これから始まる
弓道という言葉が持つイメージとしては、詳しくない者であれば、荘厳であるとか、荘重であるとか、粛然であるとか、そんなステレオタイプな偏見で固められたものであるだろう。だが、弓道部部長の東雲春賀が弓道に対して抱いていたイメージはそのどれでもなかった。彼女が抱いていた、弓道へのイメージは『陰惨』だった。およそ、弓道の知識がない者ならーーいや、弓道にある程度の知識があるものでもおおよそ抱きそうにないイメージを彼女は抱き、弓道部に入部し、部長にまで上り詰めた。そんな彼女が何を思って、今弓道場で正鵠を射ろうとしているのか、理解できる人物は、いるかどうかあやしいものだった。
「……ッツ」
短い間の後に、矢が放たれて中央へ突き刺さる。
それを褒め讃えるように、東雲の背後で拍手が起こった。
「凄いですね、東雲先輩」
「あら、薮雨君。いるのだったら、声をかけてくれればよかったのに」
「いや、集中してる先輩に声をかけるのは失礼ですよ」
拍手をした人物は、弓道部員の薮雨啓人だった。まだ弓道着に着替えておらず、制服のままだ。
「これから着替え?」
「ええ、すぐに準備してきます」
「覗いちゃおうかしら」
「いつから痴女に成り下がったんですか先輩」
悪魔らしく、にたりと笑みを浮かべ、東雲は答える。
「冗談に決まってるじゃない。ほら、早く着替えてらっしゃいな。そうでないと本当に覗くわよ」
「勘弁してください」
そう言いながら、薮雨は弓道部の部室に入って数分もしないうちに着替えを終わらせて部室から出てきた。
あまりの早さに東雲は目を丸くしながら、些か、からかいすぎたかもしれないとこっそりと自身の胸の内で反省した。言わずもがな、反省するだけで行動には反映されないのだが。
「なんだか妙に萎れてませんか先輩」
「そ、そう?気のせいよ」
「自分で反省するくらいならもう少し冗談の質をあげたらどうなんですか」
「これでも工夫はしてるのよ?色々なパロディを盛り込んだりとか」
「覗きのどこにパロディ要素があるんですか!?」
「ほら、女の子の下着をかぶって、正義のヒーローに変身するマンガとかあったじゃない?あれのパロディで私が薮雨君のーー」
「先輩がそれをやったらアウトですよ!というかまずそのネタを先輩が知ってることに驚きましたよ!そして言うならのぞきとの絡み要素が見あたりませんよ!」
くすくす、と楽しそうな笑みをこぼす東雲の笑顔は、屈託のないものだった。振り回されていても、そんな笑みを見られると思ってしまうと、なぜか憎む気にはなれない。それが、なんだか薮雨にはずるく感じられた。その笑みが自分以外の誰かも見ているのだろうかと、そんなことを考えてしまう。
そして、いかんいかん、と邪な考えを頭を振って、文字通り振り払う。
「さて、それじゃあ今日のノルマは真ん中に5回当てられたら終わりということにしましょうか」
「・・・わかりました」
二人は横に並び、ほぼ同じタイミングで弦を引き絞る。そして、その引き絞った体勢のまま、二人は硬直した。
いや、硬直という表現には語弊がある。正しく言うなら、二人は集中していた。正鵠を射抜くために。雑念を払って、行き詰まるような、息詰まるような張りつめた空気の中で、狙いを定める。決して二人の間に角逐があるわけではない。二人とも、今日のノルマを果たすためだけに集中しているに過ぎない。過ぎないのに。
異様なまでの、火薬の臭いが漂ってくる強迫観念のような緊迫感が、そこにはあった。
「……っ」
やがて、薮雨の方が先に、引き絞った弦を手放す。張りつめられた弦は当然もとに戻ろうとし、その勢いに乗せられて矢は放たれた。
やや半楕円上の軌道を描いて、しかし疾風よりも早いであろう速度で矢は的の中心ーーよりもやや下の辺りに刺さった。
「………」
