とある弁護士志望者
俺の名前は田守裕太。
平成生まれのピチピチの35歳だ。
モットーは『いかにして楽に生きるか』。
これは過去に特に辛い経験をしたとか、そういう深い事情はない。
学生時代にはいじめを受けていて、その際に俺が好きだった芸能人が「いじめられる奴にも問題がある」というコメントを見て酷く失望したという経験はあるが、別にモットーを抱く理由になったわけではない。
俺の性格は生まれながらのものなのだと思う。
俺は大企業役員の裕福な親の元で何不自由となく育った。
大学浪人時代では2度も文理転向して、同級生たちが不景気の中で就職どうしようと頭を抱えている中で俺は5回目となるセンター試験を受けていた。
まあ当時は政府も政治家もクソなせいで日本が絶賛不景気であり、親も「時期が悪いから」と納得してくれた。
大学卒業後は公務員試験を受けるという体裁で、フリーターとして遊ぶ金を稼ぎつつ警察官を志望し続けた。
年齢制限に引っかかってそれが出来なくなった以降は、弁護士になると司法試験予備試験の勉強をするようになった。
もちろん、記念受験を繰り返しているだけで本気で受かるつもりはなかった。
経済も全く良くなる兆しが見えないし、親には俺を養う経済力もある。
少子高齢化だか人手不足だか世間は散々騒いでいるが、俺1人が社会に出てその一員になったところで改善はしない無理な話、つまり俺には関係のないことだった。
…先月までは。
先月、高収入で貯蓄もたっぷりあるはずの父親が、やらなくても良いはずの資産運用をわざわざ行った挙句大失敗し、貯蓄の殆どを溶かしてしまったのだ。
俺はいい機会だとばかりに父親を全力で罵ったが、返ってきたのは弟と母親からの顔面パンチだった。
妹からは私物を勝手に捨てられた。売ればそこそこの金になったであろう食玩やフィギュアなどは無慈悲にもゴミ収集車によって圧縮された。
妹は俺が項垂れる様子を見て高笑いしていた。なおコイツは既婚者であり、旦那さんは嫁ガチャ大外れである。
弟からは日常的に殴られるようになった。俺と違って勉強やサークル活動を大真面目に励んで生きていたこいつにとって、奨学金を貰わなければ大学に通えなくなるのが相当癪だったらしい。その怒りを父親にぶつけてくれよと思ったが、何を話しても殴られるだけだった。
一昨日は俺の手からゴルフクラブを奪い取り、そのまま頭や背中を何度も殴られた。額から血が流れ出て、俺は生まれて初めて死を覚悟した。
飼い犬のシベリアンハスキーは、俺を見るなり吠えるようになった。ペットショップで買ってきた俺が本来の飼い主であるはずなのにすっかり弟に懐いており、昨日は足に歯型がくっきり残るくらい本気で噛みつかれた。
母親は俺の食事にドッグフードを出すようになった。
自分の明日の身のことで頭がいっぱいな母親は、俺に対して興味関心が失せたようだ。
「嫌なら早く家から出ていけ」
母親は何も言わないが、そう言っているようにしか見えなかった。
流石に命の危機を感じた俺は、これ以上家に居ることが出来なくなった。
今まで本気でなかった俺は、仕方なく司法試験に合格するために本気で勉強することを目的に、東京に上京した。
東京になら、俺が本気になれる環境があると思った。
バスの中でスマホをいじっていたら、俺と同じく司法試験を志す人間たちのシェアルームマンションがあると知った。
SNSで俺も住んでいいかとメンションかけてみたら、家賃月3万円を払ってくれるなら構わないと言われた。
…2LDKに3人も住んで家賃3万円は完全にボッタクリだとは思ったが、他に方法はなかった。
かくして、夜行バスで一晩かけて東京駅にたどり着いた俺は、東京五反田にあるというシェアルームマンションに向かうことになった。
東京の五反田は、駅から離れれば思ったより閑静な住宅街であり俺の地元と殆ど変わらなかった。
しかし、駅前の不動産屋の「1DKマンション月15万円」という破格な価格を見て、俺は東京の混沌を思い知った。
…本当に家賃3万円でいいのかと不安になったが、今更腹に代えられなかった。
――――――
そして今に至る。
「ユータ、一緒に勉強しましょうね」
「あの…先生、そろそろ辛…」
「辛いとか言わないの。
ほら、数学のお勉強よ」
「数学の試験は、予備試験の中には無いです…」
「ダメよ。
あなたには基礎的な学力が圧倒的に足りていないの。
大学入学共通テストで600点は取れるようになりなさい。
そうでなければ予備試験なんて認めませんからね」
なお、予備試験はあくまでも予備試験であって司法試験ではない。
司法試験を受けれる資格を手に入れるだけであって、そこからさらに勉強をしなければならないのだ。
故に、本気で受験をしようと思うのならば、そんな無駄な勉強などせずに受験科目のみに専念するべきなのだが…
「あなたには基礎学力だけではなく、常識も倫理も足りていないわ。
