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前篇 |
昨日降り注いだ煩わしい雨も、今日になっては消え失せて、今じゃお天道様が空を照らしてくれている。そんな迷惑な雨の所為で、この村から出立する筈だった俺の予定は狂わせられたのだ。雨に濡れて野宿する馬鹿が他にいるとも思えない俺は、やせっぽちの財布からなけなしの金を叩き付けてボロ宿で雨を凌ぐ必要があった。お蔭で、今回の目的地での野宿が決定する。
此処は寂れた村だ。取り立てて何もない。田舎っていうのも面白いと思ったが、端から何もする気の起きない俺が、只でさえ何も無い環境に歩みを進めてどうすんだ。 ということで、俺は少しは活気のある方向に行く事にした。別に目的なんかない。俺は只、自分に舞い込むであろう幸運を探して歩いているのだ。 昨日の雨はあの何も無い村だけに、理不尽に降り注いだ訳では無いらしい。この明るい森の、水分を含んでぬかるむ地面や露を乗せて煌く葉。それだけなら別にどうってことはない。だが雨は止んだっていうのに、今更木の葉から落ちてくる露が俺の体を濡らしてくるのにはイラついた。 濡れたくないから雨露を凌ぐのに金を払った。なのに今更濡れてちゃ、全く意味が無い。俺は苛立ちながらぬかるんだ地面を歩く。…また雫が俺の髪に落ちてきやがった。ジジイみたいに枯れた白髪を掻き揚げて、雫を飛ばす。生まれついてから体が白く、髪も目も白い俺は自分が特別な存在だと疑って止まなかった時期があった。まぁ、餓鬼の頃の話だ。今は泣かず飛ばずのどうしようもない野郎さ。 俺は腰に携える金属で作った扇を広げた。故郷からずっと連れ添って来た、謂わば相棒と呼んでもいい物だが、俺は大して愛着は抱いていない。木の下を通りかかるときはそれで降り注ぐ露を凌いでやる。そうやっているってのに、態々的の小さい俺の手に掛かる露もあって、イラッとした。 あるとき、一本道だったのが二つに分かれた。こういう時、分かれ目のところに立て札を立ててあるもんなんだが、俺の周りにそれらしき物はない。俺は思わず掲げていた扇を閉じて、顎を押さえる。 「……チッ、道しるべぐらい立てろよな」 誰も通り過ぎないこんな場所。それでも立て札を立てる立場にあっただろう、見知らぬ誰かに対して、そう悪態を吐く。そういえば最近独り言が多くなってきた。まさか、この俺が人恋しいと思っているのか? はっ。アホらしい。 一人そう自嘲して、両方の道を見比べる。鏡写ししたように対称関係にあるその両方の道を見比べて、何も判りはしない癖に、俺は左の道を注意深く凝視する。そして、思い立ったが閉じた扇を振り上げ……向きなおして、右の道に扇の先を向けるのだ。 「 一人で何をやっているんだろう。と一瞬悲しくなるが、一瞬で忘れる。俺は右の道を進みながら、落ちてくる露に地団太を踏むのだ。 村で一通り次の町への道を訊き、其処に着くまでにどれぐらい太陽が動くかも把握した筈だ。話に寄れば、太陽が真上に来る前には着く……筈。 行けども行けども道は過酷になっていく。あの時素直な一本道に見えた筈のこの道は、とんでもない食わせ者だったのだ。紆余曲折、途中では道さえも無くなって木の隙間を通り抜ける羽目にもなった。ていうか、道が無くなってるなー、と思った時点でこの事に気付くべきだったのだ。 俺は不安や後悔に苛まれ、歩みを落としていた。太陽はもう夕刻を告げている。一番明るかった時刻はとっくに過ぎているのだ。その事が更に俺の足を重くした。 「くぅ〜。まさかこんな地面で野宿は勘弁だぞ……」 只でさえ足が重くなっているというのに、このぬかるんだ地面は更に俺の足を掴んでくる。若干、掴む強さも厳しくなってきているのは気の所為だろうか。 「まぁ、魔物に襲われないだけまだマシか」 そうだ。この場所は正しく魔物が出かねない場所なのだ。だからこそさっさと通り抜けたかったのだ。俺は、一応冒険者と名乗ってはいるが、初心者向けのダンジョンにすら入った事は無い。実戦経験はなくもないが、魔物とやりあった事は一度も無い。俺の運は良くなるのか、これから悪くなるのか……。どちらにせよ、俺はもう既に不幸の予兆を感じ取っていた。 くそっ。これも全部、道に立て札を立てなかった奴の所為だ! 俺は魔物との遭遇に焦るばかりで、足を働かせることはなかった。 やがて性悪な道は素直に真直ぐになった。俺は先が見える喜びのまま少しだけ歩くスピードを速める。考えてみれば、俺も馬鹿だ。道を間違えているのに、その先に目的地である町がある保障は無い。だがこの時の俺は取り敢えず今日中に町に入りたいと思っていたのだ。 だがそんな時。 「はぁっ、はぁっ ガサァッ 「 突如俺の前の茂みから、一人の女の子が飛び出してきたのだ。俺は不意打ちに驚いて飛び下がった。その時、独り言をいう癖が付いていた俺は情け無い悲鳴を、思わず挙げてしまった。恥ずかしすぎる。 だが俺が安心するのは、突然俺をドッキリに填めた少女が赤い顔で目の前にへたり込んだのを見てからだ。どうやら体調が悪く、俺のリアクションを見る暇はなかったらしい。 「はぁっ、あぅ 矢鱈艶っぽい声を挙げて、まるで自分が愛しいかのように強く肩を抱き締めている。誰が見るからにして、確実にやばそうだな。だが敢えて俺はへたり込む少女を視界に入れぬままその横を通り過ぎようとする。 ガシッ その途端、腕が掴まれる。それに気付いた瞬間、凄まじい力で後ろに引き倒されたのだ。 「 バシャンッ 飛び散った泥が俺の顔に掛かる。そしてじわじわと服に冷たい感触が染み込んでいく…折角汚れないように、濡れないように注意してきた俺に対する仕打ちでは無いと、起き上がりしな、怒りに顔が熱くなりながら、引き倒しただろう少女を睨み付ける。だが彼女の顔を見た瞬間、怒りを忘れて暫し見入ってしまったのだ。 彼女の顔は赤くなっている。だがキチンと見てみれば小さく整った顔にツンとした目元、眉も凛としていて、長い金髪 そんな彼女は相変わらず荒い息遣いのまま、彼女の容姿に見入ってしまっている俺にこう言うのだ。 「 どういうこともそういうことも、そっとしておいてあげた方がいいかなぁ、という親切に基づくものだ。