郭花形の追憶
ちょいと、昔の話をしようか。なんというか、そんな気分なのさ。そう、月がやけに綺麗だし、酒も美味いしねえ。こういう夜にはちょっとくらいらしくないことをしても、別に仏様から罰を与えられることもないだろうさ。
さて、どこから話したもんかねえ。
そうだね。まずは私のいたところから語ろうか。
アタシは、元々ある遊郭の太夫だったんだよ。え?そんな風には到底見えないって?そりゃそうさ、もう退いたからね。そこの遊郭は、変わり者の遊女が多ければ、来る殿方も変わり者が多くてねえ。
直向に殿方を探すゆきおんなと、直向に一人を見つめた詩人。遊女を抱かないくせによく遊びに来る義賊に、その義賊を捕らえたドラゴン。男を惑わすサンダーバードに、それすら唆して誑かした詐欺師。人に嫌われるのが嫌で村を去ったウシオニと、そのウシオニを庇って村八分にされた青年。
どうだい、変わり者の集まりだろう?まあ、一番の変わり者はそんな遊郭を営んでいた主だったのかもしれないけどね。
まあ、他にも色んな輩が自然と集まって、そりゃあ夜になれば騒ぎには事欠かない遊郭だったもんさ。
そんな奴らがお互いくっついて、遊女の身分から、遊郭から身を退いた後もアタシはその遊郭にいたんだよ。
なぜって、そりゃあアタシの身分は太夫だからね。
太夫はその遊郭の花と言っていい。他の子ならまだしも、アタシがそう簡単に遊郭を離れるわけにはいかなかったのさ。遊郭の主人はそう考えてはいなかったみたいだけどね。
なに?それじゃあ見知らぬ殿方にほいほい抱かれたのかって?
…….あんた、アタシに一度会うだけでどれくらいの大金が吹っ飛ぶのか知らないのかい?ああ、そりゃ知らないって顔だね。途方もない大金だよ。太夫っていうのはそういうものなのさ。
それでもアタシに会う殿方は後を絶たなかったけどね。いや、これは自画自賛ってわけじゃないよ。アタシが龍だったことが原因だろうねえ。
あんた、龍がどんな種族か知ってるかい?いや、まだわからないだろうねえ。雨を降らせるってくらいかい?知ってることと言えば。でも、それがとっても大切なことだったんだよ。
雨は純粋に農作物を育てるのに必要なものだからねえ。その恩恵は計り知れないものさ。そしてその恩恵に肖ろうとする殿方がいるのも至極当然。アタシを射止めようとする人が、どれだけの大金を持ってきたのか、数えていたらキリがない。
でもね、アタシは決して床を共にしようとは思わなかったんだよ。なぜって?
生娘みたいなことを言うつもりはないけど、アタシそのものを見てくれる人に会いたかったんだよ。龍としての部分だけじゃなくて、アタシそのもの。
だから、あの人に出会った時に、決めたんだよ。ずっとこの人となら一緒にいる、ってね。いや、それはちょっと違うかな。
これは花魁がするには、あまりに普通すぎる恋だよ。出会ってその人を知って好きになって。なんてことはない、普通の恋だ。
だから、これからするのは、そんな話さ。
花魁道中。
それはきっと端から見れば、華やかで、花魁という姿の在り様を照らし出すものなのだろう。けれど、アタシはそうは思わなかった。この煌びやかな行進の裏に、何があるのか。それを知っていれば、尚更そう思えない。
結局は誰もがアタシを欲しくて大金を叩いて気を引こうとするだけのもの。言ってしまえばそれだけのものだった。
アタシ自身を見つめてはくれない。それだけのことが、心に大きな洞を作り、決して満たされないような空白でアタシを満たす。
「はぁ…」
誰にも聞こえないように吐いた溜息は、アタシの耳にすらとどく前に、雑踏に混じって消えてしまった。
だが、その溜息の代わりなのだろうか。
「――から!―――で」
「――え。――か」
やけに道中が騒がしかった。
「なんだい?喧嘩でも始まったのかい?……勘弁してほしいねえ」
見ると、恰幅のいい、いかにも金持ちといった男と、若い青年がお互い必死になって口論をしている。それもアタシが出向くはずの曖昧宿の近くだった。
この騒がしい中、殿方を見極めなくちゃならないのかねえ。気が滅入るったらありゃしない。
「あの、殿方、まだ着てないみたいです」
「遅刻かい?……女を待たせるなんていい度胸じゃないか」
「いえ、そうじゃなくて…….」
列にいた童女がおそるおそるといった様子で、口論をしている恰幅のいい方の男を指差した。
「今回の相手の殿方、あの方なんです」
面倒ごとを起こすとは、もう出入り禁止でいいんじゃないだろうかねえ。と、そう思うところだけど、これでも名指されたからには、きちんと果たすべき仕事がある。とは言っても、この口論に口出しするのは領分ではないし、さてどうしたもんだろう。
そう思いながらも、少しその口論の内容が気になり、アタシは耳を傾けた。
「てめぇ何度言ったらわかるんだ!あの龍は俺のもんだつってんだろ!」
「わかりませんよ!僕にわかるのは、勝手な都合で女性を自分の物にすることがいけないって常識だけです!」
「いいかこの青二才。常識なんてのはな、所詮金で変わっちまうもんなんだよ。金の切れ目が縁の切れ目だ」
「だからって、自分の都合だけで自由を奪おうとするなんて間違ってるでしょう!」
「そんなことを言えるのは現実を知らねえからだ。お前もあの龍を見てみろ、嫌でも使いたくなっちまうぜ。花魁は抱かれるのも仕事だろうが」
「いくら自分の願望を叶えたくたって、道理を引っ込めて無理矢理通すなんて、認められませんよ!」
なんだいなんだい。随分雲行きの怪しい話じゃないか。まあ、聞いてるとなんとなく話は飲み込めたけども。青年の言いたいことはわかるけど、それはあくまで口出しするようなものでもないだろうに。真面目な性分なのか、こういうことを見過ごせないのか。
あくまで主導権はこっちにあるから、余計な心配だってのにねえ。
すると、納得いかないように視線を下げ、また何かを言いたくなったのか再び顔を上げた青年と、ふと目があった。
そして、そのまま青年は硬直する。
見惚れているような、そんな若い視線だった。
結局その後、アタシが強引に殿方を引っ張って招きいれ、一度目の相手をした後にも関わらず、まだその青年は同じ場所に突っ立っていた。
まさかとは思うけど、ずっと待ってたなんて言わないだろうね。
その青年は何かを言いたそうにしていたけど、上手く言葉が浮かんでこなかったのか、口をきゅっと横一文字に引き締めるだけだった。
ここまで真っ直ぐな奴も珍しくて、ほんの少し、からかいたくなる。
「あんたなら、アタシを買ってくれるのかい?」
「………..え?」
「アタシは太夫だ。山を拵えれるほどのお金が必要だ。それでもアタシを求めるってのかい?」
その青年は何も答えなかった。或いは、何も答えることができなかったのか。
まあ、そんなもんだろう。大した期待もしてはいないさ。アタシはくるりと踵を返し、その場を後にしようとした。
時だった。
「あの……..どうして貴女は遊女なんて」
