連載小説
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やさしい刑部狸さん
僕の名前は八島択人。
都内某所の大学に通っている。
失恋は三回目。
一度は物心もつかない時期に、
次は中学生のとき。
今回は初めて付き合う所まで行けたが、
結局別れることになってしまった。
三度も失恋しているのだから、
僕に魅力のないことは自明であり、
だからこそ、彼女が僕なんかとは離れて
よりよい男の元へと羽ばたける可能性を
手にしたことを喜ばなくてはならない。
だって大好きだから。
好きな人が幸福になれるのに、
喜ばない理由なんてある訳がない。
でも、どうしても、
僕の涙は止まらなかった。
自分が嫌になる。こんな人間だから、
愛想を尽かされたのだろうとしみじみ
思わされる。

僕はまだ新しい車を運転して、
北関東のとある森へと向かう。
そこは、一度足を踏み入れたが最後、
誰も戻ってこれないという曰く付きの森
だった。
移動中ずっと、
助手席が空白なのに慣れなくて、
そわそわしていたし、ちらちら隣を見た。
着けばやっぱり誰もいなくて、
ため息を吐き出しながら車を降りた。
車には鍵もかけず、
鍵は車内に置いたままだ。
そして僕は、どこまでも続く緑の闇へと
進んでいった。

でこぼこの道、伸びすぎたつる。
日本の原風景の一種の中で、
僕はなにも考えずただ歩く。
前に遺書でも書こうかと思ったが、
二行ほど書いたあたりで
書き残す相手がいないことに気付いて、
涙が出てきた。
湿った紙を握り潰した感触は
気持ち悪かった。
嫌なことを思い出していると、
僕はすっかり迷ってしまった。
どこを見ても同じ風景で、
引き返す道も分からない。
まるで僕の人生みたいだ、
と月並みなことを考える。
拠り所の一つである、
方位磁針を取り出してみる。
訳もなくぐるぐると回っていて、
僕の拠り所は一つなくなった。
父が失踪した日を思い出した。
スマートフォンを確認したが、
圏外だった。
なんだか腹が立って、投げ捨てた。
母が死んだ日を思い出した。

それから僕は、
どれくらい歩いただろうか。
鬱の人間は、
時間感覚すらあやふやになるという。
そういった感覚なのだろうが、
僕には森へ来るだけのエネルギーが
あったのだから、
同じにするのは甘えというものだろう。
持ってきた乾パンが、
ついに尽きてしまった。
これがなくなるまでは生きてやろう
と思っていた。
彼女に別れを告げられたあの日
を思い出した。
涙で視界が滲み、
緑のグラデーションだけが映る。
泣けば水分を消費し、死は早まる。
僕はそうして自分の首を締めた。
だからここにいる。
座り込んで、もう何も考えられなかった。

それから、どのくらい経っただろうか。


「お前さん、こんな所で何しとるんや?」

と声をかけられる。見上げれば、
馬に乗った、
ミディアムボブで茶髪の少女がいた。
なぜか和装であり、
ひょっとして幻覚なのではないか?
と疑問に思ったが、
もう考える気力もなかった。

「遭難、ですかね……」

「はぁ。……着いてきい、助けたるわ」

「…………わかりました」

断りたかった。
ここで静かに朽ちていけるなら、
それも悪くないと思っていた。
でも、彼女があまりにも美しいので、
従わずにはいられなかった。

僕は立ち上がり、彼女の馬の隣を歩いた。
しばらく歩くと、街道らしき場所に出た。
全く舗装されておらず、
ここが本当に日本の道なのか、
疑問に思うばかりであった。
思考するにはカロリーが足りないのか、
腹の虫が長く一鳴きする。

「……ほれ、握り飯や。食わんか」

「ありがたくいただきます」

一口食べると、活力が漲るようだった。
乾いた大地に水を溢したがごとく、
全身がその吸収に躍起になっていることが
分かる。
一口、また一口と食べ進め、
全て食べきった。
塩分もまるで足りていなかったので、
振られた塩と中の梅がありがたかった。
大地を踏みしめる足にも、
キレが戻ったような気がした。

