Glacage
1
高校の屋上というのは大抵、背の高い落下防止用のフェンスで囲まれていて、ましてや屋上に通ずるドアなんてのは厳重に施錠されていて、無理にでもぶち抜かない限り踏破できるはずもない。だから僕らの集まる場所は自然と体育館裏だった。
放課後、僕は体育館裏へと大よそ特別な事情がない限りは体育館裏にそこそこの頻度で足しげく通っている。怪しげな、秘め事めいたことがあるわけではない。ただ、雑談をするために、そこへ行く――のだが。
彼は体育館裏ではなく横にいた。体育館横。当然数歩歩けば裏である場所で、呆れた表情で僕を待っていた。彼、悪友の森宥太はただジェスチャーで裏の方を差してみせた。いったい何があったのかと、おそるおそる様子を確かめると合点がいった。男女が絶賛互いの愛を確かめ合っている真っ最中だった。極めて遠まわしの表現をしたのは恥ずかしいからではなく、単に名も知らぬ二人の名誉を守るための僕に残された最後の良心だ。
「よくも飽きねえよな。ああもずっこんばっこんセックスしてよ」
「実に身も蓋もないことを言ってのけるね、宥太」
じゃあ聞くがよ、と彼は続ける。
「お前は魔物娘が来てから随分と学校内でも風紀が乱れてると思わねえか?」
「その意見には諸手を挙げて賛成の意だけどさ、君が言えた台詞じゃないよね」
この森宥太、彼女持ちだ。しかも魔物娘とくれば、風紀なんて口にしているその口がどれだけ風紀を乱したのかわかったものじゃない。ジト目で軽蔑をくれてやると、気に食わなかったのか頭を小突かれた。結構痛い。
体育館裏でひっそりと行われていたはずの情事は(もう既に僕の良心は消えていた)いつの間にかヒートアップしていたらしく、ここまでしっかりと喘ぎ声が聞こえて来る。
「あのな、何か言いたげだが、俺はきちんと節度も場所も守ってるんだぜ?あいつとヤる時にはきちんとラブホか自宅だし、せいぜい日が暮れる前にはお互いに済ませて家に帰ってる」
「宥太、君としは幾つ?」
「十八」
「ラブホに行くんじゃない。しょっぴかれるのは向こうの従業員さんだ」
はっ、と鼻で笑われ、何やら意味ありげな視線を送られたので今度は僕が何かを言う番だった。とはいえ、僕の場合何を言えばいいのかちっともわからなかったので適当に最近発売されたゲームの話でもしようとしたら、そうじゃないとまた頭を小突かれた。
頭は叩かれるたびに脳細胞が死滅しているという話を聞いたけど、その真偽は定かじゃない。ひょっとするとこの悪友は僕の頭でその真偽を確かめようとしてるんじゃないかと、時々疑いたくなる。
「お前だって彼女持ちだろう?今となっちゃそうじゃない奴が珍しいくらいになりかけてるが、それだってあそこまでの美人だなんて、羨ましいぜ。クラスのマドンナじゃねえか。ナウなヤングの股間を鷲掴みしそうな感じの」
「宥太」
「なんだよ」
「君って言語感覚古いよね」
盛大に殴られた頭の痛みを堪えつつ、僕はひっそりと胸中で冗談じゃないと呟いた。あいつは、伊万里万理は彼女じゃない。そしてそんな生易しいものでもない。あれは、あいつは悪意の塊だ。本人はそれが常識と考えているから余計に性質が悪い。この僕が、自分から進んで犠牲になったくらいだ。忘れもしない、あいつが転校してきたときのことを。あの衝撃と僕の覚悟を。いや、大見得をきって覚悟なんて言ったけれど、あれはだいたい諦めに近いかもしれない。
「宝の持ち腐れってやつか?もったいねえな」
「そんなんじゃないよ」
僕はシニカルな笑みを浮かべて見せた。
「互いに束縛してるだけだ」
「……お前らさ、やっぱりなんだかんだ仲良いんじゃねえか。あとは、やっぱりお前らガキだわ」
心外だねと呟いて、僕はその場を後にした。いつの間にか喘ぎ声は止んでいて、その代わりに教師の怒声が聞こえた。どうやら見つかったらしい。おそらくこってりとしぼられるであろう名無しの二人の冥福を祈りつつ、帰路につこうとしたところでばったりと出くわした。
伊万里万理に。
「あら、やっと見つけた」
「本当に、君は嫌なヤツだよ」
「失礼しちゃうわね。右京君?」
右京君。附田右京君と、彼女が笑みを作るたびに、僕の中では何かが進んでいく。停滞が好きな僕にとって、伊万里は天敵だった。
誰にだって、停滞したものは必要なんだ。記憶のフィルムに焼き付いた光景が、あの頃の匂いが、耳に残った喧騒が。停滞しているものがあるから人は生きていけるというのに、こいつはそれを動かそうとしている。
ただしこれは建前だ。
本当に僕が伊万里を嫌いな理由はもっと別のところにある。嫌いだけど好きになった理由も別にある。
「どこかの右京と同じように、女性関係では苦労するみたいね」
「ああそれはきっと相棒がいないせいだよ」
残念ながら、宥太は相棒候補になるには少し思慮が浅いというか……有り体に言って馬鹿だ。本人がいたら殴られること間違いなしのことも、思うだけなら自由なことに感謝しつつ、伊万里の次の発言をうかがった。
こいつの言葉には、毒がある。悪魔が発する、毒がある。
「なら、私が相棒になるべきじゃないかしら」
「君がいたい場所は相棒じゃなくてもっと上だろう」
もっと上、相棒だとかそんなものを超越した場所に、伊万里は行きたがっている。行きたがって粋がって。僕が出来る事は、そんな彼女に乗せられないように一定のラインを保つことくらいだった。それくらいしか、精々僕には出来ないと自分でもわかっているところは自画自賛したくはある。
「そうね」
「前にも聞いたような気がするけどさ、なんで僕なんだい?それこそ、魔物娘蔓延る学園になったって、何もまだ根を張られているほどじゃない。まだ恋人募集中の学生の中にも、僕よりずっと容姿がいい人はいるだろう。なんだって、僕なんだ」
もう何度繰り返したかわからない問答に、伊万里はやはりお決まりの答え合わせを口にする。
「決まってるじゃない。好みだからよ」
何か言い返してやりたいとは思っても、こいつに言い返すとその言葉は一なら百の返しをされる。なら反撃なんてしないほうが良策に決まっている。
僕は苦笑いだけを答えとして、そそくさと歩き出した。当然ながら伊万里もついてくる。ついてくるなという言葉に対しては、もう結論が出てしまっているので無駄な抵抗はしない。その労力を静かに読書にでも回した方がいくぶん有意義なものだろう。
その様子に呆れたように肩を竦めて見せる伊万里の仕草は、あてつけがましいと感じるほどに瀟洒なものだった。
2
「転校?」
「転界だよ」
変わらないものが好きだった。田舎の風景、公園のブランコ、空、その他にも多数の変わらないもの、額縁におさめられた絵画のように永遠のものが。だから僕は将来静かに余生を過ごせればそれでいいと、高校入学して早くも思い始めていた。小学校、中学校と友人関係でロクなことがなかった僕がそんな考えに至ったのは、ごくごく自然な流れだと思う。
だから、友人の聞きなれない言葉の響きに思わず首を傾げてしまった。
「おいおい、右京なのに知らないのか?」
「生憎と僕はあの警部のように博覧強記じゃないからね」
ほれ、とスマホの画面を差し出す宥太の表情がやけにニヤついていたのが気になったが、素直に差し出された画面を見る。
そこには綺麗な女性たちの姿があった。それだけなら、まあ昼間でも性欲盛んな青春真っただ中の学生がよく見るページと思うだけだったけど、それは女性たちの姿が真っ当な人間だった場合だ。
有翼、単眼、触手、鉤爪、毛、異形の下半身。それらを見てやっと転界という聞きなれない言葉に合点がいった。
「噂になってる、異世界の?」
「オーソドックスに魔界って言うらしいぜ。まさに剣と魔法とエロの世界からやって来るってのに、男として興味がないわけないだろ?まあ実際にはそこそこに交流してるらしいけど、まだ珍しいよな」
鼻息荒く言う宥太の頭の中では、早速花畑のような日々が夢想されていることなのだろう。つまるところ異世界の、文化も秩序も全く違う彼女たちがやってくる。しかも美人揃いとくれば、まあ宥太の顔がさっそく破顔しているのにも頷けた。
「どうよ、お前はこんな子が来ればいいなって希望はあんの?」
「特にないかな」
怪訝そうな顔をされるのは心外だった。さっきまでの表情はどこへ消えたのか教えてほしいくらいだ。
「うっそだろお前。興味ねえの?」
「興味はあるよ。でも、それで騒がしいのはちょっとね。静かなのが好きだし」
「けど俺とは話すじゃねえか」
「君の場合は話しが別だろ。宥太くらいだよ、入学式終わって早々、僕に話しかけてきたやつなんて」
「持つべきものは心の友だろ?」
「ところで森君、転校生……いや、転界生っていつ来るの?」
「おう他人行儀になるなよ泣くぞ?……確か今日明日くらいだったかな?魔界からの門みたいなのが開くんだと」
「ファンタジーだね」
「ファンタジーだな」
僕らは口を揃えて言った。けど、実際に起きているならそれを認めるしかない。騒ぎ立てたところで、僕ら人間ができることなんてたかが知れている。
「だからさっきからいつもより教室が騒がしいんだね」
「そうだな。特に男子はそうだろ。真面目な委員長だってどこか落ち着かねえみたいだしな。いつも通りなのはお前くらいじゃないか?」
「僕も少し焦った方がいいかな?」
「やめろ気持ち悪い」
話もそこそこに、教室の空気はひとまず教師が入ってきたことによっていったん落ち着きを取り戻した。そしてお決まりのように話されるのは、やっぱり異世界からやってくる彼女たちのこと。異文化ということをきちんと理解するようにだとか、姿を見ても決して軽蔑しないようにだとか、とても綺麗なことを言っていた。
そんなの無理だと、たぶん口にしている教師ですらうっすら思っているのに。嘘を吐かなきゃならない仕事は大変だなあと、他人事のように思った。実際他人事だ。
慣れないものが自分たちの領域に入ってきたときに、人がとる行動は大まかに二つだと、僕個人は思っている。無視するか、攻撃するか。その二択。
僕は、明らかに前者だろう。互いに干渉しなければ、それはとても平穏だ。どだい悲しみと虚しさの上に成り立っている平穏だとしても、波風を立てるよりもずっと有益なのは目に見えている。
と、急に教室が騒がしくなった。
「どうしたの?」
「今日来てるから、これから紹介だってよ。うちのクラスにはなんと十人!大盤振る舞いだぜ?聞いてなかったのか」
「ちょっと考え事してて」
「可愛げねえなあ」
「男に可愛げがあっても困るだろ?」
「そりゃそうだ」
云々かんぬんと宣ったところで、僕自身異世界からやってくる彼女たちには興味がないわけではなかった。自分の世界を壊されない範囲であれば、違う世界を覗き見ることは楽しい。向こうではどんな食事なのか、魔法がこっちでも使えるのかとか。剣と魔法が空想の世界にとって、剣と魔法が現実の世界は宝箱みたいなものだ。
教師が促すと、廊下から一人、また一人と彼女たちは教室に入ってきた。その度に教室の温度は確実に上がり、最後の一人まで紹介が終わるころには教師の静止の声などかき消されてしまっていた。
だからこそ、僕にとっては都合が良かった。
クラスメートたちはあっさりと非現実を受け入れていたし、ムードとしてはこの上ない歓迎の色だった。だから、僕の顔が青ざめていたことには誰も気づかなかった。宥太でさえ、目を輝かせて彼女たちの谷間に視線を注いでいたのだから。
僕はそれどころではなかった。今すぐにでもこの場から逃げ出したい気持ちにさえなっていた。うっすらとこれからの僕の日々は瓦解していく予感さえした。
なぜ。
最後に教室に入った、伊万里万理は笑っていた。その笑みは愛想や気品が感じられるものとして教室の皆には映っているのだろうか。だとしたら、随分と都合のいいフィルターをかけられている。僕にも一つレンタルしてほしい。
僕が見た彼女の笑みは、捕食者のそれだった。
のほほんとした平穏?季節の流れるような速度で過ぎていく人生?停滞の中に見つける安寧?くだらない。