その言葉に、ぴたりと歩みを止める。
どうして。
その言葉がやけに呪縛めいたものに聞こえた。
どうしてなんて聞かれたら、それは自分の理想の夫を探すためなんだろうさ。
ゆきおんなだって、サンダーバードだって、ウシオニだって。みんなみんな、自分を愛してくれる、そのぬくもりを与えてくれる殿方に会いたくて遊女をしているんだろう。過去の柵に捕らわれることなく、ただ自分を見つめてくれる殿方。
男からすれば、それがどう見えるのかはアタシにはわからない。都合よく抱ける女と見る者もいるだろうし、その格子を挟んで見る姿に哀れみを感じる者もいるかもしれない。
そんな幾つものかもしれないの中から、ただ一つ、たった一人の男性、殿方を見つけるために。
それは、言ってしまえば奇跡に近いのかもしれない。
ただ、どうせそんなことをこの青年に言っても、理解の範疇を超えているであろうことは、想像に難くないので、アタシは、
「奇跡が欲しいからに決まってるじゃないか」
そう言って、からかうようにからからと笑った。
太夫が頻繁に殿方と会うかと言われれば、決してそうじゃない。何せ、会うだけで途轍もない、大判小判が舞うかのような金が消えていく。
だから、大抵アタシは暇だった。
そのはずだった。
「お願いします、遊郭のことを、あなたのことを教えてください」
「アタシもそれなりに色んな人を見てきたけど、格子の外から馬鹿正直に頭を下げる殿方は初めて見たよ」
「ありがとうございます!」
「褒めてないからね?貶してもないけどさ」
「僕は無学です。だから、まずはあなたのことから学ぼうと思いました」
「志望理由みたいな宣言はいいからとりあえず頭上げてくれないかい?こんなことで注目を浴びたんじゃ、堪ったもんじゃないよ」
えへへ、と照れたように頭を掻く青年。いやだから褒めちゃいないって。
「あんた、アタシのことを知って、どうしようってんだい?この身体が欲しいって?」
「そうじゃありません。ただ、あなたのことがわからないんです。ただ、僕はそれを知りたいだけです」
「わからない?このアタシを?」
いきなり何を言い出すんだい。
わからないなんて、そんなの当たり前じゃないか。他人なんだから。
「いえ、そうじゃありません。僕がわからないのは、どうしてあなたみたいな人が花魁をしているのかということです。だって、龍なんでしょう?おかしいじゃないですか。男性が自ら夫になりたいと望むほどの美貌に性格で、男性に困ることはないとされている龍が、花魁をしているなんて」
「おや、高望みをしちゃ駄目だって言うのかい?アタシにだって、相手を選びたいと思う心があっちゃ、いけないのかい?」
「…….なるほど、理想の殿方像にぴたりと当て嵌まる御仁がいいわけですね。つまり、僕だと?」
「帰れ」
「酷い」
その青年は、実に当たり前のことを口にするように、そう言った。そして、その日からだ。青年が毎日アタシの元を訪れるようになったのは。
それは、御伽草子のようなものだ。
とある山奥に、村があった。その村は天候に恵まれ、毎年農作物がたくさんとれ、日頃の感謝を忘れないようにと竜神に農作物の一部を献上する風習があった。
その竜神が、アタシだ。
雨を降らせるには、雨乞いの儀式を必要としていたのだけれど、その土地はどうやら雨乞いをせずとも、ほど良い天候の地域だったらしく、実際にアタシが雨乞いをしたことなんて一度もなかった。それでも、村の人たちはアタシに作物を持ってきてくれていた。
アタシは断っていたけれど、それでも頑なにお礼を言ってくれる人を目の前にして、その捧げ物を無下にはできなかった。
そんな日々が幾星霜。
その年、雨は一度も降らず、日照りが続き、作物は壊滅していた。
アタシの元にやってきた村人たちは、みな殺気を宿した目をしていた。ガラスを嵌めこんだような、無機質で冷たい、けれど感情が奥底から滲み出ている目。
毎年農作物を献上していたのに、こんな目にあわせるとは、なんて奴だ。
そう誰かが言った。
そこから先は、覚えていない。気づけばアタシは――
目が覚める。
嫌な目覚めだった。
過去を捏造されたような夢を見たんだから、そりゃいい目覚めのはずがないけれど。苦い過去?馬鹿馬鹿しいねえ。アタシの昔はそんなんじゃない。もっといいものだった。
「あ、おはようございます」
「ああおはよう。悪いけど水頼めるかい?どうも喉が渇いて……って」
「どうされましたか?」
「一応聞きたいんだけど、ここってどこだい?」
「貴女の部屋だと店主さんから伺ってます」
「へえ。で、なんであんたがいるんだい?」
「あ、それは眠ってしまった貴女を運ぶのが大変だから手伝ってくれと店主さんに頼まれまして」
「なるほど。そこまでは納得いったよ。で、どうしてあんた」
「?」
「アタシの胸を触ってんだい?」
「…………….貴女のことを知りたくてぶへぇッ!?」
格子を突き破って、ジパングの夜空に青年が舞った。
かまうもんかい。自業自得さね。
「また来ました!」
「あのねえ、いつになったら諦めるんだい?」
ジパングの昼下がり、格子の外からまたあの青年が話しかけてきた。それにしても、熱心なことだよ。まあ、そこらの殿方よりは骨があるんじゃないかと思ってしまう。或いは、単なるうつけ者、とかね。
それにしても、ここまで熱心に通いつめられると、興味が湧いてくる。これほどにアタシに執着する理由は何なのか。
大抵、見栄を張って大枚叩いて通う殿方も、脈がないとわかればすぐに諦めるってのに。まあ、この青年の場合、まだ一度もちゃんとお金を払ってアタシに会ったことはないからってのもあるかもしれないけれど、それでも。
ここまで諦めないってのも、珍しいじゃないか。口説き落とすのが男の甲斐性と思っているのか、それとも。
「ここまで難攻不落の城を、どうして落としたがるんだい?」
「別に落とすつもりはありませんよ?」
「は?」
思わずアタシは素っ頓狂な声をあげてしまう。
いや、そりゃいくらなんでもおかしい。最初の頃に言い争いをしていた真面目な態度が一変、不真面目なものになっている時点で十分におかしいけど、それにしたってだ。
口説くつもりがないのなら、どうしてアタシにここまで付き纏うのか、それがわからない。
そもそもこの遊郭は魔物娘のためにいくらか決まり事を変えていると言っても、大まかなものは変わらない。男性が、一人の女性を自分のものにしたくて通いつめる場所。そして、あくまで主導権は女性にあり、だからこそ閨を共にすることに特別な意義が生まれる場所。
そんな特別を求めて、人はここに集う。口説くため、愛するため。
なのに、この青年はそんなことをするつもりはないと言う。いったい、なぜなのか。
「だって、貴女は高嶺の花じゃないですか。見ることはできても、触れることは出来ない花。なら、見てるだけでも十分僕は幸せです」
「ッツ」
「あれ?なんだか変なこと言いました?」
「……..知らないね」
何を、言っている?
