草野さんによろしくね
僕の家には、いつ頃からか、メイドが一緒にいた。具体的にどの時期からこのメイドさんが一緒にいるのか、詳しくは僕も知らない。ただ、僕の一番古い記憶を掘り返してみても、彼女の顔が思い浮かぶことから、きっとかなり昔からこの家に奉公してくれているのだとは思う。いつも僕の身の周りの世話をしてくれる彼女。小さい頃から、ずっと僕の世話をしてくれた彼女。おそらく、僕はいくら彼女に礼を尽くしても尽くしきれないだろう。それほどに、彼女の献身は厚かった。僕の人生の一部になっていると言っても、決して過言ではないほどに。
そんな彼女の名前は、
「草野さん」
「はい、なんですか?代田君」
草野さん。それが彼女の名前だった。キキーモラの草野さん。決して業務のため、仕事のために拵えたものではない笑顔は、思春期の僕には少し眩しい。なんだかその笑顔を見ているだけで、僕の中の小さな不安が消されていく気がした。それほどまでに彼女は魅力的で、狡かった。
「あの……」
「ふふふ。わかりました」
人の機微に敏感な彼女は(彼女だけでなく、彼女の種族自体がそうなんだとか言っていた)すぐに僕の前でしゃがんだ。僕のちょっとした言葉に含まれる感情を読み取り、なれた手つきで僕のズボンに手をかけると、一気に足下までパンツごとずらされる。その勢いですっかり勃起した僕の怒張が、彼女の目の前で反り立った。
いつ頃からだろう――いや、僕が思春期を迎えてからだ。
僕が思春期を迎えて、男性と女性の違いを知って、そこからだ。僕はいつの間にか、女の人を見ると、ドキドキと心臓が早鐘のようになってしまうようになっていた。自然と漂ってくるいい匂いが、何気ない仕草が僕に干渉してきた。
それらにいちいち翻弄されることが、とても罪深いことに感じてしまって、僕は罪悪感から気がつけばあまり外出をしないようになっていた。小さい脳味噌を精一杯振り絞ったにしては、懸命で賢明な判断だったと思う。極論、外に出なければ、女の人を見なければこの自分を食べているような苦しさから逃れることができると。僕はそう結論を出して、部屋に篭もるようになっていた。
だが、所詮は子供の浅知恵。
僕は、肝心なことを見落としていたのだ。
そうだ。自分の家には、女性がいるという事実を見落としていた。あまりにも身近過ぎて。灯台下暗しとは、よく言ったものだと思う。
それでも、きっかけは偶然だった。風呂上りの草野さんとばったり遭遇した僕は、普段から見慣れてしまっていたメイド服のその下に隠されていたその姿に、胸を締め付けられた。大げさかもしれないが、世の中の全ての男を手玉に取れてしまいそうな、凄艶な艶姿だった。
胸元から下を隠すバスタオルも、ほんのりと上気した肌も、少し赤らんだ顔も。
そんな姿に、思春期を迎え間もない僕の性が、反応しないはずもなかった。その反応を自覚した瞬間、僕は罪深いことをしてしまっているような気恥ずかしさから、思わず彼女に背中を向けて蹲った。できることなら、このまま早く立ち去ってほしい。そう頭の中で必死に唱えながら。
変わらないと思っていた僕と草野さんとの関係は、そこから狂々と変わっていった。くるくるくるくる、目まぐるしく、独楽のように回っていた。以前は、包み込まれるような温かい光が僕の目の前にあったのに、今、現在進行形であるのは。
「んっ、ちゅ、じゅっ」
「うっ………ぁ」
腰が引けるほどの快美感と、醜悪な桃色の明かりだけが、僕を染めていた。やがて、限界点を越えた快楽が、精巣を刺激して精子を無理矢理尿道から吐き出させた。
びくびくと震える度に吐き出される欲求の塊を、草野さんは嫌な顔一つせずに、ごくりと音をたてて懸命に飲み込んでいた。やがて、唇が肉棒から引き離されて、ちゅ、と一瞬淫猥な水音が耳朶をうつ。飲み干しきれなくて溢れた精液が、口の端に僅かに付着していた。
それに気付いたのか、そっとそれを手で拭う姿に、心臓を掴まれた気分になった。
こうしてもらっている時の草野さんは一挙手一投足がいちいち艶かしくて、性欲を逆撫でする。その顔が淫靡な色に染まることも、彼女から漂ってくる牝の臭気も。つまびらかに次々と要因を挙げていけばキリがないほどに。この時の彼女は、今の彼女は淫らそのものだった。理性が掌握されたような快楽を、気がつけば彼女は僕に与えてくれるようになっていた。
この関係が正しいのかどうかは僕にはわからなかった。快楽に流されている僕がいて、でもその中でもっともっと深い繋がりを求める僕がいる。草野さんと、もっと心まで結ばれていたい。彼女が僕のことをどう思っているかなんて、ちっともわからなかったけど。
以心伝心なんて四字熟語の存在意義が薄れてしまう現実だった。
「ありがと……草野さん」
「いえ。また我慢できなくなったらいつでも言ってくださいね」
違うんだよ草野さん。僕はこんなんじゃなくて、もっと、もっと別の。
「ごめんね、いつも」
喉から漏れ出す心の一部は、白々しく自分に嘯いていた。
「気になさらなくて大丈夫ですよ」
草野さんはそう言った。その言葉は事務的なものではなくて、本当に心からそう思っているような湿度を含んでいた。もし、彼女の言動から態度まで全てが演技だったとしたら、僕は人間不信にでも陥ってしまうだろう。今だって、人付き合いが得意とは決して言えないのに。
草野さんがいない家。或いはまるで違う彼女がいる家。それは想像の産物なのに、背中から胸まで貫かれるような怖さがあった。
自分の性格が、めんどくさいものだとは、しょっちゅう思う。自分の中でイタチごっこを続ける思考回路に終止符すら打てず、いつまでも考えるこの性格。損をしている、という自覚すら生まれるほどに。
