白背景、冬にたゆたう
クリスマスには、何かしらの魔力が込められているのだと僕は思う。不特定多数の人たちが楽しみにして、不特定多数の人たちが早く過ぎ去れと願うクリスマス。
街に雪花がしんしんと降り注ぎ、宝石を散りばめたような煌々とした光を放つイルミネーションが、夜を彩っていく。まだ十二月の中ごろだというのに、街は嫌気を覚えずにはいられないほどにクリスマスムード一色だ。
僕は、そんなクリスマスに辟易しながら、バイトのチラシ配りを粛々とこなしていた。
別段こういったことでパンキッシュな反骨精神を体現している、とかではなくて。ただ僕としては、バイトでもしないとご飯を食べていけないのが現実問題としてあるだけだ。でもきっとそんな僕も、既にカップル成立している人たちから見れば、負け犬の遠吠えになるのだろう。吠えるだけ。所詮勝ち組にはとどかぬ戯言。世知辛い世の中だった。
別に負けてはいないのに。
淡々とカップルに、道行くサラリーマンに、誰彼かまわずにチラシを配っていた時だ。
見覚えのある手だった。
淡く、冷たく、凍ってしまいそうな肌の色だった。そのチラシを受け取った手に、明文化できない何かを感じ取って、半ば衝動に突き動かされたようにその手を掴んだ。当然、いきなり手を掴まれれば、向こうは驚くはずで、なんらかのリアクションがあるはずだったのだが、それらしい反応はなかった。
なかったというよりは、しなかったというべきか。
僕が手を掴んだ人物は、呆れたような表情を浮かべて、その特徴的ないつも眠そうにしている半眼で僕を見据えていた。
彼女を表す象徴とも言える長いツインテールに、青白い、見る者全てを凍てつかせるような肌の色。そして、何よりも、無機質という言葉が相応しいとすら錯覚してしまいそうな、その彼女が持っている独特の雰囲気。
それが、彼女、グラキエス、雪雪――ソソギユキ――だった。
過去のこと――僕が高校生時代のこと――を振り返ろう。
彼女のこと、雪雪のことを説明するなら、氷の女といういかにもな比喩表現で足りてしまうのが、現実だった。なにせ、いつも無表情、そして窓際の席で誰も人を近づけないような雰囲気を出しながら読書をしていた。
在学中、一年におおよそ三人くらい頻度で男子は口説こうと目論み、話しかけていたがそのどれもが例外なく撃沈。実にわかりやすい撃沈。
「邪魔しないで」
その一言だけで声をかける男子の心をもれなく圧し折ってしまうのだから、それはもう氷の女なんて比喩されるのも、なるほど頷けた。
だが、高嶺の花には手を伸ばしたくなるのが男子高校生、さらに広げるなら世の中の男の性なのだろう。撃沈されても、在学中、彼女に声を掛ける男子がいない年はなかった。一年生、二年生、三年生。
いずれの学年の年でも声を掛けられ、そして鉄壁のディフェンスによって悉く男子を返り討ちにしてきた彼女。
そんな彼女が僕と接点を意図せずして作ってしまったのは、ある日の出来事だ。
いくら彼女が読書好きであったとしても、いくら窓際の席を愛していたとしても、移動をしないわけではない。机に齧りついて一時も離れようとしないわけではないので、時折図書室にいたりだとか、廊下を歩く(下半身は若干宙に浮いているので、浮遊と言った方が相応しいのかもしれない。もっとも、本人は気にしないのだろうけれど)姿を見かけるときがあった。
そんなタイミングを狙って声をかける自称策略家の男子もいたのだが、策に溺れる暇も与えられずに廊下で地に伏せて嘆いた。
彼女は移動の際でも本を手放す気はないらしく、本が友達と言わんばかりに本と一緒に移動していた。
放課後、廊下でそんないつも通りの彼女を偶々、帰宅しようとしていた僕が見つけた時だった。きっとそれも偶々だったのだろう。彼女は廊下のちょっとした段差に躓いて転んでしまったのだ。
偶然僕の進行する方向での出来事だったので、無視して通るわけもいかず、僕は親切心で彼女が転ぶと同時にぶちまけた本の幾つかを拾ってあげることにした。
その本が、曲者だった。
「おっと」
本は僕の足元にまで一冊あり、ブックカバーで表紙を隠されたその本を拾う。ここで釈明しておくと、僕は決して彼女が普段持ち歩いている本の中身を見る気などまったく、これっぽっちもなかったということだ。それは本当に偶々、びっしりと書き込まれた文字、小説の文章が見えただけだったのだ。
粘液、白濁、嗚咽、淫靡、快楽、剛直。
そんな文字がいたるところに散りばめられた小説の――官能小説の――文章が偶々見えてしまっただけだった。
どくん、と、心臓が跳ねる。背筋に微弱な電流が走った気がして、自然と背筋が伸びた。
「……」
文字通り、言葉を失い、そして硬直した。
これはひょっとして彼女の持ち物なのだろうか?いやいや、そんな馬鹿な。性欲盛んな男子じゃあるまいし、学校に官能小説を持ってくるなんて彼女がするわけないだろう。たとえ、彼女の濫読ぶりが官能小説のジャンルにまで及んでいたとしても、いくらなんでも持ってきていいものと悪いものくらいの区別はつくはずだ。
きっと、学校でも体中から精液が溢れ出しそうなくらいに性欲をこじらせてしまった男子の落し物だろう。
とはいえ、これを先生に落し物ですと届けるわけにもいかず、やむを得ず僕はその官能小説をバッグに仕舞い込んだ。
そのままにしておいても大変なことになるだろうし、落とし主には悪いけれど回収は諦めてもらうとしよう。川原に落ちているエロ本を自然と小学生や中学生が回収していくように、落し物は(主にエロ関連)誰かが拾ってしまうものなのだから。それが今回は僕だっただけだ。
彼女は幸いにも、僕に気づいた様子もなく、そそくさと本を拾い集めるとやや早い足取りでその場を去ってしまった。
僕のバッグの中には一冊の官能小説。
まあ彼女のものではないのだろうから、罪悪感が生じるわけではない。この学校の誰かわからない男子は嘆いているだろうが、それはもうご愁傷様と言うほかないわけだし。
そんなわけですぐさま帰宅して僕は自分の部屋に入り、鍵をかけたことを確認すると即座にバッグから官能小説を取り出した。
どんな奇麗事を言ってもそこは高校生。とっても健全な男子高校生。
こういうものに興味がないと言えば嘘になる。
親の目を掻い潜ってエロ本やゲームを手に入れることが困難だった僕にとっては天からの贈り物と等しかった。
はやる気持ちを抑えながらページを捲り、いやらしい目次の『渦の扉』というタイトルにまでやけに興奮を覚え、そしてあるものを見つけ、僕は本日二度目になるが、言葉を失い、硬直した。
いや、これはそんなにタイトルが刺激的な内容だったとか、僕の趣向にそぐわなかったとかそういう意味ではなくて。ただ。ただ、官能小説の目次の端っこに、遠慮するようにして、『雪雪』と書かれていたからだ。
「……マジで?」
誰も聞いてはいないけど、そう呟かずにはいられなかった。いや、本にまで名前を書くのは(偏見だけど)几帳面そうな彼女からすれば、らしいと言えばらしいけど。
だけれども、官能小説にまで名前を書くのは……いや、問題はそこじゃない。
天からの贈り物が人様の落し物に変わった落胆よりも、拾ったときに感じた懸念が現実のものだったことへの衝撃の方が大きかった。
しかもそこそこに女子らしい小さな可愛い文字で書かれている。
文字まで氷みたいじゃないんだな、という場違いな感慨は二秒で消し飛び、僕の頭の中は焦燥で埋め尽くされた。
「持って帰っちゃったよ…」
落とし主がわかったからには、返さなくちゃならないだろう。どんなものでも。それが例え官能小説であろうとも。
「どうやって返すんだ?話しかけても邪魔しないで、って追い払われそうだし。そっと机の中に入れればいいのかな。でもそれじゃあ見られたらただの不審者だし、かと言って堂々と渡すのはこっちも向こうも痛手を負うし」
一人部屋でぶつぶつと官能小説を返す方法を呟く、気持ち悪い男子高校生の図になっているであろうことは気にせず、僕はその日、課題や予習のことすらそっちのけでこの本の返却方法を考えた。
僕にとってはそれくらいに、重要なことだった。なるべく傷つけず、傷つかずに事を穏便に済ませる方法。締め切りが迫った作家よろしく、こめかみを押さえながら僕は十二時まで悩みぬき、ベストな方法をようやく思いついたと同時に、急速に意識を遠のかせていった。
そして翌日。
教室移動の必要がある時間、僕はわざと寝たふりをして教室から離れないでいた。やがて、彼女が教室から出て行くところをちらりと確認して、僕はすぐさま行動に移った。
「早く早く早く…!」
悩みに悩んで結局僕が出した決断は、彼女がいない間にこれをこっそりと彼女の元へと返すことだ。だが、その場所は彼女の机でも、鞄でもない。
机に置けば彼女は不審がるだろうし、鞄は論外だ。僕が変質者のレッテルを貼られてしまう。そんな幾つもの懸念、きっと杞憂で済まされるはずの懸念が気になってしまった僕が選んだのは、彼女のロッカーだった。
ロッカーならば、不審がることもなく、彼女もきっと、こんなところに自分は置いていたのか、と勘違いをしてくれるだろう。なるべく上手く、違和感を与えないように彼女のロッカーに官能小説を入れようとした、その時だった。
「何してるの?」
背筋が凍りついた。背後からの声で。たった一言だけで、ここまで悪寒にも近い寒気を覚えさせるのだから、なるほど氷の女と呼ばれることにも頷ける。
「何してるのって、聞いてるの。そこ、私のロッカーなんだけど」
「あ、あの、冷静に話しを」
僕は振り向く勇気も出ずに、背中を向けたまま返事をした。
できれば、僕の背後にいる人物がその人でないことを願う。きっと、いや絶対に無駄な願いだけれど。もうこの学校での学生生活も少ない僕だけども。
「……話せないようなことをしてたの?」
「い、いやそんな」
わけがあった。
「…こっちを向いて」
観念するしかない。最悪だ。話せばわかってくれるだろうか。
少しばかりの淡い希望を抱いて振り返り、その希望がガラスが割れる音を立てて崩れた。怪訝な表情を隠そうともせずに、腕を組んでいる彼女が、雪雪がそこにいた。髪の毛もざわざわと生き物のように蠢き、その機嫌の悪さと不信感を顕著に表している。
「何をしてたの?」
こうなれば、もう覚悟を決めるしかないのだろう。彼女の何か大切なものを壊してしまいそうだったけれど、仕方が無い。追い詰められてしまえば、流石に僕でも自分の身の方が可愛かった。
「あの、落し物を届けようとしたんだ…」
「落し物?」
さらに怪訝そうに眉に皺を寄せる彼女だったが、僕が官能小説を手渡し、それを受け取りページを捲って、彼女は固まった。
それはもう見事に、カチンコチンといったオノマトペがするんじゃないかと思うくらいに固まった。きっと彼女の中では今、何かが壊れ、色んな思いが交錯し、しっちゃかめっちゃかになっている状況なのだろう。僕はそっと心の中で手を合わせた。
張りつめた雰囲気が、固まった雰囲気へ。それだけだけど、その場から逃げ出したい空気の重さは別の意味でその自重を増し、僕はその重力から逃れるようにしてその場を後にしようとした。
「待ちなさい」
が、その一言だけで、僕はその場に縫い付けられたかのように動けなくなった。まるで身体が石になったかのように。いや、これは石になったようにではなくて。
