海のお姉さんを、はなしたこと
人と魔物の違いとは何なんだろう。
そんな解りきった一つの題に対して、僕たちはずっと話し合っていた。
僕は人間で、彼女は魔物。
出会いは、恥ずかしながらも海で溺れた僕が、彼女に助けてもらったのが始まりだった。まぁ、出会いと言っても、そこから先ほどの題に対して話しただけで、その後彼女とは会っていないんだけど。
そんな、大衆が期待していそうなロマンチックな話でもない。ただ僕は彼女に助けられて、その見返りとして、彼女の話し相手をしていたという、どうしようもなくしょうもない話。
それでもそれは、僕にとって限りなく特別な出来事であり、一生忘れることが出来ないであろう体験だった。
今でも、この耳が、彼女の発した言葉を。この口が、僕が彼女に言った言葉を。この目が、彼女の一挙一動を。しっかりと覚えている。
自分でも、流石に気持ち悪いとは思っているけど、僕はそれほどまでに僕を助けてくれた彼女に惚れて、その美貌に目が離せなくなり、話をする彼女に恋をし、愛してしまったのだろう。
だから、彼女を想えば想うほど、僕は後悔しているのだった。
どうしてあの時、日が暮れて、お互いに帰らなければならなくなった時、どうして僕は彼女の手を離してしまったんだろう。
沢山のことをはなしたけども、彼女の手だけは、はなさなくて良かったのに。
彼女──海のお姉さん。
シー・ビショップ。
海の聖職者とされる彼女は、僕をどう思っていたのだろうか。
今はもう、忘れられても仕方がない。というか彼女は僕を覚えてはいないだろう。だけど、あの時のあの場所で──水平線の彼方が見えたあの岩場の上で、僕と彼女しか居なかったあの空間で、彼女の僕に対する意識を知りたかった。
それを知ったところで、どうしようもないことは解っている。ただの自己満足にも、なりはしない。せいぜい自己欺瞞がいいところだ。
でも、欺瞞の何がいけないのだろう。
この世界なんて、自分達を欺いて、騙して、そうして均衡を保っているのがやっとだというのに。
今更自分だけを騙したところで、誰も文句を言いはしない。
だから僕はこうやって、手記を綴る。
彼女の記憶を、確立させようとする。
これは、魔物にたった一度の邂逅で恋をした、馬鹿な人間の日記である。
僕と彼女が話した内容を、ただの雑談にしか聞こえないであろう会話を、書き記していこう。
他の誰でもない、僕の為に。
―――――――
「キミは、魔物と人間に本質的な違いがあると思いますか?」
日が傾いて、空が青と橙色の美しいコントラストを描きはじめた時間帯、ふと彼女は、その美しい翡翠色の髪を指で巻き取る仕草をして、そんなことを言った。
「本質的って……」
「あら、難しかったですか? まぁ簡単に言えば、何かを感じる心ですかね」彼女はふふ、と少し笑ってから「ちょっと抽象的過ぎたかな?」
その言葉は、自分に言い聞かせているような口振りだった。
彼女──海のお姉さんは人間ではない、魔物である。
それの一番解りやすい特徴としては、腰から上が人間なのに、腰から下は足が無く、代わりに青色の鱗が映える魚の尻尾が伸びている。
岩場に腰掛けている彼女は、魚の尻尾の先端にある尾ひれを海面にぴちゃぴちゃとあてていた。
「いや、何となくだけど、解る気がするよ」
彼女に合わせたわけではなく、本心だったし、海のお姉さんが言いたいことも、何となく解った。
ただそれを言葉にするのはどうも難しかった。だから、何となくなのだ。
それを聞いた海のお姉さんは、ふむふむと頷いてから。
「何となく……ですか。いやぁ、私の言葉が抽象的だったのは認めますけど、キミのはもっと抽象的ですね。何となくなんて言葉、抽象的の最上級じゃないですか?」
「……抽象的に最上級も最下級も無いでしょ」
どちらかというと、曖昧と言った方が的を得ている。
海のお姉さんはまたふふ、と笑って「確かにそうですね」と同意してから、話を戻した。
「で、キミはどうです? 魔物と人間で、何かを感じる心に違いはあると思いますか?」
「そりゃあ、個人の感情でなら、いくらでも違いはあると思うけど……」
彼女が言いたいのは、そういうことでもないのだろう。
「それは許容の範囲内ですよ。んー、つまりですね、人間には喜んだり、怒ったり、愛したり、楽しんだりする喜怒愛楽って感情がありますけど、それは魔物側にしたって、全く同じなんです。それなら人間と魔物の、そういう本質的──といいますか、中身みたいなものに、あまり大きな差は無いと私は思うわけです」
