この空の下 二人きり
月下を進む海賊船、モンストロ・マリーノ号の甲板は騒がしかった。
今日もまた名も知らぬ船の襲撃にまんまと成功し、当面は遊んで暮らせる事が確定したからである。彼らは板張りの甲板に戦利品を乱暴に並べ、悦に入っているところであった。
「でもよォ、女の一人ぐらい頂戴しても良かったんじゃねぇか?」
「バァーカ。どうせセンチョーが独り占めして俺達の方には回ってこないんだから、ムダムダ」
「おい!テメエら!今なんつった!?」
「いえいえ。何でもないっすよ、センチョー」
「ケッ」
金貨、首飾り、指輪、高そうな食器。
対する彼らの服装はみすぼらしく、輝く物と言ったら腰にあるカットラスぐらいである。正に野蛮人。
まっとうに生きていれば決して手に取ることはないであろう品物の数々は、たいまつやランプの光を反射して一層妖しく輝き、彼らを魅了した。
その中に一つ、妙な物が混じっているのに気付いた者がいた。
「おい、何だこれ」
「あぁ?」
小さな壺である。
妙に年季の入った代物で、側面にはフジツボがくっついており、口の部分が欠けている。明らかにこの場にはそぐわない、どちらかといえば『彼ら側』の代物である。
持ってみると、存外重い。
「何か入ってるか?」
船員の一人が壺を覗きこむ。
真っ暗だ。片手にのるほど小さな物なのに、底が見えない。
見えませんと船員が口を開こうとした、その時だった。
ガクンという音と共に、船体が大きく傾いた。甲板に出ていた者全員が尻もちをついてしまう。
「何だ!?」
「乗り上げたか!?」
「バカな!ここらには何もない筈だぞ!!」
「おい!お宝が落ちるぞ!拾え拾え!」
多くの者があたふたと船上を駆けまわる中、船縁から何人かが下の様子を見ようとたいまつを手に顔を覗かせる。
「鮫だ!でけえぞ!」
その声に誘われ、海面を覗きこむ顔が増える。
彼らの視線の先では、船上のざわめきなどどこ吹く風といった感で巨大な影が悠々と泳いでいた。
ゆうに船の半分くらいはあるだろうか。巨大な背びれは音も無く海を切り裂いている。
「なんだありゃ…」
「デカイってモンじゃねーぞ」
「…獲ったら良い値で売れるんじゃね?」
「「いいねー!!」」
じゃあ銛を持ってこよう。いやいや、大砲で仕留めるか。バカ、せいぜいセンチョーが持ってるアレだろ。
下らない会話に、楽しそうな声をあげる船員たち。
もし彼らの中で背後に気を配る者があったら、気がついた筈である。
異変に。
「うわああぁぁぁぁ!!」
ぽーんと一人の船員の身体が宙を舞った。
半分の人間がそれを目で追い、彼が暗い海に消えていくのを呆けた顔で見ていた。
もう半分の人間は彼が飛んできたところ、甲板に目を向けた。
そこには、腕組みをして仁王立ちしている女が一人。
やがて異変を察した視線が一つ、また一つと増える。
美しかった。彫刻のように均整のとれた身体。ウェーブした赤い髪には、先の古びた壺がちょこんと乗っている。勝気そうにつり上がった目が、海賊たちを見据えていた。だが、その視線がかち合うことはない。海賊たちは彼女の下半身に目を奪われていたのだから。
彼女の、7本の足に。異形の証に。
「スキュラだ!!!」
誰かの悲鳴のような叫びと共に、船上は天地がひっくり返ったような大騒ぎになった。鮫がいるにも関わらず慌てて海に飛び込む者、宝を抱えて隅でうずくまる者、武器を構える者。
ランプが蹴り倒され、たいまつが落ち、火の粉を散らす。
そんな混乱の中で彼女は呆れたように溜息をつき、やっぱりと思った。
こいつらはやっぱり、彼とは違う。
一斉に飛びかかる武器を持った者達。だが、彼女の前ではどんな武器もなまくらに等しい。容赦なく男達の足を払い、突き飛ばし、海へ投げ込む。立ち向かう者が終われば、次は怯えている者だ。
刃も赦しを請う声も、彼女には届かない。そんなものは、彼女の心を動かせない。
彼女が片付いたかと思ったその時、乾いた破裂音と共に何かが彼女の頬をかすめた。彼女の美貌に、血がにじんだ。
ふり返ると、男が銃を構えていた。先程船長と呼ばれていた男である。船室の壁に背を預けながら、ぶるぶると震えている。
これでは外すわけだ。
月光に照らされた女の顔が、不気味に歪んだ。頬から流れる血の一筋を指ですくい、真っ赤な舌でぺろりと舐めた。ゆっくりと船長に近づく。
「知ってるよ、それ。『マスケットジュー』ってんだろ?」
口は笑いながら、嘲りを込めて目を細める。
「確か、一発撃ったらタマゴメが必要なんだよな。いいのか、やらなくて」
「畜生……っ!化け物め!」
「大差ないさ。あんた達と。あたしも、欲しいものは力ずくで手に入れる」
「うるせぇ!」
使えない銃を捨てると、船長は腰のカットラスを抜いた。
「な、なんだよテメェ。足が7本しかねぇクセしやがって。この半端モンが!」
「…あん?」
「足のたりない、くそったれがっつったんだよ!」
彼女の顔から笑いが消えた。
目にもとまらぬ速さで触手が伸び、カットラスを払い落す。あっと口を開く前に、船長は首に足を巻きつけられ、持ち上げられた。
「あたしと、あいつの絆を馬鹿にするなんて。お前はよほど死にたいらしいなぁ」
突き刺すような視線と共に、船長の首を万力のように締めあげる。頸椎がみしみしと音を立て、口からは声にならない叫びが空気の流れになって出てきた。
「…なぁ、おかしいと思わないかい?落ちたあんたの仲間、何で悲鳴すらあげないのか」
そう言うと共に、女は6本の足を蠢かせて歩きだす。
「くそ……はな、せ……!」
船長は必死になって己を締め付ける触手を蹴飛ばすが、びくともしない。
船縁に立った女は船長をつかんだ触手を海の上まで伸ばした。
「ほら、見てみろよ」
だが船長は無駄な抵抗を続けていた。仕方ないとばかりに溜息をついた彼女は、勢いよく彼の天地をひっくり返した。
頭が地球に引っ張られる。船長は反射的に頭上の海に目を向けてしまう。
月光に照らされる海はどこまでも穏やかで、そこに部下は一人もいない。助けを求めるものも、必死に水をかく者もいない。
動いているのは、巨大な背びれ。
まさか。そう思った時、海中から何かが浮かんできた。
上半身のない部下だった。
首の拘束が緩む。それに合わせて船長の口から悲鳴が漏れた。
「じゃ、放してやるよ」
「ま、まて!待ってくれ!」
先程まで必死に蹴りつけていた触手をつかもうと手を伸ばす。が、無情にもその手につかまる前に触手は引っ込んでしまった。
頭上で大きな音がして、もう一体の異形がその姿を現した。
大口を開けた隻眼の鮫が迫る。
―――――――――――
今のおれはどんな顔をしているだろう。
身体を起こした寝起きのおれは、唐突にそんな事を考えた。こうなる前は自分の顔に関心などなかったが、今はどうにも気になる。
こけているだろうか。老けているだろうか。
少なくともそれはないだろう。こけるほど酷い食生活はしていないし、老けるほどストレスは感じていないように思う。
結局、変わったのは足だけだ。
おれは傍らに置いておいた新しい3本目の足に手を伸ばした。それを支えに右足を曲げ、立ち上がる。
む。今、よっこいしょって言ったな。やっぱり老けているのかもしらん。無理も無いといえばそうなのだが、まだおれは30にもなっていない。まだオッサンだとは思いたくない。
バランスをとりながら、尻についた砂を払う。この服も、貰っておいて何だが動きづらい。どこの金持ちの物だか。袖や裾を切ったのにしっくりこないのは、やはり素材の問題か。
それに比べて3本目は良い。固さも長さも、耐久力も申し分ない。前の2本は、おれが使い慣れていないせいでダメになったとも言えなくもないが。
ま、人間、どんな酷い状況でも適応出来るものだ。
いや、酷くはないか。
日が水平線から拳一つ分ぐらい昇った。
釣竿はピクリとも動かなかった。
仕掛けがばれるとは思えない。名も知らぬ木と、蔓と木の皮と、魚の骨で作った自信作だ。
そういえば、ガキの時分にもこうして釣竿の作り方をオヤジから教わったっけ。雀百まで。いやいや、おれはまだオッサンじゃない。
何故俺が朝っぱらから釣りなぞしているかというと、食料が無いからである。昨日まではあった。獲り過ぎた魚を開いて、干しておいたのだ。朝の釣りは寝起きにはいささか辛いから。ところがどっこい、今朝起きてみると、干物が全て無くなっているではないか。波にさらわれたようだ。
おかしいなと思ったのだが、すぐに原因がわかった。夕方に回収しておくべきだったのだ。いや回収したと思ったんだが、しっかり確認しておくべきだった。やっぱりズボラは良くない。
「む」
ぴくりと手ごたえを感じ、思いっきり竿を引き寄せる。
ぐぐっと大きくしなる。いや、これはもはや曲がっていると言うべきか。でかいぞ。
以前なら立ち上がり思いっきり引っ張ったところだが、今はそうもいかない。尻を支点にして、後ろに倒れるように引っ張る。
朝飯が水中で右往左往している。逃がすか。
タモが無いから釣り上げるしかない。おれは両腕に力を込め、ぐっと引いた。
ふっと手に伝わる抵抗が消える。
その時、水中に何か海草のような赤い物が見えたかと思うと、にゅっと何かが水面から伸びた。
それは素早くおれの首に巻き付き、あっと言う間も無く海中へと引きずりこんだ。一面が青に染まると共に、息ができなくなる。
おれが海にダイブすると、それはすぐに俺を解放した。わずかに沁みる目に、映る者があった。言いたいことはあるが、口からはどうせ泡しか出ない。空気を求め、懸命に水をかく。
ぷはっと水から顔を出すと、追いかけるようにそいつが顔を出した。
「あっははははははは!ひっかかった、ひっかかった!」
腹を抱えながら、おれを指さし笑う。
つまり、さっきのアタリは彼女だったわけだ。ちくしょう、ぬか喜びか。
「おい、今のおれに立ち泳ぎは辛いんだ。早くあげてくれ」
「あっはははははは。ごめんごめん」
胴に何か太い物が巻き付く感触がしたかと思うとぐぐっと持ち上げられ、陸に上げられる。
「ちくしょう。人の事をばかにしやがって」
ざぱっと音がして、そいつが陸に上がってくる。
胸のふくらみと下半身を相も変わらず紫の布で隠している。彼女に着がえという概念はあるのだろうか。おれは心配だ。
少しくせのある赤毛に、海と同じ青の瞳。ここまでならばまあ、露出度の高い服を来た美女である。人間である。
だが、おれと決定的に違うのは足の本数だ。おれでも最大2本なのに、彼女は1,2,3…何度数えても7本。タコみたいな足のくせに、8本ない。うねうねと器用にそれを動かして、こっちに来る。
「お?どーしたマリアーノ。朝っぱらからムラムラきたか?」
「ちげえし」
まあいい。足が何本あろうと、腹立たしい笑みを浮かべていようとだ。おかしいのは頭の壺だ。壺。足が何本もあるヤツも、ヒレになってるヤツも、半透明のヤツだってこのご時世珍しくないが、焼物を頭にのっけてるヤツなんてそういない。まずいない。目の前にいるけど。
まったく、スキュラってヤツの趣味がわからない。変なヤツ。
「おいオルガ。朝っぱらから人をおちょくった感想を言ってみろ」
「最っっっっ高!!」
ぽこん、と3本目の足を使って頭を叩いてやった。
………
おれは漁師だった。自慢じゃないが、それなりに腕も良かったんじゃないかと思う。
ごめん、嘘ついた。普通ぐらいだ。至極普通。
おれの村では、5つになると釣竿を持たされた。10になると大人連中の船に乗せられ、15で舟と銛を持つ事を許される。
オルガに出会ったのは、おれも舟を持って9年目位だったか。
変なヤツ、というのが彼女の第一声だった。
何故だ。おれはコイツが海から顔を出したから、「よう」と声をかけただけなのに。
「あたしを見たヤツなんて、泣くか怯えるか、何れにせよウルサイもんよ」