そんな人を、弱者の味方たる弁護士にさせるわけにはいかないの」
「司法試験の就職先は弁護士だけじゃな…」
「どちらにせよ、基礎知識がないことには法律の勉強なんて出来ないわ。
共通テストでの勉強を通じて、身につけていきましょう」
五反田のルームシェアマンションに着いた俺は、「魔物娘」の元で養われることになった。
人間とは倫理も常識も異なる存在…という話だが、少なくともイーウェンはこの日本国の倫理と常識に適応してうまく立ち回っている。
先生の名前はイーウェン。 種族は白澤。
ギャルの名前はヤティン。 種族はカク猿。
人間が大好きで人間との交尾が好きな魔物娘のはず…なのだが、どういうわけか彼女たちは日本に適応している。
名前からして中国系の魔物だろうし中国に行けよと思ったが、どうやら彼女たちには日本に思うところがあるらしい。
先生…イーウェンによって、俺の生活はなにもかも管理された。
スマホは解約させられた。イーウェンのデザリング無しには使うことができない。
食事中はテレビをつけられて、政治家のお家騒動など俺には微塵も興味がないニュース番組を観させられる。
アルバイトも内容やシフト、ノルマを指定された上で無理矢理させられた。
今まで親含めた誰かから直接アレコレ指示をされたことのない俺にとって、自分の生活から支出の全てを握られることは大変苦痛だった。
まあ、東京の賃金で3万円は週に2回のアルバイトですぐ到達する金額だし、光熱費に食事代も彼女が工面してくれることは救いだった。
頑張った暁には、イーウェンは『ご褒美』をくれる…が、目標に達しなかったら『お仕置き』される。
…真面目に頑張れば『お仕置き』は回避できる。そこまで高いノルマではないが、俺は頑張らざるを得ない。
いや、それより問題は…
「勉強が嫌なら、私と運動しちゃう?」
もう1人の同居人、ヤティンにあった。
イーウェンから逃げることは、ヤティンに目をつけられることを意味する。
ヤティンはギャルであり、堕落の権化。
俺が少しでもイーウェンから逃げ出せば、ヤティンはどこからともなく俺の前に現れ、堕落へと誘う。
…いや、俺だって堕落したいのだが。
その…ヤティンの堕落は格が違いすぎる、とにかく辛いのだ。
危ない薬を注射されて、意識が朦朧としたこともあった。
その後はまあ…出せるものもないのに硬くはなるものだから、処理が死ぬほど大変だった。
気持ち良すぎることも一周回れば苦痛になるということを嫌というほど分からされた。
パリピの群れに投入させられ、地下アイドルのライブ会場でゲストとしてステージに立たされたこともあった。
あの時の観客たちの怒りは凄まじかった。中身の入ったペットボトルを投げつけられ、中身が俺の顔面にかかってしまった。
ハゲデブオタクの飲みかけ飲料は、今までのなによりも気持ちが悪かった。
政治家の事務所や、よく分からない人権団体の事務所にスマホ片手に突入したこともあった。
矢面に立っているのはヤティンとはいえ、下手したら命を狙われるんじゃないかと今でも不安でいっぱいである。
迷惑系YouTuberだってそこまではしないぞ。
ヤティンの遊びは危険すぎる。
彼女から逃げようとしても、人間離れした力で強引に引き摺られてしまう。
夜にこっそり逃げ出そうとしても、ヤティンがすかさず俺を捕捉して追いかけてくる。
一度だけ、逃げ切れたことがあったが…
実家に帰るわけにもいかず、東京はどこも物価が高い。外食をしただけで貯金は溶けてしまった。
そんな中で、大人たちが勉強をしながらルームシェアしているマンションがあると聞き、扉を叩いたのだが…
扉には「出ていけ」「ゴミ出しルールを守れ」という怒りの張り紙があちこちに貼られている。
扉を開けると、1LDKに自分より歳上の大人たちが4人、布団の上で寝転んで、値引きシールの貼られたパンをくちゃくちゃ音を立てて食べていた。
誰も掃除もせず部屋はゴミまみれであり、家の中は生ゴミの腐臭が酷い。シンクは食品トレイで塞がっており、ゴキブリらしい黒い影が見え隠れする。
彼らは将来ビッグになるんだ億り人になるんだと布団の上で怪しい自己啓発書を読んでおり、お笑い芸人から夢追い人ビジネスへと移行した芸能人の政治主張動画がリビングのテレビでループ再生されている。
あまりの不快感からたまらず逃げ出そうと振り返れば、そこにはイーウェンとヤティンが居た。
「魔物娘にも救えないものはある」と、イーウェンは俺を見て苦笑しながら言った。
「あれがワタシ達に出会えなかったユータの将来の姿だよ」と、ヤティンはニヤニヤしながら言った。
猛烈な自己嫌悪、いや、同族嫌悪に駆られた俺は、黙ってイーウェンの教えを受けるしかなかった。
「本当は、ヤティンを弁護士にするという話だったんだけど…この子、全然勉強しないのよね」
「えー、勉強とか無理だしー」
「うっ…俺だってもう無理…」
「じゃあ、あなたはこれからどうするの?
