とある猫の気ままな放浪。そのよん。
「昨夜は、お楽しみでしたねぇ」
思った通り寝坊してしまった、次の日の昼頃。
芝居がかったその一言に、アレクは思わず果実酒を吹き出しそうになってしまった。
傍らでは、メディがきょとんとした顔で首を傾げている。
「…ごほっ。ヤン、突然何?」
「いや、知り合いに聞いたんだよ。
スライムは胸を見ると、どれだけ多くの栄養を摂取してるかわかるってな」
「胸?」
アレクは咳き込みながら、ちらりとメディの方を見やる。
以前、メディの身長はアレクの腰より少し高いくらいだったが、今では首近くまで伸びている。
そして確かに、胸の大きさは何倍にも膨らんでいる。少なくとも、昨日はここまで大きくなかった。
メディは両頬に手を当てて、何やら恥ずかしげにくねくねしている。
「…ヤン。もっと他に見るところがあると思うんだけど」
「なんか、前よりさらに嬢ちゃんの密着度上がってねぇ?
お前ら見てるとなんかムカムカしてきた」
「いや、そうじゃなくて…」
「ああ、そういや色変わってんな」
こともなげに、ヤンは言う。
もっと大きい反応を見せても良いと思うのだが。
「一応聞くけど…普通のスライムって、こんな風になったりするの?」
「少なくとも、俺は聞いたことがねぇな。
見た事あるわけじゃねぇが、スライムって養分蓄えると分裂するんだろ?」
「だよね」
アレクが魔物図鑑から得た知識では、そういうことになっている。
しかしメディは、なぜか分裂せずに『進化』した。
普通のスライムから、知能が増したレッドスライムに。
「アレク。私、変なの?」
「え? あ、いや。そういうわけじゃないけど…」
メディの口調は、以前と比べて鮮明なモノになっている。
良いか悪いかと言われれば、どちらかといえば良いに決まっている。
しかし、どうしてそうなったかはやはり気になる。
「何か心当たりとかねぇの?」
「心当たり?」
「嬢ちゃんがこうなった時、状況はどんな感じだったんだよ」
「どんな感じって…」
アレクの脳裏に、昨夜の失態が浮かび上がる。
ワーキャットに襲われ、メディに主導権を握られ、
そして――初めて、メディと正しい意味合いで交わった。
ちなみにあの後、メディの勢いは中々収まらず、アレクはさらに2回ほど搾り取られてしまった。
「………」
ちらり、とアレクはメディの方を見やる。
奇しくも、メディも同じようにアレクを横目で見ていた。
彼女の体は元から赤いが、どことなく頬が赤くなっているような気がする。
「…仲良いな、お前ら」
呆れる様に、ヤンが呟く。
アレクとメディは、慌てて視線をそらしあってしまう。
ヤンはやれやれと首を振りながら、果実酒の入った瓶に手を伸ばそうとして、
「…あ。私が、やる」
メディがすかさず瓶を手に取った。
そして、器用にヤンのジョッキに果実酒を注ぐ。
おお、とヤンが驚いたような声を挙げる。
「気が利くじゃねぇか。どういう風の吹きまわしだ?」
「ヤンは、アレクの御客さん、だから。…怪しい、けど」
「怪しい、は余計だっつの…」
以前と比べ感情豊かな表情を見せるメディと、不満げに果実酒をあおるヤン。
微笑ましい光景に、アレクは思わず顔を綻ばせてしまった。
ヤンは何やらじろじろとメディの顔を見ていたが、やがて視線をアレクの方に向けて言う。
「まあ、いいや。ところで、あの猫の事なんだけどよ」
「猫? …もしかして、あのワーキャットのこと?」
「ああ」
…この話題は、大丈夫なのだろうか。
アレクは少し不安になり、少しだけメディの顔色を窺う。
しかし、意外にもメディは全く気にしていない様子。むしろ、余裕すら窺える。
昨日は、あれほど嫉妬していたというのに。
「もう、良いの」
「…え?」
「私が、先に貰ったから。…アレクの、初めて」
「っぶ!」
耳元で囁かれたその言葉に、アレクはまた果実酒を吹き出しそうになってしまった。
幸いにも聞こえていなかったらしいヤンが、訝しげな顔でこちらを見る。
「どした?」
「…ごほっ。い、いや、なんでもないよ。
で、あのワーキャットがなんだって?」
「あー、いや。大したことじゃないんだが…
とりあえず、マルクから軽く事情を聴けたんだよ。一応伝えとこうかと」
「マルクから?」
メディも少し興味があるようで、瓶に果物を詰める作業を進めながらも意識がこちらを向いているのがわかる。
アレクとメディが話を聞く気になったのを確認してから、ヤンは淡々と語り始める。
「聞くところによると、あの猫は最近マルクの村でお尋ね者扱いされてたみたいだな。
一度は捕まえたらしいんだが、逃げられたらしい」
「何か、悪さでもしたの?」
「大したことじゃねぇけどな。食料漁りとか、畑荒らしとか、そんな感じだ。
だが、村人にとって面倒な事には変わりない。
どうにか捕まえて、領主のとこの警吏に突き出そうとしたところで逃げられたって話だ」
「ふぅん…」
聞く限りでは、思ったほど大層な話ではない。
悪さといっても、高々野性の動物がする程度のモノ。
だからこそ、引っかかることがある。
「一つ、聞きたいんだけど…あのワーキャットって鉄の首輪をつけられてたよね。
あれも、村の人たちがやったの?」
