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前篇 |
その夜は嫌な予感がした。月も出ぬ夜。暗黒に包まれた外気は酷く冷え込んでいた。なのに、首に汗が伝う。背筋もぞっとする気配。
枕元に置いてあった刀を脇に差し、寝屋から立つ。何かに突き動かされるように廊下を歩いていき、やがて辿り着いたのは重厚な観音扉の前。それを手に掛け、ゆっくりと開く。生暖かい空気が顔に吐き出されるのに、思わず息を呑む。中は薄暗い。奥に滾々と赤い光が鈍い輝きを放っているのが見えた。 中に入ってよくよく其れを眺めた俺は、何かこの部屋に漂う違和感に気付く。空気に糸が張られている気がした。だが、俺はそれでも心の何処かで異常がない事を願っていた。 それが油断とも知らず。 ズシャァッ 顔の右半分の皮が強引に引き剥がされたように感じた瞬間、じわりじわりと耐え難い痛みが噴出してくる。 「ああぁぁぁ 思わず刀を握ったまま顔を抑え、拍子に傍の机に腰を打って尻餅をつく。右の視界が真っ赤だ。真っ赤で……それが丸い輪を象ると、其れを残して周りが真っ暗になる。左目に映ったのは其れと別の光景。血塗れの俺の両手。 「 痛みと右目の異変に気が動転している俺は、そんな言葉を聞く。暗がりの中、俺を突然斬り付けた曲者の発した言葉だ。 「見張りは居ない。そう聞いていたのに、全く。やはり魔物など当てにならんな。西も東も、魔物は呼び方を変えるだけで中身はちっとも変わらん。君もそうは思わないか?」 俺に話しかけている。左目だけで奴を見上げる。視界がぼやけながらも、俺は相手の特徴をしっかりと見定めた。いや、どうしても目に付いた。暗がりの中でも輝く金色の、腰まで伸ばした髪。そして、今までこの国で見たことも無かった白い服。ひらついた衣装。その手に持っているのは鉤爪か何かだろうか。 此処、東洋では金の髪で、しかも髪を腰まで伸ばす者などいない。この曲者は西洋人に違いない。だが、この時察しの悪い俺には判らなかった。何故その西洋人が此処に居るのか。今こうして俺に不意打ちを掛けたのか。 「まぁ、死に行く相手に何を話そうと酔狂に過ぎまいがね。だが慈悲を掛けてやろう。何故自分が今こうして地に這いつくばっているのかぐらいは そう話す西洋人に、俺は少しだけ冷静になった。そう、少し冷静になって、考えればこの男の目的は判ったのだ。俺は其れに勘付き、刀を握り締める。 今此奴のやろうとして居る事、俺の予想が正しければ、其れは今俺が痛みに悶えている場合じゃない事だ。切っ先を奴の背に向け、俺は斬りかかる。 「……でやぁぁぁっ」 だがそんな俺に、西洋人は振り向きもせずに何かを呟いた。 「<ファラニアスがそうであったように、愚か者どもは大地に杭打ちにされるであろう>」 その瞬間、俺の足が動かなくなる。勢い余って俺は体勢を崩す。その時足が地面から離れないことに気付く。結局、無理な体勢で倒れた俺はそのまま足をへし折ることになる。ばきばきと、木が倒れるような音が全身を駆けた。 「ぐあぁっ!?」 「間抜けが」 そう言い放つ西洋人。その先には、俺たち祁答院(けどういん)家が代々守ってきた宝がある。祠に収められたその宝は、先祖から受け継いできた大切な物。俺が守らなければならない代物。 「お前……お前ぇぇっ」 見れば足に杭を打ちつけられていた。地面から足が離れない。どちらにしても、そんな時に転倒したものだから、足の骨は折れて動かない。 俺は叫ぶしかなかった。例え奴が祠の札を剥がして、中から赤色に渦巻く模様の宝玉を手にとって、一笑したのを見ても。俺の体は動かなかった。 「……これが、例の物か。良い輝きだ。正しく僕にうってつけの宝じゃないか。態々遠くまで足を運んだ甲斐があった。」 「お前 西洋人は俺の前に歩み寄り、鉤爪のような長い刀身を三つ並べた剣を俺に向ける。 「口五月蠅い奴だ。こんな所に居らず、自分の部屋で寝ていればよかったものを」 鉤爪の刃が俺の首に宛がわれる。刀で弾こうと指を動かすが、今更刀を落としてしまったことに気付く。武士は刀が折れたとき、手放したときに、負けが決定する。俺は急に朦朧とし始める意識の中、死を覚悟した。 「 何処かで聞いたような、可愛らしい女子の悲痛な声が聞こえた気がした。 その瞬間、俺の首の刃が離れた。耳元で激しい剣戟音が聞こえる。俺の感じ取れた部分はこの部屋の闇の暗さだけ。だが、俺の傍では、俺の良く知る奴が、何か喋っていたように思える。西洋人から俺を守ってくれていたように思える。 ……俺は、深い闇に溶けていくような感覚を憶えたまま、左目を閉じた。右目にあった赤い輪は消えて、その代わりに白い霧のような世界が広がっていくのだった。 ―――――――――― 日も沈み、辺りも暗くなり始める。昼まで賑わっていた屋台も閉まる頃、そんな時間帯からは酒場が賑わいを見せ始める。然程大きくもないこの町の酒場は、地元の人間と流れ者の傭兵などが同程度賑わいの一端を担っている。 