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後篇

   え?」
 俺は聞き返した。もう羽織も要らなくなる季節を迎えた矢先に、父上は言った。
「二度は言わん」
「そんなっ。どうしてですか!?」
 この時が初めてだ。父上に刃向かったのは。思わず父上の前で膝を立てて、体を前に迫らせたのは。父上は冷静さを失っている俺に対して、まるで自分の息子とは思っていないような冷たい眼を向けてくるのだった。
「……どうして? 祁答院家の人間が、この決定に“どうしてか”と問う事がどうしてだ?」
「う、雲飛は俺の大切なとも……配下でございます!! そんな、急にお役目御免などと」
 一瞬出掛かった言葉を無理に押し込めてそう言った俺の姿はさぞ滑稽に映っただろう。父上は冷笑に伏す。
「そうだな。毎日毎日欠かさず平坂苑に通っては、桜の木の下で語らう。さぞかし大切な配下なのだろうな。だが、私は言った筈だ。妖物に肩入れすることは許さぬ、と。四方や忘れた訳ではあるまいな?」
 片手に携え、閉じられた扇が俺の頭を指す。俺は脚を畳み直し、頭を下げる。
「しかし……」
「ええいっ。黙らんか!」
 怒号とともに投げ付けられた扇が俺の頭を打つ。父上は立ち上がり、頭に血筋を浮かべながら俺を怒鳴り付け始める。
「“鬼狩り”として栄えてきたこの祁答院家の人間に生まれておいて、鬼などと親交を結ぶなど、あってはならんことだっ。お前は我が息子でありながら、家風に背く愚行を行った! ……口を開くにも、身の程を知れ、この愚図がぁっ!!」
 父上の豹変。俺の認識が甘かったことを痛感させられた。俺は、妖怪も人間も仲良く暮らせると思っていた。何より、雲飛と語らう事で、絶対に叶う夢だとも思っていた。
 だが、それは無理だったのだ。目の前にいるこの人間こそが、夢の前に立ち塞がる大きな壁。そして、俺の体にはこの人間の血が流れている。それに酷い嫌悪感が生まれた。
「それに、あの鬼め、つけあがりおってからに! 親を殺してから泣いて命乞いするから恩義をかけてやったものをっ。家の者を誑かしおって!」
    え?
「ち、父上……」
「誰が口を利けと言った!?」
「ですが、お尋ね申し上げます! 雲飛の親を……殺したのは……?」
 父上の剣幕に押される訳にはいかない。俺は勇気を振り絞って、聞き逃せない部分を確認しに掛った。その結果、耳を塞ぎたくなる様な事実を聞かされることになる。
「ああ、あの鬼の親なら私が切った」
   !?」
「といっても、奴の片親は人間だったがな。まぁ、妖怪に魅せられた人間も妖怪と大差はない。人間に見付からない様に山の奥で隠れておったのだがな、私に見付かったのが運の尽きだ。我が愛刀・鬼切りで首を落してやった。我ながら、見事な手際だったぞ。はっはっは」
    此奴は何を言っているんだ。何を、自慢げに語っている?
 殺したのだぞ。人を、妖怪を。山奥で誰にも迷惑を掛けずに、幸せに暮らしていた夫婦を、自分の自己満足で。
 俺はこの時、自分がどうしようもない程暗い場所で生まれた事に気が付いた。俺は、何も知らないで雲飛と一緒に居たのだ。此処ずっと、二人で平然と語りあって、親交を深めていたのだ。俺がどれ程暗い場所に立っているのかも知らずに。
「それで、親を殺した後、あの鬼の子を連れて来た訳だが。お前の世話係にしようと思った理由を知りたくはないか?」
 突然そんなことを訊いてくるので、俺は放心状態でありながらも、頷いてしまう。父上が罠にかかった獲物を見るような眼で俺を見下ろした気がした。
「それは、お前に殺させる為だ」
「………」
 もう、何も言えなかった。予測の範疇を超えた出来事に、俺は只受け入れる事も拒絶することも出来なかったのだ。
「獣は仔に狩りの仕方を教えるために、弱らせた獲物を遣るものだ。実践で奴等を殺すのに躊躇など見せれば、奴等の思う壺だからな」
「……一度慣れてしまえば躊躇は生まれない、という事ですか」
「そうだ」
「………」
「判ったか。お前がどういう身の上で生まれてきたのか。所詮、鬼狩りの子に生まれたお前は、鬼を狩る立場以外の何者にもならないのだ! それが判ったら、今すぐあの鬼の子の処に行って、首を刎ねてこいっ。そうすれば、お前を私の子として認めてやるっ」
 最後にそう強く言い付けられて、俺は傀儡の様に立ち上がり、父上の部屋から出る。襖を開けて、徐に右を見た瞬間俺は凍りついた。