そう言ってやろうと口を開くのだが。 「そりゃぁ 「 ゴスッ 「ふごっ!?」 途端俺が何か言おうとするのを察して、泥に塗れた靴で、俺の顎を蹴り上げたのだ。話そうとしていた所で蹴り上げられては、舌を噛まずには居られない。俺は激痛に悶え、地面を這い蹲る。それなのに彼女はこんなことを言うのだ。 「 「〜〜っ!? アンタが引き止めたんだろうがっ」 顎を押さえながら彼女を見る。素通りするなと言ったり、消えろと言ったり……なんなんだ、チキショー。 かといって彼女にそんな事言う気にはならず、さっさと立ち上がってお暇することに。だがそんな俺を見て、彼女は驚いて声を挙げる。 「あ……っ」 その一音で何か感じ取れた俺は彼女を本能的に見下ろす。彼女の真っ赤な顔に付いているツンとした目は、何時の間にか垂れてうっすら涙のようなものが見える。守ってやりたいという母性本能をくすぐられる子犬のような目だ。俺は騙されないように視線を進むべき道に逸らす。 「……なんだ。なんか用か?」 すると彼女の方も視線を逸らす。 「うるっさい! 馴れ馴れしく近寄るなっ」 流石に汚物のような扱いは我慢ならない。俺は再度彼女に向いて、こう言い返す。 「はぁ? さっきから、なんなんだ、アンタ。人を引き倒しておいて、消えろだの、近寄るなだの。言われなくても素通りしてんだろうが、こっちは!」 「なんで素通りなんだっ。なんか思う事ないか!? 人でなしめ!」 「アンタの知るところじゃねぇだろ」 「ていうか、いいから消えろ! さっさとどっか行けっ、この色情狂っ!!」 最後に森の中にそう木霊する声を挙げられて、俺も次の言葉も出なくなった。心の中に言い知れようなく、もやもやしたものが出来上がっていく。俺は一つ舌打ちして、さっさとこんな女は放って置いて先に進む事にした。 余計な時間を食った所為で、とうとう太陽は見えないところまで降りてしまっていた。 全く。なんて理不尽な目にあったんだ、俺は。全く、これもあの道に立て札を立てなかった奴の所為だ。飽くまでも自分の選択ミスは認めないのが俺クオリティ。それにしても、あの女に引き倒された所為で泥に塗れたこの背中が気持ち悪い……。俺は足取り重いままに溜息を吐いた。 ザッ 「………」 そんな俺の目の前には、もう道は無かった。正確に言うと、目の前が深い渓谷だったのだ。一陣の風が吹き上げ、俺の白い髪を無断で掠める。 ヒュオォォ…… 「………」 独り言も出ない。下を覗きこんでみると、遥か下の方に急な流れが見える。落ちたら…なんて、縁起でもないことを考える訳だが、実際これを渡ることは不可能だ。唯一の手段だったらしい橋は、此方と対岸に残骸だけ残っている。勿論、繋がっちゃいない。 空でも飛べたら別なんだろうが、生憎そんな芸当は学のない俺には出来ない。さて、どうしたものかと扇を畳んで顎を押さえる俺。そんな折、腹の虫が泣くのだ。 グゥゥ〜 「………」 頭の中が食い物で一杯になる。そういえば朝から何も食ってない。そんな俺は、すっかり食欲の虜となって、周りに対しての警戒が疎かだったのだ。 「……ん?」 ふと風が渓谷から吹き上げてくる。その風が何か知らせてくれたのか、俺はふと後ろを見返す。 「 まるでお互いの息が届くかのような距離。今までその気配に気付かなかった俺は思わず飛び下がる。だが忘れていたのは、すぐ後ろには深い渓谷があると言う事。俺はその淵に立ち、ヒヤッとした。 「ととと……っ!? ……な、なんだよ?」 そう問い掛ける。消えろといった癖に付いて来たのかと思うとイラつかない訳ではなかったが、こんな美人が俺の後を付いて来たというところだけ考えると、悪い気分ではない。だが、彼女の目は何処か虚ろで、俺の方を貫くように見詰めていたのだった。 「……?」 悪い病気か、と思いながら彼女をよく観察してみる。赤い顔の横には尖った耳があり、その背には弓が携えられ、人間が着る物とは思えぬ葉などの自然物を繋ぎ合わせたような衣服 「ア……アンタ。エルフだったのか」 気付くのが遅すぎたと自分でも感じる。だが、だからといってどうってことはない。魔物の一種として認識しているが、純粋に彼女の美しさを前に戦意を見せることはない。只考えるとすれば、彼女の今の状態だ。魔物について学のない俺は、戸惑いながら身構えるばかりだった。 「 「!? お、おいっ!?」 そんな彼女は力なく、俺に向かってくる。予想だにしない彼女の暴挙に、俺は当然焦った。只でさえ、自分は崖っぷちに立っているのだ。今ぶつかられたら、バランスの取り様が無い。何とか躱しても、彼女が落ちるのを阻止は出来ない。躱して、腕を取って、引っ張る。まともな立ち位置ならなんてことは無いが、今はお互い助かりようがなさそうだ。 「くぅ……っ」 俺は迫り来る彼女に対峙して、最善の方法を考えたかった。だが、一度染み付いた煩悩はそう易々と離れてはくれない。食欲にしろ、目の前の女にしろ。……いや、腹が減ったと一瞬考えたのは確かだが、あとの煩悩は全て、目の前の美女を受け止めたい、という餓鬼の抱くレベルの下心だった。 ダンッ ……これも、あの道に立て札を立てなかった奴の所為だ。俺は煩悩が切り離せないうちに彼女と衝突し、仲良く谷底に自由落下するのだった…… 虚ろな意識の中、水の流れる音が聞こえてくる。体が重い。どうやら生きては居るらしい。俺はだるい瞼を持ち上げる。 「 「あ……」 目の前に何故かあった少女の目と鉢合わせる。お互い、驚いてしまってまるで時間が止まったかのようだった。だが、痺れるようなこの刹那は、突然の頬に走る痛みと軽快な音で終わりを告げた。 「 パチィンッ 「おほっ!?」 靄が掛かっていた意識が一瞬で目覚める。俺は張られた頬を押さえ、急に俺から距離をとるエルフの少女に顔を向けて飛び起きた。 「っ……!? きゅ、急に何しやがるっ!?」 すると彼女は酷く取り乱した様子で俺を見据えながら、胸に手を置いてまだ息を荒げていた。 「はぁっ! はぁっ! 「はぁ?」 「きゅ、急に目を開けたりするから、反射的に殴られるのだ!」 「……つくづく理不尽だな、アンタ……」 思わず呆れてしまう。まぁ、驚いたのはお互い様だが。 