最初の夜
「起きろ、ヒヨッコ共!朝だぞ!マスかき止め!パンツ上げ!」
王立魔術学校の朝は、野太い訓練教官の声で始まる。
生徒たちは皆、眠い目をこする余裕さえ無くベッドから飛び降りて着替えて、部屋から出てきた。全員が終わったのを見て、禿頭のマッチョな教官が満足そうに言った。
「よーし、今日は全員俺の号令から四十秒で支度できたな。ご褒美だ、全員校庭十周!さっさと行け!終わった者から朝食だ!」
ちなみに、昨日は号令から二分かかったと言って校庭を走らされた。理不尽な教官の命令に逆らう度胸は、例えどんなに気性が荒い生徒だろうと持ち合わせていない。
「ひぃ…ひぃ…」
ランニングを最後に終えたのは、線の細い、まだ少年といった方がいい位の青年だ。まともに喋る気力も残っていないのは、遅かったせいで教官にランニングを五周追加されたからだ。
「ようやく終わったか、このノロマが!苦しそうにしてる暇があったらとっとと飯を食いに行け!食事時間はあと五分だ!」
教官の言葉に、幽鬼のような足取りで少年は食堂に向かった。朝食はなんとかオレンジを一つだけ無理やり飲み下した。それさえ吐きそうな彼を見て、同級生たちは面白そうに笑っていた。
教官にはシゴかれ、同級生には落ちこぼれと馬鹿にされ。これが彼、エドの日常だった。
そもそもは、精霊達までが魔王の魔力に侵された事が始まりだった。火のイグニス、水のウンディーネ、風のシルフ、土のノーム。彼女たちが魔王の力により魔物娘となったため、主神を奉ずる人間勢力は、使える魔術が大きく制限されてしまったのだ。
これの対策として、人間側は無理矢理にでも精霊を従えて魔術を使うという形を取ることにした。そしてその為、魔術は今まで以上に精神力と、何よりも体力を消費する技術となってしまっていた。そこで魔術学校では、精神よりもむしろ体力強化に主眼を置いた訓練がなされ、結果として普通の軍隊とほぼ変わらない訓練を行っていた。
腕力がモノを言う今の魔術師社会で、生まれつき体力のないエドは一番の最下層にいて、最下層のものが虐げられるのはどこでも同じことだった。
「くそっ…もうイヤだ…」
夜になると、エドは部屋で一人嘆いていた。肉体主義になる前の名残で、生徒一人に一部屋が与えられていなければ、彼はとっくに自殺していただろう。
「なんで僕がこんな目に…」
元々、魔術師は精神こそを尊び、魔力量こそが重要とされていた。体力と引き換えに魔力は人一倍多かったエドは、だからこそ魔術師を目指していたのだった。今の状況は、魔力だけは多いことを僻まれているというのも、間違いなく原因の一つだった。
だが、一人で頭を抱えていても状況が良くなるわけも無かった。エドもそれは分かっていたが、他にできることも無かったから、いつもこうして同じことの繰り返しだ。螺旋階段を転がり落ちていくようだった。
「もう寝よう…明日も早いし…」
悩んでいてもしょうがないから、エドはさっさと寝ることにした。疲れきった身体には、どれだけ休息を取っても十分という事はない。
だが、エドが魔術の光(精霊の力を借りなければ、この程度のことは容易かった)を消そうとした時だ。
クスクス…
不意に、誰かの笑い声が聞こえた。エドは部屋の中を見回すが、誰の姿もなかったし、今まで部屋のドアが開いたはずもなかった。
ふぅん、強くなりたいんだ…
女の子の声だった。訓練メニューの関係上、女子生徒はこの学校には居ないはずだった。
「誰だっ!」
エドは咄嗟に杖を構えた。だが、震える腕で構えても格好はつかなかった。膝の震えを抑えるので精一杯だった。
いいよ…あたしが強くしたげる…だから…
「あたしのお兄ちゃんになって♥」
「ぐあっ!?」
エドは突然背中に衝撃を感じた。ローブ姿の少年が不格好につんのめってこけた。
「あちゃ…ゴ、ゴメンなさいお兄ちゃん!その、怪我してない?」
さっきまで響いていた声と同じ声だ。だが、今度ははっきりとエドの後ろから声がしていた。エドは急いで立ち上がりながら振り返る。
「っ!魔物か!」
そこに居たのは可愛らしい女の子──の姿をした魔物だった。
薄めの紺色の長い髪はツインテールに纏められ、活発そうな印象を与える。飴色の瞳はまるで星をはめ込んだように輝き、見るだけで吸い込まれそうだ。子供らしく起伏の少ない身体を強調するように、レオタードのような服を着ている。これだけなら、ちょっと変わった趣味の女の子で通じたかもしれない。