「人里が見えてきたで」

「そうですね」

江戸時代のように、
古風な町並みが広がっていた。
僕はいつの間にか小高い峠にいたようで、
それを綺麗に見下ろすことができる。

それから半刻ほど経って、
ついにその人里に足を踏み入れた。
人々はみな、文明開化以前のような
暮らしぶりだった。
ありえないとだけ思った。

「すみません。ここはどこなんですか?」

「お前さんらの言葉で言うんなら、異世界って奴やな」

「そうですか。ありがとうございます」

僕は感謝を述べ、
会話を打ち切ろうとしたが、
馬の上にいる少女は、
僕を強く見つめたままだった。

「……さては信じとらんやろ」

「いえ、別にそんなことはないですが」

「見え透いた嘘つくんやない!反応が薄すぎるわ!」

誤解されてしまったらしい。
今の僕はいっぱいいっぱいだが、
それでもきちんと説明する義務がある。

「そう言われても、困っていないので……」

「はぁ!?帰りたくないんか!?」

「端的に言えば、そうかな」

僕にはなにもかもどうでもよかった。
生きていても死んでいても
変わらないのだから、
そうでないことは些事にも満たなかった。

「……お前さん、これからどうすんねん。金も食い物もないやろ」

「やっぱり、生きたほうがいいんですかね?」

「お前さんが人間ならな」

「はは、僕はまだ人間のつもりですよ」

「……もうええわ」

冗談にふざけて返したつもりが、
何事かうんざりされてしまったらしい。
気まずいデートの一幕を思い出す。

「ちなみに、僕はどこまで行けばいいのでしょうか」

「ウチの家までや」

「養ってくれるんですか?」

「ちゃうわこのボケ」

彼女は少し楽しそうだ。
どうやら、
間違った返答ではなかったらしい。

しばらく歩けば、
彼女の家に着いたらしく、
彼女は歩みを止める。

「ここや」

「えっ」

そこにあったのは平屋の建物だったが、
その大きさは豪邸と呼んで
差し支えないものだった。

「入りや」

彼女は慣れた様子で草履を脱いで上がる。
僕も運動靴をいつもより丁寧に脱いで
着いていく。
長い廊下をただただ歩いていく。

「そういえば、あなたのお名前は?」

「ウチか?ウチはカナメっちゅうねん」

「いい名前ですね」

僕は本心から褒めたが、
社交辞令にしか聞こえなかっただろう。
カナメさんは暫く黙った後、切り出した。

「じゃあ、お前さんの名前は?」

「僕は八島択人といいます」

「……ええ名前やと思うか?」

「はい。勿体ないですけどね。僕はいつも『択』を間違えて生きてきたので」

そう言うと、
またカナメさんは黙ってしまった。
あまり気分のいい話ではなかったな、
と反省する。
どうしたものかとまごついていると、
彼女は一つの襖を開く。

「そこで待っとき」

大きめの茶室のような部屋があった。
僕は畳の縁を踏まないように注意しつつ、
部屋に入って畳の上に腰掛けた。
藺草の上品な香りが心を安らげる。
カナメさんはどこか別の部屋に
行っていたようだが、
すぐに戻ってきた。

彼女の手には、急須が握られていた。
そして中身を陶器のコップに注ぎ、
僕に手渡してくる。香りから、
どうやら茶ではないようだが……

「これは?」

「薬や。お前さん、間違いなく病気やで。……心のな」

「病気って、そんな気軽に名乗っていいんですか?」

「はぁ?ウチはそうやと思うけど。誉れかなんかやと思っとらんか?」

言われてみればそうだ。
病気に誉れはない。
配慮をしなくてはならない人間にカテゴライズされるということが、現代において重要すぎる意味を持つことに僕はようやく気づいた。

「……では、そういうことにしておきます」

僕は意を決して薬を飲み込んだ。
想像していたよりは苦くも、
まずくもなかった。

「ウチはこの街一番の薬屋ってことでやっとるさかい、自信はあるんや」

「だからこんなに立派な家を建てられたんですね」

「そうさね」

褒められると、カナメさんは
胸を張って誇らしげだ。
……あまり大きくは見えないが。

「タクト。今日はここに泊まっていき。ひとまず街を見回って、夜には戻ってくること」

「分かりました」

人差し指を立てて話す彼女の意図は
掴めないが、逆らったり、
余計なことを考える気力はなかった。
お礼を述べて、玄関へと戻った。

それから三十分後、僕は街の中心にいた。
人の営みには活気があり、
誰もがいきいきとしている。
なるほど、
僕はただ死んでいないだけであって、
生きている訳ではなかったのだ
と思わされる。
物思いにふけっていると、
男に話しかけられる。

