読切小説
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蛇が嫌い
「うわわっ!!」
 ジョンの叫び声が洞窟中に響き渡った。
 この日、彼は知り合いの冒険者たちにカネで雇われ、トレジャーハンティング目的で洞窟に挑む彼らの用心棒をしていた。彼の仲間たちは一斉にジョンの方を向いた。その事自体はひどく当然のことであった。なにせ、大剣を携えた筋骨隆々な巨漢の戦士が、その風貌と、潜り抜けた修羅場の数から考えれば到底ありえないほどに驚愕と悲嘆に満ちた、まるで台所でゴキブリを目の当たりにした年端も行かぬ少女のような、とも表現できる悲鳴を挙げたのだ。これは明らかに普通の事ではない。よほどの脅威に直面したものと思うのが当然であろう。
 だが、仲間たちの表情は、疑問と困惑と警戒心に満ちたものではなかった。それどころか、むしろ呆れと哀れみが混ざったような視線をジョンに向けたのである。実際、彼らはジョンがこのような悲鳴を上げる事にはすっかり慣れっこになっていた。そして半ば哀れみ、半ばあきれていたのである。そして、その表情にふさわしい、呆れたような声が、彼らのひとりから発せられた。
「おい、またかよ」
 ジョンの視線の先にいたのは、一匹の蛇であった。
 むろん蛇といっても様々な種類がある。ある蛇は牛を絞め殺すほどに巨大であり、別の蛇は小型ではあるがその牙には猛毒をひそめており、人間を容易に死に至らしめる。あるいは上半身が人間の女性、それもとびきり美人な女性の姿をした者もおり、ある種の脅威……むろん、それは別の者に言わせればこれ以上のない極楽らしいが……を主に男性に与えてくる。だがジョンの前に立ちはだかり、彼をして驚愕の悲鳴を上げさせたのは、そのような危険な種ではない。世界中の草むらや洞窟の中に潜み、ネズミやらカエルやらを食べながらつつしまやかに暮らしている、どこにでも普通に見かけるようなアオダイショウかシマヘビの類であった。本来なら、大の男を驚かせるには、体躯、実力、威圧感、そういったものが圧倒的に不足しているはずであった。
「……ああ、すまない」
 仲間たちの方を向き直り、答えるジョンの声もまた、先刻の悲鳴同様、本来の彼の物ではなかった。本来のジョンの声は、彼の力強い体躯に相応しい大声であり、それは戦場で放たれるなら味方に鼓舞を、敵に恐慌をもたらすに十分なものであり、戦場を離れれば酒の力も加わり宴席をおおいに盛り上げるのが常であった。そんな男が発したとは思えない、弱弱しい、女々しいつぶやきであった。そしてその視線は蛇から逃れ、助けを求めるかのように仲間の方を向き、足は震えるようになんとか蛇から離れんとしていた。
 酒とケンカを愛し、戦場を駆け抜け、敵兵や野獣を相手に武を振るい、その力を誰もが認めるジョンの、ほとんど唯一といってもいい弱点が、蛇であった。全身鎧を着こんで大斧を振るう蛮族の勇者、巨躯を誇る野生の熊や虎の類すら恐れを知らず立ち向かうジョンが、手や足もない、ただ長細い……長いといってもせいぜい人間の手足ほどの長さあるかどうかもあやしい……だけの、せいぜい女子供に多少の嫌悪感を催す程度が精一杯の生物を恐れ、おびえすくみあがる光景は哀れであり、滑稽ですらあった。
 ジョンにとって幸いであったのが、普段の、それこそ彼の生涯のうち9割9分9厘までを占めるであろう勇名は、大の大人が蛇を恐れるなどという情けない事実程度では揺らぐ事のない確かなものであり、この事実でジョンが周りの者から後ろ指を指される事はまずありえないという事であった。もうひとつの幸運は、ジョンがこのように蛇を忌み嫌うようになったのはれっきとした理由があり、彼の親しい者たちがそれを正当なものであると認めている事であった。

 多くの人間は、その心の奥底に恐怖を潜めている。
 例えば智と法で国民を導く政治家が、ズボンの裾のわずかな汚れに恐怖する。贅をつくし美食をほしいままにした食道楽者が、トマトだけは頑として拒否する。多くの部下を率いて思いのままに操る軍人が、家では両親や妻の視線を恐れ縮こまっている。極めてありふれた光景である。
 おそらくそういうものは、何もない所から自然に発生するものではない。例えば清涼な池に徐々に汚泥がたまり、いつしか腐臭を発する沼地と化すような事もあるし、逆に平和な町の近くにあった火山が突如噴火して地獄絵図と化すように発生する事もある。いずれにせよ、人間にトラウマを引き起こすためには、なんらかのきっかけが必ずあるものであった。
 ジョンにとってもそれは例外ではない。そして彼の蛇嫌いは、本当にある日突然、青天の霹靂とも呼ぶべき突然の大事件により引き起こされたものであった。

「乾杯!」
 ジョンたちのこの日の冒険は「いつもよりはマシ」な結果に終わった。
 彼らは何ら財宝を得たわけではない。金銀財宝も、それにつながるような宝の地図も、捨て値で売りさばいてもひと財産になるような古代のマジックアイテムとやらも、何も得られはしなかった。それどころか、ただの金貨の一枚すら、得る事ができなかった。
 それでも、彼らは誰ひとり欠ける事なく、五体満足で帰ってきた。そして何より、「誰も入った事のない、何かあるかもしれない洞窟」が、実際は「何もない洞窟」であるという、ある種の連中にとってはきわめて貴重な情報を入手することができたのである。むろん彼らはそれを他人に伝えたりはしない。何も知らない連中が宝を目指してあの洞窟に入り、なんら得る事もなく失意のうちに帰る。こんな思いを誰かがすると考えるだけでも、彼らにとっては痛快な事であった。さらに正確を期するなら、こんな思いをするのが自分たちだけというのが、あまりに悔しい事であった。
 ともあれ、無事に帰ってきたことへのささやかな酒宴を、彼らは繰り広げていた。
「どこぞのマヌケ野郎に」「乾杯!」
「すっごい冒険から生きて帰ってきた事に」「乾杯!」
「まだ見ぬお宝に」「乾杯!」
 男たちは疲労感とわずかな充足感をビールに込めて胃に流し込んだ。
 ひたすら飲みまくり、すっかりできあがり、酔い騒ぐのは男の特権と決まっている。近頃はそうでもないらしく、男同様に豪快に飲み騒ぐ女もいると聞かないでもないが、少なくともこの酒場で騒いでいるのは野郎ばかりだ。女たちは野郎どもの喧騒を遠目に見ているだけで近寄ろうとはしない。当然だ。武器を持って戦場やら洞窟探検やらを好む巨漢の集団が、今にも暴れださんとする勢いで酔っているのだ。そんなところにわざわざ寄ってくるような物好きな女もいるまい。そう、誰もが思っていた。

