連載小説
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人魚姫(カテゴリー:マーメイド、シリアス)
 皆さんは海の底というと、どのような世界を思い浮かべますか? 真っ暗でがらんとしていて、真っ白な砂しかない冷たい世界?
 いいえ。違います。海の底には皆さんが住む地上とはまた違う色とりどりの草花やサンゴが生えていて、空を鳥が飛ぶように地上とは違う動物たちが泳ぎまわったり、地上を歩く私達のように海の底を歩き回ったりしているのです。
 そして、海の沖にある更に沖の方、船で海の上を渡る人間達の目には見る事のできない深い深い海の底に、海の魔物娘達が暮らす国がありました。
 この国を治める海の神「ポセイドン」の加護を受けた王様とマーメイドの女王様には、たいそう美しい6人のお姫様がおりました。その中でも末の妹姫様が持つ、ルビーのような真っ赤な髪にサファイアのような青い瞳、エメラルドのような緑色の鱗は特に美しいと評判で、その真っ赤な髪を海にそよがせながら太陽の光を浴びて泳ぐ様は、真っ暗な海の底からでも思わず目を見張るほどにキラキラと輝いておりました。

 ところが、この末の妹の人魚姫は大層お転婆な娘でもありました。お母様や教育係から魔法を教わる時間になるといつも授業をサボってお城を抜け出し、海の上の方へと泳ぎ出すのです。そして人間達の船や魚の群れが通るのを遠くから眺めたり、セイレーンにメロウ、キャンサーといった他の種族の魔物娘達と一緒になって歌や踊りを楽しんだりするのでした。

 ある日の晩、人魚姫がいつものようにお城を抜け出して海面に出てみますと、1隻の船が遠くに見えました。彼女が今までに見たどの船とも比べ物にならない大きさです。船の上では煌々と明かりが灯り、人間達が楽しそうに話しているのが見えます。その人間達の真ん中では、彼らの中でもひと際きらびやかな服を身に付けた若い男の人が周囲から次々に声をかけられていました。
「陛下、この度はお誕生日おめでとうございます」
 人魚姫が船の陰からこっそりと話を聞いてみると、どうやらこの人はどこかの国の王子様で、船の上ではその王子様の誕生日を祝うパーティが開かれているようです。王子様は次々とお祝いの声をかけてくる人達に笑いながら応えていましたが、やがて疲れた様子で人の輪から離れて船の端へと歩いてきました。そこでようやく王子様の顔を見た人魚姫は、思わずこう呟きました。
「まあ、なんて素敵な人でしょう」
 すっかり王子様の姿に目を奪われた人魚姫は、それ以外には何も目に入らなくなっていきました。船の真ん中で楽しそうに話す他の人間達も、それを照らす眩しい灯りの炎や全てを見下ろすように輝く星の光。そして、いつの間にか船の近くへと泳いでくる人魚姫以外のもう1つの影にも。

