読切小説
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ひしがれて夏、靉靆


「付き合ってください」

 それは僕が平凡な生活を送っていた、高校生二年生の秋休み直前のことだったと思う。僕は当時、クラスの中でも注目されていたある女子生徒に告白をしていた。成績優秀、容姿端麗、品行方正、明眸皓歯、才色兼備。その美貌は三里先まで届くであろう眩さ、とここまで大げさに言えば嫌でもその女子がクラスのアイドルのような存在であったことがわかるだろう。いや、アイドルと言うには、少しばかり語弊があり認識の齟齬をきたしてしまうかもしれないが。
 さて、ここでなぜ平々凡々を体現しているとまで揶揄される僕が常軌を逸した行動に出ているかと問われれば、それは僕の家庭の事情と言う他に説明のしようがない。
 ここでそんなに意味深なことを言えば、それは精々親の仕事の都合で転校することになったからだとか、そんなところだろうと高を括られる。しかし勘違いしないでほしいのは、僕はそんな幸せな理由では、幸せな家庭の事情ではない。
 もっと現実的で生々しい、お金の問題だ。
 学費が、払えなくなったのである。
 会社の倒産、夜逃げ、突然の事故死。実に非現実的で、だが最も身近に潜んでいるであろう社会の闇、とでも比喩すればいいのか。その闇に牙を剝かれた僕の一家は、見事に喉笛を噛み切られていた。頸動脈をいともたやすく切り裂かれ、噴水のように鮮血が飛び散る代わりに紙幣が零れ落ちていった。
 ここを詳しく描写するのも出だしから重たくなるだろうから、そこは省いて想像にお任せするとして。
 その話はあっという間にクラス内を駆け巡り、好奇の視線の的になった僕の居場所が学校にはなかったことは、想像するに容易だろう。
 ただ、僕にだって意地はある。
 だから、この様な逸脱した行動に出たわけだ。

「ふうん」

 相手は、さも興味無さそうにこちらを舐める様な視線で見つめている。まあ、僕が彼女の立場であったとしたら、即座に断るだろうから仕方ないことだろう。完全なる僕の自己満足なのだから、彼女には迷惑をかけてしまったかもしれない。
 ああ、そうだ。僕としたことが、とても大切な点を忘れていた。
 前述したように僕が告白し、今目の前で腕を組んでいる女子は確かに美人を表す四字熟語や形容句であれば、大半は当てはまってしまう絶世の美女に間違いはない。
 けれど、一つだけ変更点があった。
 彼女をクラスのアイドルなんて僕は比喩していたが、彼女は決してアイドルという世俗の汚れに穢された存在ではないだろう。いや、クラスの皆はその表現こそ妥当であり適切だと思っているに違いないけれど、僕だけは知っている。
 最も彼女に――釧路白に――適した表現が、

「跪いてくれれば考えない事もないわ」

 女王であると。



 高校一年生の夏のことだ。
 夏休みも目前に迫り、クラスもどこか落ち着かない空気に満たされていた。それはきっと貴重な青春の一ページになっていく。微笑ましいものだ。きっとそのページは灰色か真っ黒、青の三つの中から無慈悲に選択されるのだろう。出来ればみんなのページは青色になってくれるといい。
 他人事に思考を巡らせる余裕があったのは、決して僕が既に彼女が出来ていて所謂勝ち組に属していたからではなく、単に自分を見限っていたからだろう。悲しくなるが、見限れば自然と心に余裕が生まれてくるのは否定しようもない事実だ。失うものがあるから焦るわけで、何もなければ別にどうということはない。
手遊びにシャーペンをぐるぐると指先で弄びつつ、僕はぼんやりとこれからの高校生活について思考の裾を広げていた。
 夏休みはどう過ごしたものだろう。
 夏休みという単語が甘美で宝石のように美しく思えたのは中学生までだった。高校は補修でほとんどの休日が潰えてしまう。数少ない貴重な「本物」の休日をどう過ごすか。その予定を組み立てることが高校の夏休みの醍醐味ではないのかと、僕はまだ経験もしていない夏休みについてあれこれと思考していた。
 無論のことだが、この時の僕はまさか自分の身にとんでもない不幸が降りかかってくるとは微塵も考えていないし、クラスの中で一番美人の釧路白さんの秘密を知ってしまうなんて予期できるはずもなかった。
 予期できたとして、予知できたとしても、打つ手なしであることに変わりはないけれど。
 閑話休題。
 釧路白さんを最初に見て、僕が抱いた率直なイメージは高嶺の花だった。とても自分じゃ釣り合いがとれそうにない。いや、もうそんな愚考をしている時点で身の程を弁えないにも程があり、おこがましい限りだとすら思えてしまうくらいに。
 別段僕が卑屈な性格ではなく、本当に自然とそう意識してしまう女の子だった。教師に質問をされれば、

「そうですね。酔生夢死の人生を送ること、でしょうか」

 と見事に知識と教養の深さが窺える返答をして、先生を絶句させてしまうくらいだ。けれど、それがこれ見よがしにひけらかしているような嫌味さは無く、あくまでも自然体でそう答えていると思える見事なまでの口調に、振舞い。
 みんなはアイドルなんて言っていた。でも僕にはそんな一般に染まった者より、もっと気高いものを彼女の中に感じて、高嶺の花と思った。
 そのイメージはあっという間に消えてしまい、そして砕けて別のものになってしまうのだから、この時の僕は実に憐れにも見えるのだがそれを責められる人は、きっといない。
 青少年が抱いた幻想は、終業式の日に呆気なく音を立てて壊れてしまうことになる。