 つい先刻までは。

 いつの間にだろうか。男たちの間に、明らかな異質な存在が混じっていたのは。
 その女は恐れる事なく屈強な戦士たちの所に近づくと、さも最初からそこにいたかのように、ビールをあおっていた。体格も背丈も男たちとは全く違う、男たちが剛なら、まさしく柔の化身。見ず知らずの男たち、それも小山のような者たちの中に普通に入っていけるのは、人間の所業ではない。それもそのはず。彼女は明らかに人間ではなかった……サキュバス、という魔物に出会った事のある者はそう多くはなかったが、名前ぐらいは、誰もが知っていた。
 そうしているうちにサキュバスは、あまりに自然に男のひとりに近づくと、わずか数語を交わしただけで、初対面のはずのふたりは、たちまち長年付き添ってきた恋人同士の雰囲気を周囲に強く示すようになった。そしてサキュバスは現れた時と同様、あまりにも自然な仕草で去っていった……むろん、男を連れて。

 酒宴は、ほんのひととき、停止した。
 男たちが酔って騒いでいたら、気が付いたらひとり増えており、さらに気が付いたら、ふたり消えていた。
 言葉にしてしまえばシンプルだが、そのシンプルさが却って彼らを混乱させた。あのサキュバスはいつの間に入り込んでいたのか。そして自分たちはそれについてなぜ不自然さも覚えず、そして奴は連れていかれたのか。魔物、というものの魔力。としか言いようがない。
 少なくとも男がこのまま戻ってこないのは、まず間違いないと思われた。だが、男を案じる者は誰もいなかった。少なくとも彼にとっては決して不幸な事ではないのもまた、間違いないと思われたからだ。
「はぁ〜」
 ようやく、男のひとりが沈黙を破った。
「羨ましいもんだねえ」
 魔物、それもサキュバスに魅了されたとなれば、当然色事三昧の生活を送るというのが相場である。教会の教えを強く受けた連中が何と言うかは知らないが、そこまで熱心な信者でもなければ、男だったら美人とイチャつけるというのは、それだけで人生勝ち組といえる。いっそ美人だったら、この際人間だって魔物だって関係ねえや。そんな風に考える男も、近年確かに増えていた。それはこの場で飲んでいた男たちにも共通の認識であっただろう。
「ふん」
 だが、ひとりだけそれに反する男がいた。
「……ああ、まあ、お前さんはな」
 酔いがさめたような不機嫌な顔のジョンに、他の男たちは苦笑いをした。

 ジョンは、魔物を嫌っていた。
「魔物なんざ結局人間じゃねえんだ。あんな黒い羽やら変な色の肌やらの女に勃つ奴の気なんざ知れんよ」
 以前はこう公言してやまないものであった。さすがに自分の意見が周囲に受け入れがたいものであるというのは最近ようやっと気づいたようで、酔った場であってもそれを怒鳴り散らす事はしなくなったが。
 そして周囲は、ジョンの考え方に同意はできないにしても、それを無下に否定する事はしなかった。何故なら、ジョンの魔物嫌いは、とある種の魔物に対する嫌悪感の派生である事が、誰の目にも明らかだったからである。
「特にラミアって奴は最悪だね。だって、蛇だぜ、蛇。他のは垓歩譲って認めるにしても、ラミアだきゃあダメだ、世界が終わってもあれだけは絶対認められねえ」
 つまりは、そういうことであった。

 いつしか宴も終わりを迎え、ジョンはいつに間にかベッドに潜りこんでいた。

 暗い、どこまでも続くかのような森の中を、ひとりの少年が歩いていた。
 ジョンにはその顔に見覚えがあった。ジョンを昔から知るものであれば、その理由にも気が付いたかもしれない。あるいは時間の流れというものを嘆いたかもしれない。あどけない、と表現できるその顔だちは、確かにどことなく、ジョンに似ていた。といっても今のジョンとは体格も年齢も、何より得てきた経験も違いすぎ、よーく見なければ、その顔がまぎれもないジョンの幼少の頃であるという、そのひとかけらに気付くことはまずできない、その程度の似方ではあったが。それでもなお厳然たる事実として、その少年こそかつてのジョンその人であった。
 遠い遠いおぼろげな記憶ではあるが、それは精密な絵画のごとく、ジョンの脳裏に焼き付いて離れないものであった。だから、森の獣道を進んだ先に何があるか、ジョンは良く知っていた。
(ダメだ……やめろ……)
 かつての自分にジョンは呼びかけた。だが少年はそのような声など聞こえなかったかのように、森の奥へと進んでいった。
(これ以上……行っちゃいけない……)
 それでもなお呼びかけるが、熱情に突き動かされる少年は足を止める様子などない。やがて木々が開けると、そこに一軒の小屋が見えた。迷う事なく、少年は扉へと手を伸ばす。
(開けるな……よせ……)
 そして少年は扉を一気に開き……

「うわあああああっ!」

 叫び声とともに飛び起きたジョンの目に、さわやかな朝の光が飛び込んできた。
「はあっ、はあっ、はあっ……」
 窓の外は雲一つない晴天だった。だがジョンの心には、厚い黒雲が立ち込めていた。
「……ちっ、またか」

 それはジョンがかつて目の当たりにし、それ以降も何度となく夢に見た光景だった。そして、そのあまりに強烈極まりない体験が、ジョンをして今もなお蛇嫌いにさせ、さらには魔物すべてを憎むようにしたのであった。
 ジョンが見た、扉の向こうの光景。思い出すたびにジョンは、怒りと悲しみに苛まれ、自分でもどうしようもない感情に襲われるのだった。