「おまん、この辺じゃ見ん姿しとるのう」

「あ、はい。異世界から来ました」

「そうか。宿の予定はあるんか?」

「薬屋のカナメさんの家に泊めていただけることになってますよ。彼女に助けられたんです」

そう僕が返答すると、
彼は僕の頭から爪先までじっくり見つめ、
不思議そうな顔をした。

「随分銭を持っとるんやなぁ」

「……無一文ですよ?」

「なんと!あのドケチのカナメが金もない男を!?」

「ケチなんですか!?」

僕はすっかり驚いて、
すっとんきょうな声で聞き返した。
あのカナメさんがケチだなんて
信じられない。

「そりゃおめぇ……なんでも金を取るがめつい奴だから、あんな豪邸に住んどるんやぞ」

「嘘ですよ。僕、おにぎり貰いましたし、薬も貰いましたよ?」

「……後で何吹っ掛けられるか分かったもんじゃねぇろ。バレねぇうちに逃げるのもアリや」

彼の悪い顔色から判断するに、
この警告は本心から来るものだと分かる。
だが、僕にはカナメさんがそんな人だとは
思えなかった。
だから日暮れとともに、
彼女の家へと帰ったのだ。

家に入るやいなや、
豊潤な夕食の香りが鼻を突く。
すっかり腹が空いて、大きな音が鳴る。
それを聞かれたのか、
カナメさんが廊下に現れて、
僕のほうへと寄ってくる。

「今日の夕食は料理人が腕によりをかけて作る自信作や。そろそろできるみたいやし、先に風呂行きや」

「お言葉に甘えて」

僕はカナメさん宅の浴場へとやってきた。
やはりとても広く、寛ぐことができた。
窮屈な安物のユニットバスとは
大違いだった。

「丁度今、夕食の準備ができたところや」

僕が風呂から出ると、
カナメさんは居間で待っていた。
大きな長テーブルの上には、
海の幸山の幸が所狭しと
敷き詰められていた。
栄養のあるものを長く食べていないので、
今すぐにでかぶりつきたかったが、
堪えて席に着く。

「「いただきます!」」

言うが早いか、僕は早速食べ始めた。
なんと賤しい行為なのだろうと思うが、
止められなかった。ただ、食べたかった。

「そんながっつかんでも、ご飯は逃げんよ」

そう諌められたが、
正気を取り戻したのは、
鯛も鮪も山菜も舞茸も無くなって、
食事がついに終わるその時になってから
だった。

「「ごちそうさまでした」」

そう宣言すると、
家の使用人がやってきて、
みんなで皿を片付けてくれた。
僕はただ疲労と満腹感で動けなかった。

「うまかったかえ?」

「そりゃもちろん!」

今日一番の肯定をした。しかし僕は、
先ほど見知らぬ男から聞かされた話が
気になり始めた。
カナメさんは決して悪人ではないはずだ。
僕は望みをかけて彼女に聞いてみた。

「はぁ、僕の借金もどんだけ膨らんだんでしょうか?」

「……なんのこっちゃ?」

「僕は無一文ですから。とてもじゃないですけど、これだけされても対価は用意できないなと思って」

「はぁ……別にウチはそんなの求めておらん」

と呆れ気味で彼女は言い捨てる。
テーブルに頬杖をついて、
まっすぐ僕を見てくる。
なんだか緊張して、目を反らしてしまう。

「タクト。お前さん、酒は飲めるか?」

「少しなら」

「ほぉ、そりゃええわ。今酒を持ってこさせるわ」

彼女がなにか襖の向こうに合図をすると、
奥から使用人が日本酒を持ってくる。
いかにも高級そうな雰囲気が漂っている。

「……いいんですか?」

「気にせんでもええ。飲め飲め」

僕は彼女に薦められて酒をあおる。
あまり飲めないタイプなのだが、
カナメさんの言葉に逆らうつもりは
起きなかった。
次第に意識は薄れていった。


「……はっ!」

僕は布団の中で目覚めた。
昨夜の記憶は全くないが、
どうやらここまで、
誰かが運んでくれたらしい。
鳥の鳴き声が静かに響いていた。
良質な酒だったためか、
沢山飲んだのに二日酔いをしていない。