 其処には雲飛が立っていたのだ。

 俺は後ろ手に襖を閉じる。辺りはもう日が落ちていた。視線は雲飛から外さず、暫くお互い何の感情も見せあわずに見つめ合う。揺らめく炎のように、ちらちらと雲飛の目に怒りや悲しみが浮かび上がる。俺には何も浮かび上がらなかった。



 赴くままにやってきたのは、夜の平坂苑だった。勿論、月の下に照らされるのはあの桜の木。ちらほらと花が芽吹いているが、満開とはほど遠い。俺は明るい月光の下、桜の木に見守られながら雲飛と向き合った。彼女は今まで見せたことのないような程、怖い顔をしていた。
「雲飛」
 そう名を呼んでも、雲飛は疑うように俺を見詰めてくるだけ。俺は噴き出す思いを、思い切って白状しようと思った。
「あのさ、俺……」
   いいよ」
 俺の言葉を遮って、雲飛は言う。俺は何の事か判らなかったが、雲飛は悲しそうに笑う。
「私、雲掃の為なら死んでもいい。ううん、殺されるなら、今まで優しくしてくれた雲掃に殺してほしい」
 俺はそれを聞いて頭が真っ白になった。だけど、雲飛はそんな俺を察してか、俺の腰元を指さす。其処にはいつもはなかった、刀が提げられていた。
「私を殺して、旦那様に首を持って行って差し上げて? そうすれば、雲掃は立派な鬼狩りとして、お家の一員として認められるでしょ?」
「ば……」
 思わず出掛かった言葉。桜の木も見ていることだし、折角だから、言ってしまおう。
「馬鹿かっ!!」
 雲飛は目を丸くする。
「俺は、お前に満開のこの桜を見せてやると言った! それなのに、殺してくれだと? 見縊るなっ。あんなこけ脅しで、約束を果たさない臆病者とでも思ったか」
「で、でもっ。でも! 旦那様に認めてもらわなくちゃ、雲掃が」
 そう言おうとした雲飛を、俺は咄嗟に抱き締めた。吃驚して体が震えたみたいだが、肌を通して判る、お互いの体温。真っ赤な肌は、それ以上に真っ赤になったような気がした。
「あんな耄碌爺の言ったことなど、誰が気にするか! 例え家の者に認められなくとも、俺は、お前と一緒に桜を見る事の方を選ぶっ。今年が駄目でも……いつか」
 ……雲飛の体が震え始める。凍えているのかと思って離れようとすると、離さないで欲しいとばかりに俺の体を抱き返す。アカオニの力は人間の比ではない。本気で抱き返されては骨が折れる。俺は痛みに我慢しながら、雲飛を再び抱き締める。
「だから……逃げよう?」
「え」
 驚いたように顔を見合わせる。
「逃げるのだ、俺と」
 自分でも安直な考えだとは勘付いていた。この提案には雲飛も目を丸くして、首を振る。
「駄目だよ。雲掃には……ちゃんとしたお家があるじゃない」
「捨てるさ、そんなもの!」
「駄目! 私の為に、雲掃が何か悪いことになるのは……嫌」

 切実にそう訴える雲飛の目に確かな気持ちがあることは、子供でも判った。俺はそれを確かに受け止め、渋々頷く。
「判った。だが、どうするのだ。このままでは、お前……」
「大丈夫。私なら、一人でやっていける」
「だが」
 女子の独り身を案じる俺に、雲飛は袖をまくりあげて隆起するあどけない筋肉を見せつける。
「心配しないで。こう見えて私、結構逞しいんだから」
 そう言って片目を瞑ってみせる。その様子に俺は些か不安が過ぎったが、不安がっていても仕方がない。
「……よし、信用するぞっ。その言葉」
 そう声をかけると不意に雲飛が俺を見詰め始めた。
「……雲掃」
「うむ?」
「私、ずっと雲掃の傍に居る。離れたりなんかしないっ。だから、どうか、強くてカッコイイ男の人になっててね……?」
 切ない瞳を向け、最後に雲飛の顔が近付いてきた。そして、そのまま顔を引き寄せられ、柔らかい感触が口に当たる。
 夜なのに、月光が矢鱈と眩しかった。



