連載小説
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前篇
1

 その日僕はなぜか、猛烈におにぎりが食べたくなっていた。普段、断固として朝食は米よりもパンを貫く主義である僕がどうしておにぎりが食べたくなったのか、その原因はさっぱりわからない。しかし、その不可避の衝動に駆られて朝一で愛機のロードレーサーに跨り、近場のコンビニに行ったことは無駄ではなかった。
 美雪さんがいたのだ。
 大和撫子という単語がそのまま擬人化したような容姿は本人にその気がなくとも、周囲の男性の注目を集めてしまう。それはコンビニであろうと例外ではなかった。店内にいたタンクトップのいかついおっさんであろうと、不健康そうな面構えをした店員であろうと、その容姿を横目で追っていた。無論僕もだった。
 だがこの中で僕は彼らよりもイニシアチブは上にある。
 こちらに気づいた美雪さんは少しだけ微笑むと、こちらに歩み寄ってきた。どくんと一際強く心臓が鳴り、自然と背筋が伸びる。

「おはよう。浅原君」
「おはよう、美雪さん」

 朝の挨拶をいつものように交わして、僕らはコンビニを出る。ちなみにちゃんと商品は買っておいた。商品を買わずに店を出るのは、その店に対する冒涜に他ならないので当然だ。紅しゃけおにぎり、一つ百円だった。
 それだけで懐中に大打撃を受けた僕は一足早い木枯らしをその身で味わった。

「珍しいね」
「ん?」

 コンビニ前で手っ取り早く朝食を終え、特にやることもなくなった僕らは雑談に興じていた。ささやかな交流だ。僕が少しだけ優越感を得られる、実にちっぽけな時間。だがこの時間のおかげで僕の心は平穏を保てているのかもしれない。そう考えるとちっぽけな時間でも馬鹿には決してできなかった。
 何より、美雪さんは美人だ。

「裏腹君はパン派じゃなかったっけ」
「浅原だよ。なぜか今日は無性におにぎりが食べたくなったんだ。美雪さんはないの?こう、なぜかある物が凄く食べたくなる瞬間って」
「私はあまりないかな」

 「そっか」とだけ返して、僕はそのまま黙る。視線はどこへうろつかせるでもなく、自然と美雪さんの方へ吸い込まれてしまっていた。綺麗、と思うと同時に、不思議な人だとも感じた。
 美雪さんと出会ったのは春、マンションに僕が引っ越した時だった。少しばかり――いや、どれだけお世辞に言っても小さいマンションだったけれど、そのぶん家賃は安くて僕としては理想的な物件だった。それなりの設備は整い、それなりに立地もいい。まずまずのものだ。とりあえずは、お隣さんくらいには挨拶をしておこうと思い、僕は数少ない部屋のドアを叩いて、絶句した。
 目の前に立っているのが、瞬きすることすら躊躇われる美女だったらそれは当然だ。息をするのも忘れて、一秒でも長くその目に姿を焼き付けておこうとするのが常人の反応だ。まして、目の前にいる人が昔好きだった人であれば。
 だが、しかし――彼女は。

2

 僕がまだ馬鹿をやっていた高校時代のこと。
 クラスに一人の女子がいた。
 名前を狐火美雪と言って、たおやかな子だった。大人しく慎ましく、活発に動いている姿をめったに目にすることがない、月見草みたいな女子だった。月の光を浴びればさぞかし映えるのだろうと、当時の僕はそんなことを考えながらも彼女に対して何らかのアプローチをすることは決してなかった。
 生意気なくせしてこういう色事には奥手というか、臆病だったせいも勿論あるがそれよりも、彼女には触れてはならないと思い込んでいたのが一番の要因だ。
 儚さを表す修辞は数えきれないほどあるが、そのどれをとっても表現できない何かが彼女にはあった。無理矢理にでも言葉にするなら、粉雪が一番近いだろうか。
 触れれば体温ですぐに消えてしまう粉雪。
 もどかしさも危うさも儚さも美しさも内包した存在が、彼女だった。
 センチメンタルにもほどがあるが、当時の僕は本気でそう思っていたのだから仕方が無い。結局僕は青春時代、ぼんやりと彼女を見つめてそれなりに恋心を抱きつつ、叶うことなく一人自己完結の恋を終わらせると同時に最盛期に終止符を打った。それからぼんやりと流れるように大学を過ごし、流れるように就職が決定してからも頭の隅にはなぜか彼女の影があった。いつまで時が経過しようともセピア色に褪せることがなく、僕は自分が高校時代に閉じ込められているような気分を味わっていた。
 女々しいことこの上ない。
 さて、社会人になった以上は職場に合わせて住処も変えなければならない。それが遠方ならなおさらで、そうした引っ越し先の挨拶で、彼女と出会った。再開した。
 しばらく言葉を失い、はっと我に返った僕は慌てて挨拶をしようとしたのだが、それを遮る形で彼女は

「あ、久しぶり、浅原君」

 そう言った。
 それだけで僕は(社会人にもなって)砂糖を胸に詰め込まれた気持ちになった。僕のことを覚えてくれていた事実が背中を擽り、思わず身悶えしそうになるのをすんでのところで堪えて、僕は表面上「ああ、久しぶり狐火さん」と返すにとどまった。喉元まで這いあがった本音はなんとか腹に収め、僕らは久々の再会もあって会話に花を咲かせた。
 おかしな話ではある。僕らの間に交流なんて、ほとんどなかったのに。
 しかし、交流はなくともお互い同じ高校にはいたので共通のエピソードには事欠かなかった。やたらと熱血な現代文の先生とか、体育祭で鈴木君が派手にずっこけてボロボロになったことだとか。
 他愛ないけれど、それでも話の種にはなることがあらかた出尽くした時、ふと彼女は僕を入ってこないかと誘ってきたのだ。彼女からすれば、立ち話もなんだし、みたいなニュアンスで口にしたのだろう。ただ、僕にとっては面接よりも緊張した。
 どう答えればいいのか、素っ気なくすればいいのか、それとも馴れ馴れしいくらいがいいのか、中間という手もある。瞬時にあらゆる思考がぐるぐると渦を巻いて、結局僕は「邪魔するよ」と無難な返事だけをして彼女のプライベートな空間に入った。

