A Mad Tea-Party
気狂い仲間のお茶会、なら、仲間はいったい
この狂った世界にやってきて、どれくらいたったのだろう。時計は使い物にならなくなっているせいで、時刻はさっぱりわからない。いきなり開いた大穴に落っこちて、どうやらその拍子に携帯も落してしまったらしく、誰かと連絡をとることもできない。ならば穴を登って自力で脱出してしまえばと思ったら、その穴そのものが見当たらなくなっていた。まるで、最初からそんな穴がなかったかのように。流石に見落としたということはない。人が一人滑り落ちるだけの大きさの穴なのだから、探せばすぐに見つかるはずだった。でも、僕は現に、今こうして穴を見失ってしまっている。
時計の役割も果たしていた携帯を失ってしまった僕には、畢竟、八方塞の現状だけが目の前に立ちすくんでいた。
ここはどこなのだろう。日本には違いないだろうけど、それならば。
「もっとにゃ、もっと突くにゃぁ」
「気持ちいぃです、素敵です、んんっ!」
日本はいつからこんな国になったのだろうか。所構わず、男女が交わる国に。
しかも、交わっている男性の方は少なくとも人として認識できるものだったが、女性は、違う。最初は仮装か何かと思っていたのだけれど、律動と共に揺れる尻尾や耳、毛並みはあまりにも現実味があって、それが贋物でないことを示している。
これは、夢か現かどっちなんだ。いや、夢に決まっている。でもそれなら、この背筋を這う悪寒はなんだ。
とにかく、ここに留まっていたら危ない。そう思って僕はその場を離れた。全速力で。けれど、どこに行っても嬌声が聞こえてくる。どこにいても交わる男女が視界に入る。
おかしいおかしいおかしい。
狂ってる。人外と人とが交わるなんて。それも、皆が皆楽しそうに、或いは幸せそうに。常識からかけ離れすぎていた。理解は追いついても、感情が追いつかない。常識を超えた光景に対する拒絶反応が、身体を支配していた。何としても、ここから出なければいけない。この、どこかから。
どこか?
どこだ?
「あぁぁぁクッソ、どこだよここ!」
叫んで現状が、若しくはあまりにもリアルな夢が覚めるならいくらでも叫んでやりたかった。声を枯らすほどに、喉から血が溢れても構わない。
とにかく、走らなければ、歩みを止めてしまえば、何かに追いつかれてしまう。狂気とか、そういったものに。
ひたすらに走っていた僕だけど、やがて身体の中を巡る酸素が薄くなり、心臓が五月蝿く鳴動し、足もガタガタと震え始めて、僕はとうとう走るのをやめてしまった。
走るのをやめた途端、今まで感じていなかった疲れがどっと押し寄せ、身体を鉛のように重くさせた。足が地面に根を張ったように動かなくなり、口は酸素を求めて大きく開いてとにかく吸って吐いてを繰り返している。その度に肺から熱気が吐き出され、かわりに甘い空気が肺に満ちていった。
空気すら、毒々しい。
呼吸をしているだけで、理性とか、情操とか、そういった捨ててはいけないものが溶かされいる気がする。説かされている。
誰に、という主語はわからずとも、危険だと本能が告げていた。
「どこだよ、ここ……」
我武者羅にわけもわからず走ったせいか、自分がいる場所がどこなのかわからない。少なくとも、落ちたところからはかなり離れてしまっている。いや、そもそも。僕はこの『場所』がどこだかわかっていないのに、場所がどこだかわからないなんて、妙じゃないか?
いや、こんなくだらないことを考えている時点で、もうだいぶ精神を侵されているのかもしれない。考えるのも止めだ。少しだけ休んだら、また走らないと。
だが、休もうにも休めるような場所がない。いや、その気になれば腰掛けられるような大きさの茸や、切り株があるし、それこそプライドを捨てれば地面に寝転がるという選択肢も勿論、ある。けれど、僕は一度見てしまった。
大きな茸に触れた途端に、男女が発情したとしか思えない勢いで、その場で交わり始めたのを。ここは、この場所は何が起こるかわからない。少女趣味に染められたような色の茸が不気味に見える。切り口から飴色の樹液を滴らせる切り株が怪しく見える。蠢くやけに可愛らしい虫が恐ろしい。脳髄を溶かしてしまいそうな臭気を散らす池に近寄れない。
触れれば食せば吸えば視れば動けば。
何が起こるかわからない。
まるで、不思議の国。
小さいころに読んだ、アリスの不思議の国のようだった。いや、本家はここまで淫蕩に満ちてはいないけども。
「……」
精神的疲労のせいか、言葉すら出なかった。いや、それも当たり前か。こんな異常な空間にいて、疲れないはずがない。自分のいる日常とは、違いすぎる。
精神的疲労は、時よっては肉体の疲労よりも辛い。なんにでも当り散らして、むしゃくしゃして思考の整理ができなくなる。厄介なことこの上ない。
これ以上このおかしな空間、或いは場所にいたら、猫のないにたにた笑いでも幻視してしまいそうな気がする。
「にゃにゃにゃ」
おかしな笑い声が聞こえるのは、きっと気のせいだろう。今僕の目の前にある木の上に、猫がいるのも。その猫が尻尾から頭へと徐々に消えていっているのも気のせいだろう。そうでないとそろそろ、本当に発狂してしまいそうだ。いくらなんでも、ここは常識にとって毒に未知すぎている。
毒に満ちすぎている。
「あれ…?」
と、ふと僕の頭の中で何かが引っかかった。まるで、奥歯に物が挟まったような、無視できない違和感。そうだ。今の光景どこかで見覚えがある。なんだ。
地面から離れるのがやっとの足を動かしながら、考える。どこかで読んだ覚えがある。確か、そうだ。アリスがチェシャ猫と話しながらどこかへ向かうんじゃなかったっけ。不思議なことに――狂っていることに――慣れたアリスがどこかへ向かう場面。
確か、三月兎か帽子屋かどちらかの方へ向かったような。
頭も上手く回らずに、僕はただ緩慢に歩いていた。千鳥足と大差ないようなそのおぼつかない足取りで、それでもここから逃げ出そうと必死になって。
いや、ちょっと待て。そもそも僕は、どうしてこんなに逃げているんだろう。何から逃げているんだろう。白昼夢に捕らわれた感覚を味わいながら、僕は分かれ道で立ち止まった。一方には帽子屋、一方には三月兎の看板がある。