司法試験に合格して、親兄弟を見返したいと思わないの?」
「いや、見返したいけど!
見返したいけど…こんなにも辛いなんて」
「それとも、アタシとひたすら遊び呆けてみる?」
「それは無理だ!
絶対に身体が保たない!」
「ならば黙って勉強するべきよ。
私たちの国の言葉に『急がば学べ』という言葉があるのと同じように、あなたの世界にも『ローマは1日にしてならず』という言葉があるでしょう?」
「だからって、国語や数学、歴史まで勉強させられるなんて…」
「弁護士なら国語は絶対に必要でしょう?
歴史だって日本人の思想に関わるものなんだから、法律に携わって依頼人にアドバイスを施すにおいて必要なものになるわ。
数学は必要ないかもしれないけど、あなた中学生レベルの計算も出来ないじゃない、あまりにも惨めでカッコ悪いわ」
「ねえ、ユータ。
今までずっと勉強をしてたんだよね?
あれウソだったの?」
「いや、勉強はしていたよ!?
ただ、ちょっと…良い先生に恵まれなかったというか…」
「なら、私がユータの理想的な先生になってあげる。
勉強する格好だけして満足するような情けないユータより、弁護士として活躍するユータが見たいわ」
「イーウェンのその言葉、俺が20代のころに聞きたかった!」
「この国では50歳近くで合格した人も珍しくないって、自分で言ってたじゃない?
ユータもそのうちの1人になりましょう?」
今更、弁護士以外の仕事など、俺のプライドが許さない。
汗水垂らして泥まみれになって働く作業着姿の社会人を、下げたくもない頭を下げるスーツ姿の社会人を、俺は見下し過ぎた。 過去に弁護士気取りで社畜をネットでめちゃくちゃ馬鹿にしてしまった。
かと言って、いい歳して夢追い人ビジネスにのめり込んだおっさんにはなりたくない。夢を追うことが目的になって、何も成し遂げられない人間にはなりたくない。
弁護士になるしかない。
「俺は…楽に生きたいんだ!
人に頭を下げたくないんだ!
皆から称賛されたいんだ!
黙って俺にお金だけ出して欲しいんだ!
魔物娘ならばこの気持ち、分かってくれないか!?」
「ごめんね、その気持ちだけは分からないわ」
「うーん、分からない!」
「なんで魔物娘はこの気持ちだけは分かってくれないんだ!?」
「だって…見ず知らずのアタシたちに対して、いきなり『投資に使うから金をよこせ』という人はねぇ…
日本の悪徳政治家だってユータほどアホでも間抜けでもないと思うよ?」
「気持ちは分からないけど、その考えを矯正してあげることは出来るわ。
ね、ユータ。 弁護士を目指して頑張りましょう?」
「それが嫌ならユータ、今日も一緒に危ない遊びしよ?」
ああ、逃れられない!