――――――――――



「雲掃」
 何時の日か聞き覚えのある声が、彼を呼んだ。彼はその声に導かれるままに目を開く。其処は、一面真っ白な部屋だった。只、彼の顔を心配そうに覗き込む赤い顔を除いては。
「……うね、び?」
 彼が返事を返してやると、雲飛は眉を放り投げて驚いたあと、嬉しそうに笑うのだった。
「!! 雲掃? アタイが判るか? 雲飛だぞ? アカオニの雲飛だ!! アンタの幼馴染の〜〜っ」
「判っているから、揺するな。頭が痛い」
 そう言った雲掃に、雲飛は慌てて手を放す。
「悪ぃ。でも良かった。アンタに死なれちゃ、目覚めが悪すぎるからなっ」
 目に涙を湛えてそう言った雲飛。それを見た雲掃は、柔らかなベッドの上で微笑んだ。
「………」
「そうだ! 医者を呼んでこねぇと。ちょっと待ってろ?」

 そう言って駆け出そうとする雲飛の腕が何かに掴まれる。振り向くと、雲掃が体を起して、雲飛に向くのだった。それを見た雲飛は咄嗟に彼の体を支える。
「お、おい。まだ寝てろって。奇跡的に助かったもんなんだぞ? どてっ腹に穴開けて」
「聞け、雲飛」
 今や仮面も無骨な鎧も脱ぎ棄てて、いつしかそうであったように人の姿を明かす雲掃。右目の傷は痛々しいが、左の目は雲飛の追憶に触れた。思わず、雲飛は息を呑んだ。

「俺は色んな物を捨ててきたつもりだ」
 そう言い出す雲掃に、雲飛は頷く。
「ああ。過去も将来も家も……だろ?」
「自分もだ」
「……それの意味がよく判らねぇんだけど……?」
 そう問う雲飛に、雲掃は言葉とは裏腹に、穏やかに口元を緩ませる。