僕の足取りはなぜか、自分でも不思議なくらいにあっさりと、帽子屋の看板の方へと進んでいた。後戻りをするという選択肢自体が消えている異常さに、気づかずに。
もう少し考えればよかったのだろう。いや、悪かったのだろう。
どちらも、原典の不思議の国のアリスでは、狂っていたということを考えても、よかったのかもしれない。
三月兎は発情期。
帽子屋は製造時の水銀で。
ただ、僕はもう目的を見失って歩いていた。
わからずにただ歩き、やがて少し開けた広間へと出た。広間、というより空間。決して狭くは無い、ありていに言って広い空間。
そこは、僕が感じていた狂気とはかけ離れた場所だった。つまり、至って普通。英国の一室を思わせる大きな机に、並べられたお菓子。そして美しい陶磁器のティーポットにカップ。それだけ見たなら、至って普通と感じてしまうような場所だった。
そんな普通な場所に、一人、椅子に腰掛けてお茶を嗜んでいる人がいた。令嬢という言葉がぴたりと当て嵌まるような、そんな人。奇妙な帽子を被った、それでもそんなことで血の凍るような美しさが削がれることはない美女。
そのあまりの美貌に、思わず胸が高鳴った。こんな状況で、胸の高鳴りもなにもあったものではないとは微かに感じながらも。ひっくり返せば、こんな状況でも胸の高鳴りを覚えてしまうくらいに、彼女は綺麗だった。
思わず、見惚れてしまう。
そんな僕の視線に気づいたのか、彼女はふとこちらにその視線を向けた。どこか、深淵を覗いている気分にさせる目だった。
「おや、こんなところに客人とは珍しいね」
「え、あ、……どうも」
異常だったはずの、狂気に満たされていたはずのこの空間で、その言葉はあまりにも常識に当て嵌まっていた。
その意味が、今の僕にはわからない。
異常が常識であるなら、正常な反応こそ疑うべきだということにまで、考えが至らなかった。
「ここまで来るなんて、随分走ったんじゃないかい?お茶でもどうかな。きっと気分が良くなるだろう」
そんなことを言いながら、優雅にカップに紅茶を注いでいく彼女の仕草が、やけに妖艶だった。ぴちゃりと音をたてて散った水滴が、彼女の頬に当たり、それを指で拭って舐るのを見て、ぞっとした。
何か、心をどんどん鷲掴みにされていくような感覚。それも、抵抗する気力をなくしていくようにではない。抵抗するという選択肢がまるで最初からなかったように。彼女がただそれだけの仕草で心の内に這入り込んできた。
鈍っていた思考が、警鐘を微かに鳴らす。ただ、その共振は僕を震わせることはなく、気づけば僕は彼女と向かい合う形で椅子に腰掛けていた。まるで最初からそうするべきであったかのように。
カップを手に取り、少しだけ口をつけた。甘く、そして濃厚な香りが鼻腔に広がり、どこか気分を落ち着かせる。
「さて、折角ここまで来てもらった客人を、お茶だけで返すわけにもいかないし、どうかな。与太話でも」
「与太話?」
「そうだね。例えば、猥談、商談、密談、縁談。これらの中でするならどれがいい?」
「破談で」
「…おや、中々舌が回るじゃないか」
彼女は楽しそうに微笑んだ。なぜだろう。その全てが綺麗なのに、どこか芝居がかっているような、狂気を……感じない。
まるでそれが全て、素の彼女であるような自然さだった。
それと同時に、おかしなことに、さっきまで思考放棄もいいところだった僕の頭が、冴え渡ってきている。紅茶に何か入れられていたのだろうか?いや、そんな素振りは見えなかった。なのに。
奇妙な浮遊感を感じながら、僕は彼女の仕草をまた見つめていた。腕を組んでみせる姿、こちらを試すような微笑に、時折その口から洩れる吐息。出会って、出遭って間もないはずなのに、なぜか魅了される。惹きつけられる。
「それじゃあ謎々は如何だい?そうだね、ここでは黒鴉と書きもの机を出したいけど、それじゃあ芸が無い。そうだ、時と新聞記事のネタは同一視されがちだけど、それはどうしてだと思う?」
「……構成しているものが一緒だからですか?」
「ご明察。頭の回転も早いね」
彼女はとても満足そうに笑っていた。なぜかその姿を見ただけで、こっちまで楽しくなってくる。
「おや、楽しそうだね。そうやってもらえると、僕まで楽しくなってくるよ」
「目ざといですね」
「てへぺろ」
「あざといですね」
なんだ?彼女と話していることが、やけに楽しい。だが、それは彼女も同じのようだった。
「いいねえ。君と話してると砂を噛むような日々から解放された気分だ」
「そんな大げさな」
「脛を噛む日々からも解放された気分だ」
「それは真っ先に解放されてください。謗りも免れませんよ」
「お尻も免れない?」
ずっこけた。派手に椅子から転げ落ちた。一目見て令嬢というイメージが既に僕の中に定着してしまっていたことも原因だろうが、何より彼女の口からそんな言葉を聞くとは夢にも思っていなかったからだ。
いや、ひょっとして名も知らぬ彼女は、自分の美貌を自覚してあえてそんな言葉を口にしたのだろうか。だとしたら恐ろしい。
当の本人は大丈夫かい?と何食わぬ顔で手を差し伸べてくるあたり、信憑性も高くなった。
「派手に転んだね」
「…突っ込む気力まで削がれましたよ」
「お尻に突っ込むのにはまあ気力がいるだろうね」
「二重の意味に聞こえるんでやめてくれませんかね!意味深な言い回し!」
「君が突っ込みに精を出してくれるならそうしよう」
「だから意味深に聞こえるんですよ!」
「いまどき思春期盛りの男子でもそうは思わないと思うよ?」
完全に彼女のペースに乗せられていた。いつの間にか。短い会話の中で、一瞬にして。主導権を握られていた。思い出さなきゃいけない。ここが狂った場所だということを。なのに、なぜだろう。彼女との話はそんなものを埋没させていく。
それを不快に思わず、むしろ心地よくすら感じてしまって、いつの間にか会話にのめり込んでいく。彼女の掌の上で踊らされている感覚。明らかにそれをどう思うかが僕の分水嶺のはずだ。なのに。
どうしてここまで愉しいのだろう?