それでも、僕は元来のそれを放棄することができなかった。そんな自分が、嫌だ。自己嫌悪している暇があれば、もっと他にすることがあるのだろうけれど。
でも。
「どうかしました?」
「え」
「いえ、少し暗い顔をしていらっしゃったので。……私の奉仕で至らないところがあったでしょうか?」
「そ、そんなことなかったよ!凄い気持ちよかった」
大慌てで弁解する僕が面白かったのか、草野さんはくすりと笑っていた。途端に僕も、自分が凄く間抜けなことを言っていることに気付き、恥ずかしさから床と睨めっこをすることになった。視線を少しだけ戻すと、当たり前のことだけど、草野さんの顔がある。
草野さんはまだ目を細めて笑っていた。
情事のすぐ後なので、体液でぬらぬらと妖しい光沢を放つ唇が独特の妖気を漂わせて、こちらを誘っているようで、僕はまた床と睨めっこを再開した。今、また視線を上げてしまえば、官能の鎖に絡め取られて簀巻きにされてしまう。直感でそう感じた。
草野さんは、どんな顔をしているのだろうか。
彼女の顔を見たいという願望と、自己保身のための理性で板挟みにされる。できることならその場を立ち去りたかったが、僕の鈍感な足はしっかりと床に根を張っていた。這っていた。
「うふふ。気に入っていただけたなら、私としても奉仕のし甲斐があるというものです」
「う…」
顔に熱を集めて俯くことしかできない自分が、女々しかった。女々しくて女々しくて。
いっそのこと爆散してしまえと思う。
だが、人間の欲望はそんな羞恥心――理性にあっさりと勝鬨の声をあげるほどにしたたかだった。強慢とも言える。傲慢とも言える。
ついさっきしてもらった奉仕の光景が刹那、フラッシュバックして、腰のあたり一帯に生々しい電流が走った。有機的なその刺激が、むくりと欲望の鎌首をもたげさせる。
他の誰でもない自分の身体のことにすぐに気付いた僕は、慌てて草野さんに背中を向けた。情けなさ過ぎて、溜息が洩れる。その息が、なんともいえぬ感情の塊を鼻腔に纏わりつかせた。
退廃的で、淫蕩に満ち溢れている草野さんとの関係。きっと、これは魔物娘としてはこれ以上ないほどに正しい日々なのだろう。決してぶれることのない存在証明があり、それを実行することも容易い日々。
でも、僕はただ一言をまだ伝えられていなかった。本来なら、こんな関係になる前に伝えていなきゃならない言葉が、まだ。好きなんて青臭い言葉が、腹の底でどろどろに熔解し、何か別のものになって静脈を巡ってしまうのが怖かった。
これから晴れると天気予報で言われても、そんな望みは一縷も見出せないような曇天だった。窓の外から見るだけでも、心を鈍色に染め上げてしまうのではと思ってしまう。白地のカーテンですぐに視界を遮るのと、草野さんが僕の部屋に入ってきたのはほぼ同時だった。
「…どうされました?」
「曇り空って嫌いなんだよ」
「わかります。なんだかどんよりとした気分になってしまいますよね」
「過ごしやすい天気のはずなんだけどね…」
「では、そんな日には本を読んであげましょう」
と、とても当たり前のことであるように、草野さんは服から(どこに仕舞うスペースがあった?)桃太郎の本を取り出した。それも、幼稚園児に読み聞かせするような挿絵のものを。これにはさすがに僕も閉口せざるをえなかった。
草野さんは僕の反応が解せないのか、不思議そうに首を傾げて見せる。僕としては草野さんの脳内の方がよっぽど解せない。彼女の頭の中では未だ、僕は齢十を越えぬ幼子なのだろうか。巧言令色で多少のアレンジを物語に添えようとも、無理があるのではないのか。
が、草野さんはそのまま僕の機微をあえて無視して音読を始めた。
七畳半の部屋の中で、幼稚園児向けの本を音読するメイドと明らかに対象年齢を過ぎている少年の組み合わせは、中々にシュールだった。
「昔々、あるところにお爺さんとお婆さんがいました」
「あの、草野さん……」
僕の言葉を明らかに聞こえていないフリをして、草野さんは淡々と朗読を続ける。
「お婆さんは川へ洗濯に、お爺さんは山へシヴァ狩りに行きました」
「お爺さんにそんな戦闘力が!?」
のっけから突っ込みどころがあった。巧言令色どころか嘘八百だ。
「お婆さんが川で洗濯していると、川上からどんぶらこどんぶらこと大きな腿が流れてきました」
「童話が一気に猟奇殺人ミステリー!?」
「大きな桃なので家に持って帰って食べることにしました」
「……」
「まあ大きな桃だねお婆さん。任せなさい。食べやすいように八等分カットしてあげよう」
「中身桃太郎!!!」
「お爺さんが手際よく桃を八等分していくと、途中で奇妙な手ごたえが――」
「ストップ!!!」
ここいらで僕の精神は限界だった。
このまま鬼が退治されるところまで聞いていると、僕の桃太郎の概念が覆ってしまいかねない。最終的には鬼が桃太郎の妾にでもなってしまいそうだ。御伽噺は御伽噺らしく僕の記憶に残っていてほしい。
「あら…これからだったのですが」
「じゅうぶんだよもう」
「むぅ……」
子供っぽく頬を膨らませる草野さんは可愛かった。今なら、軽口の一つや二つに混じって言えてしまうのではと思ったけど、やっぱり臆病な自分はそこまでの度胸もなかった。遮ったはずの曇天に全てを押し付けたくなる。が、それも一瞬で思いとどまった。そこまで無責任になれるはずもない。
「草野さん」
「はい、なんでしょう」
膨れていても、受け答えをするあたり実にメイドとしては模範的だった。が、僕は彼女じゃない。しっかりとした受け答えはおろか、素直な感情の発露さえできない。情けない貧弱系男子だった。いや、脆弱かもしれないが。
