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小生が海辺を歩いていると、向こうの岩肌に並んで座る男女を見掛けた。どうやら人魚と人間の青年のカップルの様だ。仲睦まじい会話が嬉しそうに空気を震わせて小生の耳に入る。 「それで、その後どうなったの」 「勿論、万事解決さ。その後、君に会いに行ったんだよ?」 「あ、若しかしてあの時? やだ、言ってくれればよかったのに」 「ははは、いや、心配掛けさせるのも悪いからさ」 「……マイク」 「タチアナ」 見詰め合う二人に、山に沈む夕日が切なく映える。きっと彼等は互いの思いを告げぬまま、また陸と海に分かたれるであろう。 小生は静かに弦を弾く。 ♪〜♪……〜♪ 「……いい曲ね、マイク」 「……うん」 今の情景を小生は素直に弾いている。たゆたう波音、沈む夕日。浜辺に佇む男女の物語を弦で語るだけ。すると、青年が徐に懐から何かを取り出した。 「タチアナ」 「なぁに」 「これ……」 「! これっ」 人魚の少女の表情が歓喜に色めき立つ。その目に映ったのは何処にも見たことがない輝きを抱く輪だった。小生も嬉しくなってついつい指先を躍らせてしまう。 「うん。ずっと悩んでたんだ。僕等、住む環境が違うだろ? だから、一緒になれないかもしれないって、思っていたんだ。……でも、さ。そんなの関係ないよね。僕が君を好きなのに変わりはないから」 息が詰まるような間。小生も暫く弦を止め、静かなこの音楽に心を震わせる。乙女の表情が絶後の驚きから次第に桜色に変わっていく。その目には決して悲しみなどない涙が浮かんでいた。 「私も……私もよ、マイクっ。私も、貴方の事が好きっ」 「ああ、良かった。タチアナ、此れからは一緒に居よう。お互い、人間とか、魔物とか、関係なく」 「ええ。でも、その前に……ねっ?」 「あ……。う、うんっ!」 乙女がイタズラな笑みを浮かべ、青年をかどわかす。青年は淫魔に魅入られたかのように、乙女の体を抱き締めるのだった。 ―――――――――― ふと小生が町の中を歩いていると、噴水の傍でお互いを糾弾する男女を見掛けた。女の方はまだ年若いラミアのようだ。一方、男は少しだらしないように見える。二人の言い争いは人々の目を引いていた。 「 「悪かったって言ってるだろ!? そう何度も何度も、しつこいぞ!」 「五月蠅いっ。そもそも、私というものがありながら、他の女に靡くなんて有り得ない!番う前にちゃんと約束したでしょ!?」 「悪いって言ってるだろ! ほんっとしつこいな……そんなんだから、他の女の所に逃げ込みたくなるんだよっ。この蛇女めっ!」 「な…っ!?」 男の一言が響いたようで、強気だった筈のラミアは同情を誘う涙を浮かべた。 「うぅ……。だって、約束したのに……破ったのは貴方なんだから……」 「うっ。な、泣くなよ、面倒臭い」 「 「だからごめんって!」 「謝ったのは浮気のことだけじゃないっ!」 ふと噴水の枠に座ってそのやり取りを眺めていた小生は、その中にちらりと見えるものを感じ取り、それを探り当てるつもりで琴を取り出した。そして、手探りのまま弦を震わす。 ♪〜♪……♪〜♪……♪ 「何よ! 貴方の甲斐性無しは今に始まったことじゃないけど、今回ばかりはもう、信じらんないっ」 「おうおう、勝手に言ってろ。俺の方もお前みたいなしつこい蛇から逃げ出せてせいせいするぜ」 「……いい加減、絞め殺されたいのかしら?」 「ああ? 忘れた訳じゃねぇだろ。昔やりあって、どっちが負けて今があるのか」 冗談の気配はない殺気がお互いの距離を引き離す中、次第に小生の周りには通り縋った人々が集まり始めた。 「すごい、すご〜い!」 目の前で小さな少女が目を輝かせて小生の弦の震えを眺めている。小生は嬉しくて微笑みかけると、少女も素晴らしい笑顔を返してくれた。これは掛け替えのない財産だ。自然に小生の喜びが弦に伝わる。 ざわざわざわ 「? ……なんだか騒がしいわね」 「……そうだな」 二人の注意が此方に向けられるのに気付いた小生は、本来の目的を忘れかけていたことにも気付く。慌てて小生は見え隠れする何かを探る。 ♪〜〜……♪…♪〜…♪ 「……いい曲ね。なんていうか、安らぐわ」 「……そうだな」 「ええ、イライラしていたのが馬鹿みたい」 「……なぁ、本当にゴメンな」 「っ。……い、いいわよ。私も怒りすぎたみたいだし。それに、私みたいにしつこい女と居ると、やっぱり他の女の所に逃げ出したくなるのに違いはないんでしょ?」 「いや、それは違う」 「……? どういうこと。貴方、さっきそう言っていたじゃない」 「違うんだ。あれはつい、なんていうか、お前が話を聞いてくれないから、自棄になって……」 「え?」 「……実は、あの娘とは、なんでもなかったんだ」 「……え? 嘘」 「ああ。確かにあの娘は俺に気があったかもしれないけどさ。なんていうか、俺には……その。最愛の妻が居るし」 「……貴方っ」 「でも、お前もお前だぞ? そりゃあ、向こうが腕を絡めて来たのを振り解かなかったのは俺だけどさぁ……。