とある猫の気ままな放浪。そのに。
「――にゃあ」
猫の鳴き声。かすかに聞こえたそれは、紛れもなくあのワーキャットのモノ。
傍らで果物を樽に詰めていたメディが、ぴくりと体を震わせる。
「また、きた」
どことなく不機嫌な様子で呟き、メディは窓に駆け寄る。
アレクはちらりと一度だけそちらに目をやったが、すぐに視線を手元に戻す。
どうせ、いつものように辺りをうろついているだけだろう。
「にゃおん」
アレクは、瓶の蓋を開ける。芳醇な香りが、辺りに漂う。
香りは…まあまあ。院長先生が造ったモノには及ばないが、自分にしては良くできた方だと思う。
少しだけ舐めてみる。甘い。しかし甘すぎるほどではない。酒気も程良い、そこそこの果実酒。
「フー」
「むー」
ちゃり、と金属音が耳に届く。いつの間にか、ワーキャットの鳴き声が近付いてきていた。
戸口を見やると、メディが家の入口に立ちふさがってワーキャットを威嚇していた。
どうやら、ワーキャットの目当てはこの果物酒らしい。匂いにつられてやってきたのだろうか。
「にゃ!」
「だめ!」
小さい両腕をめいいっぱい広げて、ワーキャットを通すまいとするメディ。
小柄な身体を低く沈め、今にも飛び出しそうな姿勢で身構えるワーキャット。
ワーキャットは、しばらく隙を探すようにじろじろとこちらを見ていたが、やがて諦めたのか姿勢を崩した。
「にゃ〜」
とことこと、何事もなかったかのようにワーキャットは去って行った。
相変わらず、引き際をわきまえている。
やれやれ、とアレクはため息をつきながら次の瓶に手を伸ばそうとした――その時、
「お。結構うまくできてるじゃねぇか、この酒」
「うわぁ!?」
いつの間にか、先ほどまでメディがいた位置にヤンが居た。
しかも、先ほど味見したばかりの果物酒を勝手に飲んでいる。
アレクの声に驚いたメディが、びくりとこちらを向いた。そして、ヤンを視界に捉えるなり叫ぶ。
「そこ、わたしのばしょ!」
「ん? ああ、わりぃわりぃ」
ヤンはすぐさま椅子から立ち上がる。入れ替わるように、メディはアレクの隣に座る。
メディは何気なくアレクに寄りかかりながら、元の作業を再開する。
「相変わらず、仲良いなお前ら」
「…それはともかく、もっと他に言う事はないのかな? どこから入ってきたの?」
「そこの窓。嬢ちゃんと猫が喧嘩してたから、こっちに回り込んだ」
盗人同然の行動だ。此処が町なら、自警団に突き出されても文句は言えない。
「んだよ。今度、酒を飲ませてくれるって約束だったじゃねぇか」
「勝手に入ってきても良い、とは言ってないよ…」
「元は俺んちだろ。良いじゃねぇか別に」
相も変わらず、傍若無人な物言い。それでも、嫌な感じがしないからつくづく不思議だ。
意外にユーモアがある、とでも言うのだろうか。とっつきにくいのは顔だけなのかもしれない。
「おい。今、何か失礼なこと考えてなかったか?」
「え。あ。いや別に」
「ふぅん?」
怪しむ様に首を傾げた後、ヤンは果物酒を一飲みする。
ひやりとするアレクの前に、中身の液体が半分ほどになった瓶がごとんと置かれる。
「そういや、あの猫まだこの辺りをうろついてんのか。
ほっときゃどっかに行っちまうと思ったんだがな」
突然思い出したかのように、ヤンは言う。
猫、という言葉にメディがかすかに反応を示す。
「うん…そう、だね。どうして、僕の馬車に潜り込んでたんだろ」
「さぁな…だがまあ一番妥当なのは、村から逃げ出すためってところだろ」
「どういうこと?」
手に持つ瓶の蓋を締め直しながら、アレクは聞き返す。