「そういえば君、えっちなことは好きかい?」
「淑女のイメージを返してください」
「熟女のイメージならぴったりだろう?」
「ああ、なるほ……ないですよ」
不思議なことに、彼女の口調は変わらない。滔々と澱みなく紡がれる弁舌のように、止まることを知らなかった。
それに、貴族がするような優雅な会話に例えられる内容とは、お世辞にも言い難いのに、彼女の持つ雰囲気は変わることがない。
おかしい。どう考えてもこんな異常な空間で……あれ?僕はさっきまで違和感を感じていなかったんじゃなかったっけ。あれ、どっちなんだ。おかしいと思っていたのかおかしいと思っていなかったのか。
わからない。
「どうも君はこういう下品な会話が苦手とみえる」
「下品という自覚があったことに驚きですよ」
「すまないね、性分なんだ。生まれつきこんな漢字さ」
「いや、文字でどう表現しろと」
「淫乱」
思いのほか簡単だった。
「男の子なら、こういう話題くらい平然とできなきゃいけないよ」
「僕の理想の女性像を返してください」
「理想像?例えばこういう風に胸元を見せてくれる女性とかかい?」
そう言って彼女は自ら胸元を開いた。質感溢れる乳房がほとんど露になり、そのまま彼女は前屈みの姿勢をとったせいで、その双丘の谷が強調される。その凄艶な光景に僕は思わず視線を逸らした。が、悲しい男の性か、眼球は度々彼女の谷間を拝もうと意志に反して動き出す。
白くて綺麗で、滑らかなのが触らなくてもわかってしまうような肌だった。木目細やかで、まるで手に吸い付いてしまいそうだとすら思ってしまう、柔肌。それに触れることができれば、どうなってしまうのだろう。
この場がどういう場なのかということさえ忘れて、それだけで思考が満たされた。
「ふふふ、触ってみたいのかい?別にかまわないよ。美人局なんてこともないからね」
「えっ、い、いいんですか?」
「勿論」
普通なら、一般的に考えて、常識的に考えてこういう場面だったら、まずはそれでも拒否するだろう。遠慮するだろう。なのに、僕はなぜか躊躇っていなかった。
こんな場なんだから、仕方がない。当たり前のことなんだと、なぜか都合が優先していた。常識の随伴が、追いついていなかった。
僕はゆっくりと彼女の乳房に手を伸ばし、そして両手でしっかりとその果実を鷲掴みにした。瞬間、潰れてしまうんじゃないかと心配なくらいに柔らかな感覚が手の平に伝わって、一瞬で頭が真っ白になった。
そしてそれも刹那で終わり、ゴム鞠のような弾力が確かに肌に沈む指を押し返してきた。揉めば揉むほどに、どくりと快美感が身体中を走り、乳房をこねる手に力が入る。
僕の手がいやらしく動くたびに、彼女は微笑み、その口から艶っぽい声をあげていた。それがまた、僕を狂わせる。いや、もう狂っている。いったい、どっちだ。
「ふふふ、どうだい?性犯罪者に一歩近づいた感覚は?」
「いやな喩えだ!せめてマシな喩えをしてくださいよ!」
「性犯罪者に歩み寄った感覚は?」
「同義だ!」
「距離を縮めた感覚は?」
「どう足掻いても性犯罪者から抜け出させる気はないんですか」
「ふむ、先立つにもまずはセクハラスキルが必要じゃないか。私からのささやかな餞別と思ってくれればいいよ」
「そんな餞別いらねえ!」
「ちなみに君は中々のスキルの持ち主だ」
「そんな選別もいらねえ!」
名前も知らない女性に誑かされ、唆される僕だった。持て囃されることがないのが、自分の底が見え透いているようで悲しい限りだ。この時点でもう半ば、彼女以外のことがほとんど、どうでもよくなっていた僕は、流れに逆らうことに匙を投げていた。
匙は投げられ。
賽は投げられ。
差異は和げられ。
違和感を、感じない。彼女とずっとこうして喋っていたい。なんだかそれ以外が、何もいらないとさえ感じてしまう。冗談でも冗句でもなく、本当にそう思ってしまう。十全な思考はできていないのだろうけど、それでも。
なんだか、自分でもおかしな物言いだけど、この状況が幸せにすら感じかけていた。
「ふふふ、いいね。ついついからかいたくなる。私の好みだ」
「そりゃどうも」
「いやいや、本当だよ?妄想を絶しようが痴話が焼けようが脛にキスを持とうが神算を舐めようが重箱の炭をつつかれようがね」
「突っ込みがおいつきません。どこの漢字検定ですか」
「でも、想いは本当だよ。なんなら、試すかい?」
急に、その場の雰囲気ががらりと変わる。まるで、世界が反転したように、さっきの彼女の表情が変わっていた。いや、表面上は微笑んだままだ。その、微笑みの底にあるものが、変わっている。そんな気がする。
彼女が行儀悪くテーブルを乗り越え、僕の膝に座る。いや、座るというよりそれは両足を僕の腰に絡ませ、跨いでいた。ぴたりと身体が密着し、彼女の顔が間近に迫る。何かが刻まれているはずの彼女が照れ臭そうに微笑む。それと同時に匂う彼女の香りが、やけに色欲を撫でる。
それが狂気めいて感じ、…あれ、僕は彼女に狂気なんて感じていたっけ?
