序幕:世は全てこともなし
一列に6つの机が並び、それが8つ――計48個の机には、濃紺のブレザーを着用した少年少女達が座り、様々な態度で50人弱が居ても狭苦しくない、それなりの広さを有する部屋に備えられている教壇の方へと顔を向けていた。
但し、少年達に関しては基本的な身体の構造も外見的特徴も皆ヒトの範疇に収まっているのだが、少女達の中には、本来人間にある筈のない角や翼といった器官を備えているモノもいれば、液体の様な、到底ヒトの範疇に入るのか疑わしいモノもいる。
だが、その事に疑問を持つモノは部屋の中には誰一人として存在しない様で、皆、各々の態度で教壇に立っている、成年期中盤である三十路に差し掛かったであろう、眼鏡にスーツ姿の柔らかな視線をした男の言葉を聞いていた。
「――して、君達が生まれるよりも前の今から約50年前に、世界各国の主要都市の一部の空間が突然組み替えられ、深い霧に覆われた《異界》が誕生したんだ」
スーツ姿の男が左手に『世界史 近代編』と書かれた教科書を手にしている所から、ココは学舎であり、机に座っている少年少女――生徒達の教師である事が解る。男は背後に存在する黒板へと振り返り、空いている右手にチョークを握ると、文字を書き始めた。
「当初、ヒトはこの世界同時多発的に発生した現象に驚愕し、一部の国は自国内に存在するにも関わらず、《異界》へと武力攻撃を開始したが、当時最新鋭の兵器ですら、《異界》に到着する直前に何故か消失し、禁断の兵器と謂われていた核兵器ですら、無力化された」
教師の男は、少年少女達にも解り易くするために、図形と文字を巧みに使いながら、重要となる言葉を黒板へと記載していく。
「兵器や武器を無力化するが、人間が触れても何の問題もなく通過できる特殊な力場に覆われた《異界》へ、各国は軍隊やそれに近しい組織を進行させた。けれども、何故か通信が途絶え、武装した組織を次々と送り込むも、徒労に終わり、これ以上の被害を出せぬと判断した国の1つ――我が国の当時の総理大臣は、《異界》に向けて、音波、電波、可視不可視光線等のありとあらゆる手段で呼びかけた所、何と返答が来た」
男は小気味良い音を立てながら黒板に図形と文字を記載しながら、異なる色のチョークを手に持ち、強調させた。
「当時では信じ難い事であったが、彼らは異なる次元からやってきた存在であると返って来たんだ。向けられた攻撃を排除したのは、空間を変異させる際に、中に取り込んだ人達を護るためであり、進行して来た人間達も無事だと。そして、僕達人間に対して敵意はなく、国の代表と話がしたいから、武装を解除してくれとまで言ってきたんだ。しかも、各国の代表とその側近へと直接頭の中に響くような声でね。こんな事を言われたら、どの国も彼らの云う通り、武装を解除するしかないよね」
自慢の最新鋭の兵器が全て無力化されちゃうんだからね――っと振り返りながら肩を竦めて苦笑した男につられ、少年少女達も頬を緩めた。
「その後は、君達も知っている通り、《異界》の長達と各国の代表達が話の場を設け、互いの意見を交換。続けて、舞台は国際社会へ広がり、最初こそ多少の混乱はあったけど、彼らは社会に認められ、長い年月をかけて溶け込み、今では魔物娘と呼ばれる、この世界の住人となったんだ。彼女達はその外見や美しさに目を奪われがちになるけど、本当にスゴイのは、身体能力や《魔術》と呼ばれる、超自然現象を扱える所なんだ」
男が黒板から離れ、教卓に手をついた。男の態度から、今回の授業はこれ以上書く事はなく、ココから先は彼の個人的な話になる事を理解し生徒達は、板書された内容をノートに書き記したり、魔物娘の一部は魔術的な記憶法を用いて、板書内容を覚えていく。黒板に書かれている内容を各々の方法で記憶に留めたモノから、教師が板書していた時よりも真面目な態度で聴き始めた。
教卓にいるため、生徒達の変化を一番感じ取れる男は、心の中でだけ苦笑し、話を続けた。
「魔物娘達の身体能力は本当にスゴイものでね、今では体育の授業を分けて行うのが当たり前だけど、共に学ぶ様になった当初は混同でやっちゃって、本当に大変な事になったって聞いたくらいだよ。一般的な陸上競技をさせれば、魔物娘の中では力が弱いといわれている娘ですら、人間が打ち立てた世界記録を余裕で上回り、対抗する競技をすれば、魔物娘が多い方が勝つのが基本。《魔術》に優れた娘の一部は、《魔術》を使い出したりもしちゃって、もう評価云々以前の状態になっちゃったらしいね」
整備を間に合わせずに実行しちゃった弊害だね――っと肩を竦めた男に合わせて、生徒達も軽く頷く。
「彼女達がこっちの世界に現れてから、およそ50年程経ち、未だ調整が上手くできていない所は多々あるけど、お互いの知識や技術を共有して、世界をより豊かで平穏にしているのは事実だし、僕も含め、共にいるのが当たり前な今の状態は悪く無いと思うね」