ちびちびと果物酒を舐めながら、ヤンは天井を仰ぐ。
「あの日、村の出口には見張りが立ってたからな。何かあったって証拠だ。
村の外からやってくる何かを警戒してたのか。はたまた、村の内部にいる何かを逃がしたくなかったか」
「彼女が――あのワーキャットが、何か悪い事をしたということ?」
「そんなところじゃねぇの」
どうやら、ヤンはこの件に関してあまり興味を持っていないようだ。
言葉の端々がひどく投げやりに聞こえる。
「見たところ、そんなに凶悪な魔物には見えなかったけど…」
「まあ、一見そう見えるが…魔物は魔物だ。正直、あんまり関わらない方が良いと思うぞ」
「そう…かな」
意図せず、煮え切らない返事を返してしまった。
こん、とヤンは飲み干した葡萄酒の瓶を机の上に置く。
そしてどこか遠くを見るような眼で、ぼそりと呟く。
「罪人然り、奴隷然り…首輪を掛けられてる奴に、碌な奴はいねぇ。
面倒事に巻き込まれたくなかったら、近づかない方が吉だ」
ヤンの言葉はひどく重く、そして冷めていた。
おそらく、間違ってはいないのだろう。
理解はできる。しかし、納得はできない。
「まあ、言ってもお前は聞かないんだろうけどな」
「ぇ」
「そんな顔してる」
そう言って、ヤンは立ち上がる。
もう、帰るのだろうか。相変わらずの、唐突な退出。
ヤンはそのまま、スタスタと戸口へと歩いて行く。しかし、扉に手をかける直前、
「――あ、そうだ。いっけね、忘れてた」
ヤンがくるりと振り向いた。
「さっき小耳に挟んだんだが、どこぞの賊まがいの連中が近くに来てるらしい。
少し離れた場所にある村が襲われたとか何とか。村が本当に警戒してるのは、こっちかもしれねぇな。
お前も気ぃつけろ」
そう言い捨てて、ヤンは返事も待たずに扉の向こうへ姿を消した。
アレクは呆気にとられる。今のは、結構重要な話だったのではないだろうか。
此処は外界から遠く離れた辺境の地。助けてくれる人は誰もいない。
ヤンの言っている意味がわからなかったのか、傍らでメディが首を傾げる。
「ぞくまがい…って、なに?」
「乱暴な人、かな。メディも気をつけてね。もし怪しい人を見つけたら、絶対近づいちゃダメだよ」
「あやしい、ひと?」
アレクの顔を見上げながら、メディは首を反対側に傾げる。そして言う。
「やん、のこと?」
「っ…」
吹き出しそうになってしまったが、何とか堪える。
どうやら、メディは未だヤンの事を怪しい人と認識しているらしい。
「いや、ヤンは良い人だよ。だから、近づいても大丈夫」
「じゃあ、あのねこ?」
「あの子も…違うかな。悪い子じゃなさそうだし、仲良くしようね」
「えー」
嫌そうな声を挙げるメディ。そんな時は、どうすればいいか。
アレクはメディの頭を撫でる。メディは気持ち良さそうに眼を細め、こくこくと頷く。
幸せそうなメディの顔を見降ろしながら、アレクはふと思う。
これまでは、守られる側の人間だった。しかし今は、自分が彼女の事を守らなければならない。
「頑張らないと、ね」
ぼそりと呟き、アレクは次の果物酒に手を伸ばした。
●
ちゃり、と音がした。音のした方を見やると、あのワーキャットが居た。
「にぃー」
場所は、魔物の森とこちら側を隔てる清流のほとり。
アレクは川のせせらぎを聞きながら、のんびりと上流の方へ足を進めているところだった。
ワーキャットは、何やら水の中に手を差し入れ、そしてすぐさま引っ込める動作を繰り返している。
「………」
アレクは、ワーキャットから少し離れた位置で立ち止まる。
彼女は村から逃げ出してから、この近辺を無作為に歩きまわっているようだ。