「あー……うん、確かにそう言われれば、そう聞こえるね。だからこそこうして僕達は、普通に話していられるんだろうし」
人間と魔物。二つの種族の相違点なんて、僕達を見比べるまでもなく、いくらでも見付かるだろうけど、もしそれを、かなり無理矢理だとは思うけど、先ほど僕が言ったような、“個人の違い”として捉えるならば、僕達にあまり大きな違いは、無いのだろう。
言葉を頭の中で巡らせて、相手に自らの意思を伝えていることだけは、今この場にいる僕と彼女の共通点だ。
「ただ、一つ言いたいことがあるんだけど」
「なんでしょう?」
「その四字熟語、愛じゃなくて哀だからね」
「……?」
僕の言葉の意味が解らないのだろう、海のお姉さんはキョトンとした表情で首を傾げていた。
「だから、喜怒哀楽の哀は愛するの愛じゃなくて、哀愁の哀だから」
「え、そうなんですか?」
「そうだよ」
「哀の説明で哀愁という言葉をを使うところに、キミのひねくれっぷりが垣間見えますけども」
やかましいわ。
「じゃあ随分と哀しい言葉ですね、喜怒哀楽って。悪いことが二つもあるじゃないですか」
「元々そんな愉快な言葉でもないけど。ただ、怒ることについてはそうそう悪いことでもないと、僕は思うよ」
「ああ……確かにそうですね。怒るというのは、その子の為を思って行うものですもんね。最近そのことを解ってないゆとり魔物が鬱陶しいったらありゃしません」
魔物の社会でもそういうタイプはいるのか。なんていうか、益々人間と魔物の本質的とやらの違いについて解らなくなってきてしまう。
どんな感じなんだろう、ゆとり魔物。
「でも、それならどうして喜怒哀楽の哀は哀なんでしょう? 愛するの愛だったら、完璧じゃないですか」
「人間は完璧じゃないからね。そのことを表現してるのが、喜怒哀楽って言葉じゃないのかな」
「ふぅん……人間は随分と現実的なんですね。完璧じゃなくても、完璧を想うだけなら、いくらでもすればいいのに」
それが、人間と魔物の違いなのかな。
自分に言い聞かせるようにそう続けた海のお姉さんは、少し哀しそうな表情をしていた。
喜怒哀楽の、哀だった。
「……別に、今のは僕個人の感想なわけで、人間の中にもお姉さんみたいな考え方の人はいるんじゃないかな」
そんな彼女の落ち込んだ表情を見るのが嫌で、結局僕は今までの自分の意見を全否定した。
海のお姉さんは、笑っている方が素敵だ。
僕の思いもあってか、彼女はその表情をニコリと、愛しく思えるくらいの笑顔へと変化させた。
「そうですよね。忘れてました、キミは人間の中でも相当なひねくれものでしたね」
「うん、まぁ……一応自覚してるつもりだよ」
「自覚してるなら、治さないんですか?」
「無理だね、ひねくれてるから」
僕がそう言うと、海のお姉さんは、
「なんですかそれ、変な人ですね」
クスクスと、口に手を当てて笑い声を漏らしていた。
「でも海のお姉さんも、魔物の中じゃ結構な変わり者じゃないの?」
溺れた僕を助けた見返りに望んだのは、こうして二人で話をすること。なんて、魔物に会うのはお姉さんが初めてだけど、そうそう魔物の方でも無いと思った。
「あら、まさか初めて魔物に会った人に、変わり者扱いされるとは思いませんでした。……まぁでも確かに、ちょっと変わってるとは言われますけど……」
「言われてるんだ」
「言われてますね、ポセイドン様とかに。お前はちょっと趣味が変わってるだとか」
「趣味って、今みたいに話をすること?」
「まぁ概ねそうです。会話って、凄く心地いいと思いませんか? なんだか、相手の人と繋がってるって、キミは私をしっかり見てくれているって、一番実感出来る時だと思うんです」
そう言って彼女は、先ほどよりも一層愛しい笑顔で、ニコリと笑った。
そうだ、確かに彼女と会話していて心地がいい。
それが、僕が海のお姉さんに惚れているからなのか、単に僕も会話が好きだからなのか、どちらかなのかは、この時は解らなかったけど。
「……そうだね。ずっとこんな時間が、続けばいいのに」
彼女は、何も言わなかった。
何も言わず、ただ目を閉じて僕の言葉に浸っているようだった。
僕もそれにならって、目を閉じる。
それが叶わない願望だと、僕達は知っているから。
それでも、この時間がまだ終わりませんようにと、僕は神様にお願いしてでも、足掻いていた。