 扉を開けたむこうでは。

 ひとりの少女が大蛇に喰われていたのである。
 大切な、幼馴染ともいえる、女の子が。


 さて、魔物が男を連れ去る事自体はよくある事であった。ジョンの仲間もたびたび魔物に拉致られ、ジョンの昔からの知り合いを見る事は、滅多になくなった。
 そんな中でも、ジョンが魔物に声をかけられ、連れ去られる事は、今の今までついになかった。ジョンが魔物を嫌っているから、魔物もジョンを嫌っているに違いない。そんな事を仲間たちはささやきあった。
 なぜ魔物が自分に声をかけないのか。ジョンにとってはどうでも良い事であった。魔物を憎む人間はいまだに多く、しかし魔物は自分たちが憎まれている事を重々承知しており、それでもなお人間を誘惑するのである。自分が魔物を憎んでいるから魔物から声をかけられない、そんな事があるはずはない。それくらいはジョンにも分かっていた。ただ、少なくとも魔物嫌いは本物であり、何だか知らないがその魔物が近寄ってこないのは好都合である事は間違いないので、ひとまずは何も考えず、ジョンはその境遇に甘んじる事にしていた。
 というのも、ジョンは今、魔物に誘惑されるわけにはいかない立場であった。

 この日、ジョンはとある場所を訪れていた。
 気の置けない野郎どもと勝手気ままに時間を過ごす、いつもの喧噪にあふれた小汚い酒場とはまったく違う、気品と静寂に満ちたそのバーでは、さすがにジョンはいつもの薄汚れたシャツと古びたジーンズではいられず、彼にとっては息苦しい事この上ない、持つ中では一番上等な服を身にまとっていた。にも関わらず、ジョンの来訪はバーの来客たちを戸惑わせ、おおいに困惑させるものであった。それもそのはず。ジョンの筋骨隆々な巨体と、そこから発せられる野蛮で暴力的な雰囲気は、服装などでは到底覆い隠せず、バーの中でジョンは明らかに異質な存在であった。ジョン自身もその自覚はあるようで。ここに来るたびに、道の洞窟に進むのとは明らかに異質であるが、それと同様、もしかしたらそれを上回るかもしれない脅威を、ジョンは感じるのであった。
 だが、そのような事に憶する様子もなく、ジョンはバーの奥に進んでいった。その姿はバーでひと時を楽しむ者ではなく、むしろ戦場に向かう戦士のオーラを全身から発していた。周囲の困惑をよそに進むジョン。やがて足を止めると、おもむろに。
「よお」
 その女性に呼びかけるのであった。
「来てやったぜ」
「ふうん」
 熱を帯びたジョンの声に反し、彼女……ジェーンの視線は極めて冷たいものであった。
 人々が静かに歓談するバーで、ジェーンはいつもこの時間、この場所で独りきりで飲んでいるのが常であった。それは何とも奇妙な光景であった。ジョンのように高級バーにいる事がおかしいような風体では決してない。それどころか、ジェーンは間違いなく美女の範疇であった。その顔だちは妖艶と表現できる中にもかすかに処女の純真さが感じられた。少し高めのワインを口にしながらも決して赤い顔をせず、常に無表情を保っていたが、ひとたびその口元がわずかにでも微笑む事があれば、たちまち男どもを魅了する事は間違いのない様子であった。その雰囲気は、静かで照明の薄いバーの雰囲気に完全に溶け込んでいた。その姿は一枚の名画にも匹敵する芸術にも例えられると思われた。
 そんな女がただひとりで飲んでいるのである。大衆酒場であろうが、それよりは上品な人々の集まるパブであろうが、太古より酒と色恋沙汰は切っても切れないものであり、ジェーンほどの女であればバー中の男たちが我先にと特攻玉砕を繰り返すのが当然だと思われた。が、どういうわけか男たちはジェーンの周囲に集まりはするけれど、遠くから取り巻くだけで、手を出そうとする者はただのひとりも現れずにいるのである……ジョン以外は。
 それにしても、ジョンのジェーンに対する熱情は、間違いなくまともなものではなかった。狂気すら感じられる、と言っても決して過言ではなかった。

「結婚してくれ」
 ジェーンを初めて見た時の、ジョンの第一声がこれであった。
 ジョン自身、この言葉のおかしさには気が付いていないはずもなかった。これまで顔を合わせた事のない、名前すら知らない女性に対し、何の躊躇いも戸惑いもなく、この言葉が出てきたのである。だが、ジョンの中では確かに、この事への奇妙さよりも、目の前の女性が自分の運命の相手であるという、口に出したら赤面のあまり死にたくなるであろう事をきわめて真剣に感じたのであった。
 無論、そんな狂気な求愛を受け入れる女はおるまい。この無謀な挑戦者に向けられたのは氷のような一瞥だけであった。並の男であるなら、狂的な熱情に氷水どころかブリザードを喰らわされ、自らを恥じて二度と人前に出られなくなるであろう、そんな視線であった。さしものジョンもこれには一度は熱情を鎮火させられ、引き下がらざるを得なかったが、それでも次の日にはさらなる情熱をもって、名も知らぬ女に自らの思いを叩きつけるのであった。
 そんなやり取りの中、ジェーンという名をどうにか引き出し、それでも態度は全く変わらず、今の今に至るのであった。

「何度でも言ってやる」
 ジェーンの無関心など意に介さぬかのように、ジョンは声を上げた。
「お前が好きだ、愛している、付き合ってくれ」
 幾度となく繰り返されては、いつもと同じ対応……無視され続けてきた言葉である。だがジョンは全くめげる様子もない。初めて会った時から、ジョンの心はジェーンに完全に奪われていた。自分にはこの女しかいない。そう、心に決めた時から、ジョンは人生で最大の強敵と、もう何年も相対しては、その全ての攻撃を完膚なきまでに受け流されていたのである。
 ジョンがただの野蛮な男であるなら、この美しいが何物にもなびこうとしない女を、力づくでモノにしようとしたことであろう。だが、この野蛮人はどういうわけか、そんな気を起こさずにいた。これについてはジョン自身にも説明がつかないでいた。ジョンの中にかけら残った紳士性がどういうわけだが増幅されたのか、それともジェーンがあまりに美しすぎ、ジョンの中で神聖にして侵さざるものと位置づけられているのか。ともあれ、ジョンはこの障害最大の困難に対しては、あくまで真っ向から挑み、乗り越えるつもりでいたのであった。
 あとはいつもと同じだった。ジョンはひたすらに不器用で真っすぐな愛の言葉をジェーンにぶつけ、ジェーンは静かにグラスをあおりながらただただそれを聞いている。ジェーンからは何も発しない。無視という名の無言の拒絶を続けるのみであった。この冷たく、硬く、高く、分厚い壁の前に、何度ジョンの攻勢は止められ、その士気をくじかれたかは分からない。やがてジョンはあきらめて包囲網を解き、失意のうちに撤退する。そして、それほど間が開かないうちに敗戦の悔しさ、みじめさなどすっかり忘れ果てたかのように、再度意気軒昂に攻め込んでいく。これの繰り返しであった。