それに比べて、あんたの変なことったら。彼女はそう言って嬉しそうに笑った。
「あたしが怖くないのか?」
「おれは、それどころじゃない。いや、なかった」
「あん?」
「…魚が逃げた」
「…あっはははははは!そいつは残念だったねぇ!」
誰のせいだと思っていたのか知らんが、オルガは心底おかしそうに笑った。
スキュラは元々人間、しかも美女で、魔女キルケーが魔物に変えちまったんだという。なるほど、顔は良いわけだ。性格の面も考えると、更になるほどと言わざるを得ない。いかにも魔女に喧嘩を売りそうだ。
ともあれ、おれ達はその日からよく会うようになった。
「なあ、えっとー、マリアーノ」
「なんだよ、えーっと…。名前、何て言ったっけ」
「オルガだよ!オ・ル・ガ!」
「ああ、オルカね」
「シャチじゃねぇから!」
「海のギャングだ。カッコいいじゃないか」
「そ、そうか?えへへへへ、って違うから!オルガだよ!オルガ」
「で、オルガ。何か聞きたい事でも?」
「あんたさあ、なんであたしが怖くないわけ?」
お前はそればかりだな、とおれは釣り糸を垂らしながら言った。
彼女と会って数日。事あるごとに彼女はおれに訊くのだ。自分が怖くないのか、と。
逆に訊きたい。こんな美女を恐れるのは、どれだけ贅沢な輩なのか。
「だってさぁ、やっぱ気になるじゃん」
ふむん。
いつもは怖くないの一言で済ませているところだが、その日は少し掘り下げてみようかと思った。船縁に竿を立てかけ、彼女と向き合う。
「お前は自分のどこが怖いと思う?」
「うーん。足?」
「タコが怖くて漁師はやれんよ」
それどころか、と危うく口がすべりそうになった。それどころか、タコは焼くと美味いんだぞ。おれはその言葉をぐっと飲み込んだ。
「じゃー、上半身人間で下半身タコのとこ」
「下半身がイカなら良かったか」
イカも美味いからな、とおれは笑った。
「全身人間だが、海賊なんかの方がよほどタチが悪いだろう」
「そうかな」
「そうさ。それにいいじゃないか、美人だし。海の女神みたいだ」
「そ、そうかなそうかな?」
「そうさ。だから女神さま、おれに獲物を」
「うっわ、喜んで損した」
「おい、そんなくねくねしてると足が絡まるぞ」
「うるさいなぁ。で、どうよ?」
おれは彼女の言葉に促され、立てかけた竿の先に目を向ける。
ピクリとも動かない。
「……釣れんなぁ」
おれが大きくため息をつくと、オルガが心底可笑しそうに笑った。
「よーう、へっぽこ漁師。釣れてるかーい?」
「…なあ」
背中にかかる明るい声。そちらをちらとも見ないで、おれは彼女に呼び掛ける。
「なにさ」
「こう、舟の周りでざばざばやるのは止めてくれないか」
おれはついにわかった。
オルガが派手に波を立てるから魚が逃げるのだ。いや、事実逃げた。
おれは諦めて銛を船底に置いた。オルガに目をやると、子供みたいに頬をぷくっと膨らませている。
「なんだよう。あたしにどうしろってのさ」
「漁が終わった時に顔を出すか、舟に乗っちまってくれ」
「のる?乗れるかね?」
「ふむ」
おれは視線を舟とオルガの間で往復させた。彼女の8本の足は随分スペースをとる。明らかに収まらないだろう。
何とかしようと思ったら、彼女が8本足を海に投げ出した形で乗るか、おれが泳ぐしかない。おれは彼女にそう言った。
「乗るか?おれの代わりに」
「バカ?」
「ついでに漁をしてくれると助かる。釣って、魚を釣って」
「バカだ。今確信した」
「じゃ、せめてその足で魚をおびき寄せてくれ。疑似餌だ、疑似餌」
「はん。やだよ。足を喰われたくないもの」
それはそうだ。おれだって嫌だ。足が喰われるのは。
「じゃ、また後で来い」
「いーや。乗るよ」
「なに?」
どうやってと尋ねる前に、彼女の身体が変なことになっていた。
彼女の頭が、壺の中に入っていく。明らかに頭の方が大きいのに。そのまま首、胴とどんどん入っていく。ついに全身が消えてしまい、そこには古びた壺がぷかぷかと浮いているだけだった。
首をかしげるおれの目の前で、にゅっとオルガが首をのぞかせた。まるで壺の上に生首が乗っているみたいだった。
「おい、はやく乗せてくれよ」
唖然とする俺に、彼女は「どうだ」みたいな自慢げな笑みで言った。
変なヤツ。
しかたなしに、おれは壺を拾い上げて船底に置いた。
「さー、御手並み拝見と行こうか」
にやにやといやらしい笑みをうかべるオルガ。
くそう、見てろ。これで魚が逃げることも無い筈だ。バカ釣れのおれを見て「キャーステキ!抱いて!」とでも言う準備をしておくがいい。
「ブツブツ言ってないで、さっさと仕事しろよー」
「うるさいなぁ」
おれは釣竿をとって仕掛けを作り、きらめく波間に投げ込んだ。
…その日、オルガはずっと生首状態で、一匹も釣れないおれを見ながら楽しそうに笑っていた。
魔物は男を襲うと聞いていたが、そんなことはなかった。まあ当然だ。彼女と会うのは海の上で、おれは狭い舟の上で仕事中。彼女が舟の上にいるとしても、それは壺の中に入った状態でだ。無理無理。一体どこでするという話だ。
でもおれは気になるから、ある日彼女に訊いてみた。
「襲わないのな」
「何を?」
「おれを、お前が」
「はん、自惚れんじゃないよ」
「自惚れちゃいないさ。純粋な疑問だよ」
「あたしはスキュラだよ?餌になる男なんか、よりどりみどりさ」
「そうなのか」
「ああ」
何だかとても嫌な気分になったが、おれは納得することにした。
ところで、とオルガは言った。
真剣な顔で手招きをする。何事かとおれは顔を近づけるが、彼女は手招きを止めない。それどころか苛立たしげに手招きの速度を速めた。仕方ないから船縁に手をかけ、ひっくり返らない程度に身を乗り出してみた。
しゅるりと彼女の足が首に絡みついた。いや、ひっかけられたと言うべきか。そのまま彼女の青い瞳が近くなり、柔らかいものが唇に触れたかと思うと、彼女の真っ赤な顔が離れていった。
「………あれ?」
「…どうだ?」
可愛らしい茹でダコがじっとおれを見つめる。
「…どうだと言われても、なあ」
「嫌だったか?」
慌てて否定するおれ。ほっと安堵のため息をつくオルガ。
よかった。確かに彼女はそう言った。
「というか、これはその、そういうことだよな」
「うん」
「餌はよりどりみどりなんじゃなかったのか?」
「うん。でも」
餌じゃない男は、あんたが初めてだ。
ともすれば消えてしまいそうな声で彼女が言った。かと思うとぷいと背を向け、きらめく波間に消えてしまった。
変なヤツ。
でもきっと、明日になったら何事も無かったかのように彼女はおれが坊主なのを笑うんだろう。不思議とそう思った。そうだったらいいな、と思った。
本当に、変なヤツ。おれも、彼女も。
その日からおれ達は毎日会うようになった。
言っておくが、あくまで清らかな交際だ。
オルガとそういった仲になって数週間。おれはやらかしてしまった。
鱶にやられたのだ。まったく、うかつだった。
鱶は臆病だ、というのが漁師の常識だった。こちらから手を出さない限り、襲われるどころか近くに来るかすらあやしい。
だが、そいつはちがった。そいつはいきなり舟に体当たりをくらわせた。舟が大きく揺れ、おれはひっくり返った拍子に左足を海に投げ出してしまった。待ってましたとばかりに、左足に鱶が近づいてきた。
反射的に銛に手を伸ばし、掴んだ瞬間にそいつが顔を出した。
引きずり込まれる、と思った時にはおれは海の中だった。
そいつが一度口を小さく開き、おれの左足を咥えなおしたのが見えた。脛までだった鱶との距離が、太腿半ばまでになった。まるで煙のようにひょろひょろと血が流れ出していた。
不思議とおれは冷静で、痛みこそ感じていたもののうめき声すらあげなかった。ま、どうせ出たとして口からは泡しか出なかったんだろうが。
歯を食いしばり、手にしていた銛の先端を鱶に向けた。歪んだ視界の中で狙いを定め、突いた。
手ごたえがあった。
やったと思った。あんな状況でも喜べるんだから、我ながら大したもんだ。
突然、ぐんっと身体があらぬ方向に引っ張られた。銛が手から離れる。
鱶が泳ぎ出したのだ。
水中で、しかも変な体勢で突いた事が災いしたらしく、致命傷にはならなかったらしい。天地も無い真っ青な水の中で、おれは文字通り滅茶苦茶に引きずりまわされた。
何度か鱶の牙が食い込んだ後、ついにおれの左足との繋がりが無くなった。嫌な音がするもんだ。水の中なのに。
そいつはおれの左足を口にしながら退散したが、おれにはもはやどっちが水面かわからなくなっていた。船酔いならぬ、鱶酔い。おまけに血が足りない。空気も足りない。
水が赤い。
沈んでいるのか、浮かんでいるのか。
流されているのか、そうでないのか。
どうすることも出来ず、もう死ぬと思った。不思議な事に、怖くない。
何故だろう。水の中にいると、なんだか心が安らかになってきた。血と一緒に何かが漏れ出して、海に溶けていくような感じだ。大きな大きな何かの一部になるような、やっと元に戻れるというような、そんな安心感。
その時だった。かすんだおれの目に、これまた何故だかはっきりと見えたのだ。
足が八本ある、我らが海の女神さまが。
なるほど、魔女が嫉妬するわけだ。赤い水をまとうその姿が、不気味なほどに美しい。
こちらに来る彼女を見ながら呑気にそんな事を考え、おれは気を失った。
波が右足を撫でている。
左足はどうしたっけ。あ、そうだった。
頭のあたりが、なんか変だ。
頬にも何かがぱたぱたと落ちてくる。
いろいろくすぐったくって目が覚めた。あたりはしんと静かで、暗かった。
仰向けになっている体。ぼやけた視界の左上の方、空のずっと向こうに月がある。その手前には雲がかかっていて、一番手前には彼女がいた。
泣いていた。
「……変だ」
「…っく…どう、した?」
「…月が出てるのに……雨が降っている」
「…うる、さい!あたしが…あたしがどれだけ、心配したか…」
「…心配してくれたのか」
ありがとう、と小さく呟いて、寝がえりをうった。どうやら彼女が膝枕をしてくれていたらしい。もっとも、彼女に膝があるのか疑問だが。
おれは砂浜に寝かされていたらしい。周りにあるのは海と細い木。知らない光景だった。
そのままうつ伏せになり、両手両足に力を込めて立ち上がろうとした。が、立てない。力が入らないのだ。特に、左足なんか腿から先が無いみたいに。
どうしたんだ、左足。あ、そうだった。
「おい!無茶するな!」
「…立てない」
ぺしゃりと砂浜に腹ばいになり、彼女を見やった。この体勢じゃ彼女の足しか見えない。
1,2,3…。
「魔法で傷は塞いだけど、出血が酷かったから…」
「おい」
「もう少ししたら食いモン獲ってきてやるから、それで」
「おい!」
「な、なんだよ」
「一本ないぞ!」
「…だから、あんたは」
「お前だよ!」
7本。彼女の足は、7本しかない。
いや、きっとさっきまであったんだ。だが足があったであろう所には、千切れらたような断面があるだけだった。
「あ?あたし?ああ、これ」
「どうした?」
「ゆ、油断して、よ。戻ってきた鮫が喰らいついてきたから、やったのさ」
その言葉を聞いて、何かがおれの喉を締め付けた。
おれは痛いぐらいに唇を噛み、砂に額を押し付けた。
「どうした?まだ痛むか?」
「……すまん」
「どうして謝る。それよりあんただ!」
「…おれが、ヘマをしなけりゃ」
「だから何で謝るんだよ!あたしはまだ7本もあるんだ!あんたの方が…」
待ってろ、と言って彼女は海へ向かった。生魚でも喰わせる気か、とは言えなかった。
それよりも、おれは申し訳なかった。おれのせいで、彼女は足を失った。
おれはいい。おれは自分のヘマの代償を、身体で支払っただけなのだ。当然だ、道理だ。だが、彼女が足を失うのは違う。
何故彼女が傷つく必要がある?