異常(或いは正常)な状況下で感覚が鋭敏になっているのか、彼女の体温も匂いも感触も吐息も、何もかもが一体化したように思えてしまう。
「あ、あの、出会って間もないですよね」
「そうだね、出逢って間もないようだよ」
それだけ言って、彼女は唇を重ねてきた。生々しい感触が唇に伝わり、いやでも感情を昂ぶらせる。すぐに彼女の舌は僕の口内に侵入し、敏感な粘膜の感触を楽しむように口の中を蹂躙してきた。粘膜の繊細な凹凸にまでぴったりと密着して、蕩けそうな気持ちよさにキスのことだけしか考えられなくなってくる。
背中に手が回され、さらに彼女と密着し、深いキスになる。それだけのはずなのに、脊髄を快感が走り、思わず震えてしまった。
驚くほどに官能的で、頭の中身が攪拌されるような錯覚さえ覚えてしまうほどに。
ただの、ただのキスでここまで夢中になってしまうほど、気持ちがいい。良いのなら。
もっと先に進んでしまえば、いったいどうなってしまうのだろう。そんな期待が、ふつふつと湧き上がり、胸の中で確かな輪郭になる。
依存してしまいそうなぬくもりをお互い必死になって求め、舌を絡ませつつ、彼女は自然な手つきで僕のズボンのファスナーを下ろしていた。まるで呼吸をするような自然な動作に、僕は違和感を抱くことなく、自身の愚息を露出させられる。
ただキスをしただけなのに、猛々しい屹立を見せている自分の男根が、浅ましさの証明のようで若干情けなかった。
その情けなさも、そっと添えられた彼女の手によって消えてしまう。ただ添えられただけなのに、微弱な電流を流されたような快感が男根を通して腰を砕かせようとするのがわかった。
「おっと、悪いけど手でしてあげるのはまた今度だ」
そう言って、彼女はスリットをずらす。密着しすぎているせいで、彼女のそこがどうなっているのかはわからなかったけど、男根の先端に、粘液が当たる感触がした。
潤んだ瞳が、僕を見据える。準備はいいだろうと訪ねたげなその目に見つめられ、僕はもうここから逃げられないのだと悟った。
彼女がゆっくりと腰を降ろし、僕が飲み込まれていく。すぐに亀頭が温かいぬめりに包まれたとわかった瞬間には、肉棒全体がそのぬめりに埋まっていた。柔らかな襞が痙攣を繰り返し、その度に緩急のある締め付けが肉棒に襲い掛かり、頭の中が白光で染められる。
甘美な快感が絶え間なく刺激を続け、萎えることがない。いや、萎えようがない。
彼女にしっかりと抱きつかれ、リズムよく彼女の腰が上下運動を繰り返す。それだけで、ねちゃねちゃと淫らな水音が響き、快美感で身体が壊れてしまいそうになる。それにぐっと堪えようと目論んでも、肉層がもたらす粘膜同士が擦れあう感覚に、僕は思わず腰を浮かせてしまっていた。
狭い入り口が根元をきつく締め、暴発を許そうとしない。
どくん、どくんと快感の脈動が確実にせぐり上がり、男根に充填されていくのがわかる。その度にびくびくと震え、一回り大きくなっている僕自身は、正直限界に近かった。
初めて、というわけでもないのに、狂っているような快感に、成す術がない。見つからない。いや、抵抗しようとすら思えない。
二つの膨らみが僕の胸板に圧迫され、形を変える。その光景もひどく淫靡で退廃的だったけど、何より、頬を染めながらも微笑を絶やさない彼女が、何よりも狂気を感じさせる美しさだった。
そんな表情に、姿に、沸騰する快感を抑えられない。理性を崩壊させるような多幸感に襲われ、僕は彼女をきつく抱きしめた。
ギリギリ一枚を隔てていた何かが、根幹から崩れる音が頭の中で響き、それと同時に自分の快感が吐き出されるのがわかった。何度も何度も脈動を繰り返して、彼女の中にそれを注ぎ込む。
「んっ…」
耳元でか細い息を吐く彼女は艶っぽくて、強制的に男性の興奮を煽るものだった。
身体が病熱を孕ませたように熱くて重い。続いて全身を脱力感に襲われ、僕は情けなく荒い呼吸を繰り返していた。彼女も同じようで、全ての体重を僕にあずけてしなだれかかってきた。その重みは心地よく、なぜか胸の中でぬくもりという言葉が急に実感を持つ言葉になる。
彼女の中は、甘美な収縮を未だに小刻みに繰り返し、僕から精を根こそぎ搾ろうとしているかのようだった。
少し、疲労の窺える声音で、彼女は言う。
「まだまだお茶会は始まったばかりだよ。さ、もっと楽しもう」
それを否定する考えなんて、僕には浮かばなかった。なぜ、こんな素晴らしいものを拒否することが、彼女を否定することができるんだろう。そんなこと、したくもない。考えたくもない。今、僕は幸せだ。
…あれ、僕は少し前に、何かを考えていた気がする。確か、狂い――いや、もう霞のようになっている記憶のことだ。大したことじゃないんだろう。
僕の目の前で笑う彼女に口付けをする。
それは『当たり前』のことで、とても自然なことだった。彼女と過ごすこの世界が夏のような色彩を帯びている。それならきっと、とても素敵な日々を過ごせることだろう。そうに違いない。僕は根拠の見当たらない根拠のある自信を胸に抱いて、再び腰を動かし始めた。
この狂った世界にやってきて、どれくらいたったのだろう。時計は使い物にならなくなっているせいで、時刻はさっぱりわからない。いきなり開いた大穴に落っこちて、どうやらその拍子に携帯も落してしまったらしく、誰かと連絡をとることもできない。ならば穴を登って自力で脱出してしまえばと思ったら、その穴そのものが見当たらなくなっていた。まるで、最初からそんな穴がなかったかのように。流石に見落としたということはない。人が一人滑り落ちるだけの大きさの穴なのだから、探せばすぐに見つかるはずだった。でも、僕は現に、今こうして穴を見失ってしまっている。
