町で興味深い噂を聞いた。

　砂漠の薔薇こと、サンドローズは魔物が守る砂漠の洞窟にあるのだそうだ。
　その魔物というのが、ギルダブリル。サソリの化け物だ。
　何の因果か、俺はその化け物に縁があった。

　再び砂漠に出る俺。今度は準備万端。全く変わらぬ風景が続くが、がむしゃらに走った時の感覚を便りに方向を修正する。
　思いの外、件の洞窟はすぐに見付かった。殆んど運が良かったとしか言いようがないだろう。
　さっそく中に入る。外の日差しと違ってひんやりとした空気が汗ばむ首筋を撫でる。


　件の化け物は、すぐに俺の目の前に現れた。
　約一日ぶりに再会した俺の顔を見て、奴は眉を顰める。その目には面倒事が舞い込んできたかのように俺を捉えていた。
「……貴方、何？　昨日の今日に何しに来たの」
「よ、よぉ。こんちは……」
　化け物相手に気弱に挨拶。自分でも滑稽な気分だった。
「普通なら、飛んで火に入る何とやら……とばかりに頂いちゃうんだけれど、今はそんな気分でないから。運がよかったわね。一応の用件は聞いてあげてもいいわよ。……望み通りにいくかどうかは別にして」
　女の上半身がゆっくりと持ち上げられる。俺は正直に言った。
「実はサンドローズって物を探していて。此処にあると聞いたんだけど」
「ええ、あるわよ」
　ギルダブリルはあっさり白状した。
「本当か！　是非良ければ譲ってほしいんだけど……」
　すると、ギルタブリルは俺の顔をじろじろと見詰めてから口を開く。
「……貴方、名前は？」
「は？」
「名前よ、名前」
　若しかしたら魔物に名前を憶えられるのは凄く拙い気がするが、力尽くで手に入れられる腕っ節などない俺にとって、何とか穏便に譲ってもらえるように交渉するしかないのだった。
「アイワース、だ」
「そう、アイワース」
　ギルダブリルは俺の名を口に出して、何度か頷いた。
「私はエボラよ」
　化け物に自己紹介される。
　……宜しく？
　いや、化け物と宜しくやる縁など必要ない。今はサンドローズを手に入れて、依頼を成功させるだけだ。化け物の名前を意識の何処かに刻んで置いておく。続いて確信について問いかける。
「それで、譲ってくれるのか」
「……貴方はそれを手に入れてどうしたいの？」
　なんだか返答を誤魔化された様な気分がしながら答える。
「悪いが仕事で、俺がどうこうしたいって訳じゃないんだ」
　エボラ、ギルダブリルはくすくすと世間知らずの娘のような笑みを浮かべた。
「なら私を殺して奪うつもりなのかしら」
　それが出来てればとっくにやっている。
「ちょっと待て。勘違いだ。俺は譲ってほしいんだって」
「譲ってほしいんなら何か代わりになるものをよこしなさいな」
「代わりって……俺は何も」
「あれは私の物よ。気に入っているものなんだから」
　そう言って艶やかに笑う。だが生憎俺に交換出来る物なんてない。そもそも、魔物相手に「譲って下さい」「いいですよ」というなぁなぁの交渉が通用すると思っていたのが間違いだ。
「だったら、今からちょっと交換出来そうなものを持ってくるよ。出来ればどういうものがいいか教えてくれないか」
「欲しいものだったらもう目星がついてる……」
　熱っぽい視線が向けられた先。
　それは俺の下腹部だった。
「な、なんだよ」
　咄嗟に身動ぐ俺の反応にエボラは大層満足そうに笑う。
「貴方が気に入ったわ」
「……は？」


「アイワース。貴方が気に入った」


　再度そう言うと、エボラはずるずると這い寄ってくる。魔物に目星を付けられた俺の体からは血の気が引いていく。
　成す術も無く後退りばかりしていると、壁に追い込まれた。
「待て。何をする気だ……！」
「ふふふ……」
　エボラは不敵に笑いながら、俺の首筋に這い上がってくる。
　そっと、首筋に舌を這わされる。まるで蛇の様なうねりで俺の冷や汗を掬い取る。そしてその後ろで脅すように針を振り翳す。
「どうしてやろうかしら……毒を注入してすぐにイかせてあげるのもいいのだけど、敢えて毒無しでじっくり甚振ってあげるのもいいわね」
　毒。あの尻尾の針には毒があるのか。サソリの見た目をしている時点で納得は云った。
　それにしても……近付いてきた顔を見て、はっきりと判った。
　認めたくはなかった。けれど、それは確かな事だった。


