とある猫の気ままな放浪。そのご。
「んだこりゃ。話が違うじゃねぇか」
そう言ったのは、ひょろ長い痩身の男。
アレクの荷馬車の中に頭を突っ込んで、中のモノを勝手に漁っている。
取り出した瓶を、頭領らしき巨漢の男に渡す。
頭領の男は瓶の中を覗き込み、そして軽く一飲みする。
「酒か。ちと甘いが、中々の上物だな。
へぇ、旦那が造ったのか?」
賞賛するような声と、眼差しを向けられる。
しかし、その質問に対して好意的に答えられるほどの余裕はアレクに無い。
縄で後ろ手に縛られ、地面に座らされている状態。
おまけに剣を突き付けられて、どうやって好意的に答えろというのか。
「隊長ぉ。一応全部調べましたけど、薬草なんてどこにも見当たりませんぜ?」
「そうか。まあ、その可能性もあるとは思ってた。
結構貴重なモンだしな。いつも持ち歩いてるはずはねぇか」
「チッ…クソったれな神様め。まぁたハズレかよ。
今度こそは、と思ったんだけどなぁ…」
痩せ男と頭領の会話から、アレクが襲われた理由がだいたいわかってきた。
彼らの狙いは、メディが採ってきてくれたあの貴重な薬草。
おそらく、アレクがマルクとの交渉に薬草を使ったという話が、どこからか漏れたのだろう。
既に遅すぎた事だが、もっと慎重に事を進めるべきだったかもしれない。
「まあ、良いじゃねぇか。この酒だって、結構な上物だ。
飲んでもいいし、売りゃあ金にもなるだろうさ」
「そうはいっても…この人数で割るには少ないと思いますよ。
売るにしても、それで全員分の食料まで賄えるとはとても…」
「俺は別にいらねぇよ。お前らで分けりゃ、まだマシな感じになるだろ」
「そういう訳にはいかねぇでしょう。誰のおかげで俺達が生き残れたと思ってんスか」
「その通りっすよ。隊長だってハラペコでしょう? こんな時に見栄張らねぇで下さい」
「うるせぇな。じゃあ、他にどうしろっつうんだよ」
アレクをほったらかしにして、賊達は喧々囂々と会話を続ける。
改めて彼らの容姿を確認すると、誰も彼もボロボロだった。
身に纏っているのは、安価な皮製の鎧。しかし、どれも傷だらけで元の用途を為せているとは思えない。
中には、上半身がほとんど裸の者までいる。どこかの戦から、落ち延びでもしたのだろうか。
「ともかく、これじゃ全然足りませんよ。
どうにかして、もう一稼ぎするしかありませんて」
「つってもなぁ…もう当てなんかねぇだろ。
近場の村はもう臨戦態勢で、話し合いすら無理な状況だ」
「ったく、お前が暴れるからこんな事に…」
「し、仕方ねぇだろ! 腹減ってんのに何もよこさねぇアイツらがワリィんだろうが!」
「あー、もう。落ち着けお前ら」
空腹なのだろう。全員、相当気が立っている様子だ。
見たところ、冷静に見える人間は棟梁の男だけ。
この雲行きからすると、積み荷だけでは済まされないかもしれない。
アレクは賊達と眼を合わせないようにしながら、静かに逃げる糸口を模索する。
「一つ提案何スけど。
今からコイツの家に行って、家捜しするってのはどうですか?」
「――!」
とんでもない発言が、盗賊達の喧騒の中から聞こえてきた。
アレクの表情が、一瞬凍りつく。
「確かに、コイツは今薬草を持っていない。
でも、コイツが住処にしてるっつー山小屋にはまだ薬草があるんじゃないスか?」
その言葉に耳を傾けた頭領が、ふむと顎に手を添える。
賊達の視線が、次々とアレクに突き刺さる。
飢えに飢えた、獣の眼。底知れぬ恐怖に、心臓が縮みあがる。
「な…なあ、コイツの家は、あの…化け物の森の近くなんだろ?
だから、わざわざここで待ち伏せてたんじゃねぇか」
「それは、俺達がコイツの家の場所を知らなかったからだ。
コイツに安全な道を教えて貰えば、何ら問題はねぇわけだ」
同僚らしき男の異議にそう答えながら、痩せ男はアレクの傍らに近づいてくる。
野性の狐を髣髴させる、細く狡猾そうなつり眼。
「聞こえてたな?