見てるだけで幸せなんて。アタシに会った人は、皆、それだけでは飽き足らず、身体を求めようとしたのに。
見ているだけで、満たされると?
ありえない。だって、今まで会ってきた人は皆同じだったのに。この青年だけ違うなんて、そんな都合のいいことが、あるはずないじゃないか。
そう、あるはずがない。
あるはずが。
「あんたのことは嫌いだよ。だから、そろそろ諦めてもいいんじゃないのかい?」
「だから、諦めるとかって話じゃないんですって」
聞こえないように言ったつもりだったけど、どうやらこの青年は耳ざといらしい。
心の中に靄をかけられた気分になった。
「どうもお待たせしました」
「待ってないから回れ右して帰んな」
「そろそろ少しくらい優しい言葉をかけてくれたって……….」
夕焼けが空を茜色に染める頃、あの青年は満面の笑みを浮かべてやってきた。アタシの言葉で若干笑顔を引きつらせるも、まだその明るい笑みを崩そうとはしないあたり、何かしら拘りがあるのかもしれない。
「あのねえ、格子の向こうから遊女が、ましてや太夫が口説けたら苦労しないんだよ」
「そりゃそうですけど…..」
「それに、最初の頃に自分が言ってたんだろう?道理がどうとか、無理を通しては云々とか。あのご高説はどこへ消えたんだい」
「鬼に食われたかの如く雲散霧消しました」
「今すぐ粒子ごと広ってきな」
「……..龍だけに?」
「用心棒呼んだっていいんだよ」
「すいません冗談です」
頭と地面がぶつかりそうになるくらいの勢いで青年は頭を下げた。まあ、そこまでされたら許すしかないねえ。それとも、わかっててやってるのかね。それなら、中々にしたたかだけど。
まあ、それは有り得ないような気がする。
どちらかというと、自分の感情に素直になるが故に、行動が矛盾していくようなタイプだろう。裏表がない。行動が青年の全てだ。それが、羨ましい。
……羨ましい?羨ましい部分なんて一つもないじゃないか。
「しかし、見てるだけで満たされるんなら、話さなくてもいいんじゃないのかい?今のあんたは要するに、届かない花に向かって一人語りかけてるようなもんじゃないか。端から見れば、ちょっと憐憫の情を抱かずにはいられない光景になるよ」
「それは花が返事をしてくれなかった場合ですよ。今だってちゃんと返事をしてくれてるじゃないですか」
そうだ。アタシはいちいちこの青年の相手をしている。なぜ?自分に聞いてみてもわからない。滾る情熱のような感情を青年に対して抱いているわけでもない。迸る熱が眉間に集まって、愛しくてたまらなくなるわけでもない。
そんな熱暴走のような感覚は、自分の中にはどこにもないのに。アタシはなぜ相手をしているんだろう。
自分でも不明瞭な答えが、自分の中で見つかるはずもなかった。
なぜか、この青年なら答えを知っているような気がしたけど、きっとそれは気のせいだ。
「それじゃあ、返事もそろそろ止めちまおうかね。そうすれば寂しそうな姿が拝めるわけだしね」
「勘弁してください。一人孤独になっちゃうじゃないですか」
「似合ってると思うけどね?」
「酷いなあ…..」
がっくりと項垂れ、青年の髪が少し、揺れる。
遠くで烏の鳴き声が聞こえた。
「また来なよ。話すくらいならタダさ」
耳ざとい青年は、今度はアタシの言葉を聞き逃したようだった。
気づけば、夢の世界へ誘う淡い行灯の光が、暗くなりかけた外に温かさを注いでいた。
「う〜ん」
「どうしたんだい?珍しく困り果てた顔じゃないか」
夜の帳も深くなった頃。
いつもと同じ、格子を挟んでの会話。けれど、この日の青年は少し様子がおかしかった。珍しく真剣に悩んでいるようで、何度も難しい声を出しては首を捻り、そして納得のいかないといった表所を浮かべる。
「いえ、困ってるわけではないんです。ただ………」
「ただ?」
「そろそろ、僕がただの迷惑な殿方になってないかと思いまして」
「今さらだね」
何を悩んでるのかと思えば、そんなことだったとは。そりゃあ、遊郭からすれば遊女を抱くわけでもなく、ただ格子を挟んで毎回話しをするだけってのは、迷惑なものだろうけど。それも、もう今さらの話。
どうこう言って、解決することでもないだろう。第一、この青年はアタシを指名するつもりだろうけど、そんな大金があれば苦労はしないだろうしねえ。
あれ、アタシを指名するって、どうしてそんなことがわかるんだろう。この青年はアタシを口説くつもりはないって言ってたじゃないか。見るだけで十分、それだけだと。なのに、アタシはどうして?
