とある従者の不思議な探検。そのろく。
「――成程、アクイラ伯が…そういうことでしたか」
来るのは二度目になる、アレクが住まう小屋の室内。
果実酒を振舞われながらアレクから一通り説明を聞き、マルクはやっと事の全容を把握した。
二人の騎士達と、十字架のペンダントを持つ少年。そして、病床に伏したアクイラ伯。
アレクの話は、軽々しく話すべきではない内容だったが、言い触らしたりすることがなければそれほど危険な情報でもない。
「この話は、村の者には秘密にしておきます。
かのアクイラ伯がご病気であるということが広まったら、大変なことになりますからね…」
「話が早くて助かります。
それと、出来れば騎士の方々にも、ウィルのことを言わないで貰いたいのですが…」
「わかりました。私は何も聞かなかった、ということにしておきます」
もし騎士達にウィルという少年のことをばらせば、アレクの心象が悪くなるのは必至。
騎士様には申し訳ないが、此処はアレクの味方をせざるを得ない。
話を聞く限り、騎士様に伝えなくとも余程のことがない限りは面倒なことにはならない。
そう、マルクは考えた。
「それにしても…まさか、アクイラ伯がご病気とは…
私としても、残念です。辺境伯様には、色々とお世話になっておりますので」
「マルクさんは、アクイラ伯に会ったことがあるのですか?」
「いえ、直接会ったことはありません。
しかし、良く民の言葉に耳を傾けてくれる方であると思います。
以前、小麦が不作であった時、近辺の村の村おさと共に徴税について談判を行ったところ、
話を聞き入れてくれたばかりか、村に対して食料の支給を行う手筈まで整えて下さいまして」
「それは…確かに、今時珍しい方ですね」
尤も、無償というわけではない。
一時保留された徴税と支給に費やした費用、そして延長に対する追加徴税は、来季か別の季節の作物――例えば、葡萄の収穫の際に、撤収されることになるだろう。
それでも、徴税の滞りに対して村人を拷問することしかしなかった以前の領主と比べれば、破格とも言える待遇だ。
「もし何か手伝えることがあれば、なんなりと。微力ながら、力になりましょう」
「ありがとうございます。
そうですね…当面は、レオンさん達にマンドラゴラの情報を提供する形で良いと思います。
それが、間接的にアクイラ伯を救う助けになるでしょう」
「了解しました。では、もし何かわかりましたら、旦那にも連絡しますよ」
マンドラゴラ。見たことはないが、図鑑で容姿は把握している。
村の連中にそれとなく聞いて回れば、何らかの情報が得られるかも知れない。
「ところで、話は変わりますが…マルクさんは、どうしてあの場所に? もしかして、私の家を訪れる予定だったとか…」
「いえ、そういうわけではありません。これは、村の連中には秘密にして欲しいのですが…
私は時々、『森の精霊』様にお供え物をしに来ているのですよ。今日はその帰りに、あの場に遭遇してしまいまして」
「『森の精霊』…ですか?」
少しだけ驚いたように、アレクが目を見張る。
見たところ、『森の精霊』の事を全く知らないという様子ではない。
「ヤンに少し聞いたことがあるのですが…『森の精霊』とはどのような方なのですか? 私は、詳しく知らないのですが…」
「おや、そうでしたか。『森の精霊』というのは…この辺りに伝わる言い伝えのようなモノです」
「言い伝え、ですか?」
「ええ。この森には古くから森を守っている守り神がいて、あまりにも木を傷つけたり切り倒したりすると彼女に嫌われ、罰を受けると言われています。
昔は、この事を『森に嫌われる』と言っていて、逆に彼女に好かれることを『森に好かれる』と呼んでいたらしいです。
何でも『森の精霊』は、『双神樹』と呼ばれる二つの大木の、そのまた向こうにある大樹の化身だそうで。『森の女神』とも呼ばれていますね」
「森の、女神…」
興味深げに、アレクはマルクの言葉に耳を傾けている。
流石魔物二人と同居しているだけはあって、この手の話題にも抵抗がない様子だ。
これが村の連中だと、おぞましいだの不吉だのと一切耳を傾けようとしないところだろう。
「ここだけの話ですがね…私は一度、その方に助けられたことがあるのですよ」
「え? というと…会ったことがあるのですか」
「ええ。その時のことは、少々記憶が曖昧なんですがね…」
柄もなく、昔のことを思い出してまう。
大切な思い出だが、異教徒と勘違いされてもつまらないので、村の連中には一度も話したことがない。
旦那は教会の修道士と聞いているが、その割に教会の思想に囚われない自由な思想を持っているように思える。
この人にならば、話しても問題ないだろう。そう思い、マルクは言葉を続けた。
「あれは…そう、私の妻が重い病にかかっちまった時の話です。
おっと、妻のことはご存知でしたか?」
「ええ。確か…リディアさん、ですよね」
「そうです。ほんと、私には勿体無いべっぴんで――っとと、失礼。
ともかく噂によれば、何とかって薬草を調合すれば病に効く薬を作れるって話だったのです。
だが、あの村には薬草に詳しい人間も、その薬を調合できる人間もいなかった」
マルクの脳裏に、病に苦しむ妻――リディアの姿が浮かび上がる。