残念ながら、このままだとお前は自分の命すら買えねぇことになる。
どうすればいいか、わかるよなぁ?」
アレクに顔を近づけながら、ドスの聞いた声で痩せ男が言う。
確かに、家にまだ薬草は残っている。
ただ薬草を奪われる。それだけなら、問題はない。
しかし――山小屋には、メディがいる。
冗談じゃ、ない。
彼らの前にもし彼女が突き出されたら――そう思うだけで、怖気が走る。
こんな野蛮な人間達を、メディのところに連れて行けるわけがない。
「…お断り、します」
「あ?」
「積み荷なら、全て差し上げます。
ですが…あなた方を私の家に案内することは、できません」
俯きながら、アレクは言う。はっきりと、淀みなく。
視界の端で、痩せ男の目が釣り上がるのが見えた。
どん、と鈍い衝撃。状況を理解するまもなく、アレクの体は吹っ飛んだ。
「ぇほっ…!」
無理やり押し出された空気が、妙な声と共に口から漏れ出る。
蹴り飛ば、された。
アレクの体はごろごろと地面に転がった後、うつ伏せの状態で静止する。
「おい、やめろ。ツブれちまったらどうするつもりだ」
「良いじゃないスか。ツブれたところで、別に何の問題もねぇでしょう。
それに…なんかコイツ、ムカつくんスよ。
俺達を使い捨てにしやがった、あいつらと同じ匂いがしやがる」
苛立たしげに、痩せ男はアレクへ向けて唾を吐き捨てた。
びちゃり、とアレクの顔のすぐ横にそれは落ちる。
理不尽に、怒りが込み上がってくる。しかし、今はまだ耐えなければならない。
他のモノなら何だってかまわない。しかし、メディだけは譲れない。
歯を食いしばりながら、アレクは我慢して時を待つ。
「まあ、落ち着け。余計な罪を重ねるこたぁねぇ。
確かに、このままじゃ俺達全員が食い繋ぐにはモノが足りない。
今の旦那の積み荷だけじゃ、お前らが納得できないってのもわかる。
だが、妥協案はそれだけじゃねぇはずだ。何か他のモノを旦那から得られれば良い。
なんか、他に良い案がある奴はいるか?」
棟梁の男が、盗賊達を見回す。
沈黙する男達。痩せ男は、お手上げといわんばかりに諸手を上に向ける。
誰もいないのかと思いきや、後ろの方にいた一人が一歩前に踏み出してきた。
「情報を貰う…ってのはどうですかね。
コイツは此処らに住んでるんでしょう? なら、一つ俺に提案が」
「なんだ、言ってみろ」
「最近此処らへんで有名な、あのワーキャットの事を聞くってのは?」
ワーキャット。
その言葉を聞いて、アレクの顔がぎくりと強張る。
どうして、この男達がその事について知りたがる?
アレクは少しだけ視線を上げる。賊達の話が聞き取れるように。
「ワーキャット? なんだそりゃ。俺は知らねぇ話だが」
「あー、すんません。報告するほどの事でもないと思ってたんすけど…
今思えば、結構金になりそうな話なんですよ。情報源は、村に来てた行商人」
「ふぅん?」
続きを促すように、棟梁の男が顎をしゃくる。
アレクは頬を地に付けた状態でむせこみながらも、何とか意識を話へと向ける。
「少し前、此処近辺の村にワーキャットがやってきたらしいんですよ。
勝手に畑を荒らすやらして村人達に嫌われて、色々あったらしいんスけど…
聞けばそいつ、首にでけぇ首輪を付けられてたらしいんですよ。それも、鋼鉄製の」
「首輪? ワーキャットで、しかも首輪って事は…」
「ええ。たぶん、金持ちか貴族が道楽で飼ってたんじゃないか、って行商人は噂してやした。
用途は…まあ、わかりますよねぇ?」
ニヤニヤと、男は下卑た笑みを浮かべる。
ごくり、とアレクは唾を飲み込む。
棟梁の男は呆れたようにため息を付いて、やれやれと首を横に振った。
「連中の考える事は、相変わらず理解できねぇな。
金があるなら、娼婦館にでも行けば良いじゃねぇか」
「まあ、趣味は人それぞれってことで。で、次の話は別の伝手から聞いた噂話なんスけど。
聞けば彼の有名なバラノフ伯が、少し前に飼い猫に逃げられたって話があるらしいんですよ」
「バラノフ伯…てぇと」
棟梁の男の顔が、嫌悪に歪む。
ちらりと視線を巡らすと、男達のうちの何人かも同じような顔をしていた。
アレクの脳裏に、豪奢な帽子を被って口髭を生やした、中年の男の顔が浮かぶ。
「あの変態野郎か。女奴隷の歯を抜いて、ソレの専用具にしてたっていう」
「嗚呼、そんな話もありましたね。
とにかく、猫と言っても只の猫じゃあないでしょう。あの伯が、何の変哲もない猫を買うはずがない」
もしかしたら、そのワーキャットも同じように仕込むつもりだったのかもしれません」
あえて伏せられた言葉の意味を理解してしまい、アレクは猛烈な吐き気に襲われた。