何せ相手は勘違いして突っ走る典型タイプのワーラビットだぜ?」 「うぅ……。ゴメン、反省する」 「はぁ。言っとくけど、今更お前がしつこい女だとかいう理由で嫌いにはならないからな。……判ってて番になったんだから、さ」 「……私、貴方と番になれて、ほんとに良かった」 「今更気付いた? けど、俺も……てか、お前以外の女じゃ、満足出来ないし……?」 「ふふ。じゃ、あ……勘違いしちゃった私に、ちゃんとお仕置き……して?」 「……よーし、良い心掛けだ。ちゃんと思い知らせてやるからな? 俺の、お前に対する想いを……」 歯の浮くような台詞を言い合いながら男女は幸せそうな笑みを浮かべ、去っていく。小生が感じたものとは、つまりは断ち切りがたい赤い繋がりだったのだ。何時の間にか小生は其れを自覚し、それを讃える指遣いをしていた。 だが気付けば周りには人も居なくなっており、代わりに地面に置いておいた帽子の中に、沢山の金銀が詰め込まれていたのだった。 ―――――――――― ふと小生が森の中を歩いていると、向こうの切り株で何やら騒いでいる男女を見掛けた。どうやらカップルというわけではなく、若年の戦士にまだ幼い様子のリザードマンの少女が必死に何かを訴えかけている。 「主殿ぉ〜。早く依頼主の方の下へと急がねばぁ」 「………」 青年は沈黙したまま少女を見返し、溜息を吐く。少女の老婆心が煩わしいのだろう。 「あ・る・じ・ど・のぉ〜。早く行かねば、“剣帝スヴェン”の名に傷が付きまするぞっ」 「……エリス」 「なんでするか、主殿」 「その年で名を気にしていては、結構早めに禿げ出すぞ」 「はうっ!? そうなのでするかっ!?」 少女は慌てて自分の頭を抑える。少女をからかった様子の青年は小生の存在に気付き、立ち上がる。 「そろそろ行こうか」 「あ、待って下され、主殿っ。エリスの頭、禿げてないか見てくれませぬか?」 「ん? ……あ」 「あ? あって、なんでするか!? も、若しや、この年で、もうっ!? ああ……其れもこれも皆エリスに苦労をかけさせる主殿の所為でする……。でするが不肖、私、エリス=リュードヴィッヒ=オーギュストコロンは、主殿を責めることなどは出来ないでありまする……。何故なら貴方様は御身を捧げるべきお方。そのようなお方をみだりに責め立てる不忠義など、エリスには到底……」 「エリスは頭の渦巻きが右巻きなんだな。初めて知った」 「がく 膝を折り曲げて脱力する少女。だがその遣り取りは何処か心の繋がりあえたもの同士に共通する何かを垣間見せてくれた。小生は微笑ましい光景に出会えたことへの喜びを弦に表そうと、琴を持つ。 ♪…〜♪……〜♪ 饒舌に様々な絆と言うものを思い上げ、指を躍らせる。弦が震わす空気はやがて風に運ばれ、森を駆け巡る。周りの木々や精霊達が小生の弦を一心に聞き入ってくれているのが判る。とても心地の良い音楽だ。 恐らく、小生は今迄で一番の音を今奏でている。その感動に打ち震えながら、それがまた小生の弦を饒舌に振舞わせるのだ。 だが、それが遮られるのは突然のことだった。 「 ビリビリビリ……ッ バサバサバサァ ほんの刹那、小生の弦に調和してくれていた筈の森から凄まじい号が駆け巡った。周囲で混乱に陥った獣達の虫の息が聞こえる。空には悲しげに鳥達が地上を見下ろしている。木々はまるで叱られた子供のようにびくとも動かない。終いには風が止んでしまった。精霊達は、泣きながら何処かに散ってしまったようだ。悪いことをしたかもしれない。 そんなことを考えていると、森の奥から草を踏み締める音が聞こえる。この音の具合から、それは蹄鉄による足音だということは判った。其方に目を向けると、其処には一人の少女……否、屈強なミノタウロスが険しい瞳で小生を睨みつけていたのだった。 「テメェか!? こんな真昼間から森ン中でチャラチャラ騒いでんのは!?」 凄まじい剣幕で指を差される小生。彼女のいうことを訊く以上ならば、きっとそれは小生のことだ。 「そうですね」 「そうですね、じゃねぇ! どうしてくれんだよ、俺の昼寝は! 折角人が気持ちよく寝てたのにっ」 「ああ、それは失敬」 どうやら小生は調子に乗りすぎて彼女の安らぎを奪ってしまったようだ。申し訳ない気持ちで一杯になる。ふと見遣れば、小生が見掛けたあの二人はもう森の奥に消えてしまっていたのだった。 「でしたら……お詫びといってはなんですが、お休みになられるまで小生がお供を勤めましょう」 「んぁ? お供?」 彼女の尻尾がハエを叩くように左右に振れる。小生は琴を手に携え、再び弦を慣らす。 〜♪…〜♪…〜♪ 流れる風、雲、温かい日差し。何よりも昼間というまどろみの時間に重くなる瞼。草の香り。頬を撫でる風は母親のように柔らかいもの。小生は瞼の裏に思考の海を象りながら指を撥ねる。 だがそんな小生の様子を見て、眉間に皺を寄せた挙句腕まで組んだ様子の彼女が言い放つ。 「……で?」 「……はい?」 「いや、別にテメェの演奏リクエストしたいわけじゃねぇんだよ。