とある弁護士の話
俺の名前は田守裕太。
弁護士事務所勤め2年目の、28歳のアラサーのおっさんである。
俺は、たまたま勉強ができた。たまたま奨学金を借りずとも大学で勉強できるほど親が裕福だった。たまたま司法試験にも受かった。
こんな幸運を、誰かのために使いたかった。
子供の頃に宝塚で見た歌劇の主人公のように、汚職や不正を働く役人に、「異議あり!」と指差して証拠を突きつける日々を送りたかった。
不当に虐げられる弱者を、この手で救いたかった。
弁護士になれば、人から頼られ、悪人と戦い、誰かの笑顔が見られると思っていた。
しかし、社会に出て働いている中で、俺の理想は打ち砕かれた。
自分が救われるべき人だと思っていた人間たちが、どれだけ醜いかを突きつけられたのだ。
――
大学の先輩がオーナーをやっている大きな弁護士事務所に就職した俺は、事務所でネットトラブルを担当する先輩の補佐として働くことになった。
2022年に施行されたとある法律のおかげで被害者が訴えるハードルが低くなり、必然的に相談が増えたらしい。
先輩は相当忙しいそうであり、俺が先輩を補佐することになったのは先輩が補佐が欲しいとオーナーに対して涙ながらに訴えたかららしい。
特定の客を受け持つのはもう少し先になるそうだが、自分もいきなり第一線で働ける自信がないので、見習い待遇は甘んじて受け入れた。
俺が最初に出会った客は、ネット副業でのパワハラで人生を壊されたと主張する30代の女性だった。
上司からパワハラ言動を受けたと本人は主張するのだが、話を聞いていくと『自分が被害者になるために、わざと怒られる言動をしているのではないか』という違和感が感じられた。
なにより、相手が証拠として提出してきた録音音声には人工音声特有の不気味の谷があった。依頼人は生成AIを使ってパワハラの証拠を捏造したのだ。大学時代に動画投稿をしていた俺だから気付けたが、こんなの依頼人の言われるがまま証拠として提出していたら弁護士事務所の信頼に関わる大問題になるところだ。
席を外して先輩にそれを伝えたところ、この場は穏便に済ませるため今日のところはそのまま流し、後ほど電話上で依頼を断るという流れになった。
後日、先輩のスマホから逆上した相談者の怒鳴り声がはっきりと聞こえた。
…思えば、俺の弱者への疑念は、この頃から始まった。
この前にネット誹謗中傷で相談にやってきたコテパーマ中年男なんて最悪だった。
さほど有名でもない物書きに対し、「作品の内容が気に入らない」と、SNSや小説投稿サイトで突っかかったのだ。
相談者は、明らかに話が面倒になって切り上げただけの相手に対し、相手が逃げ出したと決めつけ意気揚々と勝利宣言を行ったのである。
そこからブロックされているにも関わらず、わざわざ複数のアカウントを作ってまで相手を追いかけた上で、「負け犬」「嫌われ者」などと誹謗中傷を繰り返したり、他所から持ってきたスパムメッセージを送りつけるなどの嫌がらせを続けたのだ。
そしていざプロバイダから開示請求同意書が届くと、急に慌てふためいて弁護士事務所に泣きついてきたというわけである。
「やっていたのは自分だけではない」「彼は間違いなく皆からの嫌われ者だった」などと、年齢不相応な子供のような言い訳を続けているのが実に滑稽だったが、「先生の看板に泥を塗ってしまう」と、この期に及んで『先生』を盾にしようとする態度が本当に笑えなかった。
『先生』というのは、相談者が慕っているインフルエンサーらしい。
『先生』を本当に慕っているなら、『先生』に迷惑かける前にさっさと示談してケジメを付けろよと思ったが、案の定相談者は『先生』を本心から慕ってなどいなかったようで、「開示には同意せず様子を見る」という結論を下した。
これほどまでの鬼畜にも劣る所業を、10代20代の若者が若気の至りでやったのではなく、40歳の独身男性がやったのだ。
被害者のツイッターを見るに、訴えたのはあまり裕福ではない物書き志望の人間のようであり、あまりに長期間に渡って粘着されることに悩むツイートをしていた。どこかで示談に応じない限り、この件はきっと裁判まで進むだろう。
裁判で強制開示されて賠償金が増えるリスクもしっかり伝えた上でコテパーマ中年男が何もしないと決めた以上、自分たちが出来ることはこれでおしまいであった。
今日の一件も本当に酷いものだった。
商業作品から盗用して同人誌を書き上げ、それを同人イベントや同人サイトで販売した佐藤さん(30代男性)が、付添人の白露さん(20代女性)に連れられて相談にやってきたのだ。
佐藤さんは郵便物を長らく確認しなかったため開示請求同意書を見落とし、もう出版社側に住所が知れ渡って警告文が届いている状態であった。
先輩は佐藤さんに対し、勝てる見込みのない戦いだから早く示談に応じるべきだとしきりに訴えかけるも、佐藤さんは「同人誌のトレースなどみんなやっている」「俺は悪くない」と主張するばかりで聞く耳を持たない。
今日、俺は白露さんとともに出版社へ足を運んだのだが、相手は大手の出版社とだけあって作家を守る体制は万全であり、早く対応しなければ裁判を起こすと脅された。
俺からの報告を受けた先輩は改めて佐藤さんに連絡し、「相手はこちらを訴える態度であり、早く示談しないと手遅れになる」と伝えたのだが、佐藤さんは「依頼主を見捨てる最低な弁護士」「星1レビューをつけてやる」と騒ぎ立て、電話を切ったそうだ。
佐藤さんからしたら「相談金を払ったのに解決してもらえなかった」という認識なのだろう。商業誌からの盗用が数万円程度の相談費用で解決すると本気で思っていたらしい。
その後まもなくして、大量の捨て垢で事務所に大量の星1レビューがつけられていた。白露さんは顔を真っ青にし、佐藤さんを叱りに行くと言ってどこかへと消えていった。
俺は事務所に戻った後、先輩とともに事務所のオーナーに説明をするハメになった。
事情を納得したオーナーは、佐藤さんに対して法的な措置を辞さないと、この件に関しては自分に任せるようにと宣言して、自分たちは家に帰ることになった。
…おそらくだが、オーナーはこれから佐藤さん宛に警告文を書くのだろう。
――――
「…疲れた」
時刻は夜9時。
駅の地面に荷物を置き、ベンチに腰をかける。
先輩にLINEを送り、明日はお休みをいただくことにした。
…いや、明日だけか?