生徒達を見回して笑みを浮かべた教師が、閉じて教卓の上に置いてある教科書や参考資料を手に持ち、背筋を伸ばした所でチャイムが鳴り響いた。
「――話しも区切りが良いし、今日はココ迄」
教師の言葉を合図に、クラス代表の生徒が起立の号令をかけると同時に全員が立ち上がり、礼の言葉で教師も生徒達も互いに頭を下げた。
頭を上げた教師が教壇を降りて教室を後にしようとした所で、彼は女生徒の1人に呼び止められ、そちらへと顔を向けた。
声の主である女生徒は、学生服に身を包んでいるが、それでも隠しきれぬ、他の魔物娘と一線を画す能力を真紅の瞳から《魅了の魔眼》として放ち、純白の長き髪をなびかせながら、歳不相応の艶を持って、必要以上に教師へと歩み寄った。
「センセー、わたくし、どうしても解らない歴史の問題がありますのぉ。近々、試験があるとの事ですし、もし情けない点数でも取ってしまったら、生徒会長として恥ずかしいですわぁ」
だ・か・ら――っと敢えて言葉を区切り、甘い響きを持って囁く様に伝える事で、相手の耳に言葉を残す女生徒。
「特別に、個別補講をお願いしますのぉ」
真紅の瞳が怪しく光り、腰から生えている純白の翼と臀部から生えているこれまた純白の尻尾が、彼女の内心を現している様に、ゆらりゆらりと相手を誘う様に左右に揺れる。
女性としては長身の彼女が更に一歩近寄ったおかげで、教師は日本男子の平均身長であるため、後数センチで唇が触れてしまう程接近する事になったが、男は至って冷静に唇同士の間に指を立ってて、女生徒の顔を後ろに退かせると、もう一方の手の指で眼鏡を正した。
「確かに、明日、明後日という、差し迫った状況なら、特別に補講が必要かもしれないけど、試験まで未だ時間があるんだ。キミ程の実力者なら、補講なんかしなくても、十分間に合うさ」
むしろ――っと唇に当てた指をゆっくりと教師が押すと、女生徒は反抗する素振りも見せず、恐ろしいまでに整った顔に艶のある笑みを浮かべたまま、滑る様に後ろに退く。
「僕的には、生徒会長が特別補講を受ける方が恥ずかしいと思うけど――」
どうかな? ――っと教師が柔和な顔に微笑みを浮かべると、女生徒は頬を染め、視線を外した。
女生徒からの反応が小さくなったのを確認した教師は、教壇から降りて、教室を後にした。
1人残される形となった女生徒であるが、授業を終えた生徒達は特に気にせず、思い思いの行動をしている所から、どうやら先程のやり取りは、《いつもの光景》の様である。
――しかし、今日はいつもと若干違うらしく、純白の女子は、小さく肩を震わせると、天を仰ぎ、叫びだした。
「もう! 何なの?! 何なんですの?! リリムであるわたくしがあんな風にあしらわれて、響かない訳がないですわ! 一目見た瞬間から、わたくしの心はアナタに奪われ、アナタと愛し、愛され、アナタの子供を宿したいと、下腹部が疼きますのよ! 今も、下着をしている意味が無い位濡れてしまっていますの! あああぁぁああぁぁぁぁ、もおぉぉぉおぉおぉぉ――」
リリムの女生徒は、喉を枯らさんばかりに叫んだと思ったら、突然、糸が切れた様に首が落ちて俯いた。
「――我慢の限界ですの……」
周囲の温度が数度下がってしまったのではないかと勘違いしてしまう程の冷たさを持って呟かれた声に、教室の喧騒は一瞬にして消え去り、リリムである女生徒以外の魔物娘徒が一斉に動き出した。同時に人間の男子生徒や女生徒の姿が忽然と消える。
魔女、妖狐、サキュバス、デーモン等の《魔術》に長けている魔物娘の女生徒達が協力して、《魔術》を行使すると、リリムの女生徒の周囲に黒い靄の様なモノが出現する。リリムの女生徒は、自らの周囲に突如出現した黒い靄を一瞥だけして口元を緩めた。
「ふ……ふふふっ……うふふふふっ……その程度の《魔術》で、このわたくしを止められると思って? リーグリッツ」
魔術を行使している魔物娘達の先頭に立っている、鮮やかな蒼き肌をしたデーモンの女生徒――リーグリッツに向けて、リリムの女生徒は、その端正な顔には似合わぬ歪んだ笑みを浮かべ、名を呼んだ。
「幾らアナタが魔物娘の中で最上位種であるリリムであっても、コレだけの人数から放たれる《複合拘束魔術》では、簡単には抜け出せなくてよ? グーラ」
黒き靄の中から、凄まじ速さで鎖が飛び出し、グーラと呼ばれたリリムの女生徒の全身を絡め取るが、当の本人は表情一つ変えず、自分の身体に向けられている魔術を眺めていた。
「……甘いですわね」
身動ぎ一つせず、たった一言に込められた、指向性を持たぬ生命力の一種である《魔力》の放出によって、グーラを絡め取った鎖は呆気無く砕かれ、《魔術》に長けた魔物娘達の《複合拘束魔術》は瓦解してしまった。