獣ですら、そんなひどいことはしない。つまりそれは、獣以下の所業。
同じ人間であるとは、思えない。
「成程な。それで、その貴族サマにその猫を献上してやれば、金になる…と?」
「そういう事です。聞いた時は、酒の肴程度にしかならないと思ってたんスけどね」
「ワーキャット、か…そういや、村の連中がこっちの方に逃げたんじゃないかとか言ってたな」
「此処らの地形から考えると…確かに、捕まえられる可能性は高そうだ」
「他の魔物ならまだしも、たかが猫一匹くらいなら楽勝だろ。探してみようぜ、隊長!」
何人かの男が、嬉々として武器を振り上げる。
棟梁の男は腕を組んで何やら考え込んでいたが、やがて決心したらしい。
ゆっくりと目を開き、ボサボサの髪をガリガリと掻き――そして、アレクに近づく。
「…良いんスか、隊長。
確かバラノフの野郎とは、昔なんかイザコザがあったんじゃ…」
「まあな。だが、昔の話だ。
問題があるとすれば、俺達みたいなのと貴族サマがまともに交渉してくれるかどうかだが…
そこはまあ、俺の伝手で何とかなる。少しは顔の効くダチがいるからな」
「そう、スか」
不服そうにしながらも、痩せ男は引き下がった。
入れ替わるように棟梁の男がやってきて、アレクの傍らに膝をつく。
「聞いてたか? 旦那。今、アンタには二つの道がある。
俺達を、お前さんの家に案内するか。
お前さんが知ってるワーキャットの情報について、洗いざらい話すか。
どちらかを呑んでくれれば、晴れて取引成立だ。お前さんは、自由になれる」
棟梁の男が、アレクの耳に口を近づける。
そして、小さな声で言う。
「俺は、ワーキャットの方を進めるがな。
山小屋にいるのは、お前さんにとって大切な人なんだろう?」
ぎくり、とアレクは顔をこわばらせる。
どう、して?
瞳でそう呟くアレクに向けて、棟梁の男はにやりと笑う。
「男が自分の身を呈して守りたいモノっつったら、そんなもんだ。
悪いことは言わねぇ。もし知ってんなら、猫の方を言っちまえ。
猫には気の毒だが…その方が、お前さんのためだ」
他の賊達には聞こえないような小さな声でそう言って、棟梁の男は立ち上がる。
再び腕を組み、地面に伏したままのアレクを見下ろす。
その場にいる全員が、アレクを見つめている。
――私の言う事に、黙って従いなさい。それが、貴方のためなのよ。
脳裏で、あのおぞましいあの声が蘇る。
喉が、からからに乾いていた。冷たい汗が、額から流れ落ちる。
メディか、それとも――あのワーキャットか。
どちらかを犠牲にすれば、この男は僕を助けると。そう、言っている。
答えは、決まっていた。
「――知りません」
掠れた声で、しかしはっきりと、アレクは言う。
お前さんのため。それはあの男の意見であって、僕の意見ではない。
僕が誰を犠牲にして、誰を守るべきなのか。それを決めていいのは、この世でただ一人だけだ。
もう二度と、僕以外の誰にも、僕自身の意思を曲げられたくない。
「ワーキャットなんて、見たことありません。私の家に…貴方達を案内する事も、できません」
盛り上がっていた男達の熱気が、急速に冷めていくのを感じる。
そして、それはやがて殺意を帯びた冷気に変化する。
その恐ろしさに、アレクの体は無意識にガタガタと震えていた。
正直――怖い。恥も外聞も捨てて、泣き叫びたいほどに。
それでも、アレクは拒絶した。
あの二人を犠牲にして生き延びるくらいなら――死んだ方が、マシだ。
「…チッ」
小さな舌打ちが、頭上で聞こえた気がした。
視界の端で、棟梁の男がやれやれと首を横に振っているのが見えた。
次の瞬間、アレクの体はまた宙に投げ出された。
鋭い衝撃に、アレクは胃の中のモノを吐き出しそうになる。
「…ごほッ!」
「隊長ぉ。良いっすよね?」
そう言ったのは、おそらくアレクの傍らに立っていた痩せ男だろう。
アレクは咳き込みながら、何とか顔を上げる。
振り上げた足を戻して、痩せ男がゆっくりとこちらに近づいてくるのが見えた。
「ほどほどにしとけよ。また一歩、天国から遠退いちまう」
「知ったこたぁねぇでしょう。今更神様の御許へ行けるなんざ、思ってませんて」
しゃ、と音を立てて剣が抜かれた。
鈍く光る刀身に、アレクの顔が映る。
痩せ男は、無造作に剣を振り上げる。アレクは呆然と、それを見上げていた。
殺さ、れる。アレクは諦めるように、目を瞑った。
ひゅ、と風を切る音。
アレクが身を裂かれる恐ろしい感触を予期して、身構えた――その時、
「――にゃあッ!」
甲高い鳴き声が、辺りに響き渡った。
●
――にゃあッ!
