読切小説
[TOP]
Jabberwocky!
 ナンセンスだ。


 ふと、何かが違うような感覚がした。まるで、日常が自分からずれていくような感覚。いやどちらかと言えばずれているのは自分だ。そう思いなおし、二度寝の快楽に浸ろうとする自分を無理矢理痛めつけ、目を開いたら、僕は。

「ん?」

 奇妙な違和感があった。
 毎日お気に入りのベッドで寝るのが僕のルーチンワークで、それを崩せば安眠はもう約束されないのと同じだった。そんな僕は確か昨日、いつも通りにお気に入りのベッドで眠ったはずだ。
 だが、目を覚ますと僕は、草むらで寝ていた。
 大きく息を吸ってみると、牧歌的な匂いが肺まで満たしてくれ、心穏やかな気持ちにさせてくれた。気を取り直し、寝ぼけている自分を覚醒に導こうと、容赦なく頬を抓ると、今度は鋭い痛みが頬に走った。肉が捩れて悲鳴をあげるのを聞いた僕は、慌てて自分の身体を痛めつける愚かな手を払った。よっぽどの力を込めていたのか、未だに頬に痛みがある。それが、この現状を夢ではないと教えてくれた。
 ここがどこだかわからない。少なくとも自分の部屋ではないようだ。
 何があったのかわからずに混乱する僕の中に、ひっそりとこの状況を楽しんでいる――興奮している僕がいた。歯車がぴったりと噛み合ったような、パズルのピースが当てはまったような、そんな不確かだけどしっくりくる感覚がした。
 ずれていた日常から、まるで一気に現実に引き戻されたといえば、さらにこの感覚に整合性が増すのだろうか。いや、馬鹿らしい。こんな状況に整合性も現実もあったもんじゃない。なのに、僕はさっきから心の奥で火種が燻っているのを感じていた。こんな異常な状況を、楽しもうとしている。そして今現にこっそりとどこかで楽しんでいる僕。
 珠玉の一冊を所有している感覚に、それはどこか似ていた。
 だが、こんな感覚を覚える状況があっていいのだろうか?
 ふとそんな、一抹の不安が頭の隅で呱々の声を上げ、すると途端に僕はこの状況が突然壊れてしまうのではないかという疑心暗鬼に陥った。簡潔に言えば、これは夢なんじゃないかと思った。だが、さきほど抓った自分の頬は未だにひりひりとした痛みを走らせ、先ほどの愚かしい行為が現実だったのだと教えてくれる。
 ひとまず、夢でないことにもう間違いはない。間違いようがない。
 足元がしっかりと固まったような安心感を得た僕は、今度はこの状況への興味が湧いてきた。もはや、戸惑うことなどすっかり忘れてしまって。
 僕は酔歩蹣跚としたような足取りで歩き始めた。別に飲酒も何もしていないのに。いや、強いて言うなれば、この状況に酔っていた。或いは、依っていた。
 もっとこの興奮を味わいたい。ここなら、日常生活で感じていたずれが、きっとなんとかなる気がする。
 不明瞭な淡い期待を抱いて踏み出した僕の一歩は、

「見つけたぞ」

 という声によって阻まれた。
 どこからともなく声がしたかと思った刹那、どすんと地響きを起こして、それは僕の目の前に空から降ってきた。それは、異常としか、或いは異形としか言い表せないようなものだった。だけど、その異常さが、この状況では鍵穴にぴったりと合う。
 それは、一対の大きな翼を背中から生やしていた。翼、とはいっても、鳥類のようなびっしりと羽毛の生え揃ったものではない。かといって、蝙蝠のような薄いイメージを抱かせるものでもない。それは、そう。喩えるなら、竜が持つような翼。ただ、よくゲームで見かけるような雄々しいものではない。その黒い血のような色合いと、爛れているような形状から、どちらかといえば禍々しい。
 それの体のいたるところに見受けられる、爬虫類のそれが発達したような甲殻は、翼と同じ色合いで、中途半端に褐色の地肌を隠している。人の形をしたそれは、これだけ不気味な様相を呈していても、それでもこの化物――彼女は、綺麗だった。
 圧倒的な存在感を放ちながら、彼女は口元を少しだけ緩ませた、ような気がした。

「ふふふ。久々の獲物だ、逃がしはしないぞ」

 そう言って真っ赤な舌をちろりと口端から覗かせる彼女。その仕草だけで、並大抵の男を骨抜きにしてしまいそうな色香があった。
 だが、僕はその仕草よりも彼女の発言の方がよっぽど気になった。