時計の役割も果たしていた携帯を失ってしまった僕には、畢竟、八方塞の現状だけが目の前に立ちすくんでいた。
ここはどこなのだろう。日本には違いないだろうけど、それならば。
「もっとにゃ、もっと突くにゃぁ」
「気持ちいぃです、素敵です、んんっ!」
日本はいつからこんな国になったのだろうか。所構わず、男女が交わる国に。
しかも、交わっている男性の方は少なくとも人として認識できるものだったが、女性は、違う。最初は仮装か何かと思っていたのだけれど、律動と共に揺れる尻尾や耳、毛並みはあまりにも現実味があって、それが贋物でないことを示している。
これは、夢か現かどっちなんだ。いや、夢に決まっている。でもそれなら、この背筋を這う悪寒はなんだ。
とにかく、ここに留まっていたら危ない。そう思って僕はその場を離れた。全速力で。けれど、どこに行っても嬌声が聞こえてくる。どこにいても交わる男女が視界に入る。
おかしいおかしいおかしい。
狂ってる。人外と人とが交わるなんて。それも、皆が皆楽しそうに、或いは幸せそうに。常識からかけ離れすぎていた。理解は追いついても、感情が追いつかない。常識を超えた光景に対する拒絶反応が、身体を支配していた。何としても、ここから出なければいけない。この、どこかから。
どこか?
どこだ?
「あぁぁぁクッソ、どこだよここ!」
叫んで現状が、若しくはあまりにもリアルな夢が覚めるならいくらでも叫んでやりたかった。声を枯らすほどに、喉から血が溢れても構わない。
とにかく、走らなければ、歩みを止めてしまえば、何かに追いつかれてしまう。狂気とか、そういったものに。
ひたすらに走っていた僕だけど、やがて身体の中を巡る酸素が薄くなり、心臓が五月蝿く鳴動し、足もガタガタと震え始めて、僕はとうとう走るのをやめてしまった。
走るのをやめた途端、今まで感じていなかった疲れがどっと押し寄せ、身体を鉛のように重くさせた。足が地面に根を張ったように動かなくなり、口は酸素を求めて大きく開いてとにかく吸って吐いてを繰り返している。その度に肺から熱気が吐き出され、かわりに甘い空気が肺に満ちていった。
空気すら、毒々しい。
呼吸をしているだけで、理性とか、情操とか、そういった捨ててはいけないものが溶かされいる気がする。説かされている。
誰に、という主語はわからずとも、危険だと本能が告げていた。
「どこだよ、ここ……」
我武者羅にわけもわからず走ったせいか、自分がいる場所がどこなのかわからない。少なくとも、落ちたところからはかなり離れてしまっている。いや、そもそも。僕はこの『場所』がどこだかわかっていないのに、場所がどこだかわからないなんて、妙じゃないか?
いや、こんなくだらないことを考えている時点で、もうだいぶ精神を侵されているのかもしれない。考えるのも止めだ。少しだけ休んだら、また走らないと。
だが、休もうにも休めるような場所がない。いや、その気になれば腰掛けられるような大きさの茸や、切り株があるし、それこそプライドを捨てれば地面に寝転がるという選択肢も勿論、ある。けれど、僕は一度見てしまった。
大きな茸に触れた途端に、男女が発情したとしか思えない勢いで、その場で交わり始めたのを。ここは、この場所は何が起こるかわからない。少女趣味に染められたような色の茸が不気味に見える。切り口から飴色の樹液を滴らせる切り株が怪しく見える。蠢くやけに可愛らしい虫が恐ろしい。脳髄を溶かしてしまいそうな臭気を散らす池に近寄れない。
触れれば食せば吸えば視れば動けば。
何が起こるかわからない。
まるで、不思議の国。
小さいころに読んだ、アリスの不思議の国のようだった。いや、本家はここまで淫蕩に満ちてはいないけども。
「……」
精神的疲労のせいか、言葉すら出なかった。いや、それも当たり前か。こんな異常な空間にいて、疲れないはずがない。自分のいる日常とは、違いすぎる。
精神的疲労は、時よっては肉体の疲労よりも辛い。なんにでも当り散らして、むしゃくしゃして思考の整理ができなくなる。厄介なことこの上ない。
これ以上このおかしな空間、或いは場所にいたら、猫のないにたにた笑いでも幻視してしまいそうな気がする。
「にゃにゃにゃ」
おかしな笑い声が聞こえるのは、きっと気のせいだろう。今僕の目の前にある木の上に、猫がいるのも。その猫が尻尾から頭へと徐々に消えていっているのも気のせいだろう。そうでないとそろそろ、本当に発狂してしまいそうだ。いくらなんでも、ここは常識にとって毒に未知すぎている。
毒に満ちすぎている。
「あれ…?」
と、ふと僕の頭の中で何かが引っかかった。まるで、奥歯に物が挟まったような、無視できない違和感。そうだ。今の光景どこかで見覚えがある。なんだ。
地面から離れるのがやっとの足を動かしながら、考える。どこかで読んだ覚えがある。確か、そうだ。アリスがチェシャ猫と話しながらどこかへ向かうんじゃなかったっけ。不思議なことに――狂っていることに――慣れたアリスがどこかへ向かう場面。
確か、三月兎か帽子屋かどちらかの方へ向かったような。
頭も上手く回らずに、僕はただ緩慢に歩いていた。千鳥足と大差ないようなそのおぼつかない足取りで、それでもここから逃げ出そうと必死になって。
いや、ちょっと待て。そもそも僕は、どうしてこんなに逃げているんだろう。何から逃げているんだろう。白昼夢に捕らわれた感覚を味わいながら、僕は分かれ道で立ち止まった。一方には帽子屋、一方には三月兎の看板がある。
僕の足取りはなぜか、自分でも不思議なくらいにあっさりと、帽子屋の看板の方へと進んでいた。後戻りをするという選択肢自体が消えている異常さに、気づかずに。
もう少し考えればよかったのだろう。いや、悪かったのだろう。