気づけば、吾輩は馬車から飛び出していた。
高らかに声を挙げて。まるで、そこにいる全員の注意を引くように。
「――ワーキャットだ!」
近くにいた賊の一人が、吾輩を眼に捉えるなり大声で叫ぶ。
相手は多勢。しかも、戦い慣れた傭兵。まともに戦って、勝てる相手ではない。
奴らがあの男に気を取られているうちに、逃げた方が良かったのは自明の理。
それなのに――吾輩は一体、何をしているのか。
「逃がすなよ。足を狙え!」
最初の不意打ちで一人くらいは沈めておきたかったが、それもかなわなかった。
体力を消耗していても、さすがは戦いを糧に生きる人間。
初撃はあっさりと避けられ、すぐさま反撃の槍が突きつけられた。
咄嗟に身を捻り、回避する。わき腹を霞める金属の感触に、ざわりと全身の毛が逆立つ。
「チィッ――!」
舌打ちしながらも、男は次々に槍を振り回す。
吾輩がそれを必死で避けている間に、他の男達は吾輩の背後に回り込もうとする。
やはり、一筋縄ではいかない。
嗚呼、と吾輩は胸中で嘆息する。どうして、こんな非合理的な選択をしてしまったのかと。
だが、それでも――吾輩は逃げたくなかった。
――んにッ!
横合いから不意を突くように突かれた槍を避け切れず、前足を僅かに裂かれる。
しかし、掠り傷だ。吾輩は跳躍した先にあった木を蹴り、突きを繰り出した男に飛びかかる。
男は後ろに跳び退いたが、吾輩は男ではなく伸び切った槍の上に着地した。
ぼきり、と重みで槍がまっぷたつに折れる。
「な」
怯んだ男を踏み台にして、吾輩は枝の上に飛び乗った。
背後を振り返り、改めて状況を確認する。
数は、10人強。相手が万全ではないとはいえ、やはり我輩一人では勝ち目が薄い。
――にぃ。
ふと、吾輩は無様に地面に這いつくばっているあの男を見やる。
あの男は、ひょろ長い傭兵の足元で、呆然と吾輩の顔を見つめていた。
――違う。断じて、違う。この行為は、断じてあの男のためではない。
吾輩が只の猫だったなら、尻尾を巻いて逃げていただろう。
しかし吾輩は、誇り高き猫、ワーキャットである。本能ではなく、理性で行動する。
この野蛮な人間達の物言いが余りにも不快だったから、手を出しただけのこと。
――!
反射的に、吾輩は弾けるように跳び上がった。
次の瞬間、吾輩のいた場所に数本の矢が突き刺さった。
遠距離からの、飛び道具。吾輩が最も苦手とする武器。
運の悪い事に、此処らの木々は細く、かつ互いに距離を置いて散在している。
遮蔽物には、到底なりそうにない。
――に…!