 終業式が終わるまで、僕はぼんやりと体育館で校長先生の長い話に耳を傾けていた。本校の生徒である自覚を持ってあれこれ。その言葉の裏には頼むから面倒事を起こしてくれるなという本音がとても見え透いているのが、滑稽でならないとは思わない。きっと大人には大人の複雑な立場があるのだろう。
 それはさておき、そんな話に真面目に耳を傾けていると次第に集中力が途切れてくるのは当然のことで、それは僕であろうと同じだった。
 いや、僕であろうとなんてのは自惚れた言い草だから、もっと凝った言い回しをするべきなのだろうけれど。
 集中力が途切れてくると、最初は静かだった体育館にもざわめきが伝染していく。隣の人同士のこそこそ話の規模だったそれは、やがてちょっとした騒ぎになっていた。集中力が途切れるのは誰しもあるところだから仕方が無いし、責められるものではないけれど、せめてもうちょっと最初の頃の静けさを取り戻してくれてもいいのではないか。そう思っていた時に、それは起きた。
 ある女生徒の傍に担任が駆け寄り、やがてその女生徒は体育館から退場したのだ。きっと長い話で気分が悪くなったのだろう。長い校長先生の話では必ず年に一度は起こるものだ。年中行事としては、害悪なこと甚だしいけれど。
 ただ、それが釧路白さんだったことは僕の中ではけっこうな驚きだった。驚天動地とまではいかないものの、普段は全く欠点を見せない彼女が弱っているというのは中々(失礼かもしれないが)新鮮に見えたのである。
 前述した通り、釧路白さんは言ってみれば完全無欠といっても過言ではない人で、それは体育の授業でも証明されていたし、だからこそそれが際立ったのかもしれない。
 ここまで長ったらしく語っておいて他に何も出来事が起こらない、なんてことはないので読み飽き始めた人は安心してもらいたい。ここで僕はちょっとした行動を起こす。
 と前置きしても、それはとても褒められた行動ではないのだけれど。
 具体的には、野次馬根性の発展型と言えるだろう。僕の中に好奇心の芽が生えてしまったのだ。芽が生えたなら摘めばいいではないかと正論で論破されそうだけど、人間正論通りに動くことが一番難しいと思うので、どうかここでは僕の愚考と愚行にも目を瞑っていただきたい。
 さて、僕は釧路さんに倣って少し遠慮がちに手をあげる。何事かと立ち寄ってきた先生に対して、僕はお腹が痛いのでトイレに行きたいと言った。クラスメートからの「逃げる気だな」という視線が背中に突き刺さりはしたのだが、それに罪悪感を感じたのも一瞬だけで、すぐに消えてしまった。
 野次馬根性というよりは、なんだかストーカーに近い気もしたのだが、そこは気にしてしまっては負けだと思い、心の中に封印しておいた。
 釧路さんは保健室にでも行ったのだろうかと、その姿を探すこと五分。しかし釧路さんの姿は見つからなかった。ひょっとしてエスケープしたのだろうか?いや、そんなことをするようには思えない。でも、人は外見にはよらないとよく言われるし……
 幾ばくかの不安が胸の中に滞留しつつあったその時に、僕は声を聞いた。ちょうど校舎裏辺りからだったと思う。
 なんだか乱雑というか、乱暴な言葉づかいに聞こえた。もしかするとエスケープしていた生徒がトラブルでも起こしたのだろうか?
 一度頭の中で湧いた好奇心も興味も無視することができず、僕は声のする方へと導かれるようにして向かった。
 さて、ここからいよいよ物語が始まるので、長すぎる前置きだからもう読むのを止めようと思っていた人々は安心してほしい。
 僕個人の願望としては、この時の僕を当て身か殴り倒すかして止めておけば、風船さながらに釧路さんのイメージが弾けることも無かっただろう。
 しかしそこで止まってしまっては話も始まらない。僕はとうとう声の主と対面してしまった。
 褐色の肌に、粉雪を散らしたような白さの髪、そして大よそ人のものとは思えない尖った耳。
 いつもの清楚なイメージとまるで正反対の、釧路白さんを見てしまった。

「……」

 絶句。
 人間、本当に驚いた時には言葉を失うとは言うけれど、まさか自分がそれを体現してしまうとは思ってもいなかった。
 そう、そしてさらに悪かったのは、言葉を失うどころかここで動きを止めてしまったことだ。それは結果として釧路さんに姿を見られてしまうことになり。

「……ッ!?」

 向こうは言葉を詰まらせる事態となった。いかにも「見られた」というような表情を浮かべて。
 ここから、僕と釧路さんの、傍から見れば歪んだ関係が始まると言うのは、自惚れだろうか?



 見合った、もとい見遭ったと言えばいいのだろうか。普段の外見的特徴と大幅に違いがあろうと、それが釧路白であることに変わりは無いと思わせる何かが、彼女にはあった。
 お互い言葉を失くしてどれくらいたっただろう。幾星霜――はいくらなんでも大げさだけれど、きっとたっぷり五分は視線を交錯させていただろう。
 その間にお互い何を考えていたのか。
 僕の方は簡単だ。ただ心境を述べればいい。目の前にいる女生徒は本当に釧路さんなのだろうかという疑問や見てはいけないものを見てしまったと自分を襲う後悔。それらが絶妙にブレンドされたまま、僕は立ち尽くしていただけのことだ。
 だが、彼女の心情を察してあげることは僕にはできなかった。当たり前の話だが、僕はテレパシーが使えるわけではないのだから。
 それでも、彼女の表情から、ある程度の事は粗末な脳みそでも察することができた。絶望感というか、憤怒の色というか。敵意だけで満たされた視線が僕に突き刺さり、昆虫標本のように僕をその場に留めていた、と言えば、彼女の表情がいくらか想像できるだろうか。
 鉛を注いだみたいに重くなった唇を開いたのは、彼女が先だった。不覚ね…と重々しく呟いたあと、こちらを睨み付けてきた。

「一生の不覚というのは、まさにこんなことを言うのかしら?」

 普段彼女の言葉で日々の生きる活力をもらっていた人たちが聞けば、耳を疑う。そう確信できる声音だった。高圧的で、明らかにこちらを見下している思惟を孕んだ声。その声を聞いた瞬間に、逃げなきゃと思った。
 外見の威圧感もそうだったけれど、敵意の視線に敵意の声。どちらもその場から逃げ出すにはじゅうぶんな材料だった。
 けれど僕の足は動いてくれずに、ただ小刻みに震えを繰り返すだけで、ちっとも働くことをしない。本来の仕事を放棄した足に、逃走を命令するのは無理だった。

「……その、あ」
「いいのよ、喋らなくて」

 上手く言葉を吐き出せず、咽喉からは文字が微かに零れていくだけだった。
 それでも苦心しつつ、僕は単語の一つ一つを確実に腹の底から絞り出す。

「ぜ、絶対」
「喋らなくていいと言ってるでしょう?」

 高圧的な態度を崩さずに距離を詰めてくる彼女が、怖い。普段のイメージが一瞬で砕けてしまったぶん、何をされるのかわからない恐怖が胸中にあった
 迫りくる彼女はさながら女王のようで、失態を犯した家臣を苛めるのを愉しむが如く、様になる。もっとも、僕は家臣でもなければ失態を犯したわけでもないが。
 言うなら、奴隷。
 主人の秘密を目撃してしまった奴隷。僕はそこまで地に堕ちた覚えもないけれど、それが自分の現状にひどくあてはまってしまっている気がした。本能で。

「コスプレとか……い、言わない。絶対だ」

 その言葉に、ぴたりと彼女は動きを止めた。目を丸くしたのも須臾ほどで、意味深な笑みを浮かべられ、僕の背筋に冷水が伝った。そうか、蛇に呑まれる直前の蛙はこんな気持ちなのか。

「コスプレ、ねぇ」

 彼女はその一言だけを発して、こちらに舐めるような視線をよこした。なんだ。何を見ているんだ。視線の目的がわからず、気持ち悪い冷気が指先まで伝播するのを感じた刹那、彼女は再び口を開いた。

「あなた、奴隷にならない?」
「……え?」

 理解が追いつかず、素で聞き返してしまう。それが不愉快だったのか、それとも期待外れの反応だったのか、彼女はふんと鼻を鳴らした。意味がわからないの?そう言いたげに可哀想なものを見る目で見られた僕は、顔が熱くなるのを感じた。腹の中で流動体が蠢き、咽喉でもぞもぞとむず痒くなる苛立ちが募る。
 侮辱を受けているような、そんな気分だ。
 一寸の虫にも五分の魂という言葉の意味を、彼女に教えてやりたくなった。もっとも、既にそんなもの彼女の辞書の中には入っているだろうけど、それはきっと改竄されているに違いない。

「二度も言わせないで。私の奴隷にならないかって聞いてるの」

 揺らぎもしない瞳の奥に、朱色の炎が垣間見えた。

「…ひどい」
「くどい」

 辛うじて氷結せずに済んだ抵抗の言も、一蹴される。取り付く島もない。まだ交わした言葉は僅かなのに、直感してしまった。

「いい?私はそれなりに――いえ最大限の注意を払ってこのことを隠し続けてきたの。その労力とストレスがあなたに想像できる?答えなくていいわ。できるはずないもの。なのにあなたがそれを一瞬にして瓦解させてくれたのよ。正直、一番予想だにしない形でね」