「あ、散らかってたかも。ごめんね」
「いいよ。気にしない」

 言ってから、もっと気の利いた言葉があったかと早速後悔する僕を他所に、狐火さんは紅茶を淹れていた。散らかっているなんて、社交辞令のようなもので実際の彼女の部屋にはきちんとした秩序があった。小奇麗で、可愛らしいぬいぐるみが何体かベッドの上に陣取っている。枕元には読みかけなのか、一冊の本が置いてあった。あとはハート型のクッションに小さなテーブル。そこまで観察してから、女性の部屋をまじまじと見るのは失礼だと気付いて僕は黙って座った。

「はいどうぞ」
「ありがとう」

 紅茶を受け取り、素直に口に含むと芳しい茶葉の香りがした。
 狐火さんはベッドに座ると、自分の分の紅茶をカップに注いでからゆっくりと啜っていた。ほっと一息ついたところで、

「それにしても本当に久しぶり。高校時代の人に会うなんて」

 本当に久しぶりそうだったので、僕はその言葉に違和感を覚えた。

「え?狐火さんはメールとかでやり取りしなかったの?今度会おうぜとか」
「う〜ん」

 首を傾げ、記憶を掘り起こす仕草をしてから狐火さんは少し自嘲気味に笑った。地雷を踏んでしまっただろうか。怖くなった僕は慌てて弁解しようとするが、それも遅かった。
 微かに憂いを含んだ声だった。

「私、友達とかいなかったからなあ」
「そう。そうなんだ」

 何がそうなんだ、だ。頭の芯から痛みがした。無理して笑い飛ばそうにも、笑いが零れることはなく、重いどんよりとした空気だけがその場に滞留する。口を開こうにもねばついた空気は唇をぴったりと接着させてしまい、満足に喋ることは叶わない。

「でも特に寂しいとかはなかったかな」
「そうなの?」

 明るい口調の中に曇りは見られず、僕は思わず疑問符をつけた。狐火さんは一人が好きなのだろうか。だとしたらそれは僕には到底真似できそうにない人生だ。適当な人生であれども、僕の傍には誰かしら友達はいた。隣に、周囲に誰もいないというのはちょっと想像できない。単に僕の脳味噌がお粗末なだけかもしれないが。

「私には本があったから」

 紅茶を一口啜って、彼女は続けた。僕も紅茶を飲んでいるのに、ひどく喉が渇いた。

「それでいいの」

 髪をかき上げて言う彼女から、うっすらと香水の甘い香りがした。しばらく会わない間に儚さに磨きがかかったようで……というか、このまま磨かれていけばそのうち存在すら消えてしまいそうな気がして、僕は不安になった。
 吐息が熱っぽく感じられ、情緒が安定していないのが自分でもわかる。いや情緒不安定というよりは、不安で仕方ない。
 好きだった子のちょっとした秘密――おそらくは知らない方が幸せだった部類――を知ってしまい、その責任感に苛まれている。責任感?違うだろう。責任を感じるよりは、無配慮な自分を恥じる方が先だ。
 しかし、一方で何とかしてあげたいと馬鹿なことを考える自分もいることは無視できなかった。それはきっと褒められた感情ではないし、模倣されるべき行動でもない。わかってはいても、歯止めなんてかけられないのが人間だ。そう自分に優しい言い訳を作って、僕は白々しい声で言った。

「友達に、ならない?」

 自分で言って寒気がした。理性が一瞬で全身を底冷えさせ、あまりにも愚かしい行為に自分で引導を渡したくなる。夢の見すぎた。現実はそんなに甘美なものじゃない。二、三度呪詛めいた言葉を胸中で渦巻かせ、前言撤回をさせてもらおうとしたとき、無機質な音がした。
 何かが割れる音。
 僕は最初それが何なのかわからなかった。音から数秒遅れてようやく、それが彼女の持っていたカップのものだと気付いた。
 数秒、時間が凍り付いてお互いに何が起こったのかわからない顔を浮かべていた。ただその呪縛も、ものの数秒のことだったので、すぐに我に返ると慌てて壊れたカップの破片を拾い集めていた。

「ごめん」
「ううん。いいの」

 空気に溶けて消えてしまいそうな小さな言葉を吐きながら、割れた欠片に手を伸ばす。手っ取り早く片づけた後は、近くにあったティッシュを拝借して床を濡らした紅茶をさっと拭った。
 結局その日は特にそれ以上のことは何も起こらず、僕は彼女の部屋を出た。
 去り際に彼女が言った、「また来てね」という言葉だけがやけに耳に残り、僕は変な気持ちになった。
 と同時に、僕はあることを思い出した。生意気にも、恥ずかしくも問いかけた友達宣言を撤回するのを忘れていた。
 わざとじゃないのかと考えるが、あれは偶然、タイミングを逃しただけの話だと思い直した。何より僕に、今さら閉められたドアを再び開いてそのことを伝える度胸はなかった。

3

 それから狐火さんに再び出会ったのは三日後のことだった。僕に会いに行く勇気がなかったという話ではなく、引っ越しのごたごたで忙しかった。小物の整理や冷蔵庫などの大物電化製品の配置は予想以上に手間取るものだ。
 ようやく三日経って文字通りその重荷から解放されたとき、ちょうど彼女が僕の部屋を訪ねてきてくれた。

「ご飯でも一緒にどうかなと思って」

 魅力的な提案を断るはずはなく、僕はすぐに頷いて外出の支度をした。
 案内されたのは結構おしゃれなレストランで、席についてから周囲に視線をやると、カップルの多さがやけに気になった。
 なんだか自分だけ場違いにいるような気がして、思わず俯く。彼女は常連なのか、偶然傍を通ったウェイターに親しげに声をかけ、早速注文をしていた。僕も慌ててメニューを手に取り、どれがいいものかと思案するが、どれもこれも自分を食べてくださいといわんばかりに美味しそうな写真で自分を着飾っていて、迷ってしまう。
 ……というか、値段が書いていないけれど、高いお店なのだろうか?
 ふと過ぎった不安に、そこは男の甲斐性でなんとか……と意味不明な納得をしてから、僕はオムライスを頼んだ。

