連載小説
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暑い夏の日、再会 前半
学校が夏休みの日、セミが煩い季節に僕は村のはずれにある
神社というには小さな社に来ていた。

「土地神様、失礼します」

夏休みの間は、友達たちはみんな親に
畑の手伝いなどをさせられるため、基本的には
僕たちの夏休みには課題はなく、
代わりに友達同士遊ぶということもあまりない。
だが、まだ体が小さく鍬を扱いきれない僕は
近くのお社の掃除に駆り出されたのだった。

大人たちや親は、ここにどんな神様がいるのかは
わからなかったみたいだけれど、みんなから
『土地神様』という名前で呼ばれている。

「だいぶ良くなってきた...」

もはや普段の日課である境内の掃除を済ませ、
木陰にあった切り株に座って一休みする。
辺りを見回せば、落ちていた葉や枝だとかは
ともかく、ずいぶん汚れていた鳥居に石灯籠、
狛犬も磨き上げられ新品同様になっていた。

ほとんどを一人でやるのは怖い。ここは大自然の山の中で
どんな獣が出てもおかしくないし、鳥居の上に
上ることもできればしたくない。
ただ、なるべく綺麗には直したい。

流石に鳥居は大人に手伝ってもらったけど、これを
一人だけでやったと思えば達成感がある。
全部綺麗に直せたら、親や大人たちに褒めてもらえるだろうか。

カサカサ......

「うわっ!?」

草を掻き分ける音がしたと思えば随分と大きな百足が
僕の足元を横切っている最中だった。
近くに良い餌場でもあるのか、中々な大きさだ。
10cmはあるだろうか。
なぜか、はっきりとした理由はないが、
その百足から目が離せずにそのまま追っていた。

「......あっ」

百足を追う途中で、社の足場が欠けていることに
気が付いた。イノシシにでもぶつかられたのか
大きな傷がついていた。また、村のおじさんに
頼んで工具を借りてこないといけない。

「一度帰って、直しに来ます。失礼しました」

鳥居の目の前で一礼して、山を駆け下り、麓の村に急ぐ。




「...」

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麓の村はいつもと変わらず、畑で働いている人や、
切り出した板を運ぶ人など、のどかないつもの村だった。

「おじさーん!」
「なんだ、社掃除の坊主じゃないか!
 また工具かい?」
「うん!」

社の掃除をしているのは僕しかいないので、おじさんからは
いつの間にかこんな呼び方をされるようになった。

「やめてよその呼び方〜」
「ケケッ!似合ってるだろ〜?ほれもってけ」
「ありがと!家に帰るときに返しに来るから!」
「待ちな!」

おじさんに呼び止められたと思えば、小包を渡してきた。
受け取ってみれば、工具の類ではないらしい。

「おじさんこれなに?」
「昼御飯さ、そのうち腹減るだろうさ」
「ありがとう!」
「気をつけてな!」

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おじさんから、借りた工具とお昼を持って山を登っていく。
いち早く行きたいが、走ると危ないためにゆっくり歩いていく。

「はぁ...はぁ...」

大人たちなら、楽に登れる道でもまだ僕には辛い道だった。
なにより工具が箱に収まっているとはいえ重く、弁当の形が
崩れてしまわないように気をつけなければならない。

「よし...ついた」

普段よりも少し掛かってしまったが、お弁当の形も崩さずに
何事もなく到着することができた。
お弁当を切り株のところに置いて、工具を手に作業を始めた。
おじさんに教えてもらって、工具の扱いも前に比べて随分
上達したと思う。
箱の中に入れてもらった小さな板材を組み合わせて、修理を終えた。

「よし!...お腹すいた...」

終わってみれば、急にお腹が空腹を訴えてきた。
工具を箱に片付けて、切り株に座って包みを開いた。

「わぁ...!」

包みの中は、味のつけられた干し肉とおにぎりが二つ。
僕が好きなおじさんの料理だ。

「さすがおじさん...!いただきます!」
(お母さんには内緒にしよう)

カサカサ...

おじさんには工具の使い方や修理の方法を教えてもらう間に
何度かお昼は食べさせてもらっていたが、おじさんの料理は
味付けの濃いものが多く、食べ応えがある。

カサカサ...

「うん?」

また足元から音がしたと思えば、さっきの百足が足元にいた。
触角をピコピコと動かして、こっちに頭を向けて動かない。

「...?」

足をスッと避けてみると、少し近づいて切り株を登ってくる
わけでもなく、ぴたりと止まって動かなくなった。

「...お腹がすいてるのかな」

そう思って、おじさんにもらった干し肉を小さくちぎって、
近くにあった落ち葉に乗せて渡してみた。

「..食べる?」

カサカサ...カサカサ...