《対抗魔術》でも《侵蝕魔術》でもなければ、《結界》でもない、タダの《魔力》の放出――魔物娘にとっては、呼吸と同義の行為で、並の魔物娘や人間ならば、生命活動すらも止められる程の《複合拘束魔術》を無効化されてしまい、リーグリッツ達の頬を冷たい汗が伝う。
「あらあら? 皆様、先程までの威勢はどこにいってしまったのかしら? まさかと思いますけど……コレでもう終わりですの?」
「――んな訳ねぇだろ」
人虎、雷獣、火鼠、クノイチ等の武術に長けた魔物娘達が、不意を突く形で、グーラの視覚外から一斉に攻撃を仕掛ける。
唯でさえ、強靭な肉体を有している魔物娘達の中でも、特に身体能力に優れた種族である彼女らからの魔力を乗せた手加減抜きの一撃――全てが全て大規模破壊兵器に匹敵するそれらを向けられて尚、グーラは微笑みを絶やさない。
人虎達を一瞥だけしたグーラは、自分を正面から対峙しているリーグリッツに視線を向け、右手を顔の高さに持ち上げると、軽く指を鳴らした。
――パチンッ……。
突如として、グーラを中心に半径2メートル程の半透明の球場の力場が姿を現し、触れた人虎達を音を後ろにする速さで弾き飛ばした。
破砕される机と椅子、それと教室内の備品の数々。
弾き飛ばされた人虎達は壁や床、天井、中には窓を突き破って教室外にまで飛ばされてしまった娘もいる。皆、何かしらに衝突した際に、砲撃でも撃ち込まれたのかと勘違いしてしまう程の轟音と振動を発生させ、漸く静止した。
《魔術》と武術に、それぞれ長けた魔物娘達とリリムの女生徒との交戦により、教室内は一瞬にして、廃墟と見間違えてしまう程の損傷を受け、変貌してしまった。
「フフフッ……わたくし、リリムであるからという理由だけで、この学園の生徒会長を任されてはおりませんのよ? リーグリッツ副生徒会長補佐」
「それは、わたしが一番良く解っていますわ、グーラ生徒会長」
破壊されてしまったが故に、秒針すら聞こえぬ静寂の中、2人の魔物娘の会話だけが教室内に響き渡る。
「ならば、わたくしの行く手を阻む行為は、しない方が身のためでしてよ?」
「それはできない相談よ。グーラ、冷静になって。愛しの人のもとに向かい、思いの丈を行動に示したい気持ちは、同じ魔物娘である以上、痛い程解るわ」
でもね――っとリーグリッツは目を伏せ、小さく首を横に振る。
「わたし達魔物娘が、《此方の世界》と共存するために定められた法があるの。《最終的には合意》になるのは解っているけれども、一時の想いの暴走で、男の人を襲ってしまっては、法に抵触してしまうわ。その場合、良くて停学。最悪――」
言葉を一旦区切ったリーグリッツは面を上げて、立てた人差し指で中空に円を描いた。すると、瞬時に縁が仄かに光る小型の円形の陣が形成され、ゆっくりと回転しだした。
「《異界》の《向こう側》へ強制送還……コレが何を意味するのか、グーラは解っているわよね?」
えぇ、勿論ですわ――っとグーラは自身に満ちた表情で返す。
「愛する殿方と二度と会えなくなってしまう事を意味しますわ。極一部の例外を除いて、わたくし達魔物娘は、一度愛を交わした殿方の事を決して忘れず、相手の殿方も愛を交わした魔物娘以外には、決して目を向けられなくなってしまいますもの。これを悲劇と云わずして、何を悲劇と云うのかしらね」
「そこまで解っているのなら、アナタを職員室に向かわせないわたし達の気持ちも汲み取って欲しいわ。コレは、グーラのためでも、篝先生のためでもあるの。それに、アレだけアナタの《魔力》や《匂い》を纏った篝先生を誘惑しようなんて娘は、わたし達魔物娘の性質上、いないわよ」
「……人間の女性ならば、近寄る可能性があるわ」
なびく可能性があるの? ――っと口の端を持ち上げて、挑発的な笑みを向けるリーグリッツ。
在り得なくてよ――っと《異界》の《向こう側》の主の娘に相応しい、艶美で自信に満ち溢れた笑みを返すグーラ。
「でしたら、何の問題もないわね。気持ちを落ち着けるのよ、グーラ。高等部を卒業するまでの辛抱よ」
「頭ではリーグリッツやこのクラスの皆、学園の方達が、わたくしの事を思っての行動だと解っていますの……そう、解ってはいますの……でも――」
抑えようのない感情が紫色の《魔力》となってグーラの足元から立ち上り、余りの濃度に極局所的な空間変異――《異界化》への兆候を見せ始めた。国や自治体からの許可を得ない空間変異も、法に抵触してしまうため、グーラの成り行きを見守っていた魔物娘の女生徒達が動き出そうとしたが、リーグリッツが腕を横に伸ばす事で、彼女達を留めさせる。
今は彼女を信じて待って欲しい――リーグリッツからの無言の訴えに、表情を曇らせながらも、魔物娘の女生徒達は一旦退いた。