 誰もがそう思っていた。

「今日で」

 が。

「何日になるかしら」

 鈴を転がすような声が、ジェーンの唇から漏れた。
 場がざわめいた、ように思えた。これまで、完全に無言か、良くて誠意の感じられない相槌程度の対応でしかないジェーンが、ジョンに対し意味のある言葉を発したのである。この事自体は決して初めてではない。それでも、ジョンが死ぬほどの苦労の果てにジェーンの名を聞き出した時以来の事であった、かもしれない。
「何が?」
「あなたと私が、出会ってから」
 それは他愛もない言葉であった。こんなに長い間、よくもまあ、懲りずに通いづめたものだ。そういう意図の言葉だと、聞き耳を立てていた野次馬どもは考えた。
「わかんね、数えた事もねえや」
 しかしジョンにとっては違っていた。内容はともあれ、あのジェーンが自分に言葉を発してくれた。これは小さな一歩であるが、ジョンにとってはあまりに大きな一歩であった。大きな喜びがジョンの心を満たしかけたが、こんなところで立ち止まるわけにはいかない。喜びを必死で隠しながら、平静を装ったつもりでジョンは答えた。だが、その次の言葉は、そんなジョンの精神を完全に打ち砕いた。

「892日」
「え?」

 なんということだろう。ジェーンは、ジョンも記憶すらしていない、初めて会った日を覚えていた。そして今日が何日目かを、しっかり記憶していたのだという。その日数が真実か否かは、ジョンにとってはどうでもいい事であった。これまで、長い日数に反し、ジェーンから意味のある言葉を聞けたことなど、片手で数えられるほどに過ぎなかっただろう。それが、今日はこれほどまでに自分に話しかけてくれたのである。偉大な一歩どころか、千里を一跨ぎにしたかのように、ジョンには思えてならなかった。
「……そうか、そんなになるのか」
 いつも多弁なはずのジョンが、やっとのことで言葉を紡ぎだしていた。だがジョンの衝撃は、これで終わらなかった。

「……ほんっと、長かった」
「え?」
「ん、こっちのこと」

 言ったジェーンの唇は、いつもの真一文字がかすかに動いただけではない。ほんのわずかであるが、その端を吊り上がらせていた。間違いなく、そこにある表情は、微笑であった。

「お、おい」
 大いなる歓喜!……のはずであった。
「今日はいったい、どうしたんだ」
 だが、なぜかジョンの心の中に、ほんの一筋、ごくごく微量な成分であるが、間違いなく歓喜とは違う、異質な成分が混じっていた。おかしい。さすがにおかしい。確かにこういった展開は、自分が心の底から望んでいた事のはずである。だが、あまりに事が急に進みすぎている。今までジョンに好悪以前に完全に無関心に見えたはずの女が、こうまで急に態度を変えるとは。時間の経過が心情を変えたのだとしても、あまりに変わりすぎる。何かあるのでは?一度は打ち砕かれたはずのジョンの精神が、警鐘とともに形を変えて現れようとしていた。
 しかし。

「これ」
 ジェーンが手渡した一枚の紙が、今度こそ完全に、ジョンの精神を破壊した。
「明日、ここで、待ってる」
 言うなり、思いのほか素早い動きで、ジェーンは立ち上がると、あっという間にバーから出ていった。
「……」
 ジョンはその背中を呆気に取られて眺めていた。この891日……むろん彼女の言葉が真実なら、で、あるが……いつもジョンがジェーンに背を向けていた。それが今日は、ジェーンがジョンに背中を見せている。

 そして。
 892日目にして、はじめてジェーンが、自分からジョンを誘った。
 この事実を前に、ジョンが抱きかけた疑念や警戒心は、今や完全に吹き飛んでいた。
 明日、893日目、一体何がジョンを待つのだろうか。メモ書きに書かれた住所を半ばぼんやりとした目で眺めながら、ジョンの心は期待に塗りつぶされていた。


 その日の夢は、いつもと少しだけ、違っていた。

「今日の夜、いつもの場所に来てね」
 昨日までの泣き顔が嘘のようだった。
「最後だから、あたしのヒミツ、見せてあげる」

 それはジョンの一家が住み慣れた都市を離れ、別の都市に向かう前日の事だった。
 ジョンにはいつも一緒に遊んでいた女の子がいた。引っ越すとなれば、当然、彼女にも別れを告げなければならない。無論、大変に悲しまれた。泣かれた。だが彼女もようやっとあきらめがついたのか、吹っ切れたような笑顔をジョンに見せていた。
 その彼女が、まさにジョンが引っ越す前日、それも夜中に、ジョンを誘ったのである。どういうわけだか、ジョンはこの少女には逆らえずにいた。ちっちゃい頃なら女の子の方が強いのは当然だろうと、大人たちは言っていた。
 当然、子供が夜中、それも転居の前日に家を抜け出すなど、できるはずもない。だが、ジョンはあえてそれをした。皆が寝静まった夜、こっそり家を抜け出すと、ふたりで良く遊んだ隠れ家へと向かったのである。
 あの子が見せてくれる秘密とは何か。期待に胸を弾ませながら夜の森を進み……

「……ちっ」
 ここで、ジョンは目を覚まし、舌打ちをひとつした。外はまだ、暗い。
「なんで、今になってこんな……」

 中途半端なところで目覚めてしまったが、むしろジョンにとっては幸いだった。あそこで目覚めなければ、おそらくいつもと同じ悪夢につながったであろうから。

 隠れ家の中で見たのは、無残にも少女が大蛇に食われている光景だった。下半身を全て食われ、上半身も今にも飲み込まれようとしていたのである。
 ジョンは叫びをあげで逃げ帰った。あとは布団にもぐり、朝まで眠れもせずに震えていた。幼馴染の少女が蛇に食われた事も怖かったが、それを大人たちに知らせ、夜中に無断で抜け出した事を責められるのも、また怖かった。
 翌日の朝早くにジョンは両親とともに旅立っていった。結局、少女が食われた事を誰に伝える事もできなかった。それを人前で悲しむわけにもいかず、誰もいない所でジョンは、ただただ泣いた。