「え、獲物……?」
「そうだ、私はジャバウォック!」

 声高々に、彼女はそう言った。
 ジャバウォック。確かそれは、鏡の国のアリスに出てくる、詩に登場する怪物じゃなかっただろうか。挿絵では、まるで老獪な魔女がそのまま怪物になったような醜い姿だった気がする。
 今目の前でそのジャバウォックだと名乗る彼女とその挿絵は、あまりにも違っていた。
 けど、言動は、あの挿絵の状況にぴったりなのかもしれない。
 獲物。
 つまり僕は。

「おっと、逃げようなんて思わない方がいいぞ?私に目をつけられたが最後、美味しく頂かれるがいい」
「負いしく頂かれるの間違いじゃないんですかそれ」

 軽口は返せても、思考は既にパニックに陥っていた。
 まずい。どうすればいい。そもそもここはどこなんだ。なんだよこの状況、ワクワクする。
 あまりに理路整然としない思考が、さらに迷路へと迷っていく。右左へと左右して一点に落ち着くことができない。

「ふふふ。容姿も私好み。これはいい」

 じりじりと距離を詰めていく彼女に対して、僕は相対したまま後ずさる。彼女の言っていることのわけがわからない。いや、ジャバウォックだけに、意味なんてないのかもしれない。だが、それでも僕の身に危険が迫っているということだけはよくわかった。

「く……あっ」

 と、ろくに後方確認をしないまま後ずさっていた僕は、自分の足に自ら絡まり、尻餅をついてしまった。
 当然、その機会を彼女が逃すはずもなかった。瞬間的に距離を詰められた僕は、赤子のように彼女に抱きしめられた。
 それは慈母の抱擁のような優しさを感じさせつつも、がっちりと逃す意志はないことを如実に物語る力加減だった。食われる。ほぼ直感でそう感じ、思わず身を強張らせた僕を待っていたのは、肉体を切り裂く牙の感触――ではなく、

「すんすん」

 匂いを嗅がれることだった。

「え、え?」
「いい匂いだ。やはり私の目は正しかったな」
「あ、あぁ。いい匂いの方が食欲が増すとかそういう」
「何の話だ?私はお前を食べはしないぞ」
「嘯かないでくださいよ」
「嘘吹いてないさ」

 少しだけ身体を離し、何かの間違いでキスをしてしまいそうな近距離で、彼女と目が合う。獲物を前にした猛禽類のような鋭さをもった、紅い爛々とした目だった。絶対嘘だ。油断させておいてがぶりといってやろうと目論んでいるに違いない。

「う、嘘じゃないなら僕を解放してください」
「わかった、じっくり介抱しよう」

 字が違った。

「どうした?微妙な顔をして。覇気のある返事くらいはしてもらいたいな」

 どちらかといえばこの現状を破棄したかった。さっきから会話が微妙に成り立っていない。意味を成していない。まるでジャバウォックのように。

「なぁ、なんとか言ってくれないか。だんまりでは気味が悪いぞ」
「そうですね、君が悪いですね」
「おお、やっと返事をしてくれた!」

 大げさに喜ぶ彼女。演技でもなんでもない、白い歯を覗かせてにかっと笑う彼女を、不覚にも可愛いと思ってしまった。また、何かがカチリとあてはまるような感覚がした。
 この状況に陥ってから、僕はずっとおかしい。興奮が冷めず、褪めず。この状況をどこかで楽しんでいる僕は、消えてくれない。

「あの…僕をどうするつもりなんですか?」
「当然私の夫にする」
「どこの世界の当然!?」
「見惚れたのだから、当然だろう?」

 あまりにも堂々と言い放つ彼女に、半ば呆然としかけたが、僕は僅かに残っていた理性を振り絞ってなんとか対応することができた。

「そういう恥ずかしい宣言はもう少し人目を盗んでしてください」

 いや、人目なんてなかったが、この場合は喩えだ。

「目を盗んではスプラッターではないか」
「そういう意味じゃねえよ」

 対応も無駄だった。ああ言えばこう返され、こう言えばああ返され。そして返ってくる言葉のほとんどが対応しても無意味な、有耶無耶なものばかり。埒の明かない押し問答だ。そう、まるでジャバウォックの詩の、存在意義のような。
 狐に化かされているような感覚だ。いや、狐ではなく、竜か。
 大げさに言えば、霞を相手に話しているとすら思えてしまう。