だが、その頭からは一見リボンかと見間違える、大きな獣の耳が生えていた。また、手足の先も獣のような毛に覆われた異形の姿をしており、おまけに尻尾まで生えていた。
エドは油断なく杖を構えた。しかし。
「うっ…グス…」
突然、女の子が泣きそうになった。
「…え?ちょ、待」
「うえ〜ん!やっぱり、やっぱりお兄ちゃんもそうなんだ!あたしが魔物娘だからって、そうやってすぐにあたしの事いじめようとするんだ!」
というか、もう泣いていた。あまりの事に、エドは毒気を抜かれてしまった。いかに魔物だと分かっていても、可愛らしい少女の姿をしている者が泣いていて、無慈悲に攻撃できる訳も無かった。
「うわ、わ、分かった!分かったから!ほら、もう杖は置いたから!落ち着いて、ね?」
「う…ほんと?あたしの事、いじめない?」
泣きわめいていた少女が、目をこすりながら顔を上げた。エドは床に放った杖を指して、攻撃の意思がないことをアピールした。
「わ〜い!お兄ちゃん、大スキ♥」
途端に泣くのを止めて、少女がエドの胸に飛び込んできた。ミルクっぽい甘い香りがして、エドは今がどういう状況なのか分からなくなったから、上を見上げた。いつもの天井で、エド自身が作った魔術の光が頼りなく揺らめいていた。
「それで…君は誰で、どういう理由でここに来たの?」
あれからしばらく、まるで猫のように甘えてくる少女をいなし切れず、エドはベッドに腰掛けていた。離れようとすると泣くので、膝の上に少女を座らせるしかなかった。
「よくぞ聞いてくれました!」
少女がエドの膝からぴょこんと飛び降りた。そしてその場で特に意味もなくくるりと一回転してみせる。よく分からないが、どうやら決めポーズのようだった。
「あたしはファミリアのエルザ。名前の通りバフォメット様たちに作られた使い魔だよ。ここに来たのはは…う〜ん、お兄ちゃんを助けるため…かな」
少女はエルザと名乗った。だが、エドにとってはむしろ違うことのほうが重要だった。
──バフォメット?確か、出会ったが最後、どんな英雄、勇者であろうと絶対に生きて帰れないと噂の、怪物中の怪物じゃないか!──
バフォメットと言えば、ほとんど人間の町には現れない、高位の魔物だ。しかし、一度現れれば、その町には誰もいなくなる(実は魔界に行っただけなのだが)か、全員魔物になるかの二つに一つという、恐ろしい魔物だった。
そんな怪物の使い魔ということは、おそらくエルザも恐ろしい力を持っているに違いない。エドは、迂闊に杖を手放したことを後悔した。放った杖は、エルザを挟んで向こう側にあった。
だが、エルザが最後に言ったことも興味深かった。エドは、なるべくエルザの機嫌を損ねないように尋ねた。
「僕を助けるって…どういうことだい?」
「実はね、あたし達ファミリアは、人間に『魔物ってそんなに怖くないんですよ〜』って事を知ってもらうために、バフォメット様に送り出されてるの。活動内容はそれぞれ勝手に決めていいから、あたしは人助けでもして、魔物は怖くないって知ってもらおうとしたの。だけど、皆あたしを見るとすぐに…」
「ああ…」
エドは納得した。恐らく、エルザが今までに会った人間も自分のように魔物と見るなり攻撃しようとしたのだろう。
「でも、やっと人助けできそう!」
そう言って無邪気に笑うエルザ。その笑顔を見ていると、エドも笑顔になるようだった。しかし、人助けと言っても具体的に何をするのだろうかと思った。
「ありがとう。でもエルザ、僕の悩みは誰かに解決してもらうような事じゃ…」
「いいのいいの!お兄ちゃん、強くなりたいんでしょ?」
エドの言葉を遮って、エルザがエドの悩みをすっぱりと言い切った。
確かにエドは強くなりたい。もっと力があれば、あんな惨めな思いをしないで済むからだ。
「自慢じゃないけど、あたし、魔術は大得意だから!大船に乗った気持ちで任せておいて!」
そう言ってエルザが薄い胸をドンと叩く。やけに自信満々だった。なんだかエドは信じてもいいような気分になっていた。
「そう…。それなら、お願いしようかな…」
「はーい!」
エドは知らなかった。ファミリアの言葉には、人の警戒心を解く力があることを。
エドは気づかなかった。エルザが、すでに魔術を使っていたことを。
そして、エドは知らない。どうやってエルザがエドを強くしようとしているのかを。
「これからよろしくね、お兄ちゃん…♥」
少女の瞳の星が、妖しく揺らめいていた。
王立魔術学校の朝は、野太い訓練教官の声で始まる。