どう落とし前つけんのか訊きたいんだよっ」 少女の整った顔立ちが鬼のように歪み、小生に迫られる。小生は困り果ててしまい、ついこう尋ねてしまった。 「はぁ。では、どういたしましょうか。小生は見ての通りの吟遊詩人。琴を弾くことしか能が御座いませんが……?」 すると彼女はニヤリと意地の悪い笑みを浮かべて、まるで獲物を捕まえるように小生の肩を抱くのだ。 「なぁに、言っちゃってんだよぉ……? 閨の共をしてくれるんだろぉ……?」 まるで親密な相手にするように囁く。 「だったらサ。もっと奥に行こうぜ? なんなら此処で無理矢理にでも……」 そう耳元で誑かしてくる少女。小生は目深の帽子を落としてしまう。 「あ 耳元で息が詰まった音が聞こえる。小生はそんな彼女の反応を見る暇も無く、帽子を拾おうと体を揺する。だが彼女は私のその仕草が抵抗と見えたのか、深く虜にするように回した腕に力を入れる。 「……お前、名前は?」 「小生の名はゼル、と申し上げます」 「よし、ゼル。お前、確かに俺の昼寝を邪魔したな?」 金色に煌く瞳が小生に向けられる。 「はい」 「よし。じゃあ、俺とヤるな?」 「……は?」 話が飛躍して、小生は思わず聞き返してしまう。 「は? じゃねぇよ。俺とヤるんだろ? 責任取れよ。ていうか、取らなきゃぶっ殺すからな」 彼女の目に苛立ちのようなものが見える。だが彼女は魔物。小生は困ってしまった。 「むぅ。責任は取らなければならないでしょうが、“ヤる”というのとは何の関係がおありでしょうか?」 「はぁ? テメェが言い出したんだろ? お休みの共をするって。テメェの言ったことぐらい、責任持てよっ」 そう言われても、小生はお休みの助けになればと思って琴を弾いた次第。それでもミノタウロスの少女にはご満悦頂けなかったのだ。初めてとも思える事態に、小生は本当に困ってしまった。 だがどうするか決めかねている小生に痺れを切らしたのか、彼女は渋い顔からまるで闘牛の其れのように角を振り上げる。 「てか、あーもうっ! メンドクセーから攫ってやるっ。俺様の愛の巣で散々可愛がってやるぜぇーっ! ……おりゃっ」 突然そう宣言した彼女は、小生をその筋肉隆々の腕で担ぎ上げる。小生は体を持ち上げられて、一瞬大事な琴を落とし掛けたが、代わりに帽子の方を落としてしまった。 「ニシシ……此れで漸く俺も」 「あのー?」 なにやら独り言を言っている様子の彼女に、降ろして貰えないか打診するため声を掛ける。すると妙に驚いた声を挙げて、担ぎ上げた私を見遣る。肩に掛けられている扱いなので、こうしているとお互いの息が伝わるほど近い。 「ヒャウゥッ!? ……な、なんだよぅっ」 「降ろして貰えませんか? 自分で歩けますので」 そういうと少女は酷く小生に呆れたように目を細めるのだった。 「……いや、自分の状況判ってるか? お前」 「はぁ。まぁ、なんとはなくは」 「……なんか調子狂う獲物だな」 彼女の憂鬱な溜息を耳にして、小生は首を捻る。 丁度そんなことをした後、周りの木々が不安そうに身動ぐのだった。 サァァ…… 「 途端に周囲に張り詰めた空気が漂う。少女は一変した空気を敏感に感じ取り、周囲を警戒しながら小生の体をゆっくりと下ろす。小生は地面に落ちてしまっていた帽子を手に取る。旅の友、時には路銀まで稼いでくれる働き者の相棒を此処では失わずに済んだ。 息を呑む静寂。この瞬間だけ世界が全ての動きを止めたような感覚に陥る。だがその世界は長くは続かなかった。 「きえぇぇぇい!!」 何事かと思うような金切り声と共に、剣を振り翳して出てきたのは何処かの騎士のようだった。顔など、個人を特定できるような特徴は全て鎧で隠されているので、本当は男なのかどうかは判らない。だが唯一判っているのは、彼(或いは彼女)が剣を振り上げている相手。それは、私ではなかった。 彼女は背後から迫り来る騎士に対し、その大きな蹄で後ろ蹴りを鳩尾に放つ。鎧の上からだからこそ、堅い彼女の蹄の衝撃が生身に響くのだ。しかも元々の威力が凄まじかったのだろう、その体は宙を舞い、向こう頭の木に背中を強く打ちつけたようだった。 ドスンッ 「はんっ。手始めに後ろからとはフテェ連中だ。……ていうか、相変わらず、飽きねぇよなぁ、お前らも」 彼女は周囲を睨みつけながらも、その尻尾を左右の太腿に振り子のようなリズムで巻きつかせたりしている。 「……チェストォォォッ!!」 これもまた何事かと思わせる奇声を挙げて別の所から騎士が現われる。此方も剣を握り締めてはいるが、構え方が少し妙であった。肩に柄を引き寄せ、剣を立てた。 「無駄にうっせぇんだよっ」 ガコォンッ 「へぶし!!?」 だが彼女は剣を持つ相手に、怯みもせず一歩踏み出し、その握り締めた拳で騎士の顔面を強打する。若干拳に回転が掛かっていたようで、その衝撃がまたもや鋭く鎧をすり抜ける。 哀れ、騎士は宙で回転しながら木に受け止められるのだった。 「はっ。人間如きが、たった二人で俺に勝てると思ったのか!? ギャハハ、ちゃんちゃらおかしいぜ!」 彼女が優越感に浸りながら両腕を開き、高らかに笑う。