「そりゃあ今さらなのは僕だってわかってます。でも、今さらだからこそ後ろめたい気持ちもあって」
「なら、適当に指名すりゃいいじゃないか」
「僕にそんな金ありませんよ」
「それじゃあ特別にタダでいいよ。アタシが店主に後で話をつけておく。これならどうだい?」
「ええ!?それっていいんですか?」
いいわけがない。
「客にさえなっちまえば後ろめたさもないだろう?」
「う〜ん、そういうものですかね?」
「そういうもんさ」
青年は暫くの間、考え込んでいたが、やがて自分の中で納得がいったのか、小さく頷き
「あの、僕」
「いいよ、誰にするんだい」
「やっぱり止めます」
「え?」
随分と間抜けな声だった。それが、アタシの口から漏れたものだとわかるのに、少し時間がかかった。
止める?そうかい、ならそれはいいことだよ。やっぱりよくない印象は持たれない方がいいだろうし、そういったことには越したことは無いだろうしね。しかし勿体無いことをするもんだよ。タダで遊女が抱ける機会なんて滅多にあるもんじゃないのに。まあタダより高いものはないって言うから、用心のためなんだろうけどね。なんせここは遊郭、主導権は女性にあるんだ。その慎重な部分が吉と出るか凶と出るかと言えば今回は紛れもなく凶だけど、あんたからしてみればそんなのわかりっこないしねえ。正解だよ正解。危ない橋を無理に渡ろうとして谷底へ落ちるのはよくある話さ。上手い話にはそれなりの裏があるってもんだし、世の中の一般常識から照らし合わせて考えればそりゃあその選択は正しいさ。それにアタシとしても、店主の困る顔をあまり見たくはなかったし、そのぶんで言うなればアタシはあんたに感謝するべきなのかもしれないえねえ。今まで中々迷惑だった人に感謝なんてのもちゃんちゃらおかしい話だけれど、たまにはそういうこともあってもいいだろうさ。なんにせよ、あんたが真人間なようで安心したよ。ここで道を踏み外せば、ひょっとすると天下に名を轟かせ、その名を聞けば赤子ですら泣くのを止める大悪人になってたかもしれないんだから。ま、流石にそれは言いすぎの中の言いすぎだろうけど。でも、あながち冗談みたいな話でもないかもしれないね。だってそうだろう。どんな悪人だってどこで道を踏み外したのかなんてわかったもんじゃないんだから。だからあんたが真っ直ぐ…とは言い難いけど、それなりにいい人のままでいてくれてアタシはなんだか誇らしいよ。まあそんなのは嘘だけどね。嘘だよ嘘嘘。だってそうだろう。遊女は夢を見せるのが仕事なんだから。まったく、騙されやす御仁だよ。本当にこの先が心配だねえ。だから、だからだからだから。
「待ちなよ」
「え?」
気づけば、アタシは格子の隙間から手を伸ばし、青年の服の裾を掴んでいた。
何をしているのか、理解が追いつかない。自分の身体のはずなのに。
「一度でいい」
振り絞るような声が耳朶を打った。
「アタシに会って」
それは、アタシの声だった。
我を失ったわけでもなければ、血迷ったわけでもない。そうでないと言い切れるはずなのに、自分の気持ちの説明だけはどうにもできない。不鮮明で、ぼやけてしまって、どこか輪郭さえあやふやで、誰だって匙を投げてしまうようなこの気持ち。
その気持ちを直隠し、アタシは今、太夫として、青年と向き合っていた。
青年はいきなりの展開にまったくついていけない様子で、辺りを落ち着きがない様子できょろきょろと見回していた。当然だろう。アタシだって整理がついていないのに、感情に追いついてすらいないのに、あんたが追いつけるはずもないさ。
行灯の灯がゆらゆらと揺らめいて、アタシと青年の影を不規則に揺さぶる。
何も音がしない、静かな世界だった。
まるで時間が切り取られ、二人だけ置いてけぼりをくらったような、そんな空間。やがて、青年の視線がアタシを捉え、そして私も青年を捉える。
お互いに、何も言葉を吐かずに、ただただ時間だけが過ぎていく。その感覚が、幼い頃には鋭敏に感じ取れていた何かに似ている気がした。
「高嶺の花」
「え?」
やがて、我慢比べに屈したかのように、アタシの口が自然と開く。
「高嶺の花を、取ってみようとは思わなかったのかい?」
「……………僕、高嶺の花って、手のとどかない所にあるからこそ、綺麗だなって思ってたんです」
「……..」
「一度手にしてしまえば、なんだか、その花が萎れてしまう気がしました。高嶺の花は、高嶺でしか生きられないからこそ高嶺の花なんだとか、そんな詩人めいたことさえ思ってしまって」
「ふぅん」
「だから、最初、龍は俺のものだとのたまっていたあの人を見たとき、自分でもわかりませんでした。ただ、眉間に熱いものだけが集まって」
「……..」
「嫉妬してたんでしょうかね。まあそんな浅ましい奴です」
自嘲するように曖昧な笑みを青年は浮かべた。
高嶺の花。天に咲く花。
「あの、どうしていきなり、こんな」
「さあね。自分でもわからないよ」
そこで会話は途切れ、またシンとした静寂だけで世界は満たされた。目を伏せ、自分の中に渦巻くものに問いかける。
何してるんだい?
そう問いかけはしても、答えがあるはずもなく。
なんとなく。なんとなくだけど、青年の手に触れたくなった。
アタシがそっと手を伸ばすと、青年はびくりと怯えたように身体を震わせる。別に取って食べやしないってのに、おかしなもんさ。
「あの、遊女が殿方に触れるのって三回目じゃ」
「アタシは特別さ」
そう、特別だ。
そうやって自分に言い訳をして、視線を落として青年の手を見つめる。そっと青年の手に触れる。指先で弄ぶように何度か手の甲をなぞり、そして、両手でぎゅっと握りしめた。
どこか柔らかく、どこかか弱さを感じさせる手だった。
でも、それでもどこか青年らしい、大きい手だった。
炎症のような熱が手のひらから伝わってくる。その熱が心地よくて、少し、手を握る力を強くする。
嫉妬。それでも、なぜだろう。その感情が褒められたものではないことは、十分に理解していたけれど。
俗世の暖かさが、アタシを溶かしていく。そんな錯覚さえ覚えてしまった。
ふと顔を上げると、すぐ近くに青年の顔があった。格子を挟んでいない、邪魔をする物が何も無い。
遮るものも。
わけもなく感情が一つ垂れ落ちた。
唇に、温かい感触がして。
まぁそんなお話だったわけだよ。
え?なんだって?つまんない?
あんたねえ。これでもアタシにとっては結構なことだったんだよ?なになに?もっと浪漫に溢れたものかと思った?あのね、だから最初に前置きをしたじゃないか。普通の恋だって。何をあんたは求めてるのさ。お姫様だっこしてくれるような人?いや、そりゃどんな夢を見るかはあんたの自由だから否定しないけれど、それも随分と少女趣味が過ぎるんじゃないのかい?
あのね、困ったら何でもかんでも浪漫の言葉で片付けようとするんじゃないよ。少しは教養ってもんをだね、….行っちまったかい。
まあいいさ。可愛い我が子のことだ。なんだかんだいって、きっとどこかで幸せになるだろうし。もしかしたら、もう目当ての人を見つけてるかもしれないしねえ。
というか夜なのに出かける時点で既に怪しいねえ。まったく、したたかな子だよ。
ん?あぁ、悪いね、起こしちゃったかい。
何を話してたかって?