基本的に神出鬼没だが、意外に遭遇率は高い。ここ数日、アレクはかなりの頻度で彼女を見つけている。
「にゃあー」
彼女は、一心不乱に水面を叩いている。何かを捕まえようとしている。
一見無防備に見えるが、彼女は物音にかなり敏感だ。これまでも、ある一定の距離まで近づくとすぐに逃げてしまった。
気ままで、かつ警戒心の強い猫といった感じ。だからアレクは、それ以上近づかずに腰を下ろした。
「…にぃ?」
ワーキャットの眼が、アレクを捉える。細長く茶色い尻尾が、警戒するように揺れる。
アレクは軽く笑みを投げかけた後、肩に掛けていた手製の桶と釣竿を地面に下ろす。
目的は、おそらく彼女が狙っていたモノと同じ。川の中で気持ち良さそうに泳いでいる魚達だ。
「…っと」
釣り針を手に刺しそうになってしまい、アレクは思わず声をあげる。
釣りをやるのは、初めてだ。しかし、一応やり方はヤンに教わった。たまには、肉も喰え。これもヤンの言葉。
生憎と備蓄に肉類は無く、村まで遠出するのも億劫。何より、賊に襲われる危険がある。
それならば、釣りをすれば良い。そうアレクは思い当たった。さすがの荒くれ者も、こんな僻地にはやってこないだろう。
「!」
釣り針が水面に落ちる音にすら、敏感に反応するワーキャット。一瞬だけ、毛がピクリと逆立った。
しかし、逃げはしなかった。釣りをするアレクを興味深げに見つめている。
アレクはのんびりと、魚が餌に喰らいつくのを待つ。
「………。ふぅ…」
当然だが、始めてすぐに魚がかかるという事はない。
アレクは小さく息を吐き出し、そしてちらりとワーキャットの方を見やった。
毛色は薄い茶色で、眼は緑色。近くで見ると意外と小柄で、メディより少し大きいくらい。
ボロボロになった外套のようなものを身に纏っているが、既に服としては機能していない。
「………」
しかし、アレクが一番気になっているのは、首に掛けられた分厚い鉄の錠だ。
つるりとした表面に、小さな鍵穴と、途中で断ち切られた鎖の一部があるのが見える。
ワーキャットが、前足で顔を洗う。ちゃり、と首輪と鎖が触れ合って音を立てる。
かつて、自分も付けられた事がある首輪。彼女はどうして、それを付けられているのか。
「――…っ!」
「――あっ」
はた、と眼が合ってしまった。その途端、彼女は素早く走り去ってしまう。
彼女はいつもそうだ。ちょっとしたことで、すぐに逃げてしまう。
水が流れる音だけが辺りに響くその場所に、アレクは一人残される。
「…はぁ」
思わず、アレクはため息をついてしまう。自分は結局、どうしたいのだろうか。
彼女は魔物だ。村人にも嫌われている可能性がある。
しかしアレクは、仲良くできるなら仲良くしたいと思っていた。
同情…なのかも、しれないが。
………。
「…ん?」
ワーキャットがいなくなってから、しばらくして。
ぴん、と釣り竿が引かれた。慣れていないためか、一瞬動作が遅れる。
しかし、幸いにも手応えはあった。釣り糸の先に、何かがかかっているのを感じる。
「うわっと!」
予想外の力で引っ張られ、アレクは危うく川に落ちそうになる。
しかし何とか踏ん張り、負けじと竿を引き返す。
暫しの格闘。渾身の力を込めて、アレクは釣竿を振り上げた。ぱしゃん、と大きく水が跳ねる。
「やっ――」
やった。
そう言おうとした瞬間、視界の端で何かが飛び出してくるのが見えた。
「――え?」
突然現れたソレは、地面に打ち上げられた魚をすれ違いざまに掠め取る。
アレクが尻餅をつくのと、ソレが離れた位置で立ち止まり、こちらを振り向くのは同時だった。