そう告げられた気分になる、笑みだった。
伊万里万理。
彼女は呆れるほど僕とは対極で、退廃していて。そして僕らはおそらく互いに互いへ同じ感情を抱いていた。同じ、とするのは多分これは僕の間違いだ。
後で宥太から教えてもらったことだけど、彼女たちは種族云々の共通した決まりとして、人間の男性に対してはよほどの事がない限り嫌悪はしないそうだ。そして、目をつけられたが最後、どれだけ抵抗しようとも伴侶になる。それも、互いに十分に認めた合意の。愛し合い、惚れ合った仲になるそうだ。
だから僕の思い違い、という形になるけれど、それでも一瞬僕は思うことがある。
僕と伊万里が互いに抱いているのは、恋慕でも愛情でもなく、依存なんて爛れた臭いのするようなものでもない。運命なんて洒落っ気のあるものでも喜劇的なものでもない。
もっと根深いところにある、同属意識だと、思う時がある。
互いに表面で纏うものは滑稽なほど逆で、反発しているけれど。根底にあるものはきっと、似ているのだと、僕はこれから知る。
3
静かで停滞したものだったりが好きな僕が図書室を半ば住処にしかけていたり、部員一名(この一名は言わずもがな僕だ)の文芸部として活動しているのは、大よその推測がつくだろう。部活は形だけのもので、日がな本を読んで過ごすのが活動になりつつあるのは、個人的には至高とも思える。
などと、現を抜かしてられないような状況になるとは想像もしていなかった。
「隣いいかしら?」
「あ、うん。……うん?」
あまりに自然に話しかけられたので、僕は素の対応をしてしまい、彼女が隣に座ったところでやっと今起きた事態を把握した。
瞬間、辺りに漂うのは退廃と背徳の香りで、それは寒気すら感じるほど停滞とは縁遠いものだった。なんというか、彼女たち全てがそうではないと思うけれど――それとも彼女だけが特別なのか――僕の隣に座った彼女、伊万里万理が纏う気配は違うのだ。
もっと言うなら、存在の質が違う。
自分の生き写しに出会った気分にされるし、その逆の気分にもされる。ほぼほぼ初対面だし、何ならさっきした会話が初めての接触なのにここまで複雑な気分を他者に対して抱くのは初めてだった。
「初めまして、伊万里万理って言うの。確か同じクラスだったから挨拶くらいしておこうと思って」
「それはご丁寧にどうも。僕は――」
「右京君、でしょ?附田右京君」
「よく知ってるね」
彼女の赤い瞳が、ちらりとこちらに向いた。
本当に真っ赤で、血みたいな色だった。
「だって、あなた私のこと見てたじゃない。女子ってそういうの意外と敏いのよ?」
その目が、少しだけ燐とした光を帯びた気がして、僕は思わず視線を逸らして口だけで答えた。
「気を悪くしたのなら謝るよ。ごめん」
「ああ、そういうことじゃないんだけど、ちょっと気になっちゃって。なんでかなあって」
「話では聞いたことはあったんだけど、やっぱり別の世界から来たっていう人たちを見るのは初めてでさ。つい」
咄嗟に口から出た嘘だった。どうしてこんな嘘を吐いたのかは、自分でもわからなかった。ただ、根っこの部分が警戒色に変貌して、なぜか彼女に対して気を許さないようにしていることは、なんとなくわかった。
ただ、全部が全部真っ赤な嘘じゃないだけ、この嘘の信憑性は高いだろう。全てが虚構で作られるよりかは、幾つか本当のことが混ざった方がリアリティーは出る。創作だって、お偉方の発言だってそうだ。
そしてその嘘は、一瞬にして見破られた。別に彼女はそれを口に出したわけじゃない。ただ、目を細めただけだ。その仕草だけで、僕は嘘が見破られたと思い知った。
「右京君って、私たちのことを理解してる?」
神経をそっと愛撫するような、心地よい声だった。心地良すぎて、冷や汗が流れるくらいに。
僕は宥太に見せられたスマホの画面の端に小さくあった注意書きを思い出す。そこには性に関することばかりが書かれていた。しかし、それが自分の身に降りかかると誰が予想できた。
きっと普通の男子なら、このまま彼女に押し倒されるか、押し倒すかの二択なのだろう。空気はやけに甘ったるく、それが鼻腔をくすぐって正常な思考を犯す。
宥太なら、羨ましいと嫉妬で血の涙を流すだろうか?汗ばむ肌を隠すような恥じらいを捨てた、原始の行為に憧れる男子は怒りに震えるだろうか?
それでも僕は彼女が恐ろしかった。彼女に関わったら根本から、アイデンティティーを覆される。そんな理由もない確信が頭の隅に確かな輪郭を持って産声をあげていた。
「わからないよ」
「なら、教えてあげましょうか?」
視線は自然と彼女の豊かな肢体へと運ばれ、それらを思う存分貪る自分の姿を想起した。理性で無理やりそれを押し込めると、僕は努めて平静な口調で提案を断った。彼女はまだまだ余裕の表情を浮かべていて、明らかにこちらを弄んでいる様子が見て取れる。
遊んでいるのか、本気なのか。怖いのは両方だった場合だけれど、確認のしようがない。
「意外と意固地なのね」
「ありがとう。僕は君が嫌いだよ」
なんでこんなことを言ったのかは、わからなかった。僕自身嫌いなことはあるし、それにぶつかった時には苦虫を噛み潰したような顔にだってなる。けれどいつだってさらに事態の悪化をまねくのはその感情を口に出すからだ。口は災いの門というのは実に正鵠を射た言葉だと、関心している僕が。
ところが彼女はちょっと驚いたような顔を浮かべたと思ったら、また笑みを浮かべた。より深い笑みを。それは怒りを隠すようなものではなく、もっと別種の、もっと悦びに満ちたものだった。
「私の種族知ってる?」
「……説明はほとんど耳に入ってなかった」
「デーモンよ」
「……デーモン」
なるほど、と頷きたくなった。ようするに、悪魔だ。それなら彼女は確かに悪魔だろう。
「たいてい、抵抗するにしたって来るなとか、寄るなとかが一般的なんだけど、嫌いなんてはっきり口にするのは初めて聞いたわ」
すると僕は彼女の初めてを奪ってしまったことになる。不思議と罪悪感は湧かなかった。湧いてたまるものかと逆に強い決心を固めるくらいだ。
本日何度目からわからない、この「わからない」確信が僕の中にはまだあった。彼女が次になんと言うのかが、わかるのだ。おそらく、それはもし夢だとしたら嫌がらせに見せた夢魔に回し蹴りを喰らわせるくらいに性質の悪い予感。できれば口にするな、言葉にするなと止めたいけれど、予感であり確信でもあるものを止めることはできなかった。どうしようもなく不安になる。でも、不安さえ漠然としていては、できることはなかった。
幻想に眩んでいるならまだ救いはある。ただこれは悲しいかな、現実だった。
「あなた、気に入っちゃった」
図書室に鏡が無いことに僕は生まれて初めて感謝した。今自分の表情を見たら、きっとぐずぐずに溶けてしまっただろう。この時点で僕の運命は決まってしまった。あるいはもっと前から。レールを敷いた奴は今頃ほくそ笑んでいるかもしれない。
彼女の翼と尻尾が生物的に動き、今さらながらに彼女が人外なのだと知覚する。息をのむほど美しく、けれどそれ以上に邪悪な人外だと。
その人外に目をつけられてしまった僕を幸福だとは、少なくともこの時は思えなかった。
彼女は笑っているのだ。にっこりと、ぞっとするほどろう長けた笑いで。すべてがふわふわしていて、夢のようだった。
「そう。それでも、僕は好きになれそうにはないかな。水と油が混ざり合わないのと同じだよ。僕と君じゃ、何から何まで決定的に違うんだ」
「あら、いいじゃない。叶わない恋だろうと敵わない故意だろうと私は受けて立つわ」
それに知ってる?と彼女は付け加えた。
「油と水って、高速回転させると混ざるのよ」
複雑怪奇に絡み合っていっさいがっさいどうしようもない関係が築かれた、瞬間だった。そしてなんとも恐ろしいことに、これは伊万里が転界してきた当日のことだ。
4
僕の中での悪魔というものは、人の都合などお構いなく産毛が生えたばかりのような心臓であろうと鷲掴みにするようなイメージがあった。しかし伊万里は予想以上に一歩一歩を確かめる――さながら霧中行軍のような――歩みで僕との距離を詰めてきた。通学路にいて、一緒についてきたり、昼休みのご飯を一緒に食べたり。
不思議とそれらに対しての嫌悪感自体はなかった。たとえ伊万里が怪しくて異なる存在であろうと。
嫌悪もないなら拒否もない。当然だ。ただ、嫌いとかそんなものよりもずっと高次の感情が僕の中では静かに息を潜めているのが、なんとなくわかった。その正体がわからない。
そして、そんなことよりも恐ろしいのは年月がある程度過ぎ去ってしまっているということだった。伊万里と出遭ったのは、高校入学間もなくの頃だ。
だが今気づけば、早くも大学受験という単語が後ろから迫って来る足音が聞こえる時期だ。そこまで時間をかけておきながら、僕らの距離は端から見れば存在が都市伝説級の、男女間の友情を育んでいるような関係に終始していた。言い換えるなら、僕と伊万里の関係が進んだのはある程度までで、そこからは停滞していたのだ。
僕の好きな、停滞に。
「右京君って意外と抵抗しないのね」
教室の隅で僕らはテーブルをくっつけてお互いに弁当を貪っている。そんな中、綺麗に切られたタコさんウインナーをフォークで弄びながら伊万里は言った。
お昼時とはいえ、伊万里が醸し出す色気と妖気、そしてタコさんウインナーを弄ぶ手つきが秘め事の符号にも思えてしまい、僕は一瞬沈黙した。台詞がちょっとばかり意味深に聞こえてしまったのもあるだろう。
「なんだって?」
「ほら、嫌いなわりには一緒に行動してても平気そうじゃない」
「ああ、それは表情とかに出してないからじゃないかな。よくも悪くも、僕らはもう高校生なわけだし。小学校の頃なら、そりゃ走って逃げたりそっぽを向いたりもしただろうけどさ。さすがにそこまで子どもじみた真似をするほど、もう子どもの時期は過ぎたって言うか」
それに、と付け加える。
「被害を拡大させるよりマシだろう?」
「被害?」
首を傾げて、伊万里はきょとんとした。自分の美貌と醸し出される妖気に対する、自覚というものが欠落しているのだろうか。
そこまで考えて、僕は自分が失言していたことに気づいた。
「いや、なんでもないよ。僕が間違ってた」
「あらそう?ならいいんだけど」
ここでいう被害は、周囲への被害という意味合いだったのだけれど、それは最早杞憂だろう。伊万里が僕しか狙っていないのだとすると、それはもうその通りの意味だ。宥太に言われていた彼女たちの共通項をうっかり忘れていた。伊万里含めた魔物娘は、例外なく好きになった対象を変えることはない。
ある意味、一途とも言える。
重い愛とも。
それは停滞を好む僕にとっては、殺しにくるには必要十分な武器だ。
「けど、それを意外と言うなら僕は逆に伊万里の方が意外だよ」
「ん。んん?どうして」
初期なら絶対にここまで話を発展させようとはしなかっただろう。ただ人間は慣れる生き物だ。僕もその例に漏れず、伊万里にはある程度慣れてしまっていた。耐性がしっかりついたと考えることもできる。
「いや、僕は停滞が好きだけど、まるで動かないわけじゃないからさ。色々と調べたんだよ。デーモンのことを」
「へえ」
「そうしたら、契約を迫って来る云々と、あとは積極的に堕落させにくるみたいなことが書いてあったんだけど、伊万里は全然そんな素振りを見せないし。しいて言えば最初だけ。あとはなんだか平行線を歩いてるみたいでさ」
「そろそろ迫られないと寂しいってこと?」
「違うそうじゃない。意外だなって思っただけだよ。種族として一括りにするんじゃなくて、個人個人の性格もあるんだろうけど、それにしたってと思って」