「いや、どうやら違うらしい。捕まえた時には元からついてたって話だ。
考えてみりゃ、そりゃそうだよな。あんな頑丈そうな首輪、村の連中に買えるわけがねぇ」
「と、いうことは――」
罪に釣り合わない、そして常人には手に入れ難い高価な首輪。
やはり、彼女は罪によって首輪を付けられたわけではないように思える。
嫌な予感が、アレクの脳裏に去来した。
アレクが言わんとした事を、ヤンもわかっていたらしい。
軽く頷きながら、アレクの代わりに言葉を続ける。
「この話、どっかの貴族様が関係してるのかもな。
あんまり考えたくねぇ話だが」
ヤンが、不安を紛らわすように果実酒を一気に飲み干す。
アレクは俯きながら、ぼんやりと果実酒に移った自分自身を眺めていた。
●
不覚だった。
生涯最大の不覚だったと言って良い。
よもや、あれほどまで乱れてしまうとは思いにも寄らなかった。
いっそのこと、綺麗さっぱり忘れてしまっていれば良かった。
しかし忌々しい事に、先日の出来事はしっかりと記憶に残っている。
事細かく。吾輩があの男に何をして、何をしようとしたかまで。
―――がりがりがり。
苛立ちを押し殺すように、吾輩は爪を研ぐ。
今思えば、吾輩はなぜあの男を犯そうとしたのだろうか。
マタタビがあったとはいえ、かつての吾輩なら本能をねじ伏せることもできたはずなのだ。
かつて、いけ好かない口髭の輩にマタタビを突きつけられた時。
吾輩は追っ手を振り払うだけでは飽きたらず、彼奴の顔面を引っ掻いて踏みつけにする余裕すらあった。
あの夜、吾輩はそこまですることはなくとも、情欲に屈せずに立ち去る事くらいはできたのではないだろうか。
―――がり。
いや、まあ、確かに。
あの男が無様に喘ぐ様は、なかなかに気持ちが良かった。
吾輩が動く度にびくびくと震えるあの様子と、達しまいと我慢するあの顔は、そそるモノがあった。
特に、達している最中に追撃を仕掛けたあの時。あの情けない顔といったら、吾輩まで興奮してきてしま――
いやいやいや。
―――がりがりがりがりがりがり。
一体、吾輩は何を考えているのだ。
火照りかけた体をクールダウンする。
あのスライムのせいで、吾輩は結局最後の行為まで至れなかった。
そのせいか、最近思考がどうもおかしい。何やら…ムラムラ、する。
こんな事なら、最後までしておけば――
いやいやいやいやいや。
―――がりがりがりがりがりがり。
嗚呼、吾輩はどうしてしまったというのだ。
これも全て、あの男のせいだ。
あの男とは、最近会っていない。こちらから避けている。
…一体、どんな顔をして会えというのか。
これ以上、もどかしい思いをしたくない。
やはり、早く此処を離れた方がいいのかもしれない。
しかし、それには問題がある。一体どうすれば、あの川を渡れるのか…。
吾輩は途方に暮れ、首を垂れた。その時、
「もしもーし、そこの猫。聞こえてる?」
突然、背後から声がした。
吾輩は、反射的にその場から飛び退く。
考え事をしていたせいか、全く気付かなかった。
ぎろりと、声のした方に鋭い視線を向ける。その先にいたのは…一人の、人間の男だった。
「ぅおっと…待て待て。敵意はねぇよ。落ち着けって」
緊張感のない、飄々とした声音。
見覚えがある。確か、あの男とよく一緒にいる目つきの悪い男。
時折森の中で遭遇することがあったが、あの男と違って話しかけてくるのはこれが初めてだ。
一体、どういうつもりなのか。
「あー。警戒はごもっともだが、ちょいと話を聞いてくれ。
率直に言うと、そこで爪を研ぐのはマズいんじゃないか?」
男が指を差す先にあるのは、吾輩が爪研ぎに使っていた樹木。
いつの間にか、表層がかなりめくれてひどい有様になってしまっている。
思案に暮れるあまり、引っ掻きすぎてしまったらしい。
「気づいてないのかもしれないが、そこらへんはある御仁の縄張りだ。
此処らの木々を傷つけるのは、やめた方が良いぞ」
ある、御仁。…そういえば、確かに妙な気配を感じる。
明らかに、人間ではない何か。それも、そこそこの力を持ったモノ。
お節介にも、この男はそれを伝えにきたらしい。
この男といい、あの男といい、この森に住む人間はどこかおかしい。
「つか、お前まだこの辺に居たんだな。
さっさとどっかいっちまえばいいのに」
それができれば、とっくにしている。
吾輩が言葉を話せたら、そう言ってやるところだった。
苛立たしさを軽い唸り声に変え、吾輩は男に向かって鳴き声を上げる。
「ん。…ああ、そうか。お前、魔物だったな。
だから、あの川を渡れないのか」
納得するように、男が呟く。
その言葉に、吾輩は首を傾げる。
どうやら、この男は吾輩が知らない事情を知っているらしい。
「つまりあれか。アレクの馬車にこっそり乗って村を出たは良いが、
今度は此処らの土地に閉じ込められちまって、立ち往生してるのか。
意外と馬鹿なんだなお前」
喧嘩売っているのかこの男は。
じゃきん、と吾輩の爪が両前足から飛び出るのを見て、男は慌てて数歩後退する。
「ぅお。待て待て。今のは取り消す。
まあ…その、あれだ。一応忠告しとくが、あの橋を渡ろうとか考えない方が良いぞ。
知り合いに聞いた感じだと、碌なことにならない」