「──あ」
と、そこまで考えたところで、一つ思い付いたことがあり、思わず声を漏らした。
「どうしました?」
「いや、さっきの、人間と魔物の違いについてなんだけど」
「はいはい、何か思い付いたんですか?」
まぁ思い付いたといっても、海のお姉さんにあることを確認してからでないと、解らないのだけど。
「うん。海のお姉さんは、何か祈り事をする時、誰に願うの? ──というかそもそも、祈る対象はいるの?」
「え? うぅん……そうですね。確かに祈ることそのものが、あまり無いというか……。でも一番私達の祈りを聞いて叶えてくれそうな方だとしたら、魔王様ですかね」
ああ、やっぱりか。
これだったのか、人間と魔物の本質的な違い。
「──僕達人間は、神様か仏様に祈るんだよ。それも結構頻繁に」
主神教団が魔物の撲滅を掲げている以上、魔物の彼女達が神に祈るなんて、絶対にありはしないのだろう。
「……つまり?」
海のお姉さんが少し真剣な表情になって聞いた。
「つまり、人間と魔物の違いは、『信じる対象』ですか……」
「うん、信仰って言った方が、もっと的確だと思う」
信仰の対象。人間は神で、魔物は魔王。信仰と言っても、別に僕は教団の信者ってわけでもない。ただ、何かを祈る時、求める時、すがり付く対象は、やはり神様しか思い付かないのだ。
海のお姉さんも『魔王様万歳』とおおっぴらに言うタイプじゃないんだろうけど、それでも祈るときは、対象は魔王になる。
「あー……、これはしてやられましたね。言い返せないです」
「でも、それだけなんじゃないかな、僕達の違いなんて。とても些細なことだと思うよ」
「些細ですけど、絶対的な違いですね。スッキリしたような、ちょっと残念なような、複雑な気持ちです」
彼女の表情は変わらず笑顔だったが、その笑顔は少し、哀愁を帯びていた。
……ああ、そうだった。海のお姉さんは、人間と魔物の本質的な違いは無いと、そう思っていたんだった。失念していた。
僕は彼女の期待を、壊してしまったのだ。
そんな僕の考えが顔に出てしまっていたのか、彼女は少し慌てた様子で取り繕った。
「ああ、そんな気にすることないですよ。私がこの話をしたのだって、違いを見付けてもらいたかったからですし。──人間と魔物の本質的な違い。無かったら無かったで、それはもうとても素敵なことだとは思いますけど、それでもやっぱり、それはいけないことなんじゃないかなって、そう思っていた自分もあったんです」
そう言って、またニコリと笑って。
「だから──ありがとうございますね。違いを見付けてくれて」
そんな彼女の笑顔は、水平線の彼方に沈んでいく太陽の光を浴びて、更に美しく、愛しく思えた。
「じゃあ、私はそろそろ帰らないと」
「え?」
確かにもう夕暮れだけど、それはあまりにも唐突だった。
「あら、もう少しお話したいですか? ……それは私も同じなんですけどね。ちょっと、そろそろ限界かなって」
「ま、待って!」
思わず僕は海に入水しようとする彼女の手を、掴んだ。
海のお姉さんは驚いた様子でこちらに振り向き、僕も何か言わなければと解ってはいるが、こういう時に限って、何も言葉が思い付かない。
「まだ、何か?」
海のお姉さんはいつもの笑顔で、僕に何かを諭すような笑顔で、僕の言葉を促した。
「あ……」
何か、言うことがある筈なのに、彼女との繋がりを途切れさせない為の、とても大切な言葉があるのに。
「──! また、また明日会えるよね……!」
必死に頭の中をかき混ぜて、絞り出した言葉が、これだった。
その問い掛けに、彼女は何も答えなかった。
ただそっと、僕の背中に手を回して、体を密着させた。
「──!?」
その彼女の行動に驚くあまり、ロクに声も出なかった僕は、あたふたと口をぱくぱくさせて、顔を真っ赤にしていた。
その時に、僕は彼女の手を握る力を弱めてしまっていた。
それがいけないことだと気付いた時には、もう遅かったけど、この時ばかりは、僕の思考回路は真っ白になっていたのだ。
「さよなら、お元気で」
──ただ一言、僕の耳元で彼女がその言葉を言うまでは。
直後、海のお姉さんは僕の体から離れ、その際、握る力を弱めてしまっていた僕の右手は、彼女の右手をいとも簡単に、離してしまった。
手離してしまったのだ。
そのまま海のお姉さんは海に入水し、その影は一瞬で海中深くに消えていった。