だが、本日の賑わいはいつもとは違って、一人の女が……いや、東洋からきたおかしな魔物が独壇場で盛り上げていた。何時も飲んでは騒いでいる男共が、彼女の前で腹を突き出して倒れ伏している。中には泡を吹き出す者も居た。 「さぁっ。どんどん来なぁ! 肝に自信のある奴ぁアタイに挑めぇ! 挑まなきゃ男じゃねぇぞっ」 そう大声で叫んでいるのは、赤い肌に獣の皮でかろうじて恥部を隠すような、刺激的な恰好をした女。その頭には二本の角が覗いていた。アカオニというそうだ。その女が、只でさえ露出の多い服で机に片足を置くものだから、どちらかというと男共は女の挑発に胸を張って挑むよりも、身を屈めて下心を露わにしていた。 倉皇しているうちにでも女は酒瓶を口に付け、一気に飲み干す。喉を酒が通り抜ける度に、その喉元がビクビクと動く様には息を呑むものも少なくは無かった。なにせ、その魔物の女は、此処西洋でも充分通用する程の美貌を携えていたのだ。 「ぷはぁーっ。……おいおい、もう此処には男はいねぇのか? 名乗り出すやつがいねぇなら、全員ズボン取っ払って、玉があるか確かめてやろうか!?」 酒の席での戯れだ。場は盛り上がり、歓声も上がる。その事でアカオニは更に興に乗り、更に酒を手に取り掲げる。もう既に足元には酒瓶やら飲み比べで卒倒した強者共が夢の後である。 「おっしゃー! これ呑んだら一斉点検だぁー! 玉、付いている奴ぁ、此処に置いてけぇ!」 汚い歓声が上がる。酔っ払い達は此処まで酒を飲める者を前にすると、酔いつぶれる様をみたくなるものらしい。実際、彼女が飲みつぶれた後を狙う浅はかな輩もいるだろう。 だがそんな中、彼女の一番傍にいる男 「……ウネビ。少し、静かにしてくれ」 この喧騒の中、微かに震えたこの男の言葉。それをまるで彼女、ウネビと呼ばれたアカオニは自然に聞き及んで、彼に言葉を返すのだった。 「……あ、ああ。悪ぃな」 男は静かに首を振る。どうやらアカオニがこれ以上パフォーマンスをする気がないと見るや否や、彼女を狙っていた男は勿論、そのほかの野次馬達もさっさと自分の酒を飲みに消えていくのだった。 テーブルから足を下ろし、途端に静かに酒瓶をそのまま傾けるウネビは、同じテーブルに座る男の顔を只見詰めていた。町の中だというのに異色の鎧を見に付け、顔まで隠し、威圧するように背には野太刀を担ぐ。異文化であるこの土地では、この井出達は奇異の目でも見られる。魔物連れである時点で更にそれは顕著にであった。 「……何か用か?」 静かにウネビに言う武者。彼女は深い溜息を吐く。 「はぁ。 改めて何か話そうとする様子の彼女に、ケドーインと呼ばれた武者は静かにグラスを空ける。 「その、何時まで気にしているんだよ」 「何の話だ」 「宝玉だよ、ホーギョク。ありゃアンタの所為じゃねーって」 そう言うのは、彼らが此処に流れ着く一カ月前の事だ。東洋に遭った至高の宝、“芥火の玉”が、強奪されたのだ。彼らは其れを取り返すために、東洋から此処に渡ってきたのだ。 だが此処にいるケドーインと呼ばれる男は、ウネビの言葉に首を振る。 「俺の無力が招いた不始末だ。俺の所為以外の、何がある……」 「……そんなの、考え過ぎだってっ」 気楽に考えよう。誰もアンタを責めちゃいない。 祁答院家は過去に鬼を退治しては惨めな下僕にしたほどの家柄。東洋における魔物は妖怪と位置づけられているが、それを邪険にする集団の中でも指折り数えられる家柄だ。そんな家の長男だった、この目の前の男が、親魔物派……いや、親妖怪派だと言う事は世間では伏せられていることだ。 そして遂に、祁答院家はこの不始末にかこつけて、彼を家から追い出した。大切な“芥火の玉”を奪われた彼を、東洋から追い出そうと画策したのだ。そんな彼に、「誰もアンタを責めちゃいない」なんて、言えた物ではなかった。なにより…… 祁答院家が彼を毛嫌いする理由にもなる妖怪との親交は、元々彼女が発端であった。彼女は祁答院家に仕える鬼で、彼の世話係となった縁で、人間の幼なじみと変わらない親交を結んだのだ。祁答院家が其れに気付き、慌てて引き離した経緯もある。様々な要因が重なった不幸は、彼を純朴な青年から、一気に陰鬱な闇に引きずり込むことに成功したのだった。 「そんなことより」 彼の口元が動く。昔はハキハキとよく喋る奴だと思っていたが、今は見る影も無い。そう思って悲しくなるウネビに、ケドーインは語る。 「お前こそ……」 「あ?」 「お前こそ、こんな俺に付いて来て、どうする……?」 そんな事を尋ねてきたので、ウネビは鼻で笑う。 「決まってんだろ! ……西洋の酒を飲みつくしたかったからさっ」 大方正しい。だが彼女の胸の中には、どうしても目の前の男に果たさなければならない決意が渦巻いていた。それはどれ程の酒を飲もうとも、忘れる事はできない。 「いやー。“わいん”ってのも、悪くねぇーなー。ぶどうで酒ができるのかー」 白々しくそう言ってまた酒瓶に口を付ける。其処等辺に散ってあるのは全て男の支払いである。祁答院家は彼を追い出ししなに、一応それなりの財産を分けてやったのだ。