続くように東雲も弦を手放し、放たれた矢は、薮雨の矢と同じような軌道を描いた。違いがあるとすれば、その矢は寸分違わずに正鵠へと吸い込まれるように刺さったことだろう。二人の間に、違いはそれしかなかった。
「ふぅ……やっぱり凄いですね、先輩」
「そうかしら?」
「ええ、どうやったらそこまで集中できるんですか?」
「こればっかりは教えてもどうこうなるものじゃあない気がするわね。でも、薮雨君がどうしてもって言うのなら、手取り足取り腰取り目取り歯取り首取り爪取りしながら教えてあげてもいいわよ?」
「あの、すいません。途中から殺して解して並べて揃えて晒す殺人鬼みたいな口上が聞こえた気がしたんですが」
「気のせいじゃないかしら」
「いや絶対言ってましたよね」
「どうして私が言うことがあるのか、いやない」
「反語形にしても何一つ誤魔化せてないですよ先輩」
「さ、うだうだと言ってないで次、いきましょう」
そう言って、東雲は凛とした表情に戻ると再び狙いを定めはじめた。薮雨もそれに倣い、ぎしぎしと乾いた音が弓から聞こえるほどに、弓を引く。
再び、場を静寂が支配する。二人に聞こえてくるのは、弓の悲鳴にも似た乾いた音と、自身の呼吸の掠れるような音だけだった。
一秒、二秒、三秒と静寂が続き…。
一瞬でその世界は終わりを告げた。
最初に矢を放ったのは、今度は東雲だった。
先ほどと同じように、矢は半楕円の軌跡を描いて、今度は性格に正鵠の真ん中を射た。
その姿に、思わず見とれていた薮雨は、慌てて集中力を取り戻す。
「………」
そして続いて薮雨が矢を放ち、その矢は寸分違わず正鵠の中心を射たーーかに思えたが、今度は真ん中よりもやや上を射抜いた。
「ふう」
「どうやったらそんなに機械みたいに矢を射れるんですか?」
「簡単よ、ひたすら真ん中を見て、射抜くだけ。畢竟するに、どれだけ集中できるかが分かれ道かしら。でも、私より凄い人なんてまだまだいると思うけど」
「いや、僕にとって一番身近にいる凄い人は、先輩ですよ」
「脱ぐともっと凄いのよ」
「聞いてないです」
冗談を交わしつつ、薮雨はほんの少しだけ、東雲の姿を目に焼き付けた。冗談を言ってからかってくる時に浮かべる微笑みを、弓道着を着こなすその姿の美しさを。
薮雨と東雲のファーストコンタクトは特筆するものもないような平々凡々としたもので、ある日弓道場を訪ねた薮雨が最初に目にしたのが東雲という、オチもなにもない出会いだった。だが、むしろそんな出会いだったからかもしれない。
薮雨はその時に、人生で初めて一目惚れという貴重な体験をすることになった。
「それにしても、本当にコツみたいなものがあるなら聞いてみたいですね。集中する方法」
「簡単よ?頭の中を空っぽにすればいいだけなんだから」
「いや、それが実行できないから困ってるんですけど」
実際に困る理由は、東雲に見とれてしまうからだが、それを口にするほど薮雨はうっかり屋ではなかった。
「もう一つ方法はあるわよ?」
「なんです?」
「一つのことしか考えないの」
「一つの…こと?」
「そう、弓道以外でもいいわ。ただただ、一つのことを考えて、ほかの雑念が入る余地をなくすの。そうすれば、自然と体は動いてくれるから」
一つのこと。
そのワードが薮雨の中で引っかかり、ふと考えた。東雲のことを考えたらどうなるのかと。途端に薮雨の奥底から羞恥心がわき上がり、思わず夕焼けのように赤面した。
「顔真っ赤だけど、どうしたの?」
「なんでもないです」
「お姉さんに言ってご覧なさい」
「今時姉のキャラクターは古いですよ」
「つれない………」
「割と真面目に褒めてたのに、褒め損ですよ。もっとーーな人かと思ってました」
「ん?なんて?」
「…なんでもないですよ。もう」