だが、彼女に最初に吹き飛ばされた一人にはまだ意識があるようで、よろめきながら立ち上がる。彼女もそれに気付いて、弱った獲物に向ける勝者の余裕を目に示す。 「ほう。まだ動けんのか」 鎧が変形してしまっている騎士は腹を強く抑え、悔しそうに声を漏らす。 「くそ。図に乗るなよ、魔物風情がっ」 すると、途端にその騎士は彼女から踵を返したかと思うと、手を口に添えて森の中に響く声でこう叫んだのだった。 「先生! お願いしますっ」 「……お前等、ほんとに騎士か? 志士とか、じゃないよな?」 彼女がショートヘアーを掻き乱す。 するとその目の前、騎士が向いている方向から、此方にゆっくりと影が近付いてくるのだった。 「………」 彼女の表情から笑みが消える。そう、その影が近付くにつれ何か途轍もない不安が心の奥底から吹き上がってくるのだ。何か、そう、恐怖というものがそのまま迫ってくるかのような錯覚に見舞われる。小生の目の前に広がる風景は、確かに静かな森の姿だったが、その影が放つ気配が覆う場所は全て異世界のように感じられた。 そして、その男は現われた。天に突き上げるような黒髪。肌の色は黄味掛かっている。低い鼻に、鋭い目元。両腰に下げるのは細くしなやかな刃を収めているであろうことが伺える鞘。どうやら、東洋人らしい。 その東洋人は片手を鞘に置いたまま、その鋭い目で彼女を只黙って見詰めていた。殺意も無く、かといって慈悲も見せない。若しや感情など無いのでは、と思わせるほどの虚ろが見える。何も見えないと、人は自分勝手にあれやこれやと想像してしまうもの。それを引き起こす恐怖が、彼にはあった。 だが、そんな彼が小生等に向けて言い放った言葉は、衝撃的であった。 「こんちくわ」 ……………………… 幾許かの沈黙の後、彼は徐に懐に手を入れる。それに気付いた彼女は咄嗟に身構えるが、男が懐から出したのは、どうしても凶器には見えない、魚肉をペーストにして筒状に固めた食べ物だった。それを、何の緊張感も無く齧る。 「もしゃもしゃもしゃ」 「………」 相変わらず食事をしながら彼女と睨み合いを続ける東洋人。その時痺れを切らしたのは彼を呼び出したあの騎士だった。 「な、何を巫山戯……っいや、何をしてらっしゃるんですか!? 先生! 早くあの薄汚い魔物を成敗しないと、あの者が襲われてしまいますっ」 そう指差されたのは他でもない、小生だった。どうやら小生が彼女に襲われていると勘違い(いや、間違っていない気もするが)されたようだった。 だが、先生と呼ばれた東洋人は、食事を終えた後、満足そうにお腹をさすってこう言ったのだった。 「……俺が思うに」 「は……はっ?」 「襲われていたら、今のやり取りの間に彼は今の内に一目散に逃げてると思うけどな」 そうきっぱりと言い放ち、彼女から視線を外す。だが騎士はその言葉に驚きながらもこう言葉を返す。 「で、ですが、魔物は人を襲うのです。今襲ってこないからといって、此れ以降ずっと大人しいとは限らないのですぞ!」 「ふ〜ん。らしいこと言うやないか。でも結局アンタ等の目的は別の所にあるやろう? そうでなきゃ、こんな辺鄙な所にあるような親魔物派領に、態々不法入領してまで退治には当たらん筈や」 「 そう。此処は明確に親魔物派を豪語する領土である。何しろ、親魔物派の勢力に囲まれる位置関係にあったお蔭で、反魔物派の脅威に曝される事は本来ならば皆無なのだ。だが、この騎士達が反魔物派の討伐部隊の一員だとしたら、それは致命的な矛盾を浮き彫りにする結果になる。 そして、東洋人の台詞を聞いた当の本人は、態度を一変させて喚くのだ。 「黙れぇ!! 傭兵が無駄な詮索をするんじゃねぇっ。――さっさと殺れってんだよ!!」 だがその命令に対して、東洋人は馬耳東風といった感じでこう返す。 「それは契約に入ってないなぁ。残念やけど、俺も一応傭兵やから。契約と金には忠実なんやわ」 「なっ!? 何を言ってやがるっ。こっちはちゃんと金を支払ってだなぁ……」 「はぁ? ……どうやら契約の内訳を言ってやらないと思い出せんようやなぁ」 「なんだと」 「いいか? お前らの上と俺が交わした契約は二つ。一つは不法入領、及び本国帰還の際の助力。二つ目はお前等の身の安全の保証や。……いや、今思い出した。確か三つやったな……」 そう呟いて懐から出した一枚の書類。それを眺めて、騎士に突きつける。 「三つ目。上記の条件を満たすのならば、いかなる指図も受けない。且つ、上記の条件さえ満たせば契約は成立。……つまり、俺はアンタ等を五体満足でお家に帰らせるのが仕事な訳。だから、アンタ等の仕事自体を無理に手伝う義理はないんや」 「くっ。役立たずめ!」 恨めしそうに呟く騎士にも、東洋人は澄ましていた。 「アホか。前金も踏み倒す癖に、よくもまぁ余計なサービスを求めてくるよなぁ。おこがましいにもほどがあるわ」 そう言い放ってから、東洋人はやっと彼女に向いて、手を顔の高さまで上げた。 「やっ。俺はヴァーチャーっていうんやけどさ。今話した通り、俺は君等がそのまま引き下がってくれるんなら追わん。