つづき
[1階 新アトリエ横「アンジェの作業室」]
「色は全部白でよろしいですか?えぇ、一番人気ですね。色で言うとピンクやモノトーンも人気です。羽とコーディネートする、という方もいらっしゃいます。でもやっぱり、『結婚式は白が良い』という方が多いですね」
「…はい。彼は答えてくれませんでした。でも、思ったんです。もっとこの人を知りたいって。答えはきっと、私が天使でいるために必要なモノなんだろうって」
「その日から私は彼を『カルロ』と呼び、彼が私を『アンジェ』と呼び…。それがきっかけで、少しだけ彼と打ち解けた気がしました。でも彼の口が悪いは生まれつきのようで。」
「えぇ。すぐ『しゃべれる』ようにもなりました。彼が暇を見つけては読み聞かせをしてくれたので、それを真似ているうちに。…本当は彼とちゃんとおしゃべりがしたくて…。はい、頑張っちゃいました。ふふふ」
「あ、脇の下、通させて下さいね。えぇ、胸囲を。はい」
「…はぁ〜。え?いえいえ!その…うらやましいなぁ、と。奥様、私の倍も…。いずれ大きくなるって?もう!私は一応100年は生きてるんですよ?これで打ち止めです…。彼に揉んで…って!私達そんな事は!…してますけど……。いえ、あの頃はまだ。トイレ?自分で行けました!しないですよそんなこと…」
「いえ、ベッドでは彼がくれた寝巻でした。堕ちた時に服も血と泥で汚れたうえ大きく切れてしまって。後で自分で直しましたよ」
「あはは…それは彼にも聞いたんですが、『怪我人の裸なんて見慣れてる。そうでなくともお前の貧相な体に興味はない』ってキッパリ…。はい…お気持ちだけでうれしいです…」
「考えてみればつきっきりで世話をしてくれました。でも私は自分のことで頭がいっぱいで、なかなか気がつかなくて…。えぇ、彼の絵も見た事はありませんでした。まして、描いているところさえ」
__________
「だめだ」
窓からは午後の日差しが差し込んでいた。近頃は晴れ間が多く、そうでなくとも地上から見る太陽とはすっかり顔馴染みになっていた。
私の傷の具合を見てもらっている時、彼に尋ねてみたのだ。絵を見せてはくれないか、と。
「なぜなの?カルロ、画家でしょう?見たいわ、すごく」
「やだね。天使様にお見せするなんて畏れ多くてできませんぜ」
後ろから彼がおどけた声で言う。ベッドの縁に腰掛けて背を向けた状態では、その顔はわからない。
もしかして、と思ったのだ。私の世話に時間を割いているせいで絵が描けないのでは、と。彼が教会から絵の依頼を受けている事を知っていたから。彼には恩返しをしなければならないのに、いつまでも迷惑をかけたままなのは辛かった。
「描いてないのね?」
「描いてるさ」
「何時?あなたは私につきっきり、朝起きてから夜寝るまでよ?」
「お前さんが寝てから描いてる」
「じゃああなたはちゃんと寝てないの?ダメじゃない!」
「大丈夫さ」
しばらく一緒に暮らしてわかった事がある。
彼、嫌な話題になると口数がグンと減る。嫌味さえ言わなくなる。今だって、「何だよ、この前は血が足りないと思ったら今度はあり余ってるのか?」とか、「まるで俺のオフクロみたいだな。口うるさいところがそっくりだ」とか言ってもいいはず。
つまり、彼は絵に関しては触れてほしくないとでも言うのだろうか。
「包帯巻き直すぞ。腕上げろ」
「…なにかまずい事でもあるの?」
「何も」
「絵を見せてくれるだけでいいのよ?」
「見せたくないって言っただろ」
「じゃあ私、モデルになるわ。ううん、なりたい」
「…」
「ねえ、描いてみてよ。きっと評判になるわ」
「…なあ。それは、恩返しのつもり…か?」
「……わからない。でも、あなたの役に立てるなら、うれしい」
「お前さんはいずれここを出なきゃならん。モデルなんか使ってきっちり描いたら、どれだけかかると思ってるんだ」
「かまわない」
「俺がかまう。時間が経てば経つほど、お前さんに襲われる確率が高くなる」
「…ッ!」
一瞬、強い風が吹いた。窓の外の梢が揺れる。
続けようとした言葉が全て、私の喉に引っ掛かってしまった。息が苦しい。
彼と話して、一緒に食事をして、森の皆さんとも仲良くなって、楽しいと思っていた。地上も悪くない、と。でもそれは忘れていただけなんだ。私の宿命を。このままでは恩返しどころではない。さらに迷惑をかけてしまう可能性があるんだ。
私は彼と一緒にいてはいけない。
なんだか、急に一人ぼっちになったようだった。いや、実際にはあの時から私は一人ぼっちだったのだ。一人ぼっちでも生きていくのだとあの時決めたのではないか。私は自分の覚悟から目をそむけていただけなのだ。
…だけど…。
体にまわされた彼の腕に手を乗せ、すこし強く握る。
「…怖いか?」
私は無言でうなずいた。
「だが俺にはどうしようもない。こればっかりは教会の連中に頼らないとな」
「すまん」と彼が呟いた。私は首を横に振る。彼が謝ることなど何もない。彼は巻き込まれただけなのだから。
「…だめね、私。ホントに天使なのかしら」
「…なぁ最近ご無沙汰だが、俺の心は読まないのか?」
彼がおそるおそる尋ねる。私は何も言えず、ただ唇を噛むだけだった。
「もしかして…もう読めないのか?」
「…」
「やっぱり『肉体的には』どうしようもないな」
肉体的には?