 嫌な事を忘れるために、ジョンはもう一度、布団をかぶった。
 寝て起きれば、893日目である。間違いなく、明るい未来が待っている、はずである。


 ……


「……ここ、か?」
 メモにある住所を訪れたジョンは愕然とした。
 そこは普段バーで物静かで飲んでいる姿からは想像もつかないような、華やかさとは程遠いスラム街であった。そしてジョンの目の前にあったのは、付近に立ち並ぶ家々の中では、別段古くも新しくも、大きくも小さくもない、ごくごく平均的な家、要するにあばら家と呼んでも差し支えない建物だった。本当にこんなところにジェーンは住んでいるのだろうか?こういう場所に相応しいのは、ストリートギャングか、マフィア連中、あるいは魔物……
 とはいえ、ジョンにとってはあの高級感あふれるバーよりは、今いるこの場所の方がまだしも空気があるのも確かではあった。別にジェーンの財産が目当てではないので、どこかの金持ちのお嬢様でなくても全く問題はない。そう、ジョンは自分を納得させる事にした。
 そして、疑問は間もなく氷解する事になる。

「ジョン!」
 さらなる驚愕を伴って、で、あったが。
「来てくれたのね!」

 ノックよりも早く扉が開き、そこから出てきたのは紛れもないジェーンであった……はず、であった。間違いなく顔はジェーンだし、その全身から放たれるオーラは、間違いなくジョンがあれほど入れ込んだジェーンである事に間違いはない。
 だが、彼女はジェーンではあったが、ジェーンではない。まず、バーの彼女は、今、彼女がそうであるような、下着姿で人前に出るような事は絶対にありえない。普段から、なるべく体型を出さないような服装であってもなお、その下には豊かなプロポーションが隠されているのではと想像するに十分な曲線美を誇っていたが、今や彼女はその体型を惜しげもなく空気にさらしている。豊かで形崩れしていない胸、自然な曲線をもってくびれた腰回り、桃のような丸みを帯びたヒップ。さすがに大切な部分は覆い隠されているものの、少なくともそれはジョンが初めて目の当たりにするものであった。
 そして何より。

「さ、入って入って!」

 この満面の笑顔。さらには喜びの言葉。ジョンの来訪を心底喜んでいるのが明らかに見て取れる。そして、ジョンの腕をつかむと、意外に強い力で扉の向こうへと引きずり込まれる。違和感を覚える間もなく、ジョンはジェーンに導かれ、奥へと入っていった。

「乾杯!」
 外見同様にボロい室内において、ジェーンの存在と、目の前に置かれた上等なワインは明らかな異彩を放っていた。若干の戸惑いはあったが、それでも愛する女性がこうして目の前におり、魅力的な肢体を晒している、その事がジョンの中では勝った。勧められたワインに軽く口をつけると、それでもなお自分の中に残る若干の疑問を、ジョンは差し出す事にした。

「一体、どういう事なんだ?」
「何が?」
「これまでぜんっぜん、なびいてくれなかったのに、突然」

 ジェーンはその場と服装にそぐわぬ優雅な姿勢でワインに口を付けると、微妙、としか表現しきれない笑みを口元に浮かべた。

「今日で、893日目」
「それが?」
「だからよ」
「……??」
「わかんない?」
「全然」
「……まあ、普通は、そうかもね」

 ジェーンはそのルビーのような真紅の瞳で、真正面からジョンを見据えた。

「あなたが、私のことを好きになって、苦しんで苦しんで、それに耐え抜いて、で、今ここに来てくれたのが、893日」
 ジョンにはジェーンの言葉の意味が分からなかった。ただ、その美しい瞳を見ていると、ただただ魅力的である、という事とは別の感情が浮かんでくるのが、かすかに感じられた。
「そして」

 ジェーンの顔が近づいてきた。いつしかその両腕が、ジョンの体躯を捕えていた。

「私があなたの事を、ずーっと好きで好きで、好きすぎてたのが、893日」

 まずい。
 ジョンの中で警鐘が鳴り響く。今まで戦場で何度もジョンの命を救ってくれた、第六感ともいうべき、警鐘。だが、今回はそれを避ける時間など、なかった。仮にあったとしても、そもそも避ける意思を持つ事ができたであろうか。それほど彼女の赤い瞳は……

「ね」

 吸い込まれそうに……

「トニーちゃん」

「!!」

 それは確かに、今や名乗る事のない、ジョンの本名であった。
 なぜその名を、の言葉を、ジョンは発する事ができなかった。
 ジェーンの唇が、それを塞いだからである。

 それと同時に、ジョンは自らの異変に気が付いた。気が付いてしまった。
 つい先刻まで、ジェーンはその両腕をジョンの首に巻き付けていた。彼女の腕から来るぬくもりを味わっていたのだが、いつの間にか、そのぬくもりが、首回りだけではなく、ジョンの全身を包み込んでいる。いや、それだけではない。ジョンの両腕が、胴が、足が、何かに包み込まれ……いや、そんな生易しい表現ではない。むしろ拘束するがごとくに締め付けにかかっている。ジョンの膂力をもってしても、逃れられそうにはない。

「ひどいよね」

 唇だけは放してくれたジェーンの言葉には、バーで見た淑女の雰囲気は、かけらもなかった。

「私は一目で気付いたのに、トニーちゃんたら、かんっぜんに私の事、忘れてたんだもの」
「……」
「それに、私が大事なヒミツを教えてあげた、あの時も」
「……」
「あん時、結構、傷ついたんだよ、私」

 ジョンを拘束していたのは、紛れもない。ジョンが世界で最も憎み、最も恐れているものであった。
 それは巨大な、蛇の体。そして、その上にあるのは……

「だから、決めたんだ」
「……」
「私が苦労した分だけ、トニーちゃんにも苦しんでもらう、って」

 そこにいたのは、ジェーンでは、なかった。

「……ベアーテ」

 ジョンが発したのは、かつての幼馴染の名だった。

「やっと」
 この日一番の笑顔を、ジェーン、いや、ベアーテはした。
「思い出してくれたんだ」

 満面の笑顔のベアーテとは対照的に、ジョン……ではない、トニーの顔は。
 困惑、混乱、茫然がそれぞれ33%ずつ。
 残り1%は、喜び、歓喜、幸福感……と、似たようなモノではあるが、決してそれとは断言できないような、表現することが極めて困難な、感情。