接近、できない。
次々に降り注ぐ矢の間を走り抜けながら、吾輩は何とか状況を打破しようと思考を続ける。
吾輩は、いつも一人だった。
だからこそ、いつでもたった一人で困難に立ち向かってきたし、それを乗り越えるための実力も持っていたつもりだった。
しかし、今回は少しばかり厳しいかもしれない。
追いつめられるような焦燥感が、吾輩の心を苛む。
せめて、あと一人仲間がいれば――そんな、余りにも弱気な呟きを胸中で吐いてしまった、その時。
「な、てめ――んがッ!?」
唐突に、ひどく不恰好な悲鳴が聞こえてきた。
咄嗟に吾輩は声のした方角へと振り向いて――そして、眼を丸くした。
何と視線の先では、あの男が両手の縄を絶ち切って立ち上がっていたのだ。
片腕から一筋の血を滴らせながら。その手に、傍らにいたひょろ長い傭兵が持っていたはずの剣を持って。
そう言ったのは、ひょろ長い痩身の男。
アレクの荷馬車の中に頭を突っ込んで、中のモノを勝手に漁っている。
取り出した瓶を、頭領らしき巨漢の男に渡す。
頭領の男は瓶の中を覗き込み、そして軽く一飲みする。
「酒か。ちと甘いが、中々の上物だな。
へぇ、旦那が造ったのか?」
賞賛するような声と、眼差しを向けられる。
しかし、その質問に対して好意的に答えられるほどの余裕はアレクに無い。
縄で後ろ手に縛られ、地面に座らされている状態。
おまけに剣を突き付けられて、どうやって好意的に答えろというのか。
「隊長ぉ。一応全部調べましたけど、薬草なんてどこにも見当たりませんぜ?」
「そうか。まあ、その可能性もあるとは思ってた。
結構貴重なモンだしな。いつも持ち歩いてるはずはねぇか」
「チッ…クソったれな神様め。まぁたハズレかよ。
今度こそは、と思ったんだけどなぁ…」
痩せ男と頭領の会話から、アレクが襲われた理由がだいたいわかってきた。
彼らの狙いは、メディが採ってきてくれたあの貴重な薬草。
おそらく、アレクがマルクとの交渉に薬草を使ったという話が、どこからか漏れたのだろう。
既に遅すぎた事だが、もっと慎重に事を進めるべきだったかもしれない。
「まあ、良いじゃねぇか。この酒だって、結構な上物だ。
飲んでもいいし、売りゃあ金にもなるだろうさ」
「そうはいっても…この人数で割るには少ないと思いますよ。
売るにしても、それで全員分の食料まで賄えるとはとても…」
「俺は別にいらねぇよ。お前らで分けりゃ、まだマシな感じになるだろ」
「そういう訳にはいかねぇでしょう。誰のおかげで俺達が生き残れたと思ってんスか」
「その通りっすよ。隊長だってハラペコでしょう? こんな時に見栄張らねぇで下さい」
「うるせぇな。じゃあ、他にどうしろっつうんだよ」
アレクをほったらかしにして、賊達は喧々囂々と会話を続ける。
改めて彼らの容姿を確認すると、誰も彼もボロボロだった。
身に纏っているのは、安価な皮製の鎧。しかし、どれも傷だらけで元の用途を為せているとは思えない。
中には、上半身がほとんど裸の者までいる。どこかの戦から、落ち延びでもしたのだろうか。
「ともかく、これじゃ全然足りませんよ。
どうにかして、もう一稼ぎするしかありませんて」
「つってもなぁ…もう当てなんかねぇだろ。
近場の村はもう臨戦態勢で、話し合いすら無理な状況だ」
「ったく、お前が暴れるからこんな事に…」
「し、仕方ねぇだろ! 腹減ってんのに何もよこさねぇアイツらがワリィんだろうが!」
「あー、もう。落ち着けお前ら」
空腹なのだろう。全員、相当気が立っている様子だ。
見たところ、冷静に見える人間は棟梁の男だけ。
この雲行きからすると、積み荷だけでは済まされないかもしれない。
アレクは賊達と眼を合わせないようにしながら、静かに逃げる糸口を模索する。
「一つ提案何スけど。
今からコイツの家に行って、家捜しするってのはどうですか?」
「――!」
とんでもない発言が、盗賊達の喧騒の中から聞こえてきた。
アレクの表情が、一瞬凍りつく。
「確かに、コイツは今薬草を持っていない。
でも、コイツが住処にしてるっつー山小屋にはまだ薬草があるんじゃないスか?」
その言葉に耳を傾けた頭領が、ふむと顎に手を添える。
賊達の視線が、次々とアレクに突き刺さる。
飢えに飢えた、獣の眼。底知れぬ恐怖に、心臓が縮みあがる。
「な…なあ、コイツの家は、あの…化け物の森の近くなんだろ?
だから、わざわざここで待ち伏せてたんじゃねぇか」
「それは、俺達がコイツの家の場所を知らなかったからだ。
コイツに安全な道を教えて貰えば、何ら問題はねぇわけだ」
同僚らしき男の異議にそう答えながら、痩せ男はアレクの傍らに近づいてくる。
野性の狐を髣髴させる、細く狡猾そうなつり眼。
「聞こえてたな?