代理贖罪、という言葉が浮かんだ。村に来た神父が言っていた。善人が悪人の赦しを神に請うために犠牲になる事だと。馬鹿な。この世界は、自分で落とし前をつけることを許してくれないのか。他人が、愛する人が傷つくのを、安堵に胸を撫でおろしながら見ていろとでもいうのか。
馬鹿な。そんな馬鹿な。
ざぶざぶとオルガが海に入る。
「すぐに血になる食いモン獲ってくるから!待ってろよ!」
彼女が大きく手を振るのが見えた。
違うだろう、と言いたかった。誰に言いたかったのかはわからない。だが、やはり違うのだ。
その前に、彼女は暗い海に消えた。
………
太陽が水平線から拳二つ分昇った。
おれはオルガと並んで流木に腰掛け、朝食をとっていた。
パンと塩漬け肉にレモンが一つ、そして綺麗な真水。なかなか贅沢だ。海と大地と、オルガに感謝します。
「なんで朝っぱらから釣りなんかしてたのさ」
じっと俺を見つめながらオルガが訝しげに眉をひそめた。
「朝飯の為だ。昨日つくった干物が流されてた」
「ああ、そうなの」
「笑わないのか」
「笑って欲しいか?」
遠慮する、と言っておれはパンにかぶりついた。
彼女はこうして何かと世話を焼いてくれる。食い物が無くなると持ってきてくれるし、服なんかも何処からか持ってくる。
以前、出どころを尋ねてみたら彼女は目をそむけた。
『まさか、どっかから奪ってきてるのか』
『い、いいじゃないか!全部海賊船だ!』
『うーん』
犯罪者からなら良いのだろうか。いや、そういう問題じゃないんだよな、と考えながら塩漬け肉を齧る。他人を心配する余裕がある所をみると、おれは前ほど追い詰められてはいないらしい。
「ほら、日持ちするモンが多いからさ、しばらくは大丈夫だろ?」
「うん。ありがとう」
「へっへっへっへ」
にっと白い歯を見せて、嬉しそうにオルガが笑う。
「喰わないのか?」
「え?」
「一緒に」
「…でもよ、蓄える分が減っちまうじゃないか」
遠慮がちに言う彼女。だがその顔は、まるでおれの答えがわかっているとでもいうようにニヤニヤといやらしい笑みを浮かべている。
「…このやり取りは毎回だな」
「へっへっへっへ」
おれが差し出した齧りかけの塩漬け肉に、オルガががぶっと齧りついた。
………
あの日以来、おれは身動きがとれずにいた。
おれがいるのは絶海の孤島であるという。いわゆる、無人島。一周するにも1日で足りるこの島には、人はおろか魔物もいない。いるのは小さな森に住む虫や鳥ぐらい。
あの後、オルガの甲斐甲斐しい世話のかいあってなんとか杖をついてだが動けるようになった。
おれはオルガにここから連れ出してくれるよう頼んだ。すると彼女は気まずそうに目を伏せた。
「無理なんだ」
「何故」
「ここからはわからないだろうが、島の周りに潮がぐるっと…な」
「速いのか」
「舟が逆らうのは不可能だろうな」
「おれはそれに流されたのか」
「ああ」
覚えが無いが、鱶に連れてこられたとしたら、まぁ合点がいく。
「でも、お前なら大丈夫だろ」
「いや。ここを出る時には、いつも一杯に潜るんだ。潮に流されないように」
きっとあんたの身体はもたない、と彼女は申し訳なさそうに言った。
「つまり、おれはここから出られないのか」
「…うん」
「一生、ここで暮らすのか」
「…そうだ」
おれは沖の方に目をやった。島はおろか船すらなく、ただ水平線が緩やかなカーブを描いているだけだった。
青い海に鉄格子があるような気がした。
「…そうか」
急に体の力が抜けて、ぺたりと砂浜に尻もちをついてしまう。
不思議だった。あの時、鱶に喰いつかれた時はちっとも怖くはなかったのに、ここで緩やかに死にゆくしかないと言われると恐ろしくてたまらなかった。
そしてどんどん真っ暗になっていくおれの頭の中に、一つの問いがうかんだ。
おれは、どうすればいいのか。
その夜も、おれは海を見ていた。眠れなかったんだ。
真っ暗な海と空は境界が限りなく曖昧だった。まるで黒い壁だ。
自分の運命を聞いてから、ただただぼんやりと日々を過ごした。彼女の運んでくれる食べ物を口に入れ、口をバカみたいに開けたまま海を眺め、日が沈んだら寝る。だいたいそんな生活。
そんな日々の中でも唯一はっきりと覚えているのは、初めて海が恐ろしいと感じたことである。
おれはこんなにも海が広いなんて知らなかった。こんなにもすがすがしいくらい何もないなんて知らなかった。こんなにも、救いのないものだとは知らなかった。
どうするのか。
これからの事ではない。生きていて、どうするのか。
彼女は、オルガは必死におれの世話をしてくれていた。片足と気力を失ったおれが、こうして生きていることがその証拠だ。
だが、それが何になる?ずっと彼女に頼って生きるのか?助けが来るかもわからない、いや、来ないであろう状況で、生きていて何になる。
彼女だって、いつか嫌になる。
いっそ、時間を縮めてしまおうか。今すぐ、手っ取り早く。
そうすれば、彼女の嫌がる顔を見なくて済む。
おれは杖を手に、2回転んだあとでやっと立ち上がった。
一歩一歩、一本の足で海に近づく。真っ暗で、底が見えない。
「おい」
背中に声がかかった。彼女だ。
「どうしたんだ?眠れないのか」
海まであと10歩ほど。急に現実に引き戻されたような気がした。
まただ。また急に、死ぬのが怖くなった。
身体が僅かに震える。
「おい、大丈夫か?」
大きくなる震えが止まらない。恐ろしい。真っ暗な海が。真っ暗な空が。自分がしようとしていたことが。そして、それを彼女に知られることが。
彼女が近づいて来る。
気付かれてはいけない。これ以上、気を遣わせてはいけない。誤魔化すために、寒いな、と呟いた。
「昼間は熱いくらいなのにな」
砂浜を踏みしめる音がすぐ後ろでぴたりと止んだ。
我ながら苦しかったか、と唇を噛んだ。
「ごめん、何でもないんだ。もう寝るよ」
腕に力を込めて振り返ろうとしたおれの背中に、とても柔らかくて、とても温かいものがくっついた。
震えが、止まった。
「大丈夫だ」
大丈夫なものか、という弱音がこぼれそうになった。
「あたしがいくらでも食いモンを獲ってくる。水だって何とかする。服も、毛布も、あんたが暮らすのに必要な物は全部、なんとかする」
そういう問題じゃないんだ、と言いたかったが言葉にならなかった。
「あんたの隣には、あたしがいる。ずっとずっと。だから」
だから何なんだ、と言いたかったのかもしれない。下手な慰めはよしてくれ、と言いたかったのかもしれない。もしかしたら、怒りにまかせて彼女を殴りつけたかったのかもしれない。
でも、おれの口からは何一つとして言葉が出なかった。身動き一つできなかった。
代わりに、今までに無いくらいの涙が溢れた。
砂浜に崩れ落ちて、それでも彼女にすがって、みっともない声をあげて、おれはここに来て初めて泣いた。
「大丈夫、大丈夫。ずっと一緒だからな。ずっとずっと、一緒だからな」
そう言いながら、彼女は何度も何度も優しくおれの頭を撫でた。
おれにできることは、赤子のように抱きつきながら頷くことだけだった。
ナイフを持ってきてくれないか。
そう言うと彼女がおれの手を優しく握った。
相変わらず真っ暗で彼女の表情はうかがえないのだが、きっと心配そうな顔をしているんだろう。
おれは彼女の中にある不吉な考えを否定するように、少し力を込めて手を握った。
「釣竿を作ろうと思うんだ」
「…つりざお?」
「ああ」
おれは傍らにある杖を撫でる。杖を探す時に分け入ったのだが、ここの森にある木はどれもこれも細い。とてもイカダなんて作れやしないだろうし、作ったとしても彼女の言う潮に勝てる筈も無い。だがここの木の枝は弾力がある。針だって、昔は魚の骨から作ったというじゃないか。
「おれは決めたよ。諦めない」
彼女がじっとおれを見ている。それがわかった。
彼女の手のぬくもりがおれに伝わってくる。きっともう震えることはないのだろうと思った。
何だか力が湧いて来たような気がして、もう一度大きな声で大丈夫と言ってみた。全身のわだかまりが消え、自然に笑みが浮かんだ。後で彼女に聞いたところによると、「超不敵な笑み」を浮かべていたらしい。上等だ。
その日、おれはやるべきことを見つけた。
彼女に感謝するのだ。
それは、言葉で示すのではない。彼女が救ってくれたこの命を無駄にしないことで、この絶望的な状況に立ち向かうことで示すのだ。
無様でも足掻いて、足掻いて、足掻き倒す。それが命の恩人である彼女に対する、唯一にして最大の感謝となることを信じて。
その夜、一つ気が付いたことがある。海に映る星ってのも、なかなか綺麗なもんだ。
………
太陽が、空の真ん中に来た。
「じゃっじゃーん!」
オルガが何処からかとりだした剃刀は、おれ達の真上にある太陽の光を反射してきらりと輝いていた。
「ナイフはまだ使えるぞ」
「ちがうちがう」
「おれを喰う気か」
「丸齧りだーってちがう!」
しゅるりとオルガの足の一本がおれの身体を絡め取った。特に抵抗するでもなくそのまま引き寄せられ、他の足も使って横に寝かせられる。ただし、空中に。
「髭が伸びてきたからさ、剃ってやるよ」
「おれは子供じゃないぞ。自分で剃れる」
「へっへっへ。いいからいいから。じっとしてないと傷が付くぜ」
「おい。地味に首が辛い」
「贅沢言うない」
「いや、これは切実な願いだ」
「…しょうがねぇな」
そういうと彼女はおれの頭の方へ回り込んだ。片手で頭が持ち上げられたかと思うと、むにゅりと柔らかいものが頭のてっぺんに当たった。目の前には、真っ赤になった彼女の顔。
「こ、これでいいだろ?」
「………」
「ど、どうだ?乳枕っつーのか?」
「オルガ」
「ムラムラしてきた?」
「状況が、何も改善されていない」
首筋が震えてきた。
確かにムラムラはするだろう。彼女の胸は結構大きいし、感触が心地よい。だがおれが求めているのは支えである。後頭部、せめて首筋辺りを支えてくれる物である。残念ながら、頭のてっぺんにある彼女のふくらみはその役割を果たしていない。
「あ、つりそう。ちょ、やばいって。ホント、何とかして」
「あーあーあー。もう、しょうがねぇな」
結局は彼女に下ろしてもらい、彼女の膝枕の上で好意に甘んじる事となった。いまだに彼女に膝があるとは思えないのだが。
太陽がその身を隠す頃。