何が脆いのかと聞かれれば、それは僕だと答えなければならないだろう。僕自身。
彼女はキキーモラだ。人の機微を具に感じ取り、察することのできる種族だ。だから、きっと僕が何度も言いあぐねている言葉だって草野さんにはお見通しなのだろう。俯瞰的な視点から見れば、これほど滑稽な図式があろうか。
既に僕が言いたいことを、彼女はなんとなく――あるいは明確に――知っている。それを知りながら、茶番劇をお互いに繰り返す。これ以上にない滑稽さだった。諧謔さのない滑稽さ。ずるずるとこのまま落ちて、沈んでしまいそうな深みに、きっと僕はいる。
「お茶を淹れてもらっていいかな?喉乾いちゃって」
「かしこまりました」
恭しく頭を下げ、草野さんが部屋を出る。それからしばらくして、強張っていた筋肉が弛緩するような脱力感に襲われた。たまらずベッドに身体を横たえる。全身の乳酸がシーツに吸い込まれていく錯覚を感じながら、僕は部屋に残っている微かな草野さんの残り香に酔った。
茶番もいいところだと、何度も思いながらその茶番から決して抜け出せない僕。辟易しながら、しかしそれ以上のものになることがない自分の腹の底が、鉛色に浸っている。
わかってる。それでも。だからって。情けない。茶番劇。仕方ない。かもしれない。
そんなふわふわとした単語を胸中で幾度となく呟きながら、口の中で何度も咀嚼しながら、僕は。
何もしなかった。何もできなかった、というのが正しいのかもしれない。
自分の年齢が気難しい年頃だということを加味しても、些か考えすぎではないのかと自らに問う声を無視して、僕は自分を受け止めるシーツの感触に身を委ねた。
「草野さん……」
自分の声が虚空に溶けていく。
「草野さん……」
幾星霜言葉を紡ごうが、いずれ解けてしまいそうだと思った。
「草野さん……」
名前だけならいくらでも呼べる。なのに臆病な僕は、春風が強すぎるだとか、天気が悪いだとかそんな理由だけでいくらでも引っ込む。口実が世界中に溢れている。この部屋にすら、溢れて満ちて窓からダムの放流のように勢いよく飛び出してしまいそうだ。
「草野さん……」
絶望。失望。渇望。切望。願望。展望。
そんな単語が手首から滴る気がした。
「はい、呼びましたか?」
「え…うわぁ!」
「そこまで呼んでくださるなんて、それほどお茶が恋しかったのですか?」
いつの間にか、ティーポットとティーカップをトレーに載せた草野さんが立っていた。
鱗粉が視界一杯に舞ったかのように、僕の網膜に入り込む光はそこで唐突に消えてしまった。
ああ、緊張のし過ぎで気を失うのかと、攪拌された暗澹の隅でぼんやりとそんなことをふと、考えた。
できないと思ってしまうだけで、人間は頭や心、自分のどこかでそれを確定事項にしてしまうのだということを、聞いたことがあった。本だったか、インターネットで聞きかじった知識だったか、それはもう不確かになっているが。だが、その情報は確かであるという確信が僕の中にはあった。
だから、それを破ろうと頑張り、そして挫ける。
そんな日々が続いていた。
いつだって失敗し、いつだって誤り、いつだって齟齬をきたし、いつだって間違い、いつだって後悔し、いつだって逃亡し。
どこから区切りをつけるのか、あやふやで有耶無耶になってしまっている境界線が、僕の首を緩やかに締め付ける。だから僕は、終止符を打つために強攻策に打って出た。
僕がここまで踏み切れないのは、あらゆる場所に逃げ口上があるからだ。ルパン三世が追い詰められているかのように見えて、ところがどっこいまだまだ奥の手が残っている、なんて風に。だから、僕はそれを無くすことにした。
ルパン三世だって、丸裸でなら取るべき手段は限られてくるだろう。まして僕はただの一般人だ。自分を自分で追い詰めれば、窮鼠の猫噛みを自分で起こすしかない。だから僕は、自分の部屋に草野さんを呼び寄せていた。大切な話があるなんて大仰なことを言って。
ただ「話がある」なんてことじゃ自分に逃げ道を用意しておくようなものだった。
だから、潰す。逃げ道は確実に。
「あの、大事なお話とは」
「うん。まあまずは座ってよ」
「はい……」
ここからだ。ここからどう行動するかで、僕の一生は決まる。大げさでもそれくらいに思わないと、僕はもう逃げ出しそうだった。自分でこの状況を作っておきながら。
だが、逃げ道はない。
自分で退路を断った。背水の陣だ。
一人で陣なのか?と自ら疑問に思いながら、僕はなんとか狭い気道をこじ開けて言葉を吐き出す。
「草野さん、その……いつも世話をしてくれてありがとう」
「いえ、そんな。私は当たり前のことをしているだけです。…でも、ふふふ。ありがとうございます」
ここでもしつこく蛆虫のように湧き出てくる逃げ口上を先に使い、潰す。いや、感謝の気持ちは確かにあるから、逃げ口上なんて言葉で片付けてしまっては草野さんに失礼だ。
内心そう訂正しつつ、僕は重たい口を開いた。
「で、ここからが本番なんだけど」
「はい……」
神妙な面持ちで草野さんは僕の言葉の続きを待つ。
僕が気持ちを吐露したら、草野さんはいったいどんな顔をするのだろうか。できることなら、見るのはあの眩しい笑顔がいい。それ以外の顔は、見たくない。いや、どんな顔を浮かべられようと、それは正真正銘草野さんの顔以外の何物でもないが。
「あの……」
刹那、何かを意識したのか、僕の言葉は絶対零度の冷たさで喉にへばりついてしまった。おかしい。予想外の出来事に、頭の隅で警鐘が鳴り響いた。
僕は、いったい、何を意識した?