俺に出来るのは、せめて、年老いて動けなくなるまで勉強するフリを続けることくらいだ。
「ユータはとっくにインキュバスだから、これ以上老いることはないよ?」
「ユータ、テストの難易度はどんどん上げていくからね。
着いていけないようなら…フフフッ」
「…がぁぁぁぁ!?」
五反田のルームシェアマンションで、俺の叫びが虚しく響き渡った。
平成生まれのピチピチの35歳だ。
モットーは『いかにして楽に生きるか』。
これは過去に特に辛い経験をしたとか、そういう深い事情はない。
学生時代にはいじめを受けていて、その際に俺が好きだった芸能人が「いじめられる奴にも問題がある」というコメントを見て酷く失望したという経験はあるが、別にモットーを抱く理由になったわけではない。
俺の性格は生まれながらのものなのだと思う。
俺は大企業役員の裕福な親の元で何不自由となく育った。
大学浪人時代では2度も文理転向して、同級生たちが不景気の中で就職どうしようと頭を抱えている中で俺は5回目となるセンター試験を受けていた。
まあ当時は政府も政治家もクソなせいで日本が絶賛不景気であり、親も「時期が悪いから」と納得してくれた。
大学卒業後は公務員試験を受けるという体裁で、フリーターとして遊ぶ金を稼ぎつつ警察官を志望し続けた。
年齢制限に引っかかってそれが出来なくなった以降は、弁護士になると司法試験予備試験の勉強をするようになった。
もちろん、記念受験を繰り返しているだけで本気で受かるつもりはなかった。
経済も全く良くなる兆しが見えないし、親には俺を養う経済力もある。
少子高齢化だか人手不足だか世間は散々騒いでいるが、俺1人が社会に出てその一員になったところで改善はしない無理な話、つまり俺には関係のないことだった。
…先月までは。
先月、高収入で貯蓄もたっぷりあるはずの父親が、やらなくても良いはずの資産運用をわざわざ行った挙句大失敗し、貯蓄の殆どを溶かしてしまったのだ。
俺はいい機会だとばかりに父親を全力で罵ったが、返ってきたのは弟と母親からの顔面パンチだった。
妹からは私物を勝手に捨てられた。売ればそこそこの金になったであろう食玩やフィギュアなどは無慈悲にもゴミ収集車によって圧縮された。
妹は俺が項垂れる様子を見て高笑いしていた。なおコイツは既婚者であり、旦那さんは嫁ガチャ大外れである。
弟からは日常的に殴られるようになった。俺と違って勉強やサークル活動を大真面目に励んで生きていたこいつにとって、奨学金を貰わなければ大学に通えなくなるのが相当癪だったらしい。その怒りを父親にぶつけてくれよと思ったが、何を話しても殴られるだけだった。
一昨日は俺の手からゴルフクラブを奪い取り、そのまま頭や背中を何度も殴られた。額から血が流れ出て、俺は生まれて初めて死を覚悟した。
飼い犬のシベリアンハスキーは、俺を見るなり吠えるようになった。ペットショップで買ってきた俺が本来の飼い主であるはずなのにすっかり弟に懐いており、昨日は足に歯型がくっきり残るくらい本気で噛みつかれた。
母親は俺の食事にドッグフードを出すようになった。
自分の明日の身のことで頭がいっぱいな母親は、俺に対して興味関心が失せたようだ。
「嫌なら早く家から出ていけ」
母親は何も言わないが、そう言っているようにしか見えなかった。
流石に命の危機を感じた俺は、これ以上家に居ることが出来なくなった。
今まで本気でなかった俺は、仕方なく司法試験に合格するために本気で勉強することを目的に、東京に上京した。
東京になら、俺が本気になれる環境があると思った。
バスの中でスマホをいじっていたら、俺と同じく司法試験を志す人間たちのシェアルームマンションがあると知った。
SNSで俺も住んでいいかとメンションかけてみたら、家賃月3万円を払ってくれるなら構わないと言われた。
…2LDKに3人も住んで家賃3万円は完全にボッタクリだとは思ったが、他に方法はなかった。
かくして、夜行バスで一晩かけて東京駅にたどり着いた俺は、東京五反田にあるというシェアルームマンションに向かうことになった。
東京の五反田は、駅から離れれば思ったより閑静な住宅街であり俺の地元と殆ど変わらなかった。
しかし、駅前の不動産屋の「1DKマンション月15万円」という破格な価格を見て、俺は東京の混沌を思い知った。
…本当に家賃3万円でいいのかと不安になったが、今更腹に代えられなかった。
――――――
そして今に至る。
「ユータ、一緒に勉強しましょうね」
「あの…先生、そろそろ辛…」
「辛いとか言わないの。
ほら、数学のお勉強よ」
「数学の試験は、予備試験の中には無いです…」
「ダメよ。
あなたには基礎的な学力が圧倒的に足りていないの。
大学入学共通テストで600点は取れるようになりなさい。
そうでなければ予備試験なんて認めませんからね」
なお、予備試験はあくまでも予備試験であって司法試験ではない。
司法試験を受けれる資格を手に入れるだけであって、そこからさらに勉強をしなければならないのだ。