僕の足が凍っていた。
「あなた、これの中、見たの?」
僕の前に回りこみ、答え以外は求めていないという口調で、彼女は問いかけてきた。
いやいや、本当のことなんて言えるはずがない。例え彼女自身がなんとなく結果に察しがついていたとしても、言わなければいいことも世の中にはある。それを心の中にそっとしまっておくのが、マナーというものだろう。
だから、ここで僕が答えることは決まっていた。
「見てないよ」
「……」
訝しがる彼女の視線がまっすぐ僕の瞳に注がれ、思わず顔を逸らしたくなったが、顔は動かなかった。どうやら、動くのは口だけらしい。
「ところであなた、この本のタイトルどう思う?」
「う〜ん、個人的にはあまり凝ったものにしなくても官能小説なんだからもっとストレートなタイトルでもよかった気がす……」
「見たのね」
完全に乗せられた僕だった。
いや、まだだ。考えよう。ここで認めてしまっては、彼女はきっと形容できないような虚無感に襲われることだろう。威厳も尊厳も、守れるのはきっと僕で、その方法はどこまでもシラを切ることだ。少なくとも僕の中での彼女のイメージは、陥落された城のように見る影もなくなっているけれど。それでも僕一人だ。まだ周囲にはきっとバレていないだろうし、僕が黙ってさえいれば彼女は傷つかずに済む。
そんな理由もない責任感が肩にのしかかるのを感じていた時だった。
彼女は俯いて、震えながら、か細い声で、
「――みよ」
「へ?」
「何が望みよ」
「い、いや別に、脅迫しようとかそんなんじゃ」
「嘘よ!どうせ押し倒してやろうとかそんなことを考えてるんでしょう!?」
「そこまで考えてないよ」
「どこまで考えているの」
「日本語って難しい!」
彼女はひょっとして、僕がこの事実を使って関係を迫ろうとか、そういったことを考えているんだろうか。だとしたら誤解だ。僕はそこまで下種じゃない。卑怯者でもない。
「落ち着いてよ。そこまで区別してくれなくていいから」
「分別してやるわ!」
「え!?僕ゴミ!?」
僕の中で、彼女へ勝手に抱いていたイメージは、崩れ去った上に丁寧に粉挽きまでされて粒子状になった気がした。どこか深いところにある奥ゆかしさとか、気高さとか。クールさ、可憐さ。そういったもの全てがひっくるめて綺麗にすり鉢ですられた。少なくとも、彼女の普段拝めることのない慌てぶりと、口から飛び出す言葉は、僕の中でのイメージとはかけ離れたものだった。
「私の身体が目的じゃないならいったい何が目的なのよ」
「とりあえず身体から離れてくれるかな」
「近寄るなと言うの!?」
「そっちじゃない!」
そのイメージの代わりに、なんだか凄く話してみれば面白い人というイメージが定着しかけている。いや、もう定着した。
結局その後、紆余曲折を経てなんとか誤解を解くことに成功した。具体的には僕がひたすら真摯な態度で話しかけ、なんとか彼女に納得してもらうというものだったけれど、それで誤解が解けたのだから、もう何も心配はいらないだろう。
そう、心配はいらない。
彼女に対して、このことは絶対に他言無用と誓いを立て、氷を解いてもらって教室を後にしようとした時に、再び呼び止められたことを除けば。いや、それは除ける。
彼女が、何かを言いあぐねている様子だったので、僕の方から話しかけると、意を決した、覚悟を決めた表情で、友達になってくれないかと言われたことも、除けるだろう。
そう、心配はなけれども、不安は僕の華奢で脆い身体を押し潰そうと目論んでいた。
ぞくりとした寒気が、僕の背筋を這った。
彼女のこと、雪雪のことを説明するなら、氷の女といういかにもな比喩表現で足りてしまうのが、現実だった。そしてその現実は、極々当たり前の形で彼女の喉元へと牙を剥いた。氷の女。つまりは、冷たい女。言い寄ってくる男にも、周囲にも。
彼女曰く、読書中に話しかけてほしくなかっただけで、お喋り自体は年頃の女の子同様、大好きなのだという。それこそ姦しいという表現を一人で表すことができるくらいに。
ただ、彼女の場合その拒否の意志を示す言葉がきつかったせいで、彼女が意図せずして、氷の女というレッテルが貼られてしまっていた。レッテル。人の印象がそう簡単に剥がれ落ちるはずもなく、またそれを打開する術も彼女にはなく、気づけばそんな冷たいキャラクターを演じるしかなかった。というわけだ。
本当の自分を曝け出せず、本音と建前の板ばさみ。
誰だって何かと板ばさみになって、苦しむことはあるだろうけれど、彼女の場合はこれだった。そんな彼女からすれば、僕は偶然やってきた好機だったのだろう。
畢竟するに、本音を、本当の自分を曝け出して話し合える相手。
それが、偶々僕だった。そしてそんな翌日の放課後。下校時刻。本来なら帰宅部に所属している僕はすぐ家路につくはずだったのだが。
どこで道を間違えたのか、もしくは踏み外したのか。
「それじゃあゆっくりしていってね。今お茶を淹れるから」
僕は彼女の家にいた。
もう一度言う。
僕は彼女の家にいた。
事の発端はもう大よそ察しがつくだろう。昨日の彼女の友達になってくれないかという提案を、僕は拒否することができなかった。チキンだのなんだのという批判も甘んじて受け入れよう。けれど、彼女の必死で、懇願するような顔を見てしまった僕に、選択肢は一つしかなかった。腹にざわめいた流れが溜まるのを感じたときには、もう僕は返事をしていた。その時の彼女の喜んだ顔は、とても可愛らしくて、氷なんて溶けてしまいそうなほどに、温かいものだった。
だから、彼女の喜びようからして、学校で声をかけられることくらいは覚悟していた。だが、しかし。彼女にとって友達ができたという事実は、予想外に大きかったらしい。
今日私の家にきて、なんて言われ。
チキンの僕は断ることもできずに、この現状があった。
「おまたせ」
「ありがとう」
何気ない仕草が色っぽい。部屋に充満している甘い香りがたまらない。どんなに紳士ぶっている男子でも、この空間にいれば五分ともたずに理性の鎖が外れてしまうのではないのだろうか。そう思わせる魔力めいた、女の子らしい紛れもない女の子の部屋にいる僕は、素数を数えることくらいしかやることがなかった。
「ねえ」
「ん?」
「結局、あの本読んだの?」
噎せた。
思いっきり噎せた。
「ああっ!だ、大丈夫?」
「だ、大丈夫だから……」
「………こういうシチュエーションだと、股間を拭いてどさくさに紛れて情事に入るのよね」
「距離縮まるの早すぎませんかね!?」
「え、だって友達ってそういうものじゃ」
「友達ってそっちの友達だったの!?」
友達。いや確かに魔物娘は好色とはよく聞くけれど。そんな肉体関係だけなんて話は聞いたことがない。どちらかというと肉体関係を持ったら墓までついていく感じだ。
それよりも、彼女の距離の縮まりように戸惑う。いや、僕の中でずっと抱いていた女の子像というか、想像の中の彼女とのギャップが違うだけなんだろうけど。
ただ、そんなことを指摘して彼女のしょんぼりとした顔を見ても面白くないので、僕は適当に彼女に話しを合わせることにした。
「あの、友達ってもうちょっと距離があるものじゃない?」
僕としては、向こうからふってきた話題だし、遠慮をすることはないだろうと踏んでの質問だったのだが、しかし彼女は何か不満があるのか、可愛らしく頬を膨らませてジト目でこちらを睨んでいた。
…何かまずかったのだろうか?個人的には、おかしな点はなかったと思うけど。僕が思考を巡らせるよりも先に、彼女は口を開いた。
「名前で呼んでくれないの?」
僕の心が粉塵になった。
「あの、は、ハードル高くない?」
「友達って名前で呼び合うものでしょ?」
その通りだった。いや、でも。いくらなんでも急すぎないだろうか。やっとできた友達に飢えているというのは、わからなくもないし、むしろ理解できる感情だ。でも、せめてもうちょっと段階を踏んでから呼び合った方がいいんじゃないだろうか。
苗字で呼び合うとか、そんな感じで。そこから自然な形でいつの間にか、気がつけばお互い名前で呼び合うようになっていたとか、それくらいの方がいい気がする。
「名前が駄目なら、ユキちゃんとかユッキーでもいいから」
「ハードルが天を衝く高さになったんだけど」
「簡単よ。ほら、意味不明を最近はIMFってみんな省略してるみたいなもんだわ」
「IMFは意味不明の略じゃない!」
「納豆をNATOと略すもんだわ」
「食べ物と北大西洋条約機構を同一視!?」
「鳴門とNARUTOを一緒にするのと同じよ」
「違うってばよ!」
「聞くと黙るを同一視するようなものよ」
「意訳すぎませんかね!?」
「あら、これはちゃんと同一視できるわよ。ListenもSilentも構成単語は一緒じゃない」
……本当だった。素直に感心させられる。なんだかんだと言いながら、どうやらその読書での知識量は豊富らしい。日常会話でここまで言葉遊びは、ちょっと僕にはできないだろう。多分、公平な工兵とか意味不明なやつ。その辺りが精一杯だ。
散々ボケ倒した挙句、気持ち良さそうに笑う彼女の笑顔が、やけに眩しく感じた。学校で出している、近寄りがたい神聖さを纏ったような雰囲気よりも、こっちの方がよっぽど魅力的に見えてしまう。
その笑顔の燐光が瞼の裏でやけにちらついて、僕は少しだけ目を細めた。黙って彼女が淹れてくれたお茶を啜る。今度はちゃんと噎せずに飲み込むことができて、ほのかに甘い後味が舌を弄んだ。
いや、甘いのは味じゃなくて、これは。
舌だけでなく、鼻腔にまとわりついているこれは、彼女の、
「やっぱりお喋りって楽しいわね。一緒に話す人がいると大違い」
「まあ、こんな僕でよければ、いつでも話し相手にはなるよ」
「パシり相手にはなってくれないのね」
「格下げにしても急すぎませんかね!?」
「パンがなければおやつを買い漁ってきて」
「マリー・アントワネットが優しく見える!」
二人して、けらけらと笑い合う。
くだらなくて、俗物的で、きっと埃や紙くずと一緒に塗れてしまっているような会話に違いなかった。そんな会話のはずなのに、やけに楽しくって。僕は久々に本気で笑っていた。
お互いの笑い声が共振して、耳に心地よく響く。間近で見る彼女の笑顔は、当分の間、網膜に焼きついて離れそうになかった。
まったく、本当に。
こんな学生生活の終盤で、幸せな気分になるとは、思ってもいなかった。
そんな自分の幸運に、寒気がした。
彼女のこと、雪雪のことを説明するなら、氷の女といういかにもな比喩表現で足りてしまうのが、現実だった。しかしその現実は、どこか柔らかく、包み込まれるようなものへと変貌を遂げようとしていた。
具体的には、人当たりがキツいものではなくなってきていた。少し砕けた言い方と言ってしまうとそれは過分だろうけれど、語気が少し変化を感じられる程度のものにはなってきていた。
まあ、これはさもありなんと思う。
友達を作れなかった彼女が、やっと友達を作ったのだから。友達、つまりは自分と他人との上手い距離感。その距離感を掴むコツを、やっと掴んできたのだろう。その一因が僕にあることは、今のところ誰にも知られていないのは、僕としては有難くもあり、なんだか手のひらから滑り落ちてしまうような虚しさもあり、少々複雑な気分だったのだが。