「陛下、どうなさいました。どこかお加減でも悪いのですか」
 船の端で遥かな海を眺めていた王子様の隣に、年配の男の人が歩み寄ってきました。綺麗に整えられた髪や髭には白い物が混じっており、心配そうな表情を浮かべています。
「大丈夫だよ、じいや。ありがとう。ちょっと星と海が見たくなっただけさ」
 王子様が「じいや」の声に答えたその時、事件は起こりました。
「あら。あんな所に私好みのナイスミドルがいるわ!」
 突然、人魚姫の隣で大きな水しぶきが上がったかと思うと、クラーケンが姿を現したのです。クラーケンは王子様の隣にいる「じいや」の所へ登ろうとするように何本もの触手を船に巻きつけました。ミシミシと大きな音を立てて船が軋みます。
「おい、一体何が起きた」
「魔物だ! 魔物が船に取りついてきたぞ!」
 船の上はたちまち大騒ぎになり、何人もの兵士がクラーケンの方へと矢を放ちました。しかし、揺れる船の上からではまともに狙いが定まるはずもなく、そうしている間にも船はまるで悲鳴を上げるように大きな音を立てて軋んでいきます。そしてついに、船は真ん中から半分に折れてしまい、上にいたたくさんの人達が海へと投げ出されました。人魚姫の目には、溺れるたくたんの人達の間へと落ちていく王子様の姿がはっきりと写ります。
「大変!」
 人魚姫は慌てて王子様の所へと泳いでいきました。海の中では「じいや」を捕まえたクラーケンが真っ黒な魔力を吐き出し、おまけに砕けた船の材木が辺りを漂い始め、人魚姫の行く手を阻みます。
(王子様! 死んじゃダメ!)
 それでも人魚姫は海の底へ沈んでいきそうになる王子様の元へと懸命にたどり着き、彼の手を引っ張って海面を目指します。
(ああ。こんなことになるんだったら、ちゃんと魔法の勉強をしておけばよかったわ)
 海に住む魔物娘は人間が水中で呼吸ができるようにする魔法を使う事で、その人間が自分と一緒に暮らせるようにする力を持っています。しかし、今まで魔法の勉強をほとんどしていなかった人魚姫は、まだこの魔法をうまく使えません。他の魔物娘に助けを求めようにも、クラーケンの魔力で真っ黒に染まった海の中では、王子様に材木がぶつからないように泳ぐので精いっぱいです。
 人魚姫がようやく海の上に顔を出すと、ぐったりする王子様を引き上げました。しかし王子様はぐったりしたまま動きません。
「誰か! 誰かいないの! 助けて! このままじゃ王子様が!」
 人魚姫は必死に叫びましたが、答える声はありません。それどころか随分と流されてしまったようで、辺りをいくら見回しても自分と王子様以外には相変わらずただ全てを見下ろすように光る星しか見えませんでした。彼女は王子様の体を抱えて泳ぎ続け、朝日が昇り始めた頃になってようやくどこかの砂浜にたどり着きました。人魚姫は王子様がこれ以上流されないようにと彼を砂浜の上に押し上げましたが、それ以上の事は何も出来ませんでした。この人魚姫は人化の術を使って陸に上がる事もまだうまくできなかったのです。その時、誰かが陸の方から歩いてくる足音が聞こえ、驚いた人魚姫は慌てて近くの岩陰に隠れました。若い人間の女の人が砂浜にやってきて、そこで倒れている王子様に気付きます。
「大変! あんな所に人が倒れているわ!」
(お願い! 王子様を助けて!)
 人魚姫が岩陰から祈るように見守っていると、女の人はそれに応えるように急いで他の人間達を読んできます。そして彼らが必死に王子様を助け起こそうとすると、彼はようやく目を覚まし、自分を助けようとしてくれた人たちに微笑みかけながらお礼を言いました。
 その近くの岩陰で小さな水音を立てて海の底へと消えていく影には、その場の誰も気づきませんでした。




 その日からというもの、人魚姫はいつも王子様の事で頭がいっぱいになりました。人魚姫は毎日海の上に行き、王子様の船を見つけた場所や王子様を助け上げた砂浜の近くを泳いで回りますが、王子様の姿は見つかりません。
(私もお母様やお姉様達みたいに人化の術を使えれば、陸に上がって王子様を探しに行けるのに)
 しかし、人魚姫はその事をマーメイドの女王様やお姉さん達に相談していませんでした。ちゃんと魔法が使えるように真面目に勉強しろと叱られて終わるのが目に見えているからです。その時、人魚姫の頭にある考えが浮かびました。
「そうだわ。アースラおば様に相談してみたらどうかしら」
 アースラというのは人魚姫の母親であるマーメイドの女王様にとって妹に当たる人で、スキュラという蛸の魔物娘です。人魚姫が住む国の外れにある、カリュブディスというフジツボのような魔物娘の巣穴が集まる所に住んでいました。アースラは夫と一緒に巣に籠っている事が多くマーメイド達の所に会いに来ることはあまりありませんでしたが、人魚姫は自分と同じく燃える炎のように真っ赤な髪をしたアースラおば様の事が大好きでした。

