今はまだ、おやすみ
こつり、こつり
暗い部屋の中、ただ一人ランプの明かりだけを頼りに布が大雑把に掛けられた石像を彫っている。
あぁ、きっとこれは最期の眠りが見せる泡沫なのでしょう。何故なら私はすでに彼の胸の中、ゆっくりと消えていった筈なのだから。
こつり、こつり
私と彼の家の中、いつの間にかすっかり埃をかぶってしまった彼のアトリエをゆっくりと見渡しふよふよと漂い近付く。明りになんだかよくわからない光を手にして。それがこれを神様がくれた贈り物だと確信させてくれる。私は生前魔法の類が使えなかったのだから。……なら、夢の中でぐらい、いいよね。彼が本当に前を向いてるかの確認ぐらい。
「ねぇ、あなた?こんなに夜遅くまで作業をしてると風邪引くよ?」
「ん、エリーゼか。後、もうちょっと、もうちょっとで大体のところが彫り終わるんだ。そしたら寝るよ」
「だめよ、体は大切にしなきゃ。ペレットは直ぐに無茶するんだから」
そう。本当に無理をしては駄目。あなたにだけは私の後を追ってほしくないもの。私よりもよっぽど体が頑丈とはいえもう年なんだから。
「ごめんごめん。じゃあ、ここまで彫ったら終わりにするよ」
像の腰の辺りを示す。ほとんど出来上がっているスカートを穿いた女性の腰だった。
ふとこれは誰の像なのだろうと興味がわき、像を見上げ思わず息を漏らす。埃をよけるように被せられた布の下に刻まれていたのは生前の私、目を閉じ穏やかな笑みを浮かべた私の顔をした像。
「これ、私?」
「あはは。ごめんね。勝手にモチーフにさせてもらったよ。真っ先に顔を仕上げたんだ。そうしないといつの間にかに忘れてしまうからね」
「……そっか」
「うん。だから忘れないように刻みつけるんだ。あいまいな思い出だけが残らないように」
彼もこつり、こつり、と石を削り続ける手を止め、私と並んで像を見上げる。ふと隣を見ると彼は寂しそうに微笑みながらじっと像の顔を見つめていた。瞳に輝く光は憧憬だろうか?
「何で私をモチーフに?」
「領主様から愛を彫れって頼まれてね。難題だけどふと君の姿がよぎったんだ。……それに、いい機会も貰った事だしふっ切らなきゃって思ってさ」
どきりと胸が跳ねた。ふっ切るという事は、私の事を忘れるという事だろうか?
それは、嫌だな……
忘れてほしいと言ったのは私のはずなのに、ペレットが私の事を忘れると思うと今度はズキリと胸が痛む。
「心配しなくてもいいよ。君の事は消して忘れない。これは、ただのけじめだよ」
こつり、こつり
ランプの位置を調整し再び道具を手に私の像を彫り始める。
「どういうこと?忘れないのにふっきるって?」
「スゥゥゥゥ、ふっ!」
彼が息で削りカスを吹き飛ばした。舞い散る埃と削りカスが辺りに漂う。それからランプを手に取り、吹き飛ばした部分を照らすと「もうちょっとかな?」と呟き今度はカリカリと溝を彫り始めた。そして、語り始める。
「簡単な事だよ。正直に話してしまうと俺はまだ君との誓いを果たせていない。君に引かれているのだろうね。だからさ、誓いを果たし前に進むためにこの像で君を追憶する事を最後にしようと思うんだ」
「それでも、この像がある限り君という存在を生涯俺が忘れる事は決してないだろう。俺の持てる全ての技を注ぎ込んでいるからね。それに、俺が死んでも、この像は残り続ける。これを彫った人は像のモデルだけを愛し続けたって像を見た人全員に知ってもらいたい」
「死んだ後も俺を思い続けてくれた人がいるんだ。だから俺も死んでなお愛する人がいる。その証を残すために彫り続けるんだよ。……だから心配しないで?ちゃんとそこまで彫ったら今日は寝るからさ。まだ倒れるわけにはいかないからね」
正直、ここまで想ってくれているとは思わなかった。懸命に誓いを守ろうと道具を振るい続ける彼に思わず涙が出そうになってしまう。死んでからというもの随分と涙脆くなってしまった。彼の心中に想いを馳せるだけでこうまでなってしまう。だけど、泣いてはいけない。きっと泣いてしまったら彼の決意を無駄にしてしまうだろうから。
「エリーゼ?」
黙ってしまった私に疑問を抱いたのか彼がこっちを見た。見てほしい時は見てくれず見てほしくない時にいつも私を見る。今は見られたくないのにな……