休みは1日だけでいいのか?
このままずっと休んでしまおうか?
溜まっている案件はこれだけではないだろう?
先輩は置いてけぼりか?
「もう、やってられるかよ」
憧れだった弁護士の仕事は、こんなものではなかったはずた。
弱い人間は根は優しくて、強い人間はもっと醜悪な性格をしていたと思っていた。
しかし、実際は真逆だった。
助けが必要なはずの弱い人間こそ卑怯で、醜悪で、他人が助けたがらない言動を繰り返す。
虐げられる苦しみを知っているはずなのに、平気な顔をして誰かを苦しめる。
「…こんなの、俺がやりたかった弁護士じゃない」
「あの…田守さん?」
声をかけられて俯いていた顔を見上げると、女性が2人、俺を見下ろしていた。
1人は…今日の付添人の女性である白露さんだった。
「白露さん!
お疲れ様です!」
俺は慌てて立ち上がり、付添人…白露さんに挨拶する。
「あー、大丈夫。
座ったままでいいわよ」
白露さんは俺の両肩に手を当てて強引にベンチに座らせると、2人で俺を挟むようにベンチに座った。
「私の妹の綾波です」
「初めまして。
綾波です、よろしくお願いします」
白露さんの妹さんは、俺にペコリと頭を下げた。
…あやなみ? それは苗字?
確か白露さんの名前は苗字だったはずだが…
「あれから色々あって、私たちが佐藤さんの示談金を出すことになったの」
「え!? そうなんですか!?」
ふと、今回の佐藤さんがやらかしたことを思い出す。
彼が怒らせたのは自分や先輩だけではなく、弁護士事務所のオーナーだ。
オーナーは横の繋がりも強いため、他の弁護士事務所にお世話になれるかも怪しい。
佐藤さんがこの際どうなろうが知ったことではない。
しかし、付添人側がお金を出すのはいくらなんでもやり過ぎだ。 なんとしても止める必要がある。
…利益相反? 知ったことか、無実の優しい人が大金を支払おうとしてるんだぞ。
「その、もしよろしければ、喫茶店でお茶でもしませんか?
相談料などは結構ですので」
「ん? そっちからお誘い?」
自分の態度に、白露さんと綾波さんは驚いているかのような表情を見せた。
「もう夜も遅いので、そちらさえよろしければの話ですが…」
「あらそう?
それじゃあ、お言葉に甘えようかしら」
こうして、帰りの電車を諦めた俺は、2人を連れて駅構内の喫茶店へと向かった。
――――
「佐藤さんが払わなければいけないのは、慰謝料と、今までの同人誌の売り上げ、そして相手側の弁護士費用です。
相手側の弁護士費用は妥当なものか、慰謝料をどれほどのものにするか、弁護士同士で協議して話し合う必要があるのですが…」
「どうせ弁護士を立てたところで、お互いの弁護士費用を上乗せするために談合するんじゃないの?」
「確かにその一面はあるかもしれません。
しかし、ハイハイと相手の言いなりになるよりかは絶対にマシです」
「具体的には?」
「そうですね…
例えとして、先輩が頻繁に対応する誹謗中傷のケースの話をしますね。
こちらから弁護士を雇って経由で示談にすることで出費は弁護士費用込みで100万円以下に抑えられます。
しかし、相手側の弁護士の言いなりに示談するとなると、訴えられた側は相手の言いなりになってしまうだけでなく、相手側の弁護士への依頼料も支払わなければならなくなり、出費は確実に100万円を超えます」
「ん?