 人魚姫は色とりどりのサンゴや貝殻で飾られた海の底の国の中心部を離れ、カリュブディスの巣穴が並んでいる灰色の場所へと全速力で泳いでいきます。臆病なカリュブディス達が小さく悲鳴を上げながら身を隠し、その真ん中にアースラの巣穴がぽっかりと口を開けているのが見えました。この辺りはカリュブディスが度々大きな渦潮を起こすため、他の魔物娘や上を船で渡ろうとする人間達はほとんど近づこうとしません。
 人魚姫がアースラの巣穴に飛び込むと、そこにはアースラが海の底で拾った様々な品物が所狭しと並んでいました。どこから流れてきたのか、キューピッドの金色と黒の矢なんかもあります。人魚姫はそうした品々の真ん中で眠る夫に触手を巻き付けてぴったりと寄り添うアースラの姿を見つけると、早速今までのいきさつを話しました。
「そんなに陸の上へあがりたいなら簡単さ。早く家に帰ってちゃんと魔法の勉強をするんだね。そして人化の術を覚えるんだよ」
 やはり予想していた通り、アースラは人魚姫が母親や姉達に相談していたら帰ってきたであろう答えと同じ答えを返しました。しかし、そこで人魚姫は引き下がりません。
「そんなの解ってる。でも、私はその技を覚えるまで待てないの! 早くあの王子様にまた会いたい。本当ならこうしておば様の所に来ている時間だって惜しいくらいなのよ」
 そして、ついにはアースラの方が根負けしてしまいました。
「解った。人化の術が使えない魔物娘でも、人間の姿に化けられるようにする薬の作り方を知っている。だけどいい? 人間に化けられない者を無理やり化けさせるという事は、あんたが思っているほど生易しいもんじゃないよ」
 アースラは触手の一本を人魚姫の尾びれに絡めるようにしながら続けます。
「その薬を飲めばあんたの身体には強い負荷がかかる。特にマーメイドと人間で一番大きく違う部分、足なんかはちょっと歩くだけでも強い痛みが走るようになるだろうね。それに他の部分も、どんな副作用がかかるか解らない。特に最悪なのは、陸に上がっている途中で薬の効果が切れる事だね。そうなったらあんたはそれ以上陸の上で動く事も海に戻る事もできず、その場で飛び跳ねる事しか叶わなくなる。そうならないためには――」
「どうすればいいの?」
 人魚姫がおずおずと尋ねると、アースラはニヤリと笑みを浮かべて言いました。
「あんたも魔物娘なら察しは付くはずだよ。薬の効果が切れる前に、あんたの大好きな王子様から精を貰うのさ。陸に上がりたいのもどうせそのためなんでしょ?」
 人魚姫が顔を真っ赤にしながら頷くと、アースラは再び厳しい顔になり、触手の1本でどこからか小さなナイフを取り出して言いました。
「もう1つ。その薬を作るためには、人間に化けさせる魔物娘に近い者、できれば本人の身体の一部を材料に使う必要がある」
「それって、『人魚の血』を取るってこと?」
 マーメイドやそれに近い魔物娘に流れている血は、とても強い魔力が含まれている事で知られており、それを人間に飲ませるだけで寿命を延ばす事ができる程だと言われています。
「それでもできない事は無いんだろうけど、それよりももっと人間の体に近い部分の方が薬は作りやすいね。例えば、その髪とか」
「構わないわ。髪の毛なら時間が経てばまた生えてくるもの」
 それだけ言うと、人魚姫はアースラの触手からナイフをひったくり、迷う事無く自分の髪をバッサリと切り落としました。それまで家族や友人達から、海にそよいで輝く姿が美しいと褒められてきた髪を。

 アースラから完成した薬を受け取った人魚姫はそのまままっすぐに、以前王子様を引っ張っていった砂浜へと泳いでいきました。貰った薬を口にすると喉に内側から針を突きさされたような痛みが走りましたが、それに耐えてひと息に飲み干します。すると、突然尾びれが大きな手で無理やり2つに引き裂かれているような痛みが人魚姫を襲いました。人魚姫は思わず叫びそうになります。しかし、その叫びは声として口から飛び出す事はありませんでした。人魚姫の頭の中に鋭い痛みと音にならない叫びがこだまし、彼女はそのまま目の前が真っ暗になっていきました。