生徒たちは皆、眠い目をこする余裕さえ無くベッドから飛び降りて着替えて、部屋から出てきた。全員が終わったのを見て、禿頭のマッチョな教官が満足そうに言った。
「よーし、今日は全員俺の号令から四十秒で支度できたな。ご褒美だ、全員校庭十周!さっさと行け!終わった者から朝食だ!」
ちなみに、昨日は号令から二分かかったと言って校庭を走らされた。理不尽な教官の命令に逆らう度胸は、例えどんなに気性が荒い生徒だろうと持ち合わせていない。
「ひぃ…ひぃ…」
ランニングを最後に終えたのは、線の細い、まだ少年といった方がいい位の青年だ。まともに喋る気力も残っていないのは、遅かったせいで教官にランニングを五周追加されたからだ。
「ようやく終わったか、このノロマが!苦しそうにしてる暇があったらとっとと飯を食いに行け!食事時間はあと五分だ!」
教官の言葉に、幽鬼のような足取りで少年は食堂に向かった。朝食はなんとかオレンジを一つだけ無理やり飲み下した。それさえ吐きそうな彼を見て、同級生たちは面白そうに笑っていた。
教官にはシゴかれ、同級生には落ちこぼれと馬鹿にされ。これが彼、エドの日常だった。
そもそもは、精霊達までが魔王の魔力に侵された事が始まりだった。火のイグニス、水のウンディーネ、風のシルフ、土のノーム。彼女たちが魔王の力により魔物娘となったため、主神を奉ずる人間勢力は、使える魔術が大きく制限されてしまったのだ。
これの対策として、人間側は無理矢理にでも精霊を従えて魔術を使うという形を取ることにした。そしてその為、魔術は今まで以上に精神力と、何よりも体力を消費する技術となってしまっていた。そこで魔術学校では、精神よりもむしろ体力強化に主眼を置いた訓練がなされ、結果として普通の軍隊とほぼ変わらない訓練を行っていた。
腕力がモノを言う今の魔術師社会で、生まれつき体力のないエドは一番の最下層にいて、最下層のものが虐げられるのはどこでも同じことだった。
「くそっ…もうイヤだ…」
夜になると、エドは部屋で一人嘆いていた。肉体主義になる前の名残で、生徒一人に一部屋が与えられていなければ、彼はとっくに自殺していただろう。
「なんで僕がこんな目に…」
元々、魔術師は精神こそを尊び、魔力量こそが重要とされていた。体力と引き換えに魔力は人一倍多かったエドは、だからこそ魔術師を目指していたのだった。今の状況は、魔力だけは多いことを僻まれているというのも、間違いなく原因の一つだった。
だが、一人で頭を抱えていても状況が良くなるわけも無かった。エドもそれは分かっていたが、他にできることも無かったから、いつもこうして同じことの繰り返しだ。螺旋階段を転がり落ちていくようだった。
「もう寝よう…明日も早いし…」
悩んでいてもしょうがないから、エドはさっさと寝ることにした。疲れきった身体には、どれだけ休息を取っても十分という事はない。
だが、エドが魔術の光(精霊の力を借りなければ、この程度のことは容易かった)を消そうとした時だ。
クスクス…
不意に、誰かの笑い声が聞こえた。エドは部屋の中を見回すが、誰の姿もなかったし、今まで部屋のドアが開いたはずもなかった。
ふぅん、強くなりたいんだ…
女の子の声だった。訓練メニューの関係上、女子生徒はこの学校には居ないはずだった。
「誰だっ!」
エドは咄嗟に杖を構えた。だが、震える腕で構えても格好はつかなかった。膝の震えを抑えるので精一杯だった。
いいよ…あたしが強くしたげる…だから…
「あたしのお兄ちゃんになって♥」
「ぐあっ!?」
エドは突然背中に衝撃を感じた。ローブ姿の少年が不格好につんのめってこけた。
「あちゃ…ゴ、ゴメンなさいお兄ちゃん!その、怪我してない?」
さっきまで響いていた声と同じ声だ。だが、今度ははっきりとエドの後ろから声がしていた。エドは急いで立ち上がりながら振り返る。
「っ!魔物か!」
そこに居たのは可愛らしい女の子──の姿をした魔物だった。
薄めの紺色の長い髪はツインテールに纏められ、活発そうな印象を与える。飴色の瞳はまるで星をはめ込んだように輝き、見るだけで吸い込まれそうだ。子供らしく起伏の少ない身体を強調するように、レオタードのような服を着ている。これだけなら、ちょっと変わった趣味の女の子で通じたかもしれない。
だが、その頭からは一見リボンかと見間違える、大きな獣の耳が生えていた。また、手足の先も獣のような毛に覆われた異形の姿をしており、おまけに尻尾まで生えていた。