そんなこと、百も承知である。
吾輩の野性の勘が、あの橋は危険だと言っているのだ。
橋だけではない。この土地周辺に流れる川全てに、何か嫌な感じがした。
そのせいで、おちおち魚を捕る事も出来ない。
「しっかし…厄介だな。橋も渡れず、川も通れないとなると――
んん、外に出るにはどうすりゃいいんだろうな」
根が世話焼きなのか、男は勝手に吾輩の現状を分析し始めた。
吾輩は、それを冷やかな眼差しで見つめる。
容姿から判断するに、この男はあまり利口そうではない。
吾輩が解決できない問題を、この男に解けるはずがない――そう、吾輩は思っていた。
しかし男は考えること数秒、何か思いついたようにパチンと指を鳴らす。
そして、言う。
「要は、あの橋を直接踏まずに渡ればいいわけだ。
それなら、もう一度馬車にこっそり乗って行けば良いんじゃね?」
●
「それじゃ、行ってくるね」
朝靄がたちこめる、早朝の森の中。
馬車に荷を積み終え、アレクは最後に傍らにいるメディに語りかける。
メディは何やら心配そうに、アレクの顔を見上げている。
「大丈夫? 本当に、あぶなく、ない?」
「絶対に、大丈夫…とは言えないかな。
でも、たぶん大丈夫だよ。一応、備えはあるから」
アレクは、腰に括りつけてあるナイフを確認し、そしてふと嫌な事を思い出す。
一瞬だけ、このナイフでメディを切り裂いてしまった時の感触が蘇った。
ずきり、と胸が痛む。できれば、使わないに越したことはない。
「アレ、ク?」
アレクの消沈を感じ取ったのか、メディは不安げに首を傾げる。
――彼女を、心配させてはいけない。
メディの頭に手を伸ばしながら、アレクはにこりと笑みを返す。
「昼すぎには、帰ってくるから。ちゃんと、家で待っててね」
身長が伸びたせいか、以前に比べてメディの眼の位置が近いように思えた。
それに少しだけドキリとしながら、アレクはメディの頭を撫でる。
メディは冴えない表情のまま、小さく頷く。
「わかった。待ってる。
それじゃ、アレク。ちょっと、かがんで?」
「ん?」
突然なんだろうかと思いながらも、アレクは軽く身を屈める。
アレクの眼の位置と、メディの眼の位置の高さが重なる。
その瞬間、メディの手がアレクの顔に伸びる。
「ん」
「んん――…!」
一瞬だけの、軽い接触。
アレクが怯んだ隙に、メディは背を向けて走り去る。
家の扉に飛びつくように手を伸ばし、そしてちらりとこちらを向いて、
「早く、帰って、きてね」
顔を真っ赤に染めながらそんな事を言って、
アレクが声をかける間もなく、ばたんと扉が閉まった。
「………」
いや、まあ。彼女の顔は、元から赤いのだが。
それにしても、赤い。
今の自分の顔も、同じような色をしているのだろうが。
「ふぅ…」
火照る顔を手で冷ましながら、アレクは馬車に乗り込む。
そんなアレクを揶揄するように、眼前で馬が甲高い嘶き声を挙げた。
●
人里離れた場所で暮らすという事。
それの真の難しさを知ったのは、アレクが山小屋に住み始めて、
そしてメディと会ってすぐの事だった。
一番問題になるのが、生活必需品の調達だった。
食物は森からでも調達できるが、いつも調達できるとは限らない。
できれば自給したいところだが、それにも必要な道具がある。
しかし山小屋に残されていた道具は基本的にボロボロで、使い物にならないモノばかり。
道具を作ろうにも、アレクにそんな技術は無い。
そういうわけで、アレクはヤンの伝手で道具を新調して貰うことにした。
それが、つい先日近隣の村の住人であるマルクの家を訪れた理由。
そして今日、アレクは完成した道具を受け取るために、マルクの住む村へと向かっていた。
(大丈夫、だよね)
念入りに辺りを見回しながら、アレクは心中で呟く。
数日前、ヤンが言っていた言葉を思い出す。
――どこぞの賊まがいの連中が近くに来てるらしい。
正直、ぞっとする話だ。
アレクは未だ賊に襲われた事はないが、襲われた人の話は幾度となく聞いた事がある。
それらの話のどれも、碌な結末を迎えていない。だからこそアレクは、この上なく慎重に馬車を進めていた。
時間は、日が昇りきっている昼間に。
通り道は、できるだけ不意打ちに対応できるような広くしっかりとした道を。
賊が徒歩だったなら、馬車を走らせれば逃げきることもできる。
もし相手も馬を持っていたら眼も当てられないが、此処近辺で馬はそこそこ貴重品だ。
持っている可能性は低い、持っていても数は少ないとアレクは踏んでいた。
そして、あまり考えたくないが…最悪の事態となった場合は、
(荷馬車全部、身代金代わりに差し出す。それしか、ないよね)
対応策を何度も反芻しながら、アレクは馬を歩かせる。
今馬車に積んでいるのは、全てマルクや村人達への送るための果物酒だ。
造った自分が言うのもなんだが、そこそこ良い出来のモノばかり。
身代金としては、十分に効果はある。
そこでふと、アレクはあのワーキャットの事を思い出す。
彼女はまだ、この近辺をうろついているのだろうか。
賊に襲われたり、していないだろうか。
「………」
不安が、脳裏をよぎる。
思えば、あの夜から彼女は一度も自分の前に姿を見せていない。