俯き、表情が伺えぬ顔。
震える程強く握り締められた拳。
そして、立ち上り続ける空間変異すらも引き起こす超高濃度な《魔力》。
もし発露している《魔力》が、指向性を持って放たれた場合、教室や学園だけでなく、地域一帯を消し炭に変えるには十分過ぎるため、並のモノならば、発狂してしまう程の緊張が周囲を包み込む。
遂に紫色の《魔力》がグーラを中心に渦を巻き始めたため、これ以上は危険であると判断したリーグリッツが、覚悟を決めて中空に形成したままの陣に《魔力》を込めて、動き出そうとしたその時である。
紙一重の綱渡り状態となっていたグーラが、ゆっくりと肩で息をし始め、深呼吸をする度に発露されていた《魔力》が徐々に収まっていき、何度目かの深呼吸を終えた頃には、《魔力》は完璧に霧散していた。
「………………申し訳ありませんでしたわ……」
耳を澄ましていなければ聞き取りきれぬ程小さく、か細い声でその場にいる皆に謝罪をすると、グーラは項垂れてその場にへたり込んでしまった。
「少し、頭を冷やして来ますわ……」
それだけ呟くと、グーラの輪郭がボヤケていき、唯でさえ純白の姿から、更に色素が薄くなり、数秒としない内に、完全に見えなくなってしまった。
グーラの気配も《魔力》も完璧に消えたため、最も危険な状態を抜けた事を確認出来たリーグリッツやその場に居た全員、肺に溜まっていた空気を細く長く吐き出した。緊張の糸が途切れたため、その場に座り込んでしまうモノや、腰を抜かしてしまうモノまで出てしまう始末である。
副生徒会長補佐としての維持か、姿勢を崩さず、グーラを見詰めていたままの体勢でいたリーグリッツであるが、ふと、自分の掌に視線を落とし、思わず苦笑してしまった。水の中に入れてしまったのかと勘違いしてしまう程に、掌に冷や汗をかいていたからだ。
一息ついた所で、リーグリッツは展開させていた陣から《魔力》を抜いて霧散させる。
「……無茶はするものではないわね……」
「全くもってその通りです」
自分だけに聞こえる程小さな声のボヤキに応える声が背後から聞こえたため、流石のリーグリッツもコレには驚き、声の発生源から距離を取りながら、背後へと振り返った。
リーグリッツの突然の行動に他の魔物娘達も臨戦態勢となるが、彼女の視線の先の存在を確認した瞬間、皆一気に肩の力を抜いた。
「……ヨルド先生、いつもお願いしていますが、背後に突然現れるのは、控えて頂けると嬉しいですわ」
「善処します」
ヨルド先生と呼ばれた、精気の失せた青白い素肌を黒き色褪せたローブで隠し、小柄だが、先生と呼ばれるに相応しい《魔力》を内に秘めた女性――リッチの魔物娘が種族特有の焦点の合わぬ無表情で佇んでいた。
「友を思うのは大切ですが、生徒であるアナタが無理するべきではありません」
「それは……はい、申し訳ありません……」
抑揚はないが、相手の事を想う気持ちが込められた言葉を受け、己の無謀さを改めて実感したリーグリッツは、素直に謝った。
頭を垂れて謝罪してくるリーグリッツを表情こそ動かさないが、温かみのある視線で眺めていたヨルドは、ゆっくりと口を開く。
「……《今回も何もなかった》、良いですね?」
「……はい、この教室では、《何もありませんでした》」
魔物娘同士ならば通じる意味合いの言葉を交わしたヨルドとリーグリッツ。
教室内にいる他の魔物娘達も、二人の言葉に首肯し、全員の意思を確認したヨルドは、ローブの中から人骨を模した禍々しい装飾をされた分厚い一冊の書物を取り出した。ヨルドは取り出した書物を胸の高さに持ち上げ、手を離すが、本は落ちる事なく中空に留まり、薄紫色に光だした。
そして、手を触れてもいないのに、ヨルドに中を見せる様に勝手に開くと、勢い良くページが捲れていき、あるページで動きが止まる。開かれたページには、ルーン記号やアルファベットを組み合わせた様な、複雑怪奇な文字が一面に記されていた。
ヨルドが《詠唱》と呼ばれる、《魔力》を込めて特定の言葉を読み上げる行為をすると、呼応する様に書物に記されている文字が光り始め、次第にページ全体が輝き出し、遂には閃光となって教室全体を包み込んだ。
目を開けていられぬ程に強烈な光が収まると、廃墟一歩手前であった教室は、グーラとリーグリッツ達が衝突する前の姿へと戻り、消えていた人間の男子生徒と女生徒も何事もなかったかの様に指定の席に座っていた。
タイミングよく鳴り響いたチャイムによって一斉に生徒達は動き出し、喧騒を取り戻す教室。
そこにヨルドの姿はなく、文字通り《何もなかった》かの様である。
しかし、人間と魔物娘によって、その言葉に含まれている意味は全く異なるが、《魔物娘と一部の人間以外》その事実に気付くモノは、この教室内だけでなく、学園にも世界にも存在しない。