「…どういうこと?」
彼は何も言わないまま優しく私の手をほどき、包帯を巻き終えた。
「いずれな」と背中の彼は呟き、ぽんと私の肩を叩いた。
私は素早く振り返る。彼は目を細めて私を見た。
「…実はお前の絵を描いてる。仕事用じゃないぞ。お前が町に出た時、金にするんだ。餞別ってやつさ」
そう言うと彼は視線を外し、ニヤリと笑った。
「隻腕の教会画家、カルロス-A-ネラブルツが描いた片羽の天使。こりゃ高く売れるぞ。ケッケッケッケ」
__________
[1階 新アトリエ横「アンジェの作業室」]
「はい、次は足元を測らせて下さいね。いつも歩く時ぐらいに身を起して下さい。ええ、式場では外からヴァージンロードまで歩くので、靴がない場合は考慮しないと」
「えぇ、それがあの絵ですね。後で知ったんですが、彼は学生時代路上で肖像画を描いていたそうで。それで少しずつお金を稼いでいたって。結構有名だったそうですよ。非常に仕事が丁寧で、でも筆は速くて。…ほんと、彼の事は後になって知った事ばかり」
「あ、ごめんなさい。そちら持ってて下さいます?先まで測りたいので…やっぱりフルレングスの方がいいかしら。この部分に布があっても歩けます?大丈夫ですか。分かりました…トレーンにしたらきっと映えるわ」
「彼は結局、他の絵を自分から見せようとはしませんでした。その頃の彼のアトリエは半地下に…今はもう倉庫になってますが。むこうの階段の裏に入口があるんですよ。いえ隠していたわけでなくて、初めからそういう設計だったそうです」
「その日からでした。本格的に体がおかしくなり始めたのは。…夜な夜な体が、その…熱くなるんです。少し前からはその…彼と……『する』夢も見始めていて…」
「起きると下着どころかシーツまで…。その頃はそういった事は恥ずべきことだという認識しかなかったので、彼には言い辛かったんですが。えぇ、ご想像のとおり隠し通すことはできませんでした」
「ただ彼は多くを語らずに『薬を出すから、休んだ方がいい』って。そして町の教会の方に連絡を取って、手筈を整えてくれました」
「でもどうしても見たかったんです。私のために描いてくれている、彼の絵が。それに彼の真意も分からないまま、ここを出る気にはなりませんでした」
「…そう彼には言いました。本当は、ただここを離れたくなかったのです。ここにいれば、いつか奇跡が起こって、この楽しい暮らしがずっと続けられるんじゃないか。一人にならなくて済むんじゃないかって」
「必ず薬を飲むことを条件に、彼は留まることを許してくれました。『もし何かあったら、責任をもって俺がおぶって連れて行く』と教会の方にも」
「…彼は自分が人をおんぶできないことぐらいわかっていたはずなのに、そう言ったんです。彼を裏切るわけにはいかないと、生活に細心の注意を払いました」
「だけど薬も効かなくなってきて…」
__________
アトリエに鍵は掛かっていなかった。
熱病にでも罹ったような体を引きずって階段を下り、私は彼のアトリエの扉に手をかけていた。べたべたの手で金属のノブに触れると、冷たさが心地よかった。
その夜、私はおかしくなっていた。
毎夜のごとく見る淫夢に加え、いつもよりも凄まじい体の疼きが私を叩き起こした。体中を鉄が駆け巡るような、苦痛にも似た行き場のない劣情に身をよじった。
今まで誰も触れた事のない秘部に、自然に手が伸びた。初めは割れ目をなぞるように指でこするだけ。だけどお湯や汗とは違う液体が下着を濡らし始めると、それだけでは物足りなくなった。
私は躊躇いもなく下着に手を入れると、熱い液体の中に指を浸した。人差し指だけだったがしばらくすると指が2本になり、遠慮がちに入口をさまよっていただけだった動きも激しくぐちゃぐちゃに掻き回すようになっていた。
溢れる液体を秘部全体に塗りたくり、入口から少し行った所で指を曲げてこりこりと壁を引っ掻く。 固くしこった乳首が服に擦れ、ぴりっぴりっと弱い電流が流れたような快感が生まれる。秘部の上のほうで小さく勃起した肉芽を親指と人差し指で押しつぶすと見えない力に体が引っ張られ、ベッドの上でぐぐっと弓なりに湾曲した。