もしかして、賊に襲われて――
「っ…」
そこまで考えて、アレクは横に首を振る。
彼女なら、そんなへまは起こさないだろう。
そもそも、賊が彼女を襲って何になるというのか。こう言っては彼女に悪いが、何の利益もない。
不安をかき消すように息を大きく吐き出した後、アレクは木陰の間を進んでいった。
………。
山小屋を出発して、はや数刻。
今のところ、アレクの身には何も起こっていない。
耳を澄ますと、水の流れる音が耳に届いた。川のせせらぎが、聞こえる。
アレクは、ほっと息を吐き出した。きっと、もうすぐ橋が見えてくるはずだ。
此処近辺の土地は、上流で二つに分かれた川に挟まれている。
二つの川は下流で合流しており、この土地は川を境界にした楕円のような形をしている。
アレクの山小屋は、ちょうどその楕円の中にある。
山に近い川を越えると、そこはヤン曰く『化物の住む森』であり、
反対側の川を越えると、その先にはマルクの住む村やその他の集落が存在する。
そしてこの先にある橋を渡れば、村に着くまでほとんど木々が無い平野になる。
道もしっかりしているので、多少馬に無理をさせることになるが、早々に走り抜けることもできる。
あの橋を渡れば――もう、安心だ。
アレクは、逸る気持ちについ駆け出しそうになる。
しかし、焦って事を仕損じては元も子もない。もし罠を仕掛けられて馬を潰されたら、どうしようもなくなる。
ゆっくりと、しかし着実に、アレクは木々の間を進んでいく。
(あと、もう少し…)
やっと、橋が見えてきた。煉瓦を積み上げてアーチ状にした、こんな辺境には不釣り合いな石造りの橋梁。
辺りを確認する。もちろん、誰もいない。アレクは大きく息を吐き出しながら、馬に鞭を入れようとして、
手綱を振り上げた腕が、ピタリと止まる。視界の先に、黒い影が映る。
「―――え?」
突然橋の傍らから、黒い人影がぬぅっと現れた。それも、複数。皆、手に何かを持っている。
剣。そして、槍。そのシルエットを見たアレクの全身から、どっと汗が噴き出す。
賊だ。間違い、ない。
(待ち伏せ、されていた――?)
その事実に、アレクは驚きを隠せない。
自分が此処に住み始めるまで、川よりこちら側は無人のはずだった。
よしんば相手が此処らの事情に不得手だったとしても、こんな人気のない道で待ち伏せをする理由がない。
此処で待ち伏せをしていたという事は…端から連中の狙いは、アレクのみだったということ。
偶発的な遭遇ならまだしも、自分が確固とした標的にされるとは思ってもみなかった。
「まずい――!」
アレクは慌てて、方向を転換しようと手綱を引く。このまま逆に走らせれば、まだ――
しかしその途端、アレクは逆にその手綱に引かれて体勢を崩した。
あっ、と声をあげる間もなく、アレクの体は御者台から滑り落ちた。
地面に落ちる、鈍い衝撃。揺らぐ視界の端に、人間の足のようなものが見えた。
「よう、旦那。景気はどうだい?」
気安い、しかし地の底から響くような低い声に、アレクの心臓が縮みあがる。
茫然と顔を挙げると、そこには未だかつて見たこともないほどの巨体が聳え立っていた。
男の手には、先ほどまでアレクが握っていた手綱が握られている。
「まあ、景気が良くないと困るんだがな。
旦那の懐を当てにしている俺達としては」
巨漢の男の右頬に走る大きな傷が、凄絶な笑みによって禍々しく引き攣る。
どうして、とアレクは心中で呟く。
周りの確認は、ちゃんとしていたはずなのに――。
「人間ってのは、ダメな生き物だよな。
ちょっと希望が見えてくると安心しちまって、注意力が散漫になる。
まあ、だからこそ俺はあんたを出し抜けたわけだが」
ご丁寧に、巨漢の男はアレクの疑問に対して答えを返してくれた。
その小ざっぱりした口調に、アレクの思考は怒りを越えてむしろクリアになっていく。
アレクは苦虫を噛み潰したような顔をしながらも、ゆっくりと身体を起こす。
気づけば、アレクの周りを屈強な男達が囲んでいた。当然、手には思い思いの武器諸々。
「さあ、旦那。取引をしよう。
あんたの命と、あんたの積み荷を交換だ」
賊のボスであるらしい巨漢の男が、詩人のように朗々とした声をあげた。
両腕を後ろ手に縄で縛られ、首元に剣を突き付けられる。
首を縦に振る以外、アレクに選択肢はなかった。
思った通り寝坊してしまった、次の日の昼頃。
芝居がかったその一言に、アレクは思わず果実酒を吹き出しそうになってしまった。
傍らでは、メディがきょとんとした顔で首を傾げている。
「…ごほっ。ヤン、突然何?」
「いや、知り合いに聞いたんだよ。
スライムは胸を見ると、どれだけ多くの栄養を摂取してるかわかるってな」
「胸?」
アレクは咳き込みながら、ちらりとメディの方を見やる。
以前、メディの身長はアレクの腰より少し高いくらいだったが、今では首近くまで伸びている。
そして確かに、胸の大きさは何倍にも膨らんでいる。少なくとも、昨日はここまで大きくなかった。
メディは両頬に手を当てて、何やら恥ずかしげにくねくねしている。
「…ヤン。もっと他に見るところがあると思うんだけど」
「なんか、前よりさらに嬢ちゃんの密着度上がってねぇ?