主語が、抜けてしまっている。欠けてしまっている。
正体不明の何かに揺さぶられた僕は、喉でつっかえている言葉を溶かすどころか、自分が何をすればいいのかさえ見失ってしまっている。まるで、頼りにならない地図を手に、荒野を彷徨っているような不安。自分が今どこにいるのか、そもそも自分は何処へ向かっているのか、それすらわからずに。一歩が、一歩がとんでもなく重い。地雷原を歩いているわけでもない。なのに、ひどく不安で寂しくなる。
「あの、大丈夫ですか……?」
大丈夫、とは返せずに、僕の視線は部屋のあちこちをふらついた。何かを希求するように。いや、きっと縋る対象を見つけるため。
そして最後に僕の目が捉えたのは、草野さんだった。
きょとんとした顔で、不思議そうに僕を見る草野さん。とくん、と、何かが脈打つ音がした。次第に鼓動を大きくして膨れ上がるそれを、僕はいやというほど知っていた。草野さんに処理を頼りっぱなしになっていたそれ。自分のものであるはずなのに制御の利かない厄介な代物が、瞼を開いた。
下半身に熱が集まる。やめろ。今は出てくるな。そういう時じゃないのは他の誰でもない、僕自身が一番よくわかっているはずだろう。そう自制しようとしても、際限なく膨れ上がるそれが心臓を手中に収める。どくん、と、一際強く全身が波打った。
緊急事態に陥った僕の鼓膜に、
「ふふふ」
草野さんの優しい声が浸透する。
え?と僕は一瞬呆気に取られる。彼女はなぜ、今、そんな声を出すのだろう。僕の内心の焦りは、表面にまで浮き出てしまっていたのだろうか。いや、今の声はそんな声ではなかった。からかうようなものではなくて、優しいけれども、どこか。
どこか、神経を直接愛撫するような声。淫するような声。
「大事なお話があると言うので、何かと思えば……」
「……」
僕は返事を返せない。
「催したのであれば、わざわざ話さなくても、黙っていてもいいのですよ」
言って、草野さんはそのメイド服を脱ぎ始めた。
まさか、僕は。今度は性欲さえも逃げ道にし始めたのか。無意識のうちに。芽を摘めども摘めども出てくるそれが、脳漿にまで根を張っていたのか。
一枚、また一枚と肌を隠すものが脱ぎ捨てられ、草野さんの陶磁器のような滑らかな肌が露になる。形の整った綺麗な乳房の頂点に、仄かに赤みがかった一対の突起。
一歩、また一歩と僕と草野さんの距離が縮まり、そして距離は限りなくゼロに近くなった。
お互いの呼気が鼻腔に、身体に纏わりつく。全身の筋肉がきゅっと収縮した刹那、僕の中で何かが爆発した。
「違うんだ…」
「はい?」
「違うんだ草野さん」
「何がです?」
「このために呼んだんじゃないんだ」
熱が眉間に集まってくる。声高々とは程遠い、しかし青臭い熱を含んだ震え声が洩れていた。自分は何を言おうとしているのか、わからない。もはや滅茶苦茶になっている自覚もない喉から溢れる衝動を、口にしていた。既にそれは錆びれてしまっているのかもしれない。寂びれているのかもしれない。自家撞着さえしているのかもしれない。それでも吐き出したかった。伝えたかった。
「待って、くれないかな」
「……」
「いつか、いつか必ず言うから」
「……」
「だから」
僕が決意したものとは程遠い感情が洩れていく。いや、或いはこれは最も近いのかもしれない。
唇に、柔らかい感触がした。それを彼女の唇だと知覚するのに、理解するのに僕には少しばかりの時間が必要だった。
いったい何時間、若しくは数秒そうしていたのか、どちらからともなく唇は離れ、名残惜しい熱の余韻が口元に残された。潤んだ瞳が互いを移す。僕の瞳に映った草野さんの顔は、どこか慈母のような表情で、
「待っています」
いそいそと脱いだ服を着直しながら、草野さんは言った。僕は返事ができない。それはもう口にするのも億劫になるほどの、僕の性だ。だから僕は、せめて彼女の名前を呼んだ。待ってくれている彼女のために、僕の自己満足で終わることのない、エンディングを迎えるために。
「草野さん」
僕は拙くても、たどたどしくても、一歩ずつ進むことにする。だから、
拝啓、昔の僕へ。草野さんによろしくね。
そんな彼女の名前は、
「草野さん」
「はい、なんですか?代田君」
草野さん。それが彼女の名前だった。キキーモラの草野さん。決して業務のため、仕事のために拵えたものではない笑顔は、思春期の僕には少し眩しい。なんだかその笑顔を見ているだけで、僕の中の小さな不安が消されていく気がした。それほどまでに彼女は魅力的で、狡かった。
「あの……」
「ふふふ。わかりました」
人の機微に敏感な彼女は(彼女だけでなく、彼女の種族自体がそうなんだとか言っていた)すぐに僕の前でしゃがんだ。僕のちょっとした言葉に含まれる感情を読み取り、なれた手つきで僕のズボンに手をかけると、一気に足下までパンツごとずらされる。その勢いですっかり勃起した僕の怒張が、彼女の目の前で反り立った。
いつ頃からだろう――いや、僕が思春期を迎えてからだ。