エドは油断なく杖を構えた。しかし。
「うっ…グス…」
突然、女の子が泣きそうになった。
「…え?ちょ、待」
「うえ〜ん!やっぱり、やっぱりお兄ちゃんもそうなんだ!あたしが魔物娘だからって、そうやってすぐにあたしの事いじめようとするんだ!」
というか、もう泣いていた。あまりの事に、エドは毒気を抜かれてしまった。いかに魔物だと分かっていても、可愛らしい少女の姿をしている者が泣いていて、無慈悲に攻撃できる訳も無かった。
「うわ、わ、分かった!分かったから!ほら、もう杖は置いたから!落ち着いて、ね?」
「う…ほんと?あたしの事、いじめない?」
泣きわめいていた少女が、目をこすりながら顔を上げた。エドは床に放った杖を指して、攻撃の意思がないことをアピールした。
「わ〜い!お兄ちゃん、大スキ♥」
途端に泣くのを止めて、少女がエドの胸に飛び込んできた。ミルクっぽい甘い香りがして、エドは今がどういう状況なのか分からなくなったから、上を見上げた。いつもの天井で、エド自身が作った魔術の光が頼りなく揺らめいていた。
「それで…君は誰で、どういう理由でここに来たの?」
あれからしばらく、まるで猫のように甘えてくる少女をいなし切れず、エドはベッドに腰掛けていた。離れようとすると泣くので、膝の上に少女を座らせるしかなかった。
「よくぞ聞いてくれました!」
少女がエドの膝からぴょこんと飛び降りた。そしてその場で特に意味もなくくるりと一回転してみせる。よく分からないが、どうやら決めポーズのようだった。
「あたしはファミリアのエルザ。名前の通りバフォメット様たちに作られた使い魔だよ。ここに来たのはは…う〜ん、お兄ちゃんを助けるため…かな」
少女はエルザと名乗った。だが、エドにとってはむしろ違うことのほうが重要だった。
──バフォメット?確か、出会ったが最後、どんな英雄、勇者であろうと絶対に生きて帰れないと噂の、怪物中の怪物じゃないか!──
バフォメットと言えば、ほとんど人間の町には現れない、高位の魔物だ。しかし、一度現れれば、その町には誰もいなくなる(実は魔界に行っただけなのだが)か、全員魔物になるかの二つに一つという、恐ろしい魔物だった。
そんな怪物の使い魔ということは、おそらくエルザも恐ろしい力を持っているに違いない。エドは、迂闊に杖を手放したことを後悔した。放った杖は、エルザを挟んで向こう側にあった。
だが、エルザが最後に言ったことも興味深かった。エドは、なるべくエルザの機嫌を損ねないように尋ねた。
「僕を助けるって…どういうことだい?」
「実はね、あたし達ファミリアは、人間に『魔物ってそんなに怖くないんですよ〜』って事を知ってもらうために、バフォメット様に送り出されてるの。活動内容はそれぞれ勝手に決めていいから、あたしは人助けでもして、魔物は怖くないって知ってもらおうとしたの。だけど、皆あたしを見るとすぐに…」
「ああ…」
エドは納得した。恐らく、エルザが今までに会った人間も自分のように魔物と見るなり攻撃しようとしたのだろう。
「でも、やっと人助けできそう!」
そう言って無邪気に笑うエルザ。その笑顔を見ていると、エドも笑顔になるようだった。しかし、人助けと言っても具体的に何をするのだろうかと思った。
「ありがとう。でもエルザ、僕の悩みは誰かに解決してもらうような事じゃ…」
「いいのいいの!お兄ちゃん、強くなりたいんでしょ?」
エドの言葉を遮って、エルザがエドの悩みをすっぱりと言い切った。
確かにエドは強くなりたい。もっと力があれば、あんな惨めな思いをしないで済むからだ。
「自慢じゃないけど、あたし、魔術は大得意だから!大船に乗った気持ちで任せておいて!」
そう言ってエルザが薄い胸をドンと叩く。やけに自信満々だった。なんだかエドは信じてもいいような気分になっていた。
「そう…。それなら、お願いしようかな…」
「はーい!」
エドは知らなかった。ファミリアの言葉には、人の警戒心を解く力があることを。
エドは気づかなかった。エルザが、すでに魔術を使っていたことを。
そして、エドは知らない。どうやってエルザがエドを強くしようとしているのかを。
「これからよろしくね、お兄ちゃん…♥」
少女の瞳の星が、妖しく揺らめいていた。
14/05/17 18:32更新 / 地獄大帝
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