「いっちゃった...」

百足は干し肉を咥えて、そのままどこかへ持ち去ってしまった。
その後はお昼を食べ終わり、掃除の続きを終わらせて村に戻った。





「...美味しい」


ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

「土地神様、失礼します」

今日は初日から工具を片手に来た。
おじさんから、『社を直せるまで貸してやるよ!』と言われ、
ほぼ自分の所持品として持ってきていた。

「今日は...あれ?」

普段僕がお昼を食べたりする切り株。
そこに葉と蔦で作られた包みが置かれていた。

「誰のだろう...?」

誰のものかわからないものを触るわけにはいかないだろう。
今日はそこには座らずに、行儀が悪いかもしれないが、
社の階段に座って工具を置いて、修理する場所を探すことにした。

「今日は...社の戸を直そう」

社の戸は、所々ささくれや穴があり修理の必要があるだろう。
今日も工具を入れた箱から板を取り出して、戸を直していく。

...カタン

「うん...?」

どこかから木と木のぶつかる乾いた音がしたが、何か普段聞きなれた
音ではない、不思議な音だった。
見渡しても誰もいない。おそらくは風の音か何かだろう。

「まあ...いっか」

おじさんに教わった修理方法で直していく。板の色までは
合わせられなかったが、穴が開いているよりはきっといいだろう。
ささくれも工具で丁寧に取り除いて、見た目はともかく、
戸はしっかり風を凌いでくれるようにはなった。

「次は手すり...」

そのままの流れで社のいたるところを直していった。
手すりや座っていた階段のかけた所、大きな柱など
直すところは多くとも、それだけ達成感が強かった。

「おわった〜...!」

作業に没頭していたが、気が付けば太陽は昼過ぎの位置にあった。
お昼は今回は持ってきていないから、一度帰る必要がある。
丁度、修理するところもすべて終わった。今日はここで帰ろう。

「...あの包みは...」

結局誰のものかわからなかった包み。
村に持って帰って誰のものか聞くのも手だが、
誰かが置いただけだったのなら申し訳ない。

「...まぁ...いっか」

結局僕は、その誰のものかわからない包みをその切り株に
置いていくことにした。その時は気が付かなかった。
母親から貰った手ぬぐいを切り株に落としたまま、帰ってしまったことに。

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「むぅ.........あれは...?」

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村の家に着いてみると、お母さんがこちらに手招きをして
紙袋を手に持っている。
村から車でやっと行けるほどの街にある店のものだった。

「お父さんがあなたにって」
「これ...!」

中には、村で畑仕事をしている大人たちが被っている藁帽子が一つ。
そして、長靴やお父さんが畑仕事で着る服に似た服が入っていた。

「そろそろやらせてみようって、街まで行って買ってきたのよ」
「やった!」

お父さんの普段使っている鍬の隣に、一回り小さな鍬がいつの間にか置かれて、
畑に植える種を入れておく袋も、小さな袋が一つ掛けてあった。
明日から、お父さんの畑の手伝いができると思うと、僕はそれだけで
ワクワクする。

「今日はしっかり寝るのよ」
「うん!」

社に明日は行けそうにないが、誰かがお参りに行くということも
今は無いから、一日程度なら問題ないだろう。
それよりも僕は、明日から始まるだろう畑仕事がワクワクして
『早く寝なさい』とは言われたものの、どうしても寝付けなかった。

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「さて、じゃあ行くか」
「うん!」

今日は晴天だったが、買ってもらった藁帽子のおかげで日差しは気に
ならなかった。まだ手に馴染んではいない、重い鍬も今の僕には
とても大事なものをもらったような気持ちで、これからどんな
仕事を教わるのか、早く一人前になりたかった。

「よし、ここが父さんの畑だ」
「わぁー!」

その畑はあたり一面、綺麗に耕されて規則正しく列を成していた。その列の
隅のほうに、緑の生い茂った、縄で囲まれた場所があった。
何も手入れのされていない、草原と変わらない場所だ。

「あの縄で囲まれた場所、見えるか?」
「うん」
「あれがお前の畑だ」
「えっ!いいの!?」
「いいのもなにも、畑は自分で手入れするものさ」

本当に一番最初から、畑を作り出すところから教えてもらえる。
それだけで心がこれ以上ないほどに踊った。
これを自分だけの畑にしていいとなれば、夢や目標が膨らんでいった。
どんな野菜を植えようか、どんな畑を作ろうかと、想像が止まらない。

「まずは開墾だな」
「かいこん?」
「このままじゃ畑として使えないからな」
「草とかを掃除するの?」
「まあそんなところだな」

お父さんは僕に鎌を渡して、やり方を逐一教えてくれた。
まだできないことや、大きな岩や木の根の処理も手伝ってくれたおかげで
作業は想像していたよりもずっと早く進んだ。

「いったん休憩して、お昼にしようか」
「うん!」

畑の開墾をある程度進めて、僕はお父さんと少し早めのお昼を食べていた。
そんなとき、不意に手元が濡れた。

「あ」
「おや、雨か」

いつの間にか空が暗くなって、ぽつりぽつりと降り出した。
このままだとその内、本降りになるだろう。

「まだ途中だが、今日はここまでにしよう」
「もう少しやってからにしない?」
「雨で風邪を引くと困るし、何より畑は逃げないから、また明日」
「うん、わかった!」

僕とお父さんは二人並んで家に帰ることにした。
明日、次はどんなことを教えてもらえるのか想像しながら、
その日は一日を過ごした。

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「来なかった...あの子...来なかった...
 貰ってくれたかな...お返し...貰ってくれたかな」

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雨は二日降り続けて、僕の畑が乾くまで丸一日待った。
初めて教えてもらった日から三日経って、やっと僕の畑に行けた。
畑は相変わらず、むしろ水を浴びて元気になったような印象だった。

「お父さん!今日も開墾の続きでしょ?」
「そうだな、ただあの量なら今日で終わりかな」
「じゃあ次は耕すの?」
「次は土を元気にしないとな」
「雨だけじゃいけないの?」
「お父さんたちも水だけじゃ生きていけないように、
 畑の土にも肥料っていうご飯とか、栄養がいるんだよ」
「ふーん、難しいんだね」