全身に斑点を浮かばせ、今にも死に絶えそうにベッドに沈むあの姿。
思い出すだけでも、胸が苦しくなる。
「あの時は…本当に絶望しましたよ。商売で失敗して、無一文になりかけた時よりも、ね」
しみじみと、マルクは語る。
リディアとは、長い付き合いだった。
マルクが商品を買い、リディアが商品を売る。
商人にしては珍しい夫婦での行商は、辛いことも多かったがとても楽しかった。
いつしか、リディアはマルクの半身とも言える存在になっていた。
だからこそ――病に苦しむ彼女を目前にして、マルクはこの上なく恐怖した。
情けない話だが、その時初めて、自分にとって最も大切なモノは何か知ったのだった。
「あの時ほど、神様に祈ったことはなかったと思います。
でも職業柄、祈るだけじゃどうにもならないことがあることも、私はよく知っていました。
だから私は、森の中へ探しに行ったんですよ。名も形もわからない、その薬草を」
「そして…会ったのですか。『森の精霊』に」
「ええ。何というか、変わった雰囲気の人でしたよ。
少々口が悪くて…正直、人々が想像する女神とは、大分違うと思います」
『双神樹』を超えた先にあったのは、辺り一面の花畑と――見たこともないほどの、巨樹。
どうやって辿りついたのかは、よく覚えていない。
ただ、その場所にいた一人の女性――『森の精霊』の姿は、一度足りとも忘れたことはない。
――私の庭に土足で踏み入るなんて、良い度胸ね。この子達の肥やしにされたいのかしら?
鈴のような声音と、それと全く対極を成す辛辣な言葉。
忘れようと思っても、そう簡単に忘れられない。
「こちらも礼儀が足りなかったからでしょうか、最初は厳しい言葉ばかりを投げつけられました。
しかし、結果的には彼女のおかげで薬草を見つけることができ、その調合を成し遂げることができました。
あの方には…どんなに感謝しても、感謝しきれません。だからこうして、今もその時のお礼を届けているのです」
「成程。そういうことでしたか…」
あの場所に辿りつけたのは、結局その一度だけだった。
何度『双神樹』の向こうへ行こうとしても、いつの間にか元の場所に戻っている。
彼女は静寂を好む様子だったから、もう会うつもりはないのだろう。
――礼なんていらないわ。まあ…珍しい花の種があれば、貰ってあげなくもないけど。
帰り際に、全く期待していないという様子で呟かれた一言。
その言葉に応えるために、マルクはこうして時折『双神樹』まで赴いて、その根元に感謝の印として作物や花の種を送り届け続けていた。
「当然といえば当然ですが、この事は村の連中には秘密にしてます。
ですから、旦那もこの事は口外無用ということでお願いできますか?」
「もちろん。秘密は、お互い様です。
ところで、その『森の精霊』というのは…やっぱり、魔物なのですか?」
「さて、はっきりとしたことはわかりませんが…多分、そうだと思います。
おそらくは、ドリアードなる魔物だと思うのですけれど」
「嗚呼…成程。確かに、そうかもしれませんね」
ドリアード。樹に宿る、精霊の一種。
彼女の姿は、凡そ図鑑に示されたとおりだったように思う。
気性に関しては、その限りではなかったが。
旦那は何やら納得した様子で幾度か頷き、そして言葉を続ける。
「お話の限り、マルクさんは村の方々ほど魔物を忌避していないのですね。
…やっぱり、『森の精霊』と会った事が原因なのですか?」
「いえ、そうわけでもありません。
私はこの国の出身ではないので、それが主な理由だと思います。
以前も言いました通り、私は行商人でした。過去の行商で、魔物相手に商売を行った経験もあります」
その告白に、旦那は少なからず驚いたらしい。まあ、驚くのも当然かもしれない。
この国では魔物相手に商売を行ったことがある等と知れたら、それだけで告発物だ。
しかしマルクがこれまで渡り歩いていた国々や諸領の中では、魔物が普通に生活している場所も少なくない。
根っからの商人だったマルクは、需要があり、金が集まる場所であればどこへでも行った。
「やはり、他の国では…人と魔物が共に暮らしている場所があるのですか?」
「場所によりますが、無いことはありません。
どこの国も教会は魔物を表立って肯定しませんが、縛りの強さは国によって違います。
魔物は基本的に気前がいいので、良い商売になるのですよ。尤も、人間と商売する場合とは異なる問題があるのですけど」
「異なる問題、ですか?」
続きを促すように、旦那は真剣な表情で話に耳を傾けてきた。
どうやら、こちらの話に興味を持ってくれたらしい。
この国に来てからは役に立たなかった経験だが、アレクにとっては有用な知識となりえるかもしれない。
少々打算的だが、詳しく話した方が今後も良い関係が築けそうに思える。
「一言で言えば、価値観が全く違うのですよ。
例えば…連中と商売をするときは、ほとんどの場合金を使えません。基本的には、物々交換になります。
連中は貨幣に興味を示しませんからねぇ。率直に食料や道具を欲しがります」
「そう…なのですか。しかし物々交換というのならば、彼女達は何を差し出すのですか?」
「色々ありますよ。例えば、アラクネって蜘蛛みたいな魔物をご存知ですかい?