おれは日の出と共に起きて、日の入りと共に寝る生活を送っている。蝋燭はあるがもったいないし、何より足が一本ない生活というのは存外疲れるのだ。夕焼けを見ながら夕飯を食ったら、船の帆を使ったテントに入り、おやすみなさいだ。
だがオルガを抱くこともある。ちょうど、今日のように。
「うっ…くぅ……お、オルガ…」
「へっへっへ。どうだ?いいか?」
「すっげ…いい……!」
寝そべったおれの股間には、オルガの足が蠢いていた。
3本の足はそれぞれ違った動きをする。1本は吸盤をつかってちゅっちゅっとペニスに吸いついて来る。1本は全体に絡みつき、すりすりとその身を優しく擦りつける。1本はぬらぬらとした粘液を出しながら、ねっとりと陰嚢を揉みあげる。
まるでペニスに口づけをされ、竿を優しく手で扱かれ、ふぐりを舐められるのを同時に受けているようだ。吸盤が鈴口に吸いつき、傘の下を足が往復し、粘液がぐちゅりと音を立てる。
おれの身体が悦びに震える。腰の裏側にわだかまる痺れが、徐々に大きくなってきた。
「だ、めだっ!でる!」
その声に、ぴたりと足の動きが止まる。
足が股間を離れる代わりに、腰布を取り払ったオルガ自身がおれの腰に乗っかった。
「じゃあ…な?」
7本の足の根元にある濡れぼそった割れ目。一本の足を器用に使い、ペニスをそこにあてがった。
「…毎度思うんだが、いいのか?前戯とか」
「ん。だいじょぶだって」
2,3度ペニスが恥丘に擦りつけられた後、亀頭が蜜壺の中に沈んだ。
肉襞がねちっこく絡みつく。彼女は膣内にも無数の小さな『足』を持っているようだ。
そのままゆっくりゆっくりと腰を落とし、竿全体を足が這い回る。そして先端に固いものが当たったのと同時に、挿入が終わった。
はあ、と大きく息を吐いて、オルガは身体を倒した。
「ほ、らぁ……だいじょうぶ、だろ?」
上気した顔で彼女が微笑んだ。
お互いちっとも動いていないのだが、彼女の中にあるペニスは『足』に優しく弄ばれている。生温かい愛蜜がとろとろと竿をつたい、おれの陰毛を濡らす。
「毎回、毎回…あんたの、弄ってるだけでぇ……たまら、ないんだから」
くすぐったそうに彼女が腰をくねらせると、膣内の『足』がみっちりとペニスを締め付けた。
「くっ!なか…からみついて…!」
「いいぞ!射精(だ)せ!たくさん、膣内にぃ!」
ぎゅっと彼女を抱きしめながら息を詰め、彼女の中に欲望を解き放った。
「んあっ、きてる…いっぱい…」
小さいながらも恍惚とした声がおれの耳をくすぐる。
絡みつく『足』を振り払うように膣内でペニスが跳ね、最奥に精をまき散らす。
やがて出るものが無くなり、おれは息を吐き出した。
ぎゅっと締め付けていた『足』はその拘束を解き、ペニスをやわやわと揉みしだいている。まるで最後の一滴までせがむような貪欲な動きに、萎えかけていたペニスが再び固さを取り戻す。
「…おい。また、大きくなってるぞ」
耳元で彼女が囁いた。
「ん。……もう一回、いいか?」
おれも囁き返す。それを聞いた彼女は「うん」と小さな声で言ってから、身体を起こした。
「今度は、もっと気持ち良くしてくれ」
精一杯の笑顔で頷き、彼女の腰に手を添えて突き上げる。亀頭が精液に満たされた子宮を押しつぶす。
「んあ!す、すごいっ!おなか、たぷたぷいってる!ん、んん!あ!」
彼女が快楽に悶え、身をよじる。
「は、ふあっ…この…お返しだ!」
にっと悪戯っぽくオルガが笑うと、7本の足がおれの身体に絡みついてきた。吸盤で吸い付いては離れ、吸い付いては離れ。沢山の口がおれの身体に口づけているようだ。
「うっ…くう……くっそ!負けるか!」
負けずに俺も不敵な笑みを作り、上体を起こす。鎖骨のくぼみに舌を這わせ、彼女の胸をすくい上げて乳首に口づける。
「わ、ちょっと。くすぐったいってぇ!」
そんな声は聞こえなかった事にして、彼女の上半身に口づけを続ける。更に円を描くように腰を動かし、ぬめぬめと絡みつく『足』ごと膣内をかき回す
それに負けじと彼女の『足』もきつく絡みつき、吸盤がキスの雨を降らせる。
聞こえるのは吸盤が肌を吸う音と、おれが彼女の身体に口づける音、そして彼女のかわいらしい喘ぎ声。
その時、おれの頬が温かいものに包まれた。それに導かれるように顎をあげる。
オルガが潤んだ目で、切なそうにおれを見ていた。
「…マリアーノ」
ぽそりとおれの名前を呼んだ。
おれの頬を優しく包んでいた彼女の両手がするりとすべって、彼女の顔が近くなる。おれも彼女の身体に腕を回した。
どちらともなく近づき、おれ達は深い深い口づけをした。
ねっとりと互いの舌を絡め、唾液が漏れ出す隙間も無いぐらいに唇に吸いつく。抱きしめる腕に少し力を込めると、彼女も一層おれを強く引き寄せた。
全身で互いを抱きしめ、一つになる。
静寂の中に、波の寄せる音と、互いの呼吸音だけが響く。
この感じ。なんとなく、なんとなくだが似ているのだ。あの海の中で感じた、身体が溶けるような安心感。
もっともっと彼女に近くなりたくて、思いっきり彼女を抱きしめた。
汗を流すため、海に入る。
二人並んで波に揺られながら満点の星空を見上げる。
「なあ」
「ん?」
ぷかぷかと浮かびながら、おれは口を開いた。
「いわゆる魔族にしては、随分淡白だよな」
「…何を言ってんだ?」
「回数だよ。『吸いつくす』とか聞くけど、お前はそんなことしないよな」
「当たり前だろ?あんたはただでさえ体力を消耗してんだ。それに、インキュバスなんかになったらどうすんだよ」
「あれ?らしくない台詞があったぞ?」
「何だ?インキュバスになって飛んでくつもりか?」
茶化すように、だがどこか責めるように彼女が言う。
おれはそうなった自分を思い描いてみた。翼を広げて飛び立つおれ。お、これはなかなか。
「うーん。それも悪くない脱出法だ」
でもなあ、と思った。
海から遠ざかってしまうし、きっとオルガからも遠ざかってしまう。ふむ、それはなんか嫌だな。
「………帰ってもよ、魔族になってたらきっと肩身狭いぜ」
ぽつりとオルガが言った。
「そうかな」
「そうさ。人間は人間の、あんたはあんたのままが良いよ」
ざぱっと音がして、オルガの顔が空の一部を隠した。
「そうか?」
彼女はにっこり笑ってから、おれのすぐ隣、腕が触れるほどの距離に身体を浮かべた。
「そうさ。…なに、いざとなったらこの島に国でも創ればいいさ」
「どうやって」
「産めよ増やせよ」
「地に満ちよ、か。……あれ、さっきの話と矛盾してないか?」
「へっへっへっへ。蛸は一回にいくつ卵を産むか、知ってるか?」
おれは思い浮かべてみた。彼女が産むたくさんの卵。わらわらと生まれる子供達。うーむ、これは少しばかり不気味だぞ。
ちなみに、あるタコは一度に50もの卵を産むという。少しばかりじゃないな。かなり不気味だ。
「やめてくれよ。てか卵なのか」
「さあな。試してみるか?」
「ここに来てから結構してるじゃないか」
「へっへっへっへ」
「笑いごとか」
でも、オルガの笑い声につられておれも笑った。
大きな、まあるい月が空に浮かんでいた。
淡い光がおれとオルガの笑顔を照らす。
まあ、悪くないな。
釣りをして、探険して、飯を食って、愛しい人と一緒に海に体を浮かべ、波に揺られる。
いつ帰れるか、そもそも帰れるかどうかもわからないが、この生活も悪くない。
彼女がいれば、どんな場所でも悪くない。
この空の下、今だけは、二人きり。
今日もまた名も知らぬ船の襲撃にまんまと成功し、当面は遊んで暮らせる事が確定したからである。彼らは板張りの甲板に戦利品を乱暴に並べ、悦に入っているところであった。
「でもよォ、女の一人ぐらい頂戴しても良かったんじゃねぇか?」
「バァーカ。どうせセンチョーが独り占めして俺達の方には回ってこないんだから、ムダムダ」
「おい!テメエら!今なんつった!?」
「いえいえ。何でもないっすよ、センチョー」
「ケッ」
金貨、首飾り、指輪、高そうな食器。
対する彼らの服装はみすぼらしく、輝く物と言ったら腰にあるカットラスぐらいである。正に野蛮人。
まっとうに生きていれば決して手に取ることはないであろう品物の数々は、たいまつやランプの光を反射して一層妖しく輝き、彼らを魅了した。
その中に一つ、妙な物が混じっているのに気付いた者がいた。
「おい、何だこれ」
「あぁ?」
小さな壺である。
妙に年季の入った代物で、側面にはフジツボがくっついており、口の部分が欠けている。明らかにこの場にはそぐわない、どちらかといえば『彼ら側』の代物である。
持ってみると、存外重い。
「何か入ってるか?」
船員の一人が壺を覗きこむ。
真っ暗だ。片手にのるほど小さな物なのに、底が見えない。
見えませんと船員が口を開こうとした、その時だった。
ガクンという音と共に、船体が大きく傾いた。甲板に出ていた者全員が尻もちをついてしまう。
「何だ!?」
「乗り上げたか!?」
「バカな!ここらには何もない筈だぞ!!」
「おい!お宝が落ちるぞ!拾え拾え!」
多くの者があたふたと船上を駆けまわる中、船縁から何人かが下の様子を見ようとたいまつを手に顔を覗かせる。
「鮫だ!でけえぞ!」
その声に誘われ、海面を覗きこむ顔が増える。
彼らの視線の先では、船上のざわめきなどどこ吹く風といった感で巨大な影が悠々と泳いでいた。
ゆうに船の半分くらいはあるだろうか。巨大な背びれは音も無く海を切り裂いている。
「なんだありゃ…」
「デカイってモンじゃねーぞ」
「…獲ったら良い値で売れるんじゃね?」
「「いいねー!!」」
じゃあ銛を持ってこよう。いやいや、大砲で仕留めるか。バカ、せいぜいセンチョーが持ってるアレだろ。
下らない会話に、楽しそうな声をあげる船員たち。
もし彼らの中で背後に気を配る者があったら、気がついた筈である。
異変に。
「うわああぁぁぁぁ!!」
ぽーんと一人の船員の身体が宙を舞った。
半分の人間がそれを目で追い、彼が暗い海に消えていくのを呆けた顔で見ていた。
もう半分の人間は彼が飛んできたところ、甲板に目を向けた。
そこには、腕組みをして仁王立ちしている女が一人。
やがて異変を察した視線が一つ、また一つと増える。