 教育のなってない子ども……いや、餓鬼に言い聞かせる。そう表現した方がしっくりくる。しっくりきてしまう口調に変わる。そして、一歩、二歩と、僕と彼女の距離が詰められる。僕は気圧されて後ずさりするしかなく、気づけば呼吸も荒いものになっていた。いつからここまで空気の循環は難しいものになったのだろうか。

「あなたに拒否権なんて、ないのよ」

 こうして僕は、彼女の奴隷になった。
 たった一つの秘密を見てしまっただけで、僕は学校での自由を失ってしまい、そしていつの間にか地に堕ちていた。いや、これから起こる展開を言えば、むしろ上ったのだろうか。理路整然と並べるなら、こうだろう。地位は地に堕ち、体験は天にも昇った。それが一番しっくりくるけれど、そんな事は壁に背を密着させ追い詰められた僕には、知る由もなかった。
 明日からどんなにぞっとしない日々が身に降りかかるのか、それを考えただけで身体中の空気が抜けていくようだった。



 奴隷が出来る事は二つしかない。一つは主人の命令に従うことで、もう一つは主人に積極的に奉仕すること。それ以外の主だった行動は許されていない。漫画でもよく見聞きする知識が正しいということを、僕は痛感していた。
『普段はいつも通りに過ごすこと。ただし私の命令は絶対守ること』
 昨日彼女が僕に笑みを浮かべながら言った言葉が、ずっと渦を巻いていた。
 そして記憶の笑みをそのままに、滅多に使われない教室で僕は彼女と二人っきりになっていた。
 無理やり交換されたメールアドレスから来たメールは実に簡潔な内容で、放課後ここにくること。僕はなるべく早く駆けつけたつもりでも、既に彼女はいた。いつまで待たせるのという台詞を言いたげにして。
 カーテンは既に閉め切られており、薄っすらと隙間から夕日が差し込む以外に光源はなかった。どこか黴臭い匂いと、埃まみれの空気。息苦しい。ただ、その息苦しさは匂いや空気のせいだけではないはずだ。

「どうしたものかしら?」

 開口一番、彼女は言う。

「あなたは自分が思っている以上にまずいものを見てしまったのよ」

 彼女の口調は真剣そのもので、悪ふざけをしているようには思えなかった。だからこそ、僕には理解し難かった。あのコスプレが、そこまで彼女のブラックボックスに触れてしまうような罪深いことだったとは、到底思えない。

「そうね、あなたの認識はその程度よね」
「?」
「ねぇ、あれがコスプレなんかじゃないとしたら、あなたはどうする?」

 そう言いながら、彼女は微笑んで……僕は絶句した。それは彼女の微笑みが僕の言葉を失わせるほどに映えていたから――ではなく。僕の目の前で、彼女が姿を変えたからだ。一級品の手品のように、一瞬で肌と髪の色が変わり、そして耳が徐々に尖っていく様をありありと見せつけられた。これらすべてが一瞬の出来事であるにも関わらず、克明に記憶のフィルムに焼き付けられた。
 姿を変えた彼女は妖艶で、男の情欲を弄ぶ目をしていた。官能的な空気とでも言えばいいのか。場の空気が粘着質なそれに変貌し、闇の中で留まっているような息苦しさが僕を苛んだ。身体が緊張で強張り、これから何が自分の身に起こるのかわからない恐怖が、防衛本能を叱咤した。夢であれ、そう願う理性と現実を直視する理性とで板挟みになり動けなくなった僕に構わず、彼女は続ける。

「そうね。そういう反応が妥当よね」

 逼迫した空気を感じているのは、僕だけなのか、彼女は涼しげだった。自分の秘密を見られたことも、僕の口を封じるのも何もかも。鎹事案の抜け目なく。

「一番いい口封じって、あなたは知ってる?」
「……さあ」

 口の中がやけに渇いて、僕は生唾を飲み込んだ。粘性の唾液が喉をゆっくりと降りるだけで、不快感しかない。今すぐ逃げ出せ。冷静に告げる頭の声も虚しく、怠け者の足は働くことをしなかった。
 彼女は少しだけ口元をつり上げて、ねっとりとした声で言った。ひどく鼓膜を震わせる声だった。

「秘密の共有」

 まさに、電光石火の出来事だった。言葉が終わった刹那、僕は気づけば床に押し倒されて彼女に馬乗りにされていた。女性の力とは思えない剛力で、抗う力すら湧かなかった。両手首を片手で封じられ、身じろぎすら許されなくなり冷や汗が額から滑るのがわかった。
 混乱する僕を置いてけぼりにし、彼女のもう片方の手が胸板の表面をゆっくりと撫でる。ぴりぴりとしたむず痒さが背筋を走り、変な声が出そうになるのを必死で堪えるのを彼女は楽しそうに見下ろしていた。
 そして、わざと(きっとそうに違いない)下半身を僕の下腹部に押し当ててゆっくり前後左右に動かされる。柔らかなものが性感帯を擦り、否応にも下半身に熱が集まるのを感じて僕は死にたくなった。と同時に、彼女が言う秘密の共有の意味を理解してしまった。
 確かに、これは秘密の共有だろう。口封じには、もってこいの。

「もう膨らませているけれど、期待していたのかしら?」

 そんなわけない。視線でそう訴えるも彼女はそれを齟齬なく受け取ったとは思えなかった。大きい安産型のお尻が僕の股間に押し当てられ、肉の感触が嫌でも下半身に伝わる。どんどん硬度を増していく自分自身を制御しきれず、僕はとうとう完全に勃起してしまった。
 それを彼女も感じ取ったのか、にやりと得意げに笑みを浮かべると僕にもたれかかってきた。自然と彼女の胸が僕の胸板によって形を変え、柔らかなそれは欲求の炎に薪をくべる形となった。どうしようもない、甘い女の子の匂いが鼻に纏わりついて、落ちてくれない。理性を息もつかせぬ間に瓦解させて、単なる獣になってしまいそうだった。
 それほど彼女の身体は誘惑が強く、そして、ぞっとした。
 再び身体を起こし、僕に跨りながらさっさと上着を脱ぎ捨て、上半身裸になる彼女。その遠慮のなさは僕の抱いていた幻想とまるで違い、白昼夢に漂っているのかと疑いたくなるほどだった。もっとも、股間にある肉の感覚はしっかりと輪郭を保って僕を誘惑しているのだが。

「感謝しなさい。奴隷が主人の身体を味わえるのよ?」

 やや上気した顔で舌なめずりをする扇情的な姿に、大切なものが吹き飛びそうになるのを辛うじて堪える。どくん、と一際心臓が強く脈打って男の生理現象が抑えられなくなることに、羞恥心が顔を染めた。
 直後に、また彼女はそれを見透かしたように身体を僕に密着させてきた。