お前ら見てるとなんかムカムカしてきた」
「いや、そうじゃなくて…」
「ああ、そういや色変わってんな」
こともなげに、ヤンは言う。
もっと大きい反応を見せても良いと思うのだが。
「一応聞くけど…普通のスライムって、こんな風になったりするの?」
「少なくとも、俺は聞いたことがねぇな。
見た事あるわけじゃねぇが、スライムって養分蓄えると分裂するんだろ?」
「だよね」
アレクが魔物図鑑から得た知識では、そういうことになっている。
しかしメディは、なぜか分裂せずに『進化』した。
普通のスライムから、知能が増したレッドスライムに。
「アレク。私、変なの?」
「え? あ、いや。そういうわけじゃないけど…」
メディの口調は、以前と比べて鮮明なモノになっている。
良いか悪いかと言われれば、どちらかといえば良いに決まっている。
しかし、どうしてそうなったかはやはり気になる。
「何か心当たりとかねぇの?」
「心当たり?」
「嬢ちゃんがこうなった時、状況はどんな感じだったんだよ」
「どんな感じって…」
アレクの脳裏に、昨夜の失態が浮かび上がる。
ワーキャットに襲われ、メディに主導権を握られ、
そして――初めて、メディと正しい意味合いで交わった。
ちなみにあの後、メディの勢いは中々収まらず、アレクはさらに2回ほど搾り取られてしまった。
「………」
ちらり、とアレクはメディの方を見やる。
奇しくも、メディも同じようにアレクを横目で見ていた。
彼女の体は元から赤いが、どことなく頬が赤くなっているような気がする。
「…仲良いな、お前ら」
呆れる様に、ヤンが呟く。
アレクとメディは、慌てて視線をそらしあってしまう。
ヤンはやれやれと首を振りながら、果実酒の入った瓶に手を伸ばそうとして、
「…あ。私が、やる」
メディがすかさず瓶を手に取った。
そして、器用にヤンのジョッキに果実酒を注ぐ。
おお、とヤンが驚いたような声を挙げる。
「気が利くじゃねぇか。どういう風の吹きまわしだ?」
「ヤンは、アレクの御客さん、だから。…怪しい、けど」
「怪しい、は余計だっつの…」
以前と比べ感情豊かな表情を見せるメディと、不満げに果実酒をあおるヤン。
微笑ましい光景に、アレクは思わず顔を綻ばせてしまった。
ヤンは何やらじろじろとメディの顔を見ていたが、やがて視線をアレクの方に向けて言う。
「まあ、いいや。ところで、あの猫の事なんだけどよ」
「猫? …もしかして、あのワーキャットのこと?」
「ああ」
…この話題は、大丈夫なのだろうか。
アレクは少し不安になり、少しだけメディの顔色を窺う。
しかし、意外にもメディは全く気にしていない様子。むしろ、余裕すら窺える。
昨日は、あれほど嫉妬していたというのに。
「もう、良いの」
「…え?」
「私が、先に貰ったから。…アレクの、初めて」
「っぶ!」
耳元で囁かれたその言葉に、アレクはまた果実酒を吹き出しそうになってしまった。
幸いにも聞こえていなかったらしいヤンが、訝しげな顔でこちらを見る。
「どした?」
「…ごほっ。い、いや、なんでもないよ。
で、あのワーキャットがなんだって?」
「あー、いや。大したことじゃないんだが…
とりあえず、マルクから軽く事情を聴けたんだよ。一応伝えとこうかと」
「マルクから?」
メディも少し興味があるようで、瓶に果物を詰める作業を進めながらも意識がこちらを向いているのがわかる。
アレクとメディが話を聞く気になったのを確認してから、ヤンは淡々と語り始める。
「聞くところによると、あの猫は最近マルクの村でお尋ね者扱いされてたみたいだな。
一度は捕まえたらしいんだが、逃げられたらしい」
「何か、悪さでもしたの?」
「大したことじゃねぇけどな。食料漁りとか、畑荒らしとか、そんな感じだ。
だが、村人にとって面倒な事には変わりない。
どうにか捕まえて、領主のとこの警吏に突き出そうとしたところで逃げられたって話だ」
「ふぅん…」
聞く限りでは、思ったほど大層な話ではない。
悪さといっても、高々野性の動物がする程度のモノ。
だからこそ、引っかかることがある。
「一つ、聞きたいんだけど…あのワーキャットって鉄の首輪をつけられてたよね。
あれも、村の人たちがやったの?」
「いや、どうやら違うらしい。捕まえた時には元からついてたって話だ。
考えてみりゃ、そりゃそうだよな。あんな頑丈そうな首輪、村の連中に買えるわけがねぇ」
「と、いうことは――」
罪に釣り合わない、そして常人には手に入れ難い高価な首輪。
やはり、彼女は罪によって首輪を付けられたわけではないように思える。
嫌な予感が、アレクの脳裏に去来した。
アレクが言わんとした事を、ヤンもわかっていたらしい。
軽く頷きながら、アレクの代わりに言葉を続ける。