「オムライスなんだ」

 狐火さんは少し意外そうに言った。

「え?」
「ここのパンすっごく美味しいから、てっきり浅原君はパン頼むのかと思ったよ。サンドイッチとかもボリュームたっぷりなの」
「それ、先に言ってよ。最優先事項だ」
「あはは。ごめんごめん」

 少々、いやかなり本気で落ち込みかけた。何か仕返しをしてやろうという気持ちがむくむくと首をもたげたが、しかしそれも情けないと思い自制する。こういうときは会話の雰囲気を楽しむものだ。たかがパン一つに本気で一喜一憂してどうする、僕。
 でも食べたかった。

「なんだか未練がましい顔をしてるね、裏腹君」
「腹に一物隠してそうな名前だね」
「あれ?」

 わざとらしく、あざとく首を傾げる。こんな一面もあったのかと、不覚にも年甲斐なくときめいてしまった。心だけ玉手箱の煙を浴びてしまったような、そんな感じだ。中学生みたいな恋を、二十歳を過ぎてしてしまうのはまずくないだろうか。

「片腹君?」
「不服でも?」

 いやまずくないだろう。
 違和感は雲散霧消して片付いてしまい、僕は純粋にこの食事を楽しむことにした。しいて言うなればカップルが多い中で、僕らはまだそんなに進展した関係ではないことがちょっぴり不満であり、不安でもあったがそれは些細なことだと、気にしないようにした。
 それを気にしてしまうと、僕の口は呪詛を垂れ流しにしてしまうに違いないという確信があった。

「で、浅原君」
「やっと呼んでもらえた。なに?」
「浅原君は大学に入ってから無事卒業するまで、何をしてたの?」
「あれ、言ってなかったっけ」
「言ってないよ。この前お話したのは高校の時の話ばかり」
「そっか」

 比較的新しい記憶を思い出すことにはさほど苦労しなかった。高校時代、数学と理科が特別苦手だった僕は大学に入るならもう二度と数字に触れ合わない学科にしようと決めていた。そんな僕が文学部がある大学に狙いをつけたのは至極当然で、不純な動機だけども強固たる決意の下で必死に受験勉強をした。その血の滲むような熱意(不純だが)が実を結び、無事某大学の文学部に入学することができた。
 これでもう数字の羅列と目を覆いたくなるようなテストの点数に束縛されないと思うと、当時の僕は非常に晴れやかな気持ちになったものだった。数学の先生からは若干冷めた目で見られていたが。

「そういえば、浅原君は理系科目ほとんどダメだったんだっけ。よく呼び出されてたもんね」
「言わないでくれ」

 自分でもよく単位がとれたと思う。逆に考えれば、数学の先生には意外と温情を頂いていたのかもしれない。
 兎も角、そうして大学に入った僕はそれから――驚くほど何もない日々を過ごした。言葉にするなら、灰色の日々だ。セピア色にしようとしてもそれすら無理なほど、無味乾燥したような日々。今でも思い出そうとすると少しもやもやとした気分になる。この気分に名前でもつけてやりたい。
 ひたすらに単位を取得して、留年はなんとなくまずいだろうという漠然とした強迫観念から、真面目を貫いた。
 それ以外に何があったわけでもない。ある意味、究極の負け組かもしれない。
 ……なんてことを彼女に話しても仕方がないので、ある程度面白おかしく脚色して大学での日々を話した。
 小気味よく愉快そうに笑う彼女の様子だと、本当の話だと思ってくれているだろう。ひょっとすると僕にはペテン師の才能でもあるのかもしれない。一年で牢屋の中にいそうだが。

「あっははは。それじゃあ浅原君、充実してたんだね」
「そうだね」

 大半は嘘だが。

「さて、僕は大半のことは話したし、次は狐火さんの番だ」
「う〜ん」

 困った顔をするが、そんなことは関係なかった。ここまで僕は(嘘を交えて)語りつくしたのだから、彼女も話してくれなくてはフェアじゃない。という建前に隠れて、実際には彼女のことを知りたいという欲求があるのが真実だった。
 それは、この前のことにも起因する。
 友達がいないと言った彼女に、昔の話をさせるのは酷なことかもしれないが、僕はそれでも知りたいと強く思うようになっていた。それはもはや好奇心を超えていた。いや、超える、とはニュアンスが違う。もともとあったものから好奇心を排して、もっと純粋な、純度の高い感情に固めたもの。
 それを世間はなんと呼ぶのかは、考えなくてもわかった。
 何が彼女の口から飛び出そうとも、受け止める。
 決意を胸に秘め、僕は彼女が口を開くのを待った。どれくらい待っただろう。おそらくそんなに時間は経ってない。数十秒程度。

「あのね」

 来るか。
 咄嗟に背筋を伸ばして身構えた僕が聞いたのは、まったく想定外の言葉だった。

「その狐火さんって呼び方、やめない?」
「へっ?」

 完全に不意打ちだった。暗夜の礫だった。奇襲だ。
 洋食屋さんに行っていざメニューを開いたら、中身は和食ばっかりだったみたいな感じの不意打ちだ。まさか呼び方について話されるとは露ほども思っていなかった僕は思わず間抜けな声をあげていた。きっと彼女からは僕の頭に疑問符が浮かぶところまで鮮明に見えただろう。

「な、なんで」
「なんでって……なんだかよそよそしいし」
「そうかな」
「そうだよ」

 戸惑う僕と、不満そうに口を尖らせる狐火さん。でも言ってることは本当にわかってるのだろうか。下の名前で呼ぶことは、けっこう重大なものだと思うのだけれど、彼女はそうではないらしい。

「じゃ、じゃあ」
「……」
「美雪さん」
「うん」

 得心し、笑顔で頷く彼女とは違い、僕は微妙な表情になっていたに違いない。名前を呼んだだけで、背中にむず痒い何かが走りだし、全身を擽られているような違和感がしてくる。なんだこれ。なんだこれ。巷に溢れているカップルは、いつもこんな感覚を味わっているのだろうか。だとしたら、僕はまだまだ新米なのだろう。この感覚一つで、奇妙な満足感が得られてしまっている。
 いや、関係すらまだ構築できていないので新米にも参入してはいないが。