「大変! また人が倒れているわ!」
 どれくらいの時間が経ったでしょうか。人魚姫は誰かの叫ぶ声で目を覚ましました。人魚姫がゆっくり目を開くと、以前王子様を砂浜まで運んだ時に彼を見つけてくれた若い女の人がそこにいました。
(ツイているわ! この人なら王子様がどこにいるか知っているはずよ)
 そこで人魚姫は早速目の前の人に話しかけようと口を開きましたが、そこで声が出てこない事にようやく気付きました。アースラの警告していた通り、足だけではなく喉にも副作用が現れてしまったのです。
 人魚姫が顔を真っ青にして喉を抑えながらまさしく魚のように口をパクパクと動かしておりますと、事態を察した女の人が声をかけてきました。
「もしかして貴女、声が出ないの?」
 人魚姫が首を縦に動かすと、女の人は人魚姫に優しく手を伸ばして言いました。
「おいで。その喉を治すことはできないけど、服を着せてあげることくらいはできるわ」
 そこでようやく、自分が裸の人間の姿をしている事に気付いた人魚姫は、女の人の手を取りながらゆっくりと立ち上がりました。ひと足踏むたびに、針の上を歩くような痛みが足に走りましたが、人魚姫はそれをどうにか堪えながら女の人に引かれるままに付いていきました。
(薬を作るために髪を切り落としていなかったら、せめてあれで身体を隠せたのに)

 人魚姫が連れていかれたのは、愛の女神「エロス」を祀る教会でした。女の人はそこで修行するシスターだったのです。教会の人達はどこから来たのか解らず、喋る事も出来ない人魚姫の面倒をそこで見てあげる事にしましたが、それは人魚姫が最初に想像していた以上に大変な生活でした。
 愛の女神「エロス」の教会は信徒達が結婚式を執り行ったり、伴侶と互いの愛を確かめ合う為に神への祈りを捧げる為にやってくることが多い場所。言葉を喋れない人魚姫は想い人の居場所を誰にも尋ねる事ができないまま、他人のそれを眺めるしかなかったのです。
 特にこの国では、エロス教を国教とする国の中でも一風変わった風習がありました。女の人が男の人と結婚する際に相手への想いを込めて自分で作った、自分だけの「愛の歌」を披露し、結婚式の場でアプラサスやガンダルヴァがそれに合わせた踊りや音楽を添えるのです。人魚姫はその歌を耳にする度に、声を出す事のできないせいで愛する王子様の所へ行く事のできない自分の現状を改めて突き付けられるような気がして気の沈む思いがするのでした。
 せめてもの慰めがあるとしたら、人魚姫を心配したセイレーンの友達が時々空を飛んでこっそり自分の様子を見に来てくれる事くらいでした。




 そうしてひと月程経ったある晩、人魚姫が足の痛みで目を覚まし、せめて痛みを少しでも紛らわそうと井戸で自分の足を洗っていますと、どこからか微かな歌声が聞こえてきました。
 ふとその声が気になった人魚姫が辿ってみますと、彼女を教会に連れてきたシスターが誰もいない真っ暗な礼拝堂の真ん中で小さなロウソクに火を灯し、1人で歌を歌っていました。いつも昼間に歌っているエロス教の聖歌とは全く違う歌です。それを聞いていた人魚姫は自分が地上にやってくる前、セイレーンやメロウ、キャンサーの友達と一緒に歌ったり踊ったりしていた時の事を思い出します。そして気が付くと、人魚姫は足の鋭い痛みにも構わずシスターの前に飛び出し、歌に合わせて踊り始めました。シスターは突然現れた人魚姫に驚いて歌を止めそうになりましたが、人魚姫が自分に合わせて踊ってくれている事に気付くと、最後まで歌い続けた後にっこりと笑いかけました。
「この歌を褒めてくれたの? ありがとう」