連中が編む衣服は貴族が御用達にするほどで、そりゃあもう高値で売れるのですよ。
これまで、ニコの奴と組んで何度か連中の衣服を扱うことがありましたが、随分と儲かりまして――っとと」
話に夢中になる余り、つい口が滑ってしまった。
旦那は、つい先日ニコと仲違いをしてしまったばかり。
アイツのことは、口にするべきではなかったか。
しかし旦那は少しだけ視線を揺らしただけで、それほど気に止めた様子はなかった。
意外そうな面持ちで、旦那は目を瞬かせる。
「アラクネから…ですか? 図鑑によれば、彼女達の気性は凶暴であるとのことですが」
「確かに、穏便とは言えませんね。普通に連中と接触を試みても、ただの獲物としか見られないでしょう。しかし、何事もやり方はあるものです。
旦那には、わかりますかね? 時に凶暴で、人間とも価値観を異にする魔物――彼女達を、我々と同じ交渉の場に立たせるには、どうすればいいのか」
出し抜けの質問に、さすがの旦那も戸惑ったようだった。
少しの間答えを探して沈黙していたが、結局思いつかなかったらしい。
降参するように、両手のひらを上へと向ける。マルクはにやり、と笑ってみせた。
「至極簡単なことです。連中に伴侶を――人間の夫を紹介してやれば良いのですよ」
「――え?」
「もちろん、それは時に教会の倫理に反する事です。しかし実際は、そうした方が事が円滑に進む場合もあります。
ほとんどの魔物は伴侶が出来れば、伴侶一人に尽くすようになります。人間の夫を持った魔物は、少なくとも他の人間に対しては害を為さなくなる事が多いのですよ。
二人も手篭めにしている旦那なら、その辺りの事はよくわかっているのではありませんか?」
「――っ!」
折悪しくジョッキに口を当てていた旦那が、激しくむせこんだ。
ちょっとした冗談のつもりだったのだが、中々派手な反応だ。
幾度か咳をした後、旦那は恨みがましい視線をこちらへ向けてくる。
「一応訂正しておきますが…私は、彼女達を手篭めにしたつもりはありません」
「おや、これは失礼。
旦那の様子を見ている限り、尻に敷かれているわけではなさそうなので…逆に、手篭めにしてしまっているのかと思ってしまいました」
「…ご冗談を」
口元を拭いながら、旦那は苦笑交じりに返答する。
しかしその赤みがかった表情を見る限り、情事で苦労があることはそれとなく予想できる。
それは、魔物の妻を持つ夫共通の悩みなのだろう。
「はは…いや、本当に申し訳ない。まあそういうわけで、我々は夫がいる魔物に対して商売することが多いのです。
夫がいる魔物は、夫の衣食住を整えるために我々商人を贔屓にしてくれますからね。
以前服を売ってくれたアラクネも、夫の病気を直す薬を買うために服を売っていたらしいですし」
「…そういえば以前体調を尽くした時、彼女達は随分と献身的に看病してくれました」
「そうでしょう? 連中は魔物であると同時に、一人の女です。人間の妻も魔物の妻も、ほとんど大差ないと私は思っています。
しかしまあ…夜のあちらの方は、魔物の方が激しいのかもしれませんがね」
マルクの冗談に、アレクは何とも複雑な笑みを漏らした。
ジョッキの中身を口に流し込むと、果実酒はもうほとんど残っていなかった。
思えば、随分と長々と話をしてしまった。そろそろ帰り時かもしれない。
そう思い、マルクが暇を告げようとした――その時、
「ただいまー」
ガチャリと音を立てて扉が開き、レッドスライムが飛び出してきた。
確か、メディという名前だったか。改めて見ると、お嬢さんと形容するのが尤もそれらしい年頃の外見だ。
彼女は私が居ることを確認すると、おずおずと一礼をしてみせた。こちらも静かに一礼を返す。
流石旦那の連れだけはあって、礼儀が行き届いている。
「おかえり、メディ。ウィル達は、大丈夫そうだった?」
「うん。ちょっと、猫が粗相をしてたけど。危ないことは、なかった。もうすぐ、帰ってくると思う」
「そう、良かった。お腹を空かせてると思うから、少ししたらご飯を作らないとね」
レッドスライムのお嬢さんはにこやかに頷き、そして徐に旦那の方へと駆けていく。
椅子に座る旦那の傍らに立ち、何かを期待するようにそわそわと旦那を見上げている。
旦那はにこりと笑い、お嬢さんの頭に撫でる。
お嬢さんは、まさに至福の一時といった様子だった。
「嗚呼、成程。さっき旦那とお嬢さんがあそこにいたのは、あのアクイラ伯の従者さんの行方を確かめるためだったのですかい」
「まあ…そんなところです。ルイが付いているから大丈夫だとは思ったのですが、メディが心配だと言って聞かなくて」
マルクは、ちらりと頭を撫でられているお嬢さんを見やる。
元々レッドスライムは危険度の低い魔物と言われているが、それでもこれだけ人に懐いているのは珍しい。
「やっぱり、旦那は魔物の伴侶としては珍しい部類ですね」
「…え?」
ぽつりと、マルクは思わず呟いてしまった
旦那の視線が、お嬢さんからこちらへと戻る。ついでに、お嬢さんの視線もこちらへと向いた。
「いや、お気を悪くしたらすみません。悪い意味じゃないのですよ。