やけど、此奴等にトドメを差したいって言うんならぁ」 ドォォ 彼はその場で強く足を踏み締める。赤土や木の葉が飛び散る。その際の衝撃はよもや人間が放てるような段階ではなく、踏み締めたその部分の土が大きく抉れ、地面が露出してしまっていた。ミノタウロスである彼女の蹴りよりも、一見した凄まじさは勝っていた。 「……契約に基づいて、仕方なく、その物分りの悪いドタマをかち割って中身を野に曝したるケド。どうする?」 初見では温和そうで話が判りそうだったが、今の台詞からしてやっと狂気染みた殺意が見えた。戦いなど知らぬ小生でも判る。それは一番相手にしてはならないモノだ。東洋人の表情は今の台詞と相違えず、「それも悪くない」と言いたげに笑んでいた。 「……けっ。今日は散々な日だぜ、全く」 小生はほっとした。彼女は不機嫌そうに頭を掻いて、引き下がる態度を見せたのだ。だが彼女はチラリと小生の様子を一瞥した後、その場から去るのが名残惜しいと言った風に足取り重く、とぼとぼと森の中に姿を消したのだった。 「……さて、と」 小生の耳に東洋人の声が聞こえる。彼は今、将に騎士達を抱えて立ち去る途中だった。 「悪いな。少し、野暮だったかな」 にこり、と小生に笑いかける。小生を助け、ケイフを殺さずにおいてくれたのは狙った配慮だったらしい。小生はこの男が何かしら抱え込んでいることに気付きはしたが、さっき言った通り、それは一番相手にしてはならないモノなのだと自分に言い聞かせた。 彼は親しげに言い放つ。 「じゃあ、俺は此奴等連れ帰るから。……ああ、大丈夫。実は此奴等の仕事を潰すのが仕事やったりして」 イタズラに笑った。その脇に力なく引き摺られているのは、さっきまで気が付いていた筈の騎士だった。気絶させたのだろうか。 「そりゃ、前金踏み倒されたのに仕事請ける奴なんか、腹に一物あるよな。ふふん、流石あそこの領主さんは太っ腹やでぇ♪ あ、此処だけの話な?」 どうやら彼は人懐っこい一面も持つようだ。今となっては恐怖の気配は全く見られなくなっていた。そんな彼の人となりは大変面白く、つい琴に手が伸びる。 ♪〜…♪……〜♪…♪〜 「良い音や」 その時確かに、彼はそう言ってくれた。 ―――――――――― 「けっ」 くそっ。今でも胸の中がもやもやしやがる。俺は草の上に唾を吐き捨てた。 「なんなんだよ、人間共め。調子付きやがって……」 結局あのごたごたで獲物を置いて来てしまった。当然だ。あのいけ好かねぇ傭兵の前で、何食わぬ顔で攫っていけた訳がねぇ。置いて来るしかなかったのだ。 「くそぉっ。剣幕だけで追い返されたのも腹立つけど、彼奴を置いて来たのがなぁ〜」 俺が住処にしている洞穴があるこの草原は、最早俺の庭である。周囲を見渡して草以外のものが見えなくても、今自分が何処に居るのかぐらいは判る。その中で俺は一人、地面に突っ伏すのだった。 「……可愛かったなぁ……彼奴」 思い出すだけでニヤけて来る。目深な帽子で頭を隠しているなんてどんな陰気な奴かと思えば、トンだ原石だった。 透き通るような金髪。傷一つない白い肌。エメラルドグリーンの瞳。それを持ってる奴が、なんて儚げな表情をしてやがんだ。 「くぅぅ……思い出すだけで惜しいっ。惜しすぎる!! ああいうのは経験も少なくてだな、絶対童貞な訳だよっ。だから、お、俺がその純潔を無理矢理に散らしてやって、何も知らない体を弄んで……! ああ、考えるだけでも惜しいっ!!」 「 「だから、あの童貞君の純潔をあの場で頂かなかった事を 今の一瞬俺に言葉を投げかけた何者かに気付き、体を持ち上げ、振り返る。其処には、あの吟遊詩人がキョトンとした顔で突っ立っていたのだった。 「ヒャアァッ!!?」 「? すみません。何だか、驚かしてしまったようで」 のほほんと笑んでいるこの男から俺は尻を引き摺りながら後退りする。すっかり腰が抜けてしまって、立ち上がれなくなってしまったのだ。 「な、なな……なんでテメェ、こんなトコに……!?」 「ええ、貴女が行ってしまわれたので、追い掛けて来ました」 平然と言い放つこの男の言葉。その意味を理解するのには少々時間が掛かったのだった。 「……は?」 「貴女の安らぎを、小生の不注意で損なわせてしまった。そして貴女は小生に償いを求めた。小生は償わなければいけません」 ああ、その天使のような笑顔、反則だろ……。今すぐ裸に剥いて、そのぶら下げてるモンに色々イタズラしたくなるじゃねぇか……。 い、いや。待て。こんな所で理性を失っちゃ勿体ねぇ。やるんなら巣でって、決めているんだ。こんなトコじゃ、他の魔物に邪魔されちまう。 「……よ、よーし。人間の癖に、物分りがいいじゃねぇか。なら……」 「それで道中考えたのですが、小生に貴女の為の曲を作らせてはくれませんか?」 「そうだな。俺の曲を 曲? 俺の為の? 何の話? え、何この流れ。 俺が混乱している間に付け込んで、奴はドンドン話を進めていく。 「貴女の安らぎを奪った小生に出来る償いは、せめて小生の琴で安らぎをお返しする事以外には無い。