これは純粋な疑問だった。戦いはまず相手を知るところからだという。それは自衛においても当然のことで、僕は最初に伊万里に迫られた後、彼女の種族のことを調べつくした。ネットで情報を漁ったり、専門の本を読み耽ったり、他の子に実際にあった話というものを(他人の口から聞いている時点で実際にあったなんてちゃんちゃらおかしいが)聞いてみたり。兎に角行動を起こしたわけだ。僕らしくない行動を。
そうすると余計に伊万里のことがわからなくなった。自分で改めて確認すると気恥ずかしいが、伊万里は僕のことが好きである。
ならば行動を起こすべきなのだ。もっと積極的に、台風のように、跡を残すべきなのだ。
しかしそれは彼女にとっては矛盾しないらしく、意味ありげな笑みをうっすらと浮かべ
「じゃあ無理矢理迫った方がいい?」
「いや、それは嫌だけど」
「でしょう。だったら私はしないだけよ。それだけ」
「……それだけ?」
ただ首肯し、タコさんウインナーを一口で頬ぼった伊万里からは、これ以上話すよりは弁当を食べる方が忙しいと言っているように見えて、僕も大人しく弁当を貪った。僕には伊万里のことがちっともわからない。できることなんて、頭の上で疑問符を阿波踊りさせるくらいがせいぜいだ。
けれどそれでも、その時点で既に僕の中にしっかりと存在していたのは紛れもない事実だった。伊万里万理が僕の心の中でしっかりと息づいていたのは、隠しようもない。
考えればそれはとても怖いことではる。
停滞が好きだとのたまっている僕が、既に自分で意識せずに行動しているし、伊万里のことを考えているのは、劇的変化ではある。けれど気づけないからこその無意識であって、まだこの時の僕はその正体を知る術は持てども、持っていることに気づきはしていなかった。
「ちょっと興味本位に聞きたいけれど、右京君」
視線を弁当から伊万里に戻すと、既に伊万里の弁当の中身は空になっていた。持ち前の美貌によらず、なかなかどうして食べるのが早い。
「何?昼間でも差し支えない話題なら受けるよ」
特につっぱねる理由もなかったので、先を促した。が、彼女は一向に口を開こうとせずに、教室の隅っこに視線を注ぎ始めた。まさかとは思うけど、昼間だと差し支えある話題を振ってこようとしたのだろうか。まさか教室の隅に見えてはいけないものが見えたなんてことはあるまい。いったい白昼堂々、この人外は何を口走ろうとしたのか。若干の好奇心をくすぐられなくもなかったけど、大体の想像がついてしまったので僕も大人しく何もなかったように振舞った。ここで卑俗な妄想たくましく、大よそ察しがついてしまうあたりが自分でも悲しくなってきた。
少なくとも、僕だって男子だ。
彼女の口から猥談や淫語が飛び出してくると考えると、昼間から精神的疲労を強いることになる。それが肉体的疲労と結びつかないあたりに、ありがたいと思うかどっこいどっこいと思うかで個人差はありそうだけれども。
結局伊万里は以後黙ったまま昼休みは終わり、午後の授業が始まった。
伊万里が授業中に話しかけてくることはなく(最初の頃は授業中にすら迫ってくるんじゃないかと戦々恐々だった)緩やかに時間は進み、気づけば夕焼けが教室に差し込む程度には経っていた。
帰りの準備をしている最中、ふと伊万里の姿が教室から消えていることに気づいた。珍しい事もある。心底そう思った。彼女に目をつけられてからは、毎日登下校は一緒だった。くだらない話をしたり、道端を通り過ぎる猫に勝手に名前をつけたり。そんな帰り道が日常の一コマとして構成されていた。
なぜだか胸がざわついた。その理由はわからない。溜息でそれを無理矢理押し込めると、僕は鞄を片手に帰路についた。
隣に伊万里はいない。笑う彼女も嬉しそうな彼女もいない。それが、いつも通りでない気がして少しだけ苛立ちを覚えた。
僕の日常に、最初からピースの一つみたいな顔して嵌め込まれたくせして、どうして消えるのか。
気になっているのか?自問して、頭の隅で起こったそんなわけあるかという声に素直に頷いた。
そんなわけない。
まじないのように繰り返しながら、僕はその日の帰り道を歩いた。影がやたらと濃く地面に姿を映し、それが不愉快でも愉快でもない微妙な境界をいったりきたりして、不安定な気持ちになった。
伊万里のことが気になっているわけはない。再度繰り返す頭の隅の声に頷き返すと同時に、もう一つ。僕はこれだけの日を経て伊万里のことを何も知らない。そんな声がどこからか聞こえた気がして、頭を掻きむしった。
5
僕は伊万里万理に対してあまり同情しないけれど、さすがにこの時だけは彼女のことを憐れみに満ち満ちた視線で見ずにはいられなかった。
彼女のこれでもかという深山の清涼な空気が芯に入ったかのような美しい正座の姿は、あまりに度を越して一種の諧謔味さえ感じられてしまうほどで。なにせ本質は堕落を善しとする魔物が、禅僧が羨むほどの姿勢を維持し続けているのだからそれも無理はない。
しかしそんな彼女に浴びせられているのは称賛ではなく説教なのだから余計に憐れだった。それも母親からの説教とくれば、他者からの説教ならまだしも身内とくればそれは堪えるものがあるだろう。
事の発端は僕の何気ない一言だった。
伊万里万理は良くも悪くも、常人でも感じ取れるような色気と快活さを具えている。だいたい近くにいる僕ですら、慣れることなく新鮮にその感覚を覚えているのだから、そこはさすが人をたらしこむ魔物と思う。
が、その彼女の一種の纏っている雰囲気が違った。具えているには具えているが、十全ではない。何かが欠けているような感じがした。そんな伊万里がどうしても気になってしまい、僕はとうとう声をかけた。
「どうしたの?なんだか、いつもと雰囲気が違うけど」
元気がない、とは何かが違う気がして妙な物言いになってしまった。伊万里はすぐに微笑んで見せたが、それもどこか深窓の令嬢のような似合わない儚さを醸していて、胸がぞわっとする。
伊万里の口から出た言葉も、どこか消えそうなもので、それが余計に僕に対する不安を煽った。……不安?
「今日はね、お母さんが来るの」
「お母さん?」
その割に、口から出る言葉は日常味に満ちていて拍子抜けだった。お母さんなんて、まあ確かに子離れできていないとその存在を疎ましく思うけれど、それだって含めてとても有難いものだろう。家庭内暴力だとか、悲劇的な成分が含まれていると確かにお母さんという言葉も別の意味になるだろうけど、そうは考えにくい。
伊万里は魔物だ。つまるところ親も魔物なのだから、人間よりもよっぽどいいお母さんをしているんじゃないだろうか?ちょっと人物像までは想像できないけど。
「ええ、だからちょっと滅入ってるの」
「滅入るって……。いや別にお母さんなんだから元気にやってるって挨拶やちょっとした話くらいすればいいじゃないか。文字通り今は住んでる世界が違うんだから、たまさかこっちに来るくらいなら歓迎すればお母さんも喜ぶんじゃ」
「元気にヤってる……ね」
「???」
何やらお互いの会話に微妙な齟齬を感じなくもない。しかしそれを気にしても仕方ない。一人暮らしをしたことがないからわからないけれど、時々親が様子を見に来るとどこかむずむずした居心地を覚えるというものだし、伊万里のもきっとそれに通ずるものだろう。
そう思っていた。
「ねえ、右京君。私の家に来てくれない?」
「はい?」
「無理にとは言わないから」
「でもそれって今日の話……なら無理だよ。悪いけど今日は出された課題が多いし、しっかりやっておかないと」
「そうよね……」
「うん、それじゃあ」
そう言って僕は伊万里を背にして帰った――のではない。僕は帰ったふりをして、咄嗟に伊万里の後を尾行していた。どうしてそんなことをしたのかと閻魔様にでも聞かれると、それは言葉に詰まる。けれど何か発作のようなものであったことは確かだった。伊万里の活気のない表情が、脳に浸透してしまって離れなくて鬱陶しかったから、かもしれない。
何度も呼吸を詰まらせながら、さながら探偵のような気分で伊万里を尾行する。その様は気分は探偵でも外見はストーカーだったかもしれない。兎も角、見つからないように自分なりに細心の注意をはらいながら僕は伊万里の住処へとたどり着いた。
なんてことはないただの学生専用マンションで、オートロックなんて御大層なものもついていないので伊万里の住んでいる部屋まで来るのもすぐだった。
ただここからは怪盗のように鍵をピッキングして……などと映画じみたことはできない。かといってドアに耳をつけて中の気配を探ろうものならそれはもう通報されても文句は言えない。ここまで来て情けない話だが、僕は伊万里に気が変わったと言って中に入れてもらうつもりだった。どうして家の場所がわかったのかと尋ねられてしまった時には、大人しく白状するしかないとして。
意を決してドアを叩こうとした時に、おや?と思った。
よく見れば、ほんの僅かにドアが開いていたのだ。帰った直後で戸締りをする余裕がなかったのだろうか?いや、僕自身忘れがちだけど伊万里は人外だ。防犯という意味での戸締りは必要ないというパターンもある。けれどさすがに不用心ではないだろうか。
思考を弄んでいたのも一瞬で、僕はすぐにドアの向こうの気配に気づいた。どうも伊万里一人にしては騒がしい。母親がすでに来ていて、何か話に花でも咲かせているのだろうか。
そう思いたかったけど、ドアの向こうの空気はそんな健やかなものではない。ぴんと張りつめた、どこか剣呑な空気。
それを感じ取った瞬間、なぜか伊万里の表情が浮かんできた。なぜ、いま?と首を傾げる暇もなく、僕は罪悪感に苛まれながらドアノブに手をかけた。
なるべく音を立てないようにして――まるで本物の泥棒のように――ドアを開いて中に入る。やたらと自分の心音が煩わしく感じ、少しだけ息を吐く。
そして奥へと進んだ時に、僕は伊万里の姿を見た。伊万里の母の姿も。
なるほどこの母にしてこの子ありといった風の、妖艶という言葉が足をつけてそこにいるような人だった。
ただ僕はその母親を前にしてもなお、伊万里の方が気になっていた。しゅんとして、今にも萎れそうな顔の彼女を見て、胸の奥に不愉快なつっかかりを覚えながら。
騒がしいはずだ。一方的に説教されているのだから。時折伊万里が言い返そうとしては手痛い反撃を喰らい、沈黙するという構図の繰り返し。
それだけならよかった。
ただ、その内容は僕をひどく不安定にさせた。
その内容というのは。
「どうして口説くことができないの!?私の娘でしょう?惚れた男くらい二日で籠絡して見せなさいよ!」「違うの、これは」「違わないわよ。あなたの為を想って言ってるのよ?私たちの性格は私たちが一番わかってるでしょう?」「だからこそよ」「だからこそって何?我慢し続けることがだからこそって言うの?我慢し続ければ相手に振り返って貰えると思ってるの?」「だから!それは!」
その内容というのは。
「私はあなたの母親よ。あなたの意見は尊重したいし、意思も重んじたいと思ってる。でもね、あまりに遅いとどうしても心配してしまうのよ。わかるでしょう?」「それはわかってるわよ。でもね、私は同じ視線にいたいの。同じ視線で同じものを見て同じことを思っていたいの」「それはエゴよ。いくら目線を合わせたって言葉に出さなきゃ行動にうつさなきゃ相手が気づいてくれるはずないじゃない」「気づいてるわ。勇気がないだけ。気づいたことを気づきたくないだけ」「ねえ、あなたは魔物なの。その道はとても厳しいものってわかって言ってるの?それだけの決意があるの?」「あるわよ。だからこうしてるの」
そノ内容トいうノハ。
「笑わせないで。可愛い娘にそんな道を歩ませるものですか」「私がどんな道を選ぼうといいでしょう?私は私よ。私は私なりの恋で私なりの道を選んでそして右京君と歩くわ」「聞く限りはご立派だけど、その道が娘を傷つけるものだとわかってまで進ませる母親はいないわよ。私だってそう」「傷つくかどうかなんてわからないわ。いえ、たとえ傷つくことが決まっていたって私はへらへらと笑って進むの。彼が気づいた時だってそう。私はへらへらと笑って彼を迎える。そのための恋路よ」