「ふふふ、もう何もしなくても射精しちゃいそうじゃない。だらしない奴隷」

 贔屓目に見ても、官能のさらにその一歩先へと進んでいると確信できる彼女の仕草の一つ一つ。綺麗な身体。一目で滑らかだとわかる肌に、重力によって垂れながらも張りを保って豊かな曲線を描く乳房。そして程よくくびれた腰。その雄性を炙ることを目的にしている身体が、今は僕に密着し、体温を循環させている。
 彼女は慣れた手つきで制服のズボンのジッパーを下ろして(なぜ慣れている?)、僕の十分に勃起した男性器を露出させた。密着されているゆえに、自分のモノがどうなっているのかはわからないけれど、彼女の手が添えられていることだけは伝わってくる感覚でわかった。

「へぇ、大人しそうな顔の割には……」
「ま、待ってよ。付き合ってもないのにこれって」
「うるさいわよ。これなら私もあなたも……」

 楽しめそうだ。と視線で語る彼女の濡れた瞳に映っているのは、僕なのだろうか?それとも怯える憐れな奴隷の姿なのだろうか。頭の隅に過ぎった疑問に答えを出す暇もなく、僕は唇を奪われた。なす術もなく、されるがままの受け身。
 舌が挿し込まれ、とろとろした感触が口の中で蠢く擽ったさに身じろぎをしたいと思った。それでも情熱的な口づけをしてくる彼女に対して、それは叶わず甘い甘い彼女の唾液を口の中に塗りたくられる。マーキングのように。
 あまりの圧に思わず顔をずらそうとするも、それも両手で顔を固定されてままならなくなり、僕は散々口中を嬲られた。
 キス。キス。キス。
 時々くぐもった声が響き、脳内を麻痺させる。媚薬のように人を狂わせる官能性が僕に何度も何度も押し当てられ、優しさにも似た温かさが胸から溢れ始めるのを、僕は知覚した。
 どうしてそんな感情を彼女に対して溢れさせたのかは、何となくでしかわからない。ただ、唇を必死に啄み、そしていよいよ肉の棒を自分に挿れようとする彼女がどこか非常に微妙な点において、寂しそうに見えたからだろうか。それもこの異常な密室の空気のせいかもしれない。

「挿れるわよ……奴隷風情が、ありがたく思いなさい」
「……」

 彼女の体温がそう思わせるのか、それともセックスはこんな勘違いを脳に植え付けるものなのか。その答えも見いだせないまま、僕の下半身に途方もない快楽が走った。熱い肉の塊に侵入を果たし、肉の襞に敏感な粘膜を擦られて生じた快感は、僕の想像を超えていた。彼女に貪欲な腰使いをされるたびに媚肉がキツく竿を締め付け、裏筋やカリ首までも入念に舐めしゃぶる肉の愛撫を繰り返す。亀頭がコツコツと子宮口をノックすると、そこから去るのを惜しむようにうねりをもって子種を催促してくる膣に、僕の腰は勝手に動き始めていた。自分の意思を無視し本能で勝手に動く腰を制御することも出来ず、無造作に肉槍を打ち込む。次第に乾いた音がリズムよく室内に響き始め、自分の中で確実に昂揚している熱があった。
 卑猥に腰をくねらせ、ねっとりと絡みついてくる肉壁にはまるで意思があるかのようにざわめき、悶絶させてくる。
 目の端に涙を溜めながら淫靡で喜悦に満ちた表情を向けられて、ダムは崩壊した。塞き止めるものがなくなり、一気に限界まで上り詰めた僕は浅ましく彼女の子宮に精液を放った。
 一度、二度、三度。
 力強い脈動を繰り返して尿道からありったけの欲望を解き放った僕は、自分でも気づかないうちに彼女を抱きしめていた。いつの間にか、彼女の拘束は解かれていたらしい。
 女の子の甘い匂いが鼻に届き、今さらながらに彼女の魅力の一つに気づいた。
 まだ絶頂の余韻が残るペニスが引き抜かれ、淫液と自身の精液で妖しくぬらつくその容貌を露わにする。一度の射精を経て未だ雄々しく聳え立つその雄茎の先端が、彼女の臍の辺りをつついていた。

「……ねぇ、あなた、これで終わりなんて甲斐性なしじゃないわよね?」

 まだこれからだと言外に告げられた僕は、呻き声を漏らすほかなかった。同意の代わりに、賛成の意思を示すために。
 初めての快楽の味を知ってしまった僕の脳裏に、反抗の二文字は消えてしまっていた。



 そんな鮮烈な出来事から二日後、僕は彼女に呼び出されていた。体育倉庫に。
 長い間使われた跳び箱やマットの古臭く汗臭い匂いが充満する中、彼女は本当の姿を晒していた。
 本当の姿。つまるところあの褐色肌の姿で、僕の前に立っていた。
 二日前、僕が童貞を奪われたあの日、事後の彼女は気怠そうにしながらもその口を開いていた。曰く、この姿はコスプレでもなんでもなく紛い物でもなく、正真正銘の姿なのだと。自分は人間ではなく、その事実を今までひた隠して生きてきたと。
 限界まで文字通り精根尽き果てた僕はその時考える余地などは残っておらず、彼女の言葉を鵜呑みにしていた。ひょっとすると、まだ冗談だと思う心がどこかに残っていたかもしれなかったけど、それが消えるのも時間はかからなかった。
 自分が人外であることを告げて、彼女はさらに続けた。
 正体を知ってしまった僕を放置なんてできないと。奴隷にするほかにないと、告げられた。なるほど確かに有効な手段で有効な措置だと、僕は他人事のように思った。なぜそのように思ったのか。また情事を味わえるかもしれないという邪な想いが、残滓となって残っているのかもしれない。いやそれはきっと残っているだとか生易しいレベルではなく。
 こびりつき、雁字搦めにしているのだろう。
 僕の心も考えも、すべて。
 だとすれば奴隷という日常であまり耳にしない言葉にも、頷けた。
 あの快楽をまた体験できるなら、奴隷でもいいと思う自分がいるのだから。だから、彼女のその手腕には脱帽する。

「杞憂だったみたいね」

 僕の顔を見、微笑む。

「しっかりと奴隷の意識を植え付けようと思っていたのだけれど、もうあなたはそんな顔をしてるもの」

 言われて、彼女の手が僕の頬を撫でた。あたたかくて、どこか母性を感じさせる手だった。安心する、とでも言うのか。もう骨抜きになったわけではないのに、少なくともまだ理性は幾分か残っているはずなのに。
 どうしようもないくらいに、安心した。
 他人のぬくもりが、これほど心を慰めるものなのか。彼女はきっとこの手に愛情をしとどに込めているわけでもないだろうに。
 わかっていても、僕の身体は自然と弛緩してしまう。
 きっとこれから彼女は仕上げにかかるはずだ。僕の中でまだ屈服していない部分を、完全にへし折るために。自分の奴隷にするための最後の工程。こんなにも頭で理解できているなら、今すぐに脱兎の如く走り去ればいい。そう自身を罵って、言葉を紡ぐことすら面倒になってしまった。

「本当に、あなたでよかったわ」

 誉められているのか貶されているのかわからないことを言い、彼女は僕に一歩近づいた。これからされる事を想像してしまい、むくむくと愚息が膨張し始めるのがわかった。期待している。既に自分で屈服への一歩を踏み出している。

「ほら」

 手早くさっさと服を脱ぎ捨て、その肌を晒す彼女。日焼けではない、本物の褐色肌。その艶めかしさをありありと見せつけられ、僕は思わず生唾を飲み込んだ。徹底的に快楽を味わわされるその期待の大きさに、眩暈がした。
 彼女が女王のような足取りで僕との距離を詰め、そして抱き付いた。