ですが、小生が未熟なばかりに貴女に満足頂ける様な旋律を奏でることが適わないのです」 「……はぁ」 「ですから、代わりに貴女に曲を賜りたいと思うのです。気に入ってくださるかどうかは、判りませんが」 そう語る吟遊詩人だが、俺がそんな事で喜ぶ筈がない。生まれてこの方音楽なんぞに興味など持ったことは無いし、これから持とうという気も起きない。だから、その提案は此奴の独り善がりでしかないし、何より俺にとってはどうでもいいことなのだ。 「いや、俺そんなん興味ねぇし」 「では、どうすれば償いになるのでしょう。小生は見ての通りの吟遊詩人。旋律を奏でることしか能がありません」 くぅ……っ。此奴の、眉を下げて困ったこの表情、マジ堪んねぇ……っ。 あ、やっぱ此処で無茶苦茶にしたい。旋律とかそういうこと、もう考えられなくなるくらいヌチャヌチャにしたい。 いや、駄目だ駄目だ! こんなトコでヤッてたら、臭いで他の魔物が寄ってきちまう!昔だって散々邪魔されてきたんだ! もう、今日こそは最後まで持ち込む!! 「だからさ、一緒に寝てくれたらいいんだって。一緒に寝て、ヤるだけ。判る?」 もう一度奴の首に腕を回してさりげなく捕まえる。すると奴は考え込んだ後、俺にこう返すのだ。 「ヤ、ヤる……? そ、それは出来ません」 「は? なんで? 彼女に悪いとか? んなの気にすんなよ。……まさか、勃たねぇとかじゃねぇよな?」 「どう思われようと結構です。ですが、小生は吟遊詩人として色欲を捨てた身なので、悪しからず」 きっぱりとこう断る。だが断ってくれた方が、犯り甲斐があるってモンだ。俺は罠に掛かった獲物を前に、思わずニヤついてしまう。 「判ったよ、其処まで嫌なら諦める。でも折角誘ったんだから、俺の巣には来いよな。色々とゆっくり聴きたいから、さ」 まぁ、本当に勃たねぇかどうかは俺のベッドで確かめさせて貰う事にしよう。ニシシ、今から楽しみだぜ。 ―――――――――― そんな出会いを果たした二人は、草原にぽっかりと開いた洞穴に足を踏み入れる。一人はニコニコとお招きに預かった客人。もう一人はそれを食い物にしようと企む狼であった。 「成程。ミノタウロスはこういう所に住むのですね」 少女の背後でそう呟くゼルは、洞穴に通る爽やかな風に穏やかな表情を浮かべる。少女の方は、そんなことはどうでもいいという風にして先に進む。その先には、申し訳なさそうに木製の机と、膨大な藁の山があった。 「ふむふむ。此処が貴女のお住まいですか……」 がしっ 「あれ?」 吟遊詩人、ゼルの体が唐突に浮かび上がる。見れば体の自由は既に少女に奪われており、見下げれば其処にはすっかり欲情してしまったミノタウロスの艶やかな息遣いがあった。 「わっ」 バサァ、と吟遊詩人の体が藁の山に放り投げられる。柔らかな藁は彼の体を優しく受け止めるが、それと同時にその体を埋め込ませて捕まえるのだ。 脱出出来ずにもがいている様子の吟遊詩人に、ミノタウロスは愉悦に顔を歪ませ、上機嫌に尻尾を振った。 「いいねぇ、その顔。もっと困らせてやりてぇ……」 そう語りながら服を脱いでいく彼女。元々恥部を隠す程度の着衣だった所為で、生まれたままになるのは早かった。彼女はその手でゼルの下半身の隆起を鷲掴みにして、イタズラな笑みを浮かべる。 「……なんだ。勃つんじゃねぇかよ。しかも、中々の大物じゃねぇか」 だがそれを目の前にしてゼルは落ち着き払い、息遣いを荒くする彼女に向かってこう語り掛ける。 「(……)貴女のお名前を、御訊きしていませんでしたね」 「へ?」 手篭めにしようと更に手を伸ばす少女が、面食らって動きを止める。 「……ああ、俺はケイフ……ていうんだけど?」 「成程……。未熟で無垢な子牛ですか……」 吟遊詩人が呟いた言葉に、ケイフは耳をピクリと跳ね上げる。 「今、スッゲー失礼なこと言わなかったか?」 「いえいえ。人の名前を馬鹿に出来るほど、立派な名前は持ち合わせておりません」 「ゼル、が? ……んー。そんなことねぇんじゃねぇかなぁ。いい名前だと思うぜ? 何か、無骨な感じで」 考えながらそう答えたケイフに、ゼルは目を丸くした。 「……有難う御座います。小生の名、覚えていて下さったんですね」 「あん? ……それは馬鹿にしてんのか?」 「え?」 「テメェは俺の事、人の名前も憶えられないとでも思っていたのかっ!?」 柳眉を逆立てそう喚くケイフは、感情の向くままにゼルの胸倉を引き上げる。だが、沢山の人間と魔物の感情を観察してきたゼルの目には、怒りに対する畏怖などは映っていなかったのだった。 「いいえ。只、誰かに名を呼ばれたのが、久し振りのような気がして。つい嬉しくなってしまったのです。失礼な口をお許し下さい」 言葉通り、名を覚えてくれていたことに、大袈裟とも思えるほどの歓喜を笑顔に込めるゼル。その口は許しを請う、というよりも、感謝を口にしているのだった。 「……べ、別にテメェの名前なんザ、呼んでねぇよ……っ」 掴み挙げていた胸倉を突き飛ばし、吟遊詩人を藁の山に沈め返す。背けた表情には、桜色の頬が映っていた。 「(うぅ……調子狂うなぁっ)てか、さ。