ただ、僕という友達ができて、彼女の心情の機微に目ざとく気づいた男子は、早速アタックをかけていたのだが、そこは彼女。しっかりと来る男子を撃沈させていた。
未だ氷の女は健在、といったところだろう。
そんな彼女を見て、安心している自分がいるという、有耶無耶になりそうな現実には、目を瞑っておくとして。
「はい、お茶」
「ありがとう」
彼女の家に遊びに行くようになって、早くも一週間は経とうとしていた。彼女の家に行くたびに、新しい発見があった。ワンピース姿が似合うこと。あの官能小説は彼女の両親がプレイのために(どんなプレイかは聞けない、聞いちゃいけない)持っていたものだったこと。バラードよりもロックの方が好みだったということ。意外とゲームが好きだったということ。本当に色々な彼女の一面を見ることができた。
その度に新鮮な感覚が僕の中で芽吹いた。
同時に、燻る。
何が、という主語もわからないまま、その何かに身を浸してしまいたくなってしまう衝動をどうにか抑え込む。
「あなたって、容易いのね」
「え、何が?」
「間違えた、優しいのね」
「…どうして?」
「嘘でもほいほい飲み込んでしまうんだもの」
何が嘘なのか、それは大よその察しはついて、冊子もついていた。わざわざ両親の所有物に、ご丁寧に自分の名前は書かないだろう。ただ、それは踏み込んではいけない。マナーというやつだ。人には言えない趣味の一つや二つくらいあるだろう。
「私の場合、無量大数なんだけど」
「そんなにマニアックな性癖を無尽蔵に所有していたの!?」
「あなたの辞書を書き換えること間違いなしよ」
「勝手に僕の辞書を改竄しないでくれ」
「そう、残念ね。××で△△とか、とっても素敵だと思うのだけど」
「え!?待って、伏字の中身は何!?」
「気になるのだったら今すぐここでストリップショーをすることね」
「野郎のストリップって誰が得するの!?」
「安心しなさい。どうせ表現されるのは文面だから」
「何の話をしてるの!?」
「どうせ表現されたとしても、『その少年は羞恥心に耐えかねた様子だったが、その少女の視線に根気負けし、おずおずと衣服を脱ぎ始めた。いつも日常でする何気ない行為の一つのはずなのに、そこに観客が一人いるというだけで顔面に血液が集まるのを知覚した少年はせめてもの抵抗として、顔を俯くことしかできなかった。静謐が支配する部屋に、衣服が肌と擦れる音が響き、少年の細やかな白磁のような美しい肌が露になり、その肌が赤く染まっていくのを少女は女王のような笑みを浮かべながら眺めていた。少年は尊厳も、威厳も人としてのプライドも踏み躙られる背徳の感覚が背筋を走る快感に、無意識に頬を染めた。』くらいで済むものだから」
「十分だ!僕の羞恥心を跡形もなく粉砕するには十分だ!!!」
「ごちゃごちゃ言わずに男なら脱ぎなさい!」
「嫌だよ!」
「そう……」
「そうだよ」
「なら、私が脱いだら脱いでくれる?」
「………………え?」
思わず彼女の顔を見た。真っ直ぐな目が、病熱を孕んだように潤んで見える。いやいや、冗談だろう。友達をからかっているだけだろう。そのはずだ。
なのに、彼女の息遣いが、腹の底に鉛を流し込むような感覚を覚えさせる。どろりと、泥のような粘度を保ったまま、胃袋を満たそうとするそれが、全身に回る。
やけに身体が熱い。全身が総毛立つような、悪寒にも似た熱が、僕の視界をちかちかと点滅させる。悪寒のはずだ。なのに、どこかその感覚がどうしようもなく心地よく感じるのは、なぜなのか。
「…冗談でしょ?」
情けないことに、それだけの言葉を吐き出すのに、僕は一分も時間をかけてしまった。そんな僕に拍手喝采をおくるわけでもなく、彼女はただ、頬を緩ませて、
「当然よ。私はデレたりしないもの」
「ツンデレキャラには程遠いけどね」
「言ってくれるわね、熱い抱擁でもするわよ?」
「いや、グラキエスなら冷たい抱擁じゃ」
「最近は暖かいのよ」
その日、僕は彼女の家を後にしても、瞼にちらつく白い光に苛まれた。白昼夢を漂ったような、そんな現実味のない現実感が、ただそこにあるだけだった。
ああ、身体が、熱い。いや、寒い。寒くてたまらない。
彼女のこと、雪雪のことを説明するなら、氷の女といういかにもな比喩表現で足りてしまうのが現実だった。だから、彼女ではなく、僕自身のことを少しだけ語ろうと思う。
僕、平々凡々のこれといって特徴も無い男子高校生が、ある日恋をしたと言えば、それはまたありふれたことだった。そして、告白もしないまま、僕の恋の火種は消えてしまい、何事もなかったかのように僕は残された学生生活を、気ままに過ごしていた。
だから、それは本当に偶然だった。
彼女が落した官能小説を見て、心臓が飛び跳ねそうになったのは、当然だった。
だって、そうだろう。
誰にも知られずに終わった恋が、再び燻り始めれば、それは飛び跳ねそうにもなる。そう、僕は、雪雪が、好き『だった』
だった、と言うのはつまりは僕の誰にも知られずに終わった恋のことで。そして、偶然の出来事で、僕は再び雪雪に恋をした。
実に女々しいことで、情けないことだった。でも、そんな僕を友達とした彼女が、終わってしまった恋の時よりもずっと好きになった。
だからだろう。
僕が友達になってからも、次々と男子を轟沈させていく、そんな彼女を見て、安心している自分がいたのは。実にわかりやすい浅ましさで、独占欲だった。
早い話、グラキエスの彼女よりも、よっぽど凍りついていたのは、僕だった。
早い話、グラキエスの彼女よりも、よっぽど人間らしかったのは、僕だった。
友達の距離にまで近づいて、それでいて、「友達ってもうちょっと距離があるんじゃない」なんて。彼女を好きになっても、まだ友達のラインで戸惑う僕は、きっとドラマの悪役よりも性質が悪い。
自家撞着しかけている情動を、どうすればいいか、自分でも決めかねているのだから。
でも、少しだけ、ほんの少しだけだけど。彼女の友達として、拠り所になれればなんて青臭い感覚が、芽生えている。
彼女の家にほぼ毎日遊びに行くようになっていた僕は、そんな自分に薄ら寒さを感じずにはいられなかった。
「だからね、今度はあなたの家に遊びに行かせて欲しいの」
だからって、どうすることもできない、今日くらいを正直に生きることもできない。
できないできない。できない尽くし。
「ねぇ、ちょっと聞いてる?」
「あ、ごめん。なんの話しだっけ?」
「だから、あなたの家に遊びに行ってもいいかって話よ」
「う〜ん、やめた方がいいと思うな」
「どうして?見られちゃいけないものでもあるの?私これでも男の子らしいものがあっても平気よ?」
そりゃそうだろうね、とは口が裂けても言えなかった。男子高校生並みにエロに関心がありそうだ。
「僕の部屋にそんなものはないけどさ」
「男子の部屋にエロ本一つ落ちてないというの!?」
「いや、手に入れる機会がないんだって」
「インターネットという現代の恩恵を何のために使うのよ」
「……エロ本を買うため?」
「出会い系に登録するためよ」
「もっと生々しいことだった!」
「ちなみにサクラの区別は地域の天気やお店ネタよ」
「なるほど……って違う!危うく感心しかけた!」
「そういえばあなたの性癖はあまり知らないのよね…」
「知らなくていい!性癖の教えあいだなんてアブノーマル過ぎる!」
意外と(というかもう当たり前になっているけれど)彼女はこういう会話に躊躇がない。学校ではそんな会話は繰り広げないが、もし学校で氷の女と比喩される彼女がこんな会話をしていたら、どうなるのだろう。男子の目から鱗が飛び出すんじゃないだろうか。
「それにしても、意外だったよ」
「何が?」
「グラキエスって、ほら、冷たいって聞いてたから。態度とか」
体温、とか。
「そう。なら期待に添えなかったかしらね。コミュニケーション能力はお父さんとお母さんの教育の賜物よ」
その能力が本当にあるなら、氷の女なんて言われてないという突っ込みはやめておこう。
「お義父さんとお義母さんの賜物よ」
「なんで言い直したの!?文字を変えたの!?」
「ごちゃごちゃ言わないの。読み方は一緒でしょ」
「同じだけど意味は大違いだ!」
「細かいことを気にしてると疲れるわよ?」
「少なくとも気にしなきゃいけないラインだよこれ」
「大げさね。友達が親友になるかどうかの違いじゃない」
「違う!友達か嫁かの分岐点だ!」
いつも通りにふざけあい、からからと笑う。その時、なぜかまた彼女の笑顔が眩しくて、瞼を閉じたくなった。まただ。またあの白々しい光が、不思議な温かさを伴って、染み入るように苛んでくる。どちらにも属さぬ僕を責めるような……いや違う。どちらを選んでも許してくれるような燐光。寒気がする。
ぬくもりが欲しい。光よりも、もっと温かいぬくもりが。
「嫁でもいいんじゃない?これでも男一人養う甲斐性はあるつもりだけど」
「それ僕の男としての立場はどうなるの?」
「まあ、それは置いておくとして」
「置いていかれた!」
ずぃ、と、彼女が急に距離を詰める。僕は思わず後ずさったが、それもすぐに壁に当たって、それ以上は後ろにいけなかった。
「ねえ」
彼女の顔が近い。ふとした拍子にキスをしてしまいそうなくらいに。彼女のやけに生々しい熱を帯びた吐息が、僕の頬を撫でた。眩暈を孕ませてしまいそうなくらいに、頭がくらくらする。きっとこれが、彼女なりの悪ふざけだと、頭の隅で理解していても、どうしようもなく、心臓は五月蝿い。
自分のものなのか、彼女のものなのかも識別できないほどに近くなった熱が、身体に纏わりつく。
「また冗談――」
「本気よ」
僕の喉から絞り出した声は、しかし彼女の声にかぶせられ、空気に溶けてしまった。寒い。
「友達を越えたら駄目なの?」
訊ねるようでいて、推し量るような思惟を感じる瞳に、僕は動けなくなった。こんな状況に、僕はただ戸惑うだけだった。なぜなら、僕は彼女に恋心を抱けど、彼女はまだ僕を友達としか認識していなかったはずだ。だから、理解できなかった。
彼女がここまで僕に迫ることが。僕自身、心のどこかで願っていたことではあるのに、いざその場面になると、滑稽なほどに納得がいかない。いや、納得がいかないというより、理由が欲しいだけなのかもしれないけれど。
理由があれば、きっと後ろめたさを感じることがないのだから。
何に対するという主語を見つけられないまま、僕はただ腹の底からこみ上げてきた熱を吐き出していた。
「あの、どうして僕」
「理由がないと付き合ったりできないタイプ?」
「そうじゃない、けど」
「好きだから」
「……」
「気づいてたかどうかは知らないけど、私、あなたの精を少しずつ食べてたのよ?」
「…は?」
初めて聞かされる事実に、僕は思わずその場の雰囲気にそぐわない、間の抜けた声をあげた。いや、だって、そんなはずないじゃないか。いくら薄学の僕だって魔物に対するきちんとした理解はある。グラキエスが精を吸収すれば、その吸われた生き物は、寒さに襲われる。その寒さがやがて人肌恋しい感情になり、そして自然とグラキエスと結ばれる、或いは他の魔物と結ばれる。
けど、僕は彼女と出会って、そんな寒さなんて――
感じて、いた?