どちらも、原典の不思議の国のアリスでは、狂っていたということを考えても、よかったのかもしれない。
三月兎は発情期。
帽子屋は製造時の水銀で。
ただ、僕はもう目的を見失って歩いていた。
わからずにただ歩き、やがて少し開けた広間へと出た。広間、というより空間。決して狭くは無い、ありていに言って広い空間。
そこは、僕が感じていた狂気とはかけ離れた場所だった。つまり、至って普通。英国の一室を思わせる大きな机に、並べられたお菓子。そして美しい陶磁器のティーポットにカップ。それだけ見たなら、至って普通と感じてしまうような場所だった。
そんな普通な場所に、一人、椅子に腰掛けてお茶を嗜んでいる人がいた。令嬢という言葉がぴたりと当て嵌まるような、そんな人。奇妙な帽子を被った、それでもそんなことで血の凍るような美しさが削がれることはない美女。
そのあまりの美貌に、思わず胸が高鳴った。こんな状況で、胸の高鳴りもなにもあったものではないとは微かに感じながらも。ひっくり返せば、こんな状況でも胸の高鳴りを覚えてしまうくらいに、彼女は綺麗だった。
思わず、見惚れてしまう。
そんな僕の視線に気づいたのか、彼女はふとこちらにその視線を向けた。どこか、深淵を覗いている気分にさせる目だった。
「おや、こんなところに客人とは珍しいね」
「え、あ、……どうも」
異常だったはずの、狂気に満たされていたはずのこの空間で、その言葉はあまりにも常識に当て嵌まっていた。
その意味が、今の僕にはわからない。
異常が常識であるなら、正常な反応こそ疑うべきだということにまで、考えが至らなかった。
「ここまで来るなんて、随分走ったんじゃないかい?お茶でもどうかな。きっと気分が良くなるだろう」
そんなことを言いながら、優雅にカップに紅茶を注いでいく彼女の仕草が、やけに妖艶だった。ぴちゃりと音をたてて散った水滴が、彼女の頬に当たり、それを指で拭って舐るのを見て、ぞっとした。
何か、心をどんどん鷲掴みにされていくような感覚。それも、抵抗する気力をなくしていくようにではない。抵抗するという選択肢がまるで最初からなかったように。彼女がただそれだけの仕草で心の内に這入り込んできた。
鈍っていた思考が、警鐘を微かに鳴らす。ただ、その共振は僕を震わせることはなく、気づけば僕は彼女と向かい合う形で椅子に腰掛けていた。まるで最初からそうするべきであったかのように。
カップを手に取り、少しだけ口をつけた。甘く、そして濃厚な香りが鼻腔に広がり、どこか気分を落ち着かせる。
「さて、折角ここまで来てもらった客人を、お茶だけで返すわけにもいかないし、どうかな。与太話でも」
「与太話?」
「そうだね。例えば、猥談、商談、密談、縁談。これらの中でするならどれがいい?」
「破談で」
「…おや、中々舌が回るじゃないか」
彼女は楽しそうに微笑んだ。なぜだろう。その全てが綺麗なのに、どこか芝居がかっているような、狂気を……感じない。
まるでそれが全て、素の彼女であるような自然さだった。
それと同時に、おかしなことに、さっきまで思考放棄もいいところだった僕の頭が、冴え渡ってきている。紅茶に何か入れられていたのだろうか?いや、そんな素振りは見えなかった。なのに。
奇妙な浮遊感を感じながら、僕は彼女の仕草をまた見つめていた。腕を組んでみせる姿、こちらを試すような微笑に、時折その口から洩れる吐息。出会って、出遭って間もないはずなのに、なぜか魅了される。惹きつけられる。
「それじゃあ謎々は如何だい?そうだね、ここでは黒鴉と書きもの机を出したいけど、それじゃあ芸が無い。そうだ、時と新聞記事のネタは同一視されがちだけど、それはどうしてだと思う?」
「……構成しているものが一緒だからですか?」
「ご明察。頭の回転も早いね」
彼女はとても満足そうに笑っていた。なぜかその姿を見ただけで、こっちまで楽しくなってくる。
「おや、楽しそうだね。そうやってもらえると、僕まで楽しくなってくるよ」
「目ざといですね」
「てへぺろ」
「あざといですね」
なんだ?彼女と話していることが、やけに楽しい。だが、それは彼女も同じのようだった。
「いいねえ。君と話してると砂を噛むような日々から解放された気分だ」
「そんな大げさな」
「脛を噛む日々からも解放された気分だ」
「それは真っ先に解放されてください。謗りも免れませんよ」
「お尻も免れない?」
ずっこけた。派手に椅子から転げ落ちた。一目見て令嬢というイメージが既に僕の中に定着してしまっていたことも原因だろうが、何より彼女の口からそんな言葉を聞くとは夢にも思っていなかったからだ。
いや、ひょっとして名も知らぬ彼女は、自分の美貌を自覚してあえてそんな言葉を口にしたのだろうか。だとしたら恐ろしい。
当の本人は大丈夫かい?と何食わぬ顔で手を差し伸べてくるあたり、信憑性も高くなった。
「派手に転んだね」
「…突っ込む気力まで削がれましたよ」
「お尻に突っ込むのにはまあ気力がいるだろうね」
「二重の意味に聞こえるんでやめてくれませんかね!意味深な言い回し!」
「君が突っ込みに精を出してくれるならそうしよう」
「だから意味深に聞こえるんですよ!」
「いまどき思春期盛りの男子でもそうは思わないと思うよ?」
完全に彼女のペースに乗せられていた。いつの間にか。短い会話の中で、一瞬にして。主導権を握られていた。思い出さなきゃいけない。ここが狂った場所だということを。なのに、なぜだろう。彼女との話はそんなものを埋没させていく。
それを不快に思わず、むしろ心地よくすら感じてしまって、いつの間にか会話にのめり込んでいく。彼女の掌の上で踊らされている感覚。明らかにそれをどう思うかが僕の分水嶺のはずだ。なのに。
どうしてここまで愉しいのだろう?
