つ一つ仕上げていくのと似ていて、お父さんはそれが壊れるのが怖かったのさ。
いや、ひょっとすると怖くない人はいないんだろうな。でもそれを重ねていって、どうにか壊れないコツを掴んでいくのが大人なんだと思う。だから、ちょっと世間に出て一人で数年過ごした程度のお父さんは、まだまだ若造に片足突っ込んでいたんだろうな。それが良いことか悪いことかは一旦、脇に置いておいて。
どのくらいの距離から触れればいいのか、どの程度の力で触れれば罅割れずに済むのか。不器用、という言葉で片づけてしまうのはとても簡単だった。そしてそんな簡単にかまけて横着をしていたツケが回ってきたんだな、とも思った。
だからひどく苦労したよ。食事に誘うのも、近場で開かれた催し物に誘うのも。そのどれもでお母さんが感極まって泣いてしまうものだから、お父さんの方もその度に泣きたい気持ちになった。次第に慣れてきたことではあるものの、女の子を泣かせるなんて気分のいいものじゃないからな。それがどんな理由であれ。
嬉し泣き、だったんだとこれは思いたいなあ。お父さんの精神衛生上。
無事デートの約束を漕ぎつけても、そこからも大変だったけどな。何せ、お母さん色んな所で泣き始めるんだから。
一緒に食べるご飯が美味しくて涙を流す。一緒に買ったアクセサリーが可愛くて涙を流す。一緒に握った手のひらがあたたかくて涙を流す。一緒に眺めた星空が綺麗で涙を流す。一緒に過ごした時間が幸せで涙を流す。
そんなだからお父さんもデートの時にはハンカチを用意するのがすっかり定着した。お母さんにハンカチを貸す度に、目元をそっと拭ってあげる度に、お父さんの中でそのハンカチの重みはずしりと増えていくのがほっとした。
あたたかいものが自分の中に芽生えていくのが嬉しかった。
お母さんの心の中に、少しでも自分の居場所が出来ているような気がしてな。それが怖くもあり、楽しみでもあったんだ。
すっかりラブラブだって?いや、どうだったんだろうな。今でこそお父さんはお母さん一筋、たとえ海の中火の中水の中だってえんやこらと進んでいく気概は持ち合わせてはいるけれど。あの頃のお父さんの中にあったのは、そんな太陽みたいな光じゃなかったと思う。そう、もっと蛍の光のような、ぼんやりと暗がりの中で優しく光っては消えていくイメージの方が近いかもしれない。
ん?なんでそんなイメージかって?
お父さんな、そんな甘酸っぱい青春のリフレインのような時間の中で、死んだんだ。
死んだんだよ。前触れもなく、告知もなく、宣言もなく。重い病気になったわけでも、不幸な事故があったわけでもない。
ただ死んだんだ。
過労で。
おいおい。そんなにぽかんとするなよ。ある程度予想はついたことだろう?お母さんはそういう種族なんだから。人の死に現れる黒いモノ、すすり泣く声、不吉のシルシ、悲しみ嘆く女たち。それがバンシーだ。
デートで身体が元気になるわけじゃない。煙草で健康になんてなれるはずもない。そうでなくとも、お父さんとお母さんが初めて出会ったあの時から、お父さんが死ぬことは決まってたんだとすら思う。喪服みたいな黒い服って言ったろう?じゃあ、喪に服す相手は誰なんだろうな。
ほら、泣くな。別嬪さんが台無しだぞ?