彼女と話す最中に感じた悪寒、自分の幸運に寒気を感じた時、彼女の家を後にした後も続いた寒気。僕は全部、あれは自分が勝手に感情に揺さぶられて感じていたものだと思っていた。でも、そうじゃないなら。
あの寒気が全部彼女の手によるものなら。
「理由はできた?」
「……できた、気がするけど、でも」
「でも?」
「その、えっと」
明文化できない何かを口に出そうとしても、言葉が喉元で引っかかって出てこない。普段はあれだけ軽口を叩けたというのに、肝心な時には言葉一つ吐き出すのにも、酷く時間がかかる。
僕はいったい、何を言おうとしているのだろう。転覆してしまいそうな情操が、ゆらりと揺らめく炎になるのを、幻視した気がした。
ふと、僕の手に彼女の手が重ねられる。『あたたかい』彼女の手が、どうしよもなく柔らかい女の子の手が、僕の手の甲を撫でた。
「あなたがどう思ってるかは、わからないけど、あなたが優しいっていうことはよくわかるわ。ここまで迫られてそれでも、友達でいようとしてくれるんでしょう?」
「そう、なのかな」
弱弱しい僕の声が、自分の耳朶を打った。堂々巡りの自問自答に、一つ、ふわりと浮かんだ暖かな声、答えが、僕の身体に火を灯らせる。
つま先から頭の頂点までむず痒さと嬉しさに浸されたような感覚に、泣きたくなった。彼女がここまで熱を持っているなら、それで、いいのかもしれない。
結論を出してもいいのかもしれない。
「そうよ。でもね、優しいのはいいけど、私はもう、待てないわ」
押しに弱い僕だった。唇に、柔らかいものが押し当てられる。それが彼女の唇と気づいた時には、舌が僕の唇の間を縫って、口内に侵入していた。甘い唾液が口の中いっぱいに広がり、思考をする余裕を奪っていく。それは味として感じる甘さではなくて、もっと感覚そのものにうったえかけてくるような甘さだった。
舌と舌が触れ合い、どちらからともなくお互いに感触を貪る。溶けて一体化してしまうのではと錯覚しそうなほどにそれが気持ちよくて、自然と手が彼女の背中に回った。
自然と彼女の胸が僕に押し当てられ、マシュマロのような乳房が服の上からでもしっかりとその存在を知らしめる。思わず若い衝動に身を任せたくなったが、辛うじて持ちこたえ、今はまだしっかりとキスを楽しんだ。
綺麗に整った彼女の歯茎は、舌で弄んでもとても感触がいい。舌先を優しく包んでいくような頬も、何もかも、愛しい。
「ん、ちゅ、ぴちゃ、ちゅ、んんんっ」
お互いの息遣いと、唾液が交わる水音だけが、空間を満たしていく。淫毒のようなそれは、何もかも有耶無耶にしそうな危うさを確かに持っていた。
一旦、どちらからともなく口を離すと、唾液のアーチが銀色の光を放ちながら床に垂れた。
そんなことを気にすることなく、彼女は当たり前のことをするような手つきで僕のズボンをずらした。
既に痛いほどに勃起していた僕のペニスが勢いよく飛び出て、彼女の手にぶつかる。ぺちんと乾いた音を響かせたそれは、すぐに彼女の手に捕らえられた。まじまじと僕の愚息を見つめて、口の端を少しだけ吊り上げる彼女の笑みは、ぞっとするくらいに淫蕩だった。
彼女の手がゆっくりと僕のペニスを扱き始め、緩慢な快楽がぞくぞくと腹部から駆け上ってくる。それもつかの間、彼女が躊躇うことなくそれを口に含んだことで、僕は思わず仰け反った。
彼女の舌が亀頭を優しく舐めしゃぶり、ぞわぞわとした快感がとめどなく溢れてくる。いや、それよりも、氷の女と呼ばれていた彼女が今こうして僕のペニスを咥えている現実が、どうしようもなく僕を昂ぶらせた。
ちろ、と敏感な裏筋を舐められて、電流が身体に走り腰が引ける。だが彼女はそれを許さず、がっちりと両腕で僕の腰を固定すると、そのまま顔を深く僕の股間へと埋めていった。彼女の弾力と柔らかさを兼ね備えた唇が、ペニスの輪郭をなぞるようにして降下し、そして再び上がっていく。舌もその動きに連動して、太い幹を這うような動きでひたすらに僕を追い詰める。
じゅるじゅると淫らそのものの水音が大切な中枢を壊していく。上下運動をひたすらに繰り返すだけなのに、絶え間なく注がれる快感に、次第に睾丸に欲求が充填されていくのがわかった。
「ん、ぷはっ」
やがて、息苦しくなったのか一旦ペニスを解放した彼女は、それでも休むことなく今度は亀頭の先だけを咥え込んだ。そのせいで、さっきよりも倒錯的な光景が僕の網膜に焼き付けられる。そして彼女の舌はカリを重点的に責めてきた。舐められるたびに、鋭い刺激が亀頭に広がって、そしてペニスがびくびくと意識とは関係なく震える。
自分が優位に立っていることに喜悦の笑みを浮かべながら、彼女はさらに奉仕に熱を入れてきた。こちらを見つめながら、見せ付けるように僕のペニスに愛撫を繰り返す。視線を合わせるだけで、背徳感が僕の脳髄を攪拌させる。
じりりと何かが焼き切れる音を聞きながら、僕の快感はとうとう頂点に達した。
勢いよく尿道から精液が迸り、彼女の口の中に放たれる。脈動を何度も繰り返し、その度に許容量を超えた器にさらに快楽を注ぎ込まれる。彼女の口の端から受け止められなかった精液が垂れ、それでも彼女は口を決して離そうとはしなかった。
やがて、自分でも信じられないほどに長い射精が終わり、ずるりと彼女の口からペニスを引き抜く。引き抜き際に、ちゅぱ、と音がして、行為の激しさを物語る。彼女の唾液と自身の精液で汚れたモノは想像していたものよりもずっと卑猥で、淫らさの象徴のように未だ屹立したままだった。
「すごい量ね、飲むの大変」
「ご、ごめん」
「いいわよ。それくらいよかったってことでしょ?」
「そ、そうだけど」
「それに、あなたの精の味、好きだし」
淫靡な熱が篭もった目が、僕のペニスに注がれる。その期待に応えるかのように、びくんと脈打つ。てらてらと光を乱反射して不規則に粘りつく光を放つペニスが、一際大きくなっていたように感じた。
早く、彼女を犯したい。彼女と一つになって、どろどろに混ざり合いたい。
そんな原始的な欲求を隠そうともせずに、獲物を味わおうと舌なめずりをするように細かく脈動を繰り返す僕のモノを見て、彼女はふと微笑んだ。
それは、ぞっとするくらいに綺麗に整っていた。
「ね、今度はこっちの口にも頂戴」
そう言って衣服を脱ぎ捨て、一糸纏わぬ姿になった彼女の誘惑を断ることなど、できるはずもなかった。したくもなかった。
「ん、しょ」
床に犬のように四つん這いになりながら、彼女はおねだりをするようにその豊かな尻をくねらせた。学校では想像もできない光景が、いやでも愛欲を滾らせる。彼女の秘所はすでに濡れそぼって、自分を満たしてくれるものを今か今かと待ちわびているように見えた。
くぱ、とそんな擬音がしそうなほどに彼女の手によって開かれた秘所は、淡い桃色に染まって蠢いていた。
それを見た刹那、僕を僕たらしめていた最後の何かが決壊し、僕は彼女に後ろから覆いかぶさった。
彼女の手がそっとペニスに添えられ、挿れるべき場所へと僕は当てがわれる。そこまでくれば、あとはもう腰を前に押し出すだけだった。
「ッツ」
「う、わっ」
潤滑液の助けもあって、亀頭まですっぽりと僕は彼女の中に侵入を果たし、初めて味わうその快楽に酔いしれた。
理屈もなにもない。ただひたすらに気持ちいい。これ以上ないほど単純明快な感覚が僕を襲った。彼女の中に入っているのは、まだ亀頭だけなのに。その亀頭を肉の襞がカリまでをすっぽりと包み込み、吸い付くように密着する。動かしてもいないのに、すでにそれだけで果ててしまいそうだった。
全部彼女の膣に入れば、どうなってしまうのだろう。
まるで味わったことのない未知の快感に対する恐怖と、好奇心が僕の中で堂々巡りを続け、そのまま惰性で僕は腰を突き入れた。
ぱん、と彼女のお尻と僕の腰がぶつかる音がして、根元までしっかりと彼女の膣に挿入する。肉棒全体に肉襞がまとわりつき、自ら蠢いて下半身に原始的な快楽を与えてくる。彼女の切羽詰った息遣いが聞こえ、僕は夢中で腰を動かした。
でたらめな律動でも、彼女の膣は腰の動きに合わせて吸い付くようにペニスに吸着し、奥へと突き入れるときには滑らかに、しかし確実にカリや尿道を襞で刺激しながら子宮へと誘う。
それが出し入れの度に僕に襲い掛かり、本能すら削る音がした。
僕のがむしゃらな腰の動きにも、彼女はしっかりと腰を突き上げて中のペニスを搾りあげ、その甘美な収縮に口から女みたいな情けない声が洩れ出そうだった。
こつん、こつん、と子宮口に何度も亀頭をぶつけながら、蠕動を繰り返す彼女の膣内をひたすら往復する度に、腰の底から少しずつ甘美な充足がせり上がってくる。
彼女の喘ぎ声と腰の律動のペースが次第に速度を増し、さらに迫る快感に頭を壊されながら、僕はより大きいストロークで彼女の膣を小突いた。
衝撃で彼女のお尻が揺れ、途方もない気持ちよさだけが僕と彼女を埋め尽くす。普段は見せない彼女の顔が、もっと見たい。悦楽を極めた時の、彼女の顔が見たい。
快楽でとうの昔に塗り潰されていた頭の隅で、ふとそんな考えが過ぎり、僕は彼女が壊れてしまうのではないかという速度で彼女を蹂躙した。
その乱暴さに、僕自身も彼女もついていけるはずがなく、すぐにそれはせぐり上がった。
彼女の子宮口を小突くとほぼ同時に、尿道から精液が迸り、心地良い脈動が全身に広がっていく。お互いの口から漏れ出す吐息がやけに艶やかで、どちらからともなく部屋の床に倒れこんだ。
ぜぇ、ぜぇと肩でする息が、不思議と嫌いになれない。すぐ傍には愛しさを覚える唇があって、そこから濃厚な口付けを交わすのは、とても自然な流れに思えてしまった。
そうするうちに、僕の中で官能がまた首をもたげ、愚息を痛いくらいに勃起させていく。
それを目にしても、彼女は嫌がる表情を全く見せず、僕の欲求を受け入れた。
ベッドでどちらもぐったりと寝そべって、荒い呼吸を整える。あれから何度絶頂したのかわからない。ただ、窓から見える空を見るかぎり、かなりの時間が経っていたことだけはわかった。
「ねぇ」
ふと、彼女が話しかけてくる。
「……なに?」
「友達になってくれて、ありがと」
「今さらだよ」
「今さらでも」
「僕、男としての甲斐性ないし、だらしないよ?」
「そう。そんなこと友達になった時にわかったわ」
「それじゃあなんで…?」
「お話、楽しかったから」
「は、話?僕との?」
「ぽかぽかしたのよ」
韜晦ではない、彼女の本音の言葉に思えた。
「こんな私でも、あったまれたの」
あなたの精とお話でね、と彼女は言った。僕の胸に、砂糖が溢れる。甘くて蕩けてしまいそうで、脆くて危うくて。
自分の身体から何かが抜け落ちていく感覚がして、言葉に出来ない不安に僕は彼女の手を握った。
人間と変わらない、温かい手だった。彼女も僕の手をぎゅっと握り返す。目を瞑れば、循環する血液を感じる。生々しい生の、生きている音がする。
「こんな僕でも、あったまれたよ」
彼女に聞こえないように呟いた自身の声は、荒い息に揉み消されてしまった。それでいい。僕はまだ、素直になれないけれど。
でも、この青臭くてどうしようもなく熱を孕んだ感覚は確かに僕の心臓を掴んでいた。
そんな僕と雪雪との高校生活は過ぎていき――
クリスマスには、何かしらの魔力が込められているのだと僕は思う。不特定多数の人たちが楽しみにして、不特定多数の人たちが早く過ぎ去れと願うクリスマス。
街に雪花がしんしんと降り注ぎ、宝石を散りばめたような煌々とした光を放つイルミネーションが、夜を彩っていく。まだ十二月の頭だというのに、街は嫌気を覚えずにはいられないほどにクリスマスムード一色だ。
僕は、そんなクリスマスに辟易しながら、彼女と手を繋いでそんな街を歩いていた。
呼び出した本人が、チラシ配りのバイトを終えてなかったのだから、僕に非があるのは間違いないだろう。