それが人間として、親としての子への最初で最後の配慮だった。 「………」 彼女の言葉にくすりとも笑わない。ウネビは目を細めて、そんな彼を見られないという風に視線を逸らす。 ( ゴポンッと音を立てて、彼女の喉をまた赤い酒が通り抜けるのだった。 ―――――――――― 新しい太陽が頂きに昇る頃。ケドーインが歩くと、武者鎧の擦れる音が辺りに響く。東洋の鎧は相変わらず人目を引くが、彼は構わないというように只黙々と石畳の上を歩いていた。その少し後方では、ウネビが露出を控えた白い着物を羽織っていた。 ケドーインに追い付いた彼女は、明るい表情で彼に語り掛ける。 「なぁなぁ、折角だから、何か見て回らねぇか? スゲェもん手に入れて、帰ったら、家の奴等を驚かせてやろうぜっ?」 そう語る彼女の表情は、人間と変わらない、一人の少女が見せる親愛の情に満ちていた。だがそんな表情に見向きもせずに、ケドーインはこう言い捨てる。 「下らない」 「……そっか」 明らかに白眉を下げるウネビ。それを少しも気に止めずにケドーインは進む。 「そうだよな。アタイたち、遊びに来たんじゃないもんな……?」 「………」 その言葉を耳にした途端、ケドーインが立ち止まる。それに驚いたウネビは、驚いて歩みを止めた。 「! なっ……急にどうしたんだよ?」 するとケドーインは徐に後ろのウネビに向きかえり、こう言ったのだった。 「お前は西洋の酒を飲み尽くしに来たんじゃないのか?」 「え。……あ、ああ!」 驚きで表情が曇ってしまうが、思わず強く肯定してしまったウネビは、言った傍から胸に重たいものを抱え込む事となってしまう。ケドーインは周囲を見渡して、何の前触れも無く一件の店に入る。ウネビが見ると、其処は昨日とは違う雰囲気の酒場だった。 「え? え、ちょっと待てよっ」 慌ててウネビがケドーインを追う。店内に入ると、店の中は暗く、静かな音楽が流れていた。正直、騒ぐ事が大好きな彼女にとって、好みなシチュエーションではない。だがそんな店の中でケドーインはウネビを示して、バーテンダーにこう告げる。 「この店にある全種類の“わいん”とやらをくれ」 妙な風貌の男にそう告げられて目を点にするベーテンダーに、ケドーインはこれ見よがしに金を叩きつける。相手は其れだけを見ると、凡その事に目を瞑ることにしたのだった。 「お、おいおい。確かに酒が飲めるのは嬉しいけど……けどさぁ」 カウンターに腰掛けるケドーインの隣にウネビが座る。ケドーインは目の前に並べられていく“わいん”を眺めているだけで、口元を少しも動かさない。ウネビは観念することにして、一息吐いた。 「……判った、判ったよ。二度とあんな口は叩かない」 「飲まないのか?」 きょとんとした返事を返されるウネビ。「あれ」と思いながらも、ウネビはグラスに注がれるルージュに見入って、目をとろんとさせる。 「んじゃ、お言葉に甘えて」 「ああ」 ウネビの目がすっかり甘美な芳香に酔い痴れる。そしてグラスに手を差し伸べようとした時、異変が起こった。 「 ズガァ…ンッ 早口に語られた詠唱。その後に続く悲鳴と爆音。丁度グラスに口を付ける寸前だったウネビは、驚いて振り返ろうとする。が、ふとその手のワインが白い着物に撒かれてしまう。視線を懐にやったウネビは、染みになっていく甘美な芳香を目の当たりにして喚く。 「 「………」 ケドーインも背後の騒ぎにチラリと目をやる。どうやら白昼堂々、この店の中で魔術師が何かやらかしているらしい。周囲に煙が見え始め、客が一斉に外に駆け出し始めている。 「チクショーッ。アタイの命の雫がぁっ!?」 「……一張羅を駄目にしたことはいいのか」 「いいんだよっ。服なんか又買えばいいっ。でも、今此処で出会った酒は、もう二度と帰ってこないっ」 そう間近で熱弁されて、ケドーインも顔を背ける。 「……そうか」 「ぐぬぬ……。酒と書いて友の仇! 面倒起こした奴、一回ぶっ飛ばしてくる!」 「………」 呆れるケドーインを尻目に、ウネビは服を取っ払い、露出の高い鬼柄の下着のまま暗い店内を駆ける。煙の濃い場所に、頭まですっぽり身を隠した魔術師が立っていた。 「………」 その男を前に、ウネビは仁王立ちして、こう叫ぶのだった。 「やいやい! アタイの縄張りで酒の場を乱すとは、いい度胸じゃねぇか。……取り敢えず、顔を見せろ!」 そう言うと、魔術師はウネビの方を向き、興味深そうに上から下まで見回したあと、フードを取る。その下には、丸眼鏡をかけた如何にも非力そうな男の顔があった。 「ほぉ。東洋の魔物か。頭に角、赤い肌。見受けるに、アカオニという種類かな」 「はぁ!? ……アンタ、何のつもりか知らないけど、店の中で面倒起こすなよな」 ウネビは視線を泳がせて、酔いが冷めたように頭を掻く。ウネビが強気な態度を一変させたのは、相手が腕っ節のある男、若しくは威厳たっぷりの傲慢な男を予想していた為だ。だが実際は喧嘩っ気を失せさせるほど非力そうな男。威厳の欠片も無い相手に拍子抜けしたのだ。