さぁ?どんな話だったかな。もう忘れちまったよ。一人仲間はずれはよくないって?あんたがそこまで言うなら話してあげることも吝かではないけど、いいのかい?アタシとあんたの話だよ?…….どうしてそこでやっぱりいいだなんて顔を横に向けるんだい。
やれやれ。惚れる人を間違えちまったかねえ。いや、そこまで悲しそうな顔をしなくてもいいじゃないか。冗談だよ。
あの子?どこかへ出かけたよ。まあこんな夜に出かけるんだ。お相手は…….お父さんはそんなこと認めないって、あんたねえ。
まったく。大丈夫だよ。アタシ達の子なんだ。
それよりも、一緒にお酒でも呑まないかい?折角だから晩酌してあげるからさ。
高嶺の花直々の晩酌だよ。ありがたく頂戴するんだよ。
ねえ、………….いや、なんでもないよ。
アタシにだって、心の中にしまっておきたいことの一つや二つ、あるんだよ。
我侭だって?そうだよ。アタシは。
高嶺の花なんだから。
さて、どこから話したもんかねえ。
そうだね。まずは私のいたところから語ろうか。
アタシは、元々ある遊郭の太夫だったんだよ。え?そんな風には到底見えないって?そりゃそうさ、もう退いたからね。そこの遊郭は、変わり者の遊女が多ければ、来る殿方も変わり者が多くてねえ。
直向に殿方を探すゆきおんなと、直向に一人を見つめた詩人。遊女を抱かないくせによく遊びに来る義賊に、その義賊を捕らえたドラゴン。男を惑わすサンダーバードに、それすら唆して誑かした詐欺師。人に嫌われるのが嫌で村を去ったウシオニと、そのウシオニを庇って村八分にされた青年。
どうだい、変わり者の集まりだろう?まあ、一番の変わり者はそんな遊郭を営んでいた主だったのかもしれないけどね。
まあ、他にも色んな輩が自然と集まって、そりゃあ夜になれば騒ぎには事欠かない遊郭だったもんさ。
そんな奴らがお互いくっついて、遊女の身分から、遊郭から身を退いた後もアタシはその遊郭にいたんだよ。
なぜって、そりゃあアタシの身分は太夫だからね。
太夫はその遊郭の花と言っていい。他の子ならまだしも、アタシがそう簡単に遊郭を離れるわけにはいかなかったのさ。遊郭の主人はそう考えてはいなかったみたいだけどね。
なに?それじゃあ見知らぬ殿方にほいほい抱かれたのかって?
…….あんた、アタシに一度会うだけでどれくらいの大金が吹っ飛ぶのか知らないのかい?ああ、そりゃ知らないって顔だね。途方もない大金だよ。太夫っていうのはそういうものなのさ。
それでもアタシに会う殿方は後を絶たなかったけどね。いや、これは自画自賛ってわけじゃないよ。アタシが龍だったことが原因だろうねえ。
あんた、龍がどんな種族か知ってるかい?いや、まだわからないだろうねえ。雨を降らせるってくらいかい?知ってることと言えば。でも、それがとっても大切なことだったんだよ。
雨は純粋に農作物を育てるのに必要なものだからねえ。その恩恵は計り知れないものさ。そしてその恩恵に肖ろうとする殿方がいるのも至極当然。アタシを射止めようとする人が、どれだけの大金を持ってきたのか、数えていたらキリがない。
でもね、アタシは決して床を共にしようとは思わなかったんだよ。なぜって?
生娘みたいなことを言うつもりはないけど、アタシそのものを見てくれる人に会いたかったんだよ。龍としての部分だけじゃなくて、アタシそのもの。
だから、あの人に出会った時に、決めたんだよ。ずっとこの人となら一緒にいる、ってね。いや、それはちょっと違うかな。
これは花魁がするには、あまりに普通すぎる恋だよ。出会ってその人を知って好きになって。なんてことはない、普通の恋だ。
だから、これからするのは、そんな話さ。
花魁道中。
それはきっと端から見れば、華やかで、花魁という姿の在り様を照らし出すものなのだろう。けれど、アタシはそうは思わなかった。この煌びやかな行進の裏に、何があるのか。それを知っていれば、尚更そう思えない。
結局は誰もがアタシを欲しくて大金を叩いて気を引こうとするだけのもの。言ってしまえばそれだけのものだった。
アタシ自身を見つめてはくれない。それだけのことが、心に大きな洞を作り、決して満たされないような空白でアタシを満たす。
「はぁ…」
誰にも聞こえないように吐いた溜息は、アタシの耳にすらとどく前に、雑踏に混じって消えてしまった。
だが、その溜息の代わりなのだろうか。
「――から!―――で」
「――え。――か」
やけに道中が騒がしかった。
「なんだい?喧嘩でも始まったのかい?……勘弁してほしいねえ」
見ると、恰幅のいい、いかにも金持ちといった男と、若い青年がお互い必死になって口論をしている。それもアタシが出向くはずの曖昧宿の近くだった。
この騒がしい中、殿方を見極めなくちゃならないのかねえ。気が滅入るったらありゃしない。
「あの、殿方、まだ着てないみたいです」
「遅刻かい?……女を待たせるなんていい度胸じゃないか」
「いえ、そうじゃなくて…….」
列にいた童女がおそるおそるといった様子で、口論をしている恰幅のいい方の男を指差した。
「今回の相手の殿方、あの方なんです」
面倒ごとを起こすとは、もう出入り禁止でいいんじゃないだろうかねえ。と、そう思うところだけど、これでも名指されたからには、きちんと果たすべき仕事がある。とは言っても、この口論に口出しするのは領分ではないし、さてどうしたもんだろう。
そう思いながらも、少しその口論の内容が気になり、アタシは耳を傾けた。
「てめぇ何度言ったらわかるんだ!あの龍は俺のもんだつってんだろ!」
「わかりませんよ!僕にわかるのは、勝手な都合で女性を自分の物にすることがいけないって常識だけです!」
「いいかこの青二才。常識なんてのはな、所詮金で変わっちまうもんなんだよ。金の切れ目が縁の切れ目だ」
「だからって、自分の都合だけで自由を奪おうとするなんて間違ってるでしょう!」
「そんなことを言えるのは現実を知らねえからだ。お前もあの龍を見てみろ、嫌でも使いたくなっちまうぜ。花魁は抱かれるのも仕事だろうが」
「いくら自分の願望を叶えたくたって、道理を引っ込めて無理矢理通すなんて、認められませんよ!」
なんだいなんだい。随分雲行きの怪しい話じゃないか。まあ、聞いてるとなんとなく話は飲み込めたけども。青年の言いたいことはわかるけど、それはあくまで口出しするようなものでもないだろうに。真面目な性分なのか、こういうことを見過ごせないのか。
あくまで主導権はこっちにあるから、余計な心配だってのにねえ。
すると、納得いかないように視線を下げ、また何かを言いたくなったのか再び顔を上げた青年と、ふと目があった。
そして、そのまま青年は硬直する。
見惚れているような、そんな若い視線だった。
結局その後、アタシが強引に殿方を引っ張って招きいれ、一度目の相手をした後にも関わらず、まだその青年は同じ場所に突っ立っていた。
まさかとは思うけど、ずっと待ってたなんて言わないだろうね。
その青年は何かを言いたそうにしていたけど、上手く言葉が浮かんでこなかったのか、口をきゅっと横一文字に引き締めるだけだった。
ここまで真っ直ぐな奴も珍しくて、ほんの少し、からかいたくなる。
「あんたなら、アタシを買ってくれるのかい?」
「………..え?」