僕は、まだ体に残る彼女のぬくもりを感じつつ、彼女の影が消えた海の中を呆然と見つめることしか、出来なかった。
その日から暫く経った。毎日僕はあの岩場へと赴いたが、海のお姉さんが現れることはなく。
そしてその更に後日、主神教団が海の魔物の討伐に成功したと、公表された。
―――――――――
それでも僕は後悔する。
あの時、彼女の手を離さなければ良かったと。
離していなければ、最期まで僕達は話せていたのに。
海のお姉さんは僕を守ってくれた。唐突に帰ると言った理由も、もう近くまで主神教団が来ていたからなのだろう。
推測になるけど、僕達が話しているところを誰かに見られていたのだろう。その誰かが主神教団に通報して、僕も魔物に与する異端者として扱われるところだったのではないか。
そのことに、彼女は気付いていたんだ。通報されたことも、僕の身が危険だったということも。
そして僕が帰り道、その主神教団の戦闘部隊と遭遇しないように、海のお姉さんは彼らを引き付けていたんだ。
もし僕が彼らと遭遇していたら、僕の身が危うかったかもしれないから。
でなければ、すぐに海に逃げれる彼女が、討伐される筈無いのだから。
僕のせいで、彼女は死んでしまった。
でも僕は後悔し続ける。彼女の手を離してしまったことだけを。
絶対に、あの会話を後悔したりはしない。僕と彼女の、たった一つの思い出を、そんな感情で染めることだけは、してはならない。
──だけど、そろそろ限界なんだ。
もう、自分を欺くことすら出来なくなってきたんだ。
彼女の思いなんかどうでもいい、ただ僕が、彼女を愛しているという事実だけで充分なんだ。
折角彼女に助けてもらった命だけど、彼女に会いたくて、仕方がないんだ。
──僕は今、彼女と話して、彼女を離したあの岩場にいる。
最期に、彼女が棲んでいた世界が知りたかったんだ。
一度溺れた時は、必死にもがいて海の中の景色なんて見れなかったけど、次はしっかりと目に焼き付けて、それから彼女に会いに行こう。
ボトン。
無気力に海に身を投げた僕は、海の流れに乗って、段々沖へと流されていく。
体が、海の底へと沈んでいく。
そこで目にした光景は、とても美しいものだった。
日の光が海面でキラキラと反射していて、まるで僕を包み込んでくれるような優しい光だ。
何も聞こえない無音世界で、ぽつりぽつりと見える魚達が、その光を賛美するように生き生きと泳いでいる。
こんな素晴らしい世界なら、僕も一緒に連れていってもらえればと考えて、気付いた。
彼女の手を握った時、僕は彼女と一緒に行きたかったんだ。この素晴らしい海の世界へと、導いてほしかったんだ。
どうしてあの時それを言えなかったのだろう。
まあ、いいや。
もうすぐ、彼女に会えるんだから。
息がそろそろ限界だった。視界が霞んで、この光景が見えなくなってしまう。
霞む視界と同時に、段々と意識も薄れていく。
僕はそれを待ち望んでいた。
さぁ、そろそろ時間だ。
海のお姉さんに会えるという楽しみだけを胸に、僕は意識を手離した。
……
…………
………………
──……て────お……て──
何かに頬を叩かれる感覚がした。凄く眠たいのに、無理矢理起こされる感じがして、あまり良い気はしない。
「──起きてって言ってるじゃないですか、もう」
誰だろう、女の人の声だ。それも凄く懐かしい感じがする。
懐かしくて、愛しいと思えるこの声は──
「──!」
未覚醒だった頭が一気に覚醒する。目を一気に開けて、僕の頬を叩いている人の──否、魔物娘の顔を確認する。
「あ、起きました?」
そこには、あの時と何ら変わり無い、海のお姉さんの愛しい笑顔があった。
僕は彼女に膝枕ならぬ尻尾枕をされて、介抱されていた。
海で溺れた僕を、また助けてくれたのだ。
なんで生きてるだとか、今までどうしていたのだとか、聞きたいことは色々あったけど、でも、今はこうして、また海のお姉さんに会えただけで満足だと、困惑気味の頭でも、そう思えた。
「……僕のこと、覚えてる?」
「さあ、喜怒哀楽の哀の説明で、哀愁という言葉を使うひねくれた人間さんなんて、覚えてないかもですね」
そう言って彼女はクスクスと、楽しそうに笑った。
僕もそれに釣られてクスリと笑みをこぼす。
「……そっか、覚えてないか」
「はい。だから──」
そこで彼女は言葉を区切って、一つ、呼吸を入れてから、
「私と、お話をしましょう」
愛しい笑顔で、そう言った。
喜怒愛楽の、愛だった。