それに、ウネビは、所謂“学者タイプ”の人間が苦手で、凡そいつもの通りに話すことさえ出来ない。 だが相手はウネビに興味を持ってしまったようで、その眼鏡をウネビに近付けてまじまじと観察を始めるのだった。 「へぇ。東洋の魔物……失礼、妖怪は初めて見るのだ」 「う。何勝手に見て来てんだよ。金取んぞ」 「ははは。失礼、失礼」 朗らかに笑いながらウネビから顔を離す男。だがウネビがホッとした後、彼はこう口を開くのだった。 「だが、先ほど騒ぎを起こしたのは私からではないよ」 「あぁ?」 「全く。世の中には意地汚い奴も居るものだ。他人の物を奪おうなどと。品のない連中だ」 そう溜息を吐く魔術師のその言葉に誘われたかのように、ケドーインが彼の前に姿を現す。 「……強盗か」 魔術師はケドーインの姿を見ると、一瞬口の端を持ち上げてからすんなりと話し始める。 「ああ。私の持っているある魔導具を、欲しがっている輩がいてね。度々私は狙われるのだ」 「……誰に」 「? ケドーイン……?」 まるで魔術師の思惑に引き込まれるかのようにケドーインは話を掘り返し、又男が答える。それにウネビは少なからず疑念を抱くようだった。 「誰に、か。それには余り誠実な返答は出来ないな。何せ、私を狙うものは山ほど居る。正教会も、魔物も、富豪も、国王も、帝王も。唯一、魔王とサバトの連中に狙われていないだけだ」 「その中に、キリク=スターベイという西洋人は入っていないか?」 ケドーインの問いに対して、魔術師は不意に顔を持ち上げた。 「……キリク? はっ。何の因果か知らないが、今私を殺そうと衝撃系の攻術式をぶつけてきた雑魚はキリクの手先だ。奴に貸しでもあるのか?」 魔術師が此方の出方を伺っているのは目に見えていた。だがウネビはケドーインの思考回路を良く知っている。彼は間違いなくこの不敵な魔術師の撒いた餌に食い付くだろうと、予測したのだ。そして、それは直ぐに正しかったと証明される。 「 「………」 武者仮面から覗く彼の右目は獣に引っ掛かれたような肉の隆起が見える。だが左目には何処か真直ぐに此方を見詰め返している光のようなものが、闇に紛れて煌いていた。 其れを見た魔術師は、クスクスと笑い始める。 「……いいだろう。だが、一つだけ条件がある」 魔術師の目の奥に、薄暗い炎が垣間見えた。 ―――――――――― 「 遠い追憶の果て。その頃は平坂苑 今日も桜を見にきた。まだ少し羽織一枚では肌寒いと思える季節。それでも春に芽吹く躍動をこの目で確かめられて満足していた。そんな俺は名を呼ばれて振り返る。 其処には在りし日の勇壮な父上の姿。そして綺麗に染め上げられた羽織で頭を隠し、顔は判らないが、自分よりも少し小さいくらいの者が居た。 「……はい。父上、どうかなされましたか? ……」 幼い時分だ。父上の用事よりも見慣れぬ者の存在に目が行く。 そんな俺の様子を察してか、父上はその者の小さき頭を鷲掴みにして、俺の前に突き出す。行き成りの事でその者も驚いたのか、か細い悲鳴を上げる。それで羽織で身を隠す下は女子だと判った。 「お前も祁答院家の長男として自覚も芽生えてきた頃だろう。そろそろ身の回りの世話をさせる者を引き連れても良いと思ってな」 「身の回りの世話なら、自分で出来まする」 「ははは。我が息子としてそれくらいの文句が聞きたかった頃だ。だが、人の上に立つ祁答院家の一員として、人を御する事も学ばなければならん。 最後に父上が言い放った一言にはいつもとは違った感情が見えたのを覚えている。思えば、あの時から祁答院という家への不信が芽生えたのだろう。それほど鮮烈な印象を受けたのだ。 「……どうした。挨拶せんか。」 再びその感情を見せる。てっきり自分が言われたものと勘違いして怯えるが、目の前の女子の動きが慌ただしくなったのを見て考えを改める。女子はゆったりと頭を下げる。 「! お、お初にお目にかかります……。 「あ、ああ」 ぎこちなく挨拶を交わす。向こうが自分の名前を知っているのだから、改めて名乗る必要はない。それに、女子と話すのはこの時分初めてだったのだ。 すっかりどうしたものか考えあぐね、父上に目を向けると、無表情の父上は俺達の様子を腕を組んで見詰め、何故か溜息を吐いた。 「……ふん。おい、うねび。我が息子に妙な真似をすれば、容赦はせんぞ」 警告の意は俺でも汲み取れた。それを聞くと女子は慌てふためいて父上に頭を下げる。 「しょ、承知しております……!」 「そうか。ならば構わん。……うなら、其奴の事は好きに扱え。よいな?」 「は、はい」 そう言い残して父上は立ち去った。残された俺と女子は、お互いに意識しあいながらも、どう関わればいいのか判らないまま時間を浪費するのだった。流石にこのままでは何処かしら不味いと感じ、俺から口を開く事にした。 「あ、あの〜……そうだ。御主、名前は?」 うねび。父上の言葉を聞き洩らした訳ではない。だが今の父上の口から出た言葉は、全て嘘と思いたかった。垣間見せたあの感情を、認めたくなかったのだ。 そんな俺におずおずと女子は返答する。 