故に、本気で受験をしようと思うのならば、そんな無駄な勉強などせずに受験科目のみに専念するべきなのだが…
「あなたには基礎学力だけではなく、常識も倫理も足りていないわ。
そんな人を、弱者の味方たる弁護士にさせるわけにはいかないの」
「司法試験の就職先は弁護士だけじゃな…」
「どちらにせよ、基礎知識がないことには法律の勉強なんて出来ないわ。
共通テストでの勉強を通じて、身につけていきましょう」
五反田のルームシェアマンションに着いた俺は、「魔物娘」の元で養われることになった。
人間とは倫理も常識も異なる存在…という話だが、少なくともイーウェンはこの日本国の倫理と常識に適応してうまく立ち回っている。
先生の名前はイーウェン。 種族は白澤。
ギャルの名前はヤティン。 種族はカク猿。
人間が大好きで人間との交尾が好きな魔物娘のはず…なのだが、どういうわけか彼女たちは日本に適応している。
名前からして中国系の魔物だろうし中国に行けよと思ったが、どうやら彼女たちには日本に思うところがあるらしい。
先生…イーウェンによって、俺の生活はなにもかも管理された。
スマホは解約させられた。イーウェンのデザリング無しには使うことができない。
食事中はテレビをつけられて、政治家のお家騒動など俺には微塵も興味がないニュース番組を観させられる。
アルバイトも内容やシフト、ノルマを指定された上で無理矢理させられた。
今まで親含めた誰かから直接アレコレ指示をされたことのない俺にとって、自分の生活から支出の全てを握られることは大変苦痛だった。
まあ、東京の賃金で3万円は週に2回のアルバイトですぐ到達する金額だし、光熱費に食事代も彼女が工面してくれることは救いだった。
頑張った暁には、イーウェンは『ご褒美』をくれる…が、目標に達しなかったら『お仕置き』される。
…真面目に頑張れば『お仕置き』は回避できる。そこまで高いノルマではないが、俺は頑張らざるを得ない。
いや、それより問題は…
「勉強が嫌なら、私と運動しちゃう?」
もう1人の同居人、ヤティンにあった。
イーウェンから逃げることは、ヤティンに目をつけられることを意味する。
ヤティンはギャルであり、堕落の権化。
俺が少しでもイーウェンから逃げ出せば、ヤティンはどこからともなく俺の前に現れ、堕落へと誘う。
…いや、俺だって堕落したいのだが。
その…ヤティンの堕落は格が違いすぎる、とにかく辛いのだ。
危ない薬を注射されて、意識が朦朧としたこともあった。
その後はまあ…出せるものもないのに硬くはなるものだから、処理が死ぬほど大変だった。
気持ち良すぎることも一周回れば苦痛になるということを嫌というほど分からされた。
パリピの群れに投入させられ、地下アイドルのライブ会場でゲストとしてステージに立たされたこともあった。
あの時の観客たちの怒りは凄まじかった。中身の入ったペットボトルを投げつけられ、中身が俺の顔面にかかってしまった。
ハゲデブオタクの飲みかけ飲料は、今までのなによりも気持ちが悪かった。
政治家の事務所や、よく分からない人権団体の事務所にスマホ片手に突入したこともあった。
矢面に立っているのはヤティンとはいえ、下手したら命を狙われるんじゃないかと今でも不安でいっぱいである。
迷惑系YouTuberだってそこまではしないぞ。
ヤティンの遊びは危険すぎる。
彼女から逃げようとしても、人間離れした力で強引に引き摺られてしまう。
夜にこっそり逃げ出そうとしても、ヤティンがすかさず俺を捕捉して追いかけてくる。
一度だけ、逃げ切れたことがあったが…
実家に帰るわけにもいかず、東京はどこも物価が高い。外食をしただけで貯金は溶けてしまった。
そんな中で、大人たちが勉強をしながらルームシェアしているマンションがあると聞き、扉を叩いたのだが…
扉には「出ていけ」「ゴミ出しルールを守れ」という怒りの張り紙があちこちに貼られている。
扉を開けると、1LDKに自分より歳上の大人たちが4人、布団の上で寝転んで、値引きシールの貼られたパンをくちゃくちゃ音を立てて食べていた。
誰も掃除もせず部屋はゴミまみれであり、家の中は生ゴミの腐臭が酷い。シンクは食品トレイで塞がっており、ゴキブリらしい黒い影が見え隠れする。
彼らは将来ビッグになるんだ億り人になるんだと布団の上で怪しい自己啓発書を読んでおり、お笑い芸人から夢追い人ビジネスへと移行した芸能人の政治主張動画がリビングのテレビでループ再生されている。
あまりの不快感からたまらず逃げ出そうと振り返れば、そこにはイーウェンとヤティンが居た。
「魔物娘にも救えないものはある」と、イーウェンは俺を見て苦笑しながら言った。
「あれがワタシ達に出会えなかったユータの将来の姿だよ」と、ヤティンはニヤニヤしながら言った。
猛烈な自己嫌悪、いや、同族嫌悪に駆られた俺は、黙ってイーウェンの教えを受けるしかなかった。
「本当は、ヤティンを弁護士にするという話だったんだけど…この子、全然勉強しないのよね」
「えー、勉強とか無理だしー」
「うっ…俺だってもう無理…」
「じゃあ、あなたはこれからどうするの?