「それじゃあ、私の番ね」

 にっこりと微笑を浮かべる彼女を見、心臓が早鐘のように鳴った。本当に、彼女は色々な意味で僕を虜にしている。まるで、僕の理想としていた彼女がそのまま現実に現れたかのような、完璧さ。
 しかしそれとは違い、話自体は重たいものだった。

「私は小さい頃から、高校を卒業するまでちょっとした病気だったの。激しい運動とかもたまにするくらいなら平気だけど、持続的に続けると大変なことになる……みたいなね」

 曰く、その病気は彼女の青春を怪盗よろしく掻っ攫っていったらしい。濃密な時間を構成するはずの運動部には参加できず、かといって文化系の部活には独特の派閥が形成されており、明らかに初見でも歓迎される空気ではない。結果としてならばいっそのこと、と彼女は覚悟を決めてぽつんと教室に佇む、こけしみたいな存在になることにしたのだという。
 陳列はされているし、存在を認められてもいる。けれども、積極的には関わられない。ある意味、一番残酷だ。無視ならば踏ん切りもつくだろうが、そうではない。そこにいると知覚された上で、関係も何も作られないのは、拷問に近いものがある。
 少なくとも、薄っぺらくてもそれなりの交友があった僕はそう思う。

「まあ大学に入ると病気も治ったんだけどね、もう自分から友達作るのは無理なんじゃないかなあって思ってたら、いつの間にか社会人になっちゃってた」
「うん……」

 こういう時に、気の利いた言葉一つ吐き出せないと粗末な出来をしている脳味噌を呪いたくなる。
 煮えたぎる喉が、何かを零そうとするのでそれを必死に堪える。また何か余計なことを口走ってしまいそうで、怖かった。
 好奇心以上のそれを抱きながら、踏み出せないジレンマに焦がされる。簡単に言ってしまえばヘタレだが、誰だって失敗は怖い。リセットなんて出来ない、一回きりの挑戦なんだから怖いに決まっている。

「だから、言ってくれて嬉しかったな」

 だから、僕はこの言葉に救われた。

「友達にならない?って」

 その言葉の意味するものをわからないほど、僕は鈍感ではない。
 たおやかな笑みを浮かべる彼女に、僕はやっと自分の恋心を自覚できたのだと確信した。

4

 食事を終え、僕は彼女の部屋にお邪魔していた。僕らは何を言うでもなく、ただ黙ってじっと座っていた。何か言いたくはあるが、場の空気がそれを許さない。重く、深い沈黙が僕を不安にさせる。実際には僕は、あの食事の後すぐに帰ろうとしたのだ。もっとも彼女はお隣さんなので帰り道はずっと一緒で、自分の部屋につくと僕はばいばいとだけ言って部屋に籠るつもりでいた。
 いたのだが、それは叶わなかった。腕を掴まれ、待ってと力強い意思のある声が聞こえた。驚き、振り向いて僕は思わず生唾を飲んだ。朱に染まった頬に、少し潤んだ目。そして微かに震えている唇が開かれると、

「あの、部屋に寄っていきませんか」

 たぶん僕は何か適当な返事をして、彼女の部屋にまで連れ込まれたのだろう。そして今、僕は彼女にかけるべき言葉を見失っていた。これから何が起こるのか、男の本能が僅かに期待を寄せる一方で、そんな都合のよいことがあるかと理性が冷静に諭す。
 それでも期待はむくむくと膨らむばかりだった。実に単純な男の回路に辟易するが、それでも自分も男である以上、それに逆らうことはできない。
 せめて今残っている理性を総動員して、僕は彼女の言葉を待っていた。
 どれくらい時間が流れたのか、やがて僕らの距離は縮んでいった。言葉はなく、ただ顔だけが近づいて、呼気が頬を撫でるまでに近くなる。このまま、このまま触れてしまえばきっと僕の中の獣は鎖を外されて狂う。そんな確信を抱いたまま、互いの唇が少しだけ触れた。
 瞬間、ものすごい速度で互いに離れ、信じられないといった表情になる。普通のキスとは違う、言葉にできない感覚で味わったそれは、一瞬だけにも関わらず僕の頭を埋め尽くした。
 気分が高揚し、視界がちかちかと明滅する。ゆっくり彼女に近寄る。彼女は逃げなかった。服に手を伸ばしても逃げないのを同意と受け取り、僕はゆっくりと彼女の衣服を脱がした。

「……っ」

 細い息だけを吐く彼女の反応に少し躊躇ったが、それでも僕はもう抑えることは不可能だった。色々な媒体で手に入れた知識を頼りに彼女の身体を弄っていると、徐々に可愛らしい声が唇から洩れ出、肉欲を煽った。
 反応する彼女がいちいち、罪なほどに愛らしい。
 行為に没頭しながら、僕は彼女の頬をそっと撫でてみた。柔らかで手触りのいい、女の子の肌だった。

「私、今……」
「ん?」
「幸せです」
「……うん」

 息も絶え絶えになりながら汗を浮かばせて呟く彼女を見、僕はさらに彼女を求めた。耳元で聞こえる上気した囁きも、性器から送られてくる快楽もどれもが彼女のもので、その事実だけでひどく僕は幸福感で満たされた。
 ぽっかりと空いた青春が、色で埋められていく。彼女の色はそれは鮮やかで儚げで、魅了されるには十分なものだった。独占欲と依存性が淫らに溶けて、狂おしいほどに好きになる。
 その日僕たちは、夜の闇が深くなるまでまぐわった。彼女が求めてきた理由も理屈も抜きにして、今はただ、その体温に触れていたかった。
 目が覚めると、既に太陽が顔をだし、スズメは電線に起用に乗っかってぴーちくぱーちくと囀っていた。昨夜の幸せな記憶で頬が緩むのを自覚し、口元を引き締めようとするが、どうしても違和感を感じてしまう。
 首を傾げてから、それが口元の締まらない違和感ではなく、隣に誰もいないことへの違和感だと気付いた。昨夜あれだけお互いに精根尽き果てカラカラになるまでして、てっきり隣で彼女もぐっすりと眠っているものと思い込んでいた僕は、途端に嫌な予感がした。
 あれは僕の独り善がりで、彼女は(自分の部屋だが)出て行ってしまったのではないか、はたまた、彼女の性格からは考えづらいが、美人局にはめられてしまったのではないか。様々な案が錯綜し、絡まった。
 それはすぐに、おはようと飛んで来た声で解かれた。
 既に服を着た彼女はエプロンをつけて、大きな鍋を手にしていた。