荷車に何か樽のようなものを積んで運ぶお父さんと、
僕は晴れた日差しの中でくっついて歩いていた。

いざ作業に取り掛かると、まだ体が教わったことを覚えていたおかげで
前よりも早く進んだ。最初に見た時よりもすっきりした畑を見て、伸びをする。

「それじゃあ、肥料あげてみるか」
「やってみたい!」
「いいぞ〜」

樽の蓋を開いて、中にある肥料を畑へ撒いていく。
茶色い、少し臭い土のようなものだ。

「これ撒いて美味しい野菜ができるの?」
「できるはずだな」
「はずって?」
「例えば...イノシシだとかに荒らされたり、大雨で作物が
 ダメになったりしてしまうからな」
「ふーん」

まだ詳しいことを知らない僕からすれば、野菜は種を蒔いた分だけ
できると思っていたので、運任せなことが少しショックというか、
残念な気持ちだった。それでも、この苦労に見合うだけの
野菜や作物がとれるならそれもいいかもしれない。


「野菜の種とかっていつ植えられるの?」
「もう少し先だな、お父さんの畑なら明日に植えても秋には収穫できるだろうが、
 お前の畑はまだ栄養を食べきれてないからな」
「じゃあまた少し待つんだね」
「肥料をあげながらゆっくりやることになるな」
「大変なんだね」
「大変だな」

いつも畑仕事は見ていたが、思ったよりも、畑を始めるということは
時間と手間のかかることらしい。そろそろ夏休みも終わって、また学校に
通う日々が始まる。それはそれで、友達に会えると思えば楽しみだ。

「おーい!」
「ん?あれは...」
「どうしたのー!おじさん!」
「大変だ!」
「何があった?」
「それが...」

おじさんとお父さんの話は難しくてよくわからなかったが、
どうやら学校が老朽化で一部が壊れてしまったようだ。
そのため、学校を一度取り壊して新しく立て直すらしい。
その間、通っていた生徒はそれぞれ別の学校に振り分けられるが、
友達と必ず一緒というわけでも、近くになければ遠くに引っ越すことに
なるようだった。

僕は友達たちと遠く離れた都会の学校に転校することになった。
本来なら、憧れだった、いつか行ってみたいと思っていた都会に
行けるのだから喜ぶべきなのだが、友達と離れるのが嫌だった僕は
引越しの手伝いもろくにせずに、部屋でずっと泣いていた。
それでも家から荷物がすべて車に積まれ、僕も行くしかなくなったのだった。

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「...あの子は......どこに行くの?」

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お父さんの自慢の畑も、村のみんなで過ごした日々も、友達も、思い出も、
自分の畑も置き去りにして、車に揺られて村から遠のいていった。

「...」
「一旦降りて、最後にお礼だけしよっか」
「...うん」

村の境、川を越えるための小さな鉄橋の前で、一度車から降りた。
ここには、今まで村のために働いてくれた人を弔うためのお地蔵様があった。

「いままで、お世話になりました」
「...なりました」

母親と父親の後に続いて、同じ言葉を繰り返す。
まだ納得はしていないが、するしかないのだろう。
それにこの村が無くなるわけではないし、学校が出来たら
またみんな戻ってくるはずだ。それまで、我慢しよう。

「...バイバイ」

車に乗り込んで、名残惜しさに後ろを振り返った。
ガラス越しに見えたのは、さっきまで僕たちがいたお地蔵様の少し手前。
こちらを見ている、着物に身を包んだきれいな女の人がいた。

「えっ...?」

誰かわからないままに、その悲しげな顔をした人は、横から押し寄せる
木々の波に消えていってしまった。

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「...いってしまった...どうして...いってしまった...」

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「ああ...疲れた...」

村を出てから俺は、そこそこの生活をして、
それなりの学校を出て、社会人になった。
毎日毎日、上司から罵声を浴びせられ、無理な仕事を押し付けられた。
所謂ブラック企業だ。

「...辞めたいが...先がなあ...」

会社は辞めようと思えば、愛着もないのだからやめることは簡単にできる。
しかし、辞めた先がまだ見通せない以上、せめて転職先を見つけるまでは
辞めるわけにはいかなかった。

「...寝るか」

帰ってきて早々、誰もいないために電気も灯っていない室内で、
スーツを脱ぎ捨てて、そのままベッドに飛び込んだ。
ベッドが重くなった体を迎え、一瞬の浮遊感を感じる。
相当疲れているのか、眠気はすぐに来た。

チチチチ...

「...?」

何か近くから妙な音がする。時計の歯車の音でもなければ、
スマホに通知が来たわけでもない。
泥棒かと思い体をベッドから引きずり起こす。

「...」

見渡しても普段と変わらない汚れた部屋。
男一人しかいない、静かな部屋だ。

チチチチ...