結局、二人がノルマを達成したのはそこから30分後のことだった。30分後、とはいっても、東雲は容易く五回連続で正鵠の中心へ矢を当てたので、東雲が薮雨を待つことでその30分という時間は経過していた。
二人とも弓道着から制服へと着替え、弓道場を出て、お互いに帰り道の最中のことだった。東雲は自販機で購入したジュースを喉に流し込み、冷たい流動体で体が満たされていく感覚に恍惚の表情を浮かべていた。
「一挙手一投足に艶めかしさを醸し出すのどうにかならないんですか」
「ん?どうして?」
「いや、そりゃ、だって…」
「何々?情欲でも催しそうなの?劣情でも催しそうなの?獣欲でも催しそうなの?性欲でも催しそうなの?」
「全部性的欲求!?僕はどんな姿で先輩の目に映ってるんですか!?」
「え、……隙あらば襲ってあわよくば関係を持っちゃおうと狙ってるような後輩…かな?」
「ひでえ!」
自身のあんまりな歪曲された理解に思わず薮雨は叫んだが、東雲は楽しそうに微笑んで、薮雨の抗議など、どこ吹く風といった様子だった。
東雲は再びジュースを体の隅々にまで行き渡らせ、五臓六腑に染み渡るような感覚を満喫していた。
薮雨もやがて、いくら反論しようが抗議しようが無駄だと悟ったのか、ふてくされた顔で道ばたの小石を蹴り飛ばした。コロコロと転がる小石がアスファルトとぶつかる音が、薮雨にはやけに煩わしく感じられた。
「そういえば先輩」
「どうしたの?性欲君」
「僕の名前はもうその呼び方で固定ですか!?」
「え?嫌なの?」
「当たり前ですよ!」
薮雨の必死の抗議に、東雲はしばらく考える素振りを見せた後。
「変態君?」
「考えた結果がそれですか!?」
「じゃあむっつり」
「どれも一緒じゃないですか!」
「冗談に決まってるじゃない、やぶやめ君」
「僕の名前はやぶさめで…話のオチがわかったんでもう帰っていいですか」
「ああ拗ねないで。そういえばどうしたの?」
「いえ、なんで先輩弓道部に入ったのかなって」
「いきなりどうしたの?親密度を高めるための調査ならできれば好物あたりから遠回しに聞いていくといいわよ。ちなみに私の好物は果物とかが上位を占めるのだけれど、一番の好物は福沢諭吉ね」
「とんでもねえ悪女!?」
「ふふふ。私としては、どうして薮雨君がそんなことを聞くのかってことの方が気になるわね」
質問に質問で返された薮雨だったが、一瞬だけ思案すると、やがて開口一番、こう言った。それは薮雨にとっては場を誤魔化すためのものだったのだが、なぜか、その時だけ、建前と本音が入れ替わったように、薮雨は口走ってしまっていた。
「僕が入部した時に、ある女子がいたんです」
「うん」
「その女子、見た目は育ちが良さそうで、おしとやかなイメージだったんですけど、話してみると、実際にはそんなイメージとは遠ざかるような人だったんですよ。でも、弓道の腕に関しては本物なんです。それに、集中している時の姿が、女子に言うには失礼かもしれませんけど、格好良くって」
「うん」
「そんな人のことを知りたいっていうのは、いけないことなんですかね?…って、あ………れ?」
言い終わり、薮雨は気づいた。今まで話していたことは、すべてが言うまでもなく東雲のことだった。建前では、御託を並べて、それっぽい言葉を取り繕って誤魔化すつもりだったものが。思考が、本音が口からこぼれていた。そこまではまだ百歩ほど譲ればいいだろう。問題は、とうの本人がそばにいることと、そして、その事実が夢でもなんでもない、どうしようもない現実そのものだったことだ。
告白同然のような本音を口走ったことが、現実だったことだ。
「あ、いや違うんです!あの、…えっと!」