「お味噌汁。やっぱり朝はこれだよね」
「あ、うん」
「どうしたの?」
「いや……その、ありがとう」

 ふふっと短く笑ってから、彼女は味噌汁を汁椀に注いで目の前に持ってきた。まだ覚醒して間もない頭に、味噌の香りが直撃し、腹の虫が鳴った。

「本当に美雪さんって、僕の理想の人だよ」
「……そうかな。ちょっと恥ずかしいよ」
「いや、なんていうかさ、僕が思っていた通りなんだ」
「ねえ、早く食べないと冷めちゃうよ?」
「そうだね」

 その前に君を食べたいなんて台詞が湧いてきた僕の頭を吹っ飛ばしたくなるが、それはぐっと堪えて今は目の前の馳走を堪能することにした。とっても美味しいと笑うと、彼女は照れ臭そうに俯いた。そこで僕は彼女の名前を呼んだとき、擽ったさやむず痒さを感じなくなっていることに気づいた。それとは別に、一種の清々しい気持ちが胸の中にあった。情交はここまで一気に人を成長させるものなのかと感心しつつ、名前を呼ぶだけでこんな気持ちになるのなら、連呼したらどうなるのだろうと思った。
 ただ、それは美雪さんにまず間違いなく嫌われるのでやめておいた。
 そこから先は、少々話すのも恥ずかしい。それから連日、僕は彼女の部屋に滞在して何度も彼女を求めた。肉欲にまみれた僕のことを彼女は優しく抱きしめ、受け止める。そんな彼女に僕はどんどん溺れていった。
 本当にこればっかりは、どうしようもなかったのだ。薬物のように強い快楽が、それを上回る幸福感が人を堕落させることは、本当にある。
 いや、手に入れた幸福を手放したくなかったのかもしれない。
 小さい子どもが折角捕まえた小動物を籠に入れて、逃げれなくするように……それと同じように、僕は手放したくなかったのかもしれない。
 手放したくない。
 愛したい。
 二つの感覚がふと顔をだし、気づいたときには両手でも溢れてしまうくらいに湧き上がるそれらが、心地よかった。

5

 生き物は飲み食いをしなければ生きてはいけない。それは人間だってそうで、僕らだってそうだ。いつまでもぐちょぐちょと絡み合っているわけにはいかない。お互いに、プライベートなことだって、社会で果たすべき役割だってある。
 理想の彼女と一時でも別れるのは辛く感じたが、それを素直に発露するほど子どもではない。中学生のような恋をしたからといって、僕自身は中学生ではないのだ。
 ぐずる心にそうしてなんとか折り合いをつけ、僕は入社式を無事終わらせていた。
 諸々の煩雑な手続きやらも終え、てくてくと一人帰路につく。帰り道はやけに暗く、月が顔を出していないせいだと気付いた。入社式がある日だ、せめて僕の道を慎ましい光で照らしてくれてもいいのではと思う。
 自分の部屋の前にまでつくと、無性に隣の扉をノックしたくなった。美雪さんの扉だ。ここまで節操がないのもどうかとは思ったが、それでも顔を少し見られるだけでも嬉しい。
 試しにノックをしてみると、寝ているのか外出しているのか気配はなかった。

「まあ、そんな都合よくないよな」

 口にしつつ、それでもちょっと寂しいと感じるのはまだまだ幼稚なせいなのだろう。苦笑いしながら自分の部屋へと入り、ベッドに寝転んだ。流石に入社式などで疲れは溜まっていたらしい。すぐに睡魔が意識を底に沈めていくのを感じ、僕はそれに身を委ねようとした直後――
 ブルルルル。
 不快なバイブ音が響き、携帯がポケットからまだ寝るには早いぞと抗議の声をあげた。電話をかけて来たのは、高校時代の友人の冲方だった。

『よぉ。元気してるか?』
「元気に眠ろうとしたら妨害された。元気じゃないよ」
『悪い悪い。社会人生活はどうかなと思ってさ』

 悪い、なんて言いながら冲方の口調はいつものそれだった。明るくておちゃらけたような、存在自体が軽い奴。できるものならこいつに国語辞典の『悪』という項目を百回音読させたい。
 まあ、それも冲方が相手では徒労に終わるだろうが。それでも、その軽さは時に気分を紛らわせてくれる、ありがたい奴だった。美雪さんに会えなくて落ち込んでいる気分を持ち直すには丁度いい。……いつも喋りたいとは思わないが。

「そっちは大学院だっけ?天才は羨ましいね」
『言うなよ。院政も結構忙しいんだぜ?』
「合コンとナンパで?」
『もちろんそれもあるけどさ、真面目に研究したりとか』
「前者を否定しなかったお前を今すぐ殴ってやりたいよ」
『今お前の後ろにいるぜ』

 気味の悪いメリーさんだ。聊斎志異あたりに収録されているに違いない。
 想像して思わず口をへの字に曲げていると、訝しげな声が聞こえた。僕は今まで冲方のそんな声を聞いたことがなかった。良くも悪くもそういうやつなので、マイナスの感情とは無縁だと思っていた。いや、さすがにひどい評価だとは思うが。

『お前、声に余裕があったな』
「よ、余裕?」
『ああ。合コンだとかナンパだとかの時。お前どうしてそこまで余裕があるんだ?普通俺らの歳で女がいないとなると焦るだろ』
「声音で判別とかどこの名探偵なんだよ」
『お前……抜け駆けしたな?』
「しちゃダメって約束をした覚えはないよ」

 結局その後、僕は理不尽な冲方の怒りをかってしまい、質問攻めにあった。彼女のスタイルはだとか、性格だとか。下世話だがどこまで進んだのかとか。あまりの気迫に僕は気圧されてしまい、丁寧に一つ一つを答えてしまった。別に断ることも可能ではあったが、携帯越しの冲方の声に微妙に悲哀の色が混じっているのを感じ、僕の中の同情の念がそれをさせなかった。
 あんなちゃらけたお気楽な奴にも焦りがあったのかと、場違いな感動も抱きつつ僕はなぜか冲方より一歩上の地位にいるような優越感に浸っていた。我ながら器が実に小さい。