司法試験に合格して、親兄弟を見返したいと思わないの?」
「いや、見返したいけど!
見返したいけど…こんなにも辛いなんて」
「それとも、アタシとひたすら遊び呆けてみる?」
「それは無理だ!
絶対に身体が保たない!」
「ならば黙って勉強するべきよ。
私たちの国の言葉に『急がば学べ』という言葉があるのと同じように、あなたの世界にも『ローマは1日にしてならず』という言葉があるでしょう?」
「だからって、国語や数学、歴史まで勉強させられるなんて…」
「弁護士なら国語は絶対に必要でしょう?
歴史だって日本人の思想に関わるものなんだから、法律に携わって依頼人にアドバイスを施すにおいて必要なものになるわ。
数学は必要ないかもしれないけど、あなた中学生レベルの計算も出来ないじゃない、あまりにも惨めでカッコ悪いわ」
「ねえ、ユータ。
今までずっと勉強をしてたんだよね?
あれウソだったの?」
「いや、勉強はしていたよ!?
ただ、ちょっと…良い先生に恵まれなかったというか…」
「なら、私がユータの理想的な先生になってあげる。
勉強する格好だけして満足するような情けないユータより、弁護士として活躍するユータが見たいわ」
「イーウェンのその言葉、俺が20代のころに聞きたかった!」
「この国では50歳近くで合格した人も珍しくないって、自分で言ってたじゃない?
ユータもそのうちの1人になりましょう?」
今更、弁護士以外の仕事など、俺のプライドが許さない。
汗水垂らして泥まみれになって働く作業着姿の社会人を、下げたくもない頭を下げるスーツ姿の社会人を、俺は見下し過ぎた。 過去に弁護士気取りで社畜をネットでめちゃくちゃ馬鹿にしてしまった。
かと言って、いい歳して夢追い人ビジネスにのめり込んだおっさんにはなりたくない。夢を追うことが目的になって、何も成し遂げられない人間にはなりたくない。
弁護士になるしかない。
「俺は…楽に生きたいんだ!
人に頭を下げたくないんだ!
皆から称賛されたいんだ!
黙って俺にお金だけ出して欲しいんだ!
魔物娘ならばこの気持ち、分かってくれないか!?」
「ごめんね、その気持ちだけは分からないわ」
「うーん、分からない!」
「なんで魔物娘はこの気持ちだけは分かってくれないんだ!?」
「だって…見ず知らずのアタシたちに対して、いきなり『投資に使うから金をよこせ』という人はねぇ…
日本の悪徳政治家だってユータほどアホでも間抜けでもないと思うよ?」
「気持ちは分からないけど、その考えを矯正してあげることは出来るわ。
ね、ユータ。 弁護士を目指して頑張りましょう?」
「それが嫌ならユータ、今日も一緒に危ない遊びしよ?」
ああ、逃れられない!
俺に出来るのは、せめて、年老いて動けなくなるまで勉強するフリを続けることくらいだ。
「ユータはとっくにインキュバスだから、これ以上老いることはないよ?」
「ユータ、テストの難易度はどんどん上げていくからね。
着いていけないようなら…フフフッ」
「…がぁぁぁぁ!?」
五反田のルームシェアマンションで、俺の叫びが虚しく響き渡った。
25/09/16 21:01更新 / 網走の塀