　　　　此奴は、余りにも妹の姿に似ていた。


「エス、テラ」
「？　だぁれ、それ」
　初めて顔を見せた時から勘付いていた筈だ。それほど、このエボラとかいう魔物はエステラに似ていた。陽に焼かれた肌でさえなければ、似すぎていた。
　顔形、髪の色、瞳の形、体付き。そのどれもが、今も忘れられない、妹の姿と重なった。

　ほろり。涙が頬を流れた。

「　　　ごめん、エステラ」
　気付けば、そんな風に謝っていた。
　化け物は唖然としていた。
「え？」
「ごめん、ごめんよ、エステラ……俺は、俺はっ……！」
「ちょっと、そんな、泣く程の事じゃないでしょっ……？」
　戸惑うエボラを尻目に、俺は地面に崩れ落ちて泣いた。泣き叫んで、今はもういない妹に許しを請い続けた。





――――――――――





　妹が昏睡してから暫くが経った。
　俺は一日たりとも妹の世話を怠った事がない。
　仕事先も順調で、今度昇格する事が決まっている。
　……俺は相変わらず、妹の犠牲の上に毎日を平和に過ごしていた。


　だが、その日常は……幸か不幸か、崩れ去る。


　俺達の町が大火事になったのだ。
　炎が家々を包む。全てが全て、炭になって消えていく。

「　　　殺せ！　この町の人間、全てを！　何人たりとも、此処から生きて出すなッ」

　悲鳴の中に響く、男の声。この町が業火に包まれたのは、事故なんかではない。誰かの悪意だった。
　炎の影で、見慣れない格好をした男達が人々を切り刻んでいる。何処かの軍隊らしい。一般市民が太刀討ち出来よう筈もない。衛兵は何をやっているのだろうか。見ると、期待の対象はすでに肉の塊となって転がっていた。
「……其処に生き残りが居るぞ！」
　見付かった。俺は追い駆けてくる兵士達から逃げ惑う。

　　　　そうだ。妹は……エステラは無事だろうか。

　俺は妹の身を案じ、追い駆けられている立場ながら、自分の家に走った。
　案の定、俺の家は音を立てて燃え上っていた。古い家だ。今にも倒れそう。
「エステラ……！」
　俺は決死の覚悟で中に入り、燃え盛る炎の中で妹の居る部屋に駆け込んだ。
　エステラは炎の中で、眠っていた。パチパチという音の中で、安らかに寝息を立てている。その顔は橙色に輝いていた。
「エステラ！」
　急いで彼女を抱き挙げ、窓から家の外に出ようとする。

　　　　ガシャァンッ。

「！」
　家の戸を、何者かが蹴り破った。
「確かこの家の中に入って行ったな」
「ああ、確かに」

　　　　最悪だ。

　俺はこのままエステラを抱えて逃げようかとも思ったが、このままでは二人とも見付かる。かといって、置いていく事は出来ない。俺は葛藤した。
　ふと、真上からバキンと、不吉な音がした。

　　　　ガシャンッ。

　咄嗟にエステラを置いて、後ろに飛び退く。丁度俺が立っている所に屋根が落ちて来たのだ。
　そしてすぐに後悔する。俺が居る位置は丁度屋根が覆い被さって隠れていられるが、エステラはベッドに寝かされたままだ。
「……おっ、女が寝てやがる」
「ホントだ」
　屋根の隙間から奴等の姿が見える。奴等はエステラに近付き、剣でその服を切り裂いた。エステラの乳房が炎の中に曝される。
「……ホントに寝てやがるみてぇだな」
「くく……いい女じゃねぇか。連れ帰っちまおうぜ」
「馬鹿か。この町の連中は誰一人として生かすなと命令されているだろう」
「だから、このままヤっちまってから殺せばいいじゃねぇか……それなら命令違反にはならねぇ」
　下卑た笑い。妹の危機。
　だが、俺は出ていく事が出来なかった。
　出ていけば、殺される。奴等が持っている剣を見て、恐怖が心を支配した。俺が出て行ってなんになるんだ。そう自分を正当化したのだ。
「じゃあ早速外に連れ出して……」
「　　　何をやっている」
　奴等が妹に手を出そうとしている所に、別の男の声が響く。
　気付かなかった。その漆黒のローブを着る魔術師のような男は、この部屋の入口に立っていたのだ。
「はッ、す、すみませんっ」
「ここはもういい。撤退だ」
「りょ、了解致しました」
　兵士達はその男の言葉でそそくさと此処から立ち去る。残ったその男は、エステラの顔をじっと見詰め、やがて剣を抜いた。