「まったく、呼び出しておいてバイトが終わってないなんて」
「一応いいわけをさせてもらえば、バイトが終わる算段で呼んだんだよ」
頬を膨らませる彼女は、可愛い。
「まったく。あなたなんて愛犬に噛まれればいいんだわ」
「あれ、犬、飼ったの?」
「ええ、名前はコロよ」
「コロかあ。やっぱり可愛い?」
「勿論。ちなみに名前を漢字で書くと『殺』よ」
「全然可愛くねえ!!!!」
むしろさっきの、噛まれればいいのくだりに恐怖を感じてしまう。
「クリスマスにはサンタさん来るかしら?」
「未だにサンタさんを信じてたの?」
「ドラえもんに出てくるイチコロ帽子で気配を消して、プレゼントを配りにやってきたところを捕らえたいのよ」
「イチコロ帽子っておよそドラえもんのほのぼの世界観にそぐわない物騒な名前の道具について詳しく」
石ころ帽子だ。
「ああ、そうね、間違えたわ。意志殺帽子ね」
「その悪意を感じる改変はなんだ!?」
「冗談よ」
そうだろう。
そんな冗談を交わしながら、僕らは歩く。
クリスマスムード一色の街並みを。
お互いの体温が、手のひらを伝って、循環していく。巡っていく。外気に晒され、冷え切ってしまっていた彼女の手も、今は温かい。具に僕らは僕らを感じながら、歩く。
積もった雪を踏みしめる音が耳に心地よく、息を吸えば肺まで凍てつかせるその寒さに肩を寄せ合う。氷の女なんて、今は何処にもいなかった。
雪の女王に連れて行かれたって、いつかは解ける氷の心だ。
イルミネーションの人工的な光が彼女の青白い肌を照らし、キラキラと綺麗な光を反射させる。その姿に、僕はあの時感じた青臭い熱を再び実感した。
今は十二月。クリスマスまで、もうすぐだ。
白背景にたゆたうような冬だけど、彼女と過ごすなら、きっといい冬になるだろう。白い息を虚空に散らす彼女を見て、そう思った。
街に雪花がしんしんと降り注ぎ、宝石を散りばめたような煌々とした光を放つイルミネーションが、夜を彩っていく。まだ十二月の中ごろだというのに、街は嫌気を覚えずにはいられないほどにクリスマスムード一色だ。
僕は、そんなクリスマスに辟易しながら、バイトのチラシ配りを粛々とこなしていた。
別段こういったことでパンキッシュな反骨精神を体現している、とかではなくて。ただ僕としては、バイトでもしないとご飯を食べていけないのが現実問題としてあるだけだ。でもきっとそんな僕も、既にカップル成立している人たちから見れば、負け犬の遠吠えになるのだろう。吠えるだけ。所詮勝ち組にはとどかぬ戯言。世知辛い世の中だった。
別に負けてはいないのに。
淡々とカップルに、道行くサラリーマンに、誰彼かまわずにチラシを配っていた時だ。
見覚えのある手だった。
淡く、冷たく、凍ってしまいそうな肌の色だった。そのチラシを受け取った手に、明文化できない何かを感じ取って、半ば衝動に突き動かされたようにその手を掴んだ。当然、いきなり手を掴まれれば、向こうは驚くはずで、なんらかのリアクションがあるはずだったのだが、それらしい反応はなかった。
なかったというよりは、しなかったというべきか。
僕が手を掴んだ人物は、呆れたような表情を浮かべて、その特徴的ないつも眠そうにしている半眼で僕を見据えていた。
彼女を表す象徴とも言える長いツインテールに、青白い、見る者全てを凍てつかせるような肌の色。そして、何よりも、無機質という言葉が相応しいとすら錯覚してしまいそうな、その彼女が持っている独特の雰囲気。
それが、彼女、グラキエス、雪雪――ソソギユキ――だった。
過去のこと――僕が高校生時代のこと――を振り返ろう。
彼女のこと、雪雪のことを説明するなら、氷の女といういかにもな比喩表現で足りてしまうのが、現実だった。なにせ、いつも無表情、そして窓際の席で誰も人を近づけないような雰囲気を出しながら読書をしていた。
在学中、一年におおよそ三人くらい頻度で男子は口説こうと目論み、話しかけていたがそのどれもが例外なく撃沈。実にわかりやすい撃沈。
「邪魔しないで」
その一言だけで声をかける男子の心をもれなく圧し折ってしまうのだから、それはもう氷の女なんて比喩されるのも、なるほど頷けた。
だが、高嶺の花には手を伸ばしたくなるのが男子高校生、さらに広げるなら世の中の男の性なのだろう。撃沈されても、在学中、彼女に声を掛ける男子がいない年はなかった。一年生、二年生、三年生。
いずれの学年の年でも声を掛けられ、そして鉄壁のディフェンスによって悉く男子を返り討ちにしてきた彼女。
そんな彼女が僕と接点を意図せずして作ってしまったのは、ある日の出来事だ。
いくら彼女が読書好きであったとしても、いくら窓際の席を愛していたとしても、移動をしないわけではない。机に齧りついて一時も離れようとしないわけではないので、時折図書室にいたりだとか、廊下を歩く(下半身は若干宙に浮いているので、浮遊と言った方が相応しいのかもしれない。もっとも、本人は気にしないのだろうけれど)姿を見かけるときがあった。
そんなタイミングを狙って声をかける自称策略家の男子もいたのだが、策に溺れる暇も与えられずに廊下で地に伏せて嘆いた。
彼女は移動の際でも本を手放す気はないらしく、本が友達と言わんばかりに本と一緒に移動していた。
放課後、廊下でそんないつも通りの彼女を偶々、帰宅しようとしていた僕が見つけた時だった。きっとそれも偶々だったのだろう。彼女は廊下のちょっとした段差に躓いて転んでしまったのだ。
偶然僕の進行する方向での出来事だったので、無視して通るわけもいかず、僕は親切心で彼女が転ぶと同時にぶちまけた本の幾つかを拾ってあげることにした。
その本が、曲者だった。
「おっと」
本は僕の足元にまで一冊あり、ブックカバーで表紙を隠されたその本を拾う。ここで釈明しておくと、僕は決して彼女が普段持ち歩いている本の中身を見る気などまったく、これっぽっちもなかったということだ。それは本当に偶々、びっしりと書き込まれた文字、小説の文章が見えただけだったのだ。
粘液、白濁、嗚咽、淫靡、快楽、剛直。
そんな文字がいたるところに散りばめられた小説の――官能小説の――文章が偶々見えてしまっただけだった。
どくん、と、心臓が跳ねる。背筋に微弱な電流が走った気がして、自然と背筋が伸びた。
「……」
文字通り、言葉を失い、そして硬直した。
これはひょっとして彼女の持ち物なのだろうか?いやいや、そんな馬鹿な。性欲盛んな男子じゃあるまいし、学校に官能小説を持ってくるなんて彼女がするわけないだろう。たとえ、彼女の濫読ぶりが官能小説のジャンルにまで及んでいたとしても、いくらなんでも持ってきていいものと悪いものくらいの区別はつくはずだ。
きっと、学校でも体中から精液が溢れ出しそうなくらいに性欲をこじらせてしまった男子の落し物だろう。
とはいえ、これを先生に落し物ですと届けるわけにもいかず、やむを得ず僕はその官能小説をバッグに仕舞い込んだ。
そのままにしておいても大変なことになるだろうし、落とし主には悪いけれど回収は諦めてもらうとしよう。川原に落ちているエロ本を自然と小学生や中学生が回収していくように、落し物は(主にエロ関連)誰かが拾ってしまうものなのだから。それが今回は僕だっただけだ。
彼女は幸いにも、僕に気づいた様子もなく、そそくさと本を拾い集めるとやや早い足取りでその場を去ってしまった。
僕のバッグの中には一冊の官能小説。
まあ彼女のものではないのだろうから、罪悪感が生じるわけではない。この学校の誰かわからない男子は嘆いているだろうが、それはもうご愁傷様と言うほかないわけだし。
そんなわけですぐさま帰宅して僕は自分の部屋に入り、鍵をかけたことを確認すると即座にバッグから官能小説を取り出した。
どんな奇麗事を言ってもそこは高校生。とっても健全な男子高校生。
こういうものに興味がないと言えば嘘になる。
親の目を掻い潜ってエロ本やゲームを手に入れることが困難だった僕にとっては天からの贈り物と等しかった。
はやる気持ちを抑えながらページを捲り、いやらしい目次の『渦の扉』というタイトルにまでやけに興奮を覚え、そしてあるものを見つけ、僕は本日二度目になるが、言葉を失い、硬直した。
いや、これはそんなにタイトルが刺激的な内容だったとか、僕の趣向にそぐわなかったとかそういう意味ではなくて。ただ。ただ、官能小説の目次の端っこに、遠慮するようにして、『雪雪』と書かれていたからだ。
「……マジで?」
誰も聞いてはいないけど、そう呟かずにはいられなかった。いや、本にまで名前を書くのは(偏見だけど)几帳面そうな彼女からすれば、らしいと言えばらしいけど。
だけれども、官能小説にまで名前を書くのは……いや、問題はそこじゃない。
天からの贈り物が人様の落し物に変わった落胆よりも、拾ったときに感じた懸念が現実のものだったことへの衝撃の方が大きかった。
しかもそこそこに女子らしい小さな可愛い文字で書かれている。
文字まで氷みたいじゃないんだな、という場違いな感慨は二秒で消し飛び、僕の頭の中は焦燥で埋め尽くされた。
「持って帰っちゃったよ…」
落とし主がわかったからには、返さなくちゃならないだろう。どんなものでも。それが例え官能小説であろうとも。
「どうやって返すんだ?話しかけても邪魔しないで、って追い払われそうだし。そっと机の中に入れればいいのかな。でもそれじゃあ見られたらただの不審者だし、かと言って堂々と渡すのはこっちも向こうも痛手を負うし」
一人部屋でぶつぶつと官能小説を返す方法を呟く、気持ち悪い男子高校生の図になっているであろうことは気にせず、僕はその日、課題や予習のことすらそっちのけでこの本の返却方法を考えた。
僕にとってはそれくらいに、重要なことだった。なるべく傷つけず、傷つかずに事を穏便に済ませる方法。締め切りが迫った作家よろしく、こめかみを押さえながら僕は十二時まで悩みぬき、ベストな方法をようやく思いついたと同時に、急速に意識を遠のかせていった。
そして翌日。
教室移動の必要がある時間、僕はわざと寝たふりをして教室から離れないでいた。やがて、彼女が教室から出て行くところをちらりと確認して、僕はすぐさま行動に移った。
「早く早く早く…!」
悩みに悩んで結局僕が出した決断は、彼女がいない間にこれをこっそりと彼女の元へと返すことだ。だが、その場所は彼女の机でも、鞄でもない。
机に置けば彼女は不審がるだろうし、鞄は論外だ。僕が変質者のレッテルを貼られてしまう。そんな幾つもの懸念、きっと杞憂で済まされるはずの懸念が気になってしまった僕が選んだのは、彼女のロッカーだった。
ロッカーならば、不審がることもなく、彼女もきっと、こんなところに自分は置いていたのか、と勘違いをしてくれるだろう。なるべく上手く、違和感を与えないように彼女のロッカーに官能小説を入れようとした、その時だった。
「何してるの?」
背筋が凍りついた。背後からの声で。たった一言だけで、ここまで悪寒にも近い寒気を覚えさせるのだから、なるほど氷の女と呼ばれることにも頷ける。
「何してるのって、聞いてるの。そこ、私のロッカーなんだけど」
「あ、あの、冷静に話しを」
僕は振り向く勇気も出ずに、背中を向けたまま返事をした。
できれば、僕の背後にいる人物がその人でないことを願う。きっと、いや絶対に無駄な願いだけれど。もうこの学校での学生生活も少ない僕だけども。
「……話せないようなことをしてたの?」
「い、いやそんな」
わけがあった。
「…こっちを向いて」
観念するしかない。最悪だ。話せばわかってくれるだろうか。
少しばかりの淡い希望を抱いて振り返り、その希望がガラスが割れる音を立てて崩れた。怪訝な表情を隠そうともせずに、腕を組んでいる彼女が、雪雪がそこにいた。髪の毛もざわざわと生き物のように蠢き、その機嫌の悪さと不信感を顕著に表している。