「……う、うねび……で、ございます」 「うねびか。聞かない名だな。字は何と書く?」 「……“雲”が“飛”ぶと書いて、“雲飛”……にございます……」 「ほぉ〜、奇遇だな。俺の名前にも雲の字がある」 「え……?」 「“雲”を“掃”くと書いて、“雲掃”。ははは、同じ雲の字でも、なんだか違うな」 ははは、と笑って見せるが、女子は黙って俯いたまま。俺は妙な焦りを覚え、女子に迫る。 「……ところで、何故顔を隠しているのだ?」 「えわ!? え、ちょっと……」 女子の扱いなど心得てない時分、俺は雲飛の表情を確かめたい一心で羽織を奪った。だが、その下にあったのは、玉露のように透き通る白の――ではなく、真紅の肌だった。 一瞬で頭の中で色々な想いが渦巻いた。数々の疑問が蠢き合ったあと、導き出された一番納得のいく結論。俺はそれを雲飛の前で口に出したのだった。 「御主、妖怪……?」 「 祁答院家は妖怪退治、特に鬼退治を生業にしている。だから俺もある程度は知識があるつもりだ。雲飛の髪から覗く二本の角も、その赤い肌も、全てアカオニの特徴だ。 だが彼女は俺に正体を見破られた後は、恐ろしい妖怪とは思えぬ怯えようで俺から逃げて行ってしまうのだった。 「あ……お、おい!」 なんとなく、追い掛けてしまった。此処は広いが、俺は毎日来ている。頭の中に地図は全て納まっているし、建物を介して先回りできる経路も把握している。 暫く滑稽な駆け合いを興じてから、雲飛を塀の隅に追い込んだ。流石に妖怪だけあって、これほど駆け回っても息一つ切らさない。俺は膝を抑えるまでに疲弊していたのだが。 追い詰められたのを察してか、涙目で跪いて、命乞いのような事をし始める雲飛。俺は此処でどういう事かやっと理解できたのだった。 「 当時の俺は、妖怪は退治しなければならない脅威だと思っていた。それに間違いはない筈だった。だが、目の前で怯えて無力な相手に、刃を向ける気にはならなかった。 そもそも、そんな刃も今は携えてもいない。それなのに怯えている彼女。冷静さを失うほどに恐怖しているのが判った。 「ほ、ほら? 今俺は刀も何も持っていない。唯少し、御主と話がしたいだけだ」 両手を広げてみせて、腰に何も下げていないことを示すと、彼女も落ち着いたようだ。目を擦って、土の地面にちょこんと正座する。改めてみると、綺麗な着物がもう泥に塗れていた。俺みたいな人間の子供相手に、必死に逃げようとしていたのが判る。 「えーっと。ほら、立て。折角の綺麗な着物が汚れてしまうではないか」 「………」 取り敢えず彼女を土の地面から離して立たせる。ずっと俯いた様子の彼女に俺はどうするか困ってしまいながらも、そんなときに思いついたのがあの桜の木だった。 「 俺は彼女の手を引っ張って、もう一度平坂苑を駆ける。途中疲労していた足がもつれそうになったけれども、女子の前で倒れるのは恥だと言い聞かせてなんとか持ち堪えさせる。そうして、遂に桜の木の前に立つ。辺りが少し暗くなってきていた所為か、蕾の様子は見て取れないが、俺は構わず指を指してみせる。 「暗くなってきたから見辛いが、これは桜の木だ!」 「………」 俺がそう言うと、雲飛は顔を持ち上げる。俺は嬉しくなって続ける。 「俺は毎日この桜の木を見に来ている。春になると、この木が咲かす桜が満開になる。それが、一年の中でも一番楽しみでな。まだ少し早いのだが、今年の春もきっと綺麗な花を咲かすだろう」 そう聞かせてやると、雲飛の目も怯えが消え去って、桜の木に釘付けになっていた。きっと、俺の言葉の通りに、今年の春の桜を思い描いているのだろう。それが嬉しくて嬉しくて、子供ながらに図に乗ってしまった俺は続けてこんなことを言うのだった。 「でも、今年の桜はいつもとは違う」 「……?」 「 ―――――――――― 雲飛はキョトンとした後に、笑顔で頷いてくれたな。その時花見の楽しみが増えたのを、子供の時分、純粋に喜べたのを覚えている。 今でも……鮮明に思い出せる、深い追憶。あれから捨て去ったものは多くあれども、どうしてか、そのことばかり思い出すことが増えた。 けれどもそんなこと、今はいい。――そうケドーインは兜の緒を締め直し、洋館の門の前に立つ。その隣には巨大な金砕棒を肩に置くアカオニの姿、ウネビも居た。 「……雲掃(うなら)」 彼をそう呼ぶウネビに、ケドーインは全く動じずに返す。 「ウネビ。宝玉を取り返す迄はケドーインと呼べと言ったのを忘れたか」 「ううん。でも、アタイにとっては、アンタは雲掃だよ。変わっちまっても……」 物悲しげに呟くウネビ。ケドーインは動じず、只虎視眈々と塀の中の様子を窺っていた。 「……その名は、捨てた」 相変わらずの陰鬱な語り口調。ウネビは心に棘が刺さった感覚を覚え、咄嗟に声を張り上げる。 「 「ウネビ」 「なんだよっ」 ケドーインがやっと、ウネビの必死に訴えかける表情に向き合う。 「それでいいんだ」 「………」 その一言に、ウネビも押し黙ってしまう。ケドーインは再び屋敷の様子を窺いながら呟く。 