残念ながら、このままだとお前は自分の命すら買えねぇことになる。
どうすればいいか、わかるよなぁ?」
アレクに顔を近づけながら、ドスの聞いた声で痩せ男が言う。
確かに、家にまだ薬草は残っている。
ただ薬草を奪われる。それだけなら、問題はない。
しかし――山小屋には、メディがいる。
冗談じゃ、ない。
彼らの前にもし彼女が突き出されたら――そう思うだけで、怖気が走る。
こんな野蛮な人間達を、メディのところに連れて行けるわけがない。
「…お断り、します」
「あ?」
「積み荷なら、全て差し上げます。
ですが…あなた方を私の家に案内することは、できません」
俯きながら、アレクは言う。はっきりと、淀みなく。
視界の端で、痩せ男の目が釣り上がるのが見えた。
どん、と鈍い衝撃。状況を理解するまもなく、アレクの体は吹っ飛んだ。
「ぇほっ…!」
無理やり押し出された空気が、妙な声と共に口から漏れ出る。
蹴り飛ば、された。
アレクの体はごろごろと地面に転がった後、うつ伏せの状態で静止する。
「おい、やめろ。ツブれちまったらどうするつもりだ」
「良いじゃないスか。ツブれたところで、別に何の問題もねぇでしょう。
それに…なんかコイツ、ムカつくんスよ。
俺達を使い捨てにしやがった、あいつらと同じ匂いがしやがる」
苛立たしげに、痩せ男はアレクへ向けて唾を吐き捨てた。
びちゃり、とアレクの顔のすぐ横にそれは落ちる。
理不尽に、怒りが込み上がってくる。しかし、今はまだ耐えなければならない。
他のモノなら何だってかまわない。しかし、メディだけは譲れない。
歯を食いしばりながら、アレクは我慢して時を待つ。
「まあ、落ち着け。余計な罪を重ねるこたぁねぇ。
確かに、このままじゃ俺達全員が食い繋ぐにはモノが足りない。
今の旦那の積み荷だけじゃ、お前らが納得できないってのもわかる。
だが、妥協案はそれだけじゃねぇはずだ。何か他のモノを旦那から得られれば良い。
なんか、他に良い案がある奴はいるか?」
棟梁の男が、盗賊達を見回す。
沈黙する男達。痩せ男は、お手上げといわんばかりに諸手を上に向ける。
誰もいないのかと思いきや、後ろの方にいた一人が一歩前に踏み出してきた。
「情報を貰う…ってのはどうですかね。
コイツは此処らに住んでるんでしょう? なら、一つ俺に提案が」
「なんだ、言ってみろ」
「最近此処らへんで有名な、あのワーキャットの事を聞くってのは?」
ワーキャット。
その言葉を聞いて、アレクの顔がぎくりと強張る。
どうして、この男達がその事について知りたがる?
アレクは少しだけ視線を上げる。賊達の話が聞き取れるように。
「ワーキャット? なんだそりゃ。俺は知らねぇ話だが」
「あー、すんません。報告するほどの事でもないと思ってたんすけど…
今思えば、結構金になりそうな話なんですよ。情報源は、村に来てた行商人」
「ふぅん?」
続きを促すように、棟梁の男が顎をしゃくる。
アレクは頬を地に付けた状態でむせこみながらも、何とか意識を話へと向ける。
「少し前、此処近辺の村にワーキャットがやってきたらしいんですよ。
勝手に畑を荒らすやらして村人達に嫌われて、色々あったらしいんスけど…
聞けばそいつ、首にでけぇ首輪を付けられてたらしいんですよ。それも、鋼鉄製の」
「首輪? ワーキャットで、しかも首輪って事は…」
「ええ。たぶん、金持ちか貴族が道楽で飼ってたんじゃないか、って行商人は噂してやした。
用途は…まあ、わかりますよねぇ?」
ニヤニヤと、男は下卑た笑みを浮かべる。
ごくり、とアレクは唾を飲み込む。
棟梁の男は呆れたようにため息を付いて、やれやれと首を横に振った。
「連中の考える事は、相変わらず理解できねぇな。
金があるなら、娼婦館にでも行けば良いじゃねぇか」
「まあ、趣味は人それぞれってことで。で、次の話は別の伝手から聞いた噂話なんスけど。
聞けば彼の有名なバラノフ伯が、少し前に飼い猫に逃げられたって話があるらしいんですよ」
「バラノフ伯…てぇと」
棟梁の男の顔が、嫌悪に歪む。
ちらりと視線を巡らすと、男達のうちの何人かも同じような顔をしていた。
アレクの脳裏に、豪奢な帽子を被って口髭を生やした、中年の男の顔が浮かぶ。
「あの変態野郎か。女奴隷の歯を抜いて、ソレの専用具にしてたっていう」
「嗚呼、そんな話もありましたね。
とにかく、猫と言っても只の猫じゃあないでしょう。あの伯が、何の変哲もない猫を買うはずがない」
もしかしたら、そのワーキャットも同じように仕込むつもりだったのかもしれません」
あえて伏せられた言葉の意味を理解してしまい、アレクは猛烈な吐き気に襲われた。