慌てて言い直そうとするが、場を誤魔化す言葉が薮雨には見つからなかった。己の語彙力を悔いたい気持ちにもなったが、そんなことをしている暇があったら少しでも場を、煙に巻いたように戻してしまいたい、そうでないと、嫌われてしまうかもしれない、当然だろう、こんな気持ち悪い告白を、してしまったのだから、死んでしまいたい。そんな後悔の念が容赦なく薮雨を襲い、呑み込んでしまおうとしていた、その時に。
「…私が最初に弓道に抱いていたイメージは『陰惨』だったの。古くさくて、それでいて儀礼なんかをやたらと尊重するようなもので、楽しみなんて一つもない。そんなイメージを持ってたの」
「……え」
「まあ親に言われてた言葉から生まれた偏見なんだけどね。私の親、特にお母さんがいつも言ってたの。
薮雨は、二の句を継げなくなった。なんら平然と答えて見せる東雲の態度もそうだったが、何より、薮雨が本音を漏らしたように、自身も本音を漏らしているようなその口調が、薮雨の頭の中で反響していた。
ぐわんぐわんと、頭を揺らすように、何かを大声で伝えるように。
「…」
「実際、入部のきっかけは親の強引な薦めからだったし、それほど関心は高くはなかったわ。でもね、実際に体験してみると、本当に楽しかったの」
ゆらゆらと揺らめきながら沈んでいく太陽が、二人の影を長く伸ばす。
「だから、今でも私は弓道が好き。これでいい?」
「あ、はい、すみません。あの…」
「ストップ」
「ッツ」
「君の気持ちはわかったから。今は弓道にうちこんでみてよ」
「……はい」
苦虫を噛み潰したような顔を浮かべ、それを隠すためにうなだれながら、薮雨はそう答えるしかなかった。振られた。その文字だけが、虫食いのように自分を内側からバラバラにしていくような感覚に、薮雨は大人しく身を委ねーー
「五回連続で射れたら、考えてあげるから」
「え……っ」
予想外の言葉にハッとして垂れていた頭を上げ、そこで薮雨は硬直した。
「私をがっかりさせないでね、『啓人君』」
いつも自分をからかうよりも、ずっと生き生きとした表情を浮かべた東雲が、そこにいた。夕日を背に、薮雨も見たことがないような、いい笑顔を浮かべて。
なぜその時に、自分がそんなことを考えたのかは薮雨自身もわからなかったが、とにかく、こう思った。負けたくないと。
だから、薮雨は負けないように。
「はい!」
負けないように、笑顔を浮かべた。
「……ッツ」
短い間の後に、矢が放たれて中央へ突き刺さる。
それを褒め讃えるように、東雲の背後で拍手が起こった。
「凄いですね、東雲先輩」
「あら、薮雨君。いるのだったら、声をかけてくれればよかったのに」
「いや、集中してる先輩に声をかけるのは失礼ですよ」
拍手をした人物は、弓道部員の薮雨啓人だった。まだ弓道着に着替えておらず、制服のままだ。
「これから着替え?」
「ええ、すぐに準備してきます」
「覗いちゃおうかしら」
「いつから痴女に成り下がったんですか先輩」
悪魔らしく、にたりと笑みを浮かべ、東雲は答える。
「冗談に決まってるじゃない。ほら、早く着替えてらっしゃいな。そうでないと本当に覗くわよ」
「勘弁してください」
そう言いながら、薮雨は弓道部の部室に入って数分もしないうちに着替えを終わらせて部室から出てきた。
あまりの早さに東雲は目を丸くしながら、些か、からかいすぎたかもしれないとこっそりと自身の胸の内で反省した。言わずもがな、反省するだけで行動には反映されないのだが。
「なんだか妙に萎れてませんか先輩」
「そ、そう?気のせいよ」
「自分で反省するくらいならもう少し冗談の質をあげたらどうなんですか」
「これでも工夫はしてるのよ?色々なパロディを盛り込んだりとか」
「覗きのどこにパロディ要素があるんですか!?」
「ほら、女の子の下着をかぶって、正義のヒーローに変身するマンガとかあったじゃない?あれのパロディで私が薮雨君のーー」