その空間からはじき出されたような衝撃があった。否、僕が自分の足で伊万里の元を飛び出していっただけだ。僕は彼女のことを何も知らない。いや、表面上は知った気になっていた。現に季節が過ぎる速度は僕から気づきを奪うにはじゅうぶんすぎる時間だったではないか。
僕は伊万里万理に対してあまり同情しないけれど、さすがにこの時だけは彼女のことを憐れみに満ち満ちた視線で見ずにはいられなかった。
でもそれよりももっと満ち満ちたのは、自身に対する嫌悪感と吐き気だった。結局のところ僕はただただ、彼女に対して、魔物娘に対しての認識が甘かったのだ。
どれほどの覚悟があるかとか、気持ちの深さだとかそういった部分をわかった気になっていた。けれど今こうして盗み聞きしてしまったらどうだ。
僕は、屑だ。
6
「どうしたの右京君。元気少ないわね?」
「そう?」
ここ数日、僕は伊万里のことばかり考えていた。ただそれを彼女のせいにするつもりはまったくなくて、だからただ不摂生が祟ったかなとだけ答えておいた。
いつもと同じ昼休み。弁当を机の上に広げて、彼女は変わらない顔をしている。その笑顔の下で、彼女にとってどれだけ辛い事を僕はしているのだろう。茨の道を裸足で歩かせるような、あるいは遅効性の毒を口移しで飲ませているような苦悶を、どれだけ与えたのか。
それでも彼女はきっと、へらへら笑う。ああ、くそ。
「不摂生って言葉、右京君のイメージからはほど遠いわね」
「意外とずぼらなんだよ」
考えていることとは裏腹に、こういう時だけ頼んでもいない言葉が流れ出た。伊万里は腕を組んで見せる。口元は悩ましげに歪んでいたけれど、その深淵を読み取ることはできなかった。
「何か悩みがあるなら、相談に乗るわよ」
どきり、と心臓が高鳴った。
「悩み多い思春期だもの。迷い事の一つや二つ私が吐き出す相手になってあげる」
「迷い事ね、どっちかと言えば迷い言だ」
下手な言葉遊びをしながら、僕は内心ひやひやしていた。心の中身を見透かされたような気さえした。足場にあったこれまでの僕が堆積させていたものがゆっくりと瓦解し、露わにされていく不安があった。
伊万里の言葉には、毒以外に仕込み針でもあるんじゃないだろうか。本心でぼやき、僕はおそるおそる口にした。
「まあどっちにしたって、伊万里に話すにはもう少し時間がかかりそうかな」
「あら?そう?」
「うん。デリケートな問題なんだ」
「なら私ができることは少なさそうね」
「そうだね。ごめん」
大嘘を、僕は平気で吐いた。それだけなのに、子どもの頃に親に叱られていた時の居心地の悪さに襲われて、ひどく胸の奥がつっかえる。
「いいわよ。話せるようになったら話して頂戴」
そこで会話はいったん終了かと思いきや、伊万里はふと何かをひらめいた顔をした。
「そう、そうね。でもだったら、代わりにあなたの話が聞きたいわ」
言っている意味がよく理解できず、僕は首を傾げた。
「悩み以外の、あなたの話を聞かせて。悩み以外のことも知りたいもの」
「そんなこと急に言われても」
「いいでしょ?まだ昼休みの時間だってたぁっぷりあるわ」
「う〜ん」
「本当に何でもいいわよ?くだらない話でもいいし、捧腹絶倒の面白エピソードでも」
「いきなりそれを求められるのは、ハードルが高いかな」
このまま、どうたらこうたらと理屈を述べてうやむやにしてしまおう。そういう魂胆だった僕の脳裏に、ふとあの時の伊万里の姿が過ぎった。母親と口論をする彼女の姿、そして、言い分。
「……そうだな」
気づいたら、口を開いていた。伊万里の方からしても、僕が真面目に話を始めるのは意外だったらしく、珍しく目を丸くしていた。
「僕が変わらないものが――停滞しているものが好きなことは知っているだろうけど、その理由までは知らないだろうから、それを話そうか。まだ僕が小学校高学年だった頃だけど、二人、仲の良い友達がいたんだ。意外と思うかもしれないけど、まあ最初から変わらないものが好きだったわけじゃないんだよ」
彼女は黙って聞いている。
「一人は男子で、一人は女子。とにかく二人は活発で、一緒に僕もよく遊んでた。二人といると毎日が変化の連続で、子ども心ながら、飽きというものが来ないことに満足してたんだ。それくらい、溌剌としていて、活気があった。大げさかもしれなけど、宝石みたいな毎日だなあとさえ思ってた。でもそれは突如として崩れ去ったんだよ。夏休みが近くなった時だった。僕はその日給食当番で、二人は先に僕を置いて体育館の方へと走って行ったんだ。もちろん、僕も片づけを済ませて二人の後を追った。でも、二人の姿は体育館にはなかった」
そこで少し、僕は言葉を切って彼女を見つめた。真摯な目をしていた。
僕は続ける。
「当然僕は不思議に思ってあっちこっち二人を探した。体育館裏でやっと二人を見つけた時だったかな。僕はずれている感覚を味わったんだ」
「ずれている?」
「僕だけ居場所が違うような空気……違うな。僕を含め三人が、決定的にすれ違ってしまったような空気がそこにはあったんだ。女の子は凄く悲しそうな顔をしていて、男の子は歳に合わない苦を滲ませた顔をしていた。二人が僕に気づくとすぐに何でもないような顔をしたけれど、さすがに無理がある。何かが二人の間であったのは確実で、疑いようのないことだった。でも、僕は聞けなかったんだよ。変わってしまうことが、あそこまで変化に富んでいた日常が急に怖くなってしまった」
「……」
そう、僕はそこから変わっていった。
伊万里、変わることはこれだけ辛いことなんだ。でも、だからこそ変わらない辛さもある。君はどうしてそんな顔をしていられるんだ。
「そこから、クラスの間で噂話が流れ始めた。男の子が女の子にいじわるをしたって内容のね。でも真相は二人しか知らない。僕だって知らない。けれどまだ物事の境界線も曖昧な小学生は、色んな意味で純粋だった。噂は尾鰭がついて、やがて根も葉もない中傷が目立つようになって、やがて気づけば二人の姿は学校から消えていた」
「……それは」
「まあ、良くも悪くも、最近の小学生の話としては珍しくないよ。ただ、僕はそれ以来変わることが怖くなった。変わるものよりも、変わらないことの方がずっと良いように思えて仕方なくなった。でもこれはある意味逃げているのと、同じなんだって最近思うようになったよ」
伊万里の一部を、見てしまったせいで。
じっと考え込む様子の彼女を他所に、僕はぼんやりと窓の外を見つめた。曇りだけど、すぐにでも雨が降ってきそうな嫌な天気だった。
変わることは、怖いことだ。知ることも同じくらい怖い。知ってしまえばそれはもう以前の自分とは別の自分だ。
けど、僕は彼女に対してあまりにも知るということを放棄してきたんじゃないだろうか?そのせいで、彼女に無限の拷問をし続けていたんじゃないだろうか。
「さて、僕の話は終わりだよ。昼休みもそろそろ頃合いだ」
言って立ち上がり、授業開始のチャイムが鳴り始める前にトイレへと向かう僕の背に、微かな彼女の声が聞こえたけど、気にしなかった。
戻って来てもまだ時間には若干の余裕があった。伊万里はよほど僕の話に聞き入っていたせいか、お弁当を処理しきれていなかったらしい。
必死に中身をかきこむ彼女に、ふと愛嬌を感じて僕は思わず微笑んだ。それを見られ、ジト目で睨まれたが気にせず僕は席についた。対面では伊万里は変わらず忙しそうだ。
「大変そうだね」
「なら手伝ってよ」
「それは嫌だな」
「むう」
自然な会話だった。どこにでもあふれてたいる、ありきたりで汎用性しかないような受け答え。例えるなら、僕の言葉ではない、辞書から引いて導いたような言葉だった。そして、これからは僕の言葉だった。ぽん、と、弾かれたように出た言葉。
「ねえ、伊万里。君のことを知りたい」
自分の過去語りをして、少しだけ楽になった衝動だったのかもしれない。それでも。
「……え?」
箸が伊万里の手から離れ、床に落ちて軽い音を立てた。
何を言ってるんだお前は、というような顔で、でもそれと同じくらいに顔が緩んでいくのが見て取れた。
「君のことを、教えてほしいんだ」
7
自分の部屋に女の子を招くというのは、よく考えなくても人生初体験というもので我ながらどこにこの謎の行動力があるのかを知りたかった。しかしこうして彼女を連れてくるなら、もう少し色気のある部屋にしておけばよかったかもしれない。
机の上にはノートパソコンが一つ、そしてあとあるものはベッドと書棚くらい。彼女が期待しているかどうかわからないけれど、エロ本の一つもこの部屋にはありはしない。成年向けのものなんて、もう今はネットで事足りるようになってしまった。
さて、呼んだはいいけどどうもてなしたものか。
「とりあえず座って気楽にしててよ。確かまだドーナツと紅茶はあったはずだし、取って来る」
「あの、待って」
と、僕の身体は後ろへ引っ張られた。否、袖を掴まれた。
「その前に、教えてほしいの。どうして急に、私のことを知りたいなんて言ってくれたの?」
なるほど。確かにその疑問はもっともだ。彼女からすれば不思議で仕方ないだろう。きっと向こうからしてみれば、もっともっと長いスパンで考えられていたことだ。
けれど、どう答えたものか。数秒悩んで、結局のところ僕は正直に話すしかないと思った。当然彼女は驚いたし、複雑な表情をしていたけど、それもすぐに和らいだ。
「でも、それだけじゃない」
「?」
「僕はまだ変わることは怖いままだよ。それでも、それだけじゃいけないと、本当にどこかで思ったんだ」
「右京君って」
「うん」
「不器用よね」
言って、背中に柔らかいものが当たる感触がした。後ろから抱き付かれたと理解しても、パニックになることはなく、寧ろ冷静で、心がどこかに放たれていく感覚がした。
「私はね、ずっと、ず〜っとあなたのことを知りたいと思いながらでも結局わかってないんじゃないかって気がしてた」
「わかってはないよ。きっとお互い、停滞してただけだ」
動いているように見えて、止まっているだけだった。
「ねえ私たち進んでいいの?」
僕は頷いた。
8
高校の屋上というのは大抵、背の高い落下防止用のフェンスで囲まれていて、ましてや屋上に通ずるドアなんてのは厳重に施錠されていて、無理にでもぶち抜かない限り踏破できるはずもない。だから僕らの集まる場所は自然と体育館裏だった。
「お前さ、雰囲気変わったか?」
出会って開口一番それとは、なかなかに図々しい友人もいたものだ。
「だとしたら、そうかもね」
「へえ、ま、何があったかなんて容易に想像つくけどな」
「下世話だね」
「お世話したろ?」
「ちっとも」
「互いに束縛してる関係からは変わったか」
僕は少しだけ考えて、言った。
「そもそもそれは、間違いだったみたいだよ」
「あ?」
「お互いに、変わらなかっただけだ」
「そうかい」
以上、会話終了といった風に、僕らは別れた。
その足でそのまま家へ帰り、自分の部屋まで一直線。扉を開けると、当たり前のように伊万里がいた。とくに僕も動じずに、ただいまの挨拶をする。伊万里は待ちきれないといった様子で僕に抱き付いてきた。豊満な胸をこれでもかと変形させ、獣じみた欲求を煽ってくる。
それを堪えて、僕もゆっくりと彼女を抱き返した。
「ね、ダメ?」
耳元で彼女が囁く。
「まだ夕方だよ」
「関係ないわよ」
駄々を捏ねる言い方だった。
このまま情事ともつれこんでも、いいことは下半身にしかない。
だから僕は口を開いた。
「ねえ、一つ聞いていいかな」
「なにかしら」
「君の、本当の名前を知りたい」
僕の背中に回っていた手が、きゅっと力を込めるのがわかった。彼女の息遣いがすぐそばにあるから、どんな気持ちなのかが生々しく伝わってくる。
そもそも向こうの命名規則とこちらの命名規則が同じと思う方がおかしいのだ。でもそれ以上に、僕にとって、彼女にとって本当の名前を知りたいと言うのは。
変わりたいと、おそらく同じ意味だろう。