ええと…お嬢さんの手前、少々言いづらいのですが…魔物の夫というのは、魔物に手篭めにされやすいのですよ。
基本的に、魔物は力だったり、夜の営みの技だったりが人間を上回ってますからねぇ…夫となった人間は、妻の言いなりになってしまうことがほとんどなのです」
「嗚呼…成程。そういう意味ですか」
納得したように返答する旦那の顔は、若干苦笑に引き攣っていた。
やはり、見に覚えがないわけではないらしい。
その傍らで、その伴侶たるお嬢さんが可愛らしく首を傾げる。
「マルクさん、手篭め、って、何?」
「え? あー、ええと…相手を無理やり抑えこんで、為すがままにしてしまうこと、ですかねぇ」
「…あ。それなら、今朝、私もアレクのこと――むぐぅ」
何かを口走ろうとしたお嬢さんの口が、即座に塞がれる。
お嬢さんがむーむーと呻き声を挙げる中、旦那がにこやかな笑みをこちらへと向ける。
「なんでもありません。気にしないでください」
「…はぁ」
深くは追求しないでおこう。そう、マルクは結論付けた。
「――それじゃ、私はこれで。お二人の邪魔しちゃ悪いですしね」
ジョッキを机の上に置き、マルクは手荷物を手に立ち上がる。
しかし旦那は、何か言い残したことがあったらしい。ふと思い出したように、面を上げる。
「あ――マルクさん。最後に、一つだけお願いしてもよろしいですか?」
「はて、なんでしょうか?」
「その…ニコさんのことで、少し」
ニコ。その名を聞き、マルクは内心ぎくりとしてしまった。
それはつい先日、ちょっとした手違いで旦那と不仲になっていたはずの男であり、先ほどマルクが間違えて口に出してしまった男の名前。
商人見習いだった頃からの親友であり、今でも交流を続けている数少ない商人仲間。
アイツがまた、何かをやらかしてしまったのだろうか。
「ニコの奴が…その、なんでしょうか? また、何かやらかしたとか?」
「いえ、そうではありません。先日は謝っておいて欲しいと事伝しましたが、やはり私自ら謝っておいたほうがいいと思いまして。もし彼がまた村へやってきたら、私に教えて頂けませんか?」
「嗚呼…そういうことですか。わかりました、確かに伝えておきます」
心配していた話ではなかったことに、マルクはほっと一息ついた。
それにしても…旦那は相変わらず律儀な御方だ。普通、一度仲違いをしたら会うのを嫌がりそうなものだが、彼はきちんと自ら関係を清算しようとしている。
人付き合いで争いが絶えないニコの奴に、爪の垢を煎じて飲ませてやりたいくらいだ。
「それでは、今度こそ失礼します。美味しい果実酒をありがとうございました」
「いえ、こちらこそ。興味深い話が聞けました」
「えと、また、来て、下さい」
旦那とレッドスライムの嬢ちゃんに見送られながら、マルクは扉を通り抜けた。
扉が閉まる音を聞きながら、マルクは空を見上げる。
日は、まだそれほど沈んでいない。
近くに停めてある馬車に乗れば、暗くなる前に村に着けるだろう。
歩き始めながら、マルクは最後の話題に上がった友の事を思う。
彼は今、何をしようとしているのだろうか。
「………」
ニコ・チャップマンは、自他共に認める吝嗇家だが、同時に誰よりも仲間思いだ。
かつて破産して奴隷船送りになりかけたマルクが助かったのは、自ら泥を被ってまで賠償金を掻き集めてきた彼のおかげだった。
しかし、彼は金のためなら手段を選ばず、危険なことに足を突っ込む悪い癖がある。
マルクは罪深い商人の業に懲りて、今は此処でこうして辺境の村に落ち着いている。
しかし、彼はまだ利益を――金を、追い続けている。
――金があれば、全てが手に入る。隣人を救うことができる。
金を集め続ければ、こんな罪深い俺でも、いつか救われる気がするんだよ。
脳裏に、アイツの口癖が蘇る。
ニコは旦那に賄賂を渡してまで、検問を避けて何かを自らが所属する商会に送ろうとしていた。ごたごたの挙句、結局何事も無く荷は送られたらしいが――あれはやはり、最近需要が高まり出した、マンドラゴラに関するモノなのだろうか。
「…あの、馬鹿野郎」
そういうモノに手を出したら、禄な目に合わないことはよくわかっているだろうに。
言い知れぬ悪い予感を感じながら、マルクは神に友の無事を祈った。
●
ぐらり、と眼前で人影が揺らめく。
その口から、今にも消え入りそうな声が漏れる。
「――神、よ――」
神に縋る、弱者の言葉。
人影は膝を突き、うつ伏せに倒れ付す。
腕が妙な方向に曲がり、口から鮮血を漏らしているそれは、ピクリとも動かなくなっていた。
少しの間があった。俺はようやく、自らの失態に気づく。
「嗚呼――やっちまった」
まさか、たったこれだけで死んでしまうとは思わなかった。
武器も使っていなければ、本気で殴ったつもりもない。篭手を付けたままだったのが、まずかったのかもしれない。
人間とは――こんなにも脆いモノだっただろうか。
「隊長。何か、吐きましたか?」
いつの間にか、細身の長剣を腰に挿した中年の男――ドミニクが、背後に立っていた。
ドミニクには他の連中の面倒を見るよう言っておいたはずだが、心配になってやってきたのかもしれない。