獣ですら、そんなひどいことはしない。つまりそれは、獣以下の所業。
同じ人間であるとは、思えない。
「成程な。それで、その貴族サマにその猫を献上してやれば、金になる…と?」
「そういう事です。聞いた時は、酒の肴程度にしかならないと思ってたんスけどね」
「ワーキャット、か…そういや、村の連中がこっちの方に逃げたんじゃないかとか言ってたな」
「此処らの地形から考えると…確かに、捕まえられる可能性は高そうだ」
「他の魔物ならまだしも、たかが猫一匹くらいなら楽勝だろ。探してみようぜ、隊長!」
何人かの男が、嬉々として武器を振り上げる。
棟梁の男は腕を組んで何やら考え込んでいたが、やがて決心したらしい。
ゆっくりと目を開き、ボサボサの髪をガリガリと掻き――そして、アレクに近づく。
「…良いんスか、隊長。
確かバラノフの野郎とは、昔なんかイザコザがあったんじゃ…」
「まあな。だが、昔の話だ。
問題があるとすれば、俺達みたいなのと貴族サマがまともに交渉してくれるかどうかだが…
そこはまあ、俺の伝手で何とかなる。少しは顔の効くダチがいるからな」
「そう、スか」
不服そうにしながらも、痩せ男は引き下がった。
入れ替わるように棟梁の男がやってきて、アレクの傍らに膝をつく。
「聞いてたか? 旦那。今、アンタには二つの道がある。
俺達を、お前さんの家に案内するか。
お前さんが知ってるワーキャットの情報について、洗いざらい話すか。
どちらかを呑んでくれれば、晴れて取引成立だ。お前さんは、自由になれる」
棟梁の男が、アレクの耳に口を近づける。
そして、小さな声で言う。
「俺は、ワーキャットの方を進めるがな。
山小屋にいるのは、お前さんにとって大切な人なんだろう?」
ぎくり、とアレクは顔をこわばらせる。
どう、して?
瞳でそう呟くアレクに向けて、棟梁の男はにやりと笑う。
「男が自分の身を呈して守りたいモノっつったら、そんなもんだ。
悪いことは言わねぇ。もし知ってんなら、猫の方を言っちまえ。
猫には気の毒だが…その方が、お前さんのためだ」
他の賊達には聞こえないような小さな声でそう言って、棟梁の男は立ち上がる。
再び腕を組み、地面に伏したままのアレクを見下ろす。
その場にいる全員が、アレクを見つめている。
――私の言う事に、黙って従いなさい。それが、貴方のためなのよ。
脳裏で、あのおぞましいあの声が蘇る。
喉が、からからに乾いていた。冷たい汗が、額から流れ落ちる。
メディか、それとも――あのワーキャットか。
どちらかを犠牲にすれば、この男は僕を助けると。そう、言っている。
答えは、決まっていた。
「――知りません」
掠れた声で、しかしはっきりと、アレクは言う。
お前さんのため。それはあの男の意見であって、僕の意見ではない。
僕が誰を犠牲にして、誰を守るべきなのか。それを決めていいのは、この世でただ一人だけだ。
もう二度と、僕以外の誰にも、僕自身の意思を曲げられたくない。
「ワーキャットなんて、見たことありません。私の家に…貴方達を案内する事も、できません」
盛り上がっていた男達の熱気が、急速に冷めていくのを感じる。
そして、それはやがて殺意を帯びた冷気に変化する。
その恐ろしさに、アレクの体は無意識にガタガタと震えていた。
正直――怖い。恥も外聞も捨てて、泣き叫びたいほどに。
それでも、アレクは拒絶した。
あの二人を犠牲にして生き延びるくらいなら――死んだ方が、マシだ。
「…チッ」
小さな舌打ちが、頭上で聞こえた気がした。
視界の端で、棟梁の男がやれやれと首を横に振っているのが見えた。
次の瞬間、アレクの体はまた宙に投げ出された。
鋭い衝撃に、アレクは胃の中のモノを吐き出しそうになる。
「…ごほッ!」
「隊長ぉ。良いっすよね?」
そう言ったのは、おそらくアレクの傍らに立っていた痩せ男だろう。
アレクは咳き込みながら、何とか顔を上げる。
振り上げた足を戻して、痩せ男がゆっくりとこちらに近づいてくるのが見えた。
「ほどほどにしとけよ。また一歩、天国から遠退いちまう」
「知ったこたぁねぇでしょう。今更神様の御許へ行けるなんざ、思ってませんて」
しゃ、と音を立てて剣が抜かれた。
鈍く光る刀身に、アレクの顔が映る。
痩せ男は、無造作に剣を振り上げる。アレクは呆然と、それを見上げていた。
殺さ、れる。アレクは諦めるように、目を瞑った。
ひゅ、と風を切る音。
アレクが身を裂かれる恐ろしい感触を予期して、身構えた――その時、
「――にゃあッ!」
甲高い鳴き声が、辺りに響き渡った。
●
――にゃあッ!