……前触れがあったわけじゃあない。スイッチをオフにしたら電化製品だってすぐに大人しくなるだろう?それと同じさ。いつも通り役立たずのタイムカードで打刻し、ふらふらの足で帰る場所に帰り、着替えるのも億劫になってベッドに身体を放り投げていつものように目を閉じる。いつもと違ったのは、瞼を閉じる直前に、聞き覚えのある泣き声が聞こえたような気がしたことくらいさ。
4
最初に感じたのは、温かい。次に感じたのは、柔らかい。そこまで思って、目を開こうとしたんだけど、上手く動けなかったんだ。せいぜいが半開きになった世界を焦点も合わずに眺めるくらいで、身体を動かすなんてとてもとてもだった。すっかりと冷たくなってしまった身体は言うことを聞く耳なんて持ってくれやしなかった。
視界のど真ん中で、見慣れた黒い影が、悲しそうに泣いていた。それだけはぼやけた視界でも見間違えなかった。見間違えてたまるかとすら思ったよ。
何度見たんだろうな。いつものように涙を流しながら、嗚咽を上げながら、それでもキスを止めないお母さんの姿は、ひどく安心した。こんな夢なら、覚めないで欲しいとベタな感想が浮かんでは消え、浮かんでは消えを繰り返しながらお父さんはされるがままだったよ。
たどたどしくも熱を孕んだ口付けが、いったい何分続いていたのかはわからない。でもそうしてキスをされていくうちに、次第に視界も意識もはっきりとしてきた。
お母さんの頬がはっきりと紅く染まっているのが見えた。自分の部屋の天井が見えて、乗っかられているんだなっていうこともわかった。それでも騒ぎ立てるとか、お母さんを跳ねのけるだとかをしなかったのは、そこまで心が動かなかったからなんだ。
ぴくりとも人間らしい感情が湧いてこなかったんだよ。
ああ今キスされているな。どうやって部屋に入ったんだろう。鍵でも掛け忘れていたんだろうか。そんなどうでもいいことばかり泡のように浮かんできた。
一周回って生々しいほどに冷静さを保った頭は、どうしようかと考えるばかりで働いちゃくれない。戸惑いも覚えず恐怖も感じず、考える脳が死んでしまったような――いや、実際に死んでしまった脳は、生きていれば当然のように覚える激しい感情のうねりを全部屑籠に捨ててしまっていたんだな。
押し当てられていた量感の暴力のような乳房も、徐々に肢体が絡まりもつれあっていく感覚も、どれもが無味乾燥で事実の列挙にしかならなかった。ぽろぽろとお母さんの目からとめどなく溢れていく液体は止まることを知らずにお父さんの頬に音をたてて落ちていき、中途半端なぬくさを一瞬知覚させては肌を伝って消えていくだけ。
ただ熱量を帯びた塊が身体の上を這っている、身体に好き勝手している。
ひどい言い草だろう?でも本当に、そうとしか感じなかったんだよ。脳は考えることを放棄し、心は動くことを投げうっていた。それでもお母さんは辛抱強く、キスを、愛撫を止めなかった。
赤い舌で、白魚のような指で、蠱惑的な肢体で。自分の持ち合わせている全てを使って。そうされていると不思議なことに、ほんの少しだけ、身体が温かいと感じるようになったんだ。お母さんのじゃないぞ?お父さんが自分の身体をあったかいなあと思うようになったんだ。
わけがわからなかったよ。
まるで生まれたばかりかのように身体に熱が灯り始めたと思ったら、次第に生理的な反応が戻ってきたんだから。
長時間密着されていれば汗もかく。愛撫を心地いいと感じれば血流は集まる。まるで今まで忘れていたと恍けたように心臓が動き始めた証だった。それでも身体は動かないんだから、もどかしかった。
どうしてお父さんの部屋の中にいるのかはどうでもいい。どうしてこんなことをしているのかもどうでもいい。きっと大人って言うのは沢山のどうしてを呑み込んで、器用に生きていくんだから。
だから、だから。
せめて抱き締めたかった。胸の中に湧いてきた、あたたかさを消したくはなかった。笑い話の一つだろ?あたたかさなんて綺麗な言い方をしちゃいるが、結局のところそれは、お父さんがお母さんに覚えていたそれは。
彼女の力によって励起されていた、生きたいという一番原始の感情だったんだから。お母さんとの交流でお父さんが感じていたのは、単に心の中の死にたくないっていう悲鳴と、無自覚の性欲そのもので――痛っ。
どうしたどうした。痛いからあんまり強く叩くんじゃない。何をそんなにむくれて……ああわかった。わかったよ。そうだな。そんなシニカルを気取ったところで。
ごめんな、謝るから、そんな目でお父さんを見ないでくれ。お父さんはお母さんもお前も、大好きだよ。
本当の、本当にそう思ってる。
お母さんと出会わなければ、こんなに穏やかになれることはきっとなかったし、お前と出会うこともなかったんだから。