「　　　この女は目覚めない」

「……！」
　男は、言った。
　誰に言ったのだろう。恐らく、俺に言ったのかもしれないが、聞いていると自分に言い訳する様な一人言にも聞こえた。
「意識がずっと体に囚われ続け、魂が何時まで経っても救われない。彼女にとっての救いは、死ぬ事にある」
「……」
「だから、安らかに此処で死ね。せめてあの世で笑ってられるように」
「……！」


　　　　男の剣が、エステラの額に突き立てられた。





――――――――――





「気が付いた？」
　想い瞼を開けた時、其処でエステラが笑い掛けていた。
「　　　！」
　後退り。此奴はエステラなんかじゃない。エボラとか言うギルダブリル、化け物だ。
「行き成り泣き叫んだ後、疲れて寝ちゃうなんて子供みたい……カワイイ♪」
　エボラはくねくねとに悶えて見せた後、好奇心に目を光らせる。
「で、誰に謝って泣いてたの？」
「なっ……か、勘違いするなよ！　別にアンタに謝っていた訳じゃないぞっ」
「判ってるわよ。エステラって子に謝ってたんでしょ。そんなに似てる？　私」
　似ている。何度見ても似ている。
　憎たらしいくらい、愛らしいくらい。認めたくないくらいに、似ている。
「……ところで、貴方が話してた“あれ”なのだけれど」
　話を逸らすかのように、エボラは視線を洞窟の奥に向ける。

　其処には、天から漏れ出した陽をまるでスポットライトのように浴びる、一輪の薔薇が寂しく花開いていた。
　その薔薇は、良く見ると、鮮やかな紅色の花弁など持ち合わせておらず、砂の背景に溶け込んでしまうかと思える程、茎や葉、棘までも黄土色で染まり切っていた。

「“あれ”がお目当てのもので間違いないわね」
　と言われても、俺はサンドローズを見た事がない。本物かどうかなんて判りはしなかった筈だが、なんというか、その佇まいが余りにも神秘的で、偽物だなんて思う余地も無かった。
「ほら、持って行きなさいな」
　唐突にそう告げるエボラ。俺は何かあるのかと勘繰って、すぐに飛び付こうとはしない。
「い、いいのか？　アンタの大切なものなんだろ……？」
「私の気が変わらない内に持って行った方がいいわよ。じゃないと、食べちゃいそうだから……」
　そう言って、舌舐めずり。どうやら、俺に選択の余地はないようだ。
「……ありがとう」
　俺は気前のいいこの魔物に感謝の意を告げ、そっと、サンドローズを地面の砂ごと持ち上げる。指の隙間から細かい砂が毀れ落ちると、サンドローズには根がない事が判った。
「……でもホントにいいのか？　何か返さなくても」
「じゃあ何かしてくれるの？」
　そう言いながらエボラの視線は俺の股間を貫く。俺は途端に背筋が寒くなり、そそくさとエボラに背を向けた。
「じゃ、じゃあ、俺はこれで！　ホントに、ありがとなっ」
　二度目の感謝を告げ、俺は早々に此処から脱出する。エボラの気が変わりなどしたら、きっと俺は悲惨な目に遭うだろう。一刻も早く彼女の目に映らない場所に移動したかった。


―――――


「……いいのか、ですって？」
　あの人が私に問い掛けた言葉を宙に浮かべてみる。
　思わず笑いが漏れた。


「　　　それは、貴方が決める事よ」


―――――


　サンドローズを大事に両手で包み込み、砂漠をひた走る俺。
　これを持って帰れば、依頼が果たせる。暫くは報奨金だけで食い物には困らない。そう思うと、足取りが軽い。なんども往復した結果、砂漠歩きに慣れただけとは考えないようにした。
　走りながら、サンドローズをよくよく観察して見る。どうやら全体が黄土色なのは、完全に砂で出来ているかららしい。微かに触れると砂が少し剥げた。
「おおっと」
　依頼品を粗末に扱ってはならない。俺は好奇心で触れるのを止めた。
　しかし、これは凄い。今自分が踏み締めている広大で不毛な砂の海の片隅で、こんな見事な造形が生じ得るとは。長い年月をかけ、只の砂がこうやって、まるで別世界の薔薇という存在を知っているかのように形作られるとは。しかもそれは全てこの無慈悲な大地が唯一作り出した芸術なのだと思うと、それを手にしている事への感動は一入（ひとしお）ではない。
　世界はまだまだ広いのだと痛感した。


　だがそんな風に感動に浸っていると、不意に胸の奥で何かがちくりと刺さった気がした。
　俺は漠然とした違和感の前に立ち止る。
「……まて、よ　　　？」
　なんだろう。この感動を、何処かで経験した事がある気がする。
　何処だったろう。
　……もしかして、俺はこれを手にしたのは初めてじゃないんじゃないか？
　いや、そんな筈はない。こんなレアアイテムを二度も手にするような人生なんて送って来た覚えがない。
　少なくとも、妹が死んでからは一度も……。　　　ッ！！