高校の屋上というのは大抵、背の高い落下防止用のフェンスで囲まれていて、ましてや屋上に通ずるドアなんてのは厳重に施錠されていて、無理にでもぶち抜かない限り踏破できるはずもない。だから僕らの集まる場所は自然と体育館裏だった。
放課後、僕は体育館裏へと大よそ特別な事情がない限りは体育館裏にそこそこの頻度で足しげく通っている。怪しげな、秘め事めいたことがあるわけではない。ただ、雑談をするために、そこへ行く――のだが。
彼は体育館裏ではなく横にいた。体育館横。当然数歩歩けば裏である場所で、呆れた表情で僕を待っていた。彼、悪友の森宥太はただジェスチャーで裏の方を差してみせた。いったい何があったのかと、おそるおそる様子を確かめると合点がいった。男女が絶賛互いの愛を確かめ合っている真っ最中だった。極めて遠まわしの表現をしたのは恥ずかしいからではなく、単に名も知らぬ二人の名誉を守るための僕に残された最後の良心だ。
「よくも飽きねえよな。ああもずっこんばっこんセックスしてよ」
「実に身も蓋もないことを言ってのけるね、宥太」
じゃあ聞くがよ、と彼は続ける。
「お前は魔物娘が来てから随分と学校内でも風紀が乱れてると思わねえか?」
「その意見には諸手を挙げて賛成の意だけどさ、君が言えた台詞じゃないよね」
この森宥太、彼女持ちだ。しかも魔物娘とくれば、風紀なんて口にしているその口がどれだけ風紀を乱したのかわかったものじゃない。ジト目で軽蔑をくれてやると、気に食わなかったのか頭を小突かれた。結構痛い。
体育館裏でひっそりと行われていたはずの情事は(もう既に僕の良心は消えていた)いつの間にかヒートアップしていたらしく、ここまでしっかりと喘ぎ声が聞こえて来る。
「あのな、何か言いたげだが、俺はきちんと節度も場所も守ってるんだぜ?あいつとヤる時にはきちんとラブホか自宅だし、せいぜい日が暮れる前にはお互いに済ませて家に帰ってる」
「宥太、君としは幾つ?」
「十八」
「ラブホに行くんじゃない。しょっぴかれるのは向こうの従業員さんだ」
はっ、と鼻で笑われ、何やら意味ありげな視線を送られたので今度は僕が何かを言う番だった。とはいえ、僕の場合何を言えばいいのかちっともわからなかったので適当に最近発売されたゲームの話でもしようとしたら、そうじゃないとまた頭を小突かれた。
頭は叩かれるたびに脳細胞が死滅しているという話を聞いたけど、その真偽は定かじゃない。ひょっとするとこの悪友は僕の頭でその真偽を確かめようとしてるんじゃないかと、時々疑いたくなる。
「お前だって彼女持ちだろう?今となっちゃそうじゃない奴が珍しいくらいになりかけてるが、それだってあそこまでの美人だなんて、羨ましいぜ。クラスのマドンナじゃねえか。ナウなヤングの股間を鷲掴みしそうな感じの」
「宥太」
「なんだよ」
「君って言語感覚古いよね」
盛大に殴られた頭の痛みを堪えつつ、僕はひっそりと胸中で冗談じゃないと呟いた。あいつは、伊万里万理は彼女じゃない。そしてそんな生易しいものでもない。あれは、あいつは悪意の塊だ。本人はそれが常識と考えているから余計に性質が悪い。この僕が、自分から進んで犠牲になったくらいだ。忘れもしない、あいつが転校してきたときのことを。あの衝撃と僕の覚悟を。いや、大見得をきって覚悟なんて言ったけれど、あれはだいたい諦めに近いかもしれない。
「宝の持ち腐れってやつか?もったいねえな」
「そんなんじゃないよ」
僕はシニカルな笑みを浮かべて見せた。
「互いに束縛してるだけだ」
「……お前らさ、やっぱりなんだかんだ仲良いんじゃねえか。あとは、やっぱりお前らガキだわ」
心外だねと呟いて、僕はその場を後にした。いつの間にか喘ぎ声は止んでいて、その代わりに教師の怒声が聞こえた。どうやら見つかったらしい。おそらくこってりとしぼられるであろう名無しの二人の冥福を祈りつつ、帰路につこうとしたところでばったりと出くわした。
伊万里万理に。
「あら、やっと見つけた」
「本当に、君は嫌なヤツだよ」
「失礼しちゃうわね。右京君?」
右京君。附田右京君と、彼女が笑みを作るたびに、僕の中では何かが進んでいく。停滞が好きな僕にとって、伊万里は天敵だった。
誰にだって、停滞したものは必要なんだ。記憶のフィルムに焼き付いた光景が、あの頃の匂いが、耳に残った喧騒が。停滞しているものがあるから人は生きていけるというのに、こいつはそれを動かそうとしている。
ただしこれは建前だ。
本当に僕が伊万里を嫌いな理由はもっと別のところにある。嫌いだけど好きになった理由も別にある。
「どこかの右京と同じように、女性関係では苦労するみたいね」
「ああそれはきっと相棒がいないせいだよ」
残念ながら、宥太は相棒候補になるには少し思慮が浅いというか……有り体に言って馬鹿だ。本人がいたら殴られること間違いなしのことも、思うだけなら自由なことに感謝しつつ、伊万里の次の発言をうかがった。
こいつの言葉には、毒がある。悪魔が発する、毒がある。
「なら、私が相棒になるべきじゃないかしら」
「君がいたい場所は相棒じゃなくてもっと上だろう」
もっと上、相棒だとかそんなものを超越した場所に、伊万里は行きたがっている。行きたがって粋がって。僕が出来る事は、そんな彼女に乗せられないように一定のラインを保つことくらいだった。それくらいしか、精々僕には出来ないと自分でもわかっているところは自画自賛したくはある。
「そうね」
「前にも聞いたような気がするけどさ、なんで僕なんだい?それこそ、魔物娘蔓延る学園になったって、何もまだ根を張られているほどじゃない。まだ恋人募集中の学生の中にも、僕よりずっと容姿がいい人はいるだろう。なんだって、僕なんだ」
もう何度繰り返したかわからない問答に、伊万里はやはりお決まりの答え合わせを口にする。
「決まってるじゃない。好みだからよ」
何か言い返してやりたいとは思っても、こいつに言い返すとその言葉は一なら百の返しをされる。なら反撃なんてしないほうが良策に決まっている。
僕は苦笑いだけを答えとして、そそくさと歩き出した。当然ながら伊万里もついてくる。ついてくるなという言葉に対しては、もう結論が出てしまっているので無駄な抵抗はしない。その労力を静かに読書にでも回した方がいくぶん有意義なものだろう。
その様子に呆れたように肩を竦めて見せる伊万里の仕草は、あてつけがましいと感じるほどに瀟洒なものだった。
2
「転校?」
「転界だよ」
変わらないものが好きだった。田舎の風景、公園のブランコ、空、その他にも多数の変わらないもの、額縁におさめられた絵画のように永遠のものが。だから僕は将来静かに余生を過ごせればそれでいいと、高校入学して早くも思い始めていた。小学校、中学校と友人関係でロクなことがなかった僕がそんな考えに至ったのは、ごくごく自然な流れだと思う。
だから、友人の聞きなれない言葉の響きに思わず首を傾げてしまった。
「おいおい、右京なのに知らないのか?」
「生憎と僕はあの警部のように博覧強記じゃないからね」
ほれ、とスマホの画面を差し出す宥太の表情がやけにニヤついていたのが気になったが、素直に差し出された画面を見る。
そこには綺麗な女性たちの姿があった。それだけなら、まあ昼間でも性欲盛んな青春真っただ中の学生がよく見るページと思うだけだったけど、それは女性たちの姿が真っ当な人間だった場合だ。
有翼、単眼、触手、鉤爪、毛、異形の下半身。それらを見てやっと転界という聞きなれない言葉に合点がいった。
「噂になってる、異世界の?」
「オーソドックスに魔界って言うらしいぜ。まさに剣と魔法とエロの世界からやって来るってのに、男として興味がないわけないだろ?まあ実際にはそこそこに交流してるらしいけど、まだ珍しいよな」
鼻息荒く言う宥太の頭の中では、早速花畑のような日々が夢想されていることなのだろう。つまるところ異世界の、文化も秩序も全く違う彼女たちがやってくる。しかも美人揃いとくれば、まあ宥太の顔がさっそく破顔しているのにも頷けた。
「どうよ、お前はこんな子が来ればいいなって希望はあんの?」
「特にないかな」
怪訝そうな顔をされるのは心外だった。さっきまでの表情はどこへ消えたのか教えてほしいくらいだ。
「うっそだろお前。興味ねえの?」
「興味はあるよ。でも、それで騒がしいのはちょっとね。静かなのが好きだし」
「けど俺とは話すじゃねえか」
「君の場合は話しが別だろ。宥太くらいだよ、入学式終わって早々、僕に話しかけてきたやつなんて」
「持つべきものは心の友だろ?」
「ところで森君、転校生……いや、転界生っていつ来るの?」
「おう他人行儀になるなよ泣くぞ?……確か今日明日くらいだったかな?魔界からの門みたいなのが開くんだと」
「ファンタジーだね」
「ファンタジーだな」
僕らは口を揃えて言った。けど、実際に起きているならそれを認めるしかない。騒ぎ立てたところで、僕ら人間ができることなんてたかが知れている。
「だからさっきからいつもより教室が騒がしいんだね」
「そうだな。特に男子はそうだろ。真面目な委員長だってどこか落ち着かねえみたいだしな。いつも通りなのはお前くらいじゃないか?」
「僕も少し焦った方がいいかな?」
「やめろ気持ち悪い」
話もそこそこに、教室の空気はひとまず教師が入ってきたことによっていったん落ち着きを取り戻した。そしてお決まりのように話されるのは、やっぱり異世界からやってくる彼女たちのこと。異文化ということをきちんと理解するようにだとか、姿を見ても決して軽蔑しないようにだとか、とても綺麗なことを言っていた。
そんなの無理だと、たぶん口にしている教師ですらうっすら思っているのに。嘘を吐かなきゃならない仕事は大変だなあと、他人事のように思った。実際他人事だ。
慣れないものが自分たちの領域に入ってきたときに、人がとる行動は大まかに二つだと、僕個人は思っている。無視するか、攻撃するか。その二択。
僕は、明らかに前者だろう。互いに干渉しなければ、それはとても平穏だ。どだい悲しみと虚しさの上に成り立っている平穏だとしても、波風を立てるよりもずっと有益なのは目に見えている。
と、急に教室が騒がしくなった。
「どうしたの?」
「今日来てるから、これから紹介だってよ。うちのクラスにはなんと十人!大盤振る舞いだぜ?聞いてなかったのか」
「ちょっと考え事してて」
「可愛げねえなあ」
「男に可愛げがあっても困るだろ?」
「そりゃそうだ」
云々かんぬんと宣ったところで、僕自身異世界からやってくる彼女たちには興味がないわけではなかった。自分の世界を壊されない範囲であれば、違う世界を覗き見ることは楽しい。向こうではどんな食事なのか、魔法がこっちでも使えるのかとか。剣と魔法が空想の世界にとって、剣と魔法が現実の世界は宝箱みたいなものだ。
教師が促すと、廊下から一人、また一人と彼女たちは教室に入ってきた。その度に教室の温度は確実に上がり、最後の一人まで紹介が終わるころには教師の静止の声などかき消されてしまっていた。
だからこそ、僕にとっては都合が良かった。
クラスメートたちはあっさりと非現実を受け入れていたし、ムードとしてはこの上ない歓迎の色だった。だから、僕の顔が青ざめていたことには誰も気づかなかった。宥太でさえ、目を輝かせて彼女たちの谷間に視線を注いでいたのだから。
僕はそれどころではなかった。今すぐにでもこの場から逃げ出したい気持ちにさえなっていた。うっすらとこれからの僕の日々は瓦解していく予感さえした。
なぜ。
最後に教室に入った、伊万里万理は笑っていた。その笑みは愛想や気品が感じられるものとして教室の皆には映っているのだろうか。だとしたら、随分と都合のいいフィルターをかけられている。僕にも一つレンタルしてほしい。
僕が見た彼女の笑みは、捕食者のそれだった。
のほほんとした平穏?季節の流れるような速度で過ぎていく人生?停滞の中に見つける安寧?くだらない。