「それより、もう喋るな。気取られては計画が成らない」 「……あの胡散臭い妖術師の言い成りになるってのか。はん、嵌められてるんじゃないのか?」 「だったらお前は残ればいい。その時死ぬのは愚かな俺だけだ」 「ばーか。あの野郎に関わったのはアタイからだ。そん時責任取るのはアタイ。だから、頼まれてもアンタは死なせない」 視線を外しながらもそう言ってのけるウネビに、ケドーインは無表情だった。だがその左目を緩ませたのは本人も気付いていなかった。 「 オオォオォォォ 屋敷の東側から何やら亡者の呻き声の様な音が響き、紫掛った怪しげな光が走る。それを感じ取った二人は顔を合わせる。 「合図だっ。続け、雲掃……じゃなくて、ケドーイン!」 「………」 ウネビが先行し、金砕棒を軽々と振り回して、突進する。屋敷の細い鉄が並んだ門など、堪ったものではない。一撃でへしゃげて、役割を損なうのだった。 「 事態を察知した警護の兵士が数人出てくるが、相手が魔物と察知するや尻込みする。そんな連中を前にして肩に金砕棒を担ぎ、ウネビは余裕をかます。 「はんっ。腕に自信のある奴ぁアタイに挑めぇ! 挑まなきゃ男じゃねぇぞっ」 その一喝は酒場でのとは違う迫力を放って、私兵共を慄かせた。だがそんなウネビに対して奮われる武器は剣や槍だけではなかった。 「<吊るされし愚者よ、火刑に処されよ>!!」 兵士たちの後方から火球が飛んでくる。ウネビはそれを見て一笑する。 「お、面白いことするねぇ」 そう言うと、ウネビは金砕棒を構え、迫り来る火球を打ち返した。火球は宙に弧を描き、屋敷の窓を割って中に入る。その途端、中から火の手が上がる。思わず私兵達もそれに目が行ってしまう。 「あ〜らら。雇い主の家に火をつけるなんてよぉ。後で怒られても知らねぇよ〜?」 打ち返した本人の余裕癪癪な一言。私兵達がうろたえる中、闇の中から一閃が走り……幾人もの私兵が地面に伏す事になる。ケドーインは野太刀を構えてウネビの横に立つ。 「……殺したのか?」 「全員、峰打ちだ」 「そっか」 かつてケドーインは襲ってきた盗賊の首を容赦なく刎ねた事があった。ウネビにとって、昔の彼ならまず考えられなかった事。だがウネビが注意すれば、それ以降一度も殺生をしたことはない。ウネビは、その状態が取り敢えず続いてほっとしたのだった。 「活路は開けた。中に入るぞ」 「ああ」 いつの間にか大方の私兵を片付けたらしいケドーインの手際に舌を巻くウネビ。ケドーインはさっさと中に入り、透かさず襲ってきた私兵の腰を打ち払う。ケドーインの剣だって、例え峰打ちでもまともに食らえば内臓破裂は免れない。食らえば痛みに動けなくなる。哀れな犠牲者を尻目に、二人は屋敷を駆け回った。 ―――――――――― その日から毎日の日課に付き合ってくれる者が出来た。父上が世話係に寄越した、臆病で泣き虫なアカオニだ。 この子は「自分も桜が楽しみだから」といって俺と一緒に桜の木を眺めてくれるようになった。蕾の日々の変化をお互いに指摘しあい、納得しあって笑い合う。何時の間にか、そんな風に過ごすようになっていた。 いつもの日課がだんだん違う目的のものになってきたと自分でも気付き出して来た頃だ。そんなある日も、いつものように春を心待ちにする桜を眺めにやってきた。 「咲いている花、無いですね」 雲飛が残念そうに呟く。でも、俺にとってはさして重要なことではない。「そうだな」と返しておいて、桜に背を向ける。 「なぁ、それよりも一つお願いがあるのだ」 「? なんでしょうか」 首を微かに傾げる雲飛の姿に、幼い男子ながらに戸惑いながらもこう語る。 「……敬語を止めて欲しい」 「え?」 余程意外だったのか、目を真ん丸く見開く。俺はしっかりと雲飛を見詰めて再び言う。 「敬語。一応、その……俺は、堅苦しいのとか、駄目でな。父上が遣らせる稽古とか、あれみたいなのが。だから、雲飛も俺の事呼び捨てでもよい! 俺だけ呼び捨てというのは、やっぱり……」 すると雲飛は迷ったように周囲を見回し、俺にこう返すのだった。 「……えと。だ、旦那様の言い付けがありまして……。家の者には敬語で話せと」 「そんなのはいい。現に俺は雲飛には気軽に話し掛けて来てもらいたいのだ。……そうだ、二人きりの時は遠慮せずに話そう。お互い、家だとか種族だとか、関係なく」 「 そう提案すると、雲飛は目に一杯の涙を溜めて泣き出してしまったのだった。俺は訳が判らなくなってしまい、必死に宥めようとする。だが雲飛は目を擦りながら首を振るのだ。 「ううん。嬉しいです。……私、妖怪だから。ずっと冷たくされていたから……」 そう言えばと今更思い出した事は、此処は祁答院家だという事。妖怪を憎み、退治しようとする側なのだという事。そんな所に一人居る雲飛が、まともな扱いを受けている筈がないのだ。 「……そ、そういえば雲飛は、いつも何処で寝ているのだ? どの部屋にも居ないみたいだが……」 「 「め、飯は?」 「………」 どうやらそれは答えるに余りあるものらしく、雲飛は口を閉ざす。 