美しかった。彫刻のように均整のとれた身体。ウェーブした赤い髪には、先の古びた壺がちょこんと乗っている。勝気そうにつり上がった目が、海賊たちを見据えていた。だが、その視線がかち合うことはない。海賊たちは彼女の下半身に目を奪われていたのだから。
彼女の、7本の足に。異形の証に。
「スキュラだ!!!」
誰かの悲鳴のような叫びと共に、船上は天地がひっくり返ったような大騒ぎになった。鮫がいるにも関わらず慌てて海に飛び込む者、宝を抱えて隅でうずくまる者、武器を構える者。
ランプが蹴り倒され、たいまつが落ち、火の粉を散らす。
そんな混乱の中で彼女は呆れたように溜息をつき、やっぱりと思った。
こいつらはやっぱり、彼とは違う。
一斉に飛びかかる武器を持った者達。だが、彼女の前ではどんな武器もなまくらに等しい。容赦なく男達の足を払い、突き飛ばし、海へ投げ込む。立ち向かう者が終われば、次は怯えている者だ。
刃も赦しを請う声も、彼女には届かない。そんなものは、彼女の心を動かせない。
彼女が片付いたかと思ったその時、乾いた破裂音と共に何かが彼女の頬をかすめた。彼女の美貌に、血がにじんだ。
ふり返ると、男が銃を構えていた。先程船長と呼ばれていた男である。船室の壁に背を預けながら、ぶるぶると震えている。
これでは外すわけだ。
月光に照らされた女の顔が、不気味に歪んだ。頬から流れる血の一筋を指ですくい、真っ赤な舌でぺろりと舐めた。ゆっくりと船長に近づく。
「知ってるよ、それ。『マスケットジュー』ってんだろ?」
口は笑いながら、嘲りを込めて目を細める。
「確か、一発撃ったらタマゴメが必要なんだよな。いいのか、やらなくて」
「畜生……っ!化け物め!」
「大差ないさ。あんた達と。あたしも、欲しいものは力ずくで手に入れる」
「うるせぇ!」
使えない銃を捨てると、船長は腰のカットラスを抜いた。
「な、なんだよテメェ。足が7本しかねぇクセしやがって。この半端モンが!」
「…あん?」
「足のたりない、くそったれがっつったんだよ!」
彼女の顔から笑いが消えた。
目にもとまらぬ速さで触手が伸び、カットラスを払い落す。あっと口を開く前に、船長は首に足を巻きつけられ、持ち上げられた。
「あたしと、あいつの絆を馬鹿にするなんて。お前はよほど死にたいらしいなぁ」
突き刺すような視線と共に、船長の首を万力のように締めあげる。頸椎がみしみしと音を立て、口からは声にならない叫びが空気の流れになって出てきた。
「…なぁ、おかしいと思わないかい?落ちたあんたの仲間、何で悲鳴すらあげないのか」
そう言うと共に、女は6本の足を蠢かせて歩きだす。
「くそ……はな、せ……!」
船長は必死になって己を締め付ける触手を蹴飛ばすが、びくともしない。
船縁に立った女は船長をつかんだ触手を海の上まで伸ばした。
「ほら、見てみろよ」
だが船長は無駄な抵抗を続けていた。仕方ないとばかりに溜息をついた彼女は、勢いよく彼の天地をひっくり返した。
頭が地球に引っ張られる。船長は反射的に頭上の海に目を向けてしまう。
月光に照らされる海はどこまでも穏やかで、そこに部下は一人もいない。助けを求めるものも、必死に水をかく者もいない。
動いているのは、巨大な背びれ。
まさか。そう思った時、海中から何かが浮かんできた。
上半身のない部下だった。
首の拘束が緩む。それに合わせて船長の口から悲鳴が漏れた。
「じゃ、放してやるよ」
「ま、まて!待ってくれ!」
先程まで必死に蹴りつけていた触手をつかもうと手を伸ばす。が、無情にもその手につかまる前に触手は引っ込んでしまった。
頭上で大きな音がして、もう一体の異形がその姿を現した。
大口を開けた隻眼の鮫が迫る。
―――――――――――
今のおれはどんな顔をしているだろう。
身体を起こした寝起きのおれは、唐突にそんな事を考えた。こうなる前は自分の顔に関心などなかったが、今はどうにも気になる。
こけているだろうか。老けているだろうか。
少なくともそれはないだろう。こけるほど酷い食生活はしていないし、老けるほどストレスは感じていないように思う。
結局、変わったのは足だけだ。
おれは傍らに置いておいた新しい3本目の足に手を伸ばした。それを支えに右足を曲げ、立ち上がる。
む。今、よっこいしょって言ったな。やっぱり老けているのかもしらん。無理も無いといえばそうなのだが、まだおれは30にもなっていない。まだオッサンだとは思いたくない。
バランスをとりながら、尻についた砂を払う。この服も、貰っておいて何だが動きづらい。どこの金持ちの物だか。袖や裾を切ったのにしっくりこないのは、やはり素材の問題か。
それに比べて3本目は良い。固さも長さも、耐久力も申し分ない。前の2本は、おれが使い慣れていないせいでダメになったとも言えなくもないが。
ま、人間、どんな酷い状況でも適応出来るものだ。
いや、酷くはないか。
日が水平線から拳一つ分ぐらい昇った。
釣竿はピクリとも動かなかった。
仕掛けがばれるとは思えない。名も知らぬ木と、蔓と木の皮と、魚の骨で作った自信作だ。
そういえば、ガキの時分にもこうして釣竿の作り方をオヤジから教わったっけ。雀百まで。いやいや、おれはまだオッサンじゃない。
何故俺が朝っぱらから釣りなぞしているかというと、食料が無いからである。昨日まではあった。獲り過ぎた魚を開いて、干しておいたのだ。朝の釣りは寝起きにはいささか辛いから。ところがどっこい、今朝起きてみると、干物が全て無くなっているではないか。波にさらわれたようだ。
おかしいなと思ったのだが、すぐに原因がわかった。夕方に回収しておくべきだったのだ。いや回収したと思ったんだが、しっかり確認しておくべきだった。やっぱりズボラは良くない。
「む」
ぴくりと手ごたえを感じ、思いっきり竿を引き寄せる。
ぐぐっと大きくしなる。いや、これはもはや曲がっていると言うべきか。でかいぞ。
以前なら立ち上がり思いっきり引っ張ったところだが、今はそうもいかない。尻を支点にして、後ろに倒れるように引っ張る。
朝飯が水中で右往左往している。逃がすか。
タモが無いから釣り上げるしかない。おれは両腕に力を込め、ぐっと引いた。
ふっと手に伝わる抵抗が消える。
その時、水中に何か海草のような赤い物が見えたかと思うと、にゅっと何かが水面から伸びた。
それは素早くおれの首に巻き付き、あっと言う間も無く海中へと引きずりこんだ。一面が青に染まると共に、息ができなくなる。
おれが海にダイブすると、それはすぐに俺を解放した。わずかに沁みる目に、映る者があった。言いたいことはあるが、口からはどうせ泡しか出ない。空気を求め、懸命に水をかく。
ぷはっと水から顔を出すと、追いかけるようにそいつが顔を出した。
「あっははははははは!ひっかかった、ひっかかった!」
腹を抱えながら、おれを指さし笑う。
つまり、さっきのアタリは彼女だったわけだ。ちくしょう、ぬか喜びか。
「おい、今のおれに立ち泳ぎは辛いんだ。早くあげてくれ」
「あっはははははは。ごめんごめん」
胴に何か太い物が巻き付く感触がしたかと思うとぐぐっと持ち上げられ、陸に上げられる。
「ちくしょう。人の事をばかにしやがって」
ざぱっと音がして、そいつが陸に上がってくる。
胸のふくらみと下半身を相も変わらず紫の布で隠している。彼女に着がえという概念はあるのだろうか。おれは心配だ。
少しくせのある赤毛に、海と同じ青の瞳。ここまでならばまあ、露出度の高い服を来た美女である。人間である。
だが、おれと決定的に違うのは足の本数だ。おれでも最大2本なのに、彼女は1,2,3…何度数えても7本。タコみたいな足のくせに、8本ない。うねうねと器用にそれを動かして、こっちに来る。
「お?どーしたマリアーノ。朝っぱらからムラムラきたか?」
「ちげえし」
まあいい。足が何本あろうと、腹立たしい笑みを浮かべていようとだ。おかしいのは頭の壺だ。壺。足が何本もあるヤツも、ヒレになってるヤツも、半透明のヤツだってこのご時世珍しくないが、焼物を頭にのっけてるヤツなんてそういない。まずいない。目の前にいるけど。
まったく、スキュラってヤツの趣味がわからない。変なヤツ。
「おいオルガ。朝っぱらから人をおちょくった感想を言ってみろ」
「最っっっっ高!!」
ぽこん、と3本目の足を使って頭を叩いてやった。
………
おれは漁師だった。自慢じゃないが、それなりに腕も良かったんじゃないかと思う。
ごめん、嘘ついた。普通ぐらいだ。至極普通。
おれの村では、5つになると釣竿を持たされた。10になると大人連中の船に乗せられ、15で舟と銛を持つ事を許される。
オルガに出会ったのは、おれも舟を持って9年目位だったか。
変なヤツ、というのが彼女の第一声だった。
何故だ。おれはコイツが海から顔を出したから、「よう」と声をかけただけなのに。
「あたしを見たヤツなんて、泣くか怯えるか、何れにせよウルサイもんよ」
それに比べて、あんたの変なことったら。彼女はそう言って嬉しそうに笑った。
「あたしが怖くないのか?」
「おれは、それどころじゃない。いや、なかった」
「あん?」
「…魚が逃げた」
「…あっはははははは!そいつは残念だったねぇ!」
誰のせいだと思っていたのか知らんが、オルガは心底おかしそうに笑った。
スキュラは元々人間、しかも美女で、魔女キルケーが魔物に変えちまったんだという。なるほど、顔は良いわけだ。性格の面も考えると、更になるほどと言わざるを得ない。いかにも魔女に喧嘩を売りそうだ。
ともあれ、おれ達はその日からよく会うようになった。
「なあ、えっとー、マリアーノ」
「なんだよ、えーっと…。名前、何て言ったっけ」
「オルガだよ!オ・ル・ガ!」
「ああ、オルカね」
「シャチじゃねぇから!」
「海のギャングだ。カッコいいじゃないか」
「そ、そうか?えへへへへ、って違うから!オルガだよ!オルガ」
「で、オルガ。何か聞きたい事でも?」
「あんたさあ、なんであたしが怖くないわけ?」
お前はそればかりだな、とおれは釣り糸を垂らしながら言った。
彼女と会って数日。事あるごとに彼女はおれに訊くのだ。自分が怖くないのか、と。
逆に訊きたい。こんな美女を恐れるのは、どれだけ贅沢な輩なのか。
「だってさぁ、やっぱ気になるじゃん」
ふむん。
いつもは怖くないの一言で済ませているところだが、その日は少し掘り下げてみようかと思った。船縁に竿を立てかけ、彼女と向き合う。