「そういえば君、えっちなことは好きかい?」
「淑女のイメージを返してください」
「熟女のイメージならぴったりだろう?」
「ああ、なるほ……ないですよ」
不思議なことに、彼女の口調は変わらない。滔々と澱みなく紡がれる弁舌のように、止まることを知らなかった。
それに、貴族がするような優雅な会話に例えられる内容とは、お世辞にも言い難いのに、彼女の持つ雰囲気は変わることがない。
おかしい。どう考えてもこんな異常な空間で……あれ?僕はさっきまで違和感を感じていなかったんじゃなかったっけ。あれ、どっちなんだ。おかしいと思っていたのかおかしいと思っていなかったのか。
わからない。
「どうも君はこういう下品な会話が苦手とみえる」
「下品という自覚があったことに驚きですよ」
「すまないね、性分なんだ。生まれつきこんな漢字さ」
「いや、文字でどう表現しろと」
「淫乱」
思いのほか簡単だった。
「男の子なら、こういう話題くらい平然とできなきゃいけないよ」
「僕の理想の女性像を返してください」
「理想像?例えばこういう風に胸元を見せてくれる女性とかかい?」
そう言って彼女は自ら胸元を開いた。質感溢れる乳房がほとんど露になり、そのまま彼女は前屈みの姿勢をとったせいで、その双丘の谷が強調される。その凄艶な光景に僕は思わず視線を逸らした。が、悲しい男の性か、眼球は度々彼女の谷間を拝もうと意志に反して動き出す。
白くて綺麗で、滑らかなのが触らなくてもわかってしまうような肌だった。木目細やかで、まるで手に吸い付いてしまいそうだとすら思ってしまう、柔肌。それに触れることができれば、どうなってしまうのだろう。
この場がどういう場なのかということさえ忘れて、それだけで思考が満たされた。
「ふふふ、触ってみたいのかい?別にかまわないよ。美人局なんてこともないからね」
「えっ、い、いいんですか?」
「勿論」
普通なら、一般的に考えて、常識的に考えてこういう場面だったら、まずはそれでも拒否するだろう。遠慮するだろう。なのに、僕はなぜか躊躇っていなかった。
こんな場なんだから、仕方がない。当たり前のことなんだと、なぜか都合が優先していた。常識の随伴が、追いついていなかった。
僕はゆっくりと彼女の乳房に手を伸ばし、そして両手でしっかりとその果実を鷲掴みにした。瞬間、潰れてしまうんじゃないかと心配なくらいに柔らかな感覚が手の平に伝わって、一瞬で頭が真っ白になった。
そしてそれも刹那で終わり、ゴム鞠のような弾力が確かに肌に沈む指を押し返してきた。揉めば揉むほどに、どくりと快美感が身体中を走り、乳房をこねる手に力が入る。
僕の手がいやらしく動くたびに、彼女は微笑み、その口から艶っぽい声をあげていた。それがまた、僕を狂わせる。いや、もう狂っている。いったい、どっちだ。
「ふふふ、どうだい?性犯罪者に一歩近づいた感覚は?」
「いやな喩えだ!せめてマシな喩えをしてくださいよ!」
「性犯罪者に歩み寄った感覚は?」
「同義だ!」
「距離を縮めた感覚は?」
「どう足掻いても性犯罪者から抜け出させる気はないんですか」
「ふむ、先立つにもまずはセクハラスキルが必要じゃないか。私からのささやかな餞別と思ってくれればいいよ」
「そんな餞別いらねえ!」
「ちなみに君は中々のスキルの持ち主だ」
「そんな選別もいらねえ!」
名前も知らない女性に誑かされ、唆される僕だった。持て囃されることがないのが、自分の底が見え透いているようで悲しい限りだ。この時点でもう半ば、彼女以外のことがほとんど、どうでもよくなっていた僕は、流れに逆らうことに匙を投げていた。
匙は投げられ。
賽は投げられ。
差異は和げられ。
違和感を、感じない。彼女とずっとこうして喋っていたい。なんだかそれ以外が、何もいらないとさえ感じてしまう。冗談でも冗句でもなく、本当にそう思ってしまう。十全な思考はできていないのだろうけど、それでも。
なんだか、自分でもおかしな物言いだけど、この状況が幸せにすら感じかけていた。
「ふふふ、いいね。ついついからかいたくなる。私の好みだ」
「そりゃどうも」
「いやいや、本当だよ?妄想を絶しようが痴話が焼けようが脛にキスを持とうが神算を舐めようが重箱の炭をつつかれようがね」
「突っ込みがおいつきません。どこの漢字検定ですか」
「でも、想いは本当だよ。なんなら、試すかい?」
急に、その場の雰囲気ががらりと変わる。まるで、世界が反転したように、さっきの彼女の表情が変わっていた。いや、表面上は微笑んだままだ。その、微笑みの底にあるものが、変わっている。そんな気がする。
彼女が行儀悪くテーブルを乗り越え、僕の膝に座る。いや、座るというよりそれは両足を僕の腰に絡ませ、跨いでいた。ぴたりと身体が密着し、彼女の顔が間近に迫る。何かが刻まれているはずの彼女が照れ臭そうに微笑む。それと同時に匂う彼女の香りが、やけに色欲を撫でる。
それが狂気めいて感じ、…あれ、僕は彼女に狂気なんて感じていたっけ?