僕が思春期を迎えて、男性と女性の違いを知って、そこからだ。僕はいつの間にか、女の人を見ると、ドキドキと心臓が早鐘のようになってしまうようになっていた。自然と漂ってくるいい匂いが、何気ない仕草が僕に干渉してきた。
それらにいちいち翻弄されることが、とても罪深いことに感じてしまって、僕は罪悪感から気がつけばあまり外出をしないようになっていた。小さい脳味噌を精一杯振り絞ったにしては、懸命で賢明な判断だったと思う。極論、外に出なければ、女の人を見なければこの自分を食べているような苦しさから逃れることができると。僕はそう結論を出して、部屋に篭もるようになっていた。
だが、所詮は子供の浅知恵。
僕は、肝心なことを見落としていたのだ。
そうだ。自分の家には、女性がいるという事実を見落としていた。あまりにも身近過ぎて。灯台下暗しとは、よく言ったものだと思う。
それでも、きっかけは偶然だった。風呂上りの草野さんとばったり遭遇した僕は、普段から見慣れてしまっていたメイド服のその下に隠されていたその姿に、胸を締め付けられた。大げさかもしれないが、世の中の全ての男を手玉に取れてしまいそうな、凄艶な艶姿だった。
胸元から下を隠すバスタオルも、ほんのりと上気した肌も、少し赤らんだ顔も。
そんな姿に、思春期を迎え間もない僕の性が、反応しないはずもなかった。その反応を自覚した瞬間、僕は罪深いことをしてしまっているような気恥ずかしさから、思わず彼女に背中を向けて蹲った。できることなら、このまま早く立ち去ってほしい。そう頭の中で必死に唱えながら。
変わらないと思っていた僕と草野さんとの関係は、そこから狂々と変わっていった。くるくるくるくる、目まぐるしく、独楽のように回っていた。以前は、包み込まれるような温かい光が僕の目の前にあったのに、今、現在進行形であるのは。
「んっ、ちゅ、じゅっ」
「うっ………ぁ」
腰が引けるほどの快美感と、醜悪な桃色の明かりだけが、僕を染めていた。やがて、限界点を越えた快楽が、精巣を刺激して精子を無理矢理尿道から吐き出させた。
びくびくと震える度に吐き出される欲求の塊を、草野さんは嫌な顔一つせずに、ごくりと音をたてて懸命に飲み込んでいた。やがて、唇が肉棒から引き離されて、ちゅ、と一瞬淫猥な水音が耳朶をうつ。飲み干しきれなくて溢れた精液が、口の端に僅かに付着していた。
それに気付いたのか、そっとそれを手で拭う姿に、心臓を掴まれた気分になった。
こうしてもらっている時の草野さんは一挙手一投足がいちいち艶かしくて、性欲を逆撫でする。その顔が淫靡な色に染まることも、彼女から漂ってくる牝の臭気も。つまびらかに次々と要因を挙げていけばキリがないほどに。この時の彼女は、今の彼女は淫らそのものだった。理性が掌握されたような快楽を、気がつけば彼女は僕に与えてくれるようになっていた。
この関係が正しいのかどうかは僕にはわからなかった。快楽に流されている僕がいて、でもその中でもっともっと深い繋がりを求める僕がいる。草野さんと、もっと心まで結ばれていたい。彼女が僕のことをどう思っているかなんて、ちっともわからなかったけど。
以心伝心なんて四字熟語の存在意義が薄れてしまう現実だった。
「ありがと……草野さん」
「いえ。また我慢できなくなったらいつでも言ってくださいね」
違うんだよ草野さん。僕はこんなんじゃなくて、もっと、もっと別の。
「ごめんね、いつも」
喉から漏れ出す心の一部は、白々しく自分に嘯いていた。
「気になさらなくて大丈夫ですよ」
草野さんはそう言った。その言葉は事務的なものではなくて、本当に心からそう思っているような湿度を含んでいた。もし、彼女の言動から態度まで全てが演技だったとしたら、僕は人間不信にでも陥ってしまうだろう。今だって、人付き合いが得意とは決して言えないのに。
草野さんがいない家。或いはまるで違う彼女がいる家。それは想像の産物なのに、背中から胸まで貫かれるような怖さがあった。
自分の性格が、めんどくさいものだとは、しょっちゅう思う。自分の中でイタチごっこを続ける思考回路に終止符すら打てず、いつまでも考えるこの性格。損をしている、という自覚すら生まれるほどに。
それでも、僕は元来のそれを放棄することができなかった。そんな自分が、嫌だ。自己嫌悪している暇があれば、もっと他にすることがあるのだろうけれど。
でも。
「どうかしました?」
「え」
「いえ、少し暗い顔をしていらっしゃったので。……私の奉仕で至らないところがあったでしょうか?」
「そ、そんなことなかったよ!凄い気持ちよかった」
大慌てで弁解する僕が面白かったのか、草野さんはくすりと笑っていた。途端に僕も、自分が凄く間抜けなことを言っていることに気付き、恥ずかしさから床と睨めっこをすることになった。視線を少しだけ戻すと、当たり前のことだけど、草野さんの顔がある。
草野さんはまだ目を細めて笑っていた。
情事のすぐ後なので、体液でぬらぬらと妖しい光沢を放つ唇が独特の妖気を漂わせて、こちらを誘っているようで、僕はまた床と睨めっこを再開した。今、また視線を上げてしまえば、官能の鎖に絡め取られて簀巻きにされてしまう。直感でそう感じた。