「お前は自分のどこが怖いと思う?」
「うーん。足?」
「タコが怖くて漁師はやれんよ」
それどころか、と危うく口がすべりそうになった。それどころか、タコは焼くと美味いんだぞ。おれはその言葉をぐっと飲み込んだ。
「じゃー、上半身人間で下半身タコのとこ」
「下半身がイカなら良かったか」
イカも美味いからな、とおれは笑った。
「全身人間だが、海賊なんかの方がよほどタチが悪いだろう」
「そうかな」
「そうさ。それにいいじゃないか、美人だし。海の女神みたいだ」
「そ、そうかなそうかな?」
「そうさ。だから女神さま、おれに獲物を」
「うっわ、喜んで損した」
「おい、そんなくねくねしてると足が絡まるぞ」
「うるさいなぁ。で、どうよ?」
おれは彼女の言葉に促され、立てかけた竿の先に目を向ける。
ピクリとも動かない。
「……釣れんなぁ」
おれが大きくため息をつくと、オルガが心底可笑しそうに笑った。
「よーう、へっぽこ漁師。釣れてるかーい?」
「…なあ」
背中にかかる明るい声。そちらをちらとも見ないで、おれは彼女に呼び掛ける。
「なにさ」
「こう、舟の周りでざばざばやるのは止めてくれないか」
おれはついにわかった。
オルガが派手に波を立てるから魚が逃げるのだ。いや、事実逃げた。
おれは諦めて銛を船底に置いた。オルガに目をやると、子供みたいに頬をぷくっと膨らませている。
「なんだよう。あたしにどうしろってのさ」
「漁が終わった時に顔を出すか、舟に乗っちまってくれ」
「のる?乗れるかね?」
「ふむ」
おれは視線を舟とオルガの間で往復させた。彼女の8本の足は随分スペースをとる。明らかに収まらないだろう。
何とかしようと思ったら、彼女が8本足を海に投げ出した形で乗るか、おれが泳ぐしかない。おれは彼女にそう言った。
「乗るか?おれの代わりに」
「バカ?」
「ついでに漁をしてくれると助かる。釣って、魚を釣って」
「バカだ。今確信した」
「じゃ、せめてその足で魚をおびき寄せてくれ。疑似餌だ、疑似餌」
「はん。やだよ。足を喰われたくないもの」
それはそうだ。おれだって嫌だ。足が喰われるのは。
「じゃ、また後で来い」
「いーや。乗るよ」
「なに?」
どうやってと尋ねる前に、彼女の身体が変なことになっていた。
彼女の頭が、壺の中に入っていく。明らかに頭の方が大きいのに。そのまま首、胴とどんどん入っていく。ついに全身が消えてしまい、そこには古びた壺がぷかぷかと浮いているだけだった。
首をかしげるおれの目の前で、にゅっとオルガが首をのぞかせた。まるで壺の上に生首が乗っているみたいだった。
「おい、はやく乗せてくれよ」
唖然とする俺に、彼女は「どうだ」みたいな自慢げな笑みで言った。
変なヤツ。
しかたなしに、おれは壺を拾い上げて船底に置いた。
「さー、御手並み拝見と行こうか」
にやにやといやらしい笑みをうかべるオルガ。
くそう、見てろ。これで魚が逃げることも無い筈だ。バカ釣れのおれを見て「キャーステキ!抱いて!」とでも言う準備をしておくがいい。
「ブツブツ言ってないで、さっさと仕事しろよー」
「うるさいなぁ」
おれは釣竿をとって仕掛けを作り、きらめく波間に投げ込んだ。
…その日、オルガはずっと生首状態で、一匹も釣れないおれを見ながら楽しそうに笑っていた。
魔物は男を襲うと聞いていたが、そんなことはなかった。まあ当然だ。彼女と会うのは海の上で、おれは狭い舟の上で仕事中。彼女が舟の上にいるとしても、それは壺の中に入った状態でだ。無理無理。一体どこでするという話だ。
でもおれは気になるから、ある日彼女に訊いてみた。
「襲わないのな」
「何を?」
「おれを、お前が」
「はん、自惚れんじゃないよ」
「自惚れちゃいないさ。純粋な疑問だよ」
「あたしはスキュラだよ?餌になる男なんか、よりどりみどりさ」
「そうなのか」
「ああ」
何だかとても嫌な気分になったが、おれは納得することにした。
ところで、とオルガは言った。
真剣な顔で手招きをする。何事かとおれは顔を近づけるが、彼女は手招きを止めない。それどころか苛立たしげに手招きの速度を速めた。仕方ないから船縁に手をかけ、ひっくり返らない程度に身を乗り出してみた。
しゅるりと彼女の足が首に絡みついた。いや、ひっかけられたと言うべきか。そのまま彼女の青い瞳が近くなり、柔らかいものが唇に触れたかと思うと、彼女の真っ赤な顔が離れていった。
「………あれ?」
「…どうだ?」
可愛らしい茹でダコがじっとおれを見つめる。
「…どうだと言われても、なあ」
「嫌だったか?」
慌てて否定するおれ。ほっと安堵のため息をつくオルガ。
よかった。確かに彼女はそう言った。
「というか、これはその、そういうことだよな」
「うん」
「餌はよりどりみどりなんじゃなかったのか?」
「うん。でも」
餌じゃない男は、あんたが初めてだ。
ともすれば消えてしまいそうな声で彼女が言った。かと思うとぷいと背を向け、きらめく波間に消えてしまった。
変なヤツ。
でもきっと、明日になったら何事も無かったかのように彼女はおれが坊主なのを笑うんだろう。不思議とそう思った。そうだったらいいな、と思った。
本当に、変なヤツ。おれも、彼女も。
その日からおれ達は毎日会うようになった。
言っておくが、あくまで清らかな交際だ。
オルガとそういった仲になって数週間。おれはやらかしてしまった。
鱶にやられたのだ。まったく、うかつだった。
鱶は臆病だ、というのが漁師の常識だった。こちらから手を出さない限り、襲われるどころか近くに来るかすらあやしい。
だが、そいつはちがった。そいつはいきなり舟に体当たりをくらわせた。舟が大きく揺れ、おれはひっくり返った拍子に左足を海に投げ出してしまった。待ってましたとばかりに、左足に鱶が近づいてきた。
反射的に銛に手を伸ばし、掴んだ瞬間にそいつが顔を出した。
引きずり込まれる、と思った時にはおれは海の中だった。
そいつが一度口を小さく開き、おれの左足を咥えなおしたのが見えた。脛までだった鱶との距離が、太腿半ばまでになった。まるで煙のようにひょろひょろと血が流れ出していた。
不思議とおれは冷静で、痛みこそ感じていたもののうめき声すらあげなかった。ま、どうせ出たとして口からは泡しか出なかったんだろうが。
歯を食いしばり、手にしていた銛の先端を鱶に向けた。歪んだ視界の中で狙いを定め、突いた。
手ごたえがあった。
やったと思った。あんな状況でも喜べるんだから、我ながら大したもんだ。
突然、ぐんっと身体があらぬ方向に引っ張られた。銛が手から離れる。
鱶が泳ぎ出したのだ。
水中で、しかも変な体勢で突いた事が災いしたらしく、致命傷にはならなかったらしい。天地も無い真っ青な水の中で、おれは文字通り滅茶苦茶に引きずりまわされた。
何度か鱶の牙が食い込んだ後、ついにおれの左足との繋がりが無くなった。嫌な音がするもんだ。水の中なのに。
そいつはおれの左足を口にしながら退散したが、おれにはもはやどっちが水面かわからなくなっていた。船酔いならぬ、鱶酔い。おまけに血が足りない。空気も足りない。
水が赤い。
沈んでいるのか、浮かんでいるのか。
流されているのか、そうでないのか。
どうすることも出来ず、もう死ぬと思った。不思議な事に、怖くない。
何故だろう。水の中にいると、なんだか心が安らかになってきた。血と一緒に何かが漏れ出して、海に溶けていくような感じだ。大きな大きな何かの一部になるような、やっと元に戻れるというような、そんな安心感。
その時だった。かすんだおれの目に、これまた何故だかはっきりと見えたのだ。
足が八本ある、我らが海の女神さまが。
なるほど、魔女が嫉妬するわけだ。赤い水をまとうその姿が、不気味なほどに美しい。
こちらに来る彼女を見ながら呑気にそんな事を考え、おれは気を失った。
波が右足を撫でている。
左足はどうしたっけ。あ、そうだった。
頭のあたりが、なんか変だ。
頬にも何かがぱたぱたと落ちてくる。
いろいろくすぐったくって目が覚めた。あたりはしんと静かで、暗かった。
仰向けになっている体。ぼやけた視界の左上の方、空のずっと向こうに月がある。その手前には雲がかかっていて、一番手前には彼女がいた。
泣いていた。
「……変だ」
「…っく…どう、した?」
「…月が出てるのに……雨が降っている」
「…うる、さい!あたしが…あたしがどれだけ、心配したか…」
「…心配してくれたのか」
ありがとう、と小さく呟いて、寝がえりをうった。どうやら彼女が膝枕をしてくれていたらしい。もっとも、彼女に膝があるのか疑問だが。
おれは砂浜に寝かされていたらしい。周りにあるのは海と細い木。知らない光景だった。
そのままうつ伏せになり、両手両足に力を込めて立ち上がろうとした。が、立てない。力が入らないのだ。特に、左足なんか腿から先が無いみたいに。
どうしたんだ、左足。あ、そうだった。
「おい!無茶するな!」
「…立てない」
ぺしゃりと砂浜に腹ばいになり、彼女を見やった。この体勢じゃ彼女の足しか見えない。
1,2,3…。
「魔法で傷は塞いだけど、出血が酷かったから…」
「おい」
「もう少ししたら食いモン獲ってきてやるから、それで」
「おい!」
「な、なんだよ」
「一本ないぞ!」
「…だから、あんたは」
「お前だよ!」
7本。彼女の足は、7本しかない。
いや、きっとさっきまであったんだ。だが足があったであろう所には、千切れらたような断面があるだけだった。
「あ?あたし?ああ、これ」
「どうした?」
「ゆ、油断して、よ。戻ってきた鮫が喰らいついてきたから、やったのさ」
その言葉を聞いて、何かがおれの喉を締め付けた。
おれは痛いぐらいに唇を噛み、砂に額を押し付けた。
「どうした?まだ痛むか?」
「……すまん」
「どうして謝る。それよりあんただ!」
「…おれが、ヘマをしなけりゃ」
「だから何で謝るんだよ!あたしはまだ7本もあるんだ!あんたの方が…」
待ってろ、と言って彼女は海へ向かった。生魚でも喰わせる気か、とは言えなかった。
それよりも、おれは申し訳なかった。おれのせいで、彼女は足を失った。
おれはいい。おれは自分のヘマの代償を、身体で支払っただけなのだ。当然だ、道理だ。だが、彼女が足を失うのは違う。
何故彼女が傷つく必要がある?