「 体を動かそうと足に力を入れると、痛みが走る。流石にあの高さから落ちておいて、無傷では済まなかったか。 其処で冷静に周りを見回してみると、どうやら俺達は仲良く川を流れて、下流の浅いところに流れ着いたってトコらしい。道理で体が重いと思った。服がすっかり水を吸い取って重くなってしまっているのだ。見てみると、目の前で俺を警戒色の目で見詰める彼女の服も水が滴っているし、髪もすっかり濡れて地肌に張り付いている。石の地面に座り込んでいるその姿は、そのままの意味で、水も滴る…といったところか。思わず、濡れた彼女の服から覗く、スラリと伸びて折りたたまれた下半身…殆んど股下を隠す程度の長さに仕立てられている、特に濡れたスカートの辺りに目が行ってしまい、思わず目を逸らす。 「!? き、貴様、何処を見てる!?」 そう喚いて、足を閉じる。残念なことに何も見えちゃ居ないが、妙な罪悪感を憶えた俺は、思わず謝る。 「わ、悪いっ」 「く……っ! 救いようのない下種め! わ、私を辱めた罰、死を持って償え!」 そう喚いて立ち上がり、背に負う弓を手に持って、矢を番える。 え? 何? 俺に向けてんの? それ。……え? ギャグ? 「ちょっと待て! 俺は何も見てない! ちょっとした事故だ、事故!」 痛みの走るこの足と、重くなった体、そして背後には自分達が流れてきた川がある。今此処で弓矢を躱せるような距離を取ることは出来ない。必死にそう訴えかけるが、彼女の目には殺意の炎が燃えていた。 「五月蠅い! そもそも、人間如きが私の体に触ることすら汚らわしい! 身の程を知れ!」 「いや、自分からは一度も触ってねぇけど!? 触ったとすれば、全部アンタの方からのアプローチだぜっ!?」 「口答えを許した覚えは無い!!」 「何処まで理不尽なんだ、アンタ!?」 どうやら今までの問答は無駄だったらしい。女の怒りの炎は燃え上がる一方、顔が紅潮していっているのが可愛らしいと、こんな状況で思ってしまう自分が居た。 「 「今詫びちゃ駄目!? てか地獄でどう詫びろと!? 後、俺は色情狂じゃ 怒涛の回収を見せるツッコミの最中、弓の弦が空気を切る音が耳を切る。俺は思わず目を閉じた。だが、俺の体には何ら貫く感覚は無い。 ……まさか、この至近距離で外すことはないだろう。 「く、運が良かったな」 外したのかよ。俺はなんとも言えずに目を開ける。俺を狙った筈の矢を探してみると、何故か知らないが、後ろで流れる川の中央辺りに浮かぶ丸い岩に刺さっていた。 「ふ、ふふふ……。まぁ、無駄に長生きさせるのも残酷だろう。私は寛大だ。直ぐに貴様のしょうもない人生を終わらせてやる」 「何の根拠で人の人生つまらないと思った!? あと寛大っていうなら、ちょっと見たぐらい許してくれないかな!?」 「!! や、矢張り……見たのかっ!?」 「見てねぇーっ!!」 そして彼女の弓に第二弾が番われる。あ、駄目だ。なんかもうどうでもよくなってきた。思えば、この理不尽女の言う通り、俺の人生はしょうもなかったかもしれない。一発当てるとか言いながらも、結局今まで遺跡に入ったこともねぇ。一発当てるなら当てるで、努力もくそもせずに、幸運の方から舞い降りてくると粋がって、色んなところを渡り歩いて来た訳だが、今の今まで恵まれたことはねぇ。 しょうもない ああ、俺、死ぬんだ。そう思うと、今からでも人生やり直したいと思えた。だけど、其れも適わない望みなんだな。俺はゆっくりと瞼を閉じて、その時を待った。 「 ……其処まで言わんでも。最後の最後にそんな事を考えながら、俺は弓の弦が空気を裂く音を聞いた。 今度は傍で矢の突き刺さる音が聞こえた。成程、致命傷を捉えた一撃は痛みも感じないと言う訳か。 ……じゃない! 俺は目を開ける。思ったとおり、俺の体には矢も何も刺さっていない。じゃあ何処へ?見回してみると、矢は俺と彼女を挟んだ丁度真ん中辺りの地面に刺さっていた。 「………」 「………」 「……ふ、ふん! い、命拾いしたな。つ、次こそは……当てる……っ」 凄い動揺が此方に伝わってくる。え? マジ? アンタとの距離、5メートル程よ? え? ギャグ? 今度は矢の軌道を目に焼き付けようと括目して彼女を見る。流石に弓を得意とするだけあって、エルフの弓の構えは見事だ。彼女の狙いも寸分違わず俺を狙い済ましている。…どうやらさっきの二回は非常に稀な失敗だったようだ。そうだよな。まさか、弓背負っておいて、下手糞な訳が……。 ピシュン ドスッ 倉皇考えている内に彼女の弓から矢が放たれる。そして、何故かは知らないが、その矢は天高く舞い上がり、そして俺の目の前の地面に刺さった。 「………」 「………」 「……え? ギャグ?」 沈黙に耐えかねて出た言葉。彼女は其れを聞くと、顔を真っ赤にして弓を俺に向かって放り投げた。その弓は見事に俺の額を打ち抜くのだった。 ボコッ 「のほぉっ!?」 「何がギャグだっ。誰がひょうきん者だ!? 貴様の顔の方がちゃんちゃらおかしいわっ」 突然壊れたように喚き散らすエルフの女。俺は呆気に取られながらも、彼女の台詞に返す言葉を伝える。 「人を捕まえておいてよく言えるな、チキショー」 なんつー理不尽な。考えてみたら、この女が元々俺に絡んで来たんだ。その所為で俺は泥塗れになったり、崖から落ちたり、びしょ濡れになったり、足を怪我したのだ。 俺はいい加減うんざりしてきたので、痛む足を手で撫ぜる。どうやら折れてはいないらしい。多分、流されているうちに何処かに打ち付けたのだろう。俺は一通り患部を手で揉み解してから立ち上がる。彼女の方をチラリと見てみると、泣きそうな目で此方を睨んでいる。 「………」 ずっと見てきている。見返しはしないが、肌で判る。鬱陶しいぐらい視線を感じる。だが俺は敢えて其処は無視して立ち去るのだ。 ……彼女の視線はそんな俺を責めるように向けられているのだった。 崖から落ちたのは災難だったが、服の泥は粗方落ちていたのは幸いだった。これなら前みたく、宿に泊まる際嫌な顔をされずに済む。……って、野宿が決定してたっけな。財布の関係で。はぁ、全く、なんなんだか……。 そんな事を考えながら、すっかり暗くなってしまった道を歩く。