「先輩がそれをやったらアウトですよ!というかまずそのネタを先輩が知ってることに驚きましたよ!そして言うならのぞきとの絡み要素が見あたりませんよ!」
くすくす、と楽しそうな笑みをこぼす東雲の笑顔は、屈託のないものだった。振り回されていても、そんな笑みを見られると思ってしまうと、なぜか憎む気にはなれない。それが、なんだか薮雨にはずるく感じられた。その笑みが自分以外の誰かも見ているのだろうかと、そんなことを考えてしまう。
そして、いかんいかん、と邪な考えを頭を振って、文字通り振り払う。
「さて、それじゃあ今日のノルマは真ん中に5回当てられたら終わりということにしましょうか」
「・・・わかりました」
二人は横に並び、ほぼ同じタイミングで弦を引き絞る。そして、その引き絞った体勢のまま、二人は硬直した。
いや、硬直という表現には語弊がある。正しく言うなら、二人は集中していた。正鵠を射抜くために。雑念を払って、行き詰まるような、息詰まるような張りつめた空気の中で、狙いを定める。決して二人の間に角逐があるわけではない。二人とも、今日のノルマを果たすためだけに集中しているに過ぎない。過ぎないのに。
異様なまでの、火薬の臭いが漂ってくる強迫観念のような緊迫感が、そこにはあった。
「……っ」
やがて、薮雨の方が先に、引き絞った弦を手放す。張りつめられた弦は当然もとに戻ろうとし、その勢いに乗せられて矢は放たれた。
やや半楕円上の軌道を描いて、しかし疾風よりも早いであろう速度で矢は的の中心ーーよりもやや下の辺りに刺さった。
「………」
続くように東雲も弦を手放し、放たれた矢は、薮雨の矢と同じような軌道を描いた。違いがあるとすれば、その矢は寸分違わずに正鵠へと吸い込まれるように刺さったことだろう。二人の間に、違いはそれしかなかった。
「ふぅ……やっぱり凄いですね、先輩」
「そうかしら?」
「ええ、どうやったらそこまで集中できるんですか?」
「こればっかりは教えてもどうこうなるものじゃあない気がするわね。でも、薮雨君がどうしてもって言うのなら、手取り足取り腰取り目取り歯取り首取り爪取りしながら教えてあげてもいいわよ?」
「あの、すいません。途中から殺して解して並べて揃えて晒す殺人鬼みたいな口上が聞こえた気がしたんですが」
「気のせいじゃないかしら」
「いや絶対言ってましたよね」
「どうして私が言うことがあるのか、いやない」
「反語形にしても何一つ誤魔化せてないですよ先輩」
「さ、うだうだと言ってないで次、いきましょう」
そう言って、東雲は凛とした表情に戻ると再び狙いを定めはじめた。薮雨もそれに倣い、ぎしぎしと乾いた音が弓から聞こえるほどに、弓を引く。
再び、場を静寂が支配する。二人に聞こえてくるのは、弓の悲鳴にも似た乾いた音と、自身の呼吸の掠れるような音だけだった。
一秒、二秒、三秒と静寂が続き…。
一瞬でその世界は終わりを告げた。
最初に矢を放ったのは、今度は東雲だった。
先ほどと同じように、矢は半楕円の軌跡を描いて、今度は性格に正鵠の真ん中を射た。
その姿に、思わず見とれていた薮雨は、慌てて集中力を取り戻す。
「………」
そして続いて薮雨が矢を放ち、その矢は寸分違わず正鵠の中心を射たーーかに思えたが、今度は真ん中よりもやや上を射抜いた。
「ふう」
「どうやったらそんなに機械みたいに矢を射れるんですか?」
「簡単よ、ひたすら真ん中を見て、射抜くだけ。畢竟するに、どれだけ集中できるかが分かれ道かしら。でも、私より凄い人なんてまだまだいると思うけど」
「いや、僕にとって一番身近にいる凄い人は、先輩ですよ」
「脱ぐともっと凄いのよ」
「聞いてないです」
冗談を交わしつつ、薮雨はほんの少しだけ、東雲の姿を目に焼き付けた。冗談を言ってからかってくる時に浮かべる微笑みを、弓道着を着こなすその姿の美しさを。