「とにかく、せっかく見つけた理想の相手なのだ。逃がしはしないさ」

 言って、僕を抱きとめる彼女の力は、確かにその言葉が本意なのを物語っていた。
 なぜか。なぜか僕の脳裏に名前も知らぬ彼女と過ごす日常の光景が過ぎった。このわけのわからない世界を楽しみながら、どこかずれた会話を繰り広げる僕。凄艶な美貌に口づけて、お互いの身体を貪りあう日常。
 馬鹿げてる。
 そう一笑に伏すことは簡単なはずだった。
 でもその脳裏を過ぎった光景は、瞼の裏に焼きついたように鮮明だった。極彩色に彩られ、鮮やかな色合いを帯びた日々だった。
 僕がずっと日常生活で感じていたずれが、見当たらない。毎日をルーチンワークのように過ごして、気付けば何も感じることなく寿命を消化していた日々とはまるで違った。
 セピア色になっていくこともなければ、ずれることもない。
 かちりと、歯車が噛み合う音がした。

「いきなりすぎですよ」
「恋愛とはいつだってそんなものだ」
「いや、もっとプロセスを経てするものじゃ」
「そんな面倒くさいものいらないな」
「現代社会に喧嘩を売りましたね」
「一回三百円だ」
「驚きのお値段!?」

 たとえ三百円で買えようとも、相手は誰もいないだろうなと思った。

「私に見初められたのだぞ?どうして喜ばない?」
「草食系男子なんですよ」
「私は肉食系だ。問題ないぞ」
「すいません、断食系男子でした」
「安心しろ、私が養ってやる」

 僕の男としての立場はどうなるのだろうと、一瞬思ったが、ジェンダーフリーがこれでもかと跳梁跋扈しかけている昨今の風潮からすれば、そんなことは些末なことなのかもしれない。
 彼女に養われるということは、人形のようになるのだろうか。着せ替えをして、ご飯の世話をされて。いや、そこまで大げさではないだろうけど、それはなかなかぞっとしなかった。出逢って間もないのに、彼女なら、本当にそうしてしまいそうだと思う。

「自分の世話くらい自分で出来ますよ」

 そう僕は応えた時点で、もう既に僕は抵抗という選択肢が頭の中から消えていた。いや、消していた。
 どこか狂っているような彼女に呑みこまれることは同じだが、その一歩は、自分から踏み出していた。煩わしいと感じることさえ疲れることのある日常よりも、彼女について行った方が、よっぽど楽しい。そう確信できた。不思議の国でも、鏡の国でも、アリスは元の世界へ戻ろうとしていたが、僕に言わせればどちらも魅力に溢れているのに、帰ってしまうなんて勿体無いにもほどがある。
 彼女と一緒なら、暗澹とした思いだって、晴れそうだった。そこに意味が無くとも。亡くとも。
 自分のぐるぐると渦巻く気持ちがやっとわかり、身体の力が抜ける。
 そして直後に、僕はあることに気付いて思わず絶句した。
 喉が凍ってしまったかのように、息がうまく吐き出せずに、視界がぼやける。僕は今さらながらに、抱きつかれるという刺激の強いシチュエーションに自らが置かれていることを自覚していた。

「あの、すいません」
「ん?どうした?」
「もう逃げはしないので、とりあえず離してくれませんか?」
「どうしてだ?」

 どうして、と聞かれて、それに答えが用意されている以上、答えるべきだったのだが、しかしそれを口にするには如何せん僕には度胸が足りなかった。羞恥心が邪魔をした。
 自分の思考に溺れていた僕は、自身の胸中の想いを探るのに一生懸命になりすぎて、旨に押し当てられている柔らかい感覚に今まで気付かなかった。が、思考の整理がつくと途端にその柔らかい感覚は、僕に頭を殴りつけたような衝撃を与えていた。

「だから、その」

 この感覚、感触を僕の乏しいボキャブラリから適切な比喩表現を見つけるとしたら、マシュマロ、だろうか。そんな柔らかさの双丘が、僕の胸に押し付けられて形を変えていた。服越しにでもじゅうぶんなほどにわかる生々しい温かさ。
 すぐに血流が下半身へと集中するのがわかった。次第に膨張し、自己主張を始める本能をどうにか隠そうとしても、抱きつかれていてはそれも無駄な努力に終わってしまう可能性が高い。
 やがて、限界まで張りつめた欲望が、硬い硬い硬度をもって僕のズボンを膨らませてしまった。僕ができることといえば、もう気付かれないように、そしてなるべく早くこの生理現象が収まるのを願うだけだった。
 困った時の神頼み。