訴える側も弁護士を雇ってきたら、被害者が貰える示談金とかも減っちゃうわけ?」
「そうです。
盗作や誹謗中傷などの民事訴訟は、基本的に加害者が被害者の雇った弁護士に対して示談に応じてもらわない限りは、訴える側の収支はプラスにはなりません。
例外は多数ありますが、被害者が余程苦しんだり経済的損失を被っていない限りは、基本は訴えを起こさないものだと思ってください。
それだけ、時間もお金もかかるんです」
「盗作による著作権侵害だと、出費の相場はいくらくらいかしら?」
「相場は分かりませんが…
自分が関わった直近のケースでは、加害者の出費は弁護士費用込みで推定250万円ほどです。
もっとも、『相手の評判に傷をつけた』『相手に精神的苦痛を与えた』などの要因も絡むので、推定は難しいです。
商業誌に連載していたプロの漫画家からの盗用となると尚更ですね」
守秘義務のため言えないが、相談者はイラストレーターであった。
加害者は「イラストレーターの描いたイラストを改変して政治的な意図を持たせた挙句、自身のイラストとしてSNSにアップした」ということをした人間である。
示談という形で賠償金こそ得たものの、相談者にとってこの件のショックは大きく、筆を折ってしまったそうだ。
「あまりに法外な賠償金を要求されたら、払わなければ良くない?」
「相手がそれを許さなかった場合、裁判になります。
示談であれば分割払いの交渉も可能ですが、裁判になって賠償命令が下った場合それも不可能になります。
勤め先には確実に情報が行きますし、裁判をしたという名前も記録も残ります。
そして敗訴になれば、相手の時間と労力の損失分のお金も請求される可能性もあります。
今回は盗作の証拠も押さえられていますし、同人誌として売上も上げているので、裁判になったら確実に負けるものだと思ってください」
「相手が裁判まではしないという可能性は?」
「確かに、相手の名前と住所まで特定したのに、警告文だけ届けて裁判までは起こさなかったという案件は少なくありません。
今回白露さんと共に受けた出版社の態度も、単なる脅しである可能性もあります。
しかし、今回は出版社さんだけでなく作家さんも怒らせています。
相手側に裁判の場で追求されたくない大きな問題でも抱えてない限りは、裁判にまで持ち込まれる可能性を常に念頭に入れるべきでしょう」
「概ね、あなたの先輩の言う通りね。
早く示談しろと脅された感じがしたんだけど、あなたが言うのなら間違いないのかしら」
「示談してもらった方が、弁護士としても手間がかかりません。
そのため、相談者を必要以上に脅したり不安を煽ったりして示談に持ち込もうとする弁護士も少なくありません」
「ふーん、そうなのねー」
2人は、自分の説明にうんうんと頷いている。
…佐藤さんもここまで聞き分けが良かったらどれだけ楽なことか。
「それで、田守さんは何が目的かしら?
私があなたの先輩から聞いた説明を、わざわざ私の妹にまでするためじゃないでしょう?」
「はっきり言います。
佐藤さんとは絶交して、距離をとってください」
「田守さんいきなりすごいこと言い出したよ!?」
「それはダメよ。
まだ籍は入れていないけど、あの人とは将来を誓い合ったのだから」
当然の反応だろう。
だが、彼の人生はもう詰んでいるのだ。
真実ははっきり伝えておかなければ。
「佐藤さんは、出版社だけでなく自分の勤め先である弁護士事務所のオーナーまでも怒らせてしまいました。
オーナーは弁護士の業界でも横の繋がりが強い人です。
これから先、佐藤さんの弁護を引き受けてくれる弁護士も限られるでしょう。
そして、佐藤さんは著作権侵害だけではなく、オーナーから威力業務妨害で訴えられる可能性もあります。
今回のことで総額いくら費やすのか、私では皆目検討もつきません」
「うわー、どうするの白露さん?
サバトの人たちからお金を借りれるかな?」
…サバト? 聞きなれない単語が聞こえたが、同人関係の繋がり?
そして、姉なのに白露さん呼び?
「旦那の罪は妻の罪よ。
私にも責任はあるわ」
「佐藤さんは複数アカウントを使って低評価をつけた手口が、とても手慣れているように見えました。
今回の件以外にもたくさんの余罪を抱えている可能性があります」
「それは…まあ、そうね。
本人はこれが初めてだと言っていたけど…」
「まだ佐藤さんとは結婚はされていないと伺いました。
今から佐藤さんから距離を取っても、事情を話せば誰も怒らないと思います。
それでも良いのですか?」
「もちろんよ。
私が選んだ人なのだから」
「それに、今回のことで謝罪や賠償を有耶無耶にしちゃったら、同人というコンテンツの存続にも関わるもんね」
…そうか、自分の愛するコンテンツを守るためでもあるのか。
そこまで言うのならば止められない。
「…分かりました。
弁護士事務所の弁護士としてではなく私個人でよろしければ相談に乗りますので、ここに連絡をください。
事務所には内緒でお願いします」
言って、俺は弁護士事務所のものではない自分個人の名刺を白露さんに渡す。
…オーナーを怒らせた人間に名刺を渡すなどヤバいなんてものじゃないが、知ったことか。
「田守さん、今日は何から何までありがとうね」
白露さんは、俺の名刺を財布の中にしまい込んだ。
「じゃあ、私からも質問していい?