但し、少年達に関しては基本的な身体の構造も外見的特徴も皆ヒトの範疇に収まっているのだが、少女達の中には、本来人間にある筈のない角や翼といった器官を備えているモノもいれば、液体の様な、到底ヒトの範疇に入るのか疑わしいモノもいる。
だが、その事に疑問を持つモノは部屋の中には誰一人として存在しない様で、皆、各々の態度で教壇に立っている、成年期中盤である三十路に差し掛かったであろう、眼鏡にスーツ姿の柔らかな視線をした男の言葉を聞いていた。
「――して、君達が生まれるよりも前の今から約50年前に、世界各国の主要都市の一部の空間が突然組み替えられ、深い霧に覆われた《異界》が誕生したんだ」
スーツ姿の男が左手に『世界史 近代編』と書かれた教科書を手にしている所から、ココは学舎であり、机に座っている少年少女――生徒達の教師である事が解る。男は背後に存在する黒板へと振り返り、空いている右手にチョークを握ると、文字を書き始めた。
「当初、ヒトはこの世界同時多発的に発生した現象に驚愕し、一部の国は自国内に存在するにも関わらず、《異界》へと武力攻撃を開始したが、当時最新鋭の兵器ですら、《異界》に到着する直前に何故か消失し、禁断の兵器と謂われていた核兵器ですら、無力化された」
教師の男は、少年少女達にも解り易くするために、図形と文字を巧みに使いながら、重要となる言葉を黒板へと記載していく。
「兵器や武器を無力化するが、人間が触れても何の問題もなく通過できる特殊な力場に覆われた《異界》へ、各国は軍隊やそれに近しい組織を進行させた。けれども、何故か通信が途絶え、武装した組織を次々と送り込むも、徒労に終わり、これ以上の被害を出せぬと判断した国の1つ――我が国の当時の総理大臣は、《異界》に向けて、音波、電波、可視不可視光線等のありとあらゆる手段で呼びかけた所、何と返答が来た」
男は小気味良い音を立てながら黒板に図形と文字を記載しながら、異なる色のチョークを手に持ち、強調させた。
「当時では信じ難い事であったが、彼らは異なる次元からやってきた存在であると返って来たんだ。向けられた攻撃を排除したのは、空間を変異させる際に、中に取り込んだ人達を護るためであり、進行して来た人間達も無事だと。そして、僕達人間に対して敵意はなく、国の代表と話がしたいから、武装を解除してくれとまで言ってきたんだ。しかも、各国の代表とその側近へと直接頭の中に響くような声でね。こんな事を言われたら、どの国も彼らの云う通り、武装を解除するしかないよね」
自慢の最新鋭の兵器が全て無力化されちゃうんだからね――っと振り返りながら肩を竦めて苦笑した男につられ、少年少女達も頬を緩めた。
「その後は、君達も知っている通り、《異界》の長達と各国の代表達が話の場を設け、互いの意見を交換。続けて、舞台は国際社会へ広がり、最初こそ多少の混乱はあったけど、彼らは社会に認められ、長い年月をかけて溶け込み、今では魔物娘と呼ばれる、この世界の住人となったんだ。彼女達はその外見や美しさに目を奪われがちになるけど、本当にスゴイのは、身体能力や《魔術》と呼ばれる、超自然現象を扱える所なんだ」
男が黒板から離れ、教卓に手をついた。男の態度から、今回の授業はこれ以上書く事はなく、ココから先は彼の個人的な話になる事を理解し生徒達は、板書された内容をノートに書き記したり、魔物娘の一部は魔術的な記憶法を用いて、板書内容を覚えていく。黒板に書かれている内容を各々の方法で記憶に留めたモノから、教師が板書していた時よりも真面目な態度で聴き始めた。
教卓にいるため、生徒達の変化を一番感じ取れる男は、心の中でだけ苦笑し、話を続けた。
「魔物娘達の身体能力は本当にスゴイものでね、今では体育の授業を分けて行うのが当たり前だけど、共に学ぶ様になった当初は混同でやっちゃって、本当に大変な事になったって聞いたくらいだよ。一般的な陸上競技をさせれば、魔物娘の中では力が弱いといわれている娘ですら、人間が打ち立てた世界記録を余裕で上回り、対抗する競技をすれば、魔物娘が多い方が勝つのが基本。《魔術》に優れた娘の一部は、《魔術》を使い出したりもしちゃって、もう評価云々以前の状態になっちゃったらしいね」
整備を間に合わせずに実行しちゃった弊害だね――っと肩を竦めた男に合わせて、生徒達も軽く頷く。
「彼女達がこっちの世界に現れてから、およそ50年程経ち、未だ調整が上手くできていない所は多々あるけど、お互いの知識や技術を共有して、世界をより豊かで平穏にしているのは事実だし、僕も含め、共にいるのが当たり前な今の状態は悪く無いと思うね」
生徒達を見回して笑みを浮かべた教師が、閉じて教卓の上に置いてある教科書や参考資料を手に持ち、背筋を伸ばした所でチャイムが鳴り響いた。