代理贖罪、という言葉が浮かんだ。村に来た神父が言っていた。善人が悪人の赦しを神に請うために犠牲になる事だと。馬鹿な。この世界は、自分で落とし前をつけることを許してくれないのか。他人が、愛する人が傷つくのを、安堵に胸を撫でおろしながら見ていろとでもいうのか。
馬鹿な。そんな馬鹿な。
ざぶざぶとオルガが海に入る。
「すぐに血になる食いモン獲ってくるから!待ってろよ!」
彼女が大きく手を振るのが見えた。
違うだろう、と言いたかった。誰に言いたかったのかはわからない。だが、やはり違うのだ。
その前に、彼女は暗い海に消えた。
………
太陽が水平線から拳二つ分昇った。
おれはオルガと並んで流木に腰掛け、朝食をとっていた。
パンと塩漬け肉にレモンが一つ、そして綺麗な真水。なかなか贅沢だ。海と大地と、オルガに感謝します。
「なんで朝っぱらから釣りなんかしてたのさ」
じっと俺を見つめながらオルガが訝しげに眉をひそめた。
「朝飯の為だ。昨日つくった干物が流されてた」
「ああ、そうなの」
「笑わないのか」
「笑って欲しいか?」
遠慮する、と言っておれはパンにかぶりついた。
彼女はこうして何かと世話を焼いてくれる。食い物が無くなると持ってきてくれるし、服なんかも何処からか持ってくる。
以前、出どころを尋ねてみたら彼女は目をそむけた。
『まさか、どっかから奪ってきてるのか』
『い、いいじゃないか!全部海賊船だ!』
『うーん』
犯罪者からなら良いのだろうか。いや、そういう問題じゃないんだよな、と考えながら塩漬け肉を齧る。他人を心配する余裕がある所をみると、おれは前ほど追い詰められてはいないらしい。
「ほら、日持ちするモンが多いからさ、しばらくは大丈夫だろ?」
「うん。ありがとう」
「へっへっへっへ」
にっと白い歯を見せて、嬉しそうにオルガが笑う。
「喰わないのか?」
「え?」
「一緒に」
「…でもよ、蓄える分が減っちまうじゃないか」
遠慮がちに言う彼女。だがその顔は、まるでおれの答えがわかっているとでもいうようにニヤニヤといやらしい笑みを浮かべている。
「…このやり取りは毎回だな」
「へっへっへっへ」
おれが差し出した齧りかけの塩漬け肉に、オルガががぶっと齧りついた。
………
あの日以来、おれは身動きがとれずにいた。
おれがいるのは絶海の孤島であるという。いわゆる、無人島。一周するにも1日で足りるこの島には、人はおろか魔物もいない。いるのは小さな森に住む虫や鳥ぐらい。
あの後、オルガの甲斐甲斐しい世話のかいあってなんとか杖をついてだが動けるようになった。
おれはオルガにここから連れ出してくれるよう頼んだ。すると彼女は気まずそうに目を伏せた。
「無理なんだ」
「何故」
「ここからはわからないだろうが、島の周りに潮がぐるっと…な」
「速いのか」
「舟が逆らうのは不可能だろうな」
「おれはそれに流されたのか」
「ああ」
覚えが無いが、鱶に連れてこられたとしたら、まぁ合点がいく。
「でも、お前なら大丈夫だろ」
「いや。ここを出る時には、いつも一杯に潜るんだ。潮に流されないように」
きっとあんたの身体はもたない、と彼女は申し訳なさそうに言った。
「つまり、おれはここから出られないのか」
「…うん」
「一生、ここで暮らすのか」
「…そうだ」
おれは沖の方に目をやった。島はおろか船すらなく、ただ水平線が緩やかなカーブを描いているだけだった。
青い海に鉄格子があるような気がした。
「…そうか」
急に体の力が抜けて、ぺたりと砂浜に尻もちをついてしまう。
不思議だった。あの時、鱶に喰いつかれた時はちっとも怖くはなかったのに、ここで緩やかに死にゆくしかないと言われると恐ろしくてたまらなかった。
そしてどんどん真っ暗になっていくおれの頭の中に、一つの問いがうかんだ。
おれは、どうすればいいのか。
その夜も、おれは海を見ていた。眠れなかったんだ。
真っ暗な海と空は境界が限りなく曖昧だった。まるで黒い壁だ。
自分の運命を聞いてから、ただただぼんやりと日々を過ごした。彼女の運んでくれる食べ物を口に入れ、口をバカみたいに開けたまま海を眺め、日が沈んだら寝る。だいたいそんな生活。
そんな日々の中でも唯一はっきりと覚えているのは、初めて海が恐ろしいと感じたことである。
おれはこんなにも海が広いなんて知らなかった。こんなにもすがすがしいくらい何もないなんて知らなかった。こんなにも、救いのないものだとは知らなかった。
どうするのか。
これからの事ではない。生きていて、どうするのか。
彼女は、オルガは必死におれの世話をしてくれていた。片足と気力を失ったおれが、こうして生きていることがその証拠だ。
だが、それが何になる?ずっと彼女に頼って生きるのか?助けが来るかもわからない、いや、来ないであろう状況で、生きていて何になる。
彼女だって、いつか嫌になる。
いっそ、時間を縮めてしまおうか。今すぐ、手っ取り早く。
そうすれば、彼女の嫌がる顔を見なくて済む。
おれは杖を手に、2回転んだあとでやっと立ち上がった。
一歩一歩、一本の足で海に近づく。真っ暗で、底が見えない。
「おい」
背中に声がかかった。彼女だ。
「どうしたんだ?眠れないのか」
海まであと10歩ほど。急に現実に引き戻されたような気がした。
まただ。また急に、死ぬのが怖くなった。
身体が僅かに震える。
「おい、大丈夫か?」
大きくなる震えが止まらない。恐ろしい。真っ暗な海が。真っ暗な空が。自分がしようとしていたことが。そして、それを彼女に知られることが。
彼女が近づいて来る。
気付かれてはいけない。これ以上、気を遣わせてはいけない。誤魔化すために、寒いな、と呟いた。
「昼間は熱いくらいなのにな」
砂浜を踏みしめる音がすぐ後ろでぴたりと止んだ。
我ながら苦しかったか、と唇を噛んだ。
「ごめん、何でもないんだ。もう寝るよ」
腕に力を込めて振り返ろうとしたおれの背中に、とても柔らかくて、とても温かいものがくっついた。
震えが、止まった。
「大丈夫だ」
大丈夫なものか、という弱音がこぼれそうになった。
「あたしがいくらでも食いモンを獲ってくる。水だって何とかする。服も、毛布も、あんたが暮らすのに必要な物は全部、なんとかする」
そういう問題じゃないんだ、と言いたかったが言葉にならなかった。
「あんたの隣には、あたしがいる。ずっとずっと。だから」
だから何なんだ、と言いたかったのかもしれない。下手な慰めはよしてくれ、と言いたかったのかもしれない。もしかしたら、怒りにまかせて彼女を殴りつけたかったのかもしれない。
でも、おれの口からは何一つとして言葉が出なかった。身動き一つできなかった。
代わりに、今までに無いくらいの涙が溢れた。
砂浜に崩れ落ちて、それでも彼女にすがって、みっともない声をあげて、おれはここに来て初めて泣いた。
「大丈夫、大丈夫。ずっと一緒だからな。ずっとずっと、一緒だからな」
そう言いながら、彼女は何度も何度も優しくおれの頭を撫でた。
おれにできることは、赤子のように抱きつきながら頷くことだけだった。
ナイフを持ってきてくれないか。
そう言うと彼女がおれの手を優しく握った。
相変わらず真っ暗で彼女の表情はうかがえないのだが、きっと心配そうな顔をしているんだろう。
おれは彼女の中にある不吉な考えを否定するように、少し力を込めて手を握った。
「釣竿を作ろうと思うんだ」
「…つりざお?」
「ああ」
おれは傍らにある杖を撫でる。杖を探す時に分け入ったのだが、ここの森にある木はどれもこれも細い。とてもイカダなんて作れやしないだろうし、作ったとしても彼女の言う潮に勝てる筈も無い。だがここの木の枝は弾力がある。針だって、昔は魚の骨から作ったというじゃないか。
「おれは決めたよ。諦めない」
彼女がじっとおれを見ている。それがわかった。
彼女の手のぬくもりがおれに伝わってくる。きっともう震えることはないのだろうと思った。
何だか力が湧いて来たような気がして、もう一度大きな声で大丈夫と言ってみた。全身のわだかまりが消え、自然に笑みが浮かんだ。後で彼女に聞いたところによると、「超不敵な笑み」を浮かべていたらしい。上等だ。
その日、おれはやるべきことを見つけた。
彼女に感謝するのだ。
それは、言葉で示すのではない。彼女が救ってくれたこの命を無駄にしないことで、この絶望的な状況に立ち向かうことで示すのだ。
無様でも足掻いて、足掻いて、足掻き倒す。それが命の恩人である彼女に対する、唯一にして最大の感謝となることを信じて。
その夜、一つ気が付いたことがある。海に映る星ってのも、なかなか綺麗なもんだ。
………
太陽が、空の真ん中に来た。
「じゃっじゃーん!」
オルガが何処からかとりだした剃刀は、おれ達の真上にある太陽の光を反射してきらりと輝いていた。
「ナイフはまだ使えるぞ」
「ちがうちがう」
「おれを喰う気か」