「実は私、この国の王女なの」
 真っ暗な礼拝堂の長椅子に人魚姫と並んで座ると、シスターは話を切り出しました。
「この前、お父様から使いが届いたわ。私が近くの大きな国の王子様と結婚する話が持ち上がっているって。私はそれを受ける事にしたの」
 その話を聞いた人魚姫は、さっきのシスターの行動の意味を察しました。自分の結婚式で披露する「愛の歌」を作っていたのだろうと。しかし、シスターはそんな人魚姫の考えに気付いたように、首を横に振りました。
「私がさっき歌っていたのはその王子様のための歌じゃないわ。私には別に好きな人がいるの。でも、私はその人と1度顔を合わせただけで、どんな名前でどこに住んでいるのかも知らない。だから誰にも聞かれないように、その人のための『愛の歌』をここで作っていたの」
(それって……)
 声を出せない人魚姫は、思わずシスターの手を握り、彼女の目を見つめました。
「そう。私は自分の好きでもない、それどころか顔を見た事も無い男と結婚するの。他に好きな人がいるのを隠しながら。さっきの『愛の歌』は結婚式では歌わない。結婚式の作法は向こうの国に合わせるとかなんとか言い訳をしてね」
 シスターの頬をひと筋の涙が流れ落ちます。
「こんな事はエロス教のシスターにあるまじき事だというのは解っている。『愛を壊す者には黒き鉛の喪失を』。エロス様は決して私をお許しにならないでしょうね。でも、これはうちのような小さな国が生き残るためには必要な事なの。そして私はこの国の王女。この国で愛する人と共に生きるたくさんの人達を守らなきゃいけないのよ」
 そこでシスター――いや、王女は堰を切ったように大声を上げて泣き始めました。声を出す事のできない人魚姫は、黙って王女を抱きしめ、その髪を撫でさすります。
(大丈夫。私はそのエロスって神様の事は知らないけど、きっとその神様は貴女をお許しになると思うわ。だって、貴女はこんなにたくさんの人達への愛に溢れているんですもの)
 人魚姫は心の中で王女に語り掛けます。人魚姫に抱きしめられ、小さなロウソクの光に照らされた王女のうなじは、礼拝堂のステンドグラスに描かれたエロス神の姿によく似た褐色の肌をしていました。

 この日から人魚姫は毎晩教会の他の者が寝静まる頃になると、王女様と2人だけで一緒にこっそり礼拝堂に集まる事が日課となりました。




「最近は随分楽しそうな顔をするようになったね。王子様の居場所が解ったの?」
 自分の様子を見に来たセイレーンの問いかけに、人魚姫はにっこりと笑って首を横に振ります。もう彼女の心は決まっていました。
 地上にさえ行ければ、地上に住む人間同士なら、言葉を話す事ができるならすぐにでも王子様に会えると思っていたけれど、実際はそうではなかった。王子様を見つける事はできなかったけど、あの王女と友達になれただけでも、私はこの地上で大切な物を手に入れる事ができた。
 薬の効果が切れたら海に帰ろう。そしてちゃんと魔法を勉強して、今度は自分の力と言葉で王子様を探しに行こう。




 それから王女の結婚の日取りが決まったある時、王女は人魚姫にある提案をしました。自分の結婚式に付き人として付いてきて欲しいと。
「結婚式には色々な国からたくさんの人が来るはずよ。貴女の事を知っているか、そうじゃなくても貴女が元来た場所の手がかりを知っている人がいるかもしれない」
 それを聞いた人魚姫は嬉しくなって思わず王女の手を強く握りました。王女が顔も知らない相手と結婚してまで守ろうとする自分の国の人達と同じくらいに、自分の事も大切な存在だと言ってくれているように思えたからです。