「――話しも区切りが良いし、今日はココ迄」
教師の言葉を合図に、クラス代表の生徒が起立の号令をかけると同時に全員が立ち上がり、礼の言葉で教師も生徒達も互いに頭を下げた。
頭を上げた教師が教壇を降りて教室を後にしようとした所で、彼は女生徒の1人に呼び止められ、そちらへと顔を向けた。
声の主である女生徒は、学生服に身を包んでいるが、それでも隠しきれぬ、他の魔物娘と一線を画す能力を真紅の瞳から《魅了の魔眼》として放ち、純白の長き髪をなびかせながら、歳不相応の艶を持って、必要以上に教師へと歩み寄った。
「センセー、わたくし、どうしても解らない歴史の問題がありますのぉ。近々、試験があるとの事ですし、もし情けない点数でも取ってしまったら、生徒会長として恥ずかしいですわぁ」
だ・か・ら――っと敢えて言葉を区切り、甘い響きを持って囁く様に伝える事で、相手の耳に言葉を残す女生徒。
「特別に、個別補講をお願いしますのぉ」
真紅の瞳が怪しく光り、腰から生えている純白の翼と臀部から生えているこれまた純白の尻尾が、彼女の内心を現している様に、ゆらりゆらりと相手を誘う様に左右に揺れる。
女性としては長身の彼女が更に一歩近寄ったおかげで、教師は日本男子の平均身長であるため、後数センチで唇が触れてしまう程接近する事になったが、男は至って冷静に唇同士の間に指を立ってて、女生徒の顔を後ろに退かせると、もう一方の手の指で眼鏡を正した。
「確かに、明日、明後日という、差し迫った状況なら、特別に補講が必要かもしれないけど、試験まで未だ時間があるんだ。キミ程の実力者なら、補講なんかしなくても、十分間に合うさ」
むしろ――っと唇に当てた指をゆっくりと教師が押すと、女生徒は反抗する素振りも見せず、恐ろしいまでに整った顔に艶のある笑みを浮かべたまま、滑る様に後ろに退く。
「僕的には、生徒会長が特別補講を受ける方が恥ずかしいと思うけど――」
どうかな? ――っと教師が柔和な顔に微笑みを浮かべると、女生徒は頬を染め、視線を外した。
女生徒からの反応が小さくなったのを確認した教師は、教壇から降りて、教室を後にした。
1人残される形となった女生徒であるが、授業を終えた生徒達は特に気にせず、思い思いの行動をしている所から、どうやら先程のやり取りは、《いつもの光景》の様である。
――しかし、今日はいつもと若干違うらしく、純白の女子は、小さく肩を震わせると、天を仰ぎ、叫びだした。
「もう! 何なの?! 何なんですの?! リリムであるわたくしがあんな風にあしらわれて、響かない訳がないですわ! 一目見た瞬間から、わたくしの心はアナタに奪われ、アナタと愛し、愛され、アナタの子供を宿したいと、下腹部が疼きますのよ! 今も、下着をしている意味が無い位濡れてしまっていますの! あああぁぁああぁぁぁぁ、もおぉぉぉおぉおぉぉ――」
リリムの女生徒は、喉を枯らさんばかりに叫んだと思ったら、突然、糸が切れた様に首が落ちて俯いた。
「――我慢の限界ですの……」
周囲の温度が数度下がってしまったのではないかと勘違いしてしまう程の冷たさを持って呟かれた声に、教室の喧騒は一瞬にして消え去り、リリムである女生徒以外の魔物娘徒が一斉に動き出した。同時に人間の男子生徒や女生徒の姿が忽然と消える。
魔女、妖狐、サキュバス、デーモン等の《魔術》に長けている魔物娘の女生徒達が協力して、《魔術》を行使すると、リリムの女生徒の周囲に黒い靄の様なモノが出現する。リリムの女生徒は、自らの周囲に突如出現した黒い靄を一瞥だけして口元を緩めた。
「ふ……ふふふっ……うふふふふっ……その程度の《魔術》で、このわたくしを止められると思って? リーグリッツ」
魔術を行使している魔物娘達の先頭に立っている、鮮やかな蒼き肌をしたデーモンの女生徒――リーグリッツに向けて、リリムの女生徒は、その端正な顔には似合わぬ歪んだ笑みを浮かべ、名を呼んだ。
「幾らアナタが魔物娘の中で最上位種であるリリムであっても、コレだけの人数から放たれる《複合拘束魔術》では、簡単には抜け出せなくてよ? グーラ」
黒き靄の中から、凄まじ速さで鎖が飛び出し、グーラと呼ばれたリリムの女生徒の全身を絡め取るが、当の本人は表情一つ変えず、自分の身体に向けられている魔術を眺めていた。
「……甘いですわね」
身動ぎ一つせず、たった一言に込められた、指向性を持たぬ生命力の一種である《魔力》の放出によって、グーラを絡め取った鎖は呆気無く砕かれ、《魔術》に長けた魔物娘達の《複合拘束魔術》は瓦解してしまった。