そう告げられた気分になる、笑みだった。
伊万里万理。
彼女は呆れるほど僕とは対極で、退廃していて。そして僕らはおそらく互いに互いへ同じ感情を抱いていた。同じ、とするのは多分これは僕の間違いだ。
後で宥太から教えてもらったことだけど、彼女たちは種族云々の共通した決まりとして、人間の男性に対してはよほどの事がない限り嫌悪はしないそうだ。そして、目をつけられたが最後、どれだけ抵抗しようとも伴侶になる。それも、互いに十分に認めた合意の。愛し合い、惚れ合った仲になるそうだ。
だから僕の思い違い、という形になるけれど、それでも一瞬僕は思うことがある。
僕と伊万里が互いに抱いているのは、恋慕でも愛情でもなく、依存なんて爛れた臭いのするようなものでもない。運命なんて洒落っ気のあるものでも喜劇的なものでもない。
もっと根深いところにある、同属意識だと、思う時がある。
互いに表面で纏うものは滑稽なほど逆で、反発しているけれど。根底にあるものはきっと、似ているのだと、僕はこれから知る。
3
静かで停滞したものだったりが好きな僕が図書室を半ば住処にしかけていたり、部員一名(この一名は言わずもがな僕だ)の文芸部として活動しているのは、大よその推測がつくだろう。部活は形だけのもので、日がな本を読んで過ごすのが活動になりつつあるのは、個人的には至高とも思える。
などと、現を抜かしてられないような状況になるとは想像もしていなかった。
「隣いいかしら?」
「あ、うん。……うん?」
あまりに自然に話しかけられたので、僕は素の対応をしてしまい、彼女が隣に座ったところでやっと今起きた事態を把握した。
瞬間、辺りに漂うのは退廃と背徳の香りで、それは寒気すら感じるほど停滞とは縁遠いものだった。なんというか、彼女たち全てがそうではないと思うけれど――それとも彼女だけが特別なのか――僕の隣に座った彼女、伊万里万理が纏う気配は違うのだ。
もっと言うなら、存在の質が違う。
自分の生き写しに出会った気分にされるし、その逆の気分にもされる。ほぼほぼ初対面だし、何ならさっきした会話が初めての接触なのにここまで複雑な気分を他者に対して抱くのは初めてだった。
「初めまして、伊万里万理って言うの。確か同じクラスだったから挨拶くらいしておこうと思って」
「それはご丁寧にどうも。僕は――」
「右京君、でしょ?附田右京君」
「よく知ってるね」
彼女の赤い瞳が、ちらりとこちらに向いた。
本当に真っ赤で、血みたいな色だった。
「だって、あなた私のこと見てたじゃない。女子ってそういうの意外と敏いのよ?」
その目が、少しだけ燐とした光を帯びた気がして、僕は思わず視線を逸らして口だけで答えた。
「気を悪くしたのなら謝るよ。ごめん」
「ああ、そういうことじゃないんだけど、ちょっと気になっちゃって。なんでかなあって」
「話では聞いたことはあったんだけど、やっぱり別の世界から来たっていう人たちを見るのは初めてでさ。つい」
咄嗟に口から出た嘘だった。どうしてこんな嘘を吐いたのかは、自分でもわからなかった。ただ、根っこの部分が警戒色に変貌して、なぜか彼女に対して気を許さないようにしていることは、なんとなくわかった。
ただ、全部が全部真っ赤な嘘じゃないだけ、この嘘の信憑性は高いだろう。全てが虚構で作られるよりかは、幾つか本当のことが混ざった方がリアリティーは出る。創作だって、お偉方の発言だってそうだ。
そしてその嘘は、一瞬にして見破られた。別に彼女はそれを口に出したわけじゃない。ただ、目を細めただけだ。その仕草だけで、僕は嘘が見破られたと思い知った。
「右京君って、私たちのことを理解してる?」
神経をそっと愛撫するような、心地よい声だった。心地良すぎて、冷や汗が流れるくらいに。
僕は宥太に見せられたスマホの画面の端に小さくあった注意書きを思い出す。そこには性に関することばかりが書かれていた。しかし、それが自分の身に降りかかると誰が予想できた。
きっと普通の男子なら、このまま彼女に押し倒されるか、押し倒すかの二択なのだろう。空気はやけに甘ったるく、それが鼻腔をくすぐって正常な思考を犯す。
宥太なら、羨ましいと嫉妬で血の涙を流すだろうか?汗ばむ肌を隠すような恥じらいを捨てた、原始の行為に憧れる男子は怒りに震えるだろうか?
それでも僕は彼女が恐ろしかった。彼女に関わったら根本から、アイデンティティーを覆される。そんな理由もない確信が頭の隅に確かな輪郭を持って産声をあげていた。
「わからないよ」
「なら、教えてあげましょうか?」
視線は自然と彼女の豊かな肢体へと運ばれ、それらを思う存分貪る自分の姿を想起した。理性で無理やりそれを押し込めると、僕は努めて平静な口調で提案を断った。彼女はまだまだ余裕の表情を浮かべていて、明らかにこちらを弄んでいる様子が見て取れる。
遊んでいるのか、本気なのか。怖いのは両方だった場合だけれど、確認のしようがない。
「意外と意固地なのね」
「ありがとう。僕は君が嫌いだよ」
なんでこんなことを言ったのかは、わからなかった。僕自身嫌いなことはあるし、それにぶつかった時には苦虫を噛み潰したような顔にだってなる。けれどいつだってさらに事態の悪化をまねくのはその感情を口に出すからだ。口は災いの門というのは実に正鵠を射た言葉だと、関心している僕が。
ところが彼女はちょっと驚いたような顔を浮かべたと思ったら、また笑みを浮かべた。より深い笑みを。それは怒りを隠すようなものではなく、もっと別種の、もっと悦びに満ちたものだった。
「私の種族知ってる?」
「……説明はほとんど耳に入ってなかった」
「デーモンよ」
「……デーモン」
なるほど、と頷きたくなった。ようするに、悪魔だ。それなら彼女は確かに悪魔だろう。
「たいてい、抵抗するにしたって来るなとか、寄るなとかが一般的なんだけど、嫌いなんてはっきり口にするのは初めて聞いたわ」
すると僕は彼女の初めてを奪ってしまったことになる。不思議と罪悪感は湧かなかった。湧いてたまるものかと逆に強い決心を固めるくらいだ。
本日何度目からわからない、この「わからない」確信が僕の中にはまだあった。彼女が次になんと言うのかが、わかるのだ。おそらく、それはもし夢だとしたら嫌がらせに見せた夢魔に回し蹴りを喰らわせるくらいに性質の悪い予感。できれば口にするな、言葉にするなと止めたいけれど、予感であり確信でもあるものを止めることはできなかった。どうしようもなく不安になる。でも、不安さえ漠然としていては、できることはなかった。
幻想に眩んでいるならまだ救いはある。ただこれは悲しいかな、現実だった。
「あなた、気に入っちゃった」
図書室に鏡が無いことに僕は生まれて初めて感謝した。今自分の表情を見たら、きっとぐずぐずに溶けてしまっただろう。この時点で僕の運命は決まってしまった。あるいはもっと前から。レールを敷いた奴は今頃ほくそ笑んでいるかもしれない。
彼女の翼と尻尾が生物的に動き、今さらながらに彼女が人外なのだと知覚する。息をのむほど美しく、けれどそれ以上に邪悪な人外だと。
その人外に目をつけられてしまった僕を幸福だとは、少なくともこの時は思えなかった。
彼女は笑っているのだ。にっこりと、ぞっとするほどろう長けた笑いで。すべてがふわふわしていて、夢のようだった。
「そう。それでも、僕は好きになれそうにはないかな。水と油が混ざり合わないのと同じだよ。僕と君じゃ、何から何まで決定的に違うんだ」
「あら、いいじゃない。叶わない恋だろうと敵わない故意だろうと私は受けて立つわ」
それに知ってる?と彼女は付け加えた。
「油と水って、高速回転させると混ざるのよ」
複雑怪奇に絡み合っていっさいがっさいどうしようもない関係が築かれた、瞬間だった。そしてなんとも恐ろしいことに、これは伊万里が転界してきた当日のことだ。
4
僕の中での悪魔というものは、人の都合などお構いなく産毛が生えたばかりのような心臓であろうと鷲掴みにするようなイメージがあった。しかし伊万里は予想以上に一歩一歩を確かめる――さながら霧中行軍のような――歩みで僕との距離を詰めてきた。通学路にいて、一緒についてきたり、昼休みのご飯を一緒に食べたり。
不思議とそれらに対しての嫌悪感自体はなかった。たとえ伊万里が怪しくて異なる存在であろうと。
嫌悪もないなら拒否もない。当然だ。ただ、嫌いとかそんなものよりもずっと高次の感情が僕の中では静かに息を潜めているのが、なんとなくわかった。その正体がわからない。
そして、そんなことよりも恐ろしいのは年月がある程度過ぎ去ってしまっているということだった。伊万里と出遭ったのは、高校入学間もなくの頃だ。
だが今気づけば、早くも大学受験という単語が後ろから迫って来る足音が聞こえる時期だ。そこまで時間をかけておきながら、僕らの距離は端から見れば存在が都市伝説級の、男女間の友情を育んでいるような関係に終始していた。言い換えるなら、僕と伊万里の関係が進んだのはある程度までで、そこからは停滞していたのだ。
僕の好きな、停滞に。
「右京君って意外と抵抗しないのね」
教室の隅で僕らはテーブルをくっつけてお互いに弁当を貪っている。そんな中、綺麗に切られたタコさんウインナーをフォークで弄びながら伊万里は言った。
お昼時とはいえ、伊万里が醸し出す色気と妖気、そしてタコさんウインナーを弄ぶ手つきが秘め事の符号にも思えてしまい、僕は一瞬沈黙した。台詞がちょっとばかり意味深に聞こえてしまったのもあるだろう。
「なんだって?」
「ほら、嫌いなわりには一緒に行動してても平気そうじゃない」
「ああ、それは表情とかに出してないからじゃないかな。よくも悪くも、僕らはもう高校生なわけだし。小学校の頃なら、そりゃ走って逃げたりそっぽを向いたりもしただろうけどさ。さすがにそこまで子どもじみた真似をするほど、もう子どもの時期は過ぎたって言うか」
それに、と付け加える。
「被害を拡大させるよりマシだろう?」
「被害?」
首を傾げて、伊万里はきょとんとした。自分の美貌と醸し出される妖気に対する、自覚というものが欠落しているのだろうか。
そこまで考えて、僕は自分が失言していたことに気づいた。
「いや、なんでもないよ。僕が間違ってた」
「あらそう?ならいいんだけど」
ここでいう被害は、周囲への被害という意味合いだったのだけれど、それは最早杞憂だろう。伊万里が僕しか狙っていないのだとすると、それはもうその通りの意味だ。宥太に言われていた彼女たちの共通項をうっかり忘れていた。伊万里含めた魔物娘は、例外なく好きになった対象を変えることはない。
ある意味、一途とも言える。
重い愛とも。
それは停滞を好む僕にとっては、殺しにくるには必要十分な武器だ。
「けど、それを意外と言うなら僕は逆に伊万里の方が意外だよ」
「ん。んん?どうして」
初期なら絶対にここまで話を発展させようとはしなかっただろう。ただ人間は慣れる生き物だ。僕もその例に漏れず、伊万里にはある程度慣れてしまっていた。耐性がしっかりついたと考えることもできる。
「いや、僕は停滞が好きだけど、まるで動かないわけじゃないからさ。色々と調べたんだよ。デーモンのことを」
「へえ」
「そうしたら、契約を迫って来る云々と、あとは積極的に堕落させにくるみたいなことが書いてあったんだけど、伊万里は全然そんな素振りを見せないし。しいて言えば最初だけ。あとはなんだか平行線を歩いてるみたいでさ」
「そろそろ迫られないと寂しいってこと?」
「違うそうじゃない。意外だなって思っただけだよ。種族として一括りにするんじゃなくて、個人個人の性格もあるんだろうけど、それにしたってと思って」
これは純粋な疑問だった。戦いはまず相手を知るところからだという。それは自衛においても当然のことで、僕は最初に伊万里に迫られた後、彼女の種族のことを調べつくした。ネットで情報を漁ったり、専門の本を読み耽ったり、他の子に実際にあった話というものを(他人の口から聞いている時点で実際にあったなんてちゃんちゃらおかしいが)聞いてみたり。兎に角行動を起こしたわけだ。僕らしくない行動を。