俺は首を振った。父上の考えが判らなくなってしまったのだ。 その晩、俺は父上の部屋を訪ねた。勿論、雲飛の事を尋ねる為だ。 「……父上」 「雲掃か、入れ」 襖を開けると、頼りない蝋燭の明かりに照らされて、父上が座していた。俺は父上の前に跪いてから、顔を上げる。 「父上、私の世話係の事なのですが」 こんなところで雲飛と、名前を口走ってしまえば妙な勘繰りをされるのは判っていた。もう餓鬼じゃないと思い始めた時分だったからだ。父上は眉をあげる。 「丁度良かった。私からも話があったのだ」 「? どのような」 「まぁ、お前から話しなさい」 柔和な態度で臨む父上に、少しは話し易くなったと思えた。だがそれは違った。完全に、父上は図ったのだ。此方から吐露するように…… 「はい。私の世話係、雲飛の事ですが。馬小屋で寝泊まりさせているそうではないですか。食事も満足に与えてはおりません様子。どうか、雲飛を一門の小間使いと同じように扱ってはもらえませんでしょうか」 父上は何も言わずに俺を睨み付けているだけだった。俺は迫力に委縮してしまい、項垂れる。 其の内父上がこう口を開くのだった。 「……今日、その小間使いが平坂苑でお前を見付けたと申してな」 「!」 「聞けば、雲飛と親しげに話しておったそうではないか。ん?」 そう顔を寄せて尋ねてくる父上に、俺はやっと、自分から話し始めた事は墓穴を掘る結果に繋がったと気付いた。 「……ひ、人を御すっ。父上が申し上げられた意味を、探っていただけです」 咄嗟の言い訳。本当は「何がいけないのか教えてください」と言いたかったのだが、それをまともに言ってどうなるか、判らないほど愚かではない。特に今の父上に、生意気な口は利けないと思えた。 父上は俺を見て嗤う。 「一端の口を利く。好かろう、今はそう言うことにしておいてやる。腐っても、お前は私の息子だからな」 「………」 “腐っても”。その言葉が初めて自分に向けられた意味もさることながら、父上の剣幕の前に、俺は口も開けなかった。父上は今まで妖怪を山ほど切り伏せてきた。俺なんかが到底太刀打ちできる筋合いはない。項垂れる様子の俺を見て、最後にこう言い放つ。 「ところで、お前の話はなんだったかな? 忘れてしまった」 「……なんでもございません」 「そうか。夜も遅い。もう部屋に戻りなさい」 そう促され、人形のように俺は立ち上がり、背を向ける。 そんな時、父上がぽつりとこう呟いたのだ。 「……努々忘れるな。祁答院家に生まれたお前が、間違っても妖物に肩入れすることは許さぬ。もしそうなった場合 その言葉を脳裏に刻み込み、自室へと下がった。 「 いつも通り桜を見に来た俺たちは、直ぐにその変化を察知した。昨日の晩は無かった彩りが、今日来てみるとちらほらと見えていたのだった。 「雲掃! 咲いた! 咲いたよっ」 飛び跳ねて喜ぶ雲飛の様子に、俺も照れ臭くなった。なんというか、桜が咲いたことよりも、雲飛が其処まで喜んでくれた事の方が断然俺にとって喜ばしい事だったのだ。 「……ああ。咲いたな」 「もうすぐ春だねっ。もうすぐお花見だねっ?」 「………」 雲飛の嬉しそうな顔は、その時確かに俺を喜ばせた。だが、そんな気持ちとは対照的に、幼いながら嫌な予感というものを、この時俺は感じていたのだった。 ―――――――――― ケドーインは不意に立ち止まる。屋敷の中を粗方探し回り、此処が最後の部屋という所まで来て躊躇したと思ったウネビは、ケドーインに強く言う。 「どうした。さっさと突っ込まねぇと、逃げられちまうぞっ」 すると、突然ケドーインがウネビの方に振り返り、微笑んだのだ。ウネビが見られたのは口元だけだったが、それでもあの晩から失われた笑みが此処に確かにあったのだった。 「……昔の事を思い出していた。思い返してみれば、お前と出会った頃が一番 「な……っ!?」 ウネビは、後退りするほどに驚いた。ケドーインは家を追い出されて以降、過去を振り返ることなどなかった。あるとすれば、あの一夜での雪辱のみ。過去を切り捨ててまで西洋に渡ったケドーインの口から、“幸せ”など、聞けたものではなかった筈なのだ。 「ア、アンタッ。い、今更、そんなこと……」 ウネビの目に薄らと涙が浮かぶ。ずっと連れ添ってきた者として、万感の思いが廻ったのだろう。ケドーインは前を向いて、大きく息を吸う。 「いや、なんでもない。行こう……」 「……ああ」 ケドーインは野太刀を手に、目の前のドアを蹴破った。 部屋に入った二人の前には、見慣れた祠があった。祁答院家の宝を納めていた祠と同等のもの。今ある祁答院家の祠と唯一つ違えるとするならば、納めるべき“宝”が其処にはあった。 白木の枠に囲われた其処にあったのは、赤く渦巻く光を湛える玉。見紛うことはない、あの晩少年の前でみすみす奪われたあの“芥火の玉”であった。窓も何もなく暗い部屋の唯一の明かりをその玉が務めている。だがそれを見ても、ケドーインは真っ直ぐに見詰めているだけだった。 「……あれだっ。よっし!」 冷静に状況を探る彼の後ろから威勢の良い声が響く。