そんな解りきった一つの題に対して、僕たちはずっと話し合っていた。
僕は人間で、彼女は魔物。
出会いは、恥ずかしながらも海で溺れた僕が、彼女に助けてもらったのが始まりだった。まぁ、出会いと言っても、そこから先ほどの題に対して話しただけで、その後彼女とは会っていないんだけど。
そんな、大衆が期待していそうなロマンチックな話でもない。ただ僕は彼女に助けられて、その見返りとして、彼女の話し相手をしていたという、どうしようもなくしょうもない話。
それでもそれは、僕にとって限りなく特別な出来事であり、一生忘れることが出来ないであろう体験だった。
今でも、この耳が、彼女の発した言葉を。この口が、僕が彼女に言った言葉を。この目が、彼女の一挙一動を。しっかりと覚えている。
自分でも、流石に気持ち悪いとは思っているけど、僕はそれほどまでに僕を助けてくれた彼女に惚れて、その美貌に目が離せなくなり、話をする彼女に恋をし、愛してしまったのだろう。
だから、彼女を想えば想うほど、僕は後悔しているのだった。
どうしてあの時、日が暮れて、お互いに帰らなければならなくなった時、どうして僕は彼女の手を離してしまったんだろう。
沢山のことをはなしたけども、彼女の手だけは、はなさなくて良かったのに。
彼女──海のお姉さん。
シー・ビショップ。
海の聖職者とされる彼女は、僕をどう思っていたのだろうか。
今はもう、忘れられても仕方がない。というか彼女は僕を覚えてはいないだろう。だけど、あの時のあの場所で──水平線の彼方が見えたあの岩場の上で、僕と彼女しか居なかったあの空間で、彼女の僕に対する意識を知りたかった。
それを知ったところで、どうしようもないことは解っている。ただの自己満足にも、なりはしない。せいぜい自己欺瞞がいいところだ。
でも、欺瞞の何がいけないのだろう。
この世界なんて、自分達を欺いて、騙して、そうして均衡を保っているのがやっとだというのに。
今更自分だけを騙したところで、誰も文句を言いはしない。
だから僕はこうやって、手記を綴る。
彼女の記憶を、確立させようとする。
これは、魔物にたった一度の邂逅で恋をした、馬鹿な人間の日記である。
僕と彼女が話した内容を、ただの雑談にしか聞こえないであろう会話を、書き記していこう。
他の誰でもない、僕の為に。
―――――――
「キミは、魔物と人間に本質的な違いがあると思いますか?」
日が傾いて、空が青と橙色の美しいコントラストを描きはじめた時間帯、ふと彼女は、その美しい翡翠色の髪を指で巻き取る仕草をして、そんなことを言った。
「本質的って……」
「あら、難しかったですか? まぁ簡単に言えば、何かを感じる心ですかね」彼女はふふ、と少し笑ってから「ちょっと抽象的過ぎたかな?」
その言葉は、自分に言い聞かせているような口振りだった。
彼女──海のお姉さんは人間ではない、魔物である。
それの一番解りやすい特徴としては、腰から上が人間なのに、腰から下は足が無く、代わりに青色の鱗が映える魚の尻尾が伸びている。
岩場に腰掛けている彼女は、魚の尻尾の先端にある尾ひれを海面にぴちゃぴちゃとあてていた。
「いや、何となくだけど、解る気がするよ」
彼女に合わせたわけではなく、本心だったし、海のお姉さんが言いたいことも、何となく解った。
ただそれを言葉にするのはどうも難しかった。だから、何となくなのだ。
それを聞いた海のお姉さんは、ふむふむと頷いてから。
「何となく……ですか。いやぁ、私の言葉が抽象的だったのは認めますけど、キミのはもっと抽象的ですね。何となくなんて言葉、抽象的の最上級じゃないですか?」
「……抽象的に最上級も最下級も無いでしょ」
どちらかというと、曖昧と言った方が的を得ている。
海のお姉さんはまたふふ、と笑って「確かにそうですね」と同意してから、話を戻した。
「で、キミはどうです? 魔物と人間で、何かを感じる心に違いはあると思いますか?」
「そりゃあ、個人の感情でなら、いくらでも違いはあると思うけど……」
彼女が言いたいのは、そういうことでもないのだろう。
「それは許容の範囲内ですよ。んー、つまりですね、人間には喜んだり、怒ったり、愛したり、楽しんだりする喜怒愛楽って感情がありますけど、それは魔物側にしたって、全く同じなんです。それなら人間と魔物の、そういう本質的──といいますか、中身みたいなものに、あまり大きな差は無いと私は思うわけです」