「――にゃん♪」
してやったり。まさに、そんな顔をしていた。
アレクが釣り上げた魚は、ワーキャットの顎にしっかりと挟まれている。
逃げたふりをして、陰からずっとチャンスを窺っていたのだろうか。
どうやら、まんまとしてやられたらしい。
「…あー。ん、と」
本来なら、怒るべきところなのかもしれない。
しかし実を言うと、もし釣れたら一匹は彼女にあけるつもりだった。
それを考えると、別段怒りも沸いてこない。結局アレクは、にこりと笑みを彼女に投げかけることにした。
「にゃ?」
怪訝そうな顔で、ワーキャットは首を傾げる。
そして、ゆっくりと近づいてくる。返してくれるのかとも思ったが、どうやら違うようだ。
何時でも逃げられる距離で、彼女は立ち止まる。尻尾は天に向けてピンと立ち、ゆらゆらと左右に揺れていた。
「あげるよ。どうせ、あげるつもりだったし」
アレクは、思いをそのまま言葉で表す。
そして眼をそらし、再び釣り針に餌を付ける作業を始める。
視界の端で、ワーキャットの眼が狭まるのが見えた。
「…にゃあ」
なぜか、不機嫌そうな鳴き声が聞こえてきた。
ワーキャットはそっぽを向くようにお尻をこちらに向け、そしてがつがつと魚を食べ始める。
ぴちゃん、と釣り針がまた水面に落ちる。アレクは釣竿を手に、のんびりと水面を眺める。
結局、その日はそれきり一匹も釣れなかった。
しかしまあ、そうそう釣れるものではないとヤンから聞いていた。
傾きかけた太陽を背に、アレクは空のままの桶を持ち上げて帰途についた。
●
気に入らない。
吾輩はどうにも、この男の事が気に入らなかった。
憎んでいるわけでも、恐れているわけでもない。ただ――気に入らない。
そもそも、初めて会った時から嫌な感じはしていた。
この男からは、吾輩をかつて飼い慣らそうとしていた人間と同じ匂いがした。
だからこそ、吾輩はずっとこの男を警戒していた。
だというのに。
――…にぃ?
この男は、なぜ吾輩にそんな笑みを向けるのか。
人間は、いつも吾輩を厭らしい獣の眼で見つめる。吾輩は、それが我慢ならなかった。
しかし、その男のそれはこれまで吾輩が見てきたどの人間の笑みとは違うモノだった。
――にゃん♪
吾輩は、人間が嫌いだ。だから、人間を困らせては悦に浸ることも多かった。
その男が釣り上げた魚をネコババしたのも、同じ理由。
空腹だったという事もあったが、何より憎き人間が悔しそうな顔をする――それを期待していた。
だというのに。
「あげるよ。どうせ、あげるつもりだったし」
気に入らなかった。
吾輩は、孤高の猫である。他人から、それも人間から施しを受けるなど以ての外である。
しかし、奪ったモノをその場で返すというのも間抜け極まりない。
何より、久しぶりの魚である。やむなく、吾輩はその魚を口にした。
――…にゃあ。
苛立たしい。もやもやする。久しぶりのはずの魚の味も、全く味わう事が出来なかった。
この男といると、調子が狂う。しかし、なぜかこの男は自ら吾輩に近づいてくる。
一度、噛みついてやろうか。そうすれば、向こうから寄ってくることもなくなるだろうか。
「…どうしたの?」
全くの無警戒に、男は答える。
既に、吾輩がいつでも飛びつける範囲に近づいている事にも気づかず。
…馬鹿馬鹿しい。こんな無防備な獲物を狩って、何が面白いというのか。
――…にゃおぅ。
一体どうすれば、この男に一泡吹かせる事が出来るだろうのか。
吾輩が真剣に考え始めた――その時、
とても芳しい香りが、どこからか漂ってきた。
――ふに?