《対抗魔術》でも《侵蝕魔術》でもなければ、《結界》でもない、タダの《魔力》の放出――魔物娘にとっては、呼吸と同義の行為で、並の魔物娘や人間ならば、生命活動すらも止められる程の《複合拘束魔術》を無効化されてしまい、リーグリッツ達の頬を冷たい汗が伝う。
「あらあら? 皆様、先程までの威勢はどこにいってしまったのかしら? まさかと思いますけど……コレでもう終わりですの?」
「――んな訳ねぇだろ」
人虎、雷獣、火鼠、クノイチ等の武術に長けた魔物娘達が、不意を突く形で、グーラの視覚外から一斉に攻撃を仕掛ける。
唯でさえ、強靭な肉体を有している魔物娘達の中でも、特に身体能力に優れた種族である彼女らからの魔力を乗せた手加減抜きの一撃――全てが全て大規模破壊兵器に匹敵するそれらを向けられて尚、グーラは微笑みを絶やさない。
人虎達を一瞥だけしたグーラは、自分を正面から対峙しているリーグリッツに視線を向け、右手を顔の高さに持ち上げると、軽く指を鳴らした。
――パチンッ……。
突如として、グーラを中心に半径2メートル程の半透明の球場の力場が姿を現し、触れた人虎達を音を後ろにする速さで弾き飛ばした。
破砕される机と椅子、それと教室内の備品の数々。
弾き飛ばされた人虎達は壁や床、天井、中には窓を突き破って教室外にまで飛ばされてしまった娘もいる。皆、何かしらに衝突した際に、砲撃でも撃ち込まれたのかと勘違いしてしまう程の轟音と振動を発生させ、漸く静止した。
《魔術》と武術に、それぞれ長けた魔物娘達とリリムの女生徒との交戦により、教室内は一瞬にして、廃墟と見間違えてしまう程の損傷を受け、変貌してしまった。
「フフフッ……わたくし、リリムであるからという理由だけで、この学園の生徒会長を任されてはおりませんのよ? リーグリッツ副生徒会長補佐」
「それは、わたしが一番良く解っていますわ、グーラ生徒会長」
破壊されてしまったが故に、秒針すら聞こえぬ静寂の中、2人の魔物娘の会話だけが教室内に響き渡る。
「ならば、わたくしの行く手を阻む行為は、しない方が身のためでしてよ?」
「それはできない相談よ。グーラ、冷静になって。愛しの人のもとに向かい、思いの丈を行動に示したい気持ちは、同じ魔物娘である以上、痛い程解るわ」
でもね――っとリーグリッツは目を伏せ、小さく首を横に振る。
「わたし達魔物娘が、《此方の世界》と共存するために定められた法があるの。《最終的には合意》になるのは解っているけれども、一時の想いの暴走で、男の人を襲ってしまっては、法に抵触してしまうわ。その場合、良くて停学。最悪――」
言葉を一旦区切ったリーグリッツは面を上げて、立てた人差し指で中空に円を描いた。すると、瞬時に縁が仄かに光る小型の円形の陣が形成され、ゆっくりと回転しだした。
「《異界》の《向こう側》へ強制送還……コレが何を意味するのか、グーラは解っているわよね?」
えぇ、勿論ですわ――っとグーラは自身に満ちた表情で返す。
「愛する殿方と二度と会えなくなってしまう事を意味しますわ。極一部の例外を除いて、わたくし達魔物娘は、一度愛を交わした殿方の事を決して忘れず、相手の殿方も愛を交わした魔物娘以外には、決して目を向けられなくなってしまいますもの。これを悲劇と云わずして、何を悲劇と云うのかしらね」
「そこまで解っているのなら、アナタを職員室に向かわせないわたし達の気持ちも汲み取って欲しいわ。コレは、グーラのためでも、篝先生のためでもあるの。それに、アレだけアナタの《魔力》や《匂い》を纏った篝先生を誘惑しようなんて娘は、わたし達魔物娘の性質上、いないわよ」
「……人間の女性ならば、近寄る可能性があるわ」
なびく可能性があるの? ――っと口の端を持ち上げて、挑発的な笑みを向けるリーグリッツ。
在り得なくてよ――っと《異界》の《向こう側》の主の娘に相応しい、艶美で自信に満ち溢れた笑みを返すグーラ。
「でしたら、何の問題もないわね。気持ちを落ち着けるのよ、グーラ。高等部を卒業するまでの辛抱よ」
「頭ではリーグリッツやこのクラスの皆、学園の方達が、わたくしの事を思っての行動だと解っていますの……そう、解ってはいますの……でも――」
抑えようのない感情が紫色の《魔力》となってグーラの足元から立ち上り、余りの濃度に極局所的な空間変異――《異界化》への兆候を見せ始めた。国や自治体からの許可を得ない空間変異も、法に抵触してしまうため、グーラの成り行きを見守っていた魔物娘の女生徒達が動き出そうとしたが、リーグリッツが腕を横に伸ばす事で、彼女達を留めさせる。
今は彼女を信じて待って欲しい――リーグリッツからの無言の訴えに、表情を曇らせながらも、魔物娘の女生徒達は一旦退いた。
俯き、表情が伺えぬ顔。
震える程強く握り締められた拳。
そして、立ち上り続ける空間変異すらも引き起こす超高濃度な《魔力》。