もう空には月が上っている。地面も乾いて、俺の足を取ることは無い。だが、俺は午前中とは違う理由でイラついていた。 「……(コソコソ)」 「………」 ガサガサッ 「……っ」 「! くしゅんっ。あ……っ!?」 「……(イライラ)」 「……(コソコソ)」 俺は足元に転がる石を拾う。 「……(コソッ)」 「――隠れるならちゃんと隠れろぉぉっ!!」 ガツンッ 「痛っ!」 急に振り返ってやって、石を投げつけてやる。俺の目論見どおり、茂みに隠れていたあの理不尽女の額を打ち抜いて、正体を暴いてやった。エルフの女は額を痛そうに擦りながら、俺に向かって「やるじゃないか」みたいな不敵な笑みを見せてくる。 「……ふ。人間にしてはなかなか勘の鋭い奴だ。及第点……といったところか。どうやら只の発情しっ放しの野良犬ではないようだ」 「え? お前、何言ってんの?」 此奴馬鹿なんじゃないのか、と疑い始めたところで、エルフの女は茂みから出てきて俺の前に立つのだった。 「その腕を見込んで頼みがあるんだが」 「どの腕を見込んだんだよ。まさかあのバレバレの尾行に気付いた所とかか。だったらアンタ、絶対悪い病気だ。特に頭の」 病気といえばこの女、さっき崖に落ちる前、なんだか様子が変だったな。いや、今も充分変だが。 そんな失礼なことを考えていると、この女は可笑しそうに笑うのだ。 「フフフ。人間、貴様、なかなか変わった奴だな」 絶対アンタに言われたくなかった台詞だ。俺は溜息を吐きながら、尋ねた。 「はぁ……。で? アンタみたいなエルフ様が、こんなしょうもない人間に、一体全体何の用なんだよ?」 すると彼女は突然足を閉じ、腕を後ろに回してもじもじとし始めた。改めて顔を見てみると、丁度人間の女性で言う十五、六程の見た目だ。背格好だって、俺より一回り小さい。今まで理不尽な扱いを受けていたから“この女”と思っていたが、案外可愛らしい少女なんだと認識を改めた瞬間だった。 「……少々、言い辛い話なんだが」 「じゃあ聞かないでおこう。んじゃ」 「待てっ。本気で困っているんだ! 助けて欲しい!」 確かに必死な顔で俺を引き止める少女。厄介事は勘弁して欲しい所なんだが。 「……で、なんなんだ。その、困ってる事? ……は」 今度は少女も意を決したようにこう語る。余談だが、俺はこの瞬間が一番可愛いと思えた。 「知っているか? エルフの掟を」 「悪いけど、知ってる訳ないだろ、そんなの。俺にエルフの知り合いが居ると思うのか?」 「なら説明するまでだ。……実は魔王の影響で、エルフにもサキュバス化が広がっていてな。サキュバス化の影響が見られた者は、即刻里を追われることになるんだ」 其れを聞いて、俺はなんとも思わなかった。エルフ達が何を感じて、何を考えてその行動に到るのか。そんなことすら興味に湧かない。俺の態度を見てなのか、少し戸惑うような、焦るような、そんな態度を見せる彼女は語る。 「わ、私も先ほど追われたばかりなんだ! 急に体が熱くなって……なんだか、人間の男のことしか考えられなくなって……ずっと誤魔化してきたが、それがばれて……それで……結局、私も追われてしまったのだ」 最後は何処か諦めたような口調で語った。話は終わりかと視線を逸らすと、急に少女は続きを語り出す。 「……私は、嫌なんだ! サキュバスみたいな、淫乱で節操無しな、薄汚い女に成りたくない! 魔王なんて……!」 そう言って肩を抱いて、涙を地面に落とす。俺にはそれが、昨日の雨の残した露と同じようには思えなかった。 思い出せば、この子を素通りしようとしたのは単に厄介ごとに巻き込まれたくないとかいう理由じゃない。手を差し伸べて…払い除けられるのが怖かったからだ。余計なお世話だって、罵られたくなかったからだ。 俺は昔から人に優しく振舞うのが苦手で、それを伝えるのも苦手だった。だから、誰かに優しくしてやる事何か、俺には無理だって諦めていたんだ。その所為で、どれだけの後悔を積み重ねてきたかも忘れ、終いにはこんな自堕落でしょうもない人間に成り下がったのだ。 泣いているこの子は、今は俺を見ていない。俺は、今なら走ってこの子から逃げられる。厄介事に巻き込まれないで済むのだ。なのに、俺には出来なかった。理由をつけるなら、足が痛くなったのだ。知らない場所で打った足が、ズキズキと痛むのだ。 「 突飛な提案には驚きを隠せなかった。だが、今の話の流れなら、充分考えられる結論でもあっただろう。彼女の宝石のように輝く瞳が俺だけを向いている。…俺は、思わず頷いてしまった。 「! 本当か? 良かった、里から外に出たことが無くて、心 嬉しそうに笑いながら、そんな事を言う少女。俺は頷いた後、自分に驚いていたのだが、まぁいいかと鼻から息を漏らす。だが正直、見ず知らずの男にそんな話を切り出して、何もされないと思ったのだろうか? 俺は妙な気など起こさないが、この少女はかなり世間知らずらしい。 「……で?」 「ん? なんだ?」 「名前。お互い、種族名じゃ締まらないだろ?」 するとこの女は目を細めて俺にこう言うのだ。 「私の名を知りたいのなら……き、貴様から名乗ったらどうだ? 駄犬め」 「………」 俺、アンタの願いを聞き届けた立場……だよな? 何、この扱い。 「……俺は……バルロイ」 「バルロイ 彼女は俺の名前を唇でなぞる様に反復してから、急に馬鹿にしたような笑みを見せる。 「……ふん、貴様にお似合いの、野蛮な響きだな。流石色情狂なだけある。色情狂のサラダブレッドだな」 「……人の名前聞いて、その感想は無いだろ。後サラダブレッドじゃなくて、サラブレッドな。何、その美味しそうな野菜パン」 偽名だし。本当の名前はエルロイ=バルフォッフだが、エルロイって名前は餓鬼の頃から脱字法によりエロイって馬鹿にされていたからな。(ていうか、エルロイって名乗ったら余計なんか言われそう。)一人旅しているとなると、好きな名前で名乗ればいいと思って使い始めた偽名なのだ。と言っても、特に思い入れもない名だが。 「で? アンタの名前は?」 流石にアンタも名乗れよな、と思いながら尋ねてみると、案外素直に答える。 「私? 