「　　　そうだ」
　思い出した。
　俺は、嘗てこのサンドローズを手にした事がある。
　思い出した。
　それは、町が襲撃されるほんの少し前の事だ。


　俺は、エステラをあんな風にした商人が珍品を仕入れたと訊いて、何をトチ狂ったのか、その時盗みに入ったんだ。俺は元々その屋敷の小間使い。忍び込んでどうこうするのなんて簡単だった。
　強盗も盗みもやる根性のなかった俺にとって、その行動は最早正気の沙汰じゃなかった。ささやかな復讐のつもりでも、俺にとっては決死の覚悟だっただろう。
　その時盗みだしたもの。それは、生活に役立てる為の金銀財宝でもなく、商人にとって盗まれては拙い代物でもなく。
　　　　それは只、珍妙な薔薇だった。
　まるで、砂で出来た様な……俺には、よく判らないものだった。


　それを手にした俺は、真っ先にエステラにその珍品を見せに帰った。
　帰るなり眠るエステラの眼前に翳して、「珍しいだろう。これ、砂で出来てるんだぜ」そう言った。
　いつもいつも在り来たりな、其処等辺の花屋で買ってくるような花ばかり飾っていたから、偶には珍しい物でも飾ってみようと思ったんだ。眠っているエステラは目を開けないけれど、喜ぶと思ったんだ。
　……今思えば、純粋にエステラの為に何かを送ったのはあれだけだった。他の花や服なんて物は、全部俺の後ろめたさから送ったものだった。
　エステラが目を覚ました時、一番にこれを見せてやろう。そしたら彼奴、どんな顔をするのかな。そんな事を妄想して、送ったのは、結局あの薔薇だけだった。


「……」
　砂漠の薔薇　　　サンドローズ。
　これは俺にとって、俺の人生にとって、成功を齎す鍵であり、妹にとって、妹と過ごした時間にとって、大切な、俺の想い出の品。

　先に言っておこう。俺は馬鹿だ。
　その所為で今、物凄く後悔している事がある。

「うぐぅっ……えぐっ」
　俺が妹と過ごした時間は確かなものなのだ。
　例え、どういう結末を迎えたって、それが変わる事なんてないのに。
　なのに、俺は後悔だけで、妹との大切な思い出を消し去ろうとしていた。
　彼奴の想い出は、俺にしか守ってやれないのに。
　彼奴の事を想ってやれるのは、俺しかいないのに。


　俺は後悔する事を後悔している。だからもう後悔はしない事にした。
　砂の大地に水溜りが出来る。
　俺は泣き喚きながら、来た道を引き返した。





――――――――――





　あの人は泣きながら戻って来た。
　鼻水をズルズルと吸い、顔をぐしゃぐしゃにしながらも、その手の中には砂漠の薔薇を大事に包み込んでいる。
「エステラ、エステラぁ」
　追憶の彼方に置いてきた、自分の妹の名前を呼んでいる。
「ぐすっ……一言だけ……一言だけ、お前に言いたかったんだ」
　彼は鼻を袖で強くこすり、赤くしながら言った。
「ずっと、ありがとうって、言いたかったんだ。ありがとうって、言いたかったっ」
　……誰の姿も見えない、この洞窟の中で叫んだ。砂漠の薔薇が佇んでいた場所に跪いて、相変わらず情けなく天を仰いで泣く。
「遅くなって、ごめん」
「……」
　遅いなんて事はない。
　だって、貴方は私に出会って直ぐに「ありがとう」と告げてくれた。


　　　　プスッ。


「っあ……ぇ……っ？」

　トク……ビュルッ……。

「あ……」

　彼の首筋に突き立てた針が、ゆっくり、着実に毒を広げていく。

　トクン……トクン……。

　私の毒を。

　ビュル……ドクッ、トクン。

　淫靡な毒を。

　ドクッドクッ……ビュルルッ。

　愛の毒を。


　やがて、彼の全身に私の毒が染み渡り、そのまま私の胸に倒れ込んでくる。泣き腫らした目に宿る光は、もう私しか見えていない。

　彼の鼻水を手で拭ってやりながら、余りの愛らしさについ笑みが零れた。

「もう……だらしないんだから」

　彼を抱き締めながら、私は零れ落ちたサンドローズを手に取る。


　そして、自分の手の中でそっと握り潰した。


　パキンと脆い音を立てると、サンドローズは砂となって地面に注がれる　　　。










「　　　やっぱり、兄さんは私が居ないとダメね」