「丸齧りだーってちがう!」
しゅるりとオルガの足の一本がおれの身体を絡め取った。特に抵抗するでもなくそのまま引き寄せられ、他の足も使って横に寝かせられる。ただし、空中に。
「髭が伸びてきたからさ、剃ってやるよ」
「おれは子供じゃないぞ。自分で剃れる」
「へっへっへ。いいからいいから。じっとしてないと傷が付くぜ」
「おい。地味に首が辛い」
「贅沢言うない」
「いや、これは切実な願いだ」
「…しょうがねぇな」
そういうと彼女はおれの頭の方へ回り込んだ。片手で頭が持ち上げられたかと思うと、むにゅりと柔らかいものが頭のてっぺんに当たった。目の前には、真っ赤になった彼女の顔。
「こ、これでいいだろ?」
「………」
「ど、どうだ?乳枕っつーのか?」
「オルガ」
「ムラムラしてきた?」
「状況が、何も改善されていない」
首筋が震えてきた。
確かにムラムラはするだろう。彼女の胸は結構大きいし、感触が心地よい。だがおれが求めているのは支えである。後頭部、せめて首筋辺りを支えてくれる物である。残念ながら、頭のてっぺんにある彼女のふくらみはその役割を果たしていない。
「あ、つりそう。ちょ、やばいって。ホント、何とかして」
「あーあーあー。もう、しょうがねぇな」
結局は彼女に下ろしてもらい、彼女の膝枕の上で好意に甘んじる事となった。いまだに彼女に膝があるとは思えないのだが。
太陽がその身を隠す頃。
おれは日の出と共に起きて、日の入りと共に寝る生活を送っている。蝋燭はあるがもったいないし、何より足が一本ない生活というのは存外疲れるのだ。夕焼けを見ながら夕飯を食ったら、船の帆を使ったテントに入り、おやすみなさいだ。
だがオルガを抱くこともある。ちょうど、今日のように。
「うっ…くぅ……お、オルガ…」
「へっへっへ。どうだ?いいか?」
「すっげ…いい……!」
寝そべったおれの股間には、オルガの足が蠢いていた。
3本の足はそれぞれ違った動きをする。1本は吸盤をつかってちゅっちゅっとペニスに吸いついて来る。1本は全体に絡みつき、すりすりとその身を優しく擦りつける。1本はぬらぬらとした粘液を出しながら、ねっとりと陰嚢を揉みあげる。
まるでペニスに口づけをされ、竿を優しく手で扱かれ、ふぐりを舐められるのを同時に受けているようだ。吸盤が鈴口に吸いつき、傘の下を足が往復し、粘液がぐちゅりと音を立てる。
おれの身体が悦びに震える。腰の裏側にわだかまる痺れが、徐々に大きくなってきた。
「だ、めだっ!でる!」
その声に、ぴたりと足の動きが止まる。
足が股間を離れる代わりに、腰布を取り払ったオルガ自身がおれの腰に乗っかった。
「じゃあ…な?」
7本の足の根元にある濡れぼそった割れ目。一本の足を器用に使い、ペニスをそこにあてがった。
「…毎度思うんだが、いいのか?前戯とか」
「ん。だいじょぶだって」
2,3度ペニスが恥丘に擦りつけられた後、亀頭が蜜壺の中に沈んだ。
肉襞がねちっこく絡みつく。彼女は膣内にも無数の小さな『足』を持っているようだ。
そのままゆっくりゆっくりと腰を落とし、竿全体を足が這い回る。そして先端に固いものが当たったのと同時に、挿入が終わった。
はあ、と大きく息を吐いて、オルガは身体を倒した。
「ほ、らぁ……だいじょうぶ、だろ?」
上気した顔で彼女が微笑んだ。
お互いちっとも動いていないのだが、彼女の中にあるペニスは『足』に優しく弄ばれている。生温かい愛蜜がとろとろと竿をつたい、おれの陰毛を濡らす。
「毎回、毎回…あんたの、弄ってるだけでぇ……たまら、ないんだから」
くすぐったそうに彼女が腰をくねらせると、膣内の『足』がみっちりとペニスを締め付けた。
「くっ!なか…からみついて…!」
「いいぞ!射精(だ)せ!たくさん、膣内にぃ!」
ぎゅっと彼女を抱きしめながら息を詰め、彼女の中に欲望を解き放った。
「んあっ、きてる…いっぱい…」
小さいながらも恍惚とした声がおれの耳をくすぐる。
絡みつく『足』を振り払うように膣内でペニスが跳ね、最奥に精をまき散らす。
やがて出るものが無くなり、おれは息を吐き出した。
ぎゅっと締め付けていた『足』はその拘束を解き、ペニスをやわやわと揉みしだいている。まるで最後の一滴までせがむような貪欲な動きに、萎えかけていたペニスが再び固さを取り戻す。
「…おい。また、大きくなってるぞ」
耳元で彼女が囁いた。
「ん。……もう一回、いいか?」
おれも囁き返す。それを聞いた彼女は「うん」と小さな声で言ってから、身体を起こした。
「今度は、もっと気持ち良くしてくれ」
精一杯の笑顔で頷き、彼女の腰に手を添えて突き上げる。亀頭が精液に満たされた子宮を押しつぶす。
「んあ!す、すごいっ!おなか、たぷたぷいってる!ん、んん!あ!」
彼女が快楽に悶え、身をよじる。
「は、ふあっ…この…お返しだ!」
にっと悪戯っぽくオルガが笑うと、7本の足がおれの身体に絡みついてきた。吸盤で吸い付いては離れ、吸い付いては離れ。沢山の口がおれの身体に口づけているようだ。
「うっ…くう……くっそ!負けるか!」
負けずに俺も不敵な笑みを作り、上体を起こす。鎖骨のくぼみに舌を這わせ、彼女の胸をすくい上げて乳首に口づける。
「わ、ちょっと。くすぐったいってぇ!」
そんな声は聞こえなかった事にして、彼女の上半身に口づけを続ける。更に円を描くように腰を動かし、ぬめぬめと絡みつく『足』ごと膣内をかき回す
それに負けじと彼女の『足』もきつく絡みつき、吸盤がキスの雨を降らせる。
聞こえるのは吸盤が肌を吸う音と、おれが彼女の身体に口づける音、そして彼女のかわいらしい喘ぎ声。
その時、おれの頬が温かいものに包まれた。それに導かれるように顎をあげる。
オルガが潤んだ目で、切なそうにおれを見ていた。
「…マリアーノ」
ぽそりとおれの名前を呼んだ。
おれの頬を優しく包んでいた彼女の両手がするりとすべって、彼女の顔が近くなる。おれも彼女の身体に腕を回した。
どちらともなく近づき、おれ達は深い深い口づけをした。
ねっとりと互いの舌を絡め、唾液が漏れ出す隙間も無いぐらいに唇に吸いつく。抱きしめる腕に少し力を込めると、彼女も一層おれを強く引き寄せた。
全身で互いを抱きしめ、一つになる。
静寂の中に、波の寄せる音と、互いの呼吸音だけが響く。
この感じ。なんとなく、なんとなくだが似ているのだ。あの海の中で感じた、身体が溶けるような安心感。
もっともっと彼女に近くなりたくて、思いっきり彼女を抱きしめた。
汗を流すため、海に入る。
二人並んで波に揺られながら満点の星空を見上げる。
「なあ」
「ん?」
ぷかぷかと浮かびながら、おれは口を開いた。
「いわゆる魔族にしては、随分淡白だよな」
「…何を言ってんだ?」
「回数だよ。『吸いつくす』とか聞くけど、お前はそんなことしないよな」
「当たり前だろ?あんたはただでさえ体力を消耗してんだ。それに、インキュバスなんかになったらどうすんだよ」
「あれ?らしくない台詞があったぞ?」
「何だ?インキュバスになって飛んでくつもりか?」
茶化すように、だがどこか責めるように彼女が言う。
おれはそうなった自分を思い描いてみた。翼を広げて飛び立つおれ。お、これはなかなか。
「うーん。それも悪くない脱出法だ」
でもなあ、と思った。
海から遠ざかってしまうし、きっとオルガからも遠ざかってしまう。ふむ、それはなんか嫌だな。
「………帰ってもよ、魔族になってたらきっと肩身狭いぜ」
ぽつりとオルガが言った。
「そうかな」
「そうさ。人間は人間の、あんたはあんたのままが良いよ」
ざぱっと音がして、オルガの顔が空の一部を隠した。
「そうか?」
彼女はにっこり笑ってから、おれのすぐ隣、腕が触れるほどの距離に身体を浮かべた。
「そうさ。…なに、いざとなったらこの島に国でも創ればいいさ」
「どうやって」
「産めよ増やせよ」
「地に満ちよ、か。……あれ、さっきの話と矛盾してないか?」
「へっへっへっへ。蛸は一回にいくつ卵を産むか、知ってるか?」
おれは思い浮かべてみた。彼女が産むたくさんの卵。わらわらと生まれる子供達。うーむ、これは少しばかり不気味だぞ。
ちなみに、あるタコは一度に50もの卵を産むという。少しばかりじゃないな。かなり不気味だ。
「やめてくれよ。てか卵なのか」
「さあな。試してみるか?」
「ここに来てから結構してるじゃないか」
「へっへっへっへ」
「笑いごとか」
でも、オルガの笑い声につられておれも笑った。
大きな、まあるい月が空に浮かんでいた。
淡い光がおれとオルガの笑顔を照らす。
まあ、悪くないな。
釣りをして、探険して、飯を食って、愛しい人と一緒に海に体を浮かべ、波に揺られる。
いつ帰れるか、そもそも帰れるかどうかもわからないが、この生活も悪くない。
彼女がいれば、どんな場所でも悪くない。
この空の下、今だけは、二人きり。
10/07/30 16:53更新 / 八木