しかし、どうやら来るのが少し遅かったようだ。俺は両手のひらを上に向けながら、口の端を歪めてみせる。
「悪い、死んじまった。一応加減したつもりだったんだけどな」
その言葉に、ドミニクはぎょっとして地面に転がっている男の顔を見やり、そしてあからさまに顔をしかめて見せた。
日が落ちているせいで地面に付した男の様子はわかりづらいが、おそらくひどいことになっているだろう。
ドミニクは大袈裟な挙措で首を左右に振り、そして非難がましい視線をこちらへと向けてくる。
「勘弁して下さいよ…どうするんですか、数少ないマンドラゴラの情報源だったのに」
「うっせぇなぁ…やっちまったもんはしゃあねぇだろ。元はといえば、お前らがコイツを逃がすからいけねぇんだろうが」
「それは申し訳ないと思ってますが、隊長はやりすぎなんですよ…」
途方にくれた様子で、ドミニクはうなだれる。
しかし、どのみちこの行商人からは大した情報は得られなかっただろう。
商人に限らず、裏切りに対して容赦のない組織に所属する人間は、基本的に口が堅い。
もし組織を裏切れば、死より恐ろしい報いがある場合もあるからだ。
この男は、明らかにその類だった。文字通り、死んでも情報を譲らなかったということ。
「で? コイツの荷物の方はどうだったんだ?」
「残念ながら、マンドラゴラに直接繋がるモノはありませんでしたよ。
ただ、マンドラゴラについて言及した書きかけの手紙がいくつか見つかったようです」
「よし、ならそいつを回収して、あの役立たず共をさっさと撤収させろ。
――嗚呼、あとコイツの馬車から食料を運び出すのも忘れんな」
その言葉を聞いた瞬間、目庇の下にあるドミニクの口元が苦々しく歪められる。
…この男は、この歳にもなって未だ略奪に対して躊躇いがあるらしい。
「…よろしいのですか? 異国ならともかく、自国で民から荷物を強奪するなど――」
「じゃあ、俺達は明日から何を喰えばいいんだ?」
「それは…」
兵糧の現地調達は、遠征時の基本だ。
正規の後ろ盾がない以上、食料調達の方法はそれしかない。
寂れた村がほとんどであるこの辺境の地で、他にどうやって食料を調達しろというのか。
確かに、神は『隣人から強奪するべからず』と言っている。
神の言葉で、心は休まるかもしれない。だが、それで腹は膨れない。
「お前は、『隣人』の幅が広すぎるんだよ。
信心深いのは勝手だが、守るべきモノとそうでないモノの区別くらいつけやがれ。
妙な痕跡を残すな。野党の仕業に見せかけろ」
「…了解しました」
ドミニクは不承不承といった様子で慇懃に一礼し、暗闇の中に消えていく。
それを見送りながら、俺は深々と溜息をついた。
今回の仕事は、思ったより条件が多い。
中央のお偉方や辺境伯だけでなく、それに仕える騎士といった連中に気取られず、マンドラゴラを得ることに意味がある。
そのためには、盗賊騎士紛いの事も数多くしなければならない。
…まあ、今回に限った話ではないが。
「隊長」
「…ユーリか」
暗闇の中から、無機質で鬱々とした声が聞こえてきた。
姿はよく見えないが、こんな声音をしているのは部下の中でも一人しか居ない。
「村の様子は?」
「少なくとも、あの村には辺境伯子飼いの騎士らしき連中は居なかった。
辺境伯への使者と説明したところ、備蓄用の納屋であれば使っても良いと村おさが」
もちろん、使者というのは虚言。
連れてきた連中も、そろそろ野宿では精神力が持たなくなってくる頃だ。
多少危険はあるが、後々荒事がある可能性を考えればその村を拠点として休ませる他無い。
「魔術師殿は?」
「先行した3人が、納屋で見張っている」
「よし、俺達も事が済み次第村へ向かう。
お前は先に戻ってろ。一応言っとくが、妙な騒ぎは起こすなよ」
「了解」
淡々とした声が帰ってきたかと思うと、ユーリの気配は煙のように消える。
ドミニクの次に使える奴だが、愛想がなくて口数が少なすぎるのがたまに傷だ。
やれやれと頭を振りながら、馬車を漁っている連中と合流しようと歩き出した――その時、
「――ん?」
足の裏に何やら硬い感触。鉄製の何かが、地面に落ちている。
俺は何気なく地面を探り、それを拾い上げてみた。
それは、そこそこ凝った意匠の首飾りだった。どうやら、先ほど殴り殺してしまった男が持っていたモノらしい。
首飾りの中心に描かれていたのは、棘のついた蔓に絡み付かれた、黒薔薇――
奴隷商、ニージェルローゼ商会の紋章。
「…アイツの、部下だったのか」
うつ伏せに倒れる男に、視線を向ける。しかし、それも一瞬のこと。
男の背にペンダントを投げ捨て、俺は今度こそ歩き出す。
――商人は、あまり好きではない。
連中はいつも目先の利益の囚われ、自分が本当は何をしたかったのかを忘れてしまう。
その挙句不幸を周りにまき散らして、路上で無様に野垂れ死ぬことになる。
最後の結末に関しては、俺達もそう変わりないのかもしれないが。
「悪りぃな、これも仕事なんだ。運が悪かったと思って、諦めてくれ」
願わくば、アイツにはそうなって欲しくないところだ。
そう心の心の中で独りごちながら、漆黒の騎士は闇の中へと消えていった。
来るのは二度目になる、アレクが住まう小屋の室内。