何度も、何度も、何度も自分を慰める。温かい飛沫が手をべっとり濡らす。
でも、全然足りない。
「カルロ……かるろぉ………」
押し殺そうとしても声がだらしなく開いた口から漏れ出してしまう。どこか別の世界から響くようなその声を聞いているうち、はたと思い立った。
カルロだ。
早く彼のもとに行かなくては。彼の姿が見えたら、すぐに飛びつこう。彼ならきっと助けてくれる。あんなに私を気にかけてくれたんだもの。
敏感になっているのは皮膚だけではなかった。彼の部屋に行かなかったのは匂いがしたからだ。人の、カルロの匂いがアトリエからした。彼に食べさせてもらったレバーのように重みのある、しかし心地よい雄の匂いが私の鼻を離れない。
睡眠薬を飲んだにも関わらず全く眠くなく、しかし頭には霞がかかっていた。聞こえるのは自分の荒い呼吸と、心臓の音だけ。音に合わせて、体が疼く。
どくり、どくりと脈打つそれは、血液だけでなく別のものを私の股の間に送り込んでいるポンプのようだった。溢れる愛液でぐっしょりと濡れてしまった下着は部屋に捨ててきた。覆いの外れた花弁は蜜をだらだらと垂れ流し、内股をつたって床に点々と落ちた。
だけど、そんなことも気にならない。私は、完全におかしくなっていた。
少し扉にかけた手に力を込める。ゆっくりと扉が開く。隙間から絵具と油の匂いが流れ出る。
いつしか私は、いつも皮肉ばかり言う彼の口を私の口で塞ぐことを考えていた。夢の中で私がしたように彼の唇を貪り、唾液をたっぷり交換しよう。二人で裸になり、抱き合おう。この疼きが治まるのならどうでもいい。彼に満たしてもらう。満たさせる。溶けあい、一つになる。それがきっと彼にとっては幸せなのだ。彼も歓喜の声を上げるに違いない。そう確信していた。
それこそが彼の恩返し。いや、彼への『御褒美』。なぜなら私は――
扉が開いた。廊下の闇が室内につながる。
息を飲んだ。
えも言われぬ何かが一瞬にして私の背筋を這い上がった。体の熱が一気に冷め、うずきも治まったが、心臓は相変わらずやかましかった。
そこにカルロはいなかった。だけど人はいた。ランプ一つの薄暗い部屋の中で、『彼ら』のうめき声が聞こえてきた。
或る者は皮を剥がれ、苦悶の表情を浮かべている。
或る者は生きながら獅子に食われている。
或る者はもはや腐りはて、蛆が骨の上を這っている。
或る者は棺の中で蟲にむさぼり喰われている。
漂う血と泥の匂い。悪臭。異質な空気。
正気を取り戻した頭の中が、急激に縮んでいくような感覚にとらわれた。
汗をかいているのに恐ろしく寒い。
いつの間にか聞こえるガチガチという音は、私の歯があげる叫びだった。
次第に体も震えだす。
頭の中でふと、カルロの言葉がよみがえった。
「見せたくないって言っただろ」
頭の中の声と、背後から聞こえたそれが重なる。私は弾かれたように振り返った。
すぐ後ろに彼が立っていた。思わず何歩か後ずさる。
「…どうやら俺は危機を免れたらしいな。だがタイミングはバッチリってのは、全く運がいい。ケケケ」
彼は床に点々と描かれた足跡を見て笑っていた。ランプの光に浮かんだ顔が、不気味に歪む。
「見ちまったならしかたねぇよなぁ、おい」
心臓が跳ね上がった。逃げ出したいのだけれど、足が縫い付けられたように動かない。それどころか一気に力が抜け、その場にへたり込んでしまった。口の中はカラカラに乾いて舌が張り付き、もはや叫び声もあげられそうにない。今にも倒れそうだ。
彼がゆっくりと近づいてきた…。
__________
[1階 新アトリエ横「アンジェの作業室」]
「どうぞ、粗茶ですが。こっちが早く終わっちゃいましたね」
「デザインの方はプリンセスドレスということですが、奥様はスタイルがよろしいのでここを…こうして、こちらのコサージュでシンプルに飾るとよろしいかと。スカートの方にはこのような…レース、トレーンというのですが、つけると後姿がより映えますよ」
「はい、じゃあ試着の時に」