「ん?あぁ、なるほどな」

 そして神様は残酷だった。
 彼女はにやにやと笑みを浮かべながら僕の一点を凝視した。顔がいやになるくらい熱くなる。耐え難い拷問のような間が一時間、或いは一刹那ほど続いて、彼女は慣れた手つきで(どうして慣れているのか)張りつめた僕の肉棒をズボンから解放した。
 驚く暇も与えずに、彼女は外気に晒された僕の愚息をその重量感たっぷりの胸で包み込んだ。柔らかな二つの鞠に挟まれる快感は予想外のもので、僕は思わず仰け反った。
 何をしている?という言葉が、疑問が僕の口から吐き出されるよりも先に、快感が喉に蓋をした。その結果僕の喉から出てきたのは、情けないことに、呻くような声だった。
 彼女の艶かしい舌がたらりと垂れ、妖しく光る唾液が乳房の間に溜められた。これから何が始まるのか、どうしようもない本能の部分が理解していた。
 身体の力が一瞬で抜け、僕は彼女に身を預けた。快楽への期待に、理性は実に無力だった。
 一歩呑みこまれるために踏み出せば、堕ちるのは容易かった。

「ふふふ」

 彼女の笑いが耳朶をうつ。なんだか、身体の心から、芯から、真から冷えるものがあった。食べられる。ぞくりとする。
 柔らかな二つの肉に包まれる感覚が、僕を襲った。柔らかいのに、確かな圧力が心地いい。そういった経験がない僕でも、彼女が手馴れているということがわかった。
 彼女がゆっくりと両手で乳房をこねるようにすると、つられて間に挟まった僕の肉棒ももみくちゃにされる。豊かな乳房が目まぐるしくその姿を変える光景は、ひどく淫靡だった。下半身を襲う快感よりも、卑猥そのものであるその光景がいやでも情欲を昂ぶらせた。わずかな刺激でも、暴発してしまいそうだった。這うように尿道をじわじわと上る快感が、頭の隅を焦がしていた。
 彼女は翻弄される僕がよっぽど面白かったのか、にやりと笑い、胸を上下に動かし始めた。声にならない声が、僕の喉から洩れる。射精感で、脳髄まで染められそうだった。
 胸が上下するたびに、谷間から先端が顔を出し、ひくひくとひくついている。甘い痺れがどんどん身体中に拡散していくのがわかった。肌と粘膜が触れ合う感覚が、気持ちよすぎる。乳房が上下の揺れを伴いながら、にちゃにちゃと精神を犯すような音を立てる。
 神経に微弱な電流を流し続けられているような、そんな快感が、確実に僕を追い詰めていた。
 そんな僕の様子を見て、彼女はまたあの舌をちろりと覗かせ、

「れろっ」

 と谷間から顔を覗かせていた、亀頭に舌を這わせた。粘膜同士の触れ合い。それだけで、もう僕は限界を超えてしまった。
 尿道から乳白色の欲望が迸り、彼女の顔めがけて吐き出された。
 どくり、どくりと信じられないくらいの脈動を繰り返して、大事なものまで精液に混ぜて吐き出してしまったような感覚がした。
 若いはずなのだが、情けないことに僕は一度の射精で眩暈を感じてしまい、意識が急速に遠のいていくのを、他人事のように知覚していた。
 意識がブラックアウトするその刹那、歯車が噛み合った音を、確かに僕は聞いた。