「アタシは太夫だ。山を拵えれるほどのお金が必要だ。それでもアタシを求めるってのかい?」
その青年は何も答えなかった。或いは、何も答えることができなかったのか。
まあ、そんなもんだろう。大した期待もしてはいないさ。アタシはくるりと踵を返し、その場を後にしようとした。
時だった。
「あの……..どうして貴女は遊女なんて」
その言葉に、ぴたりと歩みを止める。
どうして。
その言葉がやけに呪縛めいたものに聞こえた。
どうしてなんて聞かれたら、それは自分の理想の夫を探すためなんだろうさ。
ゆきおんなだって、サンダーバードだって、ウシオニだって。みんなみんな、自分を愛してくれる、そのぬくもりを与えてくれる殿方に会いたくて遊女をしているんだろう。過去の柵に捕らわれることなく、ただ自分を見つめてくれる殿方。
男からすれば、それがどう見えるのかはアタシにはわからない。都合よく抱ける女と見る者もいるだろうし、その格子を挟んで見る姿に哀れみを感じる者もいるかもしれない。
そんな幾つものかもしれないの中から、ただ一つ、たった一人の男性、殿方を見つけるために。
それは、言ってしまえば奇跡に近いのかもしれない。
ただ、どうせそんなことをこの青年に言っても、理解の範疇を超えているであろうことは、想像に難くないので、アタシは、
「奇跡が欲しいからに決まってるじゃないか」
そう言って、からかうようにからからと笑った。
太夫が頻繁に殿方と会うかと言われれば、決してそうじゃない。何せ、会うだけで途轍もない、大判小判が舞うかのような金が消えていく。
だから、大抵アタシは暇だった。
そのはずだった。
「お願いします、遊郭のことを、あなたのことを教えてください」
「アタシもそれなりに色んな人を見てきたけど、格子の外から馬鹿正直に頭を下げる殿方は初めて見たよ」
「ありがとうございます!」
「褒めてないからね?貶してもないけどさ」
「僕は無学です。だから、まずはあなたのことから学ぼうと思いました」
「志望理由みたいな宣言はいいからとりあえず頭上げてくれないかい?こんなことで注目を浴びたんじゃ、堪ったもんじゃないよ」
えへへ、と照れたように頭を掻く青年。いやだから褒めちゃいないって。
「あんた、アタシのことを知って、どうしようってんだい?この身体が欲しいって?」
「そうじゃありません。ただ、あなたのことがわからないんです。ただ、僕はそれを知りたいだけです」
「わからない?このアタシを?」
いきなり何を言い出すんだい。
わからないなんて、そんなの当たり前じゃないか。他人なんだから。
「いえ、そうじゃありません。僕がわからないのは、どうしてあなたみたいな人が花魁をしているのかということです。だって、龍なんでしょう?おかしいじゃないですか。男性が自ら夫になりたいと望むほどの美貌に性格で、男性に困ることはないとされている龍が、花魁をしているなんて」
「おや、高望みをしちゃ駄目だって言うのかい?アタシにだって、相手を選びたいと思う心があっちゃ、いけないのかい?」
「…….なるほど、理想の殿方像にぴたりと当て嵌まる御仁がいいわけですね。つまり、僕だと?」
「帰れ」
「酷い」
その青年は、実に当たり前のことを口にするように、そう言った。そして、その日からだ。青年が毎日アタシの元を訪れるようになったのは。
それは、御伽草子のようなものだ。
とある山奥に、村があった。その村は天候に恵まれ、毎年農作物がたくさんとれ、日頃の感謝を忘れないようにと竜神に農作物の一部を献上する風習があった。
その竜神が、アタシだ。
雨を降らせるには、雨乞いの儀式を必要としていたのだけれど、その土地はどうやら雨乞いをせずとも、ほど良い天候の地域だったらしく、実際にアタシが雨乞いをしたことなんて一度もなかった。それでも、村の人たちはアタシに作物を持ってきてくれていた。
アタシは断っていたけれど、それでも頑なにお礼を言ってくれる人を目の前にして、その捧げ物を無下にはできなかった。
そんな日々が幾星霜。
その年、雨は一度も降らず、日照りが続き、作物は壊滅していた。
アタシの元にやってきた村人たちは、みな殺気を宿した目をしていた。ガラスを嵌めこんだような、無機質で冷たい、けれど感情が奥底から滲み出ている目。
毎年農作物を献上していたのに、こんな目にあわせるとは、なんて奴だ。
そう誰かが言った。
そこから先は、覚えていない。気づけばアタシは――
目が覚める。
嫌な目覚めだった。
過去を捏造されたような夢を見たんだから、そりゃいい目覚めのはずがないけれど。苦い過去?馬鹿馬鹿しいねえ。アタシの昔はそんなんじゃない。もっといいものだった。
「あ、おはようございます」
「ああおはよう。悪いけど水頼めるかい?どうも喉が渇いて……って」
「どうされましたか?」
「一応聞きたいんだけど、ここってどこだい?」
「貴女の部屋だと店主さんから伺ってます」
「へえ。で、なんであんたがいるんだい?」
「あ、それは眠ってしまった貴女を運ぶのが大変だから手伝ってくれと店主さんに頼まれまして」
「なるほど。そこまでは納得いったよ。で、どうしてあんた」
「?」
「アタシの胸を触ってんだい?」
「…………….貴女のことを知りたくてぶへぇッ!?」
格子を突き破って、ジパングの夜空に青年が舞った。
かまうもんかい。自業自得さね。
「また来ました!」
「あのねえ、いつになったら諦めるんだい?」
ジパングの昼下がり、格子の外からまたあの青年が話しかけてきた。それにしても、熱心なことだよ。まあ、そこらの殿方よりは骨があるんじゃないかと思ってしまう。或いは、単なるうつけ者、とかね。
それにしても、ここまで熱心に通いつめられると、興味が湧いてくる。これほどにアタシに執着する理由は何なのか。
大抵、見栄を張って大枚叩いて通う殿方も、脈がないとわかればすぐに諦めるってのに。まあ、この青年の場合、まだ一度もちゃんとお金を払ってアタシに会ったことはないからってのもあるかもしれないけれど、それでも。
ここまで諦めないってのも、珍しいじゃないか。口説き落とすのが男の甲斐性と思っているのか、それとも。
「ここまで難攻不落の城を、どうして落としたがるんだい?」
「別に落とすつもりはありませんよ?」
「は?」
思わずアタシは素っ頓狂な声をあげてしまう。
いや、そりゃいくらなんでもおかしい。最初の頃に言い争いをしていた真面目な態度が一変、不真面目なものになっている時点で十分におかしいけど、それにしたってだ。
口説くつもりがないのなら、どうしてアタシにここまで付き纏うのか、それがわからない。
そもそもこの遊郭は魔物娘のためにいくらか決まり事を変えていると言っても、大まかなものは変わらない。男性が、一人の女性を自分のものにしたくて通いつめる場所。そして、あくまで主導権は女性にあり、だからこそ閨を共にすることに特別な意義が生まれる場所。
そんな特別を求めて、人はここに集う。口説くため、愛するため。
なのに、この青年はそんなことをするつもりはないと言う。いったい、なぜなのか。
「だって、貴女は高嶺の花じゃないですか。見ることはできても、触れることは出来ない花。なら、見てるだけでも十分僕は幸せです」
「ッツ」
「あれ?なんだか変なこと言いました?」
「……..知らないね」
何を、言っている?