『もーいいよ。どうせ俺は一人置いてけぼりをくらって老後は寂しく孤独死を迎える運命なんだよ』

 質問攻めから数分経った頃にはすっかり不貞腐れた冲方がいた。姿を確認できないが、きっと携帯の向こう側では口を尖らせてじたばたしている。根拠もない確信があった。
 僕はそれなりに言葉を選んで慰めようと試みたが、ショーケースのトランペットをねだる子どももかくやという勢いで声を荒げる冲方に説得は無意味だと悟ることになった。

『あーあー。一人先に童貞まで卒業しやがって』
「言葉は選ぼう」
『一人先にセックスしやがって』
「悪い方を選ぶなよ」

 ここまで拗ねられるともはや同情を通り越してうざったいとすら感じるが、無慈悲に通話を切るわけにもいかず、半ば小言と化した冲方の言葉に耳を傾け続けた。
 数分は真摯に耳を傾けたが、それもさらに時間が経つと般若心経に近いものになっていたので、僕は無理矢理会話を区切らせた。明後日から栄えある社会の歯車として、身を粉にして働かなければならないこと、そして明日がその歯車になる前の唯一の休日なので思うがままに羽を伸ばしたいことを告げると、まだ不満が残っていそうな冲方も渋々通話を切り上げることに了承してくれた。

『ああそういえば最後に一つ』
「もう小言は――」

 これ以上素直に聞いていたら夜も更けてしまう。直感的に告げた理性が先手を打とうとしたが、それでも冲方は本当に最後だからとしつこく縋り、僕はその熱意もとい執念に挫けてしまった。

『あのさ、すっかり訊くの忘れてたんだけど、お前がつきあってるその子、なんて名前なんだ?』

 本当に今さらだ。
 言いかけた口を慌てて閉じ、咳払いを一つしてから、僕は答えた。

「狐火美雪さんだよ。ほら、冲方も知ってるだろ?同じクラスだったし」
『狐火……美雪?』
「うん」
『狐火……』

 確認するような口調でぶつぶつと繰り返す冲方だったが、まさかとは思うが覚えていないのだろうか。いや、目立たない方だったし無理はないかもしれない。

「ほら、覚えてない?珍しい名字でさ」
『いや、覚えてる!覚えてるけど、でも……』

 なんだ?
 ぞわりと、腹の中で何かが蠢いた気がした。妙に身体に力が入って、固まる、という感覚がはっきりとあった。
 心の隙間を縫うようにして、不安が芽を出した。
 なんだ?さっきまで楽しく会話をしていたはずなのに、一瞬で全てが微妙にずれてしまったかのようなこの違和感は、なんだ?
 違和感の答えも、それをもたらした答えもわからなかったけれど、僕はそれをなんとなく求めたくなった。
 なぜか、それを知らないと牢屋で解放を待つ囚人のような気持ちが続くと思った。

「でも、どうしたんだよ。美雪さんがどうかしたの?」
『いやでも……やっぱりそれはおかしいぜ?』

 携帯越しに聞こえる冲方の声には明らかな不信感の色があり、僕はそれが気になった。もやもやした気分のまま終わりたくない。せめて、もやを晴らしてからぐっすりと眠ってしまいたかった。

「だから、なにがおかしいんだ?」

 だが、僕は知っておくべきだったのだ。人をどん底に突き落とすのはドラマだって現実だって過ぎた好奇心によるもので、知らぬが仏という言葉の有用性は確かに存在するのだと。

『狐火美雪だろ……たしか、三日前に死んでるぜ?』

 返事が出来なかった。自分の指は勝手に通話を切断し、ツーツーという規則的な音が耳朶をうち、現実感を曖昧にさせた。
 自分の記憶では、つい昨日も会話をしていた。身体のぬくもりも、その残滓は僕の胸に残っている。でも、ならばあれは、誰だ?
 狐火美雪は、いったい誰だ?
 幻想でも、見ていたのだろうか。
 僕は美雪さんの笑顔を思い出そうとした。でも、それはなぜかテレビの砂嵐のようなものに拒まれて、ひどく曖昧な輪郭しか思い出せなかった。

6

 コンビニの前で、彼女の横顔を見た。顔立ちの整った、綺麗な顔。とても、……死んだとは思えない顔だった。黙って携帯を開く。そこには冲方から送られてきたメールがあった。昨夜、混乱のあまり通話を切った僕にすぐメールがとどいた。
 その内容は、狐火美雪の、僕の恋人がどうやって死んだかという内容だった。
 冲方曰く、人づてだが狐火美雪は三日前に、交通事故により死んでいると。信号無視の車に轢かれて即死だったらしい。なぜその連絡がこなかったのかといえば、それは人脈以外に理由がない。友達がいなかった彼女は、連絡もそれこそ少数にしか回らなかったのだ。女子の間にも連絡はいくつかいったらしいが、それでも。
 存在しながら存在していない彼女は、ひっそりとその生涯を終えていたことになる。
 僕と肌を重ねながら、死んでいたことになる。
 そんなことが、ありえるのか?
 死にながら、こうも存在感を放つことが、できるのだろうか。まだ冲方の勘違いという可能性もあるが、だがそれは期待度も薄かった。
 もう一度、彼女の顔をちらりと見る。
 綺麗で、可愛い顔だった。僕はその顔に、色んな表情が潜んでいることを知っている。
 上気しながらも必死に求めてくる健気で愛らしい顔も、ちょっとしたことで笑うことのできる無邪気な面を、外見からくるイメージよりもずっと多くのものを狐火美雪は内包していることを、知っている。
 なのに、死んでいる?
 剥き出しになった大切なものが、彼女の手に握られていると本気で思った。自分はこれからどうなるんだという思いと、彼女をいったいどうすればいいんだという思いが絶妙にブレンドされてとぐろを巻いた。