果実酒を振舞われながらアレクから一通り説明を聞き、マルクはやっと事の全容を把握した。
二人の騎士達と、十字架のペンダントを持つ少年。そして、病床に伏したアクイラ伯。
アレクの話は、軽々しく話すべきではない内容だったが、言い触らしたりすることがなければそれほど危険な情報でもない。
「この話は、村の者には秘密にしておきます。
かのアクイラ伯がご病気であるということが広まったら、大変なことになりますからね…」
「話が早くて助かります。
それと、出来れば騎士の方々にも、ウィルのことを言わないで貰いたいのですが…」
「わかりました。私は何も聞かなかった、ということにしておきます」
もし騎士達にウィルという少年のことをばらせば、アレクの心象が悪くなるのは必至。
騎士様には申し訳ないが、此処はアレクの味方をせざるを得ない。
話を聞く限り、騎士様に伝えなくとも余程のことがない限りは面倒なことにはならない。
そう、マルクは考えた。
「それにしても…まさか、アクイラ伯がご病気とは…
私としても、残念です。辺境伯様には、色々とお世話になっておりますので」
「マルクさんは、アクイラ伯に会ったことがあるのですか?」
「いえ、直接会ったことはありません。
しかし、良く民の言葉に耳を傾けてくれる方であると思います。
以前、小麦が不作であった時、近辺の村の村おさと共に徴税について談判を行ったところ、
話を聞き入れてくれたばかりか、村に対して食料の支給を行う手筈まで整えて下さいまして」
「それは…確かに、今時珍しい方ですね」
尤も、無償というわけではない。
一時保留された徴税と支給に費やした費用、そして延長に対する追加徴税は、来季か別の季節の作物――例えば、葡萄の収穫の際に、撤収されることになるだろう。
それでも、徴税の滞りに対して村人を拷問することしかしなかった以前の領主と比べれば、破格とも言える待遇だ。
「もし何か手伝えることがあれば、なんなりと。微力ながら、力になりましょう」
「ありがとうございます。
そうですね…当面は、レオンさん達にマンドラゴラの情報を提供する形で良いと思います。
それが、間接的にアクイラ伯を救う助けになるでしょう」
「了解しました。では、もし何かわかりましたら、旦那にも連絡しますよ」
マンドラゴラ。見たことはないが、図鑑で容姿は把握している。
村の連中にそれとなく聞いて回れば、何らかの情報が得られるかも知れない。
「ところで、話は変わりますが…マルクさんは、どうしてあの場所に? もしかして、私の家を訪れる予定だったとか…」
「いえ、そういうわけではありません。これは、村の連中には秘密にして欲しいのですが…
私は時々、『森の精霊』様にお供え物をしに来ているのですよ。今日はその帰りに、あの場に遭遇してしまいまして」
「『森の精霊』…ですか?」
少しだけ驚いたように、アレクが目を見張る。
見たところ、『森の精霊』の事を全く知らないという様子ではない。
「ヤンに少し聞いたことがあるのですが…『森の精霊』とはどのような方なのですか? 私は、詳しく知らないのですが…」
「おや、そうでしたか。『森の精霊』というのは…この辺りに伝わる言い伝えのようなモノです」
「言い伝え、ですか?」
「ええ。この森には古くから森を守っている守り神がいて、あまりにも木を傷つけたり切り倒したりすると彼女に嫌われ、罰を受けると言われています。
昔は、この事を『森に嫌われる』と言っていて、逆に彼女に好かれることを『森に好かれる』と呼んでいたらしいです。
何でも『森の精霊』は、『双神樹』と呼ばれる二つの大木の、そのまた向こうにある大樹の化身だそうで。『森の女神』とも呼ばれていますね」
「森の、女神…」
興味深げに、アレクはマルクの言葉に耳を傾けている。
流石魔物二人と同居しているだけはあって、この手の話題にも抵抗がない様子だ。
これが村の連中だと、おぞましいだの不吉だのと一切耳を傾けようとしないところだろう。
「ここだけの話ですがね…私は一度、その方に助けられたことがあるのですよ」
「え? というと…会ったことがあるのですか」
「ええ。その時のことは、少々記憶が曖昧なんですがね…」
柄もなく、昔のことを思い出してまう。
大切な思い出だが、異教徒と勘違いされてもつまらないので、村の連中には一度も話したことがない。
旦那は教会の修道士と聞いているが、その割に教会の思想に囚われない自由な思想を持っているように思える。
この人にならば、話しても問題ないだろう。そう思い、マルクは言葉を続けた。
「あれは…そう、私の妻が重い病にかかっちまった時の話です。
おっと、妻のことはご存知でしたか?」
「ええ。確か…リディアさん、ですよね」
「そうです。ほんと、私には勿体無いべっぴんで――っとと、失礼。
ともかく噂によれば、何とかって薬草を調合すれば病に効く薬を作れるって話だったのです。
だが、あの村には薬草に詳しい人間も、その薬を調合できる人間もいなかった」
マルクの脳裏に、病に苦しむ妻――リディアの姿が浮かび上がる。
全身に斑点を浮かばせ、今にも死に絶えそうにベッドに沈むあの姿。