草野さんは、どんな顔をしているのだろうか。
彼女の顔を見たいという願望と、自己保身のための理性で板挟みにされる。できることならその場を立ち去りたかったが、僕の鈍感な足はしっかりと床に根を張っていた。這っていた。
「うふふ。気に入っていただけたなら、私としても奉仕のし甲斐があるというものです」
「う…」
顔に熱を集めて俯くことしかできない自分が、女々しかった。女々しくて女々しくて。
いっそのこと爆散してしまえと思う。
だが、人間の欲望はそんな羞恥心――理性にあっさりと勝鬨の声をあげるほどにしたたかだった。強慢とも言える。傲慢とも言える。
ついさっきしてもらった奉仕の光景が刹那、フラッシュバックして、腰のあたり一帯に生々しい電流が走った。有機的なその刺激が、むくりと欲望の鎌首をもたげさせる。
他の誰でもない自分の身体のことにすぐに気付いた僕は、慌てて草野さんに背中を向けた。情けなさ過ぎて、溜息が洩れる。その息が、なんともいえぬ感情の塊を鼻腔に纏わりつかせた。
退廃的で、淫蕩に満ち溢れている草野さんとの関係。きっと、これは魔物娘としてはこれ以上ないほどに正しい日々なのだろう。決してぶれることのない存在証明があり、それを実行することも容易い日々。
でも、僕はただ一言をまだ伝えられていなかった。本来なら、こんな関係になる前に伝えていなきゃならない言葉が、まだ。好きなんて青臭い言葉が、腹の底でどろどろに熔解し、何か別のものになって静脈を巡ってしまうのが怖かった。
これから晴れると天気予報で言われても、そんな望みは一縷も見出せないような曇天だった。窓の外から見るだけでも、心を鈍色に染め上げてしまうのではと思ってしまう。白地のカーテンですぐに視界を遮るのと、草野さんが僕の部屋に入ってきたのはほぼ同時だった。
「…どうされました?」
「曇り空って嫌いなんだよ」
「わかります。なんだかどんよりとした気分になってしまいますよね」
「過ごしやすい天気のはずなんだけどね…」
「では、そんな日には本を読んであげましょう」
と、とても当たり前のことであるように、草野さんは服から(どこに仕舞うスペースがあった?)桃太郎の本を取り出した。それも、幼稚園児に読み聞かせするような挿絵のものを。これにはさすがに僕も閉口せざるをえなかった。
草野さんは僕の反応が解せないのか、不思議そうに首を傾げて見せる。僕としては草野さんの脳内の方がよっぽど解せない。彼女の頭の中では未だ、僕は齢十を越えぬ幼子なのだろうか。巧言令色で多少のアレンジを物語に添えようとも、無理があるのではないのか。
が、草野さんはそのまま僕の機微をあえて無視して音読を始めた。
七畳半の部屋の中で、幼稚園児向けの本を音読するメイドと明らかに対象年齢を過ぎている少年の組み合わせは、中々にシュールだった。
「昔々、あるところにお爺さんとお婆さんがいました」
「あの、草野さん……」
僕の言葉を明らかに聞こえていないフリをして、草野さんは淡々と朗読を続ける。
「お婆さんは川へ洗濯に、お爺さんは山へシヴァ狩りに行きました」
「お爺さんにそんな戦闘力が!?」
のっけから突っ込みどころがあった。巧言令色どころか嘘八百だ。
「お婆さんが川で洗濯していると、川上からどんぶらこどんぶらこと大きな腿が流れてきました」
「童話が一気に猟奇殺人ミステリー!?」
「大きな桃なので家に持って帰って食べることにしました」
「……」
「まあ大きな桃だねお婆さん。任せなさい。食べやすいように八等分カットしてあげよう」
「中身桃太郎!!!」
「お爺さんが手際よく桃を八等分していくと、途中で奇妙な手ごたえが――」
「ストップ!!!」
ここいらで僕の精神は限界だった。
このまま鬼が退治されるところまで聞いていると、僕の桃太郎の概念が覆ってしまいかねない。最終的には鬼が桃太郎の妾にでもなってしまいそうだ。御伽噺は御伽噺らしく僕の記憶に残っていてほしい。
「あら…これからだったのですが」
「じゅうぶんだよもう」
「むぅ……」
子供っぽく頬を膨らませる草野さんは可愛かった。今なら、軽口の一つや二つに混じって言えてしまうのではと思ったけど、やっぱり臆病な自分はそこまでの度胸もなかった。遮ったはずの曇天に全てを押し付けたくなる。が、それも一瞬で思いとどまった。そこまで無責任になれるはずもない。
「草野さん」
「はい、なんでしょう」
膨れていても、受け答えをするあたり実にメイドとしては模範的だった。が、僕は彼女じゃない。しっかりとした受け答えはおろか、素直な感情の発露さえできない。情けない貧弱系男子だった。いや、脆弱かもしれないが。
何が脆いのかと聞かれれば、それは僕だと答えなければならないだろう。僕自身。
彼女はキキーモラだ。人の機微を具に感じ取り、察することのできる種族だ。だから、きっと僕が何度も言いあぐねている言葉だって草野さんにはお見通しなのだろう。俯瞰的な視点から見れば、これほど滑稽な図式があろうか。