うん、そんな大好きなお母さんの熱心な介抱、いや、解放の甲斐あって、お父さんは熱を次第に取り戻していった。
腕なんかは動かせないままだから、されるがままに変わりはなかったんだけどな。それでも舌はなんとか動かせて、喋れるなんて大層なものじゃないが、呻くぐらいはできるようになった。端から見ればゾンビみたいな有様だったと思うよ。
けれど、お母さんはそれを見て心底嬉しそうに、泣いていた。
我慢できなさそうに内股を擦り合わせて、きらきらと光る露を垂らしながら、はしたなくスカートをたくし上げた姿は本当に綺麗で、エロかった。プレゼントを待ちきれない子どもみたいな手つきでお父さんの息子を取り出して、まあ目を疑ったよ。一番生存本能が現れるのはやっぱりそこなのかとマヌケな感想すら過って、消えたよ。
柘榴みたいに熟れ切った泥濘に迎えられて、余裕があるはずもなかったからな。信じられないくらい熱く、熱という熱を集めきった女の肉のうねりが奥へ奥へと導いて、とん、と先にぶつかる感覚があった。
総身が何度も弓なりに反って、跳ねて。壊れたレコードのように同じ言葉しか吐かなくなったお母さんの目は完全に蕩け切っていた。泣きながら舌を突き出して、泣きながら腰を振って。
あっという間にお互いに限界を迎えて階段を駆け上ったら、急にぐったりと疲れたって思ってな。肩で息をしながら生々しい熱に包まれて、目を瞑ってた。
目を覚ました頃にはすっかりと日は登ってしまっていて、鈍った頭の中で今日が休みかどうかを確認してから、ベッドの傍らに目をやった。お母さんの姿はそこにはなくってな、幻だったのかとも思ったんだが、なんてことはない。ベランダに通じるガラス戸を開けて、部屋の換気をしようとしてくれていたところだった。
情事の後片付けもせずに取っ散らかった部屋は凄惨な有様で、シーツの染みや臭いが一気に逃げ場を求めて抜けていった。そんな確固たる証拠の数々もあったものだから、昨日のことが夢じゃないのは明白で、なんて声をかけたものかと悩んでたんだ。
ありがとうでもない、すみませんでもない。言葉に詰まった。もの悲しいような、不思議な息苦しさを感じた。頭の芯がずんと重くなったような、自分の住処なのに居心地の悪さを感じる感覚だった。
本当に明言化できない気持ちだったんだ。
でも何かしなくちゃいけない。そんな焦燥に捉われて、床に打っちゃられた下着を履きなおしてお母さんの傍へと行ったんだ。
息を呑んだ。
あまりにも爽やかな風が季節感すら置き去りにして頬を撫でてくれて、汗とか迷っていた気持ちとかを吹き抜けにしてしまうような清風で、溜め息を吐いたんだ。
噎せ返るような晴天だったけど、お互いに日陰が似合うと理由も根拠もなく思った。言葉もなく後ろからお母さんの肩を掴んでさ、情けないほど手は緊張で震えてた。ぎりぎり抑え込んでいた感情の行き場がいよいよ限界を迎えたんだろう。肩を掴まれたお母さんも共振するように小さく震えて、胸を衝かれたんだ。
何をしていたんだよ、だから愚図なんだよ。そんな自分自身を責める声が脳内で喧しく乱反射したけど、甘んじて受け入れてから、ようやく見つけた言葉をお母さんに言ったんだ。
これを言うべきだって確証はなかった。でも言ってからはたがいに決壊したようにガラス戸を締めるのも忘れてベッドに縺れ込んだ。支え合い重なり合う肉のぬくもりが愛しかった。甘く泣き咽ぶ声が耳朶を愛撫するたびにお母さんの手のひらに自分の手のひらを重ねた。
折れてしまいそうなほどに一部は華奢だというのに、括れて男を誘惑する稜線は艶めかしく描かれて、手を伸ばすのに躊躇いもなかった。
ふらり彷徨っていた魂が行き場を見つけたように、自然と臀部へぴったり張り付いた手が感触を愉しむようにぐっと指を沈めて、桃色の声が部屋に響いた。もうすっかりと歯止めは利かなくなっていたし、今さら利口なブレーキなんて持ち合わせてもなかった。
濡れそぼった肉の隘路は舌を伸ばせばそれだけで細かく蠕動して侵入した舌すら性器のようにもてなし、動かすことも一苦労だった。それでも半ば意地で顔を細かく左右に揺すってやったら腰が面白いように跳ねるもんだから、肉付きのいい尻をしっかりと掴んでその動きを堪能した。
もっともやられてばかりのお母さんじゃなかった。すっかり張り詰めてともすれば破裂してしまいそうな肉棒に躊躇なく舌を伸ばし、陰嚢と陰茎の境目にぬろりと這った軟体動物はそのまま陰嚢を口に含んだ。優しく、けれど快感を与える役目の舌は激しく。ぬるま湯の中でぐずぐずに溶かされていくような得も言われぬ喜悦に声が零れて、その度に舌は嬉しそうにそよめいた。