彼女に名前とか、呼んでもらえない訳か?」 暫く胸の高鳴りを諌めてから事に当たる気だろう、ケイフはそう興味の沙汰にないような話を切り出す。いいタイミングで、適当な難癖をつけ、犯す算段だ。まどろっこしいやり方だが、未経験のケイフにとってそれほど勇気が要る事なのだ。 だが事態は妙な方向へと進んでいく。ゼルが、不意に表情を暗く落とすのだ。それはケイフの目には判りやすく、まるで昼が夜に変わったかのような変化だった。 「ええ、一度も。まるで、元々小生には名など無かったかのように」 (……彼女、居たのかよ。じゃあ純潔は期待できねぇな。……はぁ) ケイフが溜息を吐く。だがゼルは何かに取り付かれたかのように、話すのを止めはしなかった。 「……小生は元々好色な男でして。実は、女性に好かれる為にこの琴を手に取ったぐらいです」 「ええっ!?」 ケイフはその話に驚愕する。どう見ても、目の前の儚げな吟遊詩人が色に慣れているとは思えなかった。彼女が相手の純潔に拘るのは自身が未経験である事を気取らせない為であって、それで無くとも初体験を玄人でデビューするのは気が引けていたのだ。勿論、本能に任せれば万事問題は無い、とケイフは判ってはいるが、それでも自分の眼力の無さを呪うのだった。 「見えないでしょう。ええ、そうです。蒲魚ぶって、女性を誑かして回っていたのです。……この風貌で」 「へ、へぇ。ま、まぁ、俺は寧ろ大歓迎だケドなぁ……っ」 そう、笑顔を引き攣らせるケイフ。 次第にゼルは誰に話し掛けているのか判らない雰囲気を纏い始め、終いには琴を弾き、自分の世界に閉じこもるようにして語り始めた。 「吟遊詩人は、女性に好かれる。小生はそれに肖ろうとした。だが、どんな女性を抱いても、何も満たされる気分がしなかった」 希望が湧き出したかのように、喜びを指遣いに表す。 ♪〜………♪…〜♪ 「だがある日、私は一人の麗しき女性に出会った」 ……♪…〜♪……♪ 「その人の髪は太陽に照らされて月のように輝き、その肌は触れるもの全てを虜にしてしまうほど滑らかだったことを覚えている」 …♪〜…♪〜…… 「彼女と紡いだ夜は、なんと甘美なものだっただろうか。私は心の隙間を埋めてくれる、彼女に魅入られてしまった」 其処で突然曲調が悲しげに落ち込む。まるで過去を思い出すのが辛いと語るように。 ♪…〜……♪…… 「だが、彼女はサキュバス……淫魔だった」 ♪………♪……… 「私は連日連夜相手をさせられた。精の尽きた日からは魔力を注がれ、最後には、彼女無しでは生きられなくなってしまったのだ」 「………」 ケイフがゼルの弾き語りに呆気に取られてしまっている。終いにはゼルの目からは涙が零れ落ちた。 「それでもいい。彼女の為に体を弄ばれるのなら、私はそれでも満足だった。私は、間違いなく、彼女を愛していた」 大体そんなことを語ってから、琴の音は乱雑に弾き鳴らされる。 ♪…♪〜…♪…♪〜 「だが、彼女は私を愛してはいなかった。私を虜にした後、他の男との情事を助ける奏者に仕立て上げた。彼女が愛したのは、私ではない。私の、この吟遊だったのだ」 其処まで語った後、ゼルは咽ぶことも無いまま涙を流し続け、琴を藁の山の中に置く。エメラルドグリーンの瞳は、潤んだままケイフに向けられる。 「要するに、小生はインキュバスにされて、挙句捨てられた身なのです。彼女が名を呼ばなかった理由が判る」 「……じゃあ、尚更ヤれるんじゃないのかよ?」 呆気に取られていながらも、はっと気が付いたようにケイフが言う。だがゼルは首を振った。 「インキュバスにされた以上、小生の体は……その、女性の肉体を求めて止まない。特に、小生をかどわかしたあのサキュバスの体を。それゆえ、他に何も手が付けられなくなるのですが、その呪縛から逃れる方法が一つありまして」 そう語りながらゼルは胸元を開く。突然の事で驚くケイフだったが、ゼルの胸に奇妙な赤い紋章が浮かんでいるのを目にして、息を呑む。 「……こ、これは?」 赤色を前にして、虚ろな目をするケイフ。だがゼルはそれに気付いているのかいないのか、平然とこう語る。 「……契約印です。インキュバス化による色欲を抑える代わりに、情事を行わない、という誓いを立てているのです。」 「ああ、それで駄目って」 「ええ。……あの時、あのサキュバスが討たれた時……放り捨てられた小生は、悲惨な状況でした。それを救ってくださったゲーテ様には、万の言葉を尽くしても足りませんよ」 既に涙は忘れてしまったようで、今がある事に幸せを感じるゼル。だが、その目には何処か物足りない、虚ろな光景が映っていたのだった。 「ですので、お願いですから、性交はご遠慮下さい。……もし小生を犯したならば、小生は今度こそ 「……」 其れを聞いてケイフは深い溜息を吐き、ゼルから離れ、背を向けて頭をぼりぼりと掻いて嘆く。 「はぁぁ……なんで俺はこう、男運ってのが悪いんだろうな?」 「はい?」 「いい男見付けたと思ったら、いつもいつも邪魔が入りやがんだ。