また、音がする。時刻はとうに1時を過ぎており、
隣人も社会人なのだからとうに寝ているはず。
それに音が近く、低いところから聞こえる。

「...?...うおぁっ!?」

下に目線を移すと、黒々とした体に黄色い足をつけた、
赤い頭の百足がベッドの上に横たわっていた。

「おいおい...これから寝るってのに...」

それにしてもデカい。都会でいい餌場があるのか、
長さは15cmあたりといったところか。

「なんか...前にもこんなことあったな」

昔の記憶。古い、木や風のにおいのする、暑い記憶が蘇った。
いつの間にか忘れてしまっていた村のことや、親父に
分けてもらった畑のこと、壊れたらしい学校や、幼い俺が
何故か直そうとしていた小さな社のこと。
今はどうなっているのだろうか。まだ村に人はいるはずだが、
昔のような活気はまだあるのだろうか。
人間不思議なものだが、忘れていたことでも、一つ思い出すと
次々と様々思い出してくる。

「...あれ?」

いつの間にか百足はどこへやら消えていた。
さっきまでいた百足が消えてくれたのは、今すぐ寝たい
俺としてはいいことだったが、今はそれよりも。

「...確かまだ...使えてない休日申請があったよな...」

上司からどう有給をもらうか考えながら、その日は眠りについた。

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「...着いた」

あの日。泣きながら後にした村に、俺は帰ってきた。
懐かしい匂いと空気が肺を満たして、都会のような
喧しいエンジン音の代わりに、セミがそこらじゅうで鳴いていた。
苦痛にならない、懐かしい喧しさだった。

「...割と変わらないもんだな」

今日、ここに来ることはまだ親には伝えていない。
一人暮らしをすると家を出た後に村に戻った両親には、
家を訪ねて驚かせようと、まだ残っていた子供心がそうさせたのだ。
何度も通った家の前の道を歩いて、何度も親父と通った両脇に畑のある、
コンビニもカフェも何もない、好きな道を歩く。

自分の育った家のドアを十数年ぶりに叩く。

「はーい......ってあら!おかえりなさい!」
「ただいま、母さん」

中からは、覚えていた母親よりも少し小さくなった母親が、
嬉しそうな顔で出迎えてくれた。

「帰ってくるなら言ってくれてよかったのに〜」
「ははは、なんか驚かしたくなってね」
「お父さん、もうすぐ帰ってくるから」
「うん」

久しぶりの、電話越しでもない、顔を合わせた会話。
一人暮らし以降、里帰りもしていなかったために
懐かしい気分で満たされていた。
どこを見ても、昔の幼い記憶がよみがえる。
俺が使っていた、初めてもらった小さな桑もまだ残っていた。
ずいぶん古びてはいたが、試しに持ってみると、記憶より
よっぽど軽く、片手でも持ち上がってしまった。

「ただいま...お客さんか?」
「お父さん!」
「親父、ただいま」
「おまえ...!?なんだってここに!?」

帰ってくるなり親父は目を丸くして驚いていた。
まさか息子がわざわざ休みをとってまで規制するとは
思ってもいなかったのだろう。
その場で手に持った鍬を落として喜んでいた。

「今日は息子の帰省祝いだな!ぱっとやろう!」
「ええそうね!今晩御飯作ってるから!」
「ありがとう、父さん、母さん」

その日は、両親だけでなく、村に残っていた小学校の頃の先生や、
お世話になったおじさんも家に招いて、ちょっとしたお祭り騒ぎになった。
お酒を飲める年齢だったのもあって、宴会じみたそれは、
月が隠れるまで、長く続いた。

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寝静まった暗い部屋、何か音がする。
寝息に似た、風の音がする。
その音の主が、体をピクリと跳ねさせ、がばっと飛び起きる。

「スン...スンスン...」

しきりに、十数年ぶりに、自分の体を起こして、
自分と外を隔てる板切れの前で鼻をピクピク動かしている。

「あの子...?あの子が...帰ってきた...?」

ズルズルと何かを引きずるような音を出して、
音の主は板切れを横に流して、外の空気を招き入れる。

「スンスン...スーッ...」

すっかり自分の匂いが染みついて、本来の匂いがすっかり消えてしまった
ボロボロになった布切れを鼻に押し付けて、外と手の中と、何度も空気を
入れ替える。何かを探すように、何かを確かめるように、
好きなものを見たような、子供のような瞳で、彼女は震えていた。

「あの子が...!あの子が...!!帰ってきてくれた...!!」

月明かりに体を晒して、いつかの社で誰かが、鳥居の向こう側。
鳥居越しにいつもと変わらない、ただの村を見下ろした。
目を見開いて、一点だけをじっと見下ろした。

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

「頭痛い...」

昨夜のみ過ぎたせいか、見事に二日酔いになってしまった。
冷水を飲んだが、良くなる気配は一向にない。
今日は一日安静にしたほうがいいだろう。風邪で熱を出して
家で学校を休んだ日を思い出す。

「あー...休暇長く取っといて良かったな...」

どうせいつ使えるかわからない休暇だ。豪勢に二週間程度取ったが
正解だったようだ。まさかそれを、療養に使う羽目になるとは
思わなかったが。

チチチチ...

「...?」

最近聞いたような音がする。思考がうまくまとまらない。
どうやら寝ていた布団の近くから鳴っている。

チチ...

「最近よく見るな...」

またあの大きな百足だ。一回りほど小さいが、ベッドにいた百足と
同じ種類の百足だったようだ。街にもこんな村にもいるあたり、
相当タフな種類であるらしい。
こうも周りに出てくると妙な愛着が湧いてくる。

チチチチ...

「百足も鳴くんだなぁ...」

痛くぼんやりした頭でそんなことを考えていた。
思えば、子供のころはいろんな虫を探しては捕まえていた。
いつ頃からかクワガタなどにも興味は示さずに、
夏が来るたびに虫籠と網を持って山に行っていたのに、
それすらも無くなっていた。

「...」

不意に日光に照らされた百足の体を見て、
妙な好奇心が燻り始めていた。

「...」

チチチッ...ヂッ!カサカサカサカサ...!