私は、チェルニーだ」 「チェルニー? ……なんだ、思ったより可愛い名前じゃないか」 「黙れ、ヘタレ」 なんで!? 褒めたんじゃないか! この俺が、珍しく……!! なんか、今から此奴の願いに頷いたのを後悔してきた。 だがチェルニーはそう言った傍から落ち着かない様子でこう口早に言い捨てるのだった。 「ま、まぁ……だが、その……そう褒められると、な……」 「……え? ギャグ?」 次の瞬間、意識がぶれ掛ける程の強烈な蹴りが俺の顎を捉えるのだった。 私は偶々出遭った人間の男と共に行動することになった。老人のような白髪を持つ、エルフにも勝るような真っ白な肌。そして、適度に引き締まった体……は、外見からは窺い知れないが、眠っている間に興味本位で色々と触っていて気付いた。細い体ではあるが、この男の筋肉の付き方は、きっと名のある冒険家なのだろう。私はそう思ってこの提案を持ちかけたつもりだったのだが……。 「……え?」 私は人間の住む町の酒場で、コップ一杯の水を手に聞き返す。前の席に座るこの人間、バルロイは、平気な顔をして酒を一口飲んだ。 「だから、俺は冒険家でも傭兵でもないって。まぁ、表面上、冒険者ってことにしてるけど」 「……じゃあ、何なんだ」 それを尋ねるとこの男は少し考えてから答える。 「……ハンサムなプー」 バシャ 「おわっ!? て、てめ……!?」 思わず手に持った水がこの馬鹿の顔に跳んで行ってしまった。奴は怒りを示すが、私は散々な気持ちになって机に伏せるのだった。 「はぁぁ……。よりによってこんな、本気でどうしようもない、救いようすら爪の垢にも見当たらないような価値の無い、役立たずのクズに、私は命運を預けるのか……」 「……あの、考えていることが全部駄々漏れなんですが?」 「出てようが構うものか。里から追い出されて右も左も判らぬ私は、偶々見掛けた外の世界の人間に助けられるなんて運がいいと思っていたのだ。里から追い出された他のエルフ達は、風の便りに寄れば、人間に捕まって、言うも憚ることになるそうではないか」 「まぁ、そうだなぁ」 この男は水をかけられた怒りも忘れたのか、私の話を聞くと席に着く。まぁ、先程濡れたばかりだし、然程違いは無いかも知れん。私は、騒がしい喧騒の中、それでと尋ねる。 「で、貴様は何処に行こうとしていたのだ?」 すると人間は視線を泳がせる。 「幸運を掴みにふらふらと、風の吹くままに」 「……正気で言うか……? どうやらお前は冗談抜きでウジ虫以下なんだな」 「ほ、本気だって! ……只、今まで泣かず飛ばずだっただけだけど」 「今まで? まるでこれからは違うみたいな口ぶりだな」 甘ったれた考えのこの男をあざ笑って言う。だってこの男はなんの努力も見返りにせず、成功だけを手に入れようと画策している。どうみても、人間達の中でも最底辺に転がる類だ。改めてそう思うと、自分の目が当てにならないことに頭を抑える。 「全く、口の減らない女だなぁ。そりゃ、先の事は判らないけどな。ずっと鳴かず飛ばずかもしれない。けど、違うかもよ?」 そう言って笑う。そんな此奴の顔は、見られたものではない。……いや、別に此奴の顔が気に入らない、という訳ではない。只、なんというか、見たくないのだ。私は視線を逸らしてこう言い返す。 「……女ではない。チェルニーだ」 「口の減らないチェルニーだ」 「なんか知らんがムカツクな、それ」 そう言うと、男は鼻で笑い飛ばして視線を他のところに向ける。私はどうしようもなくその何気ない仕草が鼻に突いたが、私も負けじと視線を逸らす。薄汚く愚かな人間どもが軒を連ねてがやがやと騒音を放っている。はた迷惑な生き物だとつくづく思う。なぜ魔王が此奴等の方に手を加えなかったのか不思議だ。 「……で、どうすんだよ」 此方に目線を向けないままにこの男は尋ねる。私はちらりと此奴の様子を見て、視線を外す。 「……何がだ」 「サキュバス化を止めたいんだろ。何か手段とか、一先ずの目的とか……何か無い訳?」 「………」 その質問に私は答えられない。何故なら私は里の外に出たことがなければ、サキュバス化に関する知識も無い。何か切っ掛けだけでも教えてくれればいいのにと、心中で嘗ての仲間達に不満を述べてみるが、考えてみれば里の連中もまるで私を知らない何かのように追い出したのだ。この現象について何も判っていない彼女達からヒントをもらうことなどなかった。だがそんな彼らでも、知っている言葉は一つだけあったのだ。 「……ま 「言っとくが、魔王に会う……なんて、馬鹿みたいなこというなよな。どんな顔して何処に居るのかすら判らない相手を探すなんて、流石に計画性も何もないぜ」 「……貴様の口から計画性という言葉を聞くとはな」 そう言ってやるとこの男は苦笑いで返す。 「うわっ。厳しい……。確かに努力もせずに成功しようとしている俺なんかには無縁か」 「! なんだ、自覚しているのか」 それには驚きだった。少なくとも、こういう人種は自分の汚い、あるいは認めたくない低脳さを隠して、埋めてしまうものだからだ。気付いていながらもそう自嘲するこの男には、思ったよりまだ救いが残されているようだ。 「ああ。アンタにしょうもないって言われてからな」 「流石私だな。一目見た相手のしょうもなさを見抜くとは」 「……アンタは俺の事が嫌いなのか?」 そう問われて、戸惑った自分が居た。その瞬間、奴の目が私に向いていると気付いたのだ。考えてみれば、サキュバス化の発作で襲い掛けた相手ではあるが、必死に耐えた。襲い掛けたから、好き……ということにはならない筈だ。うん、多分、そう思う事があるとすれば、サキュバス化の発作だ。そうに違いない。そして私は人間が嫌いだ。そして此奴は人間だ。つまり、私は此奴が嫌いなのだ。そんな方程式を頭の中で繋げて、私は私を戸惑わせたこの問いの答えを導き出す。 「……嫌いだぞ。ウジ虫」 「うわ……、ズバッと言ったな。逆に清々しいぞ」 「………」 そういえば、この男、私に余り嫌な感情を抱いてはいなさそうだ。私は嫌な感情をそのまま引き合いに出しているつもりなのだが、なんとも思わないのだろうか?まぁ、そんな疑問なぞ抱く意味は無いか。なにせ、私はこの男が“嫌い”なのだ。嫌いな相手に何を遠慮する必要がある。 