んでやっとテメェを安全圏まで連れてきたってのに……んなめんどくせぇ理由でヤれねぇ、とはな」 「……すみません」 「テメェに謝ってもらっても、仕方無ぇんだよ!」 バコォンッ すっかり機嫌を損ねた様子のケイフは、申し訳程度にこの空間に置かれていた机を叩き壊した。からからと木屑へと変わる机。ケイフはそれに目もくれず、その場で胡坐をかいて、尻尾を振り回す。 「くそっ。また姉貴に初体験逃したって、笑われちまう……っ」 「………」 すると、ゼルは藁の山から上体を上げ、徐にその琴に指を沿わせる。 「……有難う御座います」 藁の山に座ったまま礼を言うゼルに、目を角にしたケイフが横目で睨み返す。 「あぁん?」 「小生の話を信じてくれた。そして、ミノタウロスは、普通凶暴で、無理矢理が好きだと聞きますが……貴女は小生を犯さなかった」 「……は、はんっ! き、気が乗らなかっただけだっつーの……んな、恩に着なくてもいいしっ」 赤らめる頬をゼルから見えなくし、そう返すケイフ。だがゼルはニコリと笑いながら、琴を滑らかに弾き立てる。 ♪…〜♪……… 「 ケイフがそう呟く。矢張り元来、性欲と食欲と睡眠欲、三大欲求に準じた興味しか示さないミノタウロスにとって、“音楽”とはそれに当たらない対象なのだろう。 「……小生の琴は、その、性交の間のムードを良くしたのだそうです。気分を乗らせるというか……」 「ふーん。耳元でハエが飛んでいる風にしか思わねぇケドな」 素直にそう言ったケイフに、ゼルも少し悲しみを琴に込めた。だが、ケイフにはそれを感じ取るほどの意識はなかったのだった。 代わりに、こんなことを言い始める。 「 「! ええ。小生にとって、この吟遊こそ、人生の中での喜び……ですから」 嬉しそうに琴を奏でるゼル。ケイフはそれを感じることは出来ないが、背を向けながらもゼルにこう言葉を投げ掛ける。 「……結局さ。そのサキュバスってのはさ。 「 それを聞いたゼルの琴は、旋律を止めた。それに少し驚いた様子のケイフは、振り返ってゼルの表情を見る。……ゼルは、目を見開いてその言葉に首を振っていた。 「そんな訳がありません。彼女は小生の名を呼ばなかった」 「じゃあなんて呼んでたんだよ」 「 なぞるように出た言葉は、ゼルの無感情な表情から表れた。混乱して、感情を上手く表せられないのだろう。ケイフは視線を下げた後、ゼルの反対側に体を向きなおす。 「……テメェの全てはそれだろ? だったら、それを愛してるってことは、テメェを愛してるってことじゃねぇの?」 「残念ながら、その当時の小生の全ては……彼女でした」 そう寂しそうに語るゼルだったが、目の前で他の男とまぐわう彼女の表情が、魅惑するように自分に向くことがあったと思い出す。目の前で生殺しにあっている自分の姿を見て、小悪魔的に挑発しているのを。 もしかしたら……あのまま彼女を、無理矢理抱いてしまうことが正解だったのかもしれない。彼女は、その正解を自分に求めていたのかもしれない。そんな想いが頭を過ぎったゼルだったが、今ではもう彼女はこの世界にはいない。多くの男を誑かし、インキュバスにして廃人にし続けた彼女は、処断される運命にあったのだ。 (もし……もし、小生が男としての意地を、あと少しだけ持っていたとして、愛する人を独占したいと願う気持ちがあれば……彼女は、小生を選んでくれていたかもしれない……?) 「……まぁ、今そんなこと言っても仕方ねぇか」 放り投げるようにそう言ったケイフは徐に立ち上がり、ゼルの目の前でそのスラリとした背中を見せ付ける。脇の間から覗く乳房がゼルを誘惑するが、ゼルは慌てて目を逸らす。其れを知ってか知らずか、ケイフはゼルに振り向く。 「じゃあ、もう此処には用はねぇだろ? 「……え?」 呆気に取られるゼル。だがケイフは露わになったままの乳房をゼルに向けて、脅すように話を続ける。 「メンドクセェ瘤付き野郎とヤる趣味はねぇんだ。しかもチャラチャラ五月蠅いしなぁ。……居てくれるだけで面倒なんだ。昼寝を邪魔したとか……どうでもいいから、さっさとどっか行っちまえよ」 そう呟く彼女の声に、威勢というものは感じられず。ゼルはその感触に戸惑いながら、藁の山から立ち上がる。 「……そう……ですね。失礼しました。なんだか、余計迷惑をかけたみたいで」 「全くだ。お帰りは彼方だぜ」 「………」 ケイフに促されるまま、ゼルは目深な帽子を被り直し、洞穴から出て行く。その後姿を一瞥もせずに佇むケイフは、瞳を落としたまま只気配が遠のくのを待っていたのだった。 |
【メモ-人物】
“ケイフ”-1 健全な食っちゃ寝生活を営んでいたミノタウロスの少女。一人称は“俺”。男勝りな口ぶりだが、中身は結構乙女で繊細。森の中で昼寝するのが日課で、日光浴が好き。 処女の癖に童貞がうんたらかんたら抜かしている。 普通のミノタウロスと同様、食欲、性欲、睡眠欲という三大欲求に従って生きている為、誰が聞いても流麗な筈の詩吟など、ハエが耳の周りを飛んでいるくらいにしか思っていない。寧ろ滅びればいいと思っている。 耳の裏をフッとされるのに弱い。 09/12/25 23:55 Vutur |