 しかし、王女様と結婚相手がそれぞれの付き人を交えて顔を合わせる事になったその時、王女様の結婚相手である大国の王子の顔を見た人魚姫の顔に驚愕の顔が浮かびました。なんとその人は、人魚姫がずっと会いたいと思っていた王子様その人だったのです。
 しかも、その王子様の顔を見て驚いたのは人魚姫だけではありませんでした。王子様と結婚する事になった王女までもが、顔に大きな驚きを浮かべて叫びます。
「まさかあなただったなんて!」
 すると王子様の付き人、あの日クラーケンに襲われていた例の「じいや」が大きく首を縦に振りました。
「浜辺に打ち上げられた殿下を貴女が懸命に介抱なさった日から、殿下は別人のようにお変わりになられました。あの日から自分の命は貴女に拾われたもの。だから貴女の夫として恥ずかしくない王子になるのだと仰り、金のない家の子供でも学ぶ事のできる学校や図書館を作ったり、飢饉が起きれば飢える者達に食べ物が行き渡るよう自ら指揮をお取りになられたりと、困っている者弱き者を1人でも多く救おうと尽力なさり続けているのです」

 王女は人魚姫の手を引っ張ると、他に誰もいない所へ連れて行き、満面の笑みを浮かべて叫びました。
「あの人よ!」
 相変わらず呆然とする人魚姫を前にして、王女は続けます。
「ああ、私はなんて幸せ者なのかしら。あの人こそ私が作っていた『愛の歌』の相手だったのよ」
 それを聞いた人魚姫は確かにまだ人間の姿を保っているはずなのに、足が尾びれに戻ってしまったかのように動けなくなってしまいました。
「これもエロス様のご慈悲なのかしら。もう誰にも聞かれないようにこそこそと『愛の歌』を歌ったりする必要なんて無いんだわ。大切な人の前で、エロス様の遣い達の音楽や踊りと一緒に歌う事ができるのね」
 そして、王女は人魚姫の手を取って言いました。
「ねえ、貴女も私の『愛の歌』のために踊ってくれるわよね? 私の歌だけじゃない。貴女のあの踊りも王子様やたくさんの人達に見せられるのよね? ――どうしたの?」
 そこまで言われてようやく、人魚姫は自分が涙を流している事に気付きました。
(浜辺に打ち上げられた? 違う! 私が王子様をあそこまで運んだの。私が王子様を助けたのよ!)
 人魚姫は大声で叫び出したい気持ちになりました。しかし、今度はすぐに、浜辺でシスターの格好をした王女が、必死に王子様を助けようとした姿が思い浮かびました。それから真っ暗な礼拝堂で誰にも聞かせる事のできない「愛の歌」を謳い、涙を流していた姿も。
(そうよ。どっちも偽物なんかじゃない。どっちも本物なんだわ。王子様を好きになった気持ちも、そして王子様の命をなんとしても助けたいと思った事も)
 人魚姫は王女様に取られている方とは反対の手で、慌てて涙をぬぐいます。そして、再び泣き出しそうになるのを必死にこらえながらにっこりと笑いかけ、王女の額にキスをしました。




 そして結婚式では新婦である王女の要望に沿い、ガンダルヴァが伴奏をかき鳴らし、アプラサス達が舞い踊る中、王女の作った「愛の歌」が王女自身の声で披露されました。人魚姫も常に針を突き刺されているような鋭い足の痛みに耐えながら、アプラサス達と共に踊ります。それは踊りに長けたアプラサスのそれと比べると随分とぎこちない物でしたが、王女は隣に立つ王子様の手をぎゅっと握りながら、周りでアプラサスが躍る「祝福の踊り」にも目をくれる事無く、自分のために踊り続ける人魚姫の姿だけをただじっと見つめ、「愛の歌」を精一杯の声で歌い続けました。