「何をしてたの?」
こうなれば、もう覚悟を決めるしかないのだろう。彼女の何か大切なものを壊してしまいそうだったけれど、仕方が無い。追い詰められてしまえば、流石に僕でも自分の身の方が可愛かった。
「あの、落し物を届けようとしたんだ…」
「落し物?」
さらに怪訝そうに眉に皺を寄せる彼女だったが、僕が官能小説を手渡し、それを受け取りページを捲って、彼女は固まった。
それはもう見事に、カチンコチンといったオノマトペがするんじゃないかと思うくらいに固まった。きっと彼女の中では今、何かが壊れ、色んな思いが交錯し、しっちゃかめっちゃかになっている状況なのだろう。僕はそっと心の中で手を合わせた。
張りつめた雰囲気が、固まった雰囲気へ。それだけだけど、その場から逃げ出したい空気の重さは別の意味でその自重を増し、僕はその重力から逃れるようにしてその場を後にしようとした。
「待ちなさい」
が、その一言だけで、僕はその場に縫い付けられたかのように動けなくなった。まるで身体が石になったかのように。いや、これは石になったようにではなくて。
僕の足が凍っていた。
「あなた、これの中、見たの?」
僕の前に回りこみ、答え以外は求めていないという口調で、彼女は問いかけてきた。
いやいや、本当のことなんて言えるはずがない。例え彼女自身がなんとなく結果に察しがついていたとしても、言わなければいいことも世の中にはある。それを心の中にそっとしまっておくのが、マナーというものだろう。
だから、ここで僕が答えることは決まっていた。
「見てないよ」
「……」
訝しがる彼女の視線がまっすぐ僕の瞳に注がれ、思わず顔を逸らしたくなったが、顔は動かなかった。どうやら、動くのは口だけらしい。
「ところであなた、この本のタイトルどう思う?」
「う〜ん、個人的にはあまり凝ったものにしなくても官能小説なんだからもっとストレートなタイトルでもよかった気がす……」
「見たのね」
完全に乗せられた僕だった。
いや、まだだ。考えよう。ここで認めてしまっては、彼女はきっと形容できないような虚無感に襲われることだろう。威厳も尊厳も、守れるのはきっと僕で、その方法はどこまでもシラを切ることだ。少なくとも僕の中での彼女のイメージは、陥落された城のように見る影もなくなっているけれど。それでも僕一人だ。まだ周囲にはきっとバレていないだろうし、僕が黙ってさえいれば彼女は傷つかずに済む。
そんな理由もない責任感が肩にのしかかるのを感じていた時だった。
彼女は俯いて、震えながら、か細い声で、
「――みよ」
「へ?」
「何が望みよ」
「い、いや別に、脅迫しようとかそんなんじゃ」
「嘘よ!どうせ押し倒してやろうとかそんなことを考えてるんでしょう!?」
「そこまで考えてないよ」
「どこまで考えているの」
「日本語って難しい!」
彼女はひょっとして、僕がこの事実を使って関係を迫ろうとか、そういったことを考えているんだろうか。だとしたら誤解だ。僕はそこまで下種じゃない。卑怯者でもない。
「落ち着いてよ。そこまで区別してくれなくていいから」
「分別してやるわ!」
「え!?僕ゴミ!?」
僕の中で、彼女へ勝手に抱いていたイメージは、崩れ去った上に丁寧に粉挽きまでされて粒子状になった気がした。どこか深いところにある奥ゆかしさとか、気高さとか。クールさ、可憐さ。そういったもの全てがひっくるめて綺麗にすり鉢ですられた。少なくとも、彼女の普段拝めることのない慌てぶりと、口から飛び出す言葉は、僕の中でのイメージとはかけ離れたものだった。
「私の身体が目的じゃないならいったい何が目的なのよ」
「とりあえず身体から離れてくれるかな」
「近寄るなと言うの!?」
「そっちじゃない!」
そのイメージの代わりに、なんだか凄く話してみれば面白い人というイメージが定着しかけている。いや、もう定着した。
結局その後、紆余曲折を経てなんとか誤解を解くことに成功した。具体的には僕がひたすら真摯な態度で話しかけ、なんとか彼女に納得してもらうというものだったけれど、それで誤解が解けたのだから、もう何も心配はいらないだろう。
そう、心配はいらない。
彼女に対して、このことは絶対に他言無用と誓いを立て、氷を解いてもらって教室を後にしようとした時に、再び呼び止められたことを除けば。いや、それは除ける。
彼女が、何かを言いあぐねている様子だったので、僕の方から話しかけると、意を決した、覚悟を決めた表情で、友達になってくれないかと言われたことも、除けるだろう。
そう、心配はなけれども、不安は僕の華奢で脆い身体を押し潰そうと目論んでいた。
ぞくりとした寒気が、僕の背筋を這った。
彼女のこと、雪雪のことを説明するなら、氷の女といういかにもな比喩表現で足りてしまうのが、現実だった。そしてその現実は、極々当たり前の形で彼女の喉元へと牙を剥いた。氷の女。つまりは、冷たい女。言い寄ってくる男にも、周囲にも。
彼女曰く、読書中に話しかけてほしくなかっただけで、お喋り自体は年頃の女の子同様、大好きなのだという。それこそ姦しいという表現を一人で表すことができるくらいに。
ただ、彼女の場合その拒否の意志を示す言葉がきつかったせいで、彼女が意図せずして、氷の女というレッテルが貼られてしまっていた。レッテル。人の印象がそう簡単に剥がれ落ちるはずもなく、またそれを打開する術も彼女にはなく、気づけばそんな冷たいキャラクターを演じるしかなかった。というわけだ。
本当の自分を曝け出せず、本音と建前の板ばさみ。
誰だって何かと板ばさみになって、苦しむことはあるだろうけれど、彼女の場合はこれだった。そんな彼女からすれば、僕は偶然やってきた好機だったのだろう。
畢竟するに、本音を、本当の自分を曝け出して話し合える相手。
それが、偶々僕だった。そしてそんな翌日の放課後。下校時刻。本来なら帰宅部に所属している僕はすぐ家路につくはずだったのだが。
どこで道を間違えたのか、もしくは踏み外したのか。
「それじゃあゆっくりしていってね。今お茶を淹れるから」
僕は彼女の家にいた。
もう一度言う。
僕は彼女の家にいた。
事の発端はもう大よそ察しがつくだろう。昨日の彼女の友達になってくれないかという提案を、僕は拒否することができなかった。チキンだのなんだのという批判も甘んじて受け入れよう。けれど、彼女の必死で、懇願するような顔を見てしまった僕に、選択肢は一つしかなかった。腹にざわめいた流れが溜まるのを感じたときには、もう僕は返事をしていた。その時の彼女の喜んだ顔は、とても可愛らしくて、氷なんて溶けてしまいそうなほどに、温かいものだった。
だから、彼女の喜びようからして、学校で声をかけられることくらいは覚悟していた。だが、しかし。彼女にとって友達ができたという事実は、予想外に大きかったらしい。
今日私の家にきて、なんて言われ。
チキンの僕は断ることもできずに、この現状があった。
「おまたせ」
「ありがとう」
何気ない仕草が色っぽい。部屋に充満している甘い香りがたまらない。どんなに紳士ぶっている男子でも、この空間にいれば五分ともたずに理性の鎖が外れてしまうのではないのだろうか。そう思わせる魔力めいた、女の子らしい紛れもない女の子の部屋にいる僕は、素数を数えることくらいしかやることがなかった。
「ねえ」
「ん?」
「結局、あの本読んだの?」
噎せた。
思いっきり噎せた。
「ああっ!だ、大丈夫?」
「だ、大丈夫だから……」
「………こういうシチュエーションだと、股間を拭いてどさくさに紛れて情事に入るのよね」
「距離縮まるの早すぎませんかね!?」
「え、だって友達ってそういうものじゃ」
「友達ってそっちの友達だったの!?」
友達。いや確かに魔物娘は好色とはよく聞くけれど。そんな肉体関係だけなんて話は聞いたことがない。どちらかというと肉体関係を持ったら墓までついていく感じだ。
それよりも、彼女の距離の縮まりように戸惑う。いや、僕の中でずっと抱いていた女の子像というか、想像の中の彼女とのギャップが違うだけなんだろうけど。
ただ、そんなことを指摘して彼女のしょんぼりとした顔を見ても面白くないので、僕は適当に彼女に話しを合わせることにした。
「あの、友達ってもうちょっと距離があるものじゃない?」
僕としては、向こうからふってきた話題だし、遠慮をすることはないだろうと踏んでの質問だったのだが、しかし彼女は何か不満があるのか、可愛らしく頬を膨らませてジト目でこちらを睨んでいた。
…何かまずかったのだろうか?個人的には、おかしな点はなかったと思うけど。僕が思考を巡らせるよりも先に、彼女は口を開いた。
「名前で呼んでくれないの?」
僕の心が粉塵になった。
「あの、は、ハードル高くない?」
「友達って名前で呼び合うものでしょ?」
その通りだった。いや、でも。いくらなんでも急すぎないだろうか。やっとできた友達に飢えているというのは、わからなくもないし、むしろ理解できる感情だ。でも、せめてもうちょっと段階を踏んでから呼び合った方がいいんじゃないだろうか。
苗字で呼び合うとか、そんな感じで。そこから自然な形でいつの間にか、気がつけばお互い名前で呼び合うようになっていたとか、それくらいの方がいい気がする。
「名前が駄目なら、ユキちゃんとかユッキーでもいいから」
「ハードルが天を衝く高さになったんだけど」
「簡単よ。ほら、意味不明を最近はIMFってみんな省略してるみたいなもんだわ」
「IMFは意味不明の略じゃない!」
「納豆をNATOと略すもんだわ」
「食べ物と北大西洋条約機構を同一視!?」
「鳴門とNARUTOを一緒にするのと同じよ」
「違うってばよ!」
「聞くと黙るを同一視するようなものよ」
「意訳すぎませんかね!?」
「あら、これはちゃんと同一視できるわよ。ListenもSilentも構成単語は一緒じゃない」
……本当だった。素直に感心させられる。なんだかんだと言いながら、どうやらその読書での知識量は豊富らしい。日常会話でここまで言葉遊びは、ちょっと僕にはできないだろう。多分、公平な工兵とか意味不明なやつ。その辺りが精一杯だ。
散々ボケ倒した挙句、気持ち良さそうに笑う彼女の笑顔が、やけに眩しく感じた。学校で出している、近寄りがたい神聖さを纏ったような雰囲気よりも、こっちの方がよっぽど魅力的に見えてしまう。
その笑顔の燐光が瞼の裏でやけにちらついて、僕は少しだけ目を細めた。黙って彼女が淹れてくれたお茶を啜る。今度はちゃんと噎せずに飲み込むことができて、ほのかに甘い後味が舌を弄んだ。
いや、甘いのは味じゃなくて、これは。
舌だけでなく、鼻腔にまとわりついているこれは、彼女の、
「やっぱりお喋りって楽しいわね。一緒に話す人がいると大違い」
「まあ、こんな僕でよければ、いつでも話し相手にはなるよ」
「パシり相手にはなってくれないのね」
「格下げにしても急すぎませんかね!?」
「パンがなければおやつを買い漁ってきて」
「マリー・アントワネットが優しく見える!」
二人して、けらけらと笑い合う。
くだらなくて、俗物的で、きっと埃や紙くずと一緒に塗れてしまっているような会話に違いなかった。そんな会話のはずなのに、やけに楽しくって。僕は久々に本気で笑っていた。
お互いの笑い声が共振して、耳に心地よく響く。間近で見る彼女の笑顔は、当分の間、網膜に焼きついて離れそうになかった。
まったく、本当に。
こんな学生生活の終盤で、幸せな気分になるとは、思ってもいなかった。
そんな自分の幸運に、寒気がした。
彼女のこと、雪雪のことを説明するなら、氷の女といういかにもな比喩表現で足りてしまうのが、現実だった。しかしその現実は、どこか柔らかく、包み込まれるようなものへと変貌を遂げようとしていた。