そうすると余計に伊万里のことがわからなくなった。自分で改めて確認すると気恥ずかしいが、伊万里は僕のことが好きである。
ならば行動を起こすべきなのだ。もっと積極的に、台風のように、跡を残すべきなのだ。
しかしそれは彼女にとっては矛盾しないらしく、意味ありげな笑みをうっすらと浮かべ
「じゃあ無理矢理迫った方がいい?」
「いや、それは嫌だけど」
「でしょう。だったら私はしないだけよ。それだけ」
「……それだけ?」
ただ首肯し、タコさんウインナーを一口で頬ぼった伊万里からは、これ以上話すよりは弁当を食べる方が忙しいと言っているように見えて、僕も大人しく弁当を貪った。僕には伊万里のことがちっともわからない。できることなんて、頭の上で疑問符を阿波踊りさせるくらいがせいぜいだ。
けれどそれでも、その時点で既に僕の中にしっかりと存在していたのは紛れもない事実だった。伊万里万理が僕の心の中でしっかりと息づいていたのは、隠しようもない。
考えればそれはとても怖いことではる。
停滞が好きだとのたまっている僕が、既に自分で意識せずに行動しているし、伊万里のことを考えているのは、劇的変化ではある。けれど気づけないからこその無意識であって、まだこの時の僕はその正体を知る術は持てども、持っていることに気づきはしていなかった。
「ちょっと興味本位に聞きたいけれど、右京君」
視線を弁当から伊万里に戻すと、既に伊万里の弁当の中身は空になっていた。持ち前の美貌によらず、なかなかどうして食べるのが早い。
「何?昼間でも差し支えない話題なら受けるよ」
特につっぱねる理由もなかったので、先を促した。が、彼女は一向に口を開こうとせずに、教室の隅っこに視線を注ぎ始めた。まさかとは思うけど、昼間だと差し支えある話題を振ってこようとしたのだろうか。まさか教室の隅に見えてはいけないものが見えたなんてことはあるまい。いったい白昼堂々、この人外は何を口走ろうとしたのか。若干の好奇心をくすぐられなくもなかったけど、大体の想像がついてしまったので僕も大人しく何もなかったように振舞った。ここで卑俗な妄想たくましく、大よそ察しがついてしまうあたりが自分でも悲しくなってきた。
少なくとも、僕だって男子だ。
彼女の口から猥談や淫語が飛び出してくると考えると、昼間から精神的疲労を強いることになる。それが肉体的疲労と結びつかないあたりに、ありがたいと思うかどっこいどっこいと思うかで個人差はありそうだけれども。
結局伊万里は以後黙ったまま昼休みは終わり、午後の授業が始まった。
伊万里が授業中に話しかけてくることはなく(最初の頃は授業中にすら迫ってくるんじゃないかと戦々恐々だった)緩やかに時間は進み、気づけば夕焼けが教室に差し込む程度には経っていた。
帰りの準備をしている最中、ふと伊万里の姿が教室から消えていることに気づいた。珍しい事もある。心底そう思った。彼女に目をつけられてからは、毎日登下校は一緒だった。くだらない話をしたり、道端を通り過ぎる猫に勝手に名前をつけたり。そんな帰り道が日常の一コマとして構成されていた。
なぜだか胸がざわついた。その理由はわからない。溜息でそれを無理矢理押し込めると、僕は鞄を片手に帰路についた。
隣に伊万里はいない。笑う彼女も嬉しそうな彼女もいない。それが、いつも通りでない気がして少しだけ苛立ちを覚えた。
僕の日常に、最初からピースの一つみたいな顔して嵌め込まれたくせして、どうして消えるのか。
気になっているのか?自問して、頭の隅で起こったそんなわけあるかという声に素直に頷いた。
そんなわけない。
まじないのように繰り返しながら、僕はその日の帰り道を歩いた。影がやたらと濃く地面に姿を映し、それが不愉快でも愉快でもない微妙な境界をいったりきたりして、不安定な気持ちになった。
伊万里のことが気になっているわけはない。再度繰り返す頭の隅の声に頷き返すと同時に、もう一つ。僕はこれだけの日を経て伊万里のことを何も知らない。そんな声がどこからか聞こえた気がして、頭を掻きむしった。
5
僕は伊万里万理に対してあまり同情しないけれど、さすがにこの時だけは彼女のことを憐れみに満ち満ちた視線で見ずにはいられなかった。
彼女のこれでもかという深山の清涼な空気が芯に入ったかのような美しい正座の姿は、あまりに度を越して一種の諧謔味さえ感じられてしまうほどで。なにせ本質は堕落を善しとする魔物が、禅僧が羨むほどの姿勢を維持し続けているのだからそれも無理はない。
しかしそんな彼女に浴びせられているのは称賛ではなく説教なのだから余計に憐れだった。それも母親からの説教とくれば、他者からの説教ならまだしも身内とくればそれは堪えるものがあるだろう。
事の発端は僕の何気ない一言だった。
伊万里万理は良くも悪くも、常人でも感じ取れるような色気と快活さを具えている。だいたい近くにいる僕ですら、慣れることなく新鮮にその感覚を覚えているのだから、そこはさすが人をたらしこむ魔物と思う。
が、その彼女の一種の纏っている雰囲気が違った。具えているには具えているが、十全ではない。何かが欠けているような感じがした。そんな伊万里がどうしても気になってしまい、僕はとうとう声をかけた。
「どうしたの?なんだか、いつもと雰囲気が違うけど」
元気がない、とは何かが違う気がして妙な物言いになってしまった。伊万里はすぐに微笑んで見せたが、それもどこか深窓の令嬢のような似合わない儚さを醸していて、胸がぞわっとする。
伊万里の口から出た言葉も、どこか消えそうなもので、それが余計に僕に対する不安を煽った。……不安?
「今日はね、お母さんが来るの」
「お母さん?」
その割に、口から出る言葉は日常味に満ちていて拍子抜けだった。お母さんなんて、まあ確かに子離れできていないとその存在を疎ましく思うけれど、それだって含めてとても有難いものだろう。家庭内暴力だとか、悲劇的な成分が含まれていると確かにお母さんという言葉も別の意味になるだろうけど、そうは考えにくい。
伊万里は魔物だ。つまるところ親も魔物なのだから、人間よりもよっぽどいいお母さんをしているんじゃないだろうか?ちょっと人物像までは想像できないけど。
「ええ、だからちょっと滅入ってるの」
「滅入るって……。いや別にお母さんなんだから元気にやってるって挨拶やちょっとした話くらいすればいいじゃないか。文字通り今は住んでる世界が違うんだから、たまさかこっちに来るくらいなら歓迎すればお母さんも喜ぶんじゃ」
「元気にヤってる……ね」
「???」
何やらお互いの会話に微妙な齟齬を感じなくもない。しかしそれを気にしても仕方ない。一人暮らしをしたことがないからわからないけれど、時々親が様子を見に来るとどこかむずむずした居心地を覚えるというものだし、伊万里のもきっとそれに通ずるものだろう。
そう思っていた。
「ねえ、右京君。私の家に来てくれない?」
「はい?」
「無理にとは言わないから」
「でもそれって今日の話……なら無理だよ。悪いけど今日は出された課題が多いし、しっかりやっておかないと」
「そうよね……」
「うん、それじゃあ」
そう言って僕は伊万里を背にして帰った――のではない。僕は帰ったふりをして、咄嗟に伊万里の後を尾行していた。どうしてそんなことをしたのかと閻魔様にでも聞かれると、それは言葉に詰まる。けれど何か発作のようなものであったことは確かだった。伊万里の活気のない表情が、脳に浸透してしまって離れなくて鬱陶しかったから、かもしれない。
何度も呼吸を詰まらせながら、さながら探偵のような気分で伊万里を尾行する。その様は気分は探偵でも外見はストーカーだったかもしれない。兎も角、見つからないように自分なりに細心の注意をはらいながら僕は伊万里の住処へとたどり着いた。
なんてことはないただの学生専用マンションで、オートロックなんて御大層なものもついていないので伊万里の住んでいる部屋まで来るのもすぐだった。
ただここからは怪盗のように鍵をピッキングして……などと映画じみたことはできない。かといってドアに耳をつけて中の気配を探ろうものならそれはもう通報されても文句は言えない。ここまで来て情けない話だが、僕は伊万里に気が変わったと言って中に入れてもらうつもりだった。どうして家の場所がわかったのかと尋ねられてしまった時には、大人しく白状するしかないとして。
意を決してドアを叩こうとした時に、おや?と思った。
よく見れば、ほんの僅かにドアが開いていたのだ。帰った直後で戸締りをする余裕がなかったのだろうか?いや、僕自身忘れがちだけど伊万里は人外だ。防犯という意味での戸締りは必要ないというパターンもある。けれどさすがに不用心ではないだろうか。
思考を弄んでいたのも一瞬で、僕はすぐにドアの向こうの気配に気づいた。どうも伊万里一人にしては騒がしい。母親がすでに来ていて、何か話に花でも咲かせているのだろうか。
そう思いたかったけど、ドアの向こうの空気はそんな健やかなものではない。ぴんと張りつめた、どこか剣呑な空気。
それを感じ取った瞬間、なぜか伊万里の表情が浮かんできた。なぜ、いま?と首を傾げる暇もなく、僕は罪悪感に苛まれながらドアノブに手をかけた。
なるべく音を立てないようにして――まるで本物の泥棒のように――ドアを開いて中に入る。やたらと自分の心音が煩わしく感じ、少しだけ息を吐く。
そして奥へと進んだ時に、僕は伊万里の姿を見た。伊万里の母の姿も。
なるほどこの母にしてこの子ありといった風の、妖艶という言葉が足をつけてそこにいるような人だった。
ただ僕はその母親を前にしてもなお、伊万里の方が気になっていた。しゅんとして、今にも萎れそうな顔の彼女を見て、胸の奥に不愉快なつっかかりを覚えながら。
騒がしいはずだ。一方的に説教されているのだから。時折伊万里が言い返そうとしては手痛い反撃を喰らい、沈黙するという構図の繰り返し。
それだけならよかった。
ただ、その内容は僕をひどく不安定にさせた。
その内容というのは。
「どうして口説くことができないの!?私の娘でしょう?惚れた男くらい二日で籠絡して見せなさいよ!」「違うの、これは」「違わないわよ。あなたの為を想って言ってるのよ?私たちの性格は私たちが一番わかってるでしょう?」「だからこそよ」「だからこそって何?我慢し続けることがだからこそって言うの?我慢し続ければ相手に振り返って貰えると思ってるの?」「だから!それは!」
その内容というのは。
「私はあなたの母親よ。あなたの意見は尊重したいし、意思も重んじたいと思ってる。でもね、あまりに遅いとどうしても心配してしまうのよ。わかるでしょう?」「それはわかってるわよ。でもね、私は同じ視線にいたいの。同じ視線で同じものを見て同じことを思っていたいの」「それはエゴよ。いくら目線を合わせたって言葉に出さなきゃ行動にうつさなきゃ相手が気づいてくれるはずないじゃない」「気づいてるわ。勇気がないだけ。気づいたことを気づきたくないだけ」「ねえ、あなたは魔物なの。その道はとても厳しいものってわかって言ってるの?それだけの決意があるの?」「あるわよ。だからこうしてるの」
そノ内容トいうノハ。
「笑わせないで。可愛い娘にそんな道を歩ませるものですか」「私がどんな道を選ぼうといいでしょう?私は私よ。私は私なりの恋で私なりの道を選んでそして右京君と歩くわ」「聞く限りはご立派だけど、その道が娘を傷つけるものだとわかってまで進ませる母親はいないわよ。私だってそう」「傷つくかどうかなんてわからないわ。いえ、たとえ傷つくことが決まっていたって私はへらへらと笑って進むの。彼が気づいた時だってそう。私はへらへらと笑って彼を迎える。そのための恋路よ」