 「愛の歌」の披露が終わると、人魚姫は結婚式の会場をこっそりと抜け出しました。ほとんど足を引きずるようにしながら、できるだけ近い海岸へと歩いていきます。人魚姫はアースラから貰った人間に化ける薬の効果が切れ始めている事に気付いていました。いつ足が尾ひれに戻ってもおかしくありません。そしてどうにか海岸にたどり着き、海へと飛び込もうとした時、急に海面が激しく泡立ち、5つの影が姿を現しました。お姉さんのマーメイド達です。いちばん上のお姉さんが右手を差し出して言いました。
「セイレーンから事情は聞いたわ。これを使いなさい」
 妹の人魚姫が見ると、なんとそこにはキューピッドの黒い矢が握られていました。
「私達、アースラおば様の巣穴からこれを盗み出してきたの。これで心臓を射抜かれた者はいかに愛に気付かぬ鈍感な者でも、自身に向けられる愛に気付くらしいわ。これを王子の心臓に突き刺して、王子の精を奪うのよ」
 お姉さんの言葉を聞いた人魚姫の脳裏に、王子様の乗った船を砕いたクラーケンの姿が過りました。好きになった男を手に入れるためならどんな強引な手でも使う。それが魔物娘の生き方。お姉さんの言葉は正しいはずです。
 しかし、人魚姫はキューピッドの矢を受け取ろうとはしませんでした。その場に座り込み、声も出せないまま静かに泣きじゃくります。
 お姉さんのマーメイド達が互いに困ったように顔を見合せたその時、海面にもう1つの影が現れました。
「今のその娘に必要なのはそれじゃないんじゃないのかい?」
 それはアースラでした。触手の先には赤い薬の入ったビンが握られています。
「これはあんたが飲んだ薬の効果を伸ばして、副作用を抑える薬だよ。これを飲めばあんたはもう少し歩けるし、喋る事もできるようになるはずさ。あんた本人がいなくてできだけ近い魔力の持ち主で代用したから、効果はそんなに長く続かないけどね」
 できるだけ近い魔力の持ち主――その言葉の意味を考えていた人魚姫はふと、以前の自分と同じように海の中で長くなびいていたアースラの髪が短くなっている事に気付きました。まるでナイフで乱暴に切り落としたように。
 人魚姫の視線に気づいたアースラは、なんでもないというように笑いかけます。
「髪の毛なら時間が経てばまた生えてくる。そうでしょ」

 その時、人魚姫は自分を後ろから呼ぶ声に気付きました。振り返ると、結婚式の会場からいなくなった自分に気付いた王女がこちらへと慌てて走ってくるのが遠くに見えます。その後ろからは王子様も王女を追いかけてきていました。
「さあ。今のあんたに必要なのはどっちだい? キューピッドの黒い矢? それとも――」
 人魚姫はアースラの言葉を遮るように、赤い薬の入ったビンを慌ててひったくりました。
19/08/27 00:43更新 / bean
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■作者メッセージ
 一応書いておきますが、これは「コートアルフ」が通販でうちに届く前に書き上げました。そのためあちらと矛盾する記述もあるかもしれません。
 正直な所、いままで魔物娘図鑑でパロディしてきた童話の中では「三枚の蛇の葉」と並んで魔物娘図鑑でやりにくいと思った話でした。
 人魚が人間に恋する事で人間になろうとする人魚姫って、魔物娘図鑑とは世界観そのものが正反対じゃないかと。
 おかげで構想を何度も練り直す事になり、昨年の冬コミでの「コートアルフ」発表延期の頃から書き始めて、夏コミでの発表前後までかかってしまいました。
 それと個人的には元ネタであるアンデルセンの「人魚姫」は僕が知っている童話の中ではそこまで好きな話上位というわけでもないのですが、ラストシーンで空気の精になった人魚姫が王子様と結婚したお姫様の額にキスをした、すなわち愛する王子様だけでなく恋敵であるお姫様の幸せも祈ったという描写がなんとなく好きなシーンなのでそこから拡大解釈して書いてみました。

 そして「エロス教の童話」という設定の話は一応これでひと区切りになりますが、愛の神「エロス」という存在をぶっちゃけ堕落神とどう違うのかと考えた上で、「伴侶への愛だけでなくそれ以外の愛」というのを共通した裏テーマとして設定しています。万魔殿で伴侶と2人だけの世界に閉じこもるのではなく、子供(自分の子に限らず)や友達、家族、そして時には恋敵との関係も大事にする。それが「エロス」の教えなのではないかと。

 ちなみにクラーケンが破壊した王子様の船に乗っていた他の人達は全員、海に住む他の魔物娘達が責任をもっておいしくいただきましたのでご安心ください。

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