もし発露している《魔力》が、指向性を持って放たれた場合、教室や学園だけでなく、地域一帯を消し炭に変えるには十分過ぎるため、並のモノならば、発狂してしまう程の緊張が周囲を包み込む。
遂に紫色の《魔力》がグーラを中心に渦を巻き始めたため、これ以上は危険であると判断したリーグリッツが、覚悟を決めて中空に形成したままの陣に《魔力》を込めて、動き出そうとしたその時である。
紙一重の綱渡り状態となっていたグーラが、ゆっくりと肩で息をし始め、深呼吸をする度に発露されていた《魔力》が徐々に収まっていき、何度目かの深呼吸を終えた頃には、《魔力》は完璧に霧散していた。
「………………申し訳ありませんでしたわ……」
耳を澄ましていなければ聞き取りきれぬ程小さく、か細い声でその場にいる皆に謝罪をすると、グーラは項垂れてその場にへたり込んでしまった。
「少し、頭を冷やして来ますわ……」
それだけ呟くと、グーラの輪郭がボヤケていき、唯でさえ純白の姿から、更に色素が薄くなり、数秒としない内に、完全に見えなくなってしまった。
グーラの気配も《魔力》も完璧に消えたため、最も危険な状態を抜けた事を確認出来たリーグリッツやその場に居た全員、肺に溜まっていた空気を細く長く吐き出した。緊張の糸が途切れたため、その場に座り込んでしまうモノや、腰を抜かしてしまうモノまで出てしまう始末である。
副生徒会長補佐としての維持か、姿勢を崩さず、グーラを見詰めていたままの体勢でいたリーグリッツであるが、ふと、自分の掌に視線を落とし、思わず苦笑してしまった。水の中に入れてしまったのかと勘違いしてしまう程に、掌に冷や汗をかいていたからだ。
一息ついた所で、リーグリッツは展開させていた陣から《魔力》を抜いて霧散させる。
「……無茶はするものではないわね……」
「全くもってその通りです」
自分だけに聞こえる程小さな声のボヤキに応える声が背後から聞こえたため、流石のリーグリッツもコレには驚き、声の発生源から距離を取りながら、背後へと振り返った。
リーグリッツの突然の行動に他の魔物娘達も臨戦態勢となるが、彼女の視線の先の存在を確認した瞬間、皆一気に肩の力を抜いた。
「……ヨルド先生、いつもお願いしていますが、背後に突然現れるのは、控えて頂けると嬉しいですわ」
「善処します」
ヨルド先生と呼ばれた、精気の失せた青白い素肌を黒き色褪せたローブで隠し、小柄だが、先生と呼ばれるに相応しい《魔力》を内に秘めた女性――リッチの魔物娘が種族特有の焦点の合わぬ無表情で佇んでいた。
「友を思うのは大切ですが、生徒であるアナタが無理するべきではありません」
「それは……はい、申し訳ありません……」
抑揚はないが、相手の事を想う気持ちが込められた言葉を受け、己の無謀さを改めて実感したリーグリッツは、素直に謝った。
頭を垂れて謝罪してくるリーグリッツを表情こそ動かさないが、温かみのある視線で眺めていたヨルドは、ゆっくりと口を開く。
「……《今回も何もなかった》、良いですね?」
「……はい、この教室では、《何もありませんでした》」
魔物娘同士ならば通じる意味合いの言葉を交わしたヨルドとリーグリッツ。
教室内にいる他の魔物娘達も、二人の言葉に首肯し、全員の意思を確認したヨルドは、ローブの中から人骨を模した禍々しい装飾をされた分厚い一冊の書物を取り出した。ヨルドは取り出した書物を胸の高さに持ち上げ、手を離すが、本は落ちる事なく中空に留まり、薄紫色に光だした。
そして、手を触れてもいないのに、ヨルドに中を見せる様に勝手に開くと、勢い良くページが捲れていき、あるページで動きが止まる。開かれたページには、ルーン記号やアルファベットを組み合わせた様な、複雑怪奇な文字が一面に記されていた。
ヨルドが《詠唱》と呼ばれる、《魔力》を込めて特定の言葉を読み上げる行為をすると、呼応する様に書物に記されている文字が光り始め、次第にページ全体が輝き出し、遂には閃光となって教室全体を包み込んだ。
目を開けていられぬ程に強烈な光が収まると、廃墟一歩手前であった教室は、グーラとリーグリッツ達が衝突する前の姿へと戻り、消えていた人間の男子生徒と女生徒も何事もなかったかの様に指定の席に座っていた。
タイミングよく鳴り響いたチャイムによって一斉に生徒達は動き出し、喧騒を取り戻す教室。
そこにヨルドの姿はなく、文字通り《何もなかった》かの様である。
しかし、人間と魔物娘によって、その言葉に含まれている意味は全く異なるが、《魔物娘と一部の人間以外》その事実に気付くモノは、この教室内だけでなく、学園にも世界にも存在しない。
16/11/23 06:13更新 / 黒猫
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