「あ...しまった...」

妙な好奇心から少し触ってみたが、驚いたのか
どこかから足早に逃げて行っていしまった。
わざわざ追う理由もないが、なんだか不思議と
寂しくなってしまった。

「...流石に...暇だなぁ...」

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

チチチ...!チチチ...!カチカチ...!

「あら...そうなの...よかったわね...」

あの子のもとに行きたい気持ちは十分ある。
だが、この体では行っても気持ち悪がられるだけだろう。
それだけはどうしても嫌だった。
あの子にだけは拒絶してほしくなかった。

「...早く...来てくれないかな」

内と外を隔てる板切れの後ろに体を隠してなら、あの子にも会える。
でも、あの子がまた来てくれるとも限らない。
なんども使いを出してみたが、百足の言葉はあの子にはわからないだろう。
ああ、ただもどかしい。ひたすらにもどかしい。

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

「...んがっ......あぁ...?」

いつのまにか寝ていたらしい。すっかり回復したがあまり長く寝ていた
というわけでもなく、時刻はまだ昼過ぎといったところだった。
ろくに動いていないからか特に腹が減ったというわけでもない。
昼ご飯を食べる前に散歩にでも行くとしようか。

「母さん、そこらへん散歩してくるよ」
「いってらっしゃい、何もないけど気を付けてね」
「はいよ〜」

散歩に行くとは言ったものの、行く当てもなかったのだ。
まず初めに行こうと考えたのは、幼い頃に開墾した畑だった。
確か野菜も植える前に引っ越してしまったはずだから、
特に何が生えているというわけでもないだろうが。

「...これはまた...」

畑は意外なことに荒れておらず、だからと言って、野菜が育っているという
訳でもなく、文字通り何も生えていない畑がそこにはあった。
誰かが整えてくれたのか、いつでも野菜が植えられる状態で
そのままにされていた。

「...親父に感謝だな」

一瞬視界を何かがかすめた。脳裏にこびりついた赤いものが見えた。
暑い記憶が、楽しかった記憶が蘇ってきた。
何度も通ってチマチマと直していた社はどうなったのだろうか。
俺以外に誰かが直してくれていたり、参拝に行ったりしたのだろうか。
この村だって雨も降れば、風も吹くだろう。
考え出してみれば、止まるようなものでもなかった。

「見てみないことにはわからんか...」

俺は、赤い鳥居を目指して歩き出した。

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

「相変わらず険しいな...」

子供のころに通った獣道はまだ薄っすらと残っていたが、草が伸び切って
引っ越す前の子供のまま通っていたら間違いなく迷子になっていただろう。
クマの一匹でも出るんじゃないだろうか。
さらに悪いことに、土砂崩れでもあったのか、ある程度地形が変わっていた。
それも、木が折れたり岩が転がり落ちて道がなくなっていたりと、
目的地に到着するまで相当な時間を要することになりそうだ。

「生きてたどり着けるかな...これ」

背丈が伸びて記憶が薄れたのもあるだろうが、すでに迷いかけている。
とりあえず上を目指してはいるが、ちらちらと木の葉の隙間から覗く
赤を目印に登っている。
山を登ること自体めっきり無くなったが、それ以前に
社会人になってから体力が衰え続けていたからか、息は切れ切れになっていた。
実家に来るときに持ってきた数少ない外着は、裾が土で汚れ、
ちらほらと草が付着していた。
昔よりも遠くまで行けるようになったと思っていたのに、電車や車が
なければ人間この程度なようだ。

「...ゼェ...ゼェ...どこだ」

鳥居を目指して歩いていたのに、いつの間にか見失ったようだ。
木々の隙間を縫ってただ歩き続けると、参道のような、舗装はされていないが
人の手の入ったしっかりとした道が現れた。

「山道よりはマシか」

最後に鳥居を見た方向へ歩き続ける。
静かな森の中に自分だけがいるような、ノスタルジックとでもいうのか
何か不思議な気分になる。
子供のころにはなかったはずだが、いつの間にかできたらしい。

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

「あった...」

俺が、幼い頃に通っていた社に辿り着いた。
暑い日に水筒も持たずに歩いて、弁当を食べながら
地道に直していったはずの社に。

「...黒い...?」

俺が木の隙間から見ていたはずの赤い鳥居は、すっかり塗装が剥げてしまって
下地が見えている、黒い鳥居になって、まだそびえたっていた。
鳥居越しに中を覗いてみれば、狛犬は倒れて、社自体も最後に見たときより
随分と傷みが激しくなっている。

「...お久しぶりです、土地神様」

ここまで壊れて、風化して、朽ちてしまった社にはもう神も仏もいない
だろうに、昔の名残からか、挨拶と一礼をして鳥居をくぐる。

「これは...」

ちょうど社の境内の真ん中あたりに、何か大きいものが這いずったような
跡がついていた。この大きさの熊か猪となると、あまり長居はしない
ほうがよさそうだ。

「にしても懐かしいな」

くるくるとその場で辺りを見渡してみると、様々な記憶が蘇る。
一人で材料を運んでせっせと直していった社。
当時の大人たちに手伝って貰って塗りなおした鳥居。
石の扱いに長けた人に頼み込んで手入れを教えてもらった狛犬に石灯籠。
置いてすらない絵馬を飾るための掛場や、入れる人のいない小さな賽銭箱。
そして。