急いで見られないように後ろを向く。本当は逃げ出したいけれど逃げてしまったら夢が終わる気がしたから。
ことり
音がした。道具を置いたのだろう。
「……ほら、涙を拭いて」
背後からお腹の辺りを抱きしめられる。本当に人の温もりは暖かい。そう思うと次々と涙がこぼれだしてしまう。これは、悲しいのか、嬉しいのか分からない。けれども彼の仕事の邪魔をしてしまった事だけはわかる。
「ごめんなさい……」
涙をこぼす顔を見られないように謝ることしかできない。もっと他の言葉をかけることもできるはずなのに、今の私にはこれ位しかできない。死んでなお彼を縛る鎖にはなりたくないのに、抱かれているだけでとくんと胸が鼓動してしまう。これだけは駄目。
「泣いてもいいんだ。泣きたいときには胸を貸してあげる。これ位しかできないからさ。何時までも泣き虫なエリーゼ」
言葉に軽い冗談が含まれているけどもそれさえも嬉しい。本当に彼の気持ちが伝わってくる。……言葉に甘えちゃう事になるけど、もう我慢できそうにない。胸を貸してもらおう。
彼の方を向き、いつぞやかのように胸に顔をうずめる。あぁ、やっぱり、暖かいなぁ……
「ッグ、エグッごめん、なさ、い。本当は、エグ、あなたを縛りたくなかった、のに」
「いいんだ、エリーゼ。泣いてもいいんだ。泣く事できっと気持ちも晴れるからさ」
彼が私の事を最優先に考えてくれる。きっとこの感情は嬉しいんだろう。嬉しくても悲しくても本当に私はいつも泣いてばかり。穏やかにほほ笑み続ける彼とは全くの逆。だけれども今は頭に冷たいものが降りかかっている。きっと彼も声は出さないけれども泣いているのだろう。あなたは笑っていて欲しいのだけれども、これは泣き虫な私が悪い。しとしとと雨を降らせる雲が暖かな日差しの太陽を陰らせてしまった事を思うと今度は悲しくなってしまう。手を煩わせてごめんなさい……
こつり、こつり
通り雨が過ぎ去るまでにかかった時間は十分ぐらいだろうか、私が泣きやんだ事がわかったのか、彼は再び像と向きあい彫り始めている。
「エリーゼ」
「どうしたの?」
「ありがとう」
「どういたしまして」
規則正しく音がする。……これ以上ここにいては私はきっと彼の邪魔をしてしまうだろう。できるだけ音を立てないようにアトリエから出てゆく事にしよう。
「エリーゼ」
出ようと動いた瞬間に呼び止められる。本当に私の事ばかりを気にしているようだ。おかしくてつい笑ってしまう。
「何?」
「先に寝室に行って待ってて。俺もそのうち眠るから」
「……えぇ。向こうでゆっくり待ってるわ。なるべく、長い間起きててね」
「おいおい。さっきと違う事を言ってるじゃないか」
「ふふ。分かってるくせに」
「ハハ、やっぱりばれてるか」
「当然よ」
「……まぁ当然か」
「えぇ、ペレットとは長い付き合いだもの」
「そっか。そうだよな」
「ふふ。そうよ。……じゃあおやすみなさい、あなた」
「あぁ、引きとめて悪かった。お休み、エリーゼ」
こつり、こつり
音が遠ざかってゆく。本当にこれ以上夢を見るわけにはいかない。私もいい加減眠らなきゃね……振り返り、決して聞こえないように小さな声で呟く。
「私の役目は多分ここまで、かな……ありがとう、あなた。今後の貴方の人生に数多くの幸がありますように」
こつり、こつり
だんだんと音が遠ざかってゆく。
「ぅ……ん?」
気がつくと朝だった。窓から入る光がまぶしい。いつの間にかに眠ってしまっていたらしい。
起き上がると目の前には油が切れて消えてしまったランプ、散らばった俺の仕事道具に腰はほぼ完成し、脚の完成も間近な石像。
これを確認するにどうやら昨日の俺は疲れて倒れるまで彫り続けていたらしい。
それにしても……
「夢、か……」
あれから時々妻の夢を見るようになった。過去の楽しかった日々を繰り返す夢。
しかし今日の夢は妙にリアルだった。この場に彼女はもういないのにこの場で像を作りながら会話する夢。今までは決して見なかった現在の夢。それもとびっきり穏やかだった気がする。
それが今はありがたい。忘れつつある妻の面影をまたはっきりと思い出す事が出来た。これでより細部を詰める事が出来る。