「いい?これから、あなたの身体と心に刻み込んであげる。私のこと以外がどうでもよくなって、頭が蕩けるくらいに」

 寒気がするほど淫靡な声で囁かれ、全身が勝手に震えた。甘い香りで胸がいっぱいになり、安堵感が溶けるように全身を浸す。なぜ僕はこんな気持ちになっているのだろう。羅列して出来事を並べれば、まだ一週間くらいしか彼女との濃密な時間は経過していないのに。
 僕は、彼女のことが好きなんだろうか?
 空気がガムシロップのように甘ったるくなり、頭がくらくらする。

「んっ」

 押し倒され、背中をしたたかに床にぶつけた。痛い、と思う暇もなく彼女の激しい口づけに、呻き声を漏らすことすら難しくなる。必死に唇を貪る彼女を見て、可愛いな、と思い、その自分の思考に疑問を抱く前に僕は彼女を抱きしめていた。激しい口づけはそのままに、絹糸のような髪の毛の柔らかい感触を味わった。指を撫でるようにしてすり抜けていくそれはちょっとした触る麻薬と同じで、何度でも触っていたいと思った。
 満たされる。
 彼女の奴隷になれば、きっと満たされる。
 僕はそのあと、考えられる限りのありったけの快楽を教えられた。
 たとえば。

「ねぇ、イキたい?」

 心底楽しそうな顔をして、彼女は僕の逸物を胸で挟んでいた。真っ赤な舌をちらつかせて、谷間から覗く亀頭を触れるか触れないかという距離でわざと舐める仕草だけをする。それを見るだけでみっともなく脈動を繰り返す肉棒を見、彼女はさらに喜色を広げた。
 さっきから僕の腰のあたりで、ずっと射精感だけが渦巻いて、渦巻いて。解放されることなくそこに滞留していた。ぐっと両手で絶妙な力加減で圧迫され、形を変えた乳房が絶え間ない愛撫を肉棒に注いではいるものの、それは決定的な瞬間に限ってその力を弱め、僕を焦らしていた。
 双鞠の柔肌は確かに僕を絶頂へ導こうとしているのに、肝心の絶頂は未だ迎えさせてくれる気配がない。口の端から涎が垂れそうになるのをギリギリで堪え、辛うじて頭がシュートするのを耐える。弄ぶように――いや実際、弄んでいるんだろう――柔肉で左右から圧迫を繰り返す彼女の性技に、腰がまたガクガクと震え始めた。が、そこでやはり彼女はあっさりと奉仕の手を止めてしまう。何度目かになる突然の奉仕の中断に、僕はもう請うことすらできず、短い息を吐き続けることしかできなくなっていた。
 褐色の双丘は再び自らを歪ませると、食い込んでしまうのではと思うほど強い力で挟まれる。そこからゆっくりと、あくまでも焦らすように乳房が上下に動き始めた。

「うふふふふふふ」

 笑みを深くする彼女だったが、僕はそれどころじゃなかった。焦らされに焦らされた肉棒は熱くて熱くて、一歩間違えれば溶けてしまいそうなほどに快楽を溜めこんでいた。射精したい。ただそれだけの欲求なのに叶えられないもどかしさが、神経をすり減らして、狂ってしまいそうになる。
 既に彼女が潤滑油代わりに垂らした唾液は谷間と欲棒に塗りたくられ、てらてらと妖しい光沢を見せていた。そんなこの世のものとは思えない妖艶な光景が目の前にありながら、僕は射精することを許されていない。

「さて、そろそろいいかしら。たっぷり射精しなさい」

 突如。
 彼女は乳房から肉棒を解放したかと思うと、その口で喉の奥までそれを咥えこんだ。口の中の温かさが伝わるのも一瞬のことで、唇を窄めて彼女はすぐに頭を上下させ始めた。すぐに淫猥な音が耳朶を打ち、鼓膜をも犯す。唇がしっかりと肉棒を締め付け、ちょうどカリ首で速く細かく上下に扱かれ、散々焦らされた時間とはあまりに対照的に、あっさりと僕は果てた。いつの間にか喉はカラカラになっていて、か細い息が漏れるだけだった。脳に白い稲妻が直撃し、本当に世界が白一色に染まった次の瞬間には、尿道から夥しい精液が排出されていた。一度、二度と彼女の口の中で跳ね、その度に後頭部にじわじわと宙に浮く感覚が植え付けられる。
 一度目から二度目へと快感が薄れていくことはなく、むしろ逆でその濃密さはより一層増していった。快美感に酔い痴れていると、彼女がちゅぽんと音をたててペニスを解放したところで僕は現実に戻された。
 こくんと喉を鳴らして「何か」を飲み込んだ彼女の口の端に、白い筋が垂れていた。すっと目を細め、値踏みするような視線を投げかけられ、僕は思わず身を竦めた。
 もう何かを考える余裕なんてなかったけれど、ほぼ反射的な動きだった。
 だから、これはもう僕が屈服した証だったのかもしれない。
 快楽で脳を塗りつぶされ、あっという間に感覚を原始の頃にまで落とされた僕ができた、唯一の行動。きっとそれには、無意識的にこれからも快感を味わえるという下世話な打算も含まれていたのだろう。でも、それは後になって考えてみれば勘違いで。僕はこの時、確かに反射的な動きではあったけれど、純粋に従っていたのだと思う。「従う」の主語が欠落していることには目を瞑って。
 僕は彼女の手をとり、その手の甲にキスをした。

「奴隷の世話は私の義務よ」

 彼女は静かに言う。お互いにもう衣服も脱ぎ捨て、生まれたままの姿になっているというのに、その言葉にはどこか凛とした響きがあった。

「あなたはこれから、私に飼われるの」

 そして僕はまた彼女に徹底的に搾られ、結局この日、体育倉庫で夜遅くまでまぐわった。



 そこからの僕の堕落ぶりを語るのは、少しばかり気恥ずかしい思いがある。彼女の魅力的な身体に溺れた僕は、与えられるあらゆる快楽を喜んで享受していた。日にちを選ばず場所を選ばず彼女が求めた時に僕は奴隷になり、彼女が望むこと(主に性的な)をした。
 爛れていた、とは自分でも思う。けれど、それを否定するつもりは毛頭なかった。よく声高々と性の乱れを叫ぶ偉そうな奴らがいる。でも、それは知らないからだ。この気持ちよさを、この幸せを知らないからだ。誰かに溺れる多幸感を、何もかも任せて支配される心地よさを知らないから、クラスの絶世の美女と関係を持つ甘美さを知らないから、そんなことが言えるんだ。無知は罪だ。皆も一度、知ってみればいい。そうすれば、もう二度とその口は同じ言葉を紡ぐことができない。そう断言できる。
 だけど、そうは言っても愚かではあったのだろう。溺れるならば、少しは犬かきの真似事でもして、多少なりとも自分を持てばよかったのに。僕はそれすらせずに、交わるごとに馴染む彼女の身体を、心すらほぐれていく、染み入るような安堵と官能を堪能していた。
 彼女との逢瀬は、いつも激しかった。
 足で、手で、口で、胸で、尻で。考えられる限りの快楽が僕を日向に晒した氷のように溶解させていた。とても甘い甘い時間で、一生分の幸福をそこで使ってしまっていると錯覚するほどだった。
 賢者がもしいたとするならば、それは毒にも薬にもならない無味乾燥した時間だと言うだろう。だけどもう僕は依存の蜜を舐める事に必死で、屈服の実を齧ることに懸命だった。
 懸命であれど、賢明ではなく。
 それは暇な時に時間を潰す手遊びのように、僕の時間を削り取っていった。それが恋心と言えるのかどうかは、わからない。
 茫洋とした人柄でもなく、戯れに一つ事。
 僕はどこまで沈むのか。
 きっと深淵を覗くでは飽き足らず、自らを深淵に至らしめるまで沈んでいくのではないだろうか。あた舌たるい時間はひたすらに僕の上を通り過ぎ、いつまでも僕はその時間にくっついているものだと思っていた。
 いつの間にか屈服の心は恋心にすり替わり、彼女への依存心はもう身体の隅々まで深々と積もり、心身へ積もっていった。
 肉体関係からその対象を好きになる。なんと愚かしいことか。でもそれがたまらなく、狂おしいほどに愛しくて、危険な脆さを孕んだことを承知の上で、僕は。