「お前」
 やっとのことで、トニーは口を開く。
「食われたんじゃ、ないのか」
「はぁ!?」
 瞬間、ベアーテの魅力的な笑顔が怒りにゆがむ。平静なら怒った顔も可愛いとか思えたかもしれないトニーだったが、この時に思ったのは全く別の事だった。
 機嫌が悪さを隠そうともしないその顔には、間違いない、トニーのよく知るベアーテの面影がありありと見て取れた。


……


 すべては、あの日から始まった。
 『魔王』の代替わりで、全ての魔物が人間女性に酷似した姿を取るようになった、あの日から。

 もはや人を憎み、人と殺し合う時代は終わった。
 人を愛し、人と交わり、子を産み、幸せになれ……

 魔王による改変により、全ての魔物に取って、その事が生の目的となった。
 とはいえ、今まで殺し合っていた人間と愛しあうとか、そう簡単にできる事ではない事もまた確かであった。魔物側に人間を愛する意図があっても、人間はいまだ魔を憎んでおり、それを乗り越えて人間と愛をはぐくむにはどうすればいいか。それをなんとか考える事は魔物たちにとって至上命題であった。
 魔物たちはそれぞれで回答を出した。ある者は力づくで人間をモノにすることを選び、別の魔物は魔力で魅了する道を選んだ。そして、一部の魔物は人間の社会に紛れる選択をした。その中には、魔物である事を隠さぬ者もいたし、一方で魔物の姿を隠し、人間の女性として人間男性と恋愛をする道を選んだ者もいた。

 とあるラミアもまた、人間の姿をとる道を選んでいた。
「決して本当の姿を見せてはいけませんよ」
 母親は、娘にそう強く教えていた。
「本当に好きな男性、あなたの事を心から大事にしてくれる男性に出会った時は、その人にだけあなたの本当の姿を見せてあげる事です。そうすればきっと、幸せになれますよ」
「はい、ママ」

 ベアーテという、そのラミアは、まだ子供であったが、母親の教えを忠実に守り、人前では普通の人間の親子として生活をしていた。誰も、彼女が魔物である事に気付く事はなかった。
 そんな折、ベアーテはひとりの男の子に出会った。トニーという、同い年の男の子を目の当たりにして、ベアーテはまだほんのお子様ではあったが、こんな事を強く思ってしまった。

(この子が、あたしの運命のヒト……!!)

 それから毎日のようにベアーテはトニーと遊んだものであった。姿は人間とはいえ中身は魔物なものだから、さすがのトニーもベアーテにはいろいろな意味で勝てず、大人たちには半分ぐらい主従関係に見えもしたが、それでも子供のころなら女の子の方が強いから仕方ないぐらいに思っていたようであった。
 ベアーテにとって幸せな日々は、しかし、突然終わりを告げた。トニーの家族の転居に伴い、トニーもまた他の都市に移る事になったのであった。ベアーテは泣いた。泣いて泣いてトニーを責めてはまた泣いた。そしてトニーが引っ越す前日、ベアーテはある考えに思い至った。それはかつての母親の教えであった。

(トニーなら、あたしの本当に姿を受け入れてくれるはず、そうすればあたしたちは、ずーっと幸せになれる、はず……)

 そうと決まれば、ベアーテは止まらなかった。

「今日の夜、いつもの場所に来てね」
「あ、でも明日出発だし、しかも夜になって」
「最後だから、あたしのヒミツ、見せてあげる」

 戸惑うトニーに強引に約束を取り付け、その日の晩、ベアーテはふたりの遊び場である森の中の小屋へと向かった。そして服を脱ぎ棄て、魔術を解くと、人間の二本の足は消え失せ、たちまち虹色の蛇の体が姿を現した。
 そしてベアーテはトニーを待った。自分の本当の姿を見せられる事のうれしさを抱え、そしてトニーがそれを受け入れてくれる事を信じて。
 完全に信じ切って。

「うわあああああっ!」

 よもや、自分の姿を見るなり、トニーが悲鳴を上げて逃げ去るなどという事は、予想だにせず。

 ふたりが初めて出会って、893日目の、それが結末だった。

 ベアーテは悲しんだ。
 悲しんで悲しんで悲しんで、トニーを恨み、母親を恨みすらした。

「大丈夫、きっと幸せになれるわよ」

 ママはそう言うだけだった。

「だって、あなたが選んだ男なんだから」

 
 その言葉をベアーテは、到底信じることができなかった。
 あの日、ジョンと名乗る男が、ジェーンを名乗るベアーテの前に現れるまでは。


 ……


「じゃあ、何よ」
 ベアーテはいまだ不機嫌だった。
「あんた、あたしの姿見て、あたしが蛇に腰ぐらいまで飲み込まれてたって、そう見えたわけ?」
「……」

 あの時、トニーが見たのは。

『蛇に飲み込まれた少女』

 ではなく、

『蛇の下半身を持つ少女』

 だった。

「全く、おかげであたしは今の今まで、あんたのせいですっごくつらかったってのに、その理由があんたの勘違いとか、全く、なんといっていいやらだわっ」
 ベアーテの言い分は、トニーにとっては非常に不本意なものであった。確かにあの時の事はベアーテには大変なトラウマになったかもしれない。しかし、トラウマという点ではトニーだって負けてはいないのだ。あの日のおかげで、トニーはいまだに蛇嫌い、魔物嫌いであり続けている。そして、仲良かった友達を見捨ててしまったという思いを今の今まで抱えて生きてこなければならなかったのだ。大体、見間違えた件だって、本来なら寝ていなければならない時間に、子供が暗がりで正常な判断ができるはずがないだろう……
 それくらい言ってやりたかったトニーだったが、できない事情があった。
「だいたい、ひっさしぶりに会った時だって、あージョンなんて名乗ってるけど間違いなくトニーちゃんだって、あたしはすぐに気づいたのに、トニーちゃんはぜんっぜん、あたしの事覚えてなくってさあ」
 かつて完全に頭の上がらなかった女の子相手だったのもなくはないが、それ以上に、時間が経過した事で、今自分が置かれている環境に気が付いてしまったからだった。
「だから、あたし、決めたんだ、あたしがトニーちゃんに片思いしてた893日の間は、トニーちゃんに、あたしのこと、片思いで苦しんでもらうって。あの時のあたしのつらさを、少しでも味わってもらおうって」
 まくしたてるベアーテの言葉は、トニーには入っていなかった。
 それもそのはず。