今まで経験したことがないほどにいきり立った象徴が、我慢できずに汁を洩らしていれば美味しそうに舐めとられ、こそばゆさと気持ちよさの分水嶺を絶妙に行き来する舌の往来が、子種を射出寸前にまでせぐり上がらせていったところで、反撃は終わった。
というより、もうお互いに頭の中は一つになりたいって欲求で満たされていたんだろうな。容量から溢れてもなお求める電気信号は止まらずに、心を突き放して身体が動いていた。最初の頃よりも鮮明に、感動すら覚える快感が腰から背筋に向かってひた走り、視界には顔だけが映っていた。
綺麗だったよ。
泣きながら、それでも頬を赤く染めて、嬉しそうに、唇を歪ませて。
心臓がとくんと脈打って、ようやく今になって自分は生を得たとすら感じた。
冗談じゃないぞ?本当に、その時はそう思ったんだ。この顔を見るまで自分は死んでいたんだってな。骨身惜しまず交わっていった中で。
細かい襞々は隙間なく肉の隘路を形成して、まるで吸われているような吸着感すらあったのに、奥へにこつんとぶつかると途端に柔くほぐれた洞が先端を包み込んできてな。そのあまりにはっきりとした肉路小路の分かれ目の差に呆気なく昇りつめてしまいそうだった。三擦り半でさすがに終わりたくないという悲鳴が心の中の崖っぷちの手を掴んでくれたお陰で、なんとかその悲劇は免れた。
独特の粘度を孕んだ中身をこっちも味わうように腰を動かしながら、けれど動かす度に襲い掛かってくる無数の舌で舐られるに等しい電流がどちらを選べど天国だと言ってくる。それでもなお、腰は動いた。そうしないと繋ぎ留められないような気がして、証を膣内に残していくように必死な性交が何時間続いたのかは覚えてない。
いくら白濁液を流し込もうが、結合部からいよいよ泡立った愛液精液がシーツに地図を作ろうが、萎える気配がないし燃え盛った火が消える気配はない。そうして、数えるのも面倒と感じる何回目かの射精を経て、お母さんもお父さんもこと切れたようにぴたりと止まったんだ。比喩じゃないぞ。
疲れ知らずだと思っていた、終わる果てがないと信じていたセックスは唐突にゴールテープを目の前に用意して、感動もなくそれをちょん切った。
最後はお母さんの上に覆いかぶさったまま精根尽き果てたせいで、重いだろうなとは慮ってもどうにもこうにもできず、申し訳なさで唇を重ねた。柔らかくて、シている最中にもう幾度だってしたキスはこれがファーストキスみたいに蕩けて、砂糖みたいな味がしたよ。
5
それからはお前も知っての通りだよ。お母さんとお父さんは思いの丈をぶつけ合って無事結ばれ、こうして可愛い愛娘も産まれた。めでたしめでたし、だ。
ん?肝心な部分が語られてないって?おいおい、全部言えって言うから濡れ場までしっかりと言ったのに辛辣な評価だな。娘に夫婦の初体験を語るのなんて、正直恥ずかしさで殺してほしくなるくらいの拷問なんだぞ?
ああでもそうか。確かにそうだ。どうやってお父さんがお母さんへ素敵な言葉を贈ったのかは、まだ言ってなかったな。でもそれこそ、簡単な話なんだよ。
ありがとうでもない、ごめんなさいでもないなら。後はもう自分勝手な感情の羅列が吐き出されるだけなんだから。
好きだって伝えただけだよ。そう、お前となんら変わらない。青臭くて、身勝手で、擦り切れて摩耗していた心の最後の叫びみたいに、言ったんだ。
距離感の測り方も、人との正しいコミュニケーションの論法もすっかり消えてしまった野郎の、精一杯だっただけなんだ。なんだ、どうしてそんな嬉しそうな顔をするんだ。ああくそ、娘に見透かされた心地にさせられるのは癪だな。ほら、本当にこれで全部だよ。行った行った。お父さんもそろそろ一服したいんだ。
まったく。誰に似たんだか。とんだお転婆娘に育ったもんだ。
『ちょっぴりの意地の悪さは、アナタ譲りでしょう』
そうでもない、はずだ。
『でも隠し事がまだあるわ』
聞かれなかったから、言わなかった。いや、全部教えてほしいみたいなことは言ってたっけ。でも、これくらいは許して欲しい。プロポーズや告白には返事がつきものっていう大前提を見落としたのは、あの子なんだから。
『バカね。擦り切れそうで、自分の中で格好つけるのが精一杯で、甘えることもできなくなった等身大の大人』
刺さったよなあ。その返事。回りくどく娘に気づかれないように話したことがまるまる入ってるんだから。でもその返事にもちゃんと返事は返した気がするけれど、なんと言ったっけ。
ああそうだ思い出した。
『私は覚えていたのに。ひどいわね』
かっこつけたいんだよ。
『でしょうね、だって』
バカは死んでも治らないんだから。
さて、一服しようか。吸うだろ?一緒に。
なんせ今日は爽やかな風が吹いているんだから。
20/11/23 03:06更新 / 綴