薮雨と東雲のファーストコンタクトは特筆するものもないような平々凡々としたもので、ある日弓道場を訪ねた薮雨が最初に目にしたのが東雲という、オチもなにもない出会いだった。だが、むしろそんな出会いだったからかもしれない。
薮雨はその時に、人生で初めて一目惚れという貴重な体験をすることになった。
「それにしても、本当にコツみたいなものがあるなら聞いてみたいですね。集中する方法」
「簡単よ?頭の中を空っぽにすればいいだけなんだから」
「いや、それが実行できないから困ってるんですけど」
実際に困る理由は、東雲に見とれてしまうからだが、それを口にするほど薮雨はうっかり屋ではなかった。
「もう一つ方法はあるわよ?」
「なんです?」
「一つのことしか考えないの」
「一つの…こと?」
「そう、弓道以外でもいいわ。ただただ、一つのことを考えて、ほかの雑念が入る余地をなくすの。そうすれば、自然と体は動いてくれるから」
一つのこと。
そのワードが薮雨の中で引っかかり、ふと考えた。東雲のことを考えたらどうなるのかと。途端に薮雨の奥底から羞恥心がわき上がり、思わず夕焼けのように赤面した。
「顔真っ赤だけど、どうしたの?」
「なんでもないです」
「お姉さんに言ってご覧なさい」
「今時姉のキャラクターは古いですよ」
「つれない………」
「割と真面目に褒めてたのに、褒め損ですよ。もっとーーな人かと思ってました」
「ん?なんて?」
「…なんでもないですよ。もう」
結局、二人がノルマを達成したのはそこから30分後のことだった。30分後、とはいっても、東雲は容易く五回連続で正鵠の中心へ矢を当てたので、東雲が薮雨を待つことでその30分という時間は経過していた。
二人とも弓道着から制服へと着替え、弓道場を出て、お互いに帰り道の最中のことだった。東雲は自販機で購入したジュースを喉に流し込み、冷たい流動体で体が満たされていく感覚に恍惚の表情を浮かべていた。
「一挙手一投足に艶めかしさを醸し出すのどうにかならないんですか」
「ん?どうして?」
「いや、そりゃ、だって…」
「何々?情欲でも催しそうなの?劣情でも催しそうなの?獣欲でも催しそうなの?性欲でも催しそうなの?」
「全部性的欲求!?僕はどんな姿で先輩の目に映ってるんですか!?」
「え、……隙あらば襲ってあわよくば関係を持っちゃおうと狙ってるような後輩…かな?」
「ひでえ!」
自身のあんまりな歪曲された理解に思わず薮雨は叫んだが、東雲は楽しそうに微笑んで、薮雨の抗議など、どこ吹く風といった様子だった。
東雲は再びジュースを体の隅々にまで行き渡らせ、五臓六腑に染み渡るような感覚を満喫していた。
薮雨もやがて、いくら反論しようが抗議しようが無駄だと悟ったのか、ふてくされた顔で道ばたの小石を蹴り飛ばした。コロコロと転がる小石がアスファルトとぶつかる音が、薮雨にはやけに煩わしく感じられた。
「そういえば先輩」
「どうしたの?性欲君」
「僕の名前はもうその呼び方で固定ですか!?」
「え?嫌なの?」
「当たり前ですよ!」
薮雨の必死の抗議に、東雲はしばらく考える素振りを見せた後。
「変態君?」
「考えた結果がそれですか!?」
「じゃあむっつり」
「どれも一緒じゃないですか!」
「冗談に決まってるじゃない、やぶやめ君」
「僕の名前はやぶさめで…話のオチがわかったんでもう帰っていいですか」
「ああ拗ねないで。そういえばどうしたの?」
「いえ、なんで先輩弓道部に入ったのかなって」
「いきなりどうしたの?親密度を高めるための調査ならできれば好物あたりから遠回しに聞いていくといいわよ。ちなみに私の好物は果物とかが上位を占めるのだけれど、一番の好物は福沢諭吉ね」
「とんでもねえ悪女!?」
「ふふふ。私としては、どうして薮雨君がそんなことを聞くのかってことの方が気になるわね」