「...まだあったんだ」

何度も座って、休んだり弁当を食べた切り株。子供にはちょうどいい
高さで頭上の木の葉が影を作ってくれた休憩場所。
大人になった今座ってみても、思った通りゆったりするには合わなかった。

「大きくなっちゃったな」

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

「...?」

誰だ、あれは。
入るときの所作や、周りを眺める目、匂いも仕草もあの子だ。
切り株を見て座ってみたり、思い出すような動きもあの子だ。
だが、容姿が変わりすぎている。
たかだか十何年。それほど人間が大きくなるわけでもあるまいに。
見ただけだが20〜30年程度生きただけのはずだが、あれほど
小さかった子が大きな子になるものか?
最後に人の子と触れたのはもう百も前になる。
すっかり忘れられ、眼下の村から離れたここに来る物好きは
あの子だけで、あの子がほかの人間を連れてくることもあった。
だが、あの子はいつ来ても小さなままだったというのに。
小さくかわいいあの子はどこにいったのだ?

「...見ていた...はずなのに」

使いを出させてここに誘導できるかもイチかバチか。
その使いとも連絡が少しの間取れなくなっていたが、
ここにあの子が帰ってきたということは、使いは上手くいったのだろう。
使いの嗅覚や視覚が伝わればどうにか理解のしようもあったろうに、
そう便利な体ではない。
出来るのは狐の女や蛇の娘といったところか。

「...こっち...」

気が付けば、隙間から覗き見るだけでなく、手を伸ばしていた。

カタン.........
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

「んー...」

せっかくの大自然だ。大きく伸びをして新鮮な空気を取り込む。
空を見れば白い雲が澄んだ青を横切っていく。
小学校のグラウンドに横になって遊んだことを思い出す。
そんな、もう戻れない過去の夢をまた見ている。

カタン.........
「...は?」

音に反応して音源だった社を見た。誰もいないはずのその社。
いつ潰れてもおかしくない古びた社の戸の隙間から、
白い、白い手が伸びている。

「...」

こちらが声を出すとその手はスッと引いて行ったが、鮮烈すぎる状況に
全身が停止する。全身に鳥肌が立ち、視線が釘付けになった。

「...誰かいるの?」

声を掛けるが当然返事は返ってこない。まぁ、返ってきても困るが。
切り株から立ち上がって、その戸を目指してゆっくり歩いていく。
軋む社の階段を登って、戸の目の前まで来た。

...ストッ......

「...」

目の前で戸は、木と木のこすれる音をさせながら閉まった。
確実に中に何かいる。俺としてはいない方が幸せだったが、
中には誰がいるのか、興味があった。

トントン......

ノックをしてみたが、反応が無い。
居留守のつもりで「立ち去れ」ということだろうか。
ただ、我ながら馬鹿だと思えることを考えていた。
いるはずも、実体を持ってすらいないだろう考えにたどり着く。

「あ...えと...土地神様...?」

声に出すつもりはなかったのに、気が付けば口が動いていた。

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あの子に気づかれた。
腕を見られた。不覚だった。
慌てて腕を引っ込めたが、彼は鳥居から立ち上がっている。
板切れの後ろに隠れたが、あの子の匂いと足音が近づいている。
ギシギシと階段が軋み、音に合わせて、しばらく動いていなかった
心臓がドクドクと今更跳ね上がる。

「どうしようどうしようどうしよう...!!」

焦る。生れ落ちて天敵に襲われることもなくのんびりと暮らしていた。
しかし、あれは人の子で、何の力も武器も持たないただの子だ。
生まれて初めて、そんな弱い生き物を相手に焦っている。

ハッと我に返れば、社に差し込んだ光の帯にあの子の影が伸びている。
このままでは入られてしまう。あの子に見られるわけにはいかない。
今の体は、見せられない。
失望されるのが、絶望されるのが、拒絶されるのが怖い。

...ストッ......

片手で板切れを押して光を遮る。とっさに閉めてしまったが、
これでは中に私がいることがばれてしまった。
もう逃げ場はない。大きな私では使いを出していた穴からは
逃げられず、無理に出ればこれが崩れてあの子が怪我をしてしまう。

『あ...えと...土地神様...?』
「っ!!」

外からあの子の声がする。ずっと聞きたかったあの子の声が。
私の使いたちが何度も聞いて、その度に身悶えして、あの子に
もらったハンカチを吸いながら耽った夜も何度もあった。
待ち望んだあの子の声が聞こえる。

「ッ...!...?」

この感覚はなんだ?何か下半身が疼く。
ヒトのそれとかけ離れた私の肢体がジクジクと疼いている。
普段よりも彼の匂いが強い気がする。
頭を直接ゆすってくるような濃く、粘性を持った匂いが鼻を抜けていく。

「ふーっ...!ふーっ...!!フーッ...!!」

まるで、狭い道を何か、言い難い何かが無理に押しとおるような感覚が
鼻の中を埋め尽くして、吸わずには居られなくなる。呼吸が荒い。
いつしか匂いが癖になって、体がその匂いを求め始めた。

もっと強い匂いを。

もっとはっきりした、濃い塊の匂いを。

もっと、もっと彼を。

もっと。

近くで。

目の前で。

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目の前で閉まった戸を見ながら、何か反応が返ってくるかと期待した。
だが、所詮は村人たちが想像上に作った神様で、物理的にいるわけは
ないのだから、返答が無いのは当然だった。
二日酔いで頭をやられたのか、普段の疲れからいつの間にか幻覚でも
見たのか、それとも記憶がフラッシュバックしただけか。
仮に中にいるとしても、浮浪者か何かだろう。
かかわらないに越したことは無いのは火を見るより明らかだろう。