 トニーは今。
 あれほど嫌いで、恐怖していたもの。
 すなわち、

 蛇。そして魔物。
 その両方を兼ね備えた、ラミア。

 そのラミアによって全身巻き付かれ、拘束されている。

 その事実に改めて気付いてしまったのである。

「……ちょっと、トニーちゃん、聞いてる?」
「……う」

 ため込まれていた感情が堰を切って溢れ出そうとしていた。
 あとはもう、男のしての矜持などかなぐり捨て、ひたすらに泣いて叫んで暴れ、拘束を解いて逃げ出すべくもがいてもがいて疲れて死ぬまでもがき続ける。そうなるはずであった。

 だが、結果的にそうはならなかった。
 それは男としての矜持、強い部分の男によってではない。むしろ真逆、男の弱い部分によるものであった。

「全く」
 トニーの顔に、柔らかいものが押し付けられた。
「泣き虫なのは変わんないんだから」

 トニーが冷静なら、子供のころの印象で自分が語られる事に強い不満を持ったかもしれない。
 だが、この状況ではそれは不可能な事であった。

 柔らかく、それでいて確かな強さがある。温かく、包み込むような香りのするもの。
 それがベアーテの巨乳である事に気が付くのに、トニーには若干の時間を必要とした。下着越しではあったが、それでもなお、意識の低下をきたし、恐怖を確実に和らげるほどには、トニーはその感触に酔っていたのである。これが生乳だったらいったいどれくらいの破壊力があるのだろうか。
 しばしその感覚に浸っていたトニーだったが、そこから急に引き離された。ああ勿体ない、と思う間も与えられなかった。おっぱいの次にトニーの目の前に来たのが、ベアーテの真剣な眼差しだったからである。

「トニーちゃん、あたしの事、怖い?」
「……」
 トニーは必死で首を左右に振る。二重三重の意味で、イエスとは言えなかった。
「あたしの事、好き?」
「……」
「好きだよね、だってあんなに言ってくれたじゃない、愛してる、結婚して、って」

 この時のトニーの感情はどうだっただろうか。
 蛇やっぱり怖い。魔物やっぱりわけわかんない。てかベアーテやっぱり怖い。友達だったけどあん時ゃ恋愛感情なんてわかんなかったさお子様だったし。そもいまだにで生きてた事が飲み込めきれたわけじゃあない。うん確かにジェーンの事は結婚したいって言ったしそれは間違いだとは言いたくないし。美人だしスタイルはグンパツだしいい匂いするしおっぱいだし。でもやっぱり怖いかも。目の前にいるのはジェーンでベアーテで魔物で蛇で。ああもう。そんな成分。
 そんな様々な成分をミキサーに詰めてミックスジュースにした結果、きわめて複雑な味になってしまったが、それでもそれを美味いか不味いかの二元論で説明しなければいけないのであれば、結局こういう風に言わざるを得ないのだろう。
 そう、自分に言い聞かせる事にした。

「好きだよ」

 たぶん、と付け加えようとしたのを、さすがにトニーは飲み込んだ。

「あたしも」
 あ、来る。思う間もなかった。
「トニーちゃんの事、愛してる」
 言うなり、出会って以来、2度目の口付けが交わされた。


「……ぷはっ」
 長い長いながーいキス。荒い息をつくトニーを、うっとりとした目でベアーテは見つめていた。
「あはっ、トニーちゃあん、かわいい」
 両手を後ろに回すと、ブラのホックを自分で外す。
「今度こそ、もう二度と離れる気なんか、起こさなくしてあげる」

 巨乳をどうにか覆い隠していたブラが、重力に引かれ、落下した。

 あふれんばかりのおっぱいを隠す布地とは、無力なようであるが、その実、凄まじい力を持っている。
 その薄い布地は、一見して、追い詰められた犯罪者が最後の手段として毛布をかぶるようなもので、物を隠す手段としては全く意味をなさないだろう。布地の上からでも、その大きさ、形、触ってみたさは明らかである。布地に覆われていても、おっぱいは一定の破壊力を確かに有する。
 だが、その、物を覆い隠すにはどう見ても不十分な、おっぱいの大きさに比してあまりに小さな布地は、時として強大な防御力を発揮する事がある。その布地が、おっぱいのとある部分を覆い隠す時、それはあたかも分厚い黒雲が太陽を覆い隠し、日光を遮断するがごとくの威力を示すのだ。
 今や、それは取り払われた。トニーは今や、太陽の光を、それがもたらす熱量を、真っ向から浴びている。そんな感覚に襲われていた。
 その小さい布地が覆い隠していたもの……ベアーテの、豊かすぎる両の胸の、その先端に色づく薄いピンク色の領域。そして、そのまさに中央に鎮座いたします、ピンッと張って存在を主張する、小さな突起。
 この、わずかな部分が、とてつもない存在感をもって、トニーに自己主張をしていたのである。