「おはよう、タクト」

僕が居間まで出ていくと、
カナメさんはいた。
昨日の夕食のように、
テーブルに朝食を乗せて、
彼女はただ座って待っていたようだ。

「「いただきます」」

朝食を食べる動きにも、
精気が宿ったような気がする。
昨日は何も考えられなかったが、
今の僕には明日への希望が満ちている。
力強く鮭や味噌汁、海苔を味わって、

「「ごちそうさまでした」」

と食事を終えた。
僕は立ち上がり、出掛ける準備をする。
すると、カナメさんは声をかけてきた。

「タクト。お前さんが望むなら、今日だって泊めてやってもええんや」

と、温情をかけてくる。
彼女はなんて優しいのだろうか。

「いえ、カナメさん。僕はもう行きます」

「どこへ?やっぱり、元の世界に帰るんか?」

「いえ、どこへともなく行く予定でございます」

「……そか。達者でな」

彼女は不自然に笑って、
手を振ってくれる。
僕もぎこちない笑顔でそれに応える。

いつまでもつか分からない運動靴を履き、
玄関を出て、街をまっすぐ歩く。
やがて外へ通じる門までやってきた。
そこには見張りと、昨日の男がいた。

「おう、昨日の!無事だったか!」

「ええ、やはりカナメさんは最後まで優しかったです」

「……ってことはお前、相当あいつに気に入られてるってことだ。頼めば、住まわせてくれるんじゃないんか?」

恐らくそうだろう。僕もそう感じていた。
でも、そうする訳にはいかなかった。

「彼女は素晴らしい方です。だからこそ、僕なんかがいちゃいけませんよ。こう見えて僕は三度も失恋した、魅力のないことにかけてはこの上ない人間ですからね」

「三度もか。そりゃなかなかだな……お前、どこへ向かうんだ?」

「この街の外へ。どこかへ向かいます」

「そうか。頑張れよ」

そう、彼も僕の背中を押してくれた。
僕は街を出るため、門をくぐろうとした。

「ならぬ」

「はい?」

「「ならぬ」」

門の左右に控えた二人の守衛が、
僕の行く手を阻むのだった。

「ちょっ、通して……なっ、なにするんですか!?」

それどころか、二人は僕を取り押さえ、
ついには縄で縛り上げてしまった。

「たっ、助けてー!」

僕は二人に担ぎ上げられ、
目隠しをされて、
どこかへと運び込まれたのだった。


僕の目隠しが外される。
眩しい光に慣れないが、
ゆっくりと目を開く。
そこにいたのは……

「タクト。なぜウチの家に残らんかった?」

カナメさんだった。
まだ縄は解かれておらず、
状況は謎のままだった。
どうやらここは再び彼女の家らしい。

「……守衛の方に聞けば分かるんじゃないでしょうか?」

「ふっ……もう聞いたわ。して、その内容に嘘偽りはないんやな?」

「ありません」

そう僕ははっきり言いきった。
すると、カナメさんはにやりと笑い、
煙に包まれる。それが晴れると、
そこに居たのは狸の尾と、
耳の生えた女性だった。
顔や髪型からして絶対にカナメさんだ。

「これでもか?」

「はい」

しかし僕の意思は変わらなかった。
そもそも姿が変わったから、
なんだというのだろうか。
むしろ僕の好みには近付いている。
のんきなことを考えていると、
彼女は叫んだ。

「この意気地無しっ!!」

「へぁ!?」

「昨日酔ったお前さんから、失恋の話は全部聞いた!お前さんはなんも悪ないわ!あんな女どものことなんか忘れぇ!」

激しく説教される。普通なら怒るべきことを言われているのかもしれないが、実際彼女らよりカナメさんの方が僕は好きだ。

「でも、僕とあなたじゃ釣り合わな「ああんっ!?」

泣き言を遮るように強くがなられる。
彼女は告白されたがっているらしい。
……本当に、受け入れてもらえるのだろうか?

「僕は……」

そうだ。
僕も僕の心から逃げてはいけない。
カナメさんは逃げずに
向き合ってくれているのに、
僕だけ逃げるなんてあまりにも卑怯だ。
それに、僕には彼女が必要なのだ。
人生という深い森の中から、迷い、苦悩、失敗の連鎖から、
彼女は僕を救い出してくれたのだ。
なら、すべきことは一つだ。

「……僕は、あなたが好きだ!付き合ってくれ、カナメさん!」

「……はい♥️」

カナメさんは真っ赤になって頷く。
まだ後ろ手を縄で縛られているので
格好つかないが、
それでも告白がうまくいっただけで満足だ。

「ごめんなぁ、こんな手使って……」

彼女は縄をほどいてくれる。
守衛はどうやら、
カナメさんが金で買収したらしい。
僕が溢さずとも、彼女に対する思いは
聞き出す予定だったという。

「いいんです。僕、こんなに誰かから求められたことありませんから……幸せです」

「それならええ♥️……しっかし、ウチの本当の姿見ても全然驚かへんかったなあ」

「……驚きましたよ?」

「んなっ!……やっぱ、嫌いか?」

「まさか、こっちのほうがかわいいと思いますよ」

そう言って僕は、
彼女の丸々とした尻尾を撫でた。
するとカナメさんは熱っぽい表情で、
後ろから僕の体をがっしり掴んで囁いた。

「……もう限界や。おかしくなるまでハメ潰したるさかい、覚悟しとき」

そのまま僕は寝室へと連れ込まれ、
カナメさんと三日三晩交わり続けた。
23/03/17 21:34更新 / 味海苔
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