さっき、俺がやりたかった弁護士じゃないって漏らしてたじゃない?
何か、悩みでもあるの?」
「いえ、悩みなんてありません」
「あ、ごめんなさい。
私は今一度、あいつにお説教してくるから、また今度ね。
どうぞ2人でごゆっくり」
言って、白露さんはお金を置いて席から立ち上がる。
「あ、お金は自分が出しますので…」
「ねえ、田守さん。
今度は、田守さんのことを聞きたいな?」
白露さんを引き止めようとする俺を止めた綾波さんは、俺の顔を覗き込みながら、コーヒーを僅かに口にした。
――――
気づけば俺は、綾波さんに愚痴を漏らしていた。
弱い人間は根は優しくて、強い人間はもっと醜悪な性格をしていたと思っていたこと。
実際は真逆で、助けが必要なはずの弱い人間こそ卑怯で、醜悪で、他人が助けたがらない言動を繰り返すこと。
自分より立場が上というただそれだけの人間を目の敵にして、ひたすら足を引っ張ること。
「ユータさん…それは、辛かったね」
綾波さんからはいつの間にか下の名前で呼ばれているが…別に構わない。
「ユータさんが白露さんをお茶に誘ったのは、佐藤さんがその…あなたのいうところの卑怯で醜悪な弱者のように見えたから?」
「はい、そうです」
「…うーん、まあ、気持ちはわかるかな?
白露さんは何であんな奴に惚れちゃったんだろう」
「白露さんは、お金は大丈夫なんですか?
「白露さんは大丈夫。
ああ見えてやりくり上手だからね」
…やりくり?
投資家か何かだろうか?
「ところで、私は織物会社の社長をやってるの」
「その若さで社長ですか?
すごいですね」
「でしょでしょ!?
でもね、最初は大変だったんだよ!
社員たちが、全然言うことを聞いてくれなかったの!」
「それは…親の会社を継いだから、とかですか?」
「そうだったらまだ良かったな!
社長がいなくなった会社がね、若くて学歴もいい私に社長をやってくれって社員一同で頭を下げられたの!
で、私が社長になった途端、あいつら態度が急変したの!
若い奴が口出しするな!俺たちは仕事のやり方を変える気はない!って」
「経営が安定していたら、何も問題はないですけど…
綾波さんが社長に就任する前は、安定した黒字を出していたんですか?」
「それが黒字ではあったんだけど、大問題だったのよ!
たった一つの伝統芸能の劇団との、ほぼ募金同然の取引だけで会社が成り立っていたの!」
「え!?
その劇団がなくなったら、会社が立ち行きが行かなくなるじゃないですか!」
「そう、だから経営改革は急務だったの!
でも従業員たちは、『自分たちの製品を買ってくれる次の客を探せ』って主張するばかり!
作業現場を改善して原価を抑えようとか、他所にも納品できる万人向けの製品を作ろうとか、能動的なアクションを一切起こさないの!
どんなに背中蹴っ飛ばしても、給料ありきの時間を設けても、伝統とか実績とかいう言葉を盾に動こうともしなかったのよ!
そのくせ、私の印鑑を勝手に持ち出して、わざわざ高い商社を選んで備品を買ったりしてたのよ!
あいつらは、先行きのない自分たちと心中する若者が欲しかったのであって、社長そのものは望んでなかったのよ!」
「うわぁ…会社を継げと言われて継いだというのに、あんまりですね」
「特に酷かったのは、織物機械を担当している50歳の人間のことだけど!
『この機械は俺にしか使いこなせない』とかドヤ顔で言ってたんだけど、私が業者からのマニュアルを電話で取り寄せたら、普通に使えるようになったのよ!
大体1週間もすれば、そいつと同じ量、同じ内容の仕事が出来るようになったわ! もちろん、社長業と並行してだよ!?
もう、50代のそいつ要らないじゃん!そしたらあいつ、何したと思う!?
機械に意図的に欠陥仕込んで、金属片が飛び散るようにしてきたのよ!?
自分の仕事がなくなるからって、私を殺そうとしてきたのよ!?」
「え、それは本当ですか?
傷害事件では…」
後から聞いた話だが、彼女の職場は白露さんが介入するまでは労災が多発している危険な環境であり、この事件もわざとではなかったそうだ。
しかし、この事件を境に、「事務や営業だけでなく、現場作業まで出来る」社長と、「現場作業しか出来ないが、年齢故にプライドが高く社長に頭が下げられない」従業員の対立は、決定的なものになったそうだ。
…どう考えても従業員が悪いのだが?
「極めつけはね!?
私、会議を開いたの!
ちゃんと予め時間を予告して、定時内に時間をとって、『不良品を納品したことへの再発防止策』というテーマも決まっていたの!