「また一つ、完成に近づいた」
ポツリと、それでいてはっきりと声に出した。今日見た夢で見た妻と目の前の像を重ね合わせる。
すると今まではあいまいな記憶を頼りに彫っていた部分もはっきりと完成した形をイメージができるようになった。クスリと笑い、早速思い浮かんだ完成形を忘れないうちに像の削るべき位置へと次々に記していく。幸せな夢ほど直ぐに忘れてしまうものだから。
本当に彼女を忘れてしまう前に、安らかに眠り続ける彼女の像を完成させるまで甘い、甘い追憶に身を浸らせ今もこれからもただ槌とノミを振るおう。彼女を俺の呪縛から解き放つために。きっとゴーストになるほどに縛り付けてしまったのは俺のせいだから。本当に前を向いて安心させてあげる為に。
それに
「できるだけ長く生きててって言われちゃったからなぁ」
苦笑いをする。本当はこれが彫り終わったらゆっくりしようと思っていたのだが、頼まれてしまった以上すぐに眠るわけにもいかなくなった。必要とされる限り仕事を止めるわけにもいくまい。
それと、今までは半信半疑だったが、あの夢を見た事で確信した。エリーゼはゴーストになっているのだろう。彼女はよくわかっていないようだがゴーストが成仏した話は聞いたことが無い。きっと彼女はまだ寝ぼけ眼でこの辺りを彷徨っているはずだ。
ならば俺は彼女が夢から覚め、実体をもつようになるその日まで彫り続けよう。笑顔で迎える為に。過去の繰り返しで無く未来を刻む為に
まぁ、今はそれより
「さて、と」
記す事が終わり、立ち上がる。健康的な肉体を維持するためにはきちんとした食事を取らなきゃならない。とりあえず朝ごはんを食べることにしよう。
それにまだまだ俺も40だ。残された時間はたくさんあるだろうし納期も先だ。慌てて作って完成度を落とす必要は無い。ゆっくりと彫りあげよう。
ゆっくりと歩き献立を考える。それとアトリエから出る前に
「愛してるよエリーゼ」
像に振り向いて言う。自分が彫ったから当然だが像もまた微笑む。そして、俺は騒ぐ胃袋をなだめる為にキッチンへ向かう事にした。
―――――私も愛してる。ペレット―――――
そんな声がどこからか聞こえた気がする。
暗い部屋の中、ただ一人ランプの明かりだけを頼りに布が大雑把に掛けられた石像を彫っている。
あぁ、きっとこれは最期の眠りが見せる泡沫なのでしょう。何故なら私はすでに彼の胸の中、ゆっくりと消えていった筈なのだから。
こつり、こつり
私と彼の家の中、いつの間にかすっかり埃をかぶってしまった彼のアトリエをゆっくりと見渡しふよふよと漂い近付く。明りになんだかよくわからない光を手にして。それがこれを神様がくれた贈り物だと確信させてくれる。私は生前魔法の類が使えなかったのだから。……なら、夢の中でぐらい、いいよね。彼が本当に前を向いてるかの確認ぐらい。
「ねぇ、あなた?こんなに夜遅くまで作業をしてると風邪引くよ?」
「ん、エリーゼか。後、もうちょっと、もうちょっとで大体のところが彫り終わるんだ。そしたら寝るよ」
「だめよ、体は大切にしなきゃ。ペレットは直ぐに無茶するんだから」
そう。本当に無理をしては駄目。あなたにだけは私の後を追ってほしくないもの。私よりもよっぽど体が頑丈とはいえもう年なんだから。
「ごめんごめん。じゃあ、ここまで彫ったら終わりにするよ」
像の腰の辺りを示す。ほとんど出来上がっているスカートを穿いた女性の腰だった。
ふとこれは誰の像なのだろうと興味がわき、像を見上げ思わず息を漏らす。埃をよけるように被せられた布の下に刻まれていたのは生前の私、目を閉じ穏やかな笑みを浮かべた私の顔をした像。
「これ、私?」
「あはは。ごめんね。勝手にモチーフにさせてもらったよ。真っ先に顔を仕上げたんだ。そうしないといつの間にかに忘れてしまうからね」
「……そっか」
「うん。だから忘れないように刻みつけるんだ。あいまいな思い出だけが残らないように」
彼もこつり、こつり、と石を削り続ける手を止め、私と並んで像を見上げる。ふと隣を見ると彼は寂しそうに微笑みながらじっと像の顔を見つめていた。瞳に輝く光は憧憬だろうか?