...カタン...
「ん?」

何か背後で音がした。
いつか、暑い夏の日に聞いたような、古い記憶にあった、
木と木のぶつかる乾いた不思議な音がした。

「誰か」

そこまで言って、俺の体は古い社の中に引きづりこまれた。
意識を手放すほんの一瞬。寸前で見たのは、顔を上気させた、
嬉しそうな顔をした、それでいて、妖艶でもある顔をした、記憶の中で
横から押し寄せる木々の波に消えていった、綺麗な人だった。

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やってしまった。とうとう手を出してしまった。
彼が振り返った隙をついて襲ってしまった。
倒れこんだ時に、彼は頭を打ったようで気絶している。
息は安定して、まるで眠っているようだった。

「...ふっ...!...フーッ...!!」

視界に彼だけが移る。自分の息は相変わらずうるさいが、苦しいのだ。
匂いが、彼が足りない。彼を吸い込んで、彼で肺を満たさないと、
どうにかなってしまいそうだった。
彼のがっしりとした胸に飛び込んで、鼻を突きたてる。

「んぐっ!!...フッ...フスーッ...スー...ッ!...!!...スーッ...!」

濃い、濃すぎる匂いが鼻を蹂躙して、肺に無尽蔵に入り込む。
その塊をすべて肺に押し込めたというのにまだ足りないと体は
彼を求め続けた。けれど、どれだけ吸ってもより濃い匂いに辿り着けない。
何故、まだ濃い匂いがどこかにあるはずなのに。何が邪魔をしている。

「...」

彼と私とを最後に隔てているものがあった。
私のような固い殻でもなく、床の板のような堅さもない。
ただの布が、彼と私を隔てていた。

「このッ...!!」

気が付けばそれを引き裂いて、彼の服の真ん中にぽっかり
穴が開いていた。そこにすかさず鼻を突っ込んで深呼吸する。

「スッ...んぐぶっ!?おごっ!??」

頭の中がパチパチと鳴っている。頭の中が真っ白になって、力が入らない。
何をされたのかを理解しようとしても、何もわからない。知覚できて、
唯一認識しているのは、彼の『濃い』という表現では足りない、もはや固体の
ような彼からの匂いと快楽だった。これ以上は体が危ないと脳は警報を鳴らすが
彼の素肌から鼻を遠ざけようにも体が全くいうことを聞かない。

「だめ...ごわれう...!!ごわれるゥ...!!」

苦しくなって、より荒くなった呼吸が、許容値を超えた麻薬が雪崩れ込んでくる。
視界がだんだんと狭まって息はしているのに胸が痛い。
自分の意識がどうにかなる手前で体を横倒しにして、彼から離れることができた。

「オ゛...!はぁ...フー...ッ...!!」

荒くなった息と、酸素が足りないと叫ぶ肺を整える。幸いにも離れたところであれば、
濃すぎた匂いを嗅いだためかあまり刺激を感じなかった。それでも、体の疼きは
止まらず、私の中が彼を求めていた。
服を裂かれ、いつの間にか溢れていた私の汗や液で所々濡れている彼はまだ眠っている。
しかし、妖術の類や薬で眠っているわけではないから、いつ起きてもおかしくはない。
襲ったとして、彼が目覚めて拒絶されたときに私は耐えられないだろう。
それにまだ、彼の意志も聞いてはいない。無理を強いたいわけではない。

「...起きてよぉ...」

私で湿った彼の服をつまんで何度か揺すってみた。

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妙な匂いがする。古い木特有の匂いと重く甘ったるい匂いがする。
嗅ぎなれない組み合わせだが、嫌いにはならない匂いだ。
体が揺れている、早く起きろと誰かが俺を急かしている。
いいじゃないか、せっかくの実家の休みだ。

「......ばぁ......ってばぁ...」

子供の声に似た声がする。しかし、俺に子供はいないし、両親が実家で
子供を預かっているという話も聞いたことがない。何より過疎まっしぐらの
この村に子供なんているのだろうか。
実家にしては寝ている床が硬い。布団の上ではないのだろう。

「...起きてよぉ...そろそろ起きてってばぁ...」

子供の声がはっきりしてきた。どうやら女性の声らしい。
体の揺れも強くなるが、瞼は相変わらず重い。
まだ眠っていたいという思いを押し殺して、俺は目を開けた。

「...ぁあ...ここは...」
「起きたぁ...!!」

最初に目に飛び込んできたのは、暗い社の天井と今まで目の前の大好物を
お預けされていた肉食獣のような目で無邪気に笑う女性の顔だった。

「...綺麗だ...」
「ピャッ!?」

朦朧としながら、強打したのか痛い頭を押さえて体を起こす。
うまく思考がまとまらないのに、酷く冷静で、何か体が温い。
雨にでも打たれたのかと思うほどにあちこちが濡れていて、
何かぬらぬらとした粘性のある液体に塗れていた。
きょろきょろと周りを見れば、どうやらここは社の中らしい。
そして、目の前で体を巻いてプルプルと震えた得体のしれないモノが、
いったい何であるのかは大方見当がついていた。