そしたらアイツら、『次から気をつける』で会議を5分で締め切って、私を完全に無視して、次はどこの政党に投票するかの政治討論会を始めだしたのよ!!」
「え…なんですかそれ?」
「でさ、あいつらのうちの1人はなんて言ったと思う!?
『社員のために苦労するのが社長の勤め』ってドヤ顔で言ってのけたのよ!?
たった一つしかない客先が、自分の会社のせいで苦しんでいるのに、全責任を私に押し付けてきたのよ!?
当時25歳の私に無理矢理社長をやらせた平均年齢48歳の従業員たちがやることじゃないわよ!?」
「うわぁ…」
これまた後から聞いた話だが、彼女は「こいつが悪い」と完全に決め付けた上で臨んだ、会議という名で見せしめの私刑をしようとしていたらしい。
いくら従業員の就業態度も倫理観も終わっていたとはいえ彼女の対応は社長として失格であり、従業員のクソな態度に正当性を与えてしまった。
結果的に彼らは一層増長してしまったというわけだ。
「それ以前に、何十年と新しいものを作り続けて同じ作業続けているくせに、仕事でミスをするのは絶対におかしいわよね!?
こんな従業員ならパートでもバイトでも充分だわ!
何で正社員なのよ!?」
「綾波さん、もう少し声を小さく…」
自分に注意されて、綾波さんは音量をわずかに下げる。
…綾波さんも弱者を騙る人間の被害者だったのか。
「それでね!それでね!
親に相談しても何もしてくれないし、従業員はみんなゴミ!
そんなんだから私、わざと会社を傾けてやろうと思って!
私、手を出したのよ!」
「な、なににですか…?」
「魔物娘に!」
魔物娘。
ある日突然現れた、人間にとってあまりにも都合が良く、そして美しい存在。
彼女らの思想や生態系の問題から、和解や共存にはまだ多くの障害が残っている。
勤め先の弁護士事務所をして、「今はまだ、関わらない方がいい」という存在である。
「白露さんや綾波さんって、苗字ですよね?
それで、姉妹ということは、まさか…」
「そう!
魔物娘にとっての『姉妹』ということになるかな?」
「見た感じ、あなたは人間のようですが…」
「ほい!」
ドロンと、彼女の身体が煙に包まれる。
彼女からは…狸の尻尾と、狸の耳が生えていた。
「えへへ! 改めまして、刑部狸の綾波奏音(あやなみ カナタ)です!」
「あ、あの、ここは喫茶店…!」
「大丈夫、大丈夫!
この店には魔物娘しか居ないから!」
ふと、周囲を見回すと、確かに女性しかいない。
そして、一見人間の女性のように見える店員は…自分に対して服をはだけさせで、羽根のようなものを露出させてきた。
…よく見たら客も店員も若い女性しかいない!
「いやー、しかしびっくりした!
2人で誘うつもりだったのに、そっちから誘ってくるなんて!」
「それは…まあ、白露さんのためなんですけど」
「でねでね!聞いてよ!
私は魔物娘とコンタクトを取ろうとして、白露さんと巡り会えたのね!
あ、白露さんも刑部狸の魔物娘ね!
あっちは生まれも育ちも生粋の魔物娘なの!」
白露さんが佐藤さんに執着するのは、魔物娘としての獲物として彼を見ていたからなのか。
よりによってあんなクソ男に目をつけるとは…難儀なものだ。
「で、なぜ魔物娘と会おうとしたんだって白露さんに聞かれたから、会社に勤めている人間全員インキュバスにして失職させるためって答えたの!
そしたら、白露さんマジギレしちゃって!」
「それは、魔物娘は人間のことが大好きだからですよね?
確かに、人間の職を失わせようとする人間には、好印象は抱けないでしょうけど…」
「怒られるだけで済んだら良かったんだ!
白露さんから変な首輪をつけられて、行動を操られるようになったの!
14桁までの九九を暗記させられることから始まって、カナダ人の英語教師とオンライン通話させられたり、ビジネス書を何冊も読まされたりしたの!
しかも、白露さんが手伝ってくれたとはいえ、社長業と並行してだよ!?
社長ならそのくらい出来て当然だろって、そりゃあ日本の中小企業は後継者不足にもなるよ!?
あ、白露さんから影響を受けて私が魔物娘になったのはそのタイミングね! ビジネスの勉強と並行して魔物娘の術の勉強もさせられた!」
「うわぁ…大変でしたね」
働きながらの新しいものを勉強することほど難しいものはない。
俺も社会人になってからFPの資格を取ろうとしているのだが、仕事終わりの疲労とストレスを抱えての勉強は相当大変である。
ましてや、社長業と並行してなどと…その苦労は計り知れない。
…弁護士業やっていて、自分の経歴を盛る人間は多数存在するのだが、彼女の場合はマジだった。
のちに、白露さんから「魔物娘でも騙しにくる娘はいるよ!?気をつけてね!?」と釘を刺されるのであった。
「でもねでもね!
白露さんでもあのゴミ従業員たちはかなり手を焼いたのね!