「この話、どっかの貴族様が関係してるのかもな。
あんまり考えたくねぇ話だが」
ヤンが、不安を紛らわすように果実酒を一気に飲み干す。
アレクは俯きながら、ぼんやりと果実酒に移った自分自身を眺めていた。
●
不覚だった。
生涯最大の不覚だったと言って良い。
よもや、あれほどまで乱れてしまうとは思いにも寄らなかった。
いっそのこと、綺麗さっぱり忘れてしまっていれば良かった。
しかし忌々しい事に、先日の出来事はしっかりと記憶に残っている。
事細かく。吾輩があの男に何をして、何をしようとしたかまで。
―――がりがりがり。
苛立ちを押し殺すように、吾輩は爪を研ぐ。
今思えば、吾輩はなぜあの男を犯そうとしたのだろうか。
マタタビがあったとはいえ、かつての吾輩なら本能をねじ伏せることもできたはずなのだ。
かつて、いけ好かない口髭の輩にマタタビを突きつけられた時。
吾輩は追っ手を振り払うだけでは飽きたらず、彼奴の顔面を引っ掻いて踏みつけにする余裕すらあった。
あの夜、吾輩はそこまですることはなくとも、情欲に屈せずに立ち去る事くらいはできたのではないだろうか。
―――がり。
いや、まあ、確かに。
あの男が無様に喘ぐ様は、なかなかに気持ちが良かった。
吾輩が動く度にびくびくと震えるあの様子と、達しまいと我慢するあの顔は、そそるモノがあった。
特に、達している最中に追撃を仕掛けたあの時。あの情けない顔といったら、吾輩まで興奮してきてしま――
いやいやいや。
―――がりがりがりがりがりがり。
一体、吾輩は何を考えているのだ。
火照りかけた体をクールダウンする。
あのスライムのせいで、吾輩は結局最後の行為まで至れなかった。
そのせいか、最近思考がどうもおかしい。何やら…ムラムラ、する。
こんな事なら、最後までしておけば――
いやいやいやいやいや。
―――がりがりがりがりがりがり。
嗚呼、吾輩はどうしてしまったというのだ。
これも全て、あの男のせいだ。
あの男とは、最近会っていない。こちらから避けている。
…一体、どんな顔をして会えというのか。
これ以上、もどかしい思いをしたくない。
やはり、早く此処を離れた方がいいのかもしれない。
しかし、それには問題がある。一体どうすれば、あの川を渡れるのか…。
吾輩は途方に暮れ、首を垂れた。その時、
「もしもーし、そこの猫。聞こえてる?」
突然、背後から声がした。
吾輩は、反射的にその場から飛び退く。
考え事をしていたせいか、全く気付かなかった。
ぎろりと、声のした方に鋭い視線を向ける。その先にいたのは…一人の、人間の男だった。
「ぅおっと…待て待て。敵意はねぇよ。落ち着けって」
緊張感のない、飄々とした声音。
見覚えがある。確か、あの男とよく一緒にいる目つきの悪い男。
時折森の中で遭遇することがあったが、あの男と違って話しかけてくるのはこれが初めてだ。
一体、どういうつもりなのか。
「あー。警戒はごもっともだが、ちょいと話を聞いてくれ。
率直に言うと、そこで爪を研ぐのはマズいんじゃないか?」
男が指を差す先にあるのは、吾輩が爪研ぎに使っていた樹木。
いつの間にか、表層がかなりめくれてひどい有様になってしまっている。
思案に暮れるあまり、引っ掻きすぎてしまったらしい。
「気づいてないのかもしれないが、そこらへんはある御仁の縄張りだ。
此処らの木々を傷つけるのは、やめた方が良いぞ」
ある、御仁。…そういえば、確かに妙な気配を感じる。
明らかに、人間ではない何か。それも、そこそこの力を持ったモノ。
お節介にも、この男はそれを伝えにきたらしい。
この男といい、あの男といい、この森に住む人間はどこかおかしい。
「つか、お前まだこの辺に居たんだな。
さっさとどっかいっちまえばいいのに」
それができれば、とっくにしている。
吾輩が言葉を話せたら、そう言ってやるところだった。
苛立たしさを軽い唸り声に変え、吾輩は男に向かって鳴き声を上げる。
「ん。…ああ、そうか。お前、魔物だったな。
だから、あの川を渡れないのか」
納得するように、男が呟く。
その言葉に、吾輩は首を傾げる。
どうやら、この男は吾輩が知らない事情を知っているらしい。
「つまりあれか。アレクの馬車にこっそり乗って村を出たは良いが、
今度は此処らの土地に閉じ込められちまって、立ち往生してるのか。
意外と馬鹿なんだなお前」
喧嘩売っているのかこの男は。
じゃきん、と吾輩の爪が両前足から飛び出るのを見て、男は慌てて数歩後退する。
「ぅお。待て待て。今のは取り消す。
まあ…その、あれだ。一応忠告しとくが、あの橋を渡ろうとか考えない方が良いぞ。
知り合いに聞いた感じだと、碌なことにならない」
そんなこと、百も承知である。
吾輩の野性の勘が、あの橋は危険だと言っているのだ。