質問に質問で返された薮雨だったが、一瞬だけ思案すると、やがて開口一番、こう言った。それは薮雨にとっては場を誤魔化すためのものだったのだが、なぜか、その時だけ、建前と本音が入れ替わったように、薮雨は口走ってしまっていた。
「僕が入部した時に、ある女子がいたんです」
「うん」
「その女子、見た目は育ちが良さそうで、おしとやかなイメージだったんですけど、話してみると、実際にはそんなイメージとは遠ざかるような人だったんですよ。でも、弓道の腕に関しては本物なんです。それに、集中している時の姿が、女子に言うには失礼かもしれませんけど、格好良くって」
「うん」
「そんな人のことを知りたいっていうのは、いけないことなんですかね?…って、あ………れ?」
言い終わり、薮雨は気づいた。今まで話していたことは、すべてが言うまでもなく東雲のことだった。建前では、御託を並べて、それっぽい言葉を取り繕って誤魔化すつもりだったものが。思考が、本音が口からこぼれていた。そこまではまだ百歩ほど譲ればいいだろう。問題は、とうの本人がそばにいることと、そして、その事実が夢でもなんでもない、どうしようもない現実そのものだったことだ。
告白同然のような本音を口走ったことが、現実だったことだ。
「あ、いや違うんです!あの、…えっと!」
慌てて言い直そうとするが、場を誤魔化す言葉が薮雨には見つからなかった。己の語彙力を悔いたい気持ちにもなったが、そんなことをしている暇があったら少しでも場を、煙に巻いたように戻してしまいたい、そうでないと、嫌われてしまうかもしれない、当然だろう、こんな気持ち悪い告白を、してしまったのだから、死んでしまいたい。そんな後悔の念が容赦なく薮雨を襲い、呑み込んでしまおうとしていた、その時に。
「…私が最初に弓道に抱いていたイメージは『陰惨』だったの。古くさくて、それでいて儀礼なんかをやたらと尊重するようなもので、楽しみなんて一つもない。そんなイメージを持ってたの」
「……え」
「まあ親に言われてた言葉から生まれた偏見なんだけどね。私の親、特にお母さんがいつも言ってたの。
薮雨は、二の句を継げなくなった。なんら平然と答えて見せる東雲の態度もそうだったが、何より、薮雨が本音を漏らしたように、自身も本音を漏らしているようなその口調が、薮雨の頭の中で反響していた。
ぐわんぐわんと、頭を揺らすように、何かを大声で伝えるように。
「…」
「実際、入部のきっかけは親の強引な薦めからだったし、それほど関心は高くはなかったわ。でもね、実際に体験してみると、本当に楽しかったの」
ゆらゆらと揺らめきながら沈んでいく太陽が、二人の影を長く伸ばす。
「だから、今でも私は弓道が好き。これでいい?」
「あ、はい、すみません。あの…」
「ストップ」
「ッツ」
「君の気持ちはわかったから。今は弓道にうちこんでみてよ」
「……はい」
苦虫を噛み潰したような顔を浮かべ、それを隠すためにうなだれながら、薮雨はそう答えるしかなかった。振られた。その文字だけが、虫食いのように自分を内側からバラバラにしていくような感覚に、薮雨は大人しく身を委ねーー
「五回連続で射れたら、考えてあげるから」
「え……っ」
予想外の言葉にハッとして垂れていた頭を上げ、そこで薮雨は硬直した。
「私をがっかりさせないでね、『啓人君』」
いつも自分をからかうよりも、ずっと生き生きとした表情を浮かべた東雲が、そこにいた。夕日を背に、薮雨も見たことがないような、いい笑顔を浮かべて。
なぜその時に、自分がそんなことを考えたのかは薮雨自身もわからなかったが、とにかく、こう思った。負けたくないと。
だから、薮雨は負けないように。
「はい!」
負けないように、笑顔を浮かべた。
15/11/11 22:01更新 / 綴