「俺は、死にたかったのだ」

「!」
「西洋人に無残にも敗れ、家を追い出された俺は、何もかもに絶望し、死を選ぶ事にした。だが、せめて故郷で死ぬのではなく……お前の、知らない場所で死にたかった」
 そう淡々と語る雲掃に、雲飛は表情を固めて聞いていた。雲掃は続ける。
「せめてお前の耳に、俺の無様な死が伝わらないほどに遠い場所で死のうと思ったのだ。なのにお前と来たら、俺が西洋に渡ると何処からか聞きつけて姿を現し、こんな所まで俺に付いてきて……全く、なんて馬鹿馬鹿しい巡り合わせだろうか」
「あ……う……」
「……でも、俺は忘れていた。お前と別れる時に聞いた、お前の言葉を。……悪かったな。今まで、お前を辛い目に遭わせて来てしまった」
 苦しそうに笑う雲掃の表情は、雲飛にとっては変わらないものが其処にあったのだった。雲飛は込み上げてくる想いに耐えきれずに、その目から大粒の涙を流し始めるのだった。
「うぅ……っ、くぅ   っ」
「済まない。今まで、本当に苦労を掛けた。俺はもう大丈夫だ。大丈夫だから……」
 自然に雲掃の腕が開かれ、雲飛が甘えるようにその胸に身を委ねる。それでも嗚咽を漏らし続ける雲飛は、雲掃の胸に抱かれながら謝る。
「ゴメンッ、ゴメンね……?」
「お前が謝ることが何処にある」
「あるよ……ずっと、謝んなきゃ、て思ってたことがある」
 そう言った後、雲飛は涙ぐんだ瞳で雲掃を見上げる。いつもの豪放な姿とは打って変わって仔犬の様な愛らしい瞳を見せてくる彼女に、雲掃は少しだけ顔を赤くする。だがすぐに雲飛は頭を下げ、言い辛そうに告白する。
「雲掃がこうなったのは、全部アタイの所為なんだ」
 雲飛の言葉を静かに聞く雲掃。そんな彼に、必死に雲飛は今まで抱えて来たものを明かそうとするのだった。
「……アタイは雲掃と一緒にいられなくなってから、ずっと山に籠っていたんだ。まぁ、偶に雲掃の様子を見に降りてくることはあったし、ちょっと村の連中を脅かしたりして酒を見繕ってきたりはしてたけどさ……。でも、そうしている内に、雲掃が大人になっていくのに気付いた。なんだかすっごく背も高くなってきて、体も締まってきて……。顔も、男前になってきた。それに気付いた時、アタイは……すごく、怖くなったんだ」
「………」
「いくつもの春が過ぎたよ。桜の花も、何度満開になった? それでも、アンタの傍にアタイは居られない。若しかしたら、このまま一生隣にアタイは居ないかもしんない。んで、別の誰かが雲掃と桜を眺めてる、なんて思うと……怖くて……悔しくて……堪んなかった……っ」
 雲飛の涙の色が段々と変わって、嗚咽も消えていく。それでも、洟を一回強く啜ると、雲飛は続けるのだった。
「んで、アタイは祁答院家に段々ムカついてきた。弱い者虐めで偉そうに踏ん反り返っている、彼奴等が気に入らなかった。アタイ達を引き離した彼奴等が、憎かった。でも……何より、雲掃が彼奴等みたいになっていくのは嫌だったんだよっ」
「雲飛……」
   だから、あの西洋人に協力した! 祁答院家の宝は、あらゆる妖怪からの攻撃を防ぐ力があったからさっ。それがなくなって、奴等が食い物にしていた妖怪に滅ぼされればいいと思ったんだっ。でも、アタイじゃあの屋敷の中では無力。だから、人間に任せることにした! ……でも……でも、まさか、あの時、あんな場所に雲掃が居るとは思わなかったんだよぉ……っ。まさか、あの所為で雲掃の居場所を奪う事になるとは、思わなかったんだよぅ……っ! ゴメン……ゴメンね……雲掃ぁ……っ」
 懺悔を終えた彼女は泣き崩れる。何度も何度も謝罪の言葉を連ねて、心に押し留めてきたものを、この場で一気に吐きだすのだ。そんな彼女の頭を、角に気を付けて撫でる雲掃の目に、彼女に対する軽蔑など微塵も無かった。
「雲飛」
 そう声をかけると、泣きじゃくりながらも顔を持ち上げる。背は子供の時とは違って彼女の方が大きいのだが、此処ではとてもじゃないが、鬼と呼ぶには可愛過ぎるものがある。雲掃は「心配するな」とばかりに優しく微笑みかける。
「ありがとう」
「え……? ア、アタイ……雲掃の全てを、奪っちゃったんだよ? その顔だって、アタイがつけたようなもの……」