見てるだけで幸せなんて。アタシに会った人は、皆、それだけでは飽き足らず、身体を求めようとしたのに。
見ているだけで、満たされると?
ありえない。だって、今まで会ってきた人は皆同じだったのに。この青年だけ違うなんて、そんな都合のいいことが、あるはずないじゃないか。
そう、あるはずがない。
あるはずが。
「あんたのことは嫌いだよ。だから、そろそろ諦めてもいいんじゃないのかい?」
「だから、諦めるとかって話じゃないんですって」
聞こえないように言ったつもりだったけど、どうやらこの青年は耳ざといらしい。
心の中に靄をかけられた気分になった。
「どうもお待たせしました」
「待ってないから回れ右して帰んな」
「そろそろ少しくらい優しい言葉をかけてくれたって……….」
夕焼けが空を茜色に染める頃、あの青年は満面の笑みを浮かべてやってきた。アタシの言葉で若干笑顔を引きつらせるも、まだその明るい笑みを崩そうとはしないあたり、何かしら拘りがあるのかもしれない。
「あのねえ、格子の向こうから遊女が、ましてや太夫が口説けたら苦労しないんだよ」
「そりゃそうですけど…..」
「それに、最初の頃に自分が言ってたんだろう?道理がどうとか、無理を通しては云々とか。あのご高説はどこへ消えたんだい」
「鬼に食われたかの如く雲散霧消しました」
「今すぐ粒子ごと広ってきな」
「……..龍だけに?」
「用心棒呼んだっていいんだよ」
「すいません冗談です」
頭と地面がぶつかりそうになるくらいの勢いで青年は頭を下げた。まあ、そこまでされたら許すしかないねえ。それとも、わかっててやってるのかね。それなら、中々にしたたかだけど。
まあ、それは有り得ないような気がする。
どちらかというと、自分の感情に素直になるが故に、行動が矛盾していくようなタイプだろう。裏表がない。行動が青年の全てだ。それが、羨ましい。
……羨ましい?羨ましい部分なんて一つもないじゃないか。
「しかし、見てるだけで満たされるんなら、話さなくてもいいんじゃないのかい?今のあんたは要するに、届かない花に向かって一人語りかけてるようなもんじゃないか。端から見れば、ちょっと憐憫の情を抱かずにはいられない光景になるよ」
「それは花が返事をしてくれなかった場合ですよ。今だってちゃんと返事をしてくれてるじゃないですか」
そうだ。アタシはいちいちこの青年の相手をしている。なぜ?自分に聞いてみてもわからない。滾る情熱のような感情を青年に対して抱いているわけでもない。迸る熱が眉間に集まって、愛しくてたまらなくなるわけでもない。
そんな熱暴走のような感覚は、自分の中にはどこにもないのに。アタシはなぜ相手をしているんだろう。
自分でも不明瞭な答えが、自分の中で見つかるはずもなかった。
なぜか、この青年なら答えを知っているような気がしたけど、きっとそれは気のせいだ。
「それじゃあ、返事もそろそろ止めちまおうかね。そうすれば寂しそうな姿が拝めるわけだしね」
「勘弁してください。一人孤独になっちゃうじゃないですか」
「似合ってると思うけどね?」
「酷いなあ…..」
がっくりと項垂れ、青年の髪が少し、揺れる。
遠くで烏の鳴き声が聞こえた。
「また来なよ。話すくらいならタダさ」
耳ざとい青年は、今度はアタシの言葉を聞き逃したようだった。
気づけば、夢の世界へ誘う淡い行灯の光が、暗くなりかけた外に温かさを注いでいた。
「う〜ん」
「どうしたんだい?珍しく困り果てた顔じゃないか」
夜の帳も深くなった頃。
いつもと同じ、格子を挟んでの会話。けれど、この日の青年は少し様子がおかしかった。珍しく真剣に悩んでいるようで、何度も難しい声を出しては首を捻り、そして納得のいかないといった表所を浮かべる。
「いえ、困ってるわけではないんです。ただ………」
「ただ?」
「そろそろ、僕がただの迷惑な殿方になってないかと思いまして」
「今さらだね」
何を悩んでるのかと思えば、そんなことだったとは。そりゃあ、遊郭からすれば遊女を抱くわけでもなく、ただ格子を挟んで毎回話しをするだけってのは、迷惑なものだろうけど。それも、もう今さらの話。
どうこう言って、解決することでもないだろう。第一、この青年はアタシを指名するつもりだろうけど、そんな大金があれば苦労はしないだろうしねえ。
あれ、アタシを指名するって、どうしてそんなことがわかるんだろう。この青年はアタシを口説くつもりはないって言ってたじゃないか。見るだけで十分、それだけだと。なのに、アタシはどうして?