思わず、ふぬけた声が漏れる。視界が歪み、思考が霞む。
一体何事かと辺りを見回し、そして見つける。
いつの間にか男の手の上にある、実のような何か。吾輩は眼を見開いた。
男が持っていたソレは――マタタビ、だった。
猫の鳴き声。かすかに聞こえたそれは、紛れもなくあのワーキャットのモノ。
傍らで果物を樽に詰めていたメディが、ぴくりと体を震わせる。
「また、きた」
どことなく不機嫌な様子で呟き、メディは窓に駆け寄る。
アレクはちらりと一度だけそちらに目をやったが、すぐに視線を手元に戻す。
どうせ、いつものように辺りをうろついているだけだろう。
「にゃおん」
アレクは、瓶の蓋を開ける。芳醇な香りが、辺りに漂う。
香りは…まあまあ。院長先生が造ったモノには及ばないが、自分にしては良くできた方だと思う。
少しだけ舐めてみる。甘い。しかし甘すぎるほどではない。酒気も程良い、そこそこの果実酒。
「フー」
「むー」
ちゃり、と金属音が耳に届く。いつの間にか、ワーキャットの鳴き声が近付いてきていた。
戸口を見やると、メディが家の入口に立ちふさがってワーキャットを威嚇していた。
どうやら、ワーキャットの目当てはこの果物酒らしい。匂いにつられてやってきたのだろうか。
「にゃ!」
「だめ!」
小さい両腕をめいいっぱい広げて、ワーキャットを通すまいとするメディ。
小柄な身体を低く沈め、今にも飛び出しそうな姿勢で身構えるワーキャット。
ワーキャットは、しばらく隙を探すようにじろじろとこちらを見ていたが、やがて諦めたのか姿勢を崩した。
「にゃ〜」
とことこと、何事もなかったかのようにワーキャットは去って行った。
相変わらず、引き際をわきまえている。
やれやれ、とアレクはため息をつきながら次の瓶に手を伸ばそうとした――その時、
「お。結構うまくできてるじゃねぇか、この酒」
「うわぁ!?」
いつの間にか、先ほどまでメディがいた位置にヤンが居た。
しかも、先ほど味見したばかりの果物酒を勝手に飲んでいる。
アレクの声に驚いたメディが、びくりとこちらを向いた。そして、ヤンを視界に捉えるなり叫ぶ。
「そこ、わたしのばしょ!」
「ん? ああ、わりぃわりぃ」
ヤンはすぐさま椅子から立ち上がる。入れ替わるように、メディはアレクの隣に座る。
メディは何気なくアレクに寄りかかりながら、元の作業を再開する。
「相変わらず、仲良いなお前ら」
「…それはともかく、もっと他に言う事はないのかな? どこから入ってきたの?」
「そこの窓。嬢ちゃんと猫が喧嘩してたから、こっちに回り込んだ」
盗人同然の行動だ。此処が町なら、自警団に突き出されても文句は言えない。
「んだよ。今度、酒を飲ませてくれるって約束だったじゃねぇか」
「勝手に入ってきても良い、とは言ってないよ…」
「元は俺んちだろ。良いじゃねぇか別に」
相も変わらず、傍若無人な物言い。それでも、嫌な感じがしないからつくづく不思議だ。
意外にユーモアがある、とでも言うのだろうか。とっつきにくいのは顔だけなのかもしれない。
「おい。今、何か失礼なこと考えてなかったか?」
「え。あ。いや別に」
「ふぅん?」
怪しむ様に首を傾げた後、ヤンは果物酒を一飲みする。
ひやりとするアレクの前に、中身の液体が半分ほどになった瓶がごとんと置かれる。
「そういや、あの猫まだこの辺りをうろついてんのか。
ほっときゃどっかに行っちまうと思ったんだがな」
突然思い出したかのように、ヤンは言う。
猫、という言葉にメディがかすかに反応を示す。
「うん…そう、だね。どうして、僕の馬車に潜り込んでたんだろ」
「さぁな…だがまあ一番妥当なのは、村から逃げ出すためってところだろ」
「どういうこと?」