 そう指摘されると、雲掃はそれとなく右目の傷に触れる。その瞬間、雲飛がまた辛そうな表情をする。雲掃は直ぐに触れる指を離す。
「確かに俺は色んなものを失った。家も、金も、約束された将来も。でも、俺は何れそんな物は捨てるつもりだった。いや、あんなことが無い限り、何時までも決別できなかったかもしれない。俺は、鬼狩りとして生きるよりも……」
 そんな雲掃の目に吸い込まれていきそうな感覚に陥る雲飛の目には、何時の間にか涙は無く、映るのは只一人の人物だけだった。
「……所で、何故そんな喋り方に変わったんだ?」
「? それをこういう場面で訊くのか……?」
「ずっと気になっていた」
「ハハハ」
 雲飛が笑い始める。雲掃が惚けるように首を捻る。二人の体はベッドの上で重なり合っていたのだ。お互いを隔てるものは白いシーツのみ。雲飛は足を雲掃の体に組み付かせ、体を摺り寄せていた。
「仏頂面が剥がれたなっ」
「お蔭様でな」
 雲飛は確かめるように笑った。
「……まぁ、別に言う事もねぇんだけど。雲掃と判れた後、ちょっと荒れてた時期があって。んで、そん時、村人脅せば物が手に入るって気付いてから……」
「グレるにしても判り易い所から入ったな」
「う、うるせぇ」
 呆れながらも朗らかに笑う雲掃に、雲飛は急にたおやかに振舞い始める。
「じゃ、じゃあっ。昔の喋り方に戻そっか? べ、別にどっちでもいいんだけどぉ……」
「うん? 俺もどっちでも。でも、今の方がらしいしなぁ」
「どういう意味だ!?」
「ハハハ」
「……なぁ」
「ん?」
「……お、お互い……もう、子供じゃねぇ訳だし?」
「そうだな。あれから何年も経ったしな」
「ああ。だから、その……。そ、そろそろ……いいんじゃないかなぁ、と」
 何かを察して欲しそうに上目遣いをする雲飛に、雲掃はそ知らぬ顔で返す。
「何がだ?」
「何がって……ア、アンタだって、判らない歳じゃないだろっ?」
「歳に関係なく、判らないものは判らないものだ」
「うぅ……」
 そろそろ虐めるのも可哀相になってきた雲掃は、そっと、拗ねる雲飛の頭を撫でる。
「そろそろ男女の仲を深めよう、と言った所か?」
「う。ま、まぁ、アンタが……したい……って言うなら」
 最後の方は雲掃でも聞き取れぬほどの声で呟かれる。雲掃は雲飛を今一度強く抱き締め、こう囁いた。
「じゃあ、お願いがあるのだが」
「……何だ?」
「昔の喋り方で、誘ってくれ」
「はぁっ!?」
 思わず体を起こして目を丸くする雲飛。雲掃は苦笑しながら再度頼む。
「頼む」
「ヤダよっ。そんな、こっ恥ずかしい!」
 腕を組んでそっぽを向いてしまう雲飛に、雲掃は不敵な笑みで囁き続ける。
「昔と変わらず、お前は可愛いな」
「ひにゃっ!?」
「鬼と聞けば、気に入った男は無理にでも犯すものだ。だが、お前は俺に態々同意を求めて、したいのだな」
「ななな……っ!? ……そ、そんなことねぇ! 無理にでもヤッてやりてぇよ!」
 慌てすぎて誤魔化すところを間違えてしまったらしい。雲掃は目を丸くして雲飛を見詰めている。雲飛の方は、女の恥じらいより鬼の誇りを選んだ台詞に、元々赤い肌を緋色に変える。
「わっ。今の無し! わ、忘れろ!」
「昔の喋り方でなら」
「……わ、忘れて……? 雲掃……」
「何だか違うなぁ。よし、誘え」
「おいっ!!」
 指をくいくいと曲げる雲掃に、雲飛も溜息を一つ吐いて、改めて見詰める。
「……ごほんっ。え〜……雲掃」
 そう名を呼んで、そっと、ベッドの上で四つん這いになると、ふくよかな胸を腕で挟み込み、雲掃に迫る。女性として最低限の部分しか隠していない鬼の衣装でそのポーズを取られて迫られるとするのならば、雲掃もその例外ではなく、男は欲情してしまう。
「……お願い、雲掃……その、えと……わ、私、雲掃の事がやっぱり一番好きっ。だから……婚ご……っ?」
 蕩けた表情。雲掃は愛しさ一杯に彼女に口付けをする。
「ん」
 軽い接吻は僅かに交わされるだけで、された側の雲飛は驚いたように眉を跳ね上げているだけだった。
「……前は、お前からだった」
「な、なんだよ。突然」
「汚名返上」
「なんだよっ、それ」
 雲飛が反抗するように言うと、そのまま雲掃は彼女の体を支えて、引き倒す……。