『従業員を見捨てないのが社長だ』って偉そうに言ってたのに、いつしか『全員を救う必要はない』って言い出して!
半年後には40人居た従業員のうち35人が魔物娘と入れ替わっちゃった!」
「もう殆ど人間が居ないじゃないですか…」
「白露さんでもどうしようもないくらい、ぬるま湯の中で働き続けてきた40代50代の人間の意識改革って難しいのよ!
あ、会社から消えていった連中は、魔物娘の伴侶を手に入れて幸せにヒモ暮らしているんだけどね!
そこは白露さんも魔物娘としてしっかりしてたよ!」
…ダダをこねてばかりの人間に幸せになれる道を提示できるのは本気で羨ましい。弁護士には出来ない方法だ。
「綾波さんは本当に苦労されたんですね。
…まさかとは思いますけど、佐藤さんって、綾波さんの会社の元従業員さんですか?」
「……
…会社に残った5人の従業員のうちの1人」
「なんだよそれ、最悪じゃないか!」
思わず声を上げてしまった。
そして佐藤さんのやらかしは雇用主にも知れ渡っていたのか。
終わったな、あの人。
「…そんなわけで、私はユータさんの気持ちがわかるよ?
弱いやつに限って裏切るし、怠けるし、平気で嘘をつく。
上司が苦労するのは当然といいつつ、自分は言われたことすらしないし、出来ない。できるようになろうとする努力すらしない。
しかもそれが皆、私より歳上なおじさん達ときた。
でも、全部の人間がそうじゃないのは分かってるよね?」
「それはもちろん分かってますよ!
仕事柄、そういう人間を相手にすることが多いだけで…」
「…私も、40人中5人しか残らなかったことには失望しかなかった。
でも、その5人は白露さんがやってくる前以上に働いてくれるようになったのよね。
その人たちが頑張って職場の教育体制も整えてくれたおかげで、誰が欠けても新たにやってきても問題なく仕事を割り振れるようになったの。
5人には本当に感謝してるのよ」
「しばらくしたら4人になりません?」
「はははっ…
…うん、全然笑えない。
仕事に対する熱意とかモチベーション以前に倫理観が終わってるんだから、もうどうしようもないよ…」
お互い、コーヒーを啜る。
愚痴や文句をぶち撒けて、少しは頭が冷えた。
「あ、すみません。
アイスコーヒーのおかわりをお願いします」
「あ、私はオレンジジュースで。
…ユータさん?
ユータさんで良ければ、ウチの会社の顧問弁護士にならない?」
「自分は事務所所属の弁護士なので無理ですよ。
独立してからになりますね」
「いつになったら独立するの?」
「弁護士が独立するには、最低でも3年、いや5年の事務所勤めの経験が必要と言われています。
最近の弁護士業界では、早期に独立することを勧めたり、新人弁護士向けの相談窓口を開いたりしていますけど…」
「だったら独立してみない?私が一番最初のお客になってあげる。
私なら、多少失敗しても許してあげるし、魔物娘関連のお仕事も融通してあげる。
ゴミみたいな客のゴミみたいな案件ばかり押し付けられても、経験なんて積めないでしょ?」
「綾波さんは、まるでベンチャー企業の社長みたいなことを言いますね」
「実際、ベンチャー企業みたいなものだし?
魔物娘から生み出される商品を扱ってるし、魔物娘向けの商品もたくさん作ってる、未知の分野を突き進んでるわ。
まあでも、企業体力は殆どないし、給料もあまり高くない、残業も多いのは、悪い意味でもベンチャー企業みたいだけど」
ベンチャー企業は、成長出来る誰も経験したことがない仕事が出来るなどと宣伝するが、実際は安い給料でロクな社員教育もないまま現場に叩き出して働かせる、まともではない会社だ。
現場で第一線で働くことこそ成長出来ると言い張れる人間には適した環境ではあるのだが、そんな人間は早々いないだろう。
普通なら警戒する勧誘文句だが、今の自分にとっては魅力的な提案だ。
「弱い人のために働く」というモチベーションが失われた現在、今の仕事に愛想が尽きていた。
新しいことに挑戦する未知への恐怖や、仕事を安値で買い叩かれる不安よりも、はやくこの状況から脱却したかった。自分のための仕事がしたかった。
何より…魔物娘との仕事に興味があった。
こんな美しい女性を相手に働けるのだ。
「独立と顧問弁護士の件…少し時間をいただけませんか?
是非とも前向きに検討させてください」
「いいねいいね!
そう来なくっちゃ」
「お待たせいたしました」
店員さんが飲み物のおかわりを持ってきた。
…運ばれてきたのは紅茶とオレンジジュースだった。
「申し訳ございません。
もうコーヒーを切らしてしまいました。
お代は結構ですので、アイスティーでお許しください」
話すのに夢中になって、もう10時30分になっていることに気がつかなかった。
もう夜も遅い、品切れするものもあるだろう。
「ありがとうございます、いただきます」
別に紅茶が嫌いというわけではないので、ありがたくいただくことにした。
一口飲んで、違和感がした。
視界がぐにゃりと揺らいだのである。
「あ…れ…?」
何が起きたか理解するために、頭を回そうとするが回らない。
自分の頭がテーブルにへと叩きつけられる。
意識を失う直前、綾波さんの呆れた声が聞こえたような気がした。
――――――
「…は!?」
ふと目が覚めると、薄暗い部屋だった。
洋風の証明に、ピンク色の壁と天井が見える。
自分は、ベッドの上に寝かされている。
しかも、服は全て脱がされている。
「あ、目が覚めた?」
見上げると、下着姿の女性が目に入った。
…綾波さんだ。
彼女が俺に薬を盛ったのか?