「あー……うん、確かにそう言われれば、そう聞こえるね。だからこそこうして僕達は、普通に話していられるんだろうし」
人間と魔物。二つの種族の相違点なんて、僕達を見比べるまでもなく、いくらでも見付かるだろうけど、もしそれを、かなり無理矢理だとは思うけど、先ほど僕が言ったような、“個人の違い”として捉えるならば、僕達にあまり大きな違いは、無いのだろう。
言葉を頭の中で巡らせて、相手に自らの意思を伝えていることだけは、今この場にいる僕と彼女の共通点だ。
「ただ、一つ言いたいことがあるんだけど」
「なんでしょう?」
「その四字熟語、愛じゃなくて哀だからね」
「……?」
僕の言葉の意味が解らないのだろう、海のお姉さんはキョトンとした表情で首を傾げていた。
「だから、喜怒哀楽の哀は愛するの愛じゃなくて、哀愁の哀だから」
「え、そうなんですか?」
「そうだよ」
「哀の説明で哀愁という言葉をを使うところに、キミのひねくれっぷりが垣間見えますけども」
やかましいわ。
「じゃあ随分と哀しい言葉ですね、喜怒哀楽って。悪いことが二つもあるじゃないですか」
「元々そんな愉快な言葉でもないけど。ただ、怒ることについてはそうそう悪いことでもないと、僕は思うよ」
「ああ……確かにそうですね。怒るというのは、その子の為を思って行うものですもんね。最近そのことを解ってないゆとり魔物が鬱陶しいったらありゃしません」
魔物の社会でもそういうタイプはいるのか。なんていうか、益々人間と魔物の本質的とやらの違いについて解らなくなってきてしまう。
どんな感じなんだろう、ゆとり魔物。
「でも、それならどうして喜怒哀楽の哀は哀なんでしょう? 愛するの愛だったら、完璧じゃないですか」
「人間は完璧じゃないからね。そのことを表現してるのが、喜怒哀楽って言葉じゃないのかな」
「ふぅん……人間は随分と現実的なんですね。完璧じゃなくても、完璧を想うだけなら、いくらでもすればいいのに」
それが、人間と魔物の違いなのかな。
自分に言い聞かせるようにそう続けた海のお姉さんは、少し哀しそうな表情をしていた。
喜怒哀楽の、哀だった。
「……別に、今のは僕個人の感想なわけで、人間の中にもお姉さんみたいな考え方の人はいるんじゃないかな」
そんな彼女の落ち込んだ表情を見るのが嫌で、結局僕は今までの自分の意見を全否定した。
海のお姉さんは、笑っている方が素敵だ。
僕の思いもあってか、彼女はその表情をニコリと、愛しく思えるくらいの笑顔へと変化させた。
「そうですよね。忘れてました、キミは人間の中でも相当なひねくれものでしたね」
「うん、まぁ……一応自覚してるつもりだよ」
「自覚してるなら、治さないんですか?」
「無理だね、ひねくれてるから」
僕がそう言うと、海のお姉さんは、
「なんですかそれ、変な人ですね」
クスクスと、口に手を当てて笑い声を漏らしていた。
「でも海のお姉さんも、魔物の中じゃ結構な変わり者じゃないの?」
溺れた僕を助けた見返りに望んだのは、こうして二人で話をすること。なんて、魔物に会うのはお姉さんが初めてだけど、そうそう魔物の方でも無いと思った。
「あら、まさか初めて魔物に会った人に、変わり者扱いされるとは思いませんでした。……まぁでも確かに、ちょっと変わってるとは言われますけど……」
「言われてるんだ」
「言われてますね、ポセイドン様とかに。お前はちょっと趣味が変わってるだとか」
「趣味って、今みたいに話をすること?」
「まぁ概ねそうです。会話って、凄く心地いいと思いませんか? なんだか、相手の人と繋がってるって、キミは私をしっかり見てくれているって、一番実感出来る時だと思うんです」
そう言って彼女は、先ほどよりも一層愛しい笑顔で、ニコリと笑った。
そうだ、確かに彼女と会話していて心地がいい。
それが、僕が海のお姉さんに惚れているからなのか、単に僕も会話が好きだからなのか、どちらかなのかは、この時は解らなかったけど。
「……そうだね。ずっとこんな時間が、続けばいいのに」
彼女は、何も言わなかった。
何も言わず、ただ目を閉じて僕の言葉に浸っているようだった。
僕もそれにならって、目を閉じる。
それが叶わない願望だと、僕達は知っているから。
それでも、この時間がまだ終わりませんようにと、僕は神様にお願いしてでも、足掻いていた。
「──あ」