思い出すだけでも、胸が苦しくなる。
「あの時は…本当に絶望しましたよ。商売で失敗して、無一文になりかけた時よりも、ね」
しみじみと、マルクは語る。
リディアとは、長い付き合いだった。
マルクが商品を買い、リディアが商品を売る。
商人にしては珍しい夫婦での行商は、辛いことも多かったがとても楽しかった。
いつしか、リディアはマルクの半身とも言える存在になっていた。
だからこそ――病に苦しむ彼女を目前にして、マルクはこの上なく恐怖した。
情けない話だが、その時初めて、自分にとって最も大切なモノは何か知ったのだった。
「あの時ほど、神様に祈ったことはなかったと思います。
でも職業柄、祈るだけじゃどうにもならないことがあることも、私はよく知っていました。
だから私は、森の中へ探しに行ったんですよ。名も形もわからない、その薬草を」
「そして…会ったのですか。『森の精霊』に」
「ええ。何というか、変わった雰囲気の人でしたよ。
少々口が悪くて…正直、人々が想像する女神とは、大分違うと思います」
『双神樹』を超えた先にあったのは、辺り一面の花畑と――見たこともないほどの、巨樹。
どうやって辿りついたのかは、よく覚えていない。
ただ、その場所にいた一人の女性――『森の精霊』の姿は、一度足りとも忘れたことはない。
――私の庭に土足で踏み入るなんて、良い度胸ね。この子達の肥やしにされたいのかしら?
鈴のような声音と、それと全く対極を成す辛辣な言葉。
忘れようと思っても、そう簡単に忘れられない。
「こちらも礼儀が足りなかったからでしょうか、最初は厳しい言葉ばかりを投げつけられました。
しかし、結果的には彼女のおかげで薬草を見つけることができ、その調合を成し遂げることができました。
あの方には…どんなに感謝しても、感謝しきれません。だからこうして、今もその時のお礼を届けているのです」
「成程。そういうことでしたか…」
あの場所に辿りつけたのは、結局その一度だけだった。
何度『双神樹』の向こうへ行こうとしても、いつの間にか元の場所に戻っている。
彼女は静寂を好む様子だったから、もう会うつもりはないのだろう。
――礼なんていらないわ。まあ…珍しい花の種があれば、貰ってあげなくもないけど。
帰り際に、全く期待していないという様子で呟かれた一言。
その言葉に応えるために、マルクはこうして時折『双神樹』まで赴いて、その根元に感謝の印として作物や花の種を送り届け続けていた。
「当然といえば当然ですが、この事は村の連中には秘密にしてます。
ですから、旦那もこの事は口外無用ということでお願いできますか?」
「もちろん。秘密は、お互い様です。
ところで、その『森の精霊』というのは…やっぱり、魔物なのですか?」
「さて、はっきりとしたことはわかりませんが…多分、そうだと思います。
おそらくは、ドリアードなる魔物だと思うのですけれど」
「嗚呼…成程。確かに、そうかもしれませんね」
ドリアード。樹に宿る、精霊の一種。
彼女の姿は、凡そ図鑑に示されたとおりだったように思う。
気性に関しては、その限りではなかったが。
旦那は何やら納得した様子で幾度か頷き、そして言葉を続ける。
「お話の限り、マルクさんは村の方々ほど魔物を忌避していないのですね。
…やっぱり、『森の精霊』と会った事が原因なのですか?」
「いえ、そうわけでもありません。
私はこの国の出身ではないので、それが主な理由だと思います。
以前も言いました通り、私は行商人でした。過去の行商で、魔物相手に商売を行った経験もあります」
その告白に、旦那は少なからず驚いたらしい。まあ、驚くのも当然かもしれない。
この国では魔物相手に商売を行ったことがある等と知れたら、それだけで告発物だ。
しかしマルクがこれまで渡り歩いていた国々や諸領の中では、魔物が普通に生活している場所も少なくない。
根っからの商人だったマルクは、需要があり、金が集まる場所であればどこへでも行った。
「やはり、他の国では…人と魔物が共に暮らしている場所があるのですか?」
「場所によりますが、無いことはありません。
どこの国も教会は魔物を表立って肯定しませんが、縛りの強さは国によって違います。
魔物は基本的に気前がいいので、良い商売になるのですよ。尤も、人間と商売する場合とは異なる問題があるのですけど」
「異なる問題、ですか?」
続きを促すように、旦那は真剣な表情で話に耳を傾けてきた。
どうやら、こちらの話に興味を持ってくれたらしい。
この国に来てからは役に立たなかった経験だが、アレクにとっては有用な知識となりえるかもしれない。
少々打算的だが、詳しく話した方が今後も良い関係が築けそうに思える。
「一言で言えば、価値観が全く違うのですよ。
例えば…連中と商売をするときは、ほとんどの場合金を使えません。基本的には、物々交換になります。
連中は貨幣に興味を示しませんからねぇ。率直に食料や道具を欲しがります」
「そう…なのですか。しかし物々交換というのならば、彼女達は何を差し出すのですか?」
「色々ありますよ。例えば、アラクネって蜘蛛みたいな魔物をご存知ですかい?