「...土地神様...ですよね?」
「...」

上半身が女性の体、下半身が巨大な百足の姿をしたコレは、
神様か、もしくは妖怪の類だろう。そしてここは、
過去に神様がいたらしい社なのだからいるとすれば前者だ。
ここのところ妙に遭遇することが多かった百足と色合いがどこか
似ていると思ってみていれば、足元を百足が通って行った。
どうやら関係があるらしい。

「...もしかして、小さいころに会ってますか?」

俺は、昔似た音を聞いたことを思い出して、突拍子もないことを聞いてみた。
その答えがなんであれ、彼女とただ話したかったのだ。

「...怖く...ないですか」

返ってきたのは回答でなく質問で、どこか怯えた声。
何を恐れているか見当はつかないが、ただ正直に話せばいいはずだ。

「...その...綺麗だとは、思いました」

妙に静かな時が、少し流れた。

「...あの...」
「はい?」
「...きみが、悪いんです」
「...はい?」
ガブッ!

彼女と俺とのファーストコンタクトは、あいさつや自己紹介ではなく、
首筋への、彼女の牙による一撃だった。
また床に叩きつけられた頭で最後に考えたことは、俺を噛んだこの子から、
どことなく落ち着く、いい匂いがするということだった。

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彼が起きた。ゆすったのだから当然といえば当然だが。
彼の目と私の目が合う。線で結ばれたような、ただ長い一瞬。

「...綺麗だ...」
「ピャッ!?」

そんなことを彼に言われて、自分でもどこから出たのかわからない声を
あげて体を丸めて彼から隠れる。今自分がどんな顔をしているか
わからないし、なにより彼と顔を合わせるのはまずい。
疼いていた体がより疼いて、私を内側から突き動かしてくる。
私から彼は見えないが、布擦れの音からして辺りを見回しているらしい。
彼は叫び声も上げなければ、すぐ逃げるというわけでもないようだった。

「...土地神様...ですよね?」
「...」

私は沈黙を返した。本来なら何か言うべきなのだろうが、
もう全身を晒してしまっている以上遅いのだろうが、
彼の質問に答えることがどうしようもなく怖かった。
ここで認めてしまったら、彼がどこかへ行ってしまうかもしれない。
そんな気持ちがまだ燻っていた。

「...もしかして、小さいころに会ってますか?」

また別の質問が来た。確かに私と彼は会っている。彼を連れて行った、
奴らを追いかけて連れ戻そうとしたとき。結界に阻まれてそれ以上は
進めずに、こちらを見つめる彼を木々の影まで見送った。
忘れたことのない、彼との最後の記憶。
彼は完全に私のことを覚えていて、知っている。

「...怖く...ないですか」

覚悟を決めて、二択の問いを投げた。
実質答えの決まっているだろう問い。怖くないはずがない。
この化け物の体を見て恐怖し、畏怖した人間は数多くいたのだ。
もし、拒絶されてしまったら、山崩れで穴の開いた結界の隙間から
いくつか山を越えて、誰も来ない山でひっそり暮らそう。
ここで彼に拒絶されてしまったら、飛び出して、
この子のことはもうすべて忘れてしまおう。

「...その...綺麗だとは、思いました」

綺麗だと。寝ぼけたわけでもない、はっきりした意識と声で。
そう彼は言ってくれた。
それを認識して、体が喜びに震えると同時。
何かが、何か歯止めが外れた音がした。

「...あの...」
「はい?」
「...きみが、悪いんです」
「...はい?」
ガブッ!

私はもう使うことはないだろうと思っていた毒牙で、
彼を床に強く押し倒して、重い体でのしかかって、彼の首に噛みついた。
使っていなくても効能は私が知っている。意識の混濁と遅効性の発情作用。
彼の首に噛みついて、ドクドクと流し込んでいく。
噛みついた彼の首から流れ出した血液が、私の口に流れ込んで、
それがまた私を魅了する。あまり腹を空かせない体だが、いつか食べた
獣の血とは全く違う。全身に染みわたって私の疼きを強くさせる劇薬。

「フーッ!ああっ!」
ガブッ!ガブッ!

何度も息継ぎをして彼に流し込む。これにも致死性の毒はもちろんある。
その致死量を超えない量を流し込んで、彼の首筋から牙を引き抜いた。

にぢゃ...ずりゅっ...

奇怪な音を立てて、彼の首から私の牙が抜けた。
止血を済ませて、私が付けた傷跡を見る。
首に、これは私のものだと、目印をつけてやった。
あとは、歯止めの外れた私の頭で思いつく、一番したいことをするだけだ。
彼はすっかり、寝息を立てて眠っている。

「...しばらくしたら...また会おうね」

ただ一人、寝息のする空間。私と彼だけ。

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その日、一人の男が帰らなかった。
探せど探せど誰も見つけられない。
村の人も、都市から来た警察も、両親すらも。
誰も男を見つけられなかった。

捜索範囲は村全域だったが、一か所だけ、
外れた場所があった。誰も不思議に思わず、
なぜ探さないのかと、議題にすら上げなかった。

赤い立派な鳥居を持った小さな社。
そこだけはまだ誰も探してはいなかった。

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その社の中。誰かがつぶやいている。

「楽しみだなぁ...まだかな...あの子に会えるのはまだかな...」

くるりと渦を巻いた何者か。それが愛おしそうに体をさすって眠っていた。

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24/06/17 00:00更新 / ZAKER
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■作者メッセージ
前置きを書いていたら
長くなりました。

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