異常(或いは正常)な状況下で感覚が鋭敏になっているのか、彼女の体温も匂いも感触も吐息も、何もかもが一体化したように思えてしまう。
「あ、あの、出会って間もないですよね」
「そうだね、出逢って間もないようだよ」
それだけ言って、彼女は唇を重ねてきた。生々しい感触が唇に伝わり、いやでも感情を昂ぶらせる。すぐに彼女の舌は僕の口内に侵入し、敏感な粘膜の感触を楽しむように口の中を蹂躙してきた。粘膜の繊細な凹凸にまでぴったりと密着して、蕩けそうな気持ちよさにキスのことだけしか考えられなくなってくる。
背中に手が回され、さらに彼女と密着し、深いキスになる。それだけのはずなのに、脊髄を快感が走り、思わず震えてしまった。
驚くほどに官能的で、頭の中身が攪拌されるような錯覚さえ覚えてしまうほどに。
ただの、ただのキスでここまで夢中になってしまうほど、気持ちがいい。良いのなら。
もっと先に進んでしまえば、いったいどうなってしまうのだろう。そんな期待が、ふつふつと湧き上がり、胸の中で確かな輪郭になる。
依存してしまいそうなぬくもりをお互い必死になって求め、舌を絡ませつつ、彼女は自然な手つきで僕のズボンのファスナーを下ろしていた。まるで呼吸をするような自然な動作に、僕は違和感を抱くことなく、自身の愚息を露出させられる。
ただキスをしただけなのに、猛々しい屹立を見せている自分の男根が、浅ましさの証明のようで若干情けなかった。
その情けなさも、そっと添えられた彼女の手によって消えてしまう。ただ添えられただけなのに、微弱な電流を流されたような快感が男根を通して腰を砕かせようとするのがわかった。
「おっと、悪いけど手でしてあげるのはまた今度だ」
そう言って、彼女はスリットをずらす。密着しすぎているせいで、彼女のそこがどうなっているのかはわからなかったけど、男根の先端に、粘液が当たる感触がした。
潤んだ瞳が、僕を見据える。準備はいいだろうと訪ねたげなその目に見つめられ、僕はもうここから逃げられないのだと悟った。
彼女がゆっくりと腰を降ろし、僕が飲み込まれていく。すぐに亀頭が温かいぬめりに包まれたとわかった瞬間には、肉棒全体がそのぬめりに埋まっていた。柔らかな襞が痙攣を繰り返し、その度に緩急のある締め付けが肉棒に襲い掛かり、頭の中が白光で染められる。
甘美な快感が絶え間なく刺激を続け、萎えることがない。いや、萎えようがない。
彼女にしっかりと抱きつかれ、リズムよく彼女の腰が上下運動を繰り返す。それだけで、ねちゃねちゃと淫らな水音が響き、快美感で身体が壊れてしまいそうになる。それにぐっと堪えようと目論んでも、肉層がもたらす粘膜同士が擦れあう感覚に、僕は思わず腰を浮かせてしまっていた。
狭い入り口が根元をきつく締め、暴発を許そうとしない。
どくん、どくんと快感の脈動が確実にせぐり上がり、男根に充填されていくのがわかる。その度にびくびくと震え、一回り大きくなっている僕自身は、正直限界に近かった。
初めて、というわけでもないのに、狂っているような快感に、成す術がない。見つからない。いや、抵抗しようとすら思えない。
二つの膨らみが僕の胸板に圧迫され、形を変える。その光景もひどく淫靡で退廃的だったけど、何より、頬を染めながらも微笑を絶やさない彼女が、何よりも狂気を感じさせる美しさだった。
そんな表情に、姿に、沸騰する快感を抑えられない。理性を崩壊させるような多幸感に襲われ、僕は彼女をきつく抱きしめた。
ギリギリ一枚を隔てていた何かが、根幹から崩れる音が頭の中で響き、それと同時に自分の快感が吐き出されるのがわかった。何度も何度も脈動を繰り返して、彼女の中にそれを注ぎ込む。
「んっ…」
耳元でか細い息を吐く彼女は艶っぽくて、強制的に男性の興奮を煽るものだった。
身体が病熱を孕ませたように熱くて重い。続いて全身を脱力感に襲われ、僕は情けなく荒い呼吸を繰り返していた。彼女も同じようで、全ての体重を僕にあずけてしなだれかかってきた。その重みは心地よく、なぜか胸の中でぬくもりという言葉が急に実感を持つ言葉になる。
彼女の中は、甘美な収縮を未だに小刻みに繰り返し、僕から精を根こそぎ搾ろうとしているかのようだった。
少し、疲労の窺える声音で、彼女は言う。
「まだまだお茶会は始まったばかりだよ。さ、もっと楽しもう」
それを否定する考えなんて、僕には浮かばなかった。なぜ、こんな素晴らしいものを拒否することが、彼女を否定することができるんだろう。そんなこと、したくもない。考えたくもない。今、僕は幸せだ。
…あれ、僕は少し前に、何かを考えていた気がする。確か、狂い――いや、もう霞のようになっている記憶のことだ。大したことじゃないんだろう。
僕の目の前で笑う彼女に口付けをする。
それは『当たり前』のことで、とても自然なことだった。彼女と過ごすこの世界が夏のような色彩を帯びている。それならきっと、とても素敵な日々を過ごせることだろう。そうに違いない。僕は根拠の見当たらない根拠のある自信を胸に抱いて、再び腰を動かし始めた。
15/11/11 22:05更新 / 綴