起きあがろうとするも、両手両足が動かない。
顔を横にして見ると、手枷足枷が自分の両手首と両足首を拘束していた。
「…綾波さん。
人に睡眠薬を盛るのは暴行罪、れっきとした犯罪ですよ」
「それを言ったら、江◯◯◯ナンは大犯罪者だね?」
「弁護士でもよくネタにされる話題ですね……江◯◯◯ナンは医師法違反に薬機法違反という暴行罪以上にヤバい罪を重ねていることで有名です。
魔物娘に悪意や害意はないことはわかっていますが、犯罪は犯罪ですからね」
「ちなみに、薬を盛ったのは私じゃないよ?
魔物娘の従業員が気を遣ってくれたの」
「余計なお世話にもほどがある…」
魔物娘の価値観は分からない。
しかしこの状況は、自分が綾波さんに…魔物娘に見初められたということだろう。
「ユータさん、拘束されている割にはおとなしいね?」
「綾波さん、何故俺なんですか?」
「名前で呼んで!
カナタって呼んで!」
「…カナタさん。
自分はただの新米弁護士で、さして優秀というわけでもないですよ。
何故、俺なんですか?」
「その年齢で司法試験に合格したというだけでも優秀なんだけど…
まあ、やっぱり、一目惚れかな?
魔物娘としての本能が、あなたを婿にしろって言ってるの」
「白露さんから勧められた、ではなくてですか?」
「いや、白露さんは関係ないよ?
佐藤さんの処遇について相談していたところを、本当にたまたま出会っただけ。
まあ、魔物娘としての善意から、2人で魔物娘のお店に誘導しちゃったけど」
…彼女の言うことがどこまで本当なのかは分からない。
ただ、この人なら説得出来そうだ。
「話してて、ユータさんは私が貰いたいなって、他の娘には渡したくないなって思ったの」
「そんなに簡単に決めてしまって良いんですか?
私だって、佐藤さんのように誹謗中傷をやっている人間かもしれませんよ?」
「いや…弁護士ならそんなことするわけないでしょ」
「使い捨てSIMやフリーWi-Fi、外国のサーバーを経由したなど、バレにくい方法を使って誹謗中傷をしているだけかもしれませんよ?」
「…それ、実際にあった話?」
「芸能人が自分の信者に、『バレにくい方法』を教えて国会議員に誹謗中傷するようけしかけた事案ならありますね」
「え、なにそれ、最低じゃない…
誰にも言わないから、その人の名前教えて?」
「◯◯◯◯◯です」
「その人知ってる! 私が小学生の頃にテレビに出てた人だ!」
守秘義務に反するかと思ったが、どうせ相手は芸能人だし、この際話してしまうことにした。
政治的な発言がネットで干されてテレビ出演が少なくなった彼は、自身の政治思想に賛同する信者を味方をつけ、小規模ながらも政治活動を行うようになった。
そんな彼は、チャットAIに質問して『誹謗中傷してもバレにくい方法』を知った後、自分の信者たちに国会議員へ誹謗中傷するようにけしかけたのだ。
しかし、海外のサーバーを経由する手間や使い捨てSIMを購入する金銭を惜しんだ彼の信者たちは、喫茶店やカラオケ店のWi-Fiを使って、誹謗中傷に加えて犯罪予告まで行ってしまったのだ。
組織ぐるみで行われた公人への誹謗中傷、そして犯罪予告という内容の悪質さも合わさって、先輩は警察に通報することを選んだ。
法律のプロがバックについた警察の動きは非常に早かった。民事の開示請求よりも早く、彼らの身元は全員特定されて、賠償責任だけでなく刑事責任も負うことになった。
しかし、当の芸能人だけが「自分はやり方を教えただけ」「それを教えてくれたのはAI」と、責任を回避したのである。
被害者である国会議員は芸能人の卑劣さに憤りながらも、「誹謗中傷を受けた」以上の公表はしなかった。
芸能人は信者も仕事も失ったようだが、言ってしまえばそれだけであり、実質芸能人の一人勝ちであった。
「へー、そんなことがあったのね…
……って! 違うわよ!?
私はあなたを監禁して拘束しているのよ!?
なに法律の話に持ち込もうとしているわけ!?
ネットで聞き齧った政治の話をしたがるおじさんみたいね!?」
「目の前の仕事を放り投げて政治討論を始めるカナタさんの会社の社員よりは、政治の話が出来る自信はありますよ。
弁護士視点から見た今の政治の話などはいかがですか?」
「もうやめてよ! 聞きたくなっちゃうじゃない!