橋だけではない。この土地周辺に流れる川全てに、何か嫌な感じがした。
そのせいで、おちおち魚を捕る事も出来ない。
「しっかし…厄介だな。橋も渡れず、川も通れないとなると――
んん、外に出るにはどうすりゃいいんだろうな」
根が世話焼きなのか、男は勝手に吾輩の現状を分析し始めた。
吾輩は、それを冷やかな眼差しで見つめる。
容姿から判断するに、この男はあまり利口そうではない。
吾輩が解決できない問題を、この男に解けるはずがない――そう、吾輩は思っていた。
しかし男は考えること数秒、何か思いついたようにパチンと指を鳴らす。
そして、言う。
「要は、あの橋を直接踏まずに渡ればいいわけだ。
それなら、もう一度馬車にこっそり乗って行けば良いんじゃね?」
●
「それじゃ、行ってくるね」
朝靄がたちこめる、早朝の森の中。
馬車に荷を積み終え、アレクは最後に傍らにいるメディに語りかける。
メディは何やら心配そうに、アレクの顔を見上げている。
「大丈夫? 本当に、あぶなく、ない?」
「絶対に、大丈夫…とは言えないかな。
でも、たぶん大丈夫だよ。一応、備えはあるから」
アレクは、腰に括りつけてあるナイフを確認し、そしてふと嫌な事を思い出す。
一瞬だけ、このナイフでメディを切り裂いてしまった時の感触が蘇った。
ずきり、と胸が痛む。できれば、使わないに越したことはない。
「アレ、ク?」
アレクの消沈を感じ取ったのか、メディは不安げに首を傾げる。
――彼女を、心配させてはいけない。
メディの頭に手を伸ばしながら、アレクはにこりと笑みを返す。
「昼すぎには、帰ってくるから。ちゃんと、家で待っててね」
身長が伸びたせいか、以前に比べてメディの眼の位置が近いように思えた。
それに少しだけドキリとしながら、アレクはメディの頭を撫でる。
メディは冴えない表情のまま、小さく頷く。
「わかった。待ってる。
それじゃ、アレク。ちょっと、かがんで?」
「ん?」
突然なんだろうかと思いながらも、アレクは軽く身を屈める。
アレクの眼の位置と、メディの眼の位置の高さが重なる。
その瞬間、メディの手がアレクの顔に伸びる。
「ん」
「んん――…!」
一瞬だけの、軽い接触。
アレクが怯んだ隙に、メディは背を向けて走り去る。
家の扉に飛びつくように手を伸ばし、そしてちらりとこちらを向いて、
「早く、帰って、きてね」
顔を真っ赤に染めながらそんな事を言って、
アレクが声をかける間もなく、ばたんと扉が閉まった。
「………」
いや、まあ。彼女の顔は、元から赤いのだが。
それにしても、赤い。
今の自分の顔も、同じような色をしているのだろうが。
「ふぅ…」
火照る顔を手で冷ましながら、アレクは馬車に乗り込む。
そんなアレクを揶揄するように、眼前で馬が甲高い嘶き声を挙げた。
●
人里離れた場所で暮らすという事。
それの真の難しさを知ったのは、アレクが山小屋に住み始めて、
そしてメディと会ってすぐの事だった。
一番問題になるのが、生活必需品の調達だった。
食物は森からでも調達できるが、いつも調達できるとは限らない。
できれば自給したいところだが、それにも必要な道具がある。
しかし山小屋に残されていた道具は基本的にボロボロで、使い物にならないモノばかり。
道具を作ろうにも、アレクにそんな技術は無い。
そういうわけで、アレクはヤンの伝手で道具を新調して貰うことにした。
それが、つい先日近隣の村の住人であるマルクの家を訪れた理由。
そして今日、アレクは完成した道具を受け取るために、マルクの住む村へと向かっていた。
(大丈夫、だよね)
念入りに辺りを見回しながら、アレクは心中で呟く。
数日前、ヤンが言っていた言葉を思い出す。
――どこぞの賊まがいの連中が近くに来てるらしい。
正直、ぞっとする話だ。
アレクは未だ賊に襲われた事はないが、襲われた人の話は幾度となく聞いた事がある。
それらの話のどれも、碌な結末を迎えていない。だからこそアレクは、この上なく慎重に馬車を進めていた。
時間は、日が昇りきっている昼間に。
通り道は、できるだけ不意打ちに対応できるような広くしっかりとした道を。
賊が徒歩だったなら、馬車を走らせれば逃げきることもできる。
もし相手も馬を持っていたら眼も当てられないが、此処近辺で馬はそこそこ貴重品だ。
持っている可能性は低い、持っていても数は少ないとアレクは踏んでいた。
そして、あまり考えたくないが…最悪の事態となった場合は、
(荷馬車全部、身代金代わりに差し出す。それしか、ないよね)
対応策を何度も反芻しながら、アレクは馬を歩かせる。
今馬車に積んでいるのは、全てマルクや村人達への送るための果物酒だ。
造った自分が言うのもなんだが、そこそこ良い出来のモノばかり。
身代金としては、十分に効果はある。