具体的には、人当たりがキツいものではなくなってきていた。少し砕けた言い方と言ってしまうとそれは過分だろうけれど、語気が少し変化を感じられる程度のものにはなってきていた。
まあ、これはさもありなんと思う。
友達を作れなかった彼女が、やっと友達を作ったのだから。友達、つまりは自分と他人との上手い距離感。その距離感を掴むコツを、やっと掴んできたのだろう。その一因が僕にあることは、今のところ誰にも知られていないのは、僕としては有難くもあり、なんだか手のひらから滑り落ちてしまうような虚しさもあり、少々複雑な気分だったのだが。
ただ、僕という友達ができて、彼女の心情の機微に目ざとく気づいた男子は、早速アタックをかけていたのだが、そこは彼女。しっかりと来る男子を撃沈させていた。
未だ氷の女は健在、といったところだろう。
そんな彼女を見て、安心している自分がいるという、有耶無耶になりそうな現実には、目を瞑っておくとして。
「はい、お茶」
「ありがとう」
彼女の家に遊びに行くようになって、早くも一週間は経とうとしていた。彼女の家に行くたびに、新しい発見があった。ワンピース姿が似合うこと。あの官能小説は彼女の両親がプレイのために(どんなプレイかは聞けない、聞いちゃいけない)持っていたものだったこと。バラードよりもロックの方が好みだったということ。意外とゲームが好きだったということ。本当に色々な彼女の一面を見ることができた。
その度に新鮮な感覚が僕の中で芽吹いた。
同時に、燻る。
何が、という主語もわからないまま、その何かに身を浸してしまいたくなってしまう衝動をどうにか抑え込む。
「あなたって、容易いのね」
「え、何が?」
「間違えた、優しいのね」
「…どうして?」
「嘘でもほいほい飲み込んでしまうんだもの」
何が嘘なのか、それは大よその察しはついて、冊子もついていた。わざわざ両親の所有物に、ご丁寧に自分の名前は書かないだろう。ただ、それは踏み込んではいけない。マナーというやつだ。人には言えない趣味の一つや二つくらいあるだろう。
「私の場合、無量大数なんだけど」
「そんなにマニアックな性癖を無尽蔵に所有していたの!?」
「あなたの辞書を書き換えること間違いなしよ」
「勝手に僕の辞書を改竄しないでくれ」
「そう、残念ね。××で△△とか、とっても素敵だと思うのだけど」
「え!?待って、伏字の中身は何!?」
「気になるのだったら今すぐここでストリップショーをすることね」
「野郎のストリップって誰が得するの!?」
「安心しなさい。どうせ表現されるのは文面だから」
「何の話をしてるの!?」
「どうせ表現されたとしても、『その少年は羞恥心に耐えかねた様子だったが、その少女の視線に根気負けし、おずおずと衣服を脱ぎ始めた。いつも日常でする何気ない行為の一つのはずなのに、そこに観客が一人いるというだけで顔面に血液が集まるのを知覚した少年はせめてもの抵抗として、顔を俯くことしかできなかった。静謐が支配する部屋に、衣服が肌と擦れる音が響き、少年の細やかな白磁のような美しい肌が露になり、その肌が赤く染まっていくのを少女は女王のような笑みを浮かべながら眺めていた。少年は尊厳も、威厳も人としてのプライドも踏み躙られる背徳の感覚が背筋を走る快感に、無意識に頬を染めた。』くらいで済むものだから」
「十分だ!僕の羞恥心を跡形もなく粉砕するには十分だ!!!」
「ごちゃごちゃ言わずに男なら脱ぎなさい!」
「嫌だよ!」
「そう……」
「そうだよ」
「なら、私が脱いだら脱いでくれる?」
「………………え?」
思わず彼女の顔を見た。真っ直ぐな目が、病熱を孕んだように潤んで見える。いやいや、冗談だろう。友達をからかっているだけだろう。そのはずだ。
なのに、彼女の息遣いが、腹の底に鉛を流し込むような感覚を覚えさせる。どろりと、泥のような粘度を保ったまま、胃袋を満たそうとするそれが、全身に回る。
やけに身体が熱い。全身が総毛立つような、悪寒にも似た熱が、僕の視界をちかちかと点滅させる。悪寒のはずだ。なのに、どこかその感覚がどうしようもなく心地よく感じるのは、なぜなのか。
「…冗談でしょ?」
情けないことに、それだけの言葉を吐き出すのに、僕は一分も時間をかけてしまった。そんな僕に拍手喝采をおくるわけでもなく、彼女はただ、頬を緩ませて、
「当然よ。私はデレたりしないもの」
「ツンデレキャラには程遠いけどね」
「言ってくれるわね、熱い抱擁でもするわよ?」
「いや、グラキエスなら冷たい抱擁じゃ」
「最近は暖かいのよ」
その日、僕は彼女の家を後にしても、瞼にちらつく白い光に苛まれた。白昼夢を漂ったような、そんな現実味のない現実感が、ただそこにあるだけだった。
ああ、身体が、熱い。いや、寒い。寒くてたまらない。
彼女のこと、雪雪のことを説明するなら、氷の女といういかにもな比喩表現で足りてしまうのが現実だった。だから、彼女ではなく、僕自身のことを少しだけ語ろうと思う。
僕、平々凡々のこれといって特徴も無い男子高校生が、ある日恋をしたと言えば、それはまたありふれたことだった。そして、告白もしないまま、僕の恋の火種は消えてしまい、何事もなかったかのように僕は残された学生生活を、気ままに過ごしていた。
だから、それは本当に偶然だった。
彼女が落した官能小説を見て、心臓が飛び跳ねそうになったのは、当然だった。
だって、そうだろう。
誰にも知られずに終わった恋が、再び燻り始めれば、それは飛び跳ねそうにもなる。そう、僕は、雪雪が、好き『だった』
だった、と言うのはつまりは僕の誰にも知られずに終わった恋のことで。そして、偶然の出来事で、僕は再び雪雪に恋をした。
実に女々しいことで、情けないことだった。でも、そんな僕を友達とした彼女が、終わってしまった恋の時よりもずっと好きになった。
だからだろう。
僕が友達になってからも、次々と男子を轟沈させていく、そんな彼女を見て、安心している自分がいたのは。実にわかりやすい浅ましさで、独占欲だった。
早い話、グラキエスの彼女よりも、よっぽど凍りついていたのは、僕だった。
早い話、グラキエスの彼女よりも、よっぽど人間らしかったのは、僕だった。
友達の距離にまで近づいて、それでいて、「友達ってもうちょっと距離があるんじゃない」なんて。彼女を好きになっても、まだ友達のラインで戸惑う僕は、きっとドラマの悪役よりも性質が悪い。
自家撞着しかけている情動を、どうすればいいか、自分でも決めかねているのだから。
でも、少しだけ、ほんの少しだけだけど。彼女の友達として、拠り所になれればなんて青臭い感覚が、芽生えている。
彼女の家にほぼ毎日遊びに行くようになっていた僕は、そんな自分に薄ら寒さを感じずにはいられなかった。
「だからね、今度はあなたの家に遊びに行かせて欲しいの」
だからって、どうすることもできない、今日くらいを正直に生きることもできない。
できないできない。できない尽くし。
「ねぇ、ちょっと聞いてる?」
「あ、ごめん。なんの話しだっけ?」
「だから、あなたの家に遊びに行ってもいいかって話よ」
「う〜ん、やめた方がいいと思うな」
「どうして?見られちゃいけないものでもあるの?私これでも男の子らしいものがあっても平気よ?」
そりゃそうだろうね、とは口が裂けても言えなかった。男子高校生並みにエロに関心がありそうだ。
「僕の部屋にそんなものはないけどさ」
「男子の部屋にエロ本一つ落ちてないというの!?」
「いや、手に入れる機会がないんだって」
「インターネットという現代の恩恵を何のために使うのよ」
「……エロ本を買うため?」
「出会い系に登録するためよ」
「もっと生々しいことだった!」
「ちなみにサクラの区別は地域の天気やお店ネタよ」
「なるほど……って違う!危うく感心しかけた!」
「そういえばあなたの性癖はあまり知らないのよね…」
「知らなくていい!性癖の教えあいだなんてアブノーマル過ぎる!」
意外と(というかもう当たり前になっているけれど)彼女はこういう会話に躊躇がない。学校ではそんな会話は繰り広げないが、もし学校で氷の女と比喩される彼女がこんな会話をしていたら、どうなるのだろう。男子の目から鱗が飛び出すんじゃないだろうか。
「それにしても、意外だったよ」
「何が?」
「グラキエスって、ほら、冷たいって聞いてたから。態度とか」
体温、とか。
「そう。なら期待に添えなかったかしらね。コミュニケーション能力はお父さんとお母さんの教育の賜物よ」
その能力が本当にあるなら、氷の女なんて言われてないという突っ込みはやめておこう。
「お義父さんとお義母さんの賜物よ」
「なんで言い直したの!?文字を変えたの!?」
「ごちゃごちゃ言わないの。読み方は一緒でしょ」
「同じだけど意味は大違いだ!」
「細かいことを気にしてると疲れるわよ?」
「少なくとも気にしなきゃいけないラインだよこれ」
「大げさね。友達が親友になるかどうかの違いじゃない」
「違う!友達か嫁かの分岐点だ!」
いつも通りにふざけあい、からからと笑う。その時、なぜかまた彼女の笑顔が眩しくて、瞼を閉じたくなった。まただ。またあの白々しい光が、不思議な温かさを伴って、染み入るように苛んでくる。どちらにも属さぬ僕を責めるような……いや違う。どちらを選んでも許してくれるような燐光。寒気がする。
ぬくもりが欲しい。光よりも、もっと温かいぬくもりが。
「嫁でもいいんじゃない?これでも男一人養う甲斐性はあるつもりだけど」
「それ僕の男としての立場はどうなるの?」
「まあ、それは置いておくとして」
「置いていかれた!」
ずぃ、と、彼女が急に距離を詰める。僕は思わず後ずさったが、それもすぐに壁に当たって、それ以上は後ろにいけなかった。
「ねえ」
彼女の顔が近い。ふとした拍子にキスをしてしまいそうなくらいに。彼女のやけに生々しい熱を帯びた吐息が、僕の頬を撫でた。眩暈を孕ませてしまいそうなくらいに、頭がくらくらする。きっとこれが、彼女なりの悪ふざけだと、頭の隅で理解していても、どうしようもなく、心臓は五月蝿い。
自分のものなのか、彼女のものなのかも識別できないほどに近くなった熱が、身体に纏わりつく。
「また冗談――」
「本気よ」
僕の喉から絞り出した声は、しかし彼女の声にかぶせられ、空気に溶けてしまった。寒い。
「友達を越えたら駄目なの?」
訊ねるようでいて、推し量るような思惟を感じる瞳に、僕は動けなくなった。こんな状況に、僕はただ戸惑うだけだった。なぜなら、僕は彼女に恋心を抱けど、彼女はまだ僕を友達としか認識していなかったはずだ。だから、理解できなかった。
彼女がここまで僕に迫ることが。僕自身、心のどこかで願っていたことではあるのに、いざその場面になると、滑稽なほどに納得がいかない。いや、納得がいかないというより、理由が欲しいだけなのかもしれないけれど。
理由があれば、きっと後ろめたさを感じることがないのだから。
何に対するという主語を見つけられないまま、僕はただ腹の底からこみ上げてきた熱を吐き出していた。
「あの、どうして僕」
「理由がないと付き合ったりできないタイプ?」
「そうじゃない、けど」
「好きだから」
「……」
「気づいてたかどうかは知らないけど、私、あなたの精を少しずつ食べてたのよ?」
「…は?」
初めて聞かされる事実に、僕は思わずその場の雰囲気にそぐわない、間の抜けた声をあげた。いや、だって、そんなはずないじゃないか。いくら薄学の僕だって魔物に対するきちんとした理解はある。グラキエスが精を吸収すれば、その吸われた生き物は、寒さに襲われる。その寒さがやがて人肌恋しい感情になり、そして自然とグラキエスと結ばれる、或いは他の魔物と結ばれる。
けど、僕は彼女と出会って、そんな寒さなんて――
感じて、いた?