 昔話をしよう。
 ここに、ある少年がいた。
 少年は物心ついた頃から、自分がなぜか日常からずれているような感覚に苛まれていた。具体的な時期を指定するなら、小学生辺りからだろう。きっと、保健の授業で先生が言っていた、思春期というやつが自分には早くやってきたのだろう。少年はそう思って、小学生時代を、そのずれに苛まれながらもなんとかやり過ごした。だが、中学生になってもその少年を苛むずれは収まらなかった。日常がつまらない。それだけじゃない。どれだけアクションシーンの派手な映画を見ても、全米が泣いたと絶賛されている本を読んでも、少年のずれは治らなかった。さながら不治の病のように、ずっと数多の憂鬱が頭の隅にあった。もちろん、そのときは感動するし、あんな格好いい人になりたいと興奮も覚えた。だから、中学生特有の病ではなかったのだろう。
 しかして、そんな数多くの作品を見終わった後に、ずれは必ずやってきた。自分がいる世界、いや、日常がずれているような感覚。それが一体全体なんなのか、少年にはさっぱりわからなかった。非日常的な刺激を求めても、満たされない。
 少年が読んだ本の中には、変わらない日常こそが宝石のように価値のある云々と、有難味の一片も感じられない文句が書かれていた本もあったが、それを自分に当てはめることがどうしても少年にはできなかった。
 ルーチンワークを繰り返す日常のどこが、色鮮やかなのだろう?
 少年は若くして疑問に思っていた。
 映画館に足を運んでも書店に足を運んでも、美術館に足を運んでも恋をしても喧嘩をしても友人と何かを成し遂げても。ちっとも変わらない日々が、やがて枯れ木のようになっていくのに、どうしてみんな平気な顔をしているのだろうと疑問に思っていた。
 そんなことを考えて幾星霜、少年はいつの間にか、大人と子供の中間点にいた。
 高校生。物事の善し悪しがわかるようになり、良くも悪くも垢抜けたように洗練されるようになる年頃だろう。だが、それでも少年の中にはずれがいつまでも残っていた。
 いい大学に行こうと偏差値の上下に一喜一憂する周囲も、皆さんの人生は皆さんが決めるものとご高説をのたまう教師の口上にも。どこかずれているような違和感がこびりついていた。
 だが、高校生にもなれば、少年はわざわざそんな疑問を口にするほど幼くなっているわけでもなかった。口にすれば、周囲からどんな目で見られるかなんてわかりきったことだった。だから、少年は口を閉ざしてひたすら受験勉強に集中していた。直向に、実直に。
 そんな少年を両親は自慢の息子と持て囃し、少年はその努力に見合う大学への合格が決まった。きっと、そこまで何かに直向になっていれば、ずれからも解放されるという、一種の縋るような想いがあったのかもしれない。いや、それは確実に輪郭をもって少年の中にあった。藁にも縋り、神にも縋り。
 だが、神様は残酷だった。
 大学に受かった達成感はあれど、ずれはいつまでも少年の中に残っていた。
 畢竟するに、僕はいつもずれに苛まれる人生を過ごしていた。



「ん……」

 何か、後頭部に柔らかいものが押し当てられている感覚がした。意識が覚醒していくにつれて、ぼやけていた輪郭もはっきりとした形を取り戻していた。そんな視界に真っ先に飛び込んできたのは、僕を覗き込む彼女の顔だった。

「ずいぶんと寝ていたな」
「昔から、よく寝るんですよ…」

 言って、僕は膝枕をされていることにやっと気付いた。慌てて身を起こそうとするも、彼女に止められる。

「疲れているんだろう?無理はしないほうがいい」
「あの、ここ、どこですか」
「不思議の国だ」
「いや、そうじゃな――もういいや」

 意味のないことだ。彼女はジャバウォックなのだから。鏡の国でないと言ってのけるところが、なんだか憎たらしかったが。そこは冗談でも、鏡の国と言ってほしいものだ。

「あの、僕ってもう逃げられないんですかね」
「今さらだな」
「毛頭その気はないってことですね」
「相当なことがなければな」

 どこかで納得している自分がいた。いつ、外周から懐柔されたのかはわからない。ただ、僕はもうずれを感じなくなっていた。あの僕を苛んでいた災難のような感覚は、消えていた。ずっと凝り固まっていた違和感は解凍され、解答され。なんだか手を伸ばせばそれに触れられる気がして、僕は彼女の頬を撫でた。

「む…?」
「今さらのついでなんですけど、綺麗ですよね」
「そ、そうだろうそうだろう!」

 あまり褒められることに慣れてはいないのか、彼女はあからさまに頬を赤らませていた。その可愛らしい表情に、思わず頬が緩んだ。
やっとこれから自分の人生が始まったんだ。そう確信できた。
 ふと、ジャバウォックの意味を思い出す。学者達の中では専ら、意味が無いと言われている彼女の意味。
 冗談じゃない。意味はある。
 日常なんて、ナンセンスじゃないか。そうだ、彼女の方が僕にとって。
 歯車だった。
15/11/11 22:04更新 /

■作者メッセージ
そんなお話でした。楽しんでいただければ幸いです。
日常がどこかずれているなあなんて感覚、誰もが子供の頃は一度は感じたことがあると信じたいのですが、子供の頃に感じているのなら、きっと大きくなってもそれを感じ続けている人はいるはず。そう思っていたら出来たお話です。
あらすじ説明文はルイスキャロル氏の原作、鏡の国のアリスの詩より引用しました。

TOP | 感想 | RSS | メール登録

まろやか投稿小説ぐれーと Ver2.33