「何を呆けているの?」
「あ、ごめん。ちょっと考え事してて」
「ふうん?私とのピロートークを差し置いて別のことを集中するなんていい根性をしてるわね」

 意地の悪い笑みを浮かべる彼女に、慌てて僕は誠意をもって謝罪したのだけれど、彼女はちょっと不満そうに頬を膨らませていた。女王然とした彼女が女の子らしい一面をさらけ出すのは珍しく、可愛いと思ってしまった。
 お互いに不快ではない汗を浮かべながら、肩で息をして呼吸を整える。この瞬間が、僕は好きだった。なんというか、何もかもが彼女と一体化した感覚に陥るのだ。やけに詩的な表現になってしまったけれど、これは嘘偽らざる僕の本音だった。
 実に単純で、幼稚な感情の発露。
 でもこれが僕だ。
 浅ましく卑しい僕だ。
 こんな僕を奴隷という立場でも幸せで満たしてくれる彼女が好きになっていた。彼女の匂いが鼻腔を擽るだけで胸が高鳴り、彼女に身体を委ねれば溜息が出るほどの安堵に包まれた。母性すら感じさせる彼女の手練手管に、籠絡されていたのが現実なんだろうけど。僕にとってはもう、彼女はいなくてはならない存在だった。
 それを直接彼女に言えるかといえば、口ごもってしまうのだけれど。

「違うんだよ、えっと」
「うるさいわよ。奴隷なのに生意気」

 頬を抓られて、彼女と面と向き合う。途端に面映ゆい気持ちに襲われて(生娘かと自分でも思うのだが)、顔をそむけたくなるも、それは許されなかった。
 がっちりと両手で顔を固定され、彼女の瞳に僕が映る。ひどく醜くて、不安そうな顔だった。そんな顔を彼女に見せているというだけで、申し訳ない気持ちになり、瞳の中の僕はさらに暗い顔をした。それを見、僕はとても情けなくなると同時に嬉しくなった。矛盾している気持ちのはずなのに、その二つの気持ちを成立させて自分の中に感じてしまっていた。
 たまさかに彼女の秘密を見てしまったせいで始まってしまったこの関係が、いつの間にか僕にとって切っても切り離せないものになっていた。出ようともがけばもがくほど、足から腰までずぶずぶと浸かってしまう泥沼のような――いや、もがくことをしようとする気力さえ、思考さえもう無くなっているあたりもっと性質が悪いのだろう。
 えげつないといえば、えげつない。
 ひどいものだ。
 だけれども、しかし、だからこそ。
 僕は彼女の言いなりに、操り人形のようになっていたのだと思う。さながら麻薬に似た一方的な依存関係に、快美感を覚えて、蕩けていたのだと思う。この僕の心の欠点を矯めることが可能ならば、とうの昔にしていただろう。
 彼女と身体を重ねる回数に比例して、僕の世界は釧路白で満たされてしまった。奴隷という立場は弁えながらも、そこに微かな優越感や幸福感があったのを否定はできないしするつもりもない。

8

 彼女との関係が続いていたある日のことだった。もはや日常と化していた彼女への奉仕を終えて、僕は帰路についていた。彼女と家の方向は別々なので、帰り道が一緒でないというのは僕の心の中に多大な寂寥感を植え付けていたのだが、それも仕方ない。道端の小石を蹴ってそれを誤魔化しながら、僕はてくてくと歩いていた。
 その時、僕のポケットの中で携帯が短く震えた。誰かからのメールかと思い、携帯を取り出すと案の定それは予想を外していなかった。
 差出人が釧路白だと、彼女だということを除外すれば。
『日頃のご褒美に、明日の休日デートしてあげる。ありがたく思いなさい』
 メールの内容を見た僕の反応は、述べるまでもないだろう。

9

 休日。
 僕は集合場所である公園に来ていた。彼女もそこにいた。いつもの姿で。いつも僕以外の目を欺くあの姿で。普段制服ばかりを目にしていた僕にとって、彼女の私服姿はとても新鮮で、目の保養になった。ワンピース一枚の彼女は清楚そのもので、別人のようで。
 僕はまた、再度心を奪われた。

「なに見惚れてるの?」

 言われて、はっとする。

「あっ、いやその……綺麗で」

 最後の方は口ごもっていたと思う。上手く発音できずに、自分の耳に届くかどうかも怪しい小さな声になっていたはずだ。それでも彼女は耳聡く聴き取ったのか、

「そう。ならよかったわ」

 と言って、たおやかな笑みを浮かべていた。

「奴隷を楽しませられないようじゃ、二流だもの」
「う、うん」

 奴隷。その一言が、やけにチクリと鋭利さをもって僕を刺した。恋人ではなく、奴隷。このデートもただの褒美。
 屈服する快楽から自然な速度で恋心まで抱いてしまった僕は、少しだけ息苦しさを感じた。彼女と僕との間には、きっと決定的なまでに齟齬がある。彼女にとってこれは秘密の共有をすることで僕を、僕の口を封じることが主な目的なのだろう。けれど僕は、僕は僕は僕は。
 彼女が好きになってしまっていた。
 快楽に誑かされただけだとか、そう考える余地などどこにもないくらいに、恋に恋していた。普段の清楚な彼女ではなく、女王である彼女、本当の彼女に。

「ほら、行くわよ。今日は面白い映画があるの」
「あ、ちょ、ちょっと待ってよ」

 僕を置いてすたすたと行ってしまう彼女の後を、僕は必死で追いかけた。口にしていた面白い映画というのは、どうやら恋愛ものらしく劇場内はほとんどカップルで溢れていた。誰もが手を繋いでいたり、腕を組んでいたり。楽しそうに話をしていたり、笑い合いながら映画の上映を待っている。
 その中で一人沈黙を貫いている僕は、ひどく異質な存在に思えた。彼女にどう話しかけていいのかが、まるでわからなかったからだ。思い返してみれば、会話は今まで一方的だったし、発言すら制限される時まであった。言うなれば一方的なコミュニケーションで、一方的な関係だ。
 そう考えてみるとこれはもうデートではなく、単に奉仕の延長線上にあるものだとすら思えてきて、僕はおどおどとするほかなかった。そんな僕と対照的に、彼女は頬杖をついて(やけに似合っていた)本当に上映を待ち遠しそうにしていた。
 やがて劇場内が暗くなり、上映が始まる。
 僕はこっそり隣に座る彼女の顔を窺ってみた。すると偶然か、目が合ってしまい途端気恥ずかしい気持ちがこみ上げて慌てて目を逸らした。何をしているんだ僕は。
 このままじゃ、熱暴走で狂ってしまいそうだ。急激に膨張した感情に針を刺してしまいたかった。誰が刺すのかは、わからないけれど。
 と、隣で何かが蠢く気配がしたかと思うと、耳に心地良い声が耳朶を打った。