気づけば、吾輩は馬車から飛び出していた。
高らかに声を挙げて。まるで、そこにいる全員の注意を引くように。
「――ワーキャットだ!」
近くにいた賊の一人が、吾輩を眼に捉えるなり大声で叫ぶ。
相手は多勢。しかも、戦い慣れた傭兵。まともに戦って、勝てる相手ではない。
奴らがあの男に気を取られているうちに、逃げた方が良かったのは自明の理。
それなのに――吾輩は一体、何をしているのか。
「逃がすなよ。足を狙え!」
最初の不意打ちで一人くらいは沈めておきたかったが、それもかなわなかった。
体力を消耗していても、さすがは戦いを糧に生きる人間。
初撃はあっさりと避けられ、すぐさま反撃の槍が突きつけられた。
咄嗟に身を捻り、回避する。わき腹を霞める金属の感触に、ざわりと全身の毛が逆立つ。
「チィッ――!」
舌打ちしながらも、男は次々に槍を振り回す。
吾輩がそれを必死で避けている間に、他の男達は吾輩の背後に回り込もうとする。
やはり、一筋縄ではいかない。
嗚呼、と吾輩は胸中で嘆息する。どうして、こんな非合理的な選択をしてしまったのかと。
だが、それでも――吾輩は逃げたくなかった。
――んにッ!
横合いから不意を突くように突かれた槍を避け切れず、前足を僅かに裂かれる。
しかし、掠り傷だ。吾輩は跳躍した先にあった木を蹴り、突きを繰り出した男に飛びかかる。
男は後ろに跳び退いたが、吾輩は男ではなく伸び切った槍の上に着地した。
ぼきり、と重みで槍がまっぷたつに折れる。
「な」
怯んだ男を踏み台にして、吾輩は枝の上に飛び乗った。
背後を振り返り、改めて状況を確認する。
数は、10人強。相手が万全ではないとはいえ、やはり我輩一人では勝ち目が薄い。
――にぃ。
ふと、吾輩は無様に地面に這いつくばっているあの男を見やる。
あの男は、ひょろ長い傭兵の足元で、呆然と吾輩の顔を見つめていた。
――違う。断じて、違う。この行為は、断じてあの男のためではない。
吾輩が只の猫だったなら、尻尾を巻いて逃げていただろう。
しかし吾輩は、誇り高き猫、ワーキャットである。本能ではなく、理性で行動する。
この野蛮な人間達の物言いが余りにも不快だったから、手を出しただけのこと。
――!
反射的に、吾輩は弾けるように跳び上がった。
次の瞬間、吾輩のいた場所に数本の矢が突き刺さった。
遠距離からの、飛び道具。吾輩が最も苦手とする武器。
運の悪い事に、此処らの木々は細く、かつ互いに距離を置いて散在している。
遮蔽物には、到底なりそうにない。
――に…!
接近、できない。
次々に降り注ぐ矢の間を走り抜けながら、吾輩は何とか状況を打破しようと思考を続ける。
吾輩は、いつも一人だった。
だからこそ、いつでもたった一人で困難に立ち向かってきたし、それを乗り越えるための実力も持っていたつもりだった。
しかし、今回は少しばかり厳しいかもしれない。
追いつめられるような焦燥感が、吾輩の心を苛む。
せめて、あと一人仲間がいれば――そんな、余りにも弱気な呟きを胸中で吐いてしまった、その時。
「な、てめ――んがッ!?」
唐突に、ひどく不恰好な悲鳴が聞こえてきた。
咄嗟に吾輩は声のした方角へと振り向いて――そして、眼を丸くした。
何と視線の先では、あの男が両手の縄を絶ち切って立ち上がっていたのだ。
片腕から一筋の血を滴らせながら。その手に、傍らにいたひょろ長い傭兵が持っていたはずの剣を持って。
11/06/02 09:24更新 / SMan
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