手に持つ瓶の蓋を締め直しながら、アレクは聞き返す。
ちびちびと果物酒を舐めながら、ヤンは天井を仰ぐ。
「あの日、村の出口には見張りが立ってたからな。何かあったって証拠だ。
村の外からやってくる何かを警戒してたのか。はたまた、村の内部にいる何かを逃がしたくなかったか」
「彼女が――あのワーキャットが、何か悪い事をしたということ?」
「そんなところじゃねぇの」
どうやら、ヤンはこの件に関してあまり興味を持っていないようだ。
言葉の端々がひどく投げやりに聞こえる。
「見たところ、そんなに凶悪な魔物には見えなかったけど…」
「まあ、一見そう見えるが…魔物は魔物だ。正直、あんまり関わらない方が良いと思うぞ」
「そう…かな」
意図せず、煮え切らない返事を返してしまった。
こん、とヤンは飲み干した葡萄酒の瓶を机の上に置く。
そしてどこか遠くを見るような眼で、ぼそりと呟く。
「罪人然り、奴隷然り…首輪を掛けられてる奴に、碌な奴はいねぇ。
面倒事に巻き込まれたくなかったら、近づかない方が吉だ」
ヤンの言葉はひどく重く、そして冷めていた。
おそらく、間違ってはいないのだろう。
理解はできる。しかし、納得はできない。
「まあ、言ってもお前は聞かないんだろうけどな」
「ぇ」
「そんな顔してる」
そう言って、ヤンは立ち上がる。
もう、帰るのだろうか。相変わらずの、唐突な退出。
ヤンはそのまま、スタスタと戸口へと歩いて行く。しかし、扉に手をかける直前、
「――あ、そうだ。いっけね、忘れてた」
ヤンがくるりと振り向いた。
「さっき小耳に挟んだんだが、どこぞの賊まがいの連中が近くに来てるらしい。
少し離れた場所にある村が襲われたとか何とか。村が本当に警戒してるのは、こっちかもしれねぇな。
お前も気ぃつけろ」
そう言い捨てて、ヤンは返事も待たずに扉の向こうへ姿を消した。
アレクは呆気にとられる。今のは、結構重要な話だったのではないだろうか。
此処は外界から遠く離れた辺境の地。助けてくれる人は誰もいない。
ヤンの言っている意味がわからなかったのか、傍らでメディが首を傾げる。
「ぞくまがい…って、なに?」
「乱暴な人、かな。メディも気をつけてね。もし怪しい人を見つけたら、絶対近づいちゃダメだよ」
「あやしい、ひと?」
アレクの顔を見上げながら、メディは首を反対側に傾げる。そして言う。
「やん、のこと?」
「っ…」
吹き出しそうになってしまったが、何とか堪える。
どうやら、メディは未だヤンの事を怪しい人と認識しているらしい。
「いや、ヤンは良い人だよ。だから、近づいても大丈夫」
「じゃあ、あのねこ?」
「あの子も…違うかな。悪い子じゃなさそうだし、仲良くしようね」
「えー」
嫌そうな声を挙げるメディ。そんな時は、どうすればいいか。
アレクはメディの頭を撫でる。メディは気持ち良さそうに眼を細め、こくこくと頷く。
幸せそうなメディの顔を見降ろしながら、アレクはふと思う。
これまでは、守られる側の人間だった。しかし今は、自分が彼女の事を守らなければならない。
「頑張らないと、ね」
ぼそりと呟き、アレクは次の果物酒に手を伸ばした。
●
ちゃり、と音がした。音のした方を見やると、あのワーキャットが居た。
「にぃー」
場所は、魔物の森とこちら側を隔てる清流のほとり。
アレクは川のせせらぎを聞きながら、のんびりと上流の方へ足を進めているところだった。
ワーキャットは、何やら水の中に手を差し入れ、そしてすぐさま引っ込める動作を繰り返している。
「………」
アレクは、ワーキャットから少し離れた位置で立ち止まる。
彼女は村から逃げ出してから、この近辺を無作為に歩きまわっているようだ。
基本的に神出鬼没だが、意外に遭遇率は高い。ここ数日、アレクはかなりの頻度で彼女を見つけている。