ケドーインが咄嗟に制止しようとしたが、ウネビは彼の横を通り過ぎてしまった。 「!! ウネビ!」 ケドーインの声に気付かぬまま、ウネビは“芥火の玉”を手に取り、誰よりも嬉しそうにケドーインに見せる。 「! 雲掃っ。ほら、見て! これさえ持って帰れば、アンタはまた家に帰れるっ。あの頃みたいに、アタイ達、また戻れるよっ」 その目には、嘗ての二人の思い出が映っていたのだった。 ケドーインは、思い知った。誰よりも、誰よりも、ウネビが自分の幸せを願って付いて来てくれていたという事を。何時しか見た彼女の幸せそうな表情をこの瞬間垣間見て、ケドーインは深い闇の底から掬い上げられた気分がしたのだった。 が、それはほんの束の間の想いだった。 「<今こそ武神の槍轟きて、小さき者共を打ち貫かん>!」 何処からともなく発せられた詠唱。そしてそれはすぐに雷光としてこの狭い部屋に轟く。ウネビは強烈な光に目を瞑ったが、その体に苦痛を覚えなかったのを不思議に思い、恐る恐る目を開けてみる。 何時の間にか目の前にはケドーインの後ろ姿があった。 「……雲掃?」 「 ケドーインが膝をつく。驚いたウネビは彼を抱き支えるが、前に回って見てみると、彼の鎧は砕け散り、腹に真っ赤な穴が開いていたのだった。 ウネビの瞳が大きく見開いていく。その手から真っ赤な玉が零れて転がる。 「ふん。東洋の鎧も侮れんな。僕の最高術式に耐えるとは」 そう言葉を連ね、光とともに現れたのは金髪の男。彼こそが、“芥火の玉”を盗んだ張本人だった。ウネビは黒幕の登場など意にも介さず、只ケドーインの容体に目を見開いていた。 「僕の『フォルテーゼの槍』をまともに食らって原形を留めているなんて、随分と不幸だな。個人的には一撃で死ぬことをお勧めしているのだが。……まぁ、これも人の物を盗もうとする愚か者たちへの罰だろう」 一人そう呟いて、ウネビの落した玉を拾う。ウネビは静かに涙を落した。 「嘘だっ。死なせないって言ったのに……アタイ、アタイ……ッ!!」 「安心しろ。すぐに後を追わせてやる」 取り乱す様子のウネビをみた男は、一瞬下卑た笑みを見せる。腰に下がっていた鉤爪の様な剣を手に持ち、ウネビに振り翳した。が、すぐに振り下ろすことはせず、なにやら勝手に話をし始めたのだった。 「……あの世は楽しいかもしれんぞ。其奴と仲良く、いや、お前は魔物だから地獄にでもいくのかな。ああ、これは失念していた。どうせお前らは死んでも離れ離れなんだ。クハハ!」 「……シリアスな場面でごちゃごちゃと――うるっせぇんだよぉぉっ!!」 「!?」 カキィンッ ウネビが唐突に立ち上がり、手に持った金砕棒で男を吹っ飛ばす。小気持ち良い快活な音が響くと、男は鬼の怪力のままに屋根を貫いて空の彼方に消えて行ってしまった。 残されたのはウネビと、どてっ腹に風穴が開いたケドーインだけになった。 ウネビは肩で息をしていながらも、思い出したようにケドーインを抱き上げる。その瞳にまた涙が戻ってきた。 「雲掃? 雲掃! ど、どうしたらいい? アタイ、どうしたら……???」 目も当てられぬ出血。見れば処置の仕様もないことが判る。それでもウネビは必死にどうすればいいかを、戸惑いながら探していた。 そんな時、ケドーインが口を動かす。 「……なぁ……うね、び……」 「!? 何……? どうすればいい? 私……!」 「 カラン、カラッ ケドーインの仮面が外れ、床で乾いたタップを踏む。彼の顔の下には、くっきりと縦に三本の傷が右目を潰していた。それだけを見れば醜いかもしれないが、元々が端正な顔立ちであったようで、左半分の顔は本来刀など振り回しそうにもない程優しい青年であった。そんな青年の顔は、最早傷など意に介さぬように穏やかな表情を見せて続ける。 「覚えているか……? 餓鬼の時分、お前と二人で桜の木を眺めに行ったのを……」 「覚えている! 初めて出会った時に付けていた蕾の数まで覚えているっ。けど、今はそれどころじゃあ……――!!」 雫をぽたぽたと止め処なく床に落としながら喚く雲飛に、雲掃は微笑む。 「また、泣いているのか……? お前は、泣いてばかりだったな……鬼の、癖に」 「う……」 一瞬そう指摘されて涙を堪える雲飛。馬鹿にしたように一笑して、雲掃は続ける。 「 そう譫言の様に呟く雲掃の顔から血の気が引いていく。それを見た雲飛は危機を察知し、動揺するままに彼の体を揺すって呼びかける。 「雲掃? 何言ってんだよ、アタイはアンタの傍を離れないよ! そう、言ったじゃないか 「……?」 そう叫んだ雲飛は、意識が遠退いていく彼の体を、強くも優しく抱き締めたのだった。 |
【メモ-その他】
“キリク=スターベイ” 小物。この一言に尽きる男。 著者からの愛着もクソもないのに、名前を付けてもらえた幸運な男。 (何故名前を付けたのか、自分でも謎。) マジどうでもいいけど、他の作品で登場する名前出てない小物っぽい人は皆此奴の親戚。 マジどうでもいいけど。 09/12/25 23:56 Vutur |