「本当に、可愛らしい奴隷」

 え、と、声を漏らした。声というよりは、呼吸に近いものだったかもしれない。
 即座に隣を向くと、彼女はなんでもない顔をして映画に集中していた。買っておいたポップコーンやコーラに手をつける気配すらなく、さっきの言葉は僕の幻聴ではないのかと疑いたくなった。
 しかし、少しだけこちらを見、口元を緩めた彼女と目が合って、それが幻聴ではないことを確信した。
 ふふ、と微かに含み笑いをし、彼女はいたわるような視線を僕に投げかけ、すぐに視線をスクリーンへと戻してしまった。薄っぺらいフィルムが映し出す映像の中では、いかにも清楚な女子高生とルックスのいい男子生徒がキスをしていた。
 まったく自己投影できない映像にリアリティを感じることもできず、上映時間中、僕の頭の中にはただ彼女の言葉だけがこびりついていた。

「ねぇ、どうだった?」

 近くの喫茶店で休憩中に映画の感想を求められ、思わずどもってしまった。何しろ、感想も何も残ってはいない。しいてあげれば、僕の脳裏に未だ強く残っているのはあの言葉くらいだった。

「さては寝てたわね」
「い、いやちゃんと見てたよ!」
「本当かしら?案外涎でも垂らしてぐっすり夢の中にでも飛んでたんじゃない?」
「そんなことないって」

 半ばヤケになって否定するが、それを彼女は悪戯心を含んだジト目で僕を見ていた。嘘おっしゃいと、瞳で語っている。本当に嘘なことは間違いないが、僕は妙な意地でそれを否定していた。

「それじゃあ不良に押し倒されるシーンをどう思った?」
「……許せないって思ったけど」
「おかしいわね?そんなシーンなんて劇中にはなかったわよ」

 僕の維持していた意地は一瞬にて瓦解した。
 嘘を吐けば閻魔さまに舌を抜かれるとはよく言うが、この場合僕が抜かれるのは肝っ玉な気がしてならない。もしくは、それ以上の何か、か。

「嘘が下手ね。吐くならもっと上手い嘘を吐きなさい」
「ごめん……」
「で?どうして見ていなかったの?」

 ここまで問われては言い逃れもできず、僕は素直に白状することにした。ぱくぱくと何度か鯉のように口を開け閉めしながら。

「見惚れて、たんだ。その、く、釧路さんに。意味深な発言したから、それが気になって」
「えっ」

 返答が意外だったのか、彼女は面食らい目を点にして固まってしまった。そんなに変わったことは言っていないと思ったのに、彼女はぽかんとしながらほぼ無意識で自身の髪の毛を弄っていた。そして、しばらくして彼女はそうなのと素っ気ない返事をしたまま、黙り込んでしまった。
 不機嫌そうでもなく、かといって上機嫌かと問われればそうでもない様子の彼女に、僕は戸惑うしかなかった。いや、戸惑っていたのは僕だけではないようだったが。ただ彼女が戸惑う理由はちっともこれっぽっちもわからない。
 いくら訊ねてもうんともすんとも言わない彼女を前に、僕はとうとう質問を諦めた。
 時折顔を朱に染めながら、何事かをぶつぶつと呟くのはとても新鮮で、本人を前に口が裂けても言えないが、女の子らしくて可愛いと思ってしまった。
 女王らしい彼女もいいけれど、女の子らしい彼女もいい。
 邪な考えが顔に出てしまっていたのか、彼女にぽかぽかと殴られながら、それをまんざらでもないと思っている僕がいた。
 胸の中で季節のような淡い気持ちが育まれつつあるのを自覚しながら、僕は彼女の奴隷であり続けた。

10

 僕と彼女の距離は一方的に縮まっていった。僕から彼女の方向へ。どんどんどんどん縮まり、かといってそれがゼロになることは決してなかった。いかに濃密な逢瀬を交わして己が欲望で彼女を染めようとも、ゼロにはなれなかった。
 でも僕はそれで満足していたから、特に気にはしていなかったと思う。暗渠に放り投げられるような悩みもなく、心が釧路白で満たされた日々は、紛うことなく幸せだったと断言できる。
 だからこそ、なのだろうか。
 それが一瞬で終わりを告げた。

「ただいま」

 いつものように彼女との情交を楽しんでから帰宅した僕は、家の異変に気付いた。いつもどれだけ忙しくても、母はお帰りと言ってくれていたはずだった。夜仕事をする父は、僕が帰って来ればビールを買ってこいだのと無理難題を押し付けては、母に怒られていた。
 そんなやり取りが、なかった。
 いや、なかったのはやり取りだけではなく。
 家に人の気配がなかった。

「父さん?母さん?」

 不審に思い、声を出して呼んでみるも、返事はなかった。二人してどこかへ出掛けたのだろうか。にしても、鍵を掛けずに出掛けるのはいささか不用心ではないか。そう自分を納得させ、胸中に影を落とし始めた不安を振り払った。胸騒ぎがするのは気のせいと、自身を誤魔化して。
 結局、父の会社が倒産し、僕を残して二人で夜逃げをした事を知ったのはそれから三日後のことだった。

11

 突然、あまりにも現実味を味わえない速度で崩壊した僕の日常は、途端無味無臭で味気ないものに変わってしまった。
 今まで幸福を味わっていた罰なのか、はたまた神様がとんでもない気まぐれでも起こしてくれたのか。兎も角、僕は学校にいられなくなった。
 当然だ。
 教育費を誰が払うのか。僕個人ができるアルバイトで得る収入など、たかがしれている。悲観する暇すら許されず、僕はクラスの好奇の視線の的となった。まってくれよ、確かに僕は平々凡々で取り得もなくて、世の中にいくらでも代用品になる奴がいると言い切れる人間だったけれど、だからってこれはないだろう。
 口には出さず、それを心の中だけで呟いた。
 彼女は、僕に好奇の視線を浴びせることはなかった。
 ただ、何か同情の思惟を感じさせる目をしていただけだ。可哀想な動物を見る目に近いと思った。

「ねぇ、クラスで噂になっているあれ、本当なの?」

 放課後、誰も使われていない教室に――僕たちの初めての場所に――呼び出され、彼女はそう訊ねてきた。否定しようがなく、黙って首肯だけすると、彼女は何を言えばいいのか迷っていた。
 どうして悩むんだ。いつものように、女王然とした態度で何か僕に命令してくれればいいのに。奉仕でもいい。四つん這いになれでもいい。奴隷になれでもいい。なんでもいいんだ。僕はきっと全てを許容する。許容してしまう。
 そうでもしないと現実感すら存在意義すら薄れてしまう。
 だから頼むから僕に役目をくれ。