そんな事より、私は即刻この場所から立ち去りたかった。人間共の五月蠅い鳴き声もそうだが、私の方を一々見てくる輩にはうんざりしていたのだ。その中には目を奪われたかのようにずっと見詰めてくる奴も居る。チラリと確認したが、目の前の馬鹿とは違う意味で見られない顔をしていた。 「それより、早く出ないか? 此処は人間臭くて落ち着かん」 「そうか」 私の提案にすんなりと従って椅子を引く。私は一々この男の行動が気になってきているのに気付く。その目線の先や、手の動き、僅かな立ち位置にも。思わず目を逸らし、さっさと出口へと歩みを進める。 ドンッ 「! おっと、ねえちゃん」 そんな時、私の前に急に立ち塞がった人間に頭がぶつかる。私の倍はある人間の男。剥き出しにした体には黒く汚い虫が湧き出していた。私は嫌悪に表情を歪めた。今のは明らかに人間の方から私にぶつかってきたのだ。 「人にぶつかっといて、挨拶もねぇのか? あん?」 まるで木の幹のような指で私の顎を掴んで持ち上げてくる。目の前に下げられた顔は何処までも醜悪で、酷い臭いがした。 「……薄汚い人間如きが私に許可無く触れるなど、驕りも過ぎたものだな」 「ああ?」 顔を歪めて聞き返す男。私はその手を払い除けて、睨み上げる。 「矢張り下等な生物は人の話を一度では聞き取れないらしいな」 するとこの人間の男は私を上からこうせせら笑うのだった。 「……ねえちゃん、あんまぁ、人を馬鹿にしてると、痛い目に遭うぞ?」 「うん?」 「ねえちゃんみたいなエルフは、最初はそうやって俺らを見下すんだ。だけど、いい具合に甚振ってやると……そんなプライドも砕け散る。俺はエルフには拘る方でねぇ。アンタみたいにツンツンしたのが、段々墜ちて行くっていうのがいいんだよ。俺はそれでいつも 「黙れ、クズ」 私は思わず話の最後にまで耳を傾けることなく、背に負った弓をこの男の顎に向ける。周りの人間共が待っていたとばかりに騒ぎ出す。この至近距離、いや、零距離では何時かのように外すことは無い。だがこの男はそれでも私を嫌な顔で見下ろすのだった。 「おうおう、物騒だねぇ」 「生憎だが、貴様の顔は見ているに耐えない。潰されたくなければ消え失せろ」 「へぇ」 ガッ そう語ると、男は急に矢を引く私の腕を掴んだのだ。周りから歓声が上がる。私はこの時後悔した。弓というのは、当然の事だが、遠距離に向く武器だ。至近距離、ましてや零距離なんかではその良さも生かせない。そして今、片手を取られた私は、矢を居る事も儘ならなくなった。 「くっ、離せっ」 「へぇ? 俺の顔が気に入らないんだろ? 潰せよ、ほら」 そう言って顔を近付けてくる。吐く息が一々臭い。私は目に涙が溜まっていくのを憶えた。 「く、そ」 私は思わず後ろを見る。其処にはあの男が呆然と突っ立っていたのだ。私は……何の期待を持ったのか、奴の方に余った手を伸ばしたのだ。思いっきり、伸ばせるまで、体一杯に、彼に手を届けようとしたのだ。 だが目の前の人間が私を引っ張り戻し、それは叶わない。するとこの目の前の人間は舌を伸ばして私に迫る。 「残念ながら、お連れのモヤシ君はビビッて助けに来てくれないよう。なんて薄情なんだろうねぇ」 「く……汚い顔を近付けるな」 そう言うと、この人間は私の頬を張る。痛みに頭が揺れた。 パシィンッ 「あう!?」 「……け、いい気になんなよ、この阿婆擦れがっ!!」 そんな大声に周りからは口笛が吹かれる。なんて汚いところだろうか、此処は。何処を見渡してもウジ虫ばかり……そう、何奴も此奴も、ウジ虫だったのだ。私はそれに気が付かなかった不甲斐なさやら悔しさやらで、遂に一筋の雫をこの穢れた場所に落としたのだった。 「 穢れた喧騒の中、奴の声が聞こえてくる。私は後ろを向く。この醜悪なウジの集団の中、一人だけ場違いに見える、白い髪に白い肌のウジ、いや、人間が立っていた。他でもない……彼奴だった。 「ああ? なんだい、モヤシ君。ママのおっぱいでも恋しくなったかい?」 ウジ虫の一言で周りの連中が馬鹿みたいにはしゃぎ出す。下種だ。本当に。何奴も此奴も。 でもそんな中、奴は静かに懐から大きめの扇を出す。両側の二枚だけ赤い塗りの施された金属製の扇だ。其れを広げて、不敵に口元を隠してみせる。その立ち居振る舞いは、このふきだめの中では異様で……認めたくは無いが……多分…… 「ギャハハ、なんだ!? お遊戯でも始める気か!?」 そうやって大笑いする観衆。だが、奴は一歩も引く気配無く、私を捉えている男を睨み上げる。その目は、出遭って僅かの間でも見せたことの無い気迫に溢れていた。 「……アンタ、冒険者か? 傭兵か?」 何故かは知らないが、そう尋ねる彼奴。 「あ? お、俺は傭兵だけどよ?」 「嘘だな。俺と同じ臭いがする。どうしようもないクズの臭いだ。 広げた扇を優雅に掲げ、下を向かせる。一体何を始めるつもりなんだ…此奴。 「ああん!? テメェにクズやらウジやら呼ばれる筋合いねぇんだよ! 殺すぞ!?」 「クズだろ? 此処に居る奴等全員。なんでアンタだけ例に漏れない訳?」 「はぁ!?」 ガタリ、と音を立てて立ち上がる他の連中。私は理解できなかった。敢えてこんな場面で敵を作る此奴に。 だが奴は笑んでいた。不気味に。美しく。 「……こんな寂れたところで下らない話をしてよお。しょぼい金でしょぼい酒かっくらってるのは何でだ? ……まさか判ってない訳じゃないよなぁ。上手く行かない自分の人生、他人の所為にして、酒で誤魔化すために此処に居るんだろうが。クズじゃなきゃ、今頃上等な酒飲んでいい女抱いてベッドの中さ」 ガタガタッ 更に立ち上がる連中が増えた。本当にいい加減にしてくれ。私の事はいいから、逃げてくれと、私は思った。でも、今この事を奴に叫べば……きっとこの先を見られなくなる。奴の綺麗な姿が見られなくなる。だから声を挙げられずに、奴の姿を目に焼き付けるしかできなかったのだ。 「テメェ、さっきからうるせぇんだよ! 黙りやがれ!」 「誰がクズだとコラァ!? 調子乗ってんじゃねぇぞ!?」 「 「ああ!?」 「クズ共は直ぐに剣を抜く。ウジ共は喚き散らす。