と、そこまで考えたところで、一つ思い付いたことがあり、思わず声を漏らした。
「どうしました?」
「いや、さっきの、人間と魔物の違いについてなんだけど」
「はいはい、何か思い付いたんですか?」
まぁ思い付いたといっても、海のお姉さんにあることを確認してからでないと、解らないのだけど。
「うん。海のお姉さんは、何か祈り事をする時、誰に願うの? ──というかそもそも、祈る対象はいるの?」
「え? うぅん……そうですね。確かに祈ることそのものが、あまり無いというか……。でも一番私達の祈りを聞いて叶えてくれそうな方だとしたら、魔王様ですかね」
ああ、やっぱりか。
これだったのか、人間と魔物の本質的な違い。
「──僕達人間は、神様か仏様に祈るんだよ。それも結構頻繁に」
主神教団が魔物の撲滅を掲げている以上、魔物の彼女達が神に祈るなんて、絶対にありはしないのだろう。
「……つまり?」
海のお姉さんが少し真剣な表情になって聞いた。
「つまり、人間と魔物の違いは、『信じる対象』ですか……」
「うん、信仰って言った方が、もっと的確だと思う」
信仰の対象。人間は神で、魔物は魔王。信仰と言っても、別に僕は教団の信者ってわけでもない。ただ、何かを祈る時、求める時、すがり付く対象は、やはり神様しか思い付かないのだ。
海のお姉さんも『魔王様万歳』とおおっぴらに言うタイプじゃないんだろうけど、それでも祈るときは、対象は魔王になる。
「あー……、これはしてやられましたね。言い返せないです」
「でも、それだけなんじゃないかな、僕達の違いなんて。とても些細なことだと思うよ」
「些細ですけど、絶対的な違いですね。スッキリしたような、ちょっと残念なような、複雑な気持ちです」
彼女の表情は変わらず笑顔だったが、その笑顔は少し、哀愁を帯びていた。
……ああ、そうだった。海のお姉さんは、人間と魔物の本質的な違いは無いと、そう思っていたんだった。失念していた。
僕は彼女の期待を、壊してしまったのだ。
そんな僕の考えが顔に出てしまっていたのか、彼女は少し慌てた様子で取り繕った。
「ああ、そんな気にすることないですよ。私がこの話をしたのだって、違いを見付けてもらいたかったからですし。──人間と魔物の本質的な違い。無かったら無かったで、それはもうとても素敵なことだとは思いますけど、それでもやっぱり、それはいけないことなんじゃないかなって、そう思っていた自分もあったんです」
そう言って、またニコリと笑って。
「だから──ありがとうございますね。違いを見付けてくれて」
そんな彼女の笑顔は、水平線の彼方に沈んでいく太陽の光を浴びて、更に美しく、愛しく思えた。
「じゃあ、私はそろそろ帰らないと」
「え?」
確かにもう夕暮れだけど、それはあまりにも唐突だった。
「あら、もう少しお話したいですか? ……それは私も同じなんですけどね。ちょっと、そろそろ限界かなって」
「ま、待って!」
思わず僕は海に入水しようとする彼女の手を、掴んだ。
海のお姉さんは驚いた様子でこちらに振り向き、僕も何か言わなければと解ってはいるが、こういう時に限って、何も言葉が思い付かない。
「まだ、何か?」
海のお姉さんはいつもの笑顔で、僕に何かを諭すような笑顔で、僕の言葉を促した。
「あ……」
何か、言うことがある筈なのに、彼女との繋がりを途切れさせない為の、とても大切な言葉があるのに。
「──! また、また明日会えるよね……!」
必死に頭の中をかき混ぜて、絞り出した言葉が、これだった。
その問い掛けに、彼女は何も答えなかった。
ただそっと、僕の背中に手を回して、体を密着させた。
「──!?」
その彼女の行動に驚くあまり、ロクに声も出なかった僕は、あたふたと口をぱくぱくさせて、顔を真っ赤にしていた。
その時に、僕は彼女の手を握る力を弱めてしまっていた。
それがいけないことだと気付いた時には、もう遅かったけど、この時ばかりは、僕の思考回路は真っ白になっていたのだ。
「さよなら、お元気で」
──ただ一言、僕の耳元で彼女がその言葉を言うまでは。
直後、海のお姉さんは僕の体から離れ、その際、握る力を弱めてしまっていた僕の右手は、彼女の右手をいとも簡単に、離してしまった。
手離してしまったのだ。
そのまま海のお姉さんは海に入水し、その影は一瞬で海中深くに消えていった。
僕は、まだ体に残る彼女のぬくもりを感じつつ、彼女の影が消えた海の中を呆然と見つめることしか、出来なかった。