そこでふと、アレクはあのワーキャットの事を思い出す。
彼女はまだ、この近辺をうろついているのだろうか。
賊に襲われたり、していないだろうか。
「………」
不安が、脳裏をよぎる。
思えば、あの夜から彼女は一度も自分の前に姿を見せていない。
もしかして、賊に襲われて――
「っ…」
そこまで考えて、アレクは横に首を振る。
彼女なら、そんなへまは起こさないだろう。
そもそも、賊が彼女を襲って何になるというのか。こう言っては彼女に悪いが、何の利益もない。
不安をかき消すように息を大きく吐き出した後、アレクは木陰の間を進んでいった。
………。
山小屋を出発して、はや数刻。
今のところ、アレクの身には何も起こっていない。
耳を澄ますと、水の流れる音が耳に届いた。川のせせらぎが、聞こえる。
アレクは、ほっと息を吐き出した。きっと、もうすぐ橋が見えてくるはずだ。
此処近辺の土地は、上流で二つに分かれた川に挟まれている。
二つの川は下流で合流しており、この土地は川を境界にした楕円のような形をしている。
アレクの山小屋は、ちょうどその楕円の中にある。
山に近い川を越えると、そこはヤン曰く『化物の住む森』であり、
反対側の川を越えると、その先にはマルクの住む村やその他の集落が存在する。
そしてこの先にある橋を渡れば、村に着くまでほとんど木々が無い平野になる。
道もしっかりしているので、多少馬に無理をさせることになるが、早々に走り抜けることもできる。
あの橋を渡れば――もう、安心だ。
アレクは、逸る気持ちについ駆け出しそうになる。
しかし、焦って事を仕損じては元も子もない。もし罠を仕掛けられて馬を潰されたら、どうしようもなくなる。
ゆっくりと、しかし着実に、アレクは木々の間を進んでいく。
(あと、もう少し…)
やっと、橋が見えてきた。煉瓦を積み上げてアーチ状にした、こんな辺境には不釣り合いな石造りの橋梁。
辺りを確認する。もちろん、誰もいない。アレクは大きく息を吐き出しながら、馬に鞭を入れようとして、
手綱を振り上げた腕が、ピタリと止まる。視界の先に、黒い影が映る。
「―――え?」
突然橋の傍らから、黒い人影がぬぅっと現れた。それも、複数。皆、手に何かを持っている。
剣。そして、槍。そのシルエットを見たアレクの全身から、どっと汗が噴き出す。
賊だ。間違い、ない。
(待ち伏せ、されていた――?)
その事実に、アレクは驚きを隠せない。
自分が此処に住み始めるまで、川よりこちら側は無人のはずだった。
よしんば相手が此処らの事情に不得手だったとしても、こんな人気のない道で待ち伏せをする理由がない。
此処で待ち伏せをしていたという事は…端から連中の狙いは、アレクのみだったということ。
偶発的な遭遇ならまだしも、自分が確固とした標的にされるとは思ってもみなかった。
「まずい――!」
アレクは慌てて、方向を転換しようと手綱を引く。このまま逆に走らせれば、まだ――
しかしその途端、アレクは逆にその手綱に引かれて体勢を崩した。
あっ、と声をあげる間もなく、アレクの体は御者台から滑り落ちた。
地面に落ちる、鈍い衝撃。揺らぐ視界の端に、人間の足のようなものが見えた。
「よう、旦那。景気はどうだい?」
気安い、しかし地の底から響くような低い声に、アレクの心臓が縮みあがる。
茫然と顔を挙げると、そこには未だかつて見たこともないほどの巨体が聳え立っていた。
男の手には、先ほどまでアレクが握っていた手綱が握られている。
「まあ、景気が良くないと困るんだがな。
旦那の懐を当てにしている俺達としては」
巨漢の男の右頬に走る大きな傷が、凄絶な笑みによって禍々しく引き攣る。
どうして、とアレクは心中で呟く。
周りの確認は、ちゃんとしていたはずなのに――。
「人間ってのは、ダメな生き物だよな。
ちょっと希望が見えてくると安心しちまって、注意力が散漫になる。
まあ、だからこそ俺はあんたを出し抜けたわけだが」
ご丁寧に、巨漢の男はアレクの疑問に対して答えを返してくれた。
その小ざっぱりした口調に、アレクの思考は怒りを越えてむしろクリアになっていく。
アレクは苦虫を噛み潰したような顔をしながらも、ゆっくりと身体を起こす。
気づけば、アレクの周りを屈強な男達が囲んでいた。当然、手には思い思いの武器諸々。
「さあ、旦那。取引をしよう。
あんたの命と、あんたの積み荷を交換だ」
賊のボスであるらしい巨漢の男が、詩人のように朗々とした声をあげた。
両腕を後ろ手に縄で縛られ、首元に剣を突き付けられる。
首を縦に振る以外、アレクに選択肢はなかった。
10/05/30 13:44更新 / SMan
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