「にゃあー」
彼女は、一心不乱に水面を叩いている。何かを捕まえようとしている。
一見無防備に見えるが、彼女は物音にかなり敏感だ。これまでも、ある一定の距離まで近づくとすぐに逃げてしまった。
気ままで、かつ警戒心の強い猫といった感じ。だからアレクは、それ以上近づかずに腰を下ろした。
「…にぃ?」
ワーキャットの眼が、アレクを捉える。細長く茶色い尻尾が、警戒するように揺れる。
アレクは軽く笑みを投げかけた後、肩に掛けていた手製の桶と釣竿を地面に下ろす。
目的は、おそらく彼女が狙っていたモノと同じ。川の中で気持ち良さそうに泳いでいる魚達だ。
「…っと」
釣り針を手に刺しそうになってしまい、アレクは思わず声をあげる。
釣りをやるのは、初めてだ。しかし、一応やり方はヤンに教わった。たまには、肉も喰え。これもヤンの言葉。
生憎と備蓄に肉類は無く、村まで遠出するのも億劫。何より、賊に襲われる危険がある。
それならば、釣りをすれば良い。そうアレクは思い当たった。さすがの荒くれ者も、こんな僻地にはやってこないだろう。
「!」
釣り針が水面に落ちる音にすら、敏感に反応するワーキャット。一瞬だけ、毛がピクリと逆立った。
しかし、逃げはしなかった。釣りをするアレクを興味深げに見つめている。
アレクはのんびりと、魚が餌に喰らいつくのを待つ。
「………。ふぅ…」
当然だが、始めてすぐに魚がかかるという事はない。
アレクは小さく息を吐き出し、そしてちらりとワーキャットの方を見やった。
毛色は薄い茶色で、眼は緑色。近くで見ると意外と小柄で、メディより少し大きいくらい。
ボロボロになった外套のようなものを身に纏っているが、既に服としては機能していない。
「………」
しかし、アレクが一番気になっているのは、首に掛けられた分厚い鉄の錠だ。
つるりとした表面に、小さな鍵穴と、途中で断ち切られた鎖の一部があるのが見える。
ワーキャットが、前足で顔を洗う。ちゃり、と首輪と鎖が触れ合って音を立てる。
かつて、自分も付けられた事がある首輪。彼女はどうして、それを付けられているのか。
「――…っ!」
「――あっ」
はた、と眼が合ってしまった。その途端、彼女は素早く走り去ってしまう。
彼女はいつもそうだ。ちょっとしたことで、すぐに逃げてしまう。
水が流れる音だけが辺りに響くその場所に、アレクは一人残される。
「…はぁ」
思わず、アレクはため息をついてしまう。自分は結局、どうしたいのだろうか。
彼女は魔物だ。村人にも嫌われている可能性がある。
しかしアレクは、仲良くできるなら仲良くしたいと思っていた。
同情…なのかも、しれないが。
………。
「…ん?」
ワーキャットがいなくなってから、しばらくして。
ぴん、と釣り竿が引かれた。慣れていないためか、一瞬動作が遅れる。
しかし、幸いにも手応えはあった。釣り糸の先に、何かがかかっているのを感じる。
「うわっと!」
予想外の力で引っ張られ、アレクは危うく川に落ちそうになる。
しかし何とか踏ん張り、負けじと竿を引き返す。
暫しの格闘。渾身の力を込めて、アレクは釣竿を振り上げた。ぱしゃん、と大きく水が跳ねる。
「やっ――」
やった。
そう言おうとした瞬間、視界の端で何かが飛び出してくるのが見えた。
「――え?」
突然現れたソレは、地面に打ち上げられた魚をすれ違いざまに掠め取る。
アレクが尻餅をつくのと、ソレが離れた位置で立ち止まり、こちらを振り向くのは同時だった。
「――にゃん♪」
してやったり。まさに、そんな顔をしていた。
アレクが釣り上げた魚は、ワーキャットの顎にしっかりと挟まれている。
逃げたふりをして、陰からずっとチャンスを窺っていたのだろうか。