もう……やっちゃうから!」
「カナタさんは今は魔物娘でも、日本生まれ日本育ちの日本人ですよね」
「そ、そうだけど…」
「男にはシャワーを浴びて欲しいとか、歯を磨いて欲しいとか思わないんですか?」
「なんでそんなこと言うの!?
意識しちゃうじゃない!」
綾波さんは酷く狼狽えている。
…根はものすごく真面目なんだな、この人も。
「な、なに!?
私じゃダメってわけ!?」
「いいえ。
カナタさんはとても魅力的な方ですし、自分が独立を前向きに考えているというのも嘘ではありません。
ただ、もう少し段階を踏んでから、こういうことをして欲しいです」
「う…うん」
「今日のことは誰にも言ったりしないので、手枷を外していただけませんか?」
「…………………
…………だめっ!
魔物娘の快楽だけは、味合わせてあげる!」
綾波さんは下着を脱ぎ捨てて、一糸纏わぬ姿になる。
…別にそんなことをしなくても綾波さんとなら恋人にもなれるような気がすると思ったが、それを口にする前に彼女の大きなもふもふ尻尾が自分の顔を塞いでしまった。
…ああ、これが魔物娘か。気持ちがいい。
――――――
その後。
俺は綾波さん…カナタと付き合うことになり、あれよこれよとあっという間に結婚をすることになった。
そして、親やオーナーからの「もう少し経験を積んでからの方がいい」という至極ごもっともな助言を丁寧に断り、織物会社の近くの物件で弁護士事務所を開いた。
先輩は「俺を見捨てないでくれ」と言っていたが…その、申し訳なかった。
お詫びは何度も何度も、形も変えた上で行い、嫌味こそ言われるものの許してもらった。
白露さんの知り合いである不動産屋が、格安の貸事務所と賃貸物件を融通してくれたのだ。
白露さんは、「私の妹の旦那だから」とのことで、引っ越してからも何かとお世話になった。
独立した弁護士としての仕事は…案の定大変だった。
思った以上に知らないこと分からないことだらけであった。
また魔物娘という存在に法律が当てはまるか否かの判断も難しく、白露さんにもカナタにも迷惑をかけてばかりだ。
とはいえ、最初から固定客がいるのはありがたかった。
この分野の先駆者ということで、他の弁護士から魔物娘関連の相談を請け負うことも増えた。
厄介な客…男限定ではあるが、魔物娘に差し出すという選択肢も取れるようになった。切り捨てるよりかは遥かに人道的だろう。
「弁護士としてそれはどうなの?」
「ダメに決まってるだろ。
俺だってこんな手段は使いたくない。
だが、ダメな奴は何を言ってもダメなんだよ…」
「その気持ちすごくわかる…」
「田守さん…無理に全員を救おうとしなくてもいいのよ?」
「白露さん? 私に出会った当初は、誰も見捨てないのが社長だって言ってなかった?」
…まあ、魔物娘だって生き物だ。
考え方も変わることもあるだろう。
事務所勤めの時から収入は減った。
並の会社員よりは稼げているが、これは周囲の支えがあってのものであり自分の力ではない。
家に加えて事務所の賃貸も払っているため支出も増えた。
引っ越しやネット環境の整備、車の購入のために、事務所勤めの貯金はあっという間に尽きてしまった。
「仕事の報酬は仕事」という社畜をコキ使わせるものだと思っていたフレーズが、今の自分には突き刺さる。
早く実績を重ねて自分の力だけで稼げるようにならなければならない。
しかし、事務所勤めの時より遥かに仕事も大変で生活も苦しいが、俺の気分は晴れやかであり、日々充実している。
お金はなくとも、やりがいは感じる。
それがどれだけありがたいことか。
佐藤さんは会社を辞めて無職になり、白露さんのヒモになった。
盗作とデマの案件では、あの後何があったのか白露さんに聞いてみても、曖昧にはぐらかされるばかりだ。
おそらく白露さんは、俺以上に腕の立つ良い弁護士を見つけて、一連の騒動を円満に解決しただろう。
…カナタにさえ迷惑をかけなければ、もうどうでもいい話だ。
「ただいまー」
「えへへ…ユータ!
今日もお仕事お疲れ様!」
家に帰ればカナタが…奥さんがいる。
それがどれだけ嬉しいことか。
なお、彼女は社長なので俺よりも帰りが遅いことも多い。 家に早く帰った方が晩御飯の準備をしている。
「…ねえ、ユータ。
今日もいい?」
「昨日もしたじゃないか…
カナタ、だんだん魔物娘の価値観に毒されてきてないか…?」
「ふふふ…
魔物娘にとって、人間の精こそ何よりのご馳走なのよ?」
彼女は、汗だくになった俺の身体を気にすることなく、俺の服をはだけさせた。
そういう俺も、彼女の身体なしには生きられない身体になってしまったが…
…まあ、そういう人生も悪くはない。
25/10/09 18:20更新 / 網走の塀