彼女と話す最中に感じた悪寒、自分の幸運に寒気を感じた時、彼女の家を後にした後も続いた寒気。僕は全部、あれは自分が勝手に感情に揺さぶられて感じていたものだと思っていた。でも、そうじゃないなら。
あの寒気が全部彼女の手によるものなら。
「理由はできた?」
「……できた、気がするけど、でも」
「でも?」
「その、えっと」
明文化できない何かを口に出そうとしても、言葉が喉元で引っかかって出てこない。普段はあれだけ軽口を叩けたというのに、肝心な時には言葉一つ吐き出すのにも、酷く時間がかかる。
僕はいったい、何を言おうとしているのだろう。転覆してしまいそうな情操が、ゆらりと揺らめく炎になるのを、幻視した気がした。
ふと、僕の手に彼女の手が重ねられる。『あたたかい』彼女の手が、どうしよもなく柔らかい女の子の手が、僕の手の甲を撫でた。
「あなたがどう思ってるかは、わからないけど、あなたが優しいっていうことはよくわかるわ。ここまで迫られてそれでも、友達でいようとしてくれるんでしょう?」
「そう、なのかな」
弱弱しい僕の声が、自分の耳朶を打った。堂々巡りの自問自答に、一つ、ふわりと浮かんだ暖かな声、答えが、僕の身体に火を灯らせる。
つま先から頭の頂点までむず痒さと嬉しさに浸されたような感覚に、泣きたくなった。彼女がここまで熱を持っているなら、それで、いいのかもしれない。
結論を出してもいいのかもしれない。
「そうよ。でもね、優しいのはいいけど、私はもう、待てないわ」
押しに弱い僕だった。唇に、柔らかいものが押し当てられる。それが彼女の唇と気づいた時には、舌が僕の唇の間を縫って、口内に侵入していた。甘い唾液が口の中いっぱいに広がり、思考をする余裕を奪っていく。それは味として感じる甘さではなくて、もっと感覚そのものにうったえかけてくるような甘さだった。
舌と舌が触れ合い、どちらからともなくお互いに感触を貪る。溶けて一体化してしまうのではと錯覚しそうなほどにそれが気持ちよくて、自然と手が彼女の背中に回った。
自然と彼女の胸が僕に押し当てられ、マシュマロのような乳房が服の上からでもしっかりとその存在を知らしめる。思わず若い衝動に身を任せたくなったが、辛うじて持ちこたえ、今はまだしっかりとキスを楽しんだ。
綺麗に整った彼女の歯茎は、舌で弄んでもとても感触がいい。舌先を優しく包んでいくような頬も、何もかも、愛しい。
「ん、ちゅ、ぴちゃ、ちゅ、んんんっ」
お互いの息遣いと、唾液が交わる水音だけが、空間を満たしていく。淫毒のようなそれは、何もかも有耶無耶にしそうな危うさを確かに持っていた。
一旦、どちらからともなく口を離すと、唾液のアーチが銀色の光を放ちながら床に垂れた。
そんなことを気にすることなく、彼女は当たり前のことをするような手つきで僕のズボンをずらした。
既に痛いほどに勃起していた僕のペニスが勢いよく飛び出て、彼女の手にぶつかる。ぺちんと乾いた音を響かせたそれは、すぐに彼女の手に捕らえられた。まじまじと僕の愚息を見つめて、口の端を少しだけ吊り上げる彼女の笑みは、ぞっとするくらいに淫蕩だった。
彼女の手がゆっくりと僕のペニスを扱き始め、緩慢な快楽がぞくぞくと腹部から駆け上ってくる。それもつかの間、彼女が躊躇うことなくそれを口に含んだことで、僕は思わず仰け反った。
彼女の舌が亀頭を優しく舐めしゃぶり、ぞわぞわとした快感がとめどなく溢れてくる。いや、それよりも、氷の女と呼ばれていた彼女が今こうして僕のペニスを咥えている現実が、どうしようもなく僕を昂ぶらせた。
ちろ、と敏感な裏筋を舐められて、電流が身体に走り腰が引ける。だが彼女はそれを許さず、がっちりと両腕で僕の腰を固定すると、そのまま顔を深く僕の股間へと埋めていった。彼女の弾力と柔らかさを兼ね備えた唇が、ペニスの輪郭をなぞるようにして降下し、そして再び上がっていく。舌もその動きに連動して、太い幹を這うような動きでひたすらに僕を追い詰める。
じゅるじゅると淫らそのものの水音が大切な中枢を壊していく。上下運動をひたすらに繰り返すだけなのに、絶え間なく注がれる快感に、次第に睾丸に欲求が充填されていくのがわかった。
「ん、ぷはっ」
やがて、息苦しくなったのか一旦ペニスを解放した彼女は、それでも休むことなく今度は亀頭の先だけを咥え込んだ。そのせいで、さっきよりも倒錯的な光景が僕の網膜に焼き付けられる。そして彼女の舌はカリを重点的に責めてきた。舐められるたびに、鋭い刺激が亀頭に広がって、そしてペニスがびくびくと意識とは関係なく震える。
自分が優位に立っていることに喜悦の笑みを浮かべながら、彼女はさらに奉仕に熱を入れてきた。こちらを見つめながら、見せ付けるように僕のペニスに愛撫を繰り返す。視線を合わせるだけで、背徳感が僕の脳髄を攪拌させる。
じりりと何かが焼き切れる音を聞きながら、僕の快感はとうとう頂点に達した。
勢いよく尿道から精液が迸り、彼女の口の中に放たれる。脈動を何度も繰り返し、その度に許容量を超えた器にさらに快楽を注ぎ込まれる。彼女の口の端から受け止められなかった精液が垂れ、それでも彼女は口を決して離そうとはしなかった。
やがて、自分でも信じられないほどに長い射精が終わり、ずるりと彼女の口からペニスを引き抜く。引き抜き際に、ちゅぱ、と音がして、行為の激しさを物語る。彼女の唾液と自身の精液で汚れたモノは想像していたものよりもずっと卑猥で、淫らさの象徴のように未だ屹立したままだった。
「すごい量ね、飲むの大変」
「ご、ごめん」
「いいわよ。それくらいよかったってことでしょ?」
「そ、そうだけど」
「それに、あなたの精の味、好きだし」
淫靡な熱が篭もった目が、僕のペニスに注がれる。その期待に応えるかのように、びくんと脈打つ。てらてらと光を乱反射して不規則に粘りつく光を放つペニスが、一際大きくなっていたように感じた。
早く、彼女を犯したい。彼女と一つになって、どろどろに混ざり合いたい。
そんな原始的な欲求を隠そうともせずに、獲物を味わおうと舌なめずりをするように細かく脈動を繰り返す僕のモノを見て、彼女はふと微笑んだ。
それは、ぞっとするくらいに綺麗に整っていた。
「ね、今度はこっちの口にも頂戴」
そう言って衣服を脱ぎ捨て、一糸纏わぬ姿になった彼女の誘惑を断ることなど、できるはずもなかった。したくもなかった。
「ん、しょ」
床に犬のように四つん這いになりながら、彼女はおねだりをするようにその豊かな尻をくねらせた。学校では想像もできない光景が、いやでも愛欲を滾らせる。彼女の秘所はすでに濡れそぼって、自分を満たしてくれるものを今か今かと待ちわびているように見えた。
くぱ、とそんな擬音がしそうなほどに彼女の手によって開かれた秘所は、淡い桃色に染まって蠢いていた。
それを見た刹那、僕を僕たらしめていた最後の何かが決壊し、僕は彼女に後ろから覆いかぶさった。
彼女の手がそっとペニスに添えられ、挿れるべき場所へと僕は当てがわれる。そこまでくれば、あとはもう腰を前に押し出すだけだった。
「ッツ」
「う、わっ」
潤滑液の助けもあって、亀頭まですっぽりと僕は彼女の中に侵入を果たし、初めて味わうその快楽に酔いしれた。
理屈もなにもない。ただひたすらに気持ちいい。これ以上ないほど単純明快な感覚が僕を襲った。彼女の中に入っているのは、まだ亀頭だけなのに。その亀頭を肉の襞がカリまでをすっぽりと包み込み、吸い付くように密着する。動かしてもいないのに、すでにそれだけで果ててしまいそうだった。
全部彼女の膣に入れば、どうなってしまうのだろう。
まるで味わったことのない未知の快感に対する恐怖と、好奇心が僕の中で堂々巡りを続け、そのまま惰性で僕は腰を突き入れた。
ぱん、と彼女のお尻と僕の腰がぶつかる音がして、根元までしっかりと彼女の膣に挿入する。肉棒全体に肉襞がまとわりつき、自ら蠢いて下半身に原始的な快楽を与えてくる。彼女の切羽詰った息遣いが聞こえ、僕は夢中で腰を動かした。
でたらめな律動でも、彼女の膣は腰の動きに合わせて吸い付くようにペニスに吸着し、奥へと突き入れるときには滑らかに、しかし確実にカリや尿道を襞で刺激しながら子宮へと誘う。
それが出し入れの度に僕に襲い掛かり、本能すら削る音がした。
僕のがむしゃらな腰の動きにも、彼女はしっかりと腰を突き上げて中のペニスを搾りあげ、その甘美な収縮に口から女みたいな情けない声が洩れ出そうだった。
こつん、こつん、と子宮口に何度も亀頭をぶつけながら、蠕動を繰り返す彼女の膣内をひたすら往復する度に、腰の底から少しずつ甘美な充足がせり上がってくる。
彼女の喘ぎ声と腰の律動のペースが次第に速度を増し、さらに迫る快感に頭を壊されながら、僕はより大きいストロークで彼女の膣を小突いた。
衝撃で彼女のお尻が揺れ、途方もない気持ちよさだけが僕と彼女を埋め尽くす。普段は見せない彼女の顔が、もっと見たい。悦楽を極めた時の、彼女の顔が見たい。
快楽でとうの昔に塗り潰されていた頭の隅で、ふとそんな考えが過ぎり、僕は彼女が壊れてしまうのではないかという速度で彼女を蹂躙した。
その乱暴さに、僕自身も彼女もついていけるはずがなく、すぐにそれはせぐり上がった。
彼女の子宮口を小突くとほぼ同時に、尿道から精液が迸り、心地良い脈動が全身に広がっていく。お互いの口から漏れ出す吐息がやけに艶やかで、どちらからともなく部屋の床に倒れこんだ。
ぜぇ、ぜぇと肩でする息が、不思議と嫌いになれない。すぐ傍には愛しさを覚える唇があって、そこから濃厚な口付けを交わすのは、とても自然な流れに思えてしまった。
そうするうちに、僕の中で官能がまた首をもたげ、愚息を痛いくらいに勃起させていく。
それを目にしても、彼女は嫌がる表情を全く見せず、僕の欲求を受け入れた。
ベッドでどちらもぐったりと寝そべって、荒い呼吸を整える。あれから何度絶頂したのかわからない。ただ、窓から見える空を見るかぎり、かなりの時間が経っていたことだけはわかった。
「ねぇ」
ふと、彼女が話しかけてくる。
「……なに?」
「友達になってくれて、ありがと」
「今さらだよ」
「今さらでも」
「僕、男としての甲斐性ないし、だらしないよ?」
「そう。そんなこと友達になった時にわかったわ」
「それじゃあなんで…?」
「お話、楽しかったから」
「は、話?僕との?」
「ぽかぽかしたのよ」
韜晦ではない、彼女の本音の言葉に思えた。
「こんな私でも、あったまれたの」
あなたの精とお話でね、と彼女は言った。僕の胸に、砂糖が溢れる。甘くて蕩けてしまいそうで、脆くて危うくて。
自分の身体から何かが抜け落ちていく感覚がして、言葉に出来ない不安に僕は彼女の手を握った。
人間と変わらない、温かい手だった。彼女も僕の手をぎゅっと握り返す。目を瞑れば、循環する血液を感じる。生々しい生の、生きている音がする。
「こんな僕でも、あったまれたよ」
彼女に聞こえないように呟いた自身の声は、荒い息に揉み消されてしまった。それでいい。僕はまだ、素直になれないけれど。
でも、この青臭くてどうしようもなく熱を孕んだ感覚は確かに僕の心臓を掴んでいた。
そんな僕と雪雪との高校生活は過ぎていき――
クリスマスには、何かしらの魔力が込められているのだと僕は思う。不特定多数の人たちが楽しみにして、不特定多数の人たちが早く過ぎ去れと願うクリスマス。
街に雪花がしんしんと降り注ぎ、宝石を散りばめたような煌々とした光を放つイルミネーションが、夜を彩っていく。まだ十二月の頭だというのに、街は嫌気を覚えずにはいられないほどにクリスマスムード一色だ。
僕は、そんなクリスマスに辟易しながら、彼女と手を繋いでそんな街を歩いていた。
呼び出した本人が、チラシ配りのバイトを終えてなかったのだから、僕に非があるのは間違いないだろう。
「まったく、呼び出しておいてバイトが終わってないなんて」
「一応いいわけをさせてもらえば、バイトが終わる算段で呼んだんだよ」
頬を膨らませる彼女は、可愛い。
「まったく。あなたなんて愛犬に噛まれればいいんだわ」
「あれ、犬、飼ったの?」
「ええ、名前はコロよ」
「コロかあ。やっぱり可愛い?」
「勿論。ちなみに名前を漢字で書くと『殺』よ」
「全然可愛くねえ!!!!」
むしろさっきの、噛まれればいいのくだりに恐怖を感じてしまう。
「クリスマスにはサンタさん来るかしら?」
「未だにサンタさんを信じてたの?」
「ドラえもんに出てくるイチコロ帽子で気配を消して、プレゼントを配りにやってきたところを捕らえたいのよ」
「イチコロ帽子っておよそドラえもんのほのぼの世界観にそぐわない物騒な名前の道具について詳しく」
石ころ帽子だ。
「ああ、そうね、間違えたわ。意志殺帽子ね」
「その悪意を感じる改変はなんだ!?」
「冗談よ」
そうだろう。
そんな冗談を交わしながら、僕らは歩く。
クリスマスムード一色の街並みを。
お互いの体温が、手のひらを伝って、循環していく。巡っていく。外気に晒され、冷え切ってしまっていた彼女の手も、今は温かい。具に僕らは僕らを感じながら、歩く。
積もった雪を踏みしめる音が耳に心地よく、息を吸えば肺まで凍てつかせるその寒さに肩を寄せ合う。氷の女なんて、今は何処にもいなかった。
雪の女王に連れて行かれたって、いつかは解ける氷の心だ。
イルミネーションの人工的な光が彼女の青白い肌を照らし、キラキラと綺麗な光を反射させる。その姿に、僕はあの時感じた青臭い熱を再び実感した。
今は十二月。クリスマスまで、もうすぐだ。
白背景にたゆたうような冬だけど、彼女と過ごすなら、きっといい冬になるだろう。白い息を虚空に散らす彼女を見て、そう思った。
15/11/11 22:06更新 / 綴