その空間からはじき出されたような衝撃があった。否、僕が自分の足で伊万里の元を飛び出していっただけだ。僕は彼女のことを何も知らない。いや、表面上は知った気になっていた。現に季節が過ぎる速度は僕から気づきを奪うにはじゅうぶんすぎる時間だったではないか。
僕は伊万里万理に対してあまり同情しないけれど、さすがにこの時だけは彼女のことを憐れみに満ち満ちた視線で見ずにはいられなかった。
でもそれよりももっと満ち満ちたのは、自身に対する嫌悪感と吐き気だった。結局のところ僕はただただ、彼女に対して、魔物娘に対しての認識が甘かったのだ。
どれほどの覚悟があるかとか、気持ちの深さだとかそういった部分をわかった気になっていた。けれど今こうして盗み聞きしてしまったらどうだ。
僕は、屑だ。
6
「どうしたの右京君。元気少ないわね?」
「そう?」
ここ数日、僕は伊万里のことばかり考えていた。ただそれを彼女のせいにするつもりはまったくなくて、だからただ不摂生が祟ったかなとだけ答えておいた。
いつもと同じ昼休み。弁当を机の上に広げて、彼女は変わらない顔をしている。その笑顔の下で、彼女にとってどれだけ辛い事を僕はしているのだろう。茨の道を裸足で歩かせるような、あるいは遅効性の毒を口移しで飲ませているような苦悶を、どれだけ与えたのか。
それでも彼女はきっと、へらへら笑う。ああ、くそ。
「不摂生って言葉、右京君のイメージからはほど遠いわね」
「意外とずぼらなんだよ」
考えていることとは裏腹に、こういう時だけ頼んでもいない言葉が流れ出た。伊万里は腕を組んで見せる。口元は悩ましげに歪んでいたけれど、その深淵を読み取ることはできなかった。
「何か悩みがあるなら、相談に乗るわよ」
どきり、と心臓が高鳴った。
「悩み多い思春期だもの。迷い事の一つや二つ私が吐き出す相手になってあげる」
「迷い事ね、どっちかと言えば迷い言だ」
下手な言葉遊びをしながら、僕は内心ひやひやしていた。心の中身を見透かされたような気さえした。足場にあったこれまでの僕が堆積させていたものがゆっくりと瓦解し、露わにされていく不安があった。
伊万里の言葉には、毒以外に仕込み針でもあるんじゃないだろうか。本心でぼやき、僕はおそるおそる口にした。
「まあどっちにしたって、伊万里に話すにはもう少し時間がかかりそうかな」
「あら?そう?」
「うん。デリケートな問題なんだ」
「なら私ができることは少なさそうね」
「そうだね。ごめん」
大嘘を、僕は平気で吐いた。それだけなのに、子どもの頃に親に叱られていた時の居心地の悪さに襲われて、ひどく胸の奥がつっかえる。
「いいわよ。話せるようになったら話して頂戴」
そこで会話はいったん終了かと思いきや、伊万里はふと何かをひらめいた顔をした。
「そう、そうね。でもだったら、代わりにあなたの話が聞きたいわ」
言っている意味がよく理解できず、僕は首を傾げた。
「悩み以外の、あなたの話を聞かせて。悩み以外のことも知りたいもの」
「そんなこと急に言われても」
「いいでしょ?まだ昼休みの時間だってたぁっぷりあるわ」
「う〜ん」
「本当に何でもいいわよ?くだらない話でもいいし、捧腹絶倒の面白エピソードでも」
「いきなりそれを求められるのは、ハードルが高いかな」
このまま、どうたらこうたらと理屈を述べてうやむやにしてしまおう。そういう魂胆だった僕の脳裏に、ふとあの時の伊万里の姿が過ぎった。母親と口論をする彼女の姿、そして、言い分。
「……そうだな」
気づいたら、口を開いていた。伊万里の方からしても、僕が真面目に話を始めるのは意外だったらしく、珍しく目を丸くしていた。
「僕が変わらないものが――停滞しているものが好きなことは知っているだろうけど、その理由までは知らないだろうから、それを話そうか。まだ僕が小学校高学年だった頃だけど、二人、仲の良い友達がいたんだ。意外と思うかもしれないけど、まあ最初から変わらないものが好きだったわけじゃないんだよ」
彼女は黙って聞いている。
「一人は男子で、一人は女子。とにかく二人は活発で、一緒に僕もよく遊んでた。二人といると毎日が変化の連続で、子ども心ながら、飽きというものが来ないことに満足してたんだ。それくらい、溌剌としていて、活気があった。大げさかもしれなけど、宝石みたいな毎日だなあとさえ思ってた。でもそれは突如として崩れ去ったんだよ。夏休みが近くなった時だった。僕はその日給食当番で、二人は先に僕を置いて体育館の方へと走って行ったんだ。もちろん、僕も片づけを済ませて二人の後を追った。でも、二人の姿は体育館にはなかった」
そこで少し、僕は言葉を切って彼女を見つめた。真摯な目をしていた。
僕は続ける。
「当然僕は不思議に思ってあっちこっち二人を探した。体育館裏でやっと二人を見つけた時だったかな。僕はずれている感覚を味わったんだ」
「ずれている?」
「僕だけ居場所が違うような空気……違うな。僕を含め三人が、決定的にすれ違ってしまったような空気がそこにはあったんだ。女の子は凄く悲しそうな顔をしていて、男の子は歳に合わない苦を滲ませた顔をしていた。二人が僕に気づくとすぐに何でもないような顔をしたけれど、さすがに無理がある。何かが二人の間であったのは確実で、疑いようのないことだった。でも、僕は聞けなかったんだよ。変わってしまうことが、あそこまで変化に富んでいた日常が急に怖くなってしまった」
「……」
そう、僕はそこから変わっていった。
伊万里、変わることはこれだけ辛いことなんだ。でも、だからこそ変わらない辛さもある。君はどうしてそんな顔をしていられるんだ。
「そこから、クラスの間で噂話が流れ始めた。男の子が女の子にいじわるをしたって内容のね。でも真相は二人しか知らない。僕だって知らない。けれどまだ物事の境界線も曖昧な小学生は、色んな意味で純粋だった。噂は尾鰭がついて、やがて根も葉もない中傷が目立つようになって、やがて気づけば二人の姿は学校から消えていた」
「……それは」
「まあ、良くも悪くも、最近の小学生の話としては珍しくないよ。ただ、僕はそれ以来変わることが怖くなった。変わるものよりも、変わらないことの方がずっと良いように思えて仕方なくなった。でもこれはある意味逃げているのと、同じなんだって最近思うようになったよ」
伊万里の一部を、見てしまったせいで。
じっと考え込む様子の彼女を他所に、僕はぼんやりと窓の外を見つめた。曇りだけど、すぐにでも雨が降ってきそうな嫌な天気だった。
変わることは、怖いことだ。知ることも同じくらい怖い。知ってしまえばそれはもう以前の自分とは別の自分だ。
けど、僕は彼女に対してあまりにも知るということを放棄してきたんじゃないだろうか?そのせいで、彼女に無限の拷問をし続けていたんじゃないだろうか。
「さて、僕の話は終わりだよ。昼休みもそろそろ頃合いだ」
言って立ち上がり、授業開始のチャイムが鳴り始める前にトイレへと向かう僕の背に、微かな彼女の声が聞こえたけど、気にしなかった。
戻って来てもまだ時間には若干の余裕があった。伊万里はよほど僕の話に聞き入っていたせいか、お弁当を処理しきれていなかったらしい。
必死に中身をかきこむ彼女に、ふと愛嬌を感じて僕は思わず微笑んだ。それを見られ、ジト目で睨まれたが気にせず僕は席についた。対面では伊万里は変わらず忙しそうだ。
「大変そうだね」
「なら手伝ってよ」
「それは嫌だな」
「むう」
自然な会話だった。どこにでもあふれてたいる、ありきたりで汎用性しかないような受け答え。例えるなら、僕の言葉ではない、辞書から引いて導いたような言葉だった。そして、これからは僕の言葉だった。ぽん、と、弾かれたように出た言葉。
「ねえ、伊万里。君のことを知りたい」
自分の過去語りをして、少しだけ楽になった衝動だったのかもしれない。それでも。
「……え?」
箸が伊万里の手から離れ、床に落ちて軽い音を立てた。
何を言ってるんだお前は、というような顔で、でもそれと同じくらいに顔が緩んでいくのが見て取れた。
「君のことを、教えてほしいんだ」
7
自分の部屋に女の子を招くというのは、よく考えなくても人生初体験というもので我ながらどこにこの謎の行動力があるのかを知りたかった。しかしこうして彼女を連れてくるなら、もう少し色気のある部屋にしておけばよかったかもしれない。
机の上にはノートパソコンが一つ、そしてあとあるものはベッドと書棚くらい。彼女が期待しているかどうかわからないけれど、エロ本の一つもこの部屋にはありはしない。成年向けのものなんて、もう今はネットで事足りるようになってしまった。
さて、呼んだはいいけどどうもてなしたものか。
「とりあえず座って気楽にしててよ。確かまだドーナツと紅茶はあったはずだし、取って来る」
「あの、待って」
と、僕の身体は後ろへ引っ張られた。否、袖を掴まれた。
「その前に、教えてほしいの。どうして急に、私のことを知りたいなんて言ってくれたの?」
なるほど。確かにその疑問はもっともだ。彼女からすれば不思議で仕方ないだろう。きっと向こうからしてみれば、もっともっと長いスパンで考えられていたことだ。
けれど、どう答えたものか。数秒悩んで、結局のところ僕は正直に話すしかないと思った。当然彼女は驚いたし、複雑な表情をしていたけど、それもすぐに和らいだ。
「でも、それだけじゃない」
「?」
「僕はまだ変わることは怖いままだよ。それでも、それだけじゃいけないと、本当にどこかで思ったんだ」
「右京君って」
「うん」
「不器用よね」
言って、背中に柔らかいものが当たる感触がした。後ろから抱き付かれたと理解しても、パニックになることはなく、寧ろ冷静で、心がどこかに放たれていく感覚がした。
「私はね、ずっと、ず〜っとあなたのことを知りたいと思いながらでも結局わかってないんじゃないかって気がしてた」
「わかってはないよ。きっとお互い、停滞してただけだ」
動いているように見えて、止まっているだけだった。
「ねえ私たち進んでいいの?」
僕は頷いた。
8
高校の屋上というのは大抵、背の高い落下防止用のフェンスで囲まれていて、ましてや屋上に通ずるドアなんてのは厳重に施錠されていて、無理にでもぶち抜かない限り踏破できるはずもない。だから僕らの集まる場所は自然と体育館裏だった。
「お前さ、雰囲気変わったか?」
出会って開口一番それとは、なかなかに図々しい友人もいたものだ。
「だとしたら、そうかもね」
「へえ、ま、何があったかなんて容易に想像つくけどな」
「下世話だね」
「お世話したろ?」
「ちっとも」
「互いに束縛してる関係からは変わったか」
僕は少しだけ考えて、言った。
「そもそもそれは、間違いだったみたいだよ」
「あ?」
「お互いに、変わらなかっただけだ」
「そうかい」
以上、会話終了といった風に、僕らは別れた。
その足でそのまま家へ帰り、自分の部屋まで一直線。扉を開けると、当たり前のように伊万里がいた。とくに僕も動じずに、ただいまの挨拶をする。伊万里は待ちきれないといった様子で僕に抱き付いてきた。豊満な胸をこれでもかと変形させ、獣じみた欲求を煽ってくる。
それを堪えて、僕もゆっくりと彼女を抱き返した。
「ね、ダメ?」
耳元で彼女が囁く。
「まだ夕方だよ」
「関係ないわよ」
駄々を捏ねる言い方だった。
このまま情事ともつれこんでも、いいことは下半身にしかない。
だから僕は口を開いた。
「ねえ、一つ聞いていいかな」
「なにかしら」
「君の、本当の名前を知りたい」
僕の背中に回っていた手が、きゅっと力を込めるのがわかった。彼女の息遣いがすぐそばにあるから、どんな気持ちなのかが生々しく伝わってくる。
そもそも向こうの命名規則とこちらの命名規則が同じと思う方がおかしいのだ。でもそれ以上に、僕にとって、彼女にとって本当の名前を知りたいと言うのは。
変わりたいと、おそらく同じ意味だろう。
16/01/01 00:00更新 / 綴