「……」
「……」

 自分のパーツの中で、最も魅力的なもののひとつであり、最も愛する男性にしか見せたくなかったもの。それを愛する男性に見せつける時が来た事で、ベアーテは、どうだ、といわんばかりの得意げな顔をしていた。そして無言のまま、トニーの反応を伺っていた。
が、それに対し、トニーは何も反応を返さない。メデューサに視線を合わせてしまった男のように、微動だにしようとしない。
「ちょっと、トニーちゃん」
 これにはベアーテも平静ではいられなかった。若干の焦りと苛立ちが言葉に混じっていた。
 だが、トニーが黙っていたのは、ベアーテのおっぱいに、乳首に不満を持ったからではない。むしろ、真逆であった。ベアーテのおっきすぎるおっぱい、その感触はつい先刻味わったばかりであり、その魅力はよーくわかっている。その上、その先端にはこんなに魅力的な乳首。あまりに美しく、魅力的で、エッチだ。それをトニーは、いつものように情熱の全てを言葉にしてぶつけても良かった。だが、あえてそれをしない。できなかった。言葉にしたら全て陳腐になるような気がして、トニーはベアーテのおっぱいの魅力を口にする事ができなかったのだ。
 数瞬の逡巡の末、トニーは結局、それを口にするのをあきらめた。代わりに、その魅力を自らの態度をもって示す事にしたのであった。トミーは自らの顔をベアーテの胸に押し付けると、その感触を味わうとともに、その乳首を直接自分の口で味わう事にしたのであった。
「あんっっ!!」
 敏感な部分に突然の攻撃を受け、ベアーテの口からは甘いあえぎの言葉が漏れた。
「ちょ、そんな、いきなり、んっ!!」
 トニーの顔いっぱいに広がるベアーテのおっぱいの感触。焼き立てのスポンジケーキのように温かくふわふわで、それでいて押し返してくる弾力はさしずめナタデココか。そして口に含むピンク色の乳首はほんのり甘く、おっぱい全体とはまた違う温かさ。例えるなら、おっぱいの温かさは包み込む母親のもの、乳首の熱は生命の躍動感。
「んあんっ、そ、それ、いいよお、もっとしてぇ」
 ベアーテはさらなる快感を求めるように、右手をトニーの後頭部に回すと、自分のおっぱいにぎゅっと押し付けた。空いた手が、自然と自分のおなかの方に向かう。
「あんっ!!い、いつもより、すごい……」
 ベアーテが自分の大事な部分をいじる、くちゅくちゅ、という湿った音を、トニーが聞く余裕はなかった。トニーが感じているのは、目の前に押し付けられたおっぱいの感触。そして、自分がおっぱいをもみしだき、乳首をなめ、少し歯を立ててやるごとに、それに反応するかのように動く、自分を締め付ける蛇の体の蠢動のみ。
「はうっ!んっ、んっ、ううん、いい、いいよぉ」
 トニーを締め付けて妖しくうごめく蛇の体。その動きはトニーに、とある物を連想させた。それを想像しただけで、トニーの一部分は張りつめそうになった。そして、その部分が、何やらやわらかい物に触れた。かと思ったら、それを触る何かの存在。トニーには見えようもなかったが、いつの間にか、トニーのズボンはあまりにも器用に脱がされていた。そしてフル勃起したペニスは、ベアーテのおなかに触れ、そしてベアーテの左手が、それを握りしめていたのであった。
「あはぁ……あたしで、こんなになってくれたんだ」
 拘束されているトニーには見えない。ベアーテの、ラミアのあの部分も人間と同じ場所にあり、発情した女がそうなるように、あるいはそれ以上に、淫靡に濡れて、てらてらと輝いている事を。そして、自分のペニスが、ベアーテの手に、体全体に導かれ、その部分に誘われている事を。ただ、いやらしい刺激とえっちな期待でとろけているベアーテの顔は、これまで見た中でも一番美しく、そのおっぱいは素晴らしく完璧なものであり、そこを刺激すると体全体で悦びを示してくれるのがうれしく、それが全てであった。そこに新たな感覚が加わったのは、自分のペニスがこれまで経験したことのない、あたたかく湿った柔肉に触れた時であった。
「んっ、入れちゃう、ね」
 嫌も応もなかった。トニーには、抵抗も逃走も無駄である事は分かりきっていた。それ以前に、その意志すら、なかった。
 トニーのペニスが、ベアーテの中に飲み込まれていく。ぷちっ、という音を、聞いたような気がした。
「……くうっ」
 襲い来る快感。だがそれを口に出すのは恥ずかしいような気がして、トニーは必死でそれに耐えた。それでもわずかな声が漏れるのは、避けられない事であった。
「んんんんんんっ!!」
 一方、ベアーテはそれを我慢する必要性など、全く認めていなかった。だから、素直に声に出した。自分のヴァギナが初めてペニスを、それもずっと恋い焦がれていた男のペニスを迎え入れる事のできた、その喜びと快感を。
「あ、トニーちゃんが、はいってる……あたし、しあわせ、らよお」

 あとはもう覚えていない。
 トニーは自らの肉蛇をベアーテの肉壺に何度も入れ、白濁液を何度も出した。
 そのたびにベアーテは、快感と幸福感に悶え、何度もトニーの名を呼び、声をあげた。
「ああっ!トニーちゃん、トニーちゃん、とにぃちゃああん」


 ……


「トニーちゃん」
 全身から喜びを発散させながら、全身でトニーの身体を抱きしめながら、ベアーテは言った。
 一方、トニーの顔が、どことなく幸せ一色には見えなかったのは、賢者モードのせい、というわけでは決してないであろう。
果たして、この時のトニーの心情を、いったいどう、説明すればいいだろうか。

「あたし、本当に、ほんっとうに、うれしかったんだよ、再会した時から、ずーっと。ううん、初めて会った時から思ってたの、今すぐにこうしちゃいたい、って」

 それを言い現す事など、できやすまい。

「ほんとにほんとにほんっとに、ずーっと、ガマンしてたんだよ」

 当然だろう。「一目ぼれした女性は死んだはずの幼馴染だった」「幼馴染は、憎んでいたはずの蛇の魔物だった」「大蛇に下半身食われていたと思ったら、実は上半身人間で下半身大蛇の見間違えだった」などという経験をできる者は、世界でもそうはおらず、同じ体験をしたものでなければ、トニーの心情を理解できる事など、おそらくはできないだろうから。

「もう、ガマンなんかしなくても、いいんだよね」

 実際、トニーも混乱していた。蛇は怖い。魔物は嫌い。それが合わさったラミアは最悪だ。そして今、そのラミアに自分は捕まっている。怖い。逃げたい。えっちした相手を逃がしてくれる魔物がいるわけはない事も分かっている。でもやっぱり逃げたい。しかし彼女は確かに自分が愛したジェーンだし、かつて初恋などというものを理解できなかったころにものすごく仲良かったベアーテだ。ジェーン、いや、ベアーテが自分の事を愛してくれるのは、トニーとしては、一個の男としては、きわめて光栄で幸運で幸せな事だと思う。思うのだが……

「トニーちゃん、愛してる、大好き、結婚して」

 魂の奥底から、トニーを責めさいなむ、恐怖心。にも関わらず、彼を包み込む、この上ない安らぎと幸福。相反する感情の奔流に、トニーの精神は嵐の中の小舟のごとく、揺れに揺れていた。ともすればそのまま沈没してしまいそうな、混乱の極みにありながら、トニーの中でただひとつだけ、確信している事があった。

「もう、ぜーったいに、離さないからね」



 自分は一生、心身ともに、ベアーテから、逃げられない。
17/06/27 23:28更新 / 田中湊

■作者メッセージ
タイトルの時点で隠す必要全くなかった。

ひとつだけ。

なぜジョンはジェーンに一目惚れしたか。
なぜ他の魔物がジョンに寄り付かなかったか。

要はマーキング済みだったってことで。

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