その日から暫く経った。毎日僕はあの岩場へと赴いたが、海のお姉さんが現れることはなく。
そしてその更に後日、主神教団が海の魔物の討伐に成功したと、公表された。
―――――――――
それでも僕は後悔する。
あの時、彼女の手を離さなければ良かったと。
離していなければ、最期まで僕達は話せていたのに。
海のお姉さんは僕を守ってくれた。唐突に帰ると言った理由も、もう近くまで主神教団が来ていたからなのだろう。
推測になるけど、僕達が話しているところを誰かに見られていたのだろう。その誰かが主神教団に通報して、僕も魔物に与する異端者として扱われるところだったのではないか。
そのことに、彼女は気付いていたんだ。通報されたことも、僕の身が危険だったということも。
そして僕が帰り道、その主神教団の戦闘部隊と遭遇しないように、海のお姉さんは彼らを引き付けていたんだ。
もし僕が彼らと遭遇していたら、僕の身が危うかったかもしれないから。
でなければ、すぐに海に逃げれる彼女が、討伐される筈無いのだから。
僕のせいで、彼女は死んでしまった。
でも僕は後悔し続ける。彼女の手を離してしまったことだけを。
絶対に、あの会話を後悔したりはしない。僕と彼女の、たった一つの思い出を、そんな感情で染めることだけは、してはならない。
──だけど、そろそろ限界なんだ。
もう、自分を欺くことすら出来なくなってきたんだ。
彼女の思いなんかどうでもいい、ただ僕が、彼女を愛しているという事実だけで充分なんだ。
折角彼女に助けてもらった命だけど、彼女に会いたくて、仕方がないんだ。
──僕は今、彼女と話して、彼女を離したあの岩場にいる。
最期に、彼女が棲んでいた世界が知りたかったんだ。
一度溺れた時は、必死にもがいて海の中の景色なんて見れなかったけど、次はしっかりと目に焼き付けて、それから彼女に会いに行こう。
ボトン。
無気力に海に身を投げた僕は、海の流れに乗って、段々沖へと流されていく。
体が、海の底へと沈んでいく。
そこで目にした光景は、とても美しいものだった。
日の光が海面でキラキラと反射していて、まるで僕を包み込んでくれるような優しい光だ。
何も聞こえない無音世界で、ぽつりぽつりと見える魚達が、その光を賛美するように生き生きと泳いでいる。
こんな素晴らしい世界なら、僕も一緒に連れていってもらえればと考えて、気付いた。
彼女の手を握った時、僕は彼女と一緒に行きたかったんだ。この素晴らしい海の世界へと、導いてほしかったんだ。
どうしてあの時それを言えなかったのだろう。
まあ、いいや。
もうすぐ、彼女に会えるんだから。
息がそろそろ限界だった。視界が霞んで、この光景が見えなくなってしまう。
霞む視界と同時に、段々と意識も薄れていく。
僕はそれを待ち望んでいた。
さぁ、そろそろ時間だ。
海のお姉さんに会えるという楽しみだけを胸に、僕は意識を手離した。
……
…………
………………
──……て────お……て──
何かに頬を叩かれる感覚がした。凄く眠たいのに、無理矢理起こされる感じがして、あまり良い気はしない。
「──起きてって言ってるじゃないですか、もう」
誰だろう、女の人の声だ。それも凄く懐かしい感じがする。
懐かしくて、愛しいと思えるこの声は──
「──!」
未覚醒だった頭が一気に覚醒する。目を一気に開けて、僕の頬を叩いている人の──否、魔物娘の顔を確認する。
「あ、起きました?」
そこには、あの時と何ら変わり無い、海のお姉さんの愛しい笑顔があった。
僕は彼女に膝枕ならぬ尻尾枕をされて、介抱されていた。
海で溺れた僕を、また助けてくれたのだ。
なんで生きてるだとか、今までどうしていたのだとか、聞きたいことは色々あったけど、でも、今はこうして、また海のお姉さんに会えただけで満足だと、困惑気味の頭でも、そう思えた。
「……僕のこと、覚えてる?」
「さあ、喜怒哀楽の哀の説明で、哀愁という言葉を使うひねくれた人間さんなんて、覚えてないかもですね」
そう言って彼女はクスクスと、楽しそうに笑った。
僕もそれに釣られてクスリと笑みをこぼす。
「……そっか、覚えてないか」
「はい。だから──」
そこで彼女は言葉を区切って、一つ、呼吸を入れてから、
「私と、お話をしましょう」
愛しい笑顔で、そう言った。
喜怒愛楽の、愛だった。
13/06/26 06:04更新 / いおりんりん