既に僕が言いたいことを、彼女はなんとなく――あるいは明確に――知っている。それを知りながら、茶番劇をお互いに繰り返す。これ以上にない滑稽さだった。諧謔さのない滑稽さ。ずるずるとこのまま落ちて、沈んでしまいそうな深みに、きっと僕はいる。
「お茶を淹れてもらっていいかな?喉乾いちゃって」
「かしこまりました」
恭しく頭を下げ、草野さんが部屋を出る。それからしばらくして、強張っていた筋肉が弛緩するような脱力感に襲われた。たまらずベッドに身体を横たえる。全身の乳酸がシーツに吸い込まれていく錯覚を感じながら、僕は部屋に残っている微かな草野さんの残り香に酔った。
茶番もいいところだと、何度も思いながらその茶番から決して抜け出せない僕。辟易しながら、しかしそれ以上のものになることがない自分の腹の底が、鉛色に浸っている。
わかってる。それでも。だからって。情けない。茶番劇。仕方ない。かもしれない。
そんなふわふわとした単語を胸中で幾度となく呟きながら、口の中で何度も咀嚼しながら、僕は。
何もしなかった。何もできなかった、というのが正しいのかもしれない。
自分の年齢が気難しい年頃だということを加味しても、些か考えすぎではないのかと自らに問う声を無視して、僕は自分を受け止めるシーツの感触に身を委ねた。
「草野さん……」
自分の声が虚空に溶けていく。
「草野さん……」
幾星霜言葉を紡ごうが、いずれ解けてしまいそうだと思った。
「草野さん……」
名前だけならいくらでも呼べる。なのに臆病な僕は、春風が強すぎるだとか、天気が悪いだとかそんな理由だけでいくらでも引っ込む。口実が世界中に溢れている。この部屋にすら、溢れて満ちて窓からダムの放流のように勢いよく飛び出してしまいそうだ。
「草野さん……」
絶望。失望。渇望。切望。願望。展望。
そんな単語が手首から滴る気がした。
「はい、呼びましたか?」
「え…うわぁ!」
「そこまで呼んでくださるなんて、それほどお茶が恋しかったのですか?」
いつの間にか、ティーポットとティーカップをトレーに載せた草野さんが立っていた。
鱗粉が視界一杯に舞ったかのように、僕の網膜に入り込む光はそこで唐突に消えてしまった。
ああ、緊張のし過ぎで気を失うのかと、攪拌された暗澹の隅でぼんやりとそんなことをふと、考えた。
できないと思ってしまうだけで、人間は頭や心、自分のどこかでそれを確定事項にしてしまうのだということを、聞いたことがあった。本だったか、インターネットで聞きかじった知識だったか、それはもう不確かになっているが。だが、その情報は確かであるという確信が僕の中にはあった。
だから、それを破ろうと頑張り、そして挫ける。
そんな日々が続いていた。
いつだって失敗し、いつだって誤り、いつだって齟齬をきたし、いつだって間違い、いつだって後悔し、いつだって逃亡し。
どこから区切りをつけるのか、あやふやで有耶無耶になってしまっている境界線が、僕の首を緩やかに締め付ける。だから僕は、終止符を打つために強攻策に打って出た。
僕がここまで踏み切れないのは、あらゆる場所に逃げ口上があるからだ。ルパン三世が追い詰められているかのように見えて、ところがどっこいまだまだ奥の手が残っている、なんて風に。だから、僕はそれを無くすことにした。
ルパン三世だって、丸裸でなら取るべき手段は限られてくるだろう。まして僕はただの一般人だ。自分を自分で追い詰めれば、窮鼠の猫噛みを自分で起こすしかない。だから僕は、自分の部屋に草野さんを呼び寄せていた。大切な話があるなんて大仰なことを言って。
ただ「話がある」なんてことじゃ自分に逃げ道を用意しておくようなものだった。
だから、潰す。逃げ道は確実に。
「あの、大事なお話とは」
「うん。まあまずは座ってよ」
「はい……」
ここからだ。ここからどう行動するかで、僕の一生は決まる。大げさでもそれくらいに思わないと、僕はもう逃げ出しそうだった。自分でこの状況を作っておきながら。
だが、逃げ道はない。
自分で退路を断った。背水の陣だ。
一人で陣なのか?と自ら疑問に思いながら、僕はなんとか狭い気道をこじ開けて言葉を吐き出す。
「草野さん、その……いつも世話をしてくれてありがとう」
「いえ、そんな。私は当たり前のことをしているだけです。…でも、ふふふ。ありがとうございます」
ここでもしつこく蛆虫のように湧き出てくる逃げ口上を先に使い、潰す。いや、感謝の気持ちは確かにあるから、逃げ口上なんて言葉で片付けてしまっては草野さんに失礼だ。
内心そう訂正しつつ、僕は重たい口を開いた。
「で、ここからが本番なんだけど」
「はい……」
神妙な面持ちで草野さんは僕の言葉の続きを待つ。
僕が気持ちを吐露したら、草野さんはいったいどんな顔をするのだろうか。できることなら、見るのはあの眩しい笑顔がいい。それ以外の顔は、見たくない。いや、どんな顔を浮かべられようと、それは正真正銘草野さんの顔以外の何物でもないが。
「あの……」
刹那、何かを意識したのか、僕の言葉は絶対零度の冷たさで喉にへばりついてしまった。おかしい。予想外の出来事に、頭の隅で警鐘が鳴り響いた。
僕は、いったい、何を意識した?