「え?続きですか?…そんな期待に満ちた目で見ないで下さいな。怪奇小説のような展開にはなりませんよ」
「彼は花を一輪渡しました。今はお店の名前になってるあれ、ですね。そしてすぐその人たちを『持って』きました。俺がやったんだって笑いながら」
「絵だったんです、全部。なんでも彼が描くのは絵は教会の地下墓地にも飾るのだそうで。殉教者の苦しみを分かりやすく描くことが大切だそうです。はい。もうホントにビックリしちゃいました。分かりやすすぎるのも問題です」
「明暗法ってご存知ですか?絵画技法の一つで、暗い所に飾ることを前提に背景を真っ黒にするんです。それに対して人物は明るい色彩で描くので、暗闇に人が浮かび上がっているように見えるんです。…効力は先ほどお話した通りです。お恥ずかしい…」
「それに加えてスフマートって塗り方で人を塗るので、質感がすごいんです。こう、指に水を付けて肌の色をぼかしていくんですって。ずいぶん時間がかかる方法なんだそうです。何度も何度もやらなければならないんですが、一旦乾かないと出来ないので」
「…えぇ、ホントに凄かったんです。彼の絵がある地下墓地には、教会関係者も近づきたがらないそうで…。えぇ、正直見るのはお勧めできません」
「おかわり、いかがですか?このローズヒップティーはグラウカさん、アルラウネの方から頂いたんです。美味しいでしょう?しかも、薔薇の花言葉は『愛』!ぴったりだと思いませんか?」
「…彼が見せたがらなかったのは、そういった絵を見て私が驚くのが嫌だったそうで…。私は教会の聖堂にあるものを想像していたのですが、それを分かっていたんですね。『期待に添えなくてゴメン』ですって。え?言葉にしなくとも分かりますから。なんかかわいいですよね、彼」
「え?それから?はい。すぐに彼の『仕上げ』を手伝いました」
「はい。正面に掛けてあるあの絵、私の絵です」
__________
「しかし、あそこまで驚かれると逆に嬉しいね。画家冥利に尽きる」
キャンパスの向こうで彼が笑った。顔が赤くなったのを感じた。
「もう!もう!びっくりしたんだから!すごくびっくりしたんだから!」
「ほらほら、顔が余計酷くなるぞ。動くな」
「………」
「まぁ顔は塗り終わってるんだがな」
「もーーーーー!!!」
ランプの淡い光の中、私達はキャンパスごしに向かい合っていた。胸の前で一輪の白百合を両手で祈るように持つ。彼はこの百合を積むために外に出ていたんだという。
…私の鼻はあてにならないらしい。
片方だけの翼は大きく広げられていた。彼はちらりとそれを見て言う。「もう大丈夫だな」と。
「よし」
「できた?」
「失敗した。捨てる」
「え!ウソでしょう!?」
「嘘だよ」
彼は笑いながら手招きした。小走りで彼の方に回り込む。
息を飲むのは、今日で二回目だった。
短いながらも風になびく金色の髪、少し開かれた瞼から覗く青い瞳。その視線は手にある一輪の白百合に向けられている。風に耐える花を見つめ、天使は慈愛に満ちた微笑みを浮かべている。
肌はまるで絹のよう。筆で塗ったあとがなく、触れてもいないに頬の柔らかさが分かる。花を握る手はふっくらとして優しく、爪は綺麗な桜色。
『あの絵達』と同様に背景は真っ黒なおかげで、光り輝く天使の神々しさがはっきりと伝わってくる。
でも、何かが違う。
翼だ。この絵には一対の翼をもつ天使が描かれている。
天使は暗闇の中に浮かんでいるんだ。
「よく見ろ、羽じゃない」
思わずぎょっとして彼を見た。
「良かったな。お前さん、さっきから思考駄々漏れだ」
ケケケっと彼が笑った。そんなこともお構いなしに、私は絵ににじり寄る。
布だ。まとった衣服の中の薄手のものが風にはためき、翼に見えるのだ。
「ちょっと衣装が派手すぎたかね。風の強さがまちまちなのもまぁ演出のためだ。我慢しな」
確かに、私が天界で着ていた服よりもだいぶ豪奢だ。だけどそこにうるささややかましさはない。これもまた、まぎれもない『天使の装束』だ。何の疑いもなくそう思えた。
本当に?本当にこれが?