 ガララッ
 その瞬間、病室の扉が開かれる。中に入ってきたのは、二人に協力したあの魔術師だった。蒼いローブを纏った彼が其処で見たのは、何やら気不味そうに距離をおく二人の姿だった。
「む? もう起きられるのか。流石だな」
 壮健そうな雲掃の姿を見て、気遣う振りをする。その視線の脇には、アカオニが彼に凄まじい殺意の瞳を向けていた。
(くそ……っ。邪魔しやがって……!!)
「……なんだか、妙に殺気を感じるのだが、良いか? それとも、後でまた来ようかな?」
 明らかに雲飛の事を気にして言う魔術師に、雲掃は構わないという風に手招きする。
「いや、丁度話したいことがあった」
「! なんだよっ。アタイとヤるより、此奴と話す方がいいってのか!?」
 雲飛が心外そうにそう叫ぶ。雲掃は苦笑していたが、状況を知らない魔術師の方は、何を“ヤる”のか判らず、キョトンとしていた。
「……後で来ようか?」
「いや、気にしないでくれて構わない」
「そ、そうか」
「フーッ」
 雲飛に牙を剥かれて睨まれながらも、魔術師は雲掃の横に立つ。彼の左手には椅子があったが、其処に座れば雲飛に隣接してしまう。椅子一個隔てた距離が今は最適なのだ。
「どうやら、俺はお前に助けられたらしいな。感謝する」
 先にそう話し出したのは雲掃だった。魔術師は意外そうに眉を動かす。
「ほう? 何かした憶えは無いのだが」
「………」
 雲飛が黙って下を向く。その様子を見逃さなかった雲掃は、何かを見据えたようにふっと笑んだ。
「俺が負った傷。あれは確実に助かりようなど無かった。それでも、俺は生きている。雲飛は何も言わなかったが、多分、お前が助けてくれたんだろう。生憎、西洋の術には詳しくないが」
「ふむ。東洋人は偏屈だと聞いていたが、そうでもないらしいな」
 そう呟くと、魔術師は横の椅子を引き寄せて、座る。雲飛の怒りが鎮火し、話が長引きそうだと勘付いたからだ。
「それに、中々に賢い。見込んだとおりというべきか」
「……?」
「いや、此方の話だ」
 話を途端にはぐらかす彼の様子に疑念を抱きつつも、思い出したように雲掃は彼に問う。
「そうだ。キリクは、どうしたか知っているか?」
 それを尋ねられると、魔術師は眉をピクリと動かし、急に苦笑いし始めた。
「あ? あぁ。彼女が本塁打かました後は……知らんなぁ……」
「そうか。結局、“芥火の玉”を取り返せなかったな」
 虚ろに呟く雲掃に、雲飛は詰め寄る。
「ま、まだチャンスはあるさ! がんばろっ!? 雲掃」
 両拳を構えて健気に言ってみせる雲飛だったが、雲掃は鼻から息を吐き出して、目を瞑る。