その両方を満たしているアンタ等は、本当に ドタドタドタッ どうやら最後の“可哀相”が決め手のようだ。立ち上がって剣を抜いていた人間達が一斉に酒場の机を蹴散らして、奴の周りを取り囲む。その際に一人飲んでいた奇妙な男の座っていた席が蹴飛ばされたのが目に付いた。不運な男だと哀れには思ったが、そんな事より視線を奴に移す。奴は扇を掲げて、まるで舞いでも始める直前のように微動だにせず突っ立っていたのだった。 「なんだ。ウジ虫以下のクズ野郎共にもプライドがあったのか。人のプライドを傷付けて喜ぶ小物共が、ないものねだりしているのかと思っていた」 「うるっせい! もう我慢出来ねぇ……おい! 此奴を八つ裂きにしてやるぞ!」 禿げた小太りの男が掛け声を上げると、周りの連中も喚声を上げる。ざっと見て、五十人は下らない数だ。それを、奴が相手にする。どうみても、正気じゃない。私は今一度奴の表情を見た。 ……ん? 気の所為か、目がオドオドしている。いや、絶対これは気を失いかけている寸前の表情だっ。 「お、おいっ。しっかりせんか!」 そう声を掛けてやると、奴は顎を震わせてこう頼りなく返してくるのだ。 「(ガチガチ……)……同族嫌悪って、ヤダねぇぇ……っ」 「貴様、まさか、勝算があって喧嘩を売ったのでは……」 「なんであんなこと言ったんだろ……? 俺、どうかしてたんだ……」 「 私の絶叫が飛んでも、今更連中はクスリとも笑わない。只手負いの獲物を囲う狩人のような舌舐め擦りが聞こえてくる。 「はん。モヤシの癖に、口だけが達者なのがついてなかったな」 「………」 奴の表情に締りが見え始めていた。どうやら正気に戻ってからでも、覚悟は決められたらしい。これなら見っとも無くボコボコにはならずに済む……のか? やはり勝算自体は限りなく低い。奴の言う通りクズ共の集まりだとしても、相手は体格だけで奴を凌駕しているのが殆んどだ。装備も充実している奴もいる。対して奴の身に纏っている物は、まるで踊り子のように身軽で、もはや戦闘には向きそうに無い軽装だった。 『……♪』 コツ、コツ、コツ…… そんな時、じりじりとにじり寄る集団の中から、一人それとなく奴に歩み寄ってくる体格の良い男が居た。漆黒の短髪、ヒラヒラとした魔術師の様な服装に、その癖使い慣れているかのように両腰に携えた剣。顔つきが妙な印象を受けるが、恐らく東洋人という奴だろう。その男が奴の背に近付いて、その背中を合わせたのだった。 「テメェ! なんのつもりだ!?」 クズ共から声が飛ぶ。それは私も聞きたいところだ。何故今になってこんな所に歩み出てくるのか、私にはその意味も理由も見当がつかなかった。 すると、男は思ったより渋い声でこう答える。 「 妙な訛りを喋る。だがそんなことよりもこの男の纏っている空気は、何かが違った。その事はクズ共にも感じ取れたらしく、多くの者が警戒を強めた。 「なんのつもり……そいつが、俺らの事をクズ呼ばわりしたからだなぁ!?」 「自覚しているから此処に立っているんやろう? 彼の言う通りやないか。剣を容易に抜いて、立ち上がって喚き散らす。見られたもんじゃない、薄汚い人間共が」 「くっ。おい、新顔! 此処で長生きしたいんなら、余計な口は慎めよ!?」 「それは御宅等や。長生きしたいんなら、大人しく剣を収めろ。群れてないと吠えられんような負け犬共なんざ、見てて滑稽なだけやで?」 そう言うこの男は、今この酒場で一番冷静に映った。何せ、この酒場で飲んでいた者全員が立ち上がって剣を抜いている。私は捕まっていて最悪な気分だし、バルロイの奴は正気を失ったまま喧嘩売るし……正気に戻っても頼りない。 それでもこの男だけは、誰よりも信用出来ない部分があった。 「黙ってれば調子に乗りやがって……! テメェ諸共たたんでやる!!」 「おおぉぉっ」 とうとう火蓋が切って落とされた。私はクズ共の一人に腕を押さえられているが、この喧騒の中傷付けられる事はなさそうだ。対して目の前には信じられない光景が広がっていた。 まぁ、助太刀してきたあの男の方は、元々腕が立つから名乗りを上げたんだろう。見れば腰に下げる剣も抜かず、素手で迫り来る相手を投げ飛ばしたり、腕をへし折ったりを平気で遣って退けていた。そんな事よりも私が驚いたのが、奴の活躍だった。全く持って頼りなく見えていた筈の奴は、手に持った扇を振り翳し、迫り来る鉄の刃を往なしては相手を叩き伏せていたのだった。それは私の気の所為かもしれないが、まるで…不思議な音楽に合わせて踊っているかのようだった。 「……さて」 「ひぃっ」 東洋人の声とともに、二人が振り返る。その途端、私の後ろの人間は腰から剣を抜き、私の首に宛がったのだ。 「ち、近寄るな……化け物共! こ、このエルフが死んでもいいのか!?」 「 流石に、私は死ぬ覚悟まで決めて里を追われた訳じゃない。恐怖も湧きだしてきた。だが、奴の方を思わず見ると、奴はまるで安心しろとばかりに笑顔を返してくるのだ。私は、何故かそれにどうしようもなく安堵を感じたのだった。 「俺はヴァーチャーっていうんや。よろしく」 夜もすっかり更け、このヴァーチャーという男の支払いで宿に泊まることになった私と奴は、一先ず一室でそう紹介される。一応手助けもされ、宿代も払ってもらっている手前、態度をぞんざいにすることは出来なかった。 「俺はバルロイ。んで、こっちが……」 「こっちとはなんだっ。私にはチェルニーという名があるのだ! 紹介もまともに出来んのかっ。相変わらずの低脳具合だなっ」 そう声を張り上げてやると、此奴は苦笑いを見せる。そして、ヴァーチャーとかいう男も私達二人を見比べて、何か嫌な笑みを見せるのだった。 「……仲良きことで」 「 予想外の言葉に、私は訳が判らなくなる。なんでそう思われるのだ? 何処に此奴と仲良く見られる要因がある? 「でも、俺、此奴に嫌われているんですよ?」 此奴呼ばわりしてきた此奴にそう言われて、私は思わずこう返してしまう。 「べ、別にそんなことは……」 ズイッと視線が私に集まる。私は言葉を飲み込んで、改めて言葉を連ねる。 「……と、当然だろう。私は、この男が吐き気のするほど嫌いだ。