「何で私をモチーフに?」
「領主様から愛を彫れって頼まれてね。難題だけどふと君の姿がよぎったんだ。……それに、いい機会も貰った事だしふっ切らなきゃって思ってさ」
どきりと胸が跳ねた。ふっ切るという事は、私の事を忘れるという事だろうか?
それは、嫌だな……
忘れてほしいと言ったのは私のはずなのに、ペレットが私の事を忘れると思うと今度はズキリと胸が痛む。
「心配しなくてもいいよ。君の事は消して忘れない。これは、ただのけじめだよ」
こつり、こつり
ランプの位置を調整し再び道具を手に私の像を彫り始める。
「どういうこと?忘れないのにふっきるって?」
「スゥゥゥゥ、ふっ!」
彼が息で削りカスを吹き飛ばした。舞い散る埃と削りカスが辺りに漂う。それからランプを手に取り、吹き飛ばした部分を照らすと「もうちょっとかな?」と呟き今度はカリカリと溝を彫り始めた。そして、語り始める。
「簡単な事だよ。正直に話してしまうと俺はまだ君との誓いを果たせていない。君に引かれているのだろうね。だからさ、誓いを果たし前に進むためにこの像で君を追憶する事を最後にしようと思うんだ」
「それでも、この像がある限り君という存在を生涯俺が忘れる事は決してないだろう。俺の持てる全ての技を注ぎ込んでいるからね。それに、俺が死んでも、この像は残り続ける。これを彫った人は像のモデルだけを愛し続けたって像を見た人全員に知ってもらいたい」
「死んだ後も俺を思い続けてくれた人がいるんだ。だから俺も死んでなお愛する人がいる。その証を残すために彫り続けるんだよ。……だから心配しないで?ちゃんとそこまで彫ったら今日は寝るからさ。まだ倒れるわけにはいかないからね」
正直、ここまで想ってくれているとは思わなかった。懸命に誓いを守ろうと道具を振るい続ける彼に思わず涙が出そうになってしまう。死んでからというもの随分と涙脆くなってしまった。彼の心中に想いを馳せるだけでこうまでなってしまう。だけど、泣いてはいけない。きっと泣いてしまったら彼の決意を無駄にしてしまうだろうから。
「エリーゼ?」
黙ってしまった私に疑問を抱いたのか彼がこっちを見た。見てほしい時は見てくれず見てほしくない時にいつも私を見る。今は見られたくないのにな……
急いで見られないように後ろを向く。本当は逃げ出したいけれど逃げてしまったら夢が終わる気がしたから。
ことり
音がした。道具を置いたのだろう。
「……ほら、涙を拭いて」
背後からお腹の辺りを抱きしめられる。本当に人の温もりは暖かい。そう思うと次々と涙がこぼれだしてしまう。これは、悲しいのか、嬉しいのか分からない。けれども彼の仕事の邪魔をしてしまった事だけはわかる。
「ごめんなさい……」
涙をこぼす顔を見られないように謝ることしかできない。もっと他の言葉をかけることもできるはずなのに、今の私にはこれ位しかできない。死んでなお彼を縛る鎖にはなりたくないのに、抱かれているだけでとくんと胸が鼓動してしまう。これだけは駄目。
「泣いてもいいんだ。泣きたいときには胸を貸してあげる。これ位しかできないからさ。何時までも泣き虫なエリーゼ」
言葉に軽い冗談が含まれているけどもそれさえも嬉しい。本当に彼の気持ちが伝わってくる。……言葉に甘えちゃう事になるけど、もう我慢できそうにない。胸を貸してもらおう。
彼の方を向き、いつぞやかのように胸に顔をうずめる。あぁ、やっぱり、暖かいなぁ……
「ッグ、エグッごめん、なさ、い。本当は、エグ、あなたを縛りたくなかった、のに」
「いいんだ、エリーゼ。泣いてもいいんだ。泣く事できっと気持ちも晴れるからさ」
彼が私の事を最優先に考えてくれる。きっとこの感情は嬉しいんだろう。嬉しくても悲しくても本当に私はいつも泣いてばかり。穏やかにほほ笑み続ける彼とは全くの逆。だけれども今は頭に冷たいものが降りかかっている。きっと彼も声は出さないけれども泣いているのだろう。あなたは笑っていて欲しいのだけれども、これは泣き虫な私が悪い。しとしとと雨を降らせる雲が暖かな日差しの太陽を陰らせてしまった事を思うと今度は悲しくなってしまう。手を煩わせてごめんなさい……
こつり、こつり
通り雨が過ぎ去るまでにかかった時間は十分ぐらいだろうか、私が泣きやんだ事がわかったのか、彼は再び像と向きあい彫り始めている。
「エリーゼ」