「いや、諦める」
「そうそう。そういうのはさっさと諦めるに……ええぇぇっ!!?」
 絶叫が病院を揺るがした後、雲掃は彼女に真直ぐ向いてこう言うのだ。
「俺は元々あの家に帰る気は無かったのだ。今更取り返しても意味は無い」
「え!? じゃあ、今まで追い続けていたのは……!?」
「今更こんな事を言うのは卑怯かも知れんが」
 そう口を開く雲掃。

「余りにも、お前が頑張っていたから」
「え?」
「お前は、俺よりも俺の居場所を取り戻そうと躍起になっていた。だから、探すだけ探してみようって、思ってな。それに、見付かれば、頑張ったお前が報われるから……つい」
 俯いて右目を掻く雲掃に、雲飛は眉を顰める。
「つい、じゃねぇっ。アタイが馬鹿だったって、事じゃんか……」
「だが、今になってはどうでもいいことだ。今が、大切なのだから」
「! そ、そうだな」
 お互いの気持ちを確かめ合って、笑いあう二人に、密かに安堵した魔術師の男。そっぽを向いているその顔には、汗が止め処なく流れ出している。
(た、助かった……!)

 というのも、あの一件の後、魔術師はキリクと遭遇していたのだ。館から飛ばされたキリクは、町の暗い路地に身を潜めていた。其れを彼は目敏く見つけ出していた。
「キリク=スターベイ」
 そう名を呼ばれた男は、ビクリと身を震わせる。逃げ出そうとするが、直ぐ目の前は壁だったので其れもできずに、振り向く。その表情を涙と焦燥が塗れていた。
「はぁ、はぁ。き、貴様」
「哀れな羊よ。己が罪とも向き合えず、只地の底を這いずり回るのか」
「五月蠅いっ。貴様の仕業だな! トチ狂った邪神教め!!」
 必死な声でそう叫ぶ彼に、魔術師はほくそ笑む。
「負け犬はよく吠えるらしい。自分の身を振り返ってみるがいい」
「黙れ! 例え相手が“魔吼のゲーテ”でも、僕の最高術式である『フォルテーゼの槍』をまともに喰らっては生き残れまい!」
 真っ赤な顔でそう叫ぶと、早速術式を唱え、その手から雷光を轟かせる。だが、それはあっけなく魔術師の眼前で消え去ってしまう。
「な、何故!?」
「矢張り相応しくないな」
 そう呟いた“魔吼のゲーテ”は、ゆっくりとキリクの手に輝く赤い玉を指差す。
「“芥火の玉”は、東洋の宝だと思われているが、元々はチェルニクのサーガという南洋の物語に登場する魔導具だ。その効力は魔封じ。祠に納める事で結界が張れるが、手に持っているだけでは自分の魔力を封じるだけだ。そんな事も知らずに手を出したのが愚か。だから、自分の身を振り返ってみるがいいと、忠告してやったというのに」
「く、くそっ」
 ガシャァンッ
 そう悪態を吐くと、キリクは手に持った赤い宝玉を地面に叩きつける。玉は激しい音を撒き散らし、砕け散ってしまった。其れを見た魔術師は、眉を顰める。
「………」
「こ、これでどうだ!? 今度こそ、僕の」
「うぬぼれるな、クズ」
 その一言で、彼は何処からか現れた幾百の刃に貫かれた。地面に血の模様が浮かぶ。引き抜かれ、消え去った刃の後には、物言わぬ死体が転がっているだけだった。
「貴様がアカオニの一撃で生き延びたのはこの玉のお陰だ。曲がり形にも、これは貴様を守ったのだ。例え貴様にとって物でも、その意義を蔑ろにする者は俺が許さない」
 冷徹な瞳に、鮮烈な怒りが燃え上がる。そんな魔術師の背後に、一つの影があったのだった。
「後一つ訂正しておこう。俺を、あのイカ臭い野郎共と一緒にするな。不愉快極まりない」
「マスター、協力者が目を開けられました」
 無感情な印象を抱かせる表情だったが、そう呟いたのは可憐な少女だった。ゲーテは彼女に振り返り、微笑む。
「そうか。ご苦労」
 路地を出て歩こうとする彼だったが、一つある事を思い出す。ふと立ち止まると、後ろを付いてきていた彼女の頭が背中にポスンと当たる。
「? どうかなさいましたか?」
「……いや。なんでもない」
 そう言って歩き始めるゲーテに、少女は首を傾げる。だが、そんなゲーテの表情には焦りの色が浮かんでいた。
(壊されてしまった以上、彼等にどう言い訳すればいいだろうか)



 つまり、彼らが必要としない以上、“芥火の玉”が壊されたことを口にする必要は無いのだ。というか、ゲーテが無駄に挑発した所為で壊されたので、口にしない方が得策なのだ。
「しかし、惜しいことをしたな。旅の資金に売ればよかったのだが」
 そんな事を言い始めた雲掃に、ゲーテはビクつく。
「そうそう、ていうかあの野郎の手にあるって言うのが気に食わねぇ。過去を清算するって意味合いで、これからの目標は、あの野郎を取っちめるってのはどうだ?」
「ゴホンッ。……や、止めておけ」
 業とらしい咳払い一つした後、ゲーテに注目が集まる。彼は必死に方向修正を試みる。
「か、過去には関わらない方が、身の為だ。私の経験則だがな」
「……そうか?」
 雲飛が怪訝な顔をするが、雲掃は素直に彼の忠告を聞いた。
「そうだな。今更固執するのも馬鹿馬鹿しい」
「………」
「ところで、言われていた条件なのだが」
 そう話し始めた雲掃に、ゲーテは顔を上げる。自分が突き付けた条件を忘れていたようで、途端に思い出して声を出す。
「あー……」
「確か『お互いの探し物を見付けたら引き渡す』というものだったな」
「そうだな。悪いが、“芥火の玉”……は……奴が持って行ってしまったようだ」
 引き攣った笑みを浮かべて嘘を吐くゲーテ。それを聞いても雲掃は素直に頷いた。
「仕方ないことだ。それよりも、“彼女”の方は解放しておいたぞ」
「ああ、確認した。しかし、悪いな。結局、君達の骨折り損になってしまったか」
「構わない。それなりに収穫はあったつもりだ」
「それを聞いて、本当に、安心した」
 そう受け答えするゲーテの目は何処か遠いところを見詰めていた。その横で雲飛が意地の悪い笑みを浮かべる。
「なんだよ。狙われている魔導具って、ゴーレムの女だったのかよ。しかも、あの時に奪われてたってぇ?」
「………」
 あの時とは、出会いを果たしたあの酒場での騒動だ。ゲーテはうっとうしそうにしながらも、返す言葉がない。
「雲飛。その辺にしておけ」
「ぶ〜」
「兎も角だ。これからどうするつもりだ。故郷に帰るか?」
 興味本位で尋ねてきているのが見え見えなこの魔術師に、二人は顔を見合せて意味ありげに微笑んだ。
「今更あの場所に帰る場所などないさ」
「そうだな」
「ほう、ではどうする気だ?」
「当初の目的を果たす」
 雲掃の言葉にゲーテは首をかしげるが、そんな彼に過ぎるほど大きな声で雲飛はこう叫んだ。
   西洋の酒を飲み尽すっ」
 暫く静かな間が開いて、ゲーテは朗らかに笑い始めた。
「……ハハハッ。これは参ったな、そう来たか」
 顔を押えて酔うように笑う彼は、途端に二人に向きなおり、こう言った。
「だが、先を急ぐ訳じゃあるまい。なら少し、礼をさせてくれないか? お互いが得せねば、協力したとは言えんからな」
「い、いや。構わないぞ。骨折り損は慣れているし、本当に気にしていないから」
 雲掃がそう言って謙遜するが、ゲーテはニヤリと不敵に笑んだのだった。
「遠慮するな。好意は素直に受け取るのが一番だぞ? それに――もう、桜も咲いた頃だ」
「え?」
 二人が呆気にとられていると、ゲーテの体が突然光だし、溢れる光に視界が奪われる。その時体が異常に軽くなったのを感じる二人だったが、気が付いてみると、其処は二人にとっての思い出の場所だった。