「そりゃあ今さらなのは僕だってわかってます。でも、今さらだからこそ後ろめたい気持ちもあって」
「なら、適当に指名すりゃいいじゃないか」
「僕にそんな金ありませんよ」
「それじゃあ特別にタダでいいよ。アタシが店主に後で話をつけておく。これならどうだい?」
「ええ!?それっていいんですか?」
いいわけがない。
「客にさえなっちまえば後ろめたさもないだろう?」
「う〜ん、そういうものですかね?」
「そういうもんさ」
青年は暫くの間、考え込んでいたが、やがて自分の中で納得がいったのか、小さく頷き
「あの、僕」
「いいよ、誰にするんだい」
「やっぱり止めます」
「え?」
随分と間抜けな声だった。それが、アタシの口から漏れたものだとわかるのに、少し時間がかかった。
止める?そうかい、ならそれはいいことだよ。やっぱりよくない印象は持たれない方がいいだろうし、そういったことには越したことは無いだろうしね。しかし勿体無いことをするもんだよ。タダで遊女が抱ける機会なんて滅多にあるもんじゃないのに。まあタダより高いものはないって言うから、用心のためなんだろうけどね。なんせここは遊郭、主導権は女性にあるんだ。その慎重な部分が吉と出るか凶と出るかと言えば今回は紛れもなく凶だけど、あんたからしてみればそんなのわかりっこないしねえ。正解だよ正解。危ない橋を無理に渡ろうとして谷底へ落ちるのはよくある話さ。上手い話にはそれなりの裏があるってもんだし、世の中の一般常識から照らし合わせて考えればそりゃあその選択は正しいさ。それにアタシとしても、店主の困る顔をあまり見たくはなかったし、そのぶんで言うなればアタシはあんたに感謝するべきなのかもしれないえねえ。今まで中々迷惑だった人に感謝なんてのもちゃんちゃらおかしい話だけれど、たまにはそういうこともあってもいいだろうさ。なんにせよ、あんたが真人間なようで安心したよ。ここで道を踏み外せば、ひょっとすると天下に名を轟かせ、その名を聞けば赤子ですら泣くのを止める大悪人になってたかもしれないんだから。ま、流石にそれは言いすぎの中の言いすぎだろうけど。でも、あながち冗談みたいな話でもないかもしれないね。だってそうだろう。どんな悪人だってどこで道を踏み外したのかなんてわかったもんじゃないんだから。だからあんたが真っ直ぐ…とは言い難いけど、それなりにいい人のままでいてくれてアタシはなんだか誇らしいよ。まあそんなのは嘘だけどね。嘘だよ嘘嘘。だってそうだろう。遊女は夢を見せるのが仕事なんだから。まったく、騙されやす御仁だよ。本当にこの先が心配だねえ。だから、だからだからだから。
「待ちなよ」
「え?」
気づけば、アタシは格子の隙間から手を伸ばし、青年の服の裾を掴んでいた。
何をしているのか、理解が追いつかない。自分の身体のはずなのに。
「一度でいい」
振り絞るような声が耳朶を打った。
「アタシに会って」
それは、アタシの声だった。
我を失ったわけでもなければ、血迷ったわけでもない。そうでないと言い切れるはずなのに、自分の気持ちの説明だけはどうにもできない。不鮮明で、ぼやけてしまって、どこか輪郭さえあやふやで、誰だって匙を投げてしまうようなこの気持ち。
その気持ちを直隠し、アタシは今、太夫として、青年と向き合っていた。
青年はいきなりの展開にまったくついていけない様子で、辺りを落ち着きがない様子できょろきょろと見回していた。当然だろう。アタシだって整理がついていないのに、感情に追いついてすらいないのに、あんたが追いつけるはずもないさ。
行灯の灯がゆらゆらと揺らめいて、アタシと青年の影を不規則に揺さぶる。
何も音がしない、静かな世界だった。
まるで時間が切り取られ、二人だけ置いてけぼりをくらったような、そんな空間。やがて、青年の視線がアタシを捉え、そして私も青年を捉える。
お互いに、何も言葉を吐かずに、ただただ時間だけが過ぎていく。その感覚が、幼い頃には鋭敏に感じ取れていた何かに似ている気がした。
「高嶺の花」
「え?」
やがて、我慢比べに屈したかのように、アタシの口が自然と開く。
「高嶺の花を、取ってみようとは思わなかったのかい?」
「……………僕、高嶺の花って、手のとどかない所にあるからこそ、綺麗だなって思ってたんです」
「……..」
「一度手にしてしまえば、なんだか、その花が萎れてしまう気がしました。高嶺の花は、高嶺でしか生きられないからこそ高嶺の花なんだとか、そんな詩人めいたことさえ思ってしまって」
「ふぅん」
「だから、最初、龍は俺のものだとのたまっていたあの人を見たとき、自分でもわかりませんでした。ただ、眉間に熱いものだけが集まって」
「……..」
「嫉妬してたんでしょうかね。まあそんな浅ましい奴です」
自嘲するように曖昧な笑みを青年は浮かべた。
高嶺の花。天に咲く花。
「あの、どうしていきなり、こんな」
「さあね。自分でもわからないよ」
そこで会話は途切れ、またシンとした静寂だけで世界は満たされた。目を伏せ、自分の中に渦巻くものに問いかける。
何してるんだい?
そう問いかけはしても、答えがあるはずもなく。
なんとなく。なんとなくだけど、青年の手に触れたくなった。
アタシがそっと手を伸ばすと、青年はびくりと怯えたように身体を震わせる。別に取って食べやしないってのに、おかしなもんさ。
「あの、遊女が殿方に触れるのって三回目じゃ」
「アタシは特別さ」
そう、特別だ。
そうやって自分に言い訳をして、視線を落として青年の手を見つめる。そっと青年の手に触れる。指先で弄ぶように何度か手の甲をなぞり、そして、両手でぎゅっと握りしめた。
どこか柔らかく、どこかか弱さを感じさせる手だった。
でも、それでもどこか青年らしい、大きい手だった。
炎症のような熱が手のひらから伝わってくる。その熱が心地よくて、少し、手を握る力を強くする。
嫉妬。それでも、なぜだろう。その感情が褒められたものではないことは、十分に理解していたけれど。
俗世の暖かさが、アタシを溶かしていく。そんな錯覚さえ覚えてしまった。
ふと顔を上げると、すぐ近くに青年の顔があった。格子を挟んでいない、邪魔をする物が何も無い。
遮るものも。
わけもなく感情が一つ垂れ落ちた。
唇に、温かい感触がして。
まぁそんなお話だったわけだよ。
え?なんだって?つまんない?
あんたねえ。これでもアタシにとっては結構なことだったんだよ?なになに?もっと浪漫に溢れたものかと思った?あのね、だから最初に前置きをしたじゃないか。普通の恋だって。何をあんたは求めてるのさ。お姫様だっこしてくれるような人?いや、そりゃどんな夢を見るかはあんたの自由だから否定しないけれど、それも随分と少女趣味が過ぎるんじゃないのかい?
あのね、困ったら何でもかんでも浪漫の言葉で片付けようとするんじゃないよ。少しは教養ってもんをだね、….行っちまったかい。
まあいいさ。可愛い我が子のことだ。なんだかんだいって、きっとどこかで幸せになるだろうし。もしかしたら、もう目当ての人を見つけてるかもしれないしねえ。
というか夜なのに出かける時点で既に怪しいねえ。まったく、したたかな子だよ。
ん?あぁ、悪いね、起こしちゃったかい。
何を話してたかって?
さぁ?どんな話だったかな。もう忘れちまったよ。一人仲間はずれはよくないって?あんたがそこまで言うなら話してあげることも吝かではないけど、いいのかい?アタシとあんたの話だよ?…….どうしてそこでやっぱりいいだなんて顔を横に向けるんだい。
やれやれ。惚れる人を間違えちまったかねえ。いや、そこまで悲しそうな顔をしなくてもいいじゃないか。冗談だよ。
あの子?どこかへ出かけたよ。まあこんな夜に出かけるんだ。お相手は…….お父さんはそんなこと認めないって、あんたねえ。
まったく。大丈夫だよ。アタシ達の子なんだ。
それよりも、一緒にお酒でも呑まないかい?折角だから晩酌してあげるからさ。
高嶺の花直々の晩酌だよ。ありがたく頂戴するんだよ。
ねえ、………….いや、なんでもないよ。
アタシにだって、心の中にしまっておきたいことの一つや二つ、あるんだよ。
我侭だって?そうだよ。アタシは。
高嶺の花なんだから。
15/11/11 22:07更新 / 綴