「美雪さん、そこにいる?」

 なぜか、自然と言葉が洩れていた。

「……どうしたの?へんなの」

 まるで今日の朝ごはんを訊ねられて、いつものお味噌汁と答えるような自然さだった。相手の言っていることの意味がわからない。けれど、とりあえず答えるような、誤魔化した風ではない声音。
 瞬時にそんなことを問うた自分を恥ずかしくなり、かぁっと顔が熱くなった。それでも疑問を拭い去ることはできず、また同じ問いかけをしたくなる。
 惚けているだけなのかもしれない。訊き方がまずかったのかもしれない。多数の「かもしれない」が囁き、混乱させる。
 踏み込まない方がいいのかもしれない。
 それが一番大きな「かもしれない」だった。
 もし彼女が本当に死んでいたとしたら、僕は失うかもしれない。過ごした時間は短くても、想っていた時間は、それよりもずっと長い。彼女が死んでいると証明されるのは、僕の想いもすべて無駄だと足蹴にされているようで、ぞっとしない。いや、ぞっとしないなんてものじゃない。否定され、居場所を失ってしまうに等しいとすら思えた。

「そうだね」

 唇が、震えていた。

「へんだ」

 へんだけど、確かめなきゃいけない気がするんだ。別に違っていたら、ごめんなさいと謝ってそれで終わり。それでいいんだ。それで済む話なんだから。

「ねえ美雪さん」

 口さがないうわさ話だと、単なる根拠もない流言飛語だと、そう言ってくれればそれでいい。
 勇気とかそんなよくわからないものに駆られて、問いかけた時、それを絶妙なタイミングで携帯が邪魔をした。メールが来たらしい。送信者は、冲方だった。
 見たくないと思う一方で、見なきゃいけないとも思う。悩みながら結局メールを開いて、僕は後悔した。
『通夜はもう終わって出棺前だそうだけど、お前はどうする?』
 喪服の人たちが集う写真までご丁寧に添付され、時間が凍り付いた。もう疑い余地はない。狐火美雪は、死んでいる。
 身体から力が抜けてしまった。ぺたんとその場に座り込んでしまい、深い溜息が洩れた。美雪さんがすぐに大丈夫かと声をかけてくれたが、返事はちゃんとできなかった。
 今まで何をしていたんだ、僕は。
 死人に温みなんて感じて、数年越しの恋が実ったなんて舞い上がって。挙句の果て盛りの付いた猿になって。
 それもこれも意味のないことで、壮大な一人相撲だったのだろうか。
 美雪さんに肩をかりてようやく立ち上がり、ふらふらと情けなく僕たちは帰った。途中なんども美雪さんが心配そうに僕を見てくれたが、それもなぜか空しいものに感じてしまい、その場にいたくない気持ちの方が強かった。
 一歩一歩が緩やかに、けれど確実に地面を踏んでいるという自覚がほしい。今僕は沼の上を歩いているような不安定な気持ち。触ってしまえばすぐに崩れる積木と同じ。
 揺れに揺れて、自重で圧潰してしまわないのが奇跡のようなバランスで、なんとか自己を保てている。
 ほんのわずかでも外部からの力が加われば、一瞬で自壊する。

「きっと疲れてるんだよ。一日、ぐっすり休もう?」

 そう健気に気遣ってくれる彼女に対して、僕はいたたまれない気持ちになった。
 美雪さんは綺麗だと思う。可愛いと思う。美しいと思う。愛しいと思う。
 だが、しかし、もしもそれが『死んでいることに起因するものだとしたら』どうなのだろう?儚さだとか、今にも消えてしまいそうな美しさだとか、この世のものとは思えない愛らしさだとか。それらは、もし美雪さんが死んでいるのなら、当たり前なのではないだろうか。
 文字通り死んでいるなら、彼女と僕とでは次元が違うのだ。世界が違うのだ。この世のものとは思えない魅力を孕んでいるのは、当然だ。この世の者ではないのだから。
 ……いや、違う。
 たとえ彼女が死んでいるとしても、僕が彼女を好きだった事実だけは変わらない。死者がまだこの世に彷徨っているなら、せめて成仏させてあげるのが、責務ではないのだろうか。
 そう考えたのは、僕が逃げたかったからだろうか。
 日常が足下から瓦解していく感覚から逃げて、折り合いをつけたかったからだろうか。
 自分の気持ちの答えすら知らぬまま、振り子のごとく左右にぶれて安定しない心情の慣性に従い、僕はそう思うことにした。
 そう思わなければやってられなかった。
 もし、この世界に恋人が死者であっても平然としていられる人がいるなら、僕の前に名乗り出てきてほしい。問答無用で顔面に拳を叩きこむ。
 生きていない、というのはそれだけでショックなことだ。

「ねえ、成仏する気はないの?」

 震える唇から、いつの間にか言葉が出ていた。
 気づけばもう部屋の前で、こんな場所で自分はとんでもないことを言ったのだと、遅い後悔が襲ってきた。が、文字通り遅い。
 死者にさらに死ねと追い打ちをかけているものだ。しかし彼女の返答は僕の焦りをさらに凌駕した。

「え?何それ?」
「え?」
「成仏……って。いやいや、私まだ死んでないよ」

 息が、止まった。がちりと肺を鷲掴みにされたのか、呼吸がうまくできない。

「そ……っか。そうだよな。そうだよ、ね」
「そうだよ?へんなの」

 僕らはさよならを言ってからお互いの部屋に戻った。鍵をかけ、ドアチェーンを下ろしてからようやく大量の息を吐き出せた。酸素が回らないせいか、がんがんと頭に痛みを感じる。だが、それよりも、今はそれよりも気にしなければいけないことがあった。
 彼女は、狐火美雪は、僕の恋人は。

「自分が死んだことに気づいていない……」

 言葉に出して、やっと現実感が、嘘のような現実感が戻ってきた。言葉は炭酸水のように消えてしまい、輪郭を保てずにいる。いや、保てていないのは、平常でいられていないのは僕だ。