「どうしたの?」
「ありがとう」
「どういたしまして」
規則正しく音がする。……これ以上ここにいては私はきっと彼の邪魔をしてしまうだろう。できるだけ音を立てないようにアトリエから出てゆく事にしよう。
「エリーゼ」
出ようと動いた瞬間に呼び止められる。本当に私の事ばかりを気にしているようだ。おかしくてつい笑ってしまう。
「何?」
「先に寝室に行って待ってて。俺もそのうち眠るから」
「……えぇ。向こうでゆっくり待ってるわ。なるべく、長い間起きててね」
「おいおい。さっきと違う事を言ってるじゃないか」
「ふふ。分かってるくせに」
「ハハ、やっぱりばれてるか」
「当然よ」
「……まぁ当然か」
「えぇ、ペレットとは長い付き合いだもの」
「そっか。そうだよな」
「ふふ。そうよ。……じゃあおやすみなさい、あなた」
「あぁ、引きとめて悪かった。お休み、エリーゼ」
こつり、こつり
音が遠ざかってゆく。本当にこれ以上夢を見るわけにはいかない。私もいい加減眠らなきゃね……振り返り、決して聞こえないように小さな声で呟く。
「私の役目は多分ここまで、かな……ありがとう、あなた。今後の貴方の人生に数多くの幸がありますように」
こつり、こつり
だんだんと音が遠ざかってゆく。
「ぅ……ん?」
気がつくと朝だった。窓から入る光がまぶしい。いつの間にかに眠ってしまっていたらしい。
起き上がると目の前には油が切れて消えてしまったランプ、散らばった俺の仕事道具に腰はほぼ完成し、脚の完成も間近な石像。
これを確認するにどうやら昨日の俺は疲れて倒れるまで彫り続けていたらしい。
それにしても……
「夢、か……」
あれから時々妻の夢を見るようになった。過去の楽しかった日々を繰り返す夢。
しかし今日の夢は妙にリアルだった。この場に彼女はもういないのにこの場で像を作りながら会話する夢。今までは決して見なかった現在の夢。それもとびっきり穏やかだった気がする。
それが今はありがたい。忘れつつある妻の面影をまたはっきりと思い出す事が出来た。これでより細部を詰める事が出来る。
「また一つ、完成に近づいた」
ポツリと、それでいてはっきりと声に出した。今日見た夢で見た妻と目の前の像を重ね合わせる。
すると今まではあいまいな記憶を頼りに彫っていた部分もはっきりと完成した形をイメージができるようになった。クスリと笑い、早速思い浮かんだ完成形を忘れないうちに像の削るべき位置へと次々に記していく。幸せな夢ほど直ぐに忘れてしまうものだから。
本当に彼女を忘れてしまう前に、安らかに眠り続ける彼女の像を完成させるまで甘い、甘い追憶に身を浸らせ今もこれからもただ槌とノミを振るおう。彼女を俺の呪縛から解き放つために。きっとゴーストになるほどに縛り付けてしまったのは俺のせいだから。本当に前を向いて安心させてあげる為に。
それに
「できるだけ長く生きててって言われちゃったからなぁ」
苦笑いをする。本当はこれが彫り終わったらゆっくりしようと思っていたのだが、頼まれてしまった以上すぐに眠るわけにもいかなくなった。必要とされる限り仕事を止めるわけにもいくまい。
それと、今までは半信半疑だったが、あの夢を見た事で確信した。エリーゼはゴーストになっているのだろう。彼女はよくわかっていないようだがゴーストが成仏した話は聞いたことが無い。きっと彼女はまだ寝ぼけ眼でこの辺りを彷徨っているはずだ。
ならば俺は彼女が夢から覚め、実体をもつようになるその日まで彫り続けよう。笑顔で迎える為に。過去の繰り返しで無く未来を刻む為に
まぁ、今はそれより
「さて、と」
記す事が終わり、立ち上がる。健康的な肉体を維持するためにはきちんとした食事を取らなきゃならない。とりあえず朝ごはんを食べることにしよう。
それにまだまだ俺も40だ。残された時間はたくさんあるだろうし納期も先だ。慌てて作って完成度を落とす必要は無い。ゆっくりと彫りあげよう。
ゆっくりと歩き献立を考える。それとアトリエから出る前に
「愛してるよエリーゼ」
像に振り向いて言う。自分が彫ったから当然だが像もまた微笑む。そして、俺は騒ぐ胃袋をなだめる為にキッチンへ向かう事にした。
―――――私も愛してる。ペレット―――――
そんな声がどこからか聞こえた気がする。
12/02/15 20:11更新 / ごーれむさん