どうやら、まんまとしてやられたらしい。
「…あー。ん、と」
本来なら、怒るべきところなのかもしれない。
しかし実を言うと、もし釣れたら一匹は彼女にあけるつもりだった。
それを考えると、別段怒りも沸いてこない。結局アレクは、にこりと笑みを彼女に投げかけることにした。
「にゃ?」
怪訝そうな顔で、ワーキャットは首を傾げる。
そして、ゆっくりと近づいてくる。返してくれるのかとも思ったが、どうやら違うようだ。
何時でも逃げられる距離で、彼女は立ち止まる。尻尾は天に向けてピンと立ち、ゆらゆらと左右に揺れていた。
「あげるよ。どうせ、あげるつもりだったし」
アレクは、思いをそのまま言葉で表す。
そして眼をそらし、再び釣り針に餌を付ける作業を始める。
視界の端で、ワーキャットの眼が狭まるのが見えた。
「…にゃあ」
なぜか、不機嫌そうな鳴き声が聞こえてきた。
ワーキャットはそっぽを向くようにお尻をこちらに向け、そしてがつがつと魚を食べ始める。
ぴちゃん、と釣り針がまた水面に落ちる。アレクは釣竿を手に、のんびりと水面を眺める。
結局、その日はそれきり一匹も釣れなかった。
しかしまあ、そうそう釣れるものではないとヤンから聞いていた。
傾きかけた太陽を背に、アレクは空のままの桶を持ち上げて帰途についた。
●
気に入らない。
吾輩はどうにも、この男の事が気に入らなかった。
憎んでいるわけでも、恐れているわけでもない。ただ――気に入らない。
そもそも、初めて会った時から嫌な感じはしていた。
この男からは、吾輩をかつて飼い慣らそうとしていた人間と同じ匂いがした。
だからこそ、吾輩はずっとこの男を警戒していた。
だというのに。
――…にぃ?
この男は、なぜ吾輩にそんな笑みを向けるのか。
人間は、いつも吾輩を厭らしい獣の眼で見つめる。吾輩は、それが我慢ならなかった。
しかし、その男のそれはこれまで吾輩が見てきたどの人間の笑みとは違うモノだった。
――にゃん♪
吾輩は、人間が嫌いだ。だから、人間を困らせては悦に浸ることも多かった。
その男が釣り上げた魚をネコババしたのも、同じ理由。
空腹だったという事もあったが、何より憎き人間が悔しそうな顔をする――それを期待していた。
だというのに。
「あげるよ。どうせ、あげるつもりだったし」
気に入らなかった。
吾輩は、孤高の猫である。他人から、それも人間から施しを受けるなど以ての外である。
しかし、奪ったモノをその場で返すというのも間抜け極まりない。
何より、久しぶりの魚である。やむなく、吾輩はその魚を口にした。
――…にゃあ。
苛立たしい。もやもやする。久しぶりのはずの魚の味も、全く味わう事が出来なかった。
この男といると、調子が狂う。しかし、なぜかこの男は自ら吾輩に近づいてくる。
一度、噛みついてやろうか。そうすれば、向こうから寄ってくることもなくなるだろうか。
「…どうしたの?」
全くの無警戒に、男は答える。
既に、吾輩がいつでも飛びつける範囲に近づいている事にも気づかず。
…馬鹿馬鹿しい。こんな無防備な獲物を狩って、何が面白いというのか。
――…にゃおぅ。
一体どうすれば、この男に一泡吹かせる事が出来るだろうのか。
吾輩が真剣に考え始めた――その時、
とても芳しい香りが、どこからか漂ってきた。
――ふに?
思わず、ふぬけた声が漏れる。視界が歪み、思考が霞む。
一体何事かと辺りを見回し、そして見つける。
いつの間にか男の手の上にある、実のような何か。吾輩は眼を見開いた。
男が持っていたソレは――マタタビ、だった。
10/07/08 00:12更新 / SMan
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