7

 僕の脳裏には、ふたつのイメージがあった。一つはとてもきらびやかなイメージで、もう一つは仄暗い海の底にいるイメージ。ぬるくなったビールを口にしながら、僕はそれらのイメージにどっぷりと浸っていた。アルコールの手助けをかりて、脳味噌を鈍く鈍く、ずっと深い場所にまで沈ませる。そうでもしなければやってられない。
 今まで酔い潰れるほどお酒を嗜んでいなかった僕が急にヤケ酒に走ったせいか、さっきから頭が疼痛をうったえて仕方ない。二日酔いまっしぐらだ。
 そして気づいたことがある。どうやら僕にとってアルコールは気分を紛らわせるものではないらしい。居酒屋の喧騒のような、楽しいものなどない。
 さっきから嫌なことを思い出すばかりだった。
 高校時代、本当は一度だけ美雪さんと話したことがあった。席替えで隣同士になり、神様は本当にいたのだと感激した高校時代の一か月。その中でたった一回だけ。
 落ちたケシゴムを拾ってあげるという、ただそれだけの行動で会話はできた。
 落としたよ。ありがとう。ねえ美雪さん。ん?美雪さんの好きなことって、なに。……ひみつ。
 たったこれだけ。最前列だったのでそれ以上話をして教師の小言をくらうわけにはいかず、僕は素直に前を向いて授業に集中した。
 僅かな会話だったけど、濃密だと、思った。あのとき美雪さんが言っていたひみつとは、ひょっとしてこのことだったのではないのか。
 いや、馬鹿げている。それなら美雪さんは死にながらみんなの目を欺いてきたことになる。
 わからない。わからない。
 狐火美雪が、わからない。
 内心で深い溜息をついた。僕と会っていたのは、肌を重ねていたのは間違いなく正真正銘の狐火美雪だ。ぬくもりも、言葉も仕草も本物だ。なのに既に彼女は死んでいる。スケールが大きすぎて、既に許容量を超えていた。僕の記憶は、大幅に補正されていたのだろうか。本来は海馬からすり抜けていくような稀薄な記憶が、想いによって脚色されていたのだろうか。
 さらに考えようとして、完全にオカルトの方向へ思考が向かうのを感じ、考えるのをやめた。さらにビールを煽って、泥酔しよう。
 そして目が覚めたら、彼女のところに行こう。何かしら、手土産でも、手向けでも、弔いでも携えて。……本当に、死んでいるのなら。

「うっ……」

 吐き気を催しながら僕はさらに胃袋にアルコールを流し込んだ。口の中で苦味と泡が弾け、そしてゆっくりと喉を降りていくビールは、美味しくない。
 なぜか、目頭が熱くなるのを感じたのを最後に、僕の意識は夜闇にも似た黒に呑み込まれていった。

8

 目覚めた僕はすぐに彼女のもとへ向かおうとしたのだが、不覚にも初体験の二日酔いの感覚は想像を絶する気持ち悪さで、二度寝をして起きた時にはすでに夜だった。社会の歯車となる前の、無垢な休みの最後のほとんどを睡眠で過ごしてしまったことに、少々複雑な気分になった。
 朝よりはだいぶアルコールの抜けた身体を引きずって、彼女の部屋へと向かう。部屋がやけに暗いと感じたのは、たぶん月が出ていないせいだろう。月光というものは、意外にあたたかくて明るい。
 彼女の部屋のインターホンを鳴らす。
 ……が、返事はなかった。出かけているのだろうか。間が悪いことだ。立ち去ろうとして、僕はふとその足を止めた。

「……?」

 今、一瞬。ほんの一瞬だけ物音がした。誰か、誰かが中にいるのだろうか?いや、いるとしたらそれは美雪さん以外にありえない。でもならばどうしてドアも開けてくれず、インターホンにもこたえてくれないのか。
 もしとりこんでいるとしても、ごめんなさいと一言断りをいれるくらいはできるはずだ。ポルターガイスト、なんて単語が頭に浮かび、不自然なほどに納得がいった。幽霊なら、それくらい容易いだろう。物音をたてるくらいは。でも、それでもおかしい。

「美雪さん?」

 返事はなかった。もしかしたら強盗にでも入られているのではないだろうか。嫌な予感がして、失礼だとは思ったがドアノブに手をかけた。
 そしていともたやすく、ドアは開いた。

「鍵が、かかってない……」

 慎重に、傍から見れば僕の方が泥棒に見えかねない慎重さで部屋に入る。なぜか電気はついておらず、部屋の中は真っ暗だった。幽霊ならば、暗いところが好きなのだろうか。だが、部屋には気配があった。ベッドの隅。
 何度も肌を重ねあったベッドの隅に、何かがいた。

「美雪さん……」

 手探りで電灯のスイッチを探り当て、つける。同時に短い悲鳴があった。何度か明滅を繰り返して部屋の明かりがつき、そして――

「あ……」
「え?」

 目を疑った。
 部屋には美雪さんはいなかった。部屋にいたのは、黒ずくめのスカートを着た、僕よりも幼い少女。ずっと暗い、暗黒の色を身に纏った少女がいるだけだった。美しい、とは思うけれど今はそれどころではない。

「君、誰だ?美雪さんはどこに」
「ごめんなさい」
「え、いや謝られても」
「ごめんなさい」

 本当に泣きそうな声で、ごめんなさいと繰り返す彼女の意図がわからず、僕は混乱した。そもそも美雪さんの部屋になぜ他人がいるのか。もしや彼女が泥棒なのだろうか。いやこんな少女が?
 突然の事態についていかない頭ではあったが、泣きそうな声に対して謎の罪悪感と後ろめたさを感じる余裕までないほど追いつめられていたわけではなかった。
 とりあえず、目の前の今にも涙をこぼしそうな少女をなだめ、話を聞こう。何かしら、美雪さんのことについて知っているかもしれない。
 が、飛び出した彼女の言葉に、そんな最後の余裕も吹き飛んだ。

「美雪はいないの……ごめんなさい。美雪は私なの」
「え?」

 何を言っているんだろう。この少女は。

「私は」

 少女はとうとう涙をこらえきれず、目からぽろぽろとそれを零しながら、声を震わせて言った。

「ドッペルゲンガーです」
14/09/03 00:06更新 /
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■作者メッセージ
そんなお話でした。楽しんでいただければ幸いです。
後編で最後です。それまでヒロインと物語にたっぷり騙されてくれれば嬉しい限りです。

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