「そう。これが、俺から見たお前さんだ」
これが天使。
これが、私。
__________
「…前、サキュバス化は肉体的には止められないって言ったよな」
しばしの沈黙の後、彼が絵に目をやったまま口を開いた。
「お前は言ったんだよな。天使としてまだできることがあるはずだって」
私は彼をみて頷く。いつになく静かに彼は続ける。
「俺は腕を失くした時、お前みたいに考えられなかった。正直もうお仕舞いだと思ったよ。自棄になった俺に、人が見れる絵なんて描けるわけがなかった」
「見ろよ、そこに化物がいるぜ」そう言って彼は部屋の一角を指さした。ランプの光も届かぬそこには、デッサンに使われたであろう紙が山と積まれていた。それらの底に初めの一枚と思しきものがあった。真っ黒な線で描かれた奇妙な塊。何を描いたかはわからないが、その筆遣いからは怒りだけが感じられる。
腕を失くした怒り。
「でもよ、ある日出会ったんだ。どうしても、どうしても描きとめたい光景に、な。その時、俺には『もう左手しかない』んじゃない。『まだ左手が、自在に動く指が五本ある』って。まだ絵が描けることが分かったんだ」
私は紙を一枚一枚めくる。初めは黒い線の塊だったデッサンも、山の上にいけばいくほど美しい形をなしていく。赤ん坊を抱く母親、歌う妖精、美しい鳥や森で遊ぶ子供たちが、空間そのままに切り取られたかのように描かれていた。
「俺は画家になりたかった。画家であることは『腕が2本あること』じゃない。『絵を描くこと』だ。だから俺は絵を描く。それがお前さんの尋ねた『理由』だよ」
私はゆっくりと紙を山に戻す。いちばん上の紙には、安らかに眠る私が描かれていた。
「今度はお前の番だ」
私は振り返り、カルロを見る。優しげに微笑んだ顔が、ランプの光にぼんやりと浮かんだ。
「不安になる必要はない。問題は『何でありたいか』さ。お前も『何でありたいか』は決まっているんだ。あとはその何かの『本質』を自分で考えろ。天使って何だ?悪魔って何だ?たとえどんなに単純でも、自分で到達した答えは十分『理由』になる」
彼の顔が歪んで良く見えない。
私はゆっくり、彼に歩み寄った。
「とにかく外面なんか二の次、問題は中身だ。本質だ。俺が保証する」
大きな手が私の頬を優しく撫で、その親指が私の涙をぬぐった。
互いをまっすぐに見つめあう。
「お前は優しい。俺の痛みを感じ、泣いてくれた。俺がお前を天使と断ずる理由は、これで十分だと思うがね」
彼はわざとらしくおどけたように言い、少し恥ずかしそうに笑った。
「…カルロ」
「…なんだよ」
胸の奥底に、とても温かいものが溢れだしてきた。
何か言わなくてはいけない。だけど、この感覚をどう表せば良いのか私にはわからなかった。そんな口から自然に出てきたのは、かつて言えなかったあの言葉だった。
「…カルロ…ありがとう。カルロ…」
私は彼に抱きついた。
「これは…私からの、『ごほうび』」
無性に彼が、彼という存在が愛しかった。
10/07/03 00:25更新 / 八木
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