あーもう、同じ空気も吸いたくない程にな」 先ほど仲が良いと見られたので少し強めに言っておいたつもりだが、この男の笑みがまたしても私と此奴を見比べ始める。 「へぇ〜……」 「な、なんだ、その気色悪い笑みはっ」 「別に」 なんだか子供が稚拙な隠し事をするかのように言い放つ。私は何も言えなくなって、座り込むベッドに背を預ける。人間の宿で人間の寝床に着くなど初めてだったが、このベッドの感触も悪くは無い。確かに、良く眠れそうだ。そう思っていると、此奴は勝手にあの男と話をし始めた。 「ところで、バ……ヴァーチャーさんは」 「敬語はいい。自然体で話したいんや。俺も訛りが取れんくてね。敬語やと、なんか話が噛み合わなくなりそうで」 「そ、そうか。なら遠慮なく。……ヴァーチャーは、東洋人なのか?」 それには私の耳も思わず動く。里から出たばかりの私は、勿論東洋人など初めて見るのだ。それに男は戸惑いながらも、まるで話をあわせるかのように頷いた。だが今気付いたが、ヴァーチャーというのは東洋人らしい名前ではない。流石に東洋人の名前ぐらいは書物でも目にしたことがあるのだ。確証は無いが、恐らく偽名なのだろう。余計この男が信用できなくなった。 「ああ」 「へぇ。俺、東洋人、初めて見るんだ。東洋人って、そういう訛りなのか?」 「う〜ん、どうかな? 俺もあんまり他の同類を見掛けた事、無いからなぁ。生まれて直ぐこっちに来た口やから」 此奴がそう言って当たり障りの無い事を言う。男の方も何気なく、会話を楽しんでいる風だった。聞いていて退屈していたので、話の大半は覚えていない。だが、途中にこんなことを話していたのは憶えている。 「 「色々?」 「歴史、魔術、地理、生物……あと技術とか?」 妙なことを訊くものだと思った。普通なら、考古学者ならこの辺りの遺跡などに関する情報を尋ねるだろう。生物学者なら生き物の事だ。魔術師なら魔法の事だろうな。だが此奴は違う。それが何を意味するのかは判りかねるが、幾らなんでもそんな漠然とした質問に答えられる者は居ない。 「さ、さぁ。俺は答えられないけどな。俺はつい最近此処に来たばかりだし」 案の定、バルロイはそう答える。其れに対してあのヴァーチャーという男は、視線を落として「そうか」と呟いただけだった。そしてその後は人が変わったかのように無口になる。話し掛けても反応しないという訳ではないが、余計なことを話さなくなった。つくづく妙な男で、世話になっておきながらも私はこの男の並々ならぬ雰囲気に眉を顰めるのだった。 「さて、折角部屋を二つ取ったんや。俺は隣でお邪魔にならないように……」 突然そんな言葉が耳に飛び込んでくるので、私は慌てて落ちてしまいそうな意識を拾い上げて起き上がる。 「!!? お、お邪魔とは……どういう意味だ!?」 「え? ……言っていいの?」 なんで恥らうんだ。いい年して気色悪い。貴様からも何か言ってやれとバルロイに目を向けるが、此奴は何の事も無しに送り出そうとしている。 「ああ。今日は助かったよ。ありがとう」 「 そう声を張り上げると、目の前の二人の男は目を丸くするのだった。 「……なんで?」 「な……っ!! ゲシッ 「おふっ!?」 バタンッ カチャッ 鈍い奴の顎を部屋から蹴り出し、透かさずドアに鍵を掛ける。 扉に背凭れて、奴がため息を付きながら隣の部屋に歩いて行く音が聞こえる。目の前には誰もいない空間。人間のベッドが二つ置いてあるだけ。急に、辺りが静かになった気がする。 急に全身の力が抜ける。一人、入り口のところに座り込む。今日は色々な事があった。本当に色んなことが。 罵声と冷たい視線に追い出された私の前に現われて、何時の間にか一緒にいたあの男とこんなところまで共に居る。私は不安で一杯になった。里から追い出されてからの事もそうだし、あの男が私をどういう風に扱うかにも不安はある。そして、サキュバスと化しつつある私の体の奥底で燻ぶる情欲の炎も……既に御しがたく燃え上がっているのだ……。 「 不味い。発作だ。心臓が裏側から何度も胸を突き上げる。下半身の疼きが、まるで寂しさを訴えるように湧き出してくる。体が酷く熱く、捩りたい衝動に体が独りでに動く。 だが運が良かった。今此処で奴等を追い出すのが一歩遅かったら、耐えられたかどうか判らない。この状態で男なんて見掛けたら……。 「んん……っ」 考えるだけで手が勝手に私のスカートの中に潜り込もうとする。其れを私は頭の一片に辛うじて残されている理性で押し留める。 「駄目……駄目ぇ……っ」 潜り込もうと力の入る右手を、左手が止める。私の体はすっかり右の指を受け入れる用意をしているし、酷く欲している。でも…私は、決めている。初めては、好きな人と……。 「くぅ……ん……っ。 全身から汗が噴出す。詰まらせた息が一気に吐き出される。なんとか右手を御せられたのだ。だが、それでも私の体は代わりの何かを常に求めて視線を這わせていた。 「はぁ、はぁ…… 思わず目を瞑って、両腕を地面と胸で押さえつける。足は強く閉じて、何者も受け入れないようにして。私はサキュバスみたいな淫乱な売女にはなりたくないのだ。相手は生涯に一人だけ、心から愛せた人に……その人の為に、自分で慰めて汚したくない……! プツンッ 「あ…… 改めてそう決意をした瞬間、突然頭の中が痺れて……私は意識を失ったのだった。 |
【メモ-ツンデレ】
“チェルニー”-1 人間を毛嫌いしている典型的なエルフ。サキュバス化の兆候を必死に隠していたが、遂にバレてエルフの集落から追放された。 弓矢の腕は酷いが、その代わり鋭い蹴りでのツッコミに定評があるツンデレ。蹴りモーション中の短いスカートの中は噂に聞く絶対領域。 今まで森から出たことがない為、世間知らずで、ちょっと思考回路が残念なところがある。 根拠のない自信家でプライドも高い性格だが、惚れた相手にはツンケンしながら献身的で、自己犠牲的。偶に積極的になったりもする。 その為か、ツンとデレの比率はおよそ7:3という優秀な数字を示している。 実は薬の知識に明るく、趣味は薬草採集。但し、えっちぃ作用の薬は専門外。 料理などは栄養面の配慮がなされているが、味は論外である。 10/07/26 22:22 Vutur |