「その……大丈夫、じゃないわよね」

 彼女が吐き出した言葉はそれだけで、それ以上何を言えばいいのか本当にわからなかったらしい。無言のまま俯くのを見、相応しくないその姿に僕は悲しい気持ちになった。やめてくれ。同情の言葉なんて投げかけないでくれ。
 釧路さんにまで言われてしまったら、僕はどうすればいいのかわからない。

「そうだね」
「えっと……」

 どうして命令をくれないんだ。どうして踏みつけるなり鞭打つなりしてくれないんだ。ここに呼んだのもどうせ、またスるつもりだからだったんじゃないのか。
 お願いだから、いつも通りの狂った日常を見せてくれ。

「嘘だよ」
「え?」
「僕は大丈夫」

 そうだ。大丈夫だから。

「大丈夫だから」

 大丈夫だから、僕に優しくしないでくれ。いつも通りの釧路さんを見せてくれ。僕と君だけの危うい関係だったけれど、それくらい、いいじゃないか。

「嘘よ」

 そう言って、彼女は僕を抱きしめた。
 僕を押し倒すための予備動作でもなく、奴隷の意識を植え付けるためでもなく、ただただ純粋に僕を抱きしめてくれた。彼女の心臓がどくどくと鼓動を刻み、僕の心臓とリンクする。思わずため息が零れそうなほどに温かい、生命の息遣いが重なった。セックスの時の様な強い牝の匂いではなく、優しい女の子の甘い香りが僕の鼻を擽った。そっと抱き返してみて、そういえば自分から彼女を抱き返したのはこれが初めてだと気付いた。柔らかくて、すべすべしていて、心をかき乱す肌の触れ合いに目頭が熱くなっていく。
 おかしい。
 僕は大丈夫なはずなのに。
 女王ではないただ一人の彼女に抱きしめられて、僕は初めて本当の彼女の姿を見た気がした。

12

 「付き合ってください」

 それは僕が平凡な生活を送っていた、高校生二年生の秋休み直前のことだったと思う。僕は当時、クラスの中でも注目されていたある女子生徒に告白をしていた。成績優秀、容姿端麗、品行方正、明眸皓歯、才色兼備。その美貌は三里先まで届くであろう眩さ、とここまで大げさに言えば嫌でもその女子がクラスのアイドルのような存在であったことがわかるだろう。いや、アイドルと言うには、少しばかり語弊があり認識の齟齬をきたしてしまうかもしれないが。
 さて、ここでなぜ平々凡々を体現しているとまで揶揄される僕が常軌を逸した行動に出ているかと問われれば、それは僕の家庭の事情と言う他に説明のしようがない。
 ここでそんなに意味深なことを言えば、それは精々親の仕事の都合で転校することになったからだとか、そんなところだろうと高を括られる。しかし勘違いしないでほしいのは、僕はそんな幸せな理由では、幸せな家庭の事情ではない。
 もっと現実的で生々しい、お金の問題だ。
 学費が、払えなくなったのである。
 会社の倒産、夜逃げ、突然の事故死。実に非現実的で、だが最も身近に潜んでいるであろう社会の闇、とでも比喩すればいいのか。その闇に牙を剝かれた僕の一家は、見事に喉笛を噛み切られていた。頸動脈をいともたやすく切り裂かれ、噴水のように鮮血が飛び散る代わりに紙幣が零れ落ちていった。
 ここを詳しく描写するのも出だし、いや間違えた終盤だから重たくなるだろう、そこは前述したものにお任せするとして。
 その話はあっという間にクラス内を駆け巡り、好奇の視線の的になった僕の居場所が学校にはなかったことは、想像するに容易だろう。
 ただ、僕にだって意地はある。
 だから、この様な逸脱した行動に出たわけだ。

「ふうん」

 相手は、さも興味無さそうにこちらを舐める様な視線で見つめている。まあ、僕が彼女の立場であったとしたら、即座に断るだろうから仕方ないことだろう。完全なる僕の自己満足なのだから、彼女には迷惑をかけてしまったかもしれない。
 ああ、そうだ。僕としたことが、とても大切な点を忘れていた。
 前述したように僕が告白し、今目の前で腕を組んでいる女子は確かに美人を表す四字熟語や形容句であれば、大半は当てはまってしまう絶世の美女に間違いはない。
 けれど、一つだけ変更点があった。
 彼女をクラスのアイドルなんて僕は比喩していたが、彼女は決してアイドルという世俗の汚れに穢された存在ではないだろう。いや、クラスの皆はその表現こそ妥当であり適切だと思っているに違いないけれど、僕だけは知っている。
 最も彼女に――釧路白に――適した表現が、

「跪いてくれれば考えない事もないわ」

 女王であると。

「わかったよ」
「……嘘よ」

 本当に跪こうとする僕を見て、彼女はそう言った。

「あなた、これからどうするの?」
「さあ。もう色んなことが起きすぎて、頭の中はまだ整理がついてないけど、たぶん、順当にいけばこのままどこかで野垂れ死にじゃないかな」

 自嘲気味だったけど、僕はもうどこかで諦めをつけていた。仕方が無い。今までが幸福だったから、不幸のしわ寄せがやって来てしまったのだと、そう考えて。
 どうしてなんでを反復するまえに、仕方が無いと思えばいい。
 そんな決心を読み取ったのか、彼女は一歩前に出て

「認めないわよ」
「え?」
「あなたを失うなんて認めないわ」
「嬉しいけど、でも無理だよ。お金はどうしようもないし」
「あなたは私の奴隷よ。手放すかどうかは私が決めるわ」

 無茶苦茶で暴論だ。そう思ったけれど、僕は心のどこかで冷め切っていた興奮がざわめくのを感じた。いつもの彼女が、こうしていつも通りの発言をしている。
 初めて彼女の秘密を見てしまった時もそうだった。
 『強引に事を進行させて物事を収束させる』彼女に、僕は魂を鷲掴みにされてしまっていた。あの時に近い感覚が、全身を痺れさせる。

「一度しか言わないわ。よく耳をかっぽじって聞きなさい」
「……」

 息を呑んで、

「好きよ。あなたのこと。私とずっと一緒にいなさい」

 無茶苦茶でハチャメチャで、無理難題だった。お金がないのに、どうしろと言うのだろう。道理をきちんと整列して歩くことを知らない育ち方をしたのだろうか。論理も破綻させてしまっていて、我が道を邪魔するものは全て除けてしまうような、女王だ。
 でも、僕は、嬉しかった。
 きっと彼女のことだから、お金がないのなら何か僕の想像の範疇を超えたことをやってのけるのだろう。

「うん」

 ひしがれて弄ばれた夏の残滓は、もう残っていなかった。
 僕は口にする。
 一縷の望みを捨てず、冴えない自分を見捨てずに。
 欲望も色欲も抜きにして、初めて自分の本音を言えた気がした。

「僕もだ」

13

 この話に物語のような壮大なオチはないし、これといって万全の解決策があったわけでもない。ただ、僕は女王である彼女にいつの間にか恋をしてしまっていて、彼女もそれは同じだった。情交の時だったのかもしれないと予測をたてるのは、邪推だろう。
 けれど、僕は少しだけ彼女の奴隷であることを誇りにしようと思う。
 言うべきことは、これくらいだ。
 彼女は、僕にとって……
15/11/11 21:59更新 /

■作者メッセージ
そんなお話でした。楽しんでいただければ幸いです。
僕が今まで書いた中で一番長いお話になったわけですが、まあ多くは語りません。言うべきことは、これくらいです。

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