主語が、抜けてしまっている。欠けてしまっている。
正体不明の何かに揺さぶられた僕は、喉でつっかえている言葉を溶かすどころか、自分が何をすればいいのかさえ見失ってしまっている。まるで、頼りにならない地図を手に、荒野を彷徨っているような不安。自分が今どこにいるのか、そもそも自分は何処へ向かっているのか、それすらわからずに。一歩が、一歩がとんでもなく重い。地雷原を歩いているわけでもない。なのに、ひどく不安で寂しくなる。
「あの、大丈夫ですか……?」
大丈夫、とは返せずに、僕の視線は部屋のあちこちをふらついた。何かを希求するように。いや、きっと縋る対象を見つけるため。
そして最後に僕の目が捉えたのは、草野さんだった。
きょとんとした顔で、不思議そうに僕を見る草野さん。とくん、と、何かが脈打つ音がした。次第に鼓動を大きくして膨れ上がるそれを、僕はいやというほど知っていた。草野さんに処理を頼りっぱなしになっていたそれ。自分のものであるはずなのに制御の利かない厄介な代物が、瞼を開いた。
下半身に熱が集まる。やめろ。今は出てくるな。そういう時じゃないのは他の誰でもない、僕自身が一番よくわかっているはずだろう。そう自制しようとしても、際限なく膨れ上がるそれが心臓を手中に収める。どくん、と、一際強く全身が波打った。
緊急事態に陥った僕の鼓膜に、
「ふふふ」
草野さんの優しい声が浸透する。
え?と僕は一瞬呆気に取られる。彼女はなぜ、今、そんな声を出すのだろう。僕の内心の焦りは、表面にまで浮き出てしまっていたのだろうか。いや、今の声はそんな声ではなかった。からかうようなものではなくて、優しいけれども、どこか。
どこか、神経を直接愛撫するような声。淫するような声。
「大事なお話があると言うので、何かと思えば……」
「……」
僕は返事を返せない。
「催したのであれば、わざわざ話さなくても、黙っていてもいいのですよ」
言って、草野さんはそのメイド服を脱ぎ始めた。
まさか、僕は。今度は性欲さえも逃げ道にし始めたのか。無意識のうちに。芽を摘めども摘めども出てくるそれが、脳漿にまで根を張っていたのか。
一枚、また一枚と肌を隠すものが脱ぎ捨てられ、草野さんの陶磁器のような滑らかな肌が露になる。形の整った綺麗な乳房の頂点に、仄かに赤みがかった一対の突起。
一歩、また一歩と僕と草野さんの距離が縮まり、そして距離は限りなくゼロに近くなった。
お互いの呼気が鼻腔に、身体に纏わりつく。全身の筋肉がきゅっと収縮した刹那、僕の中で何かが爆発した。
「違うんだ…」
「はい?」
「違うんだ草野さん」
「何がです?」
「このために呼んだんじゃないんだ」
熱が眉間に集まってくる。声高々とは程遠い、しかし青臭い熱を含んだ震え声が洩れていた。自分は何を言おうとしているのか、わからない。もはや滅茶苦茶になっている自覚もない喉から溢れる衝動を、口にしていた。既にそれは錆びれてしまっているのかもしれない。寂びれているのかもしれない。自家撞着さえしているのかもしれない。それでも吐き出したかった。伝えたかった。
「待って、くれないかな」
「……」
「いつか、いつか必ず言うから」
「……」
「だから」
僕が決意したものとは程遠い感情が洩れていく。いや、或いはこれは最も近いのかもしれない。
唇に、柔らかい感触がした。それを彼女の唇だと知覚するのに、理解するのに僕には少しばかりの時間が必要だった。
いったい何時間、若しくは数秒そうしていたのか、どちらからともなく唇は離れ、名残惜しい熱の余韻が口元に残された。潤んだ瞳が互いを移す。僕の瞳に映った草野さんの顔は、どこか慈母のような表情で、
「待っています」
いそいそと脱いだ服を着直しながら、草野さんは言った。僕は返事ができない。それはもう口にするのも億劫になるほどの、僕の性だ。だから僕は、せめて彼女の名前を呼んだ。待ってくれている彼女のために、僕の自己満足で終わることのない、エンディングを迎えるために。
「草野さん」
僕は拙くても、たどたどしくても、一歩ずつ進むことにする。だから、
拝啓、昔の僕へ。草野さんによろしくね。
15/11/11 22:03更新 / 綴