――――――――――



 その後、ゲーテは風の便りで、東洋の一領主である祁答院家が滅んだという話を聞く。なんでも、妖怪から身を守る“芥火の玉”を失ったことで、領地に多数の妖怪が入り込み、祁答院家の屋敷に討ち入ったそうだ。予てから妖怪たちにとって、祁答院家の横暴は知られていたらしく、遥か遠い地のカラステング達にでさえその悪名は知られていたらしい。祁答院家の行った非道が、この時正に自分の下に帰って来たのだ。
「フフフ、いい気味だ」
 ゲーテはほくそ笑む。また次に聞いた話が面白かったのだ。
「ソニア、これを見てみろ! 面白い事が書いてある」
 そう呼ばれた白無垢の彼女は、ゲーテの携える新聞に目を通す。其処にはこう書かれていた。

   滅んだ祁答院家には一人の跡継ぎがおり、地元の魔物(東洋における妖怪)達の圧倒的な支持を受け、祁答院家を復興させた。親魔物派であった彼は西洋における親魔物派領に劣らぬ政策をとり、人間と魔物の共存を実現させようと励んでいる最中である。』

「……彼等ですね」
「その後を読んでみろ」

『なお現祁答院家当主・祁答院雲掃の正室はアカオニと呼ばれる魔物で、妾を作らぬ愛妻家で知られている点でも魔物に人気がある。しかも現在、彼女の体にはもう次代の祁答院家当主が息衝いている。…しかし将来の酒好きが疼くのか、西洋から輸入したワインを毎日樽毎飲む(本人曰く、量はかなり減らしている)ので、地元住民、人間魔物双方から、お腹の中の赤ちゃんを心配する声が上がっている』

 それにソニアが目を通したのを見て、ゲーテはニヤ付く。
「フフフ。早速跡継ぎまで作ったか。お家再興に余念がないな」
「マスター」
「うん?」
「オヤジ臭い」
「がっ!?」
 この後、幾許かの時が流れ…彼らはまた数奇な運命の下、再会を果たすのであった。



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【メモ-その他】
“祁答院家”-1

鬼狩りで栄えた名門。腕は確かで、ジパングにおいて妖怪狩りとあらばまず名前を出される有名な退治屋の家系。だが実質は妖怪狩りで名を馳せる事で頭が一杯な、エゴイスティックな面が目立つ。
おまけに名門である事を鼻にかけて横暴を繰り返し、何度か無実の民を難癖つけて斬っていたりもするので、民衆の一部にはいい顔されていなかった。
当然、カラステング達が本腰を入れるほど妖怪に対しても非道であった。

今では雲掃が家督を継ぎ、妖怪の助けも借りながら、血の雨の降らぬ領土となっている。(元々反魔物派領だったため、領内には雲掃を快く思わない民衆もいたが、現在では上手く懐柔できている)

現在、長女が生まれ、次女が雲飛のお腹の中にいる状態。

家督を継ぐ人間(多くの場合長男)には“雲”の字を名前に入れる事が通例となっている。

09/12/25 23:56 Vutur

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