連中が編む衣服は貴族が御用達にするほどで、そりゃあもう高値で売れるのですよ。
これまで、ニコの奴と組んで何度か連中の衣服を扱うことがありましたが、随分と儲かりまして――っとと」
話に夢中になる余り、つい口が滑ってしまった。
旦那は、つい先日ニコと仲違いをしてしまったばかり。
アイツのことは、口にするべきではなかったか。
しかし旦那は少しだけ視線を揺らしただけで、それほど気に止めた様子はなかった。
意外そうな面持ちで、旦那は目を瞬かせる。
「アラクネから…ですか? 図鑑によれば、彼女達の気性は凶暴であるとのことですが」
「確かに、穏便とは言えませんね。普通に連中と接触を試みても、ただの獲物としか見られないでしょう。しかし、何事もやり方はあるものです。
旦那には、わかりますかね? 時に凶暴で、人間とも価値観を異にする魔物――彼女達を、我々と同じ交渉の場に立たせるには、どうすればいいのか」
出し抜けの質問に、さすがの旦那も戸惑ったようだった。
少しの間答えを探して沈黙していたが、結局思いつかなかったらしい。
降参するように、両手のひらを上へと向ける。マルクはにやり、と笑ってみせた。
「至極簡単なことです。連中に伴侶を――人間の夫を紹介してやれば良いのですよ」
「――え?」
「もちろん、それは時に教会の倫理に反する事です。しかし実際は、そうした方が事が円滑に進む場合もあります。
ほとんどの魔物は伴侶が出来れば、伴侶一人に尽くすようになります。人間の夫を持った魔物は、少なくとも他の人間に対しては害を為さなくなる事が多いのですよ。
二人も手篭めにしている旦那なら、その辺りの事はよくわかっているのではありませんか?」
「――っ!」
折悪しくジョッキに口を当てていた旦那が、激しくむせこんだ。
ちょっとした冗談のつもりだったのだが、中々派手な反応だ。
幾度か咳をした後、旦那は恨みがましい視線をこちらへ向けてくる。
「一応訂正しておきますが…私は、彼女達を手篭めにしたつもりはありません」
「おや、これは失礼。
旦那の様子を見ている限り、尻に敷かれているわけではなさそうなので…逆に、手篭めにしてしまっているのかと思ってしまいました」
「…ご冗談を」
口元を拭いながら、旦那は苦笑交じりに返答する。
しかしその赤みがかった表情を見る限り、情事で苦労があることはそれとなく予想できる。
それは、魔物の妻を持つ夫共通の悩みなのだろう。
「はは…いや、本当に申し訳ない。まあそういうわけで、我々は夫がいる魔物に対して商売することが多いのです。
夫がいる魔物は、夫の衣食住を整えるために我々商人を贔屓にしてくれますからね。
以前服を売ってくれたアラクネも、夫の病気を直す薬を買うために服を売っていたらしいですし」
「…そういえば以前体調を尽くした時、彼女達は随分と献身的に看病してくれました」
「そうでしょう? 連中は魔物であると同時に、一人の女です。人間の妻も魔物の妻も、ほとんど大差ないと私は思っています。
しかしまあ…夜のあちらの方は、魔物の方が激しいのかもしれませんがね」
マルクの冗談に、アレクは何とも複雑な笑みを漏らした。
ジョッキの中身を口に流し込むと、果実酒はもうほとんど残っていなかった。
思えば、随分と長々と話をしてしまった。そろそろ帰り時かもしれない。
そう思い、マルクが暇を告げようとした――その時、
「ただいまー」
ガチャリと音を立てて扉が開き、レッドスライムが飛び出してきた。
確か、メディという名前だったか。改めて見ると、お嬢さんと形容するのが尤もそれらしい年頃の外見だ。
彼女は私が居ることを確認すると、おずおずと一礼をしてみせた。こちらも静かに一礼を返す。
流石旦那の連れだけはあって、礼儀が行き届いている。
「おかえり、メディ。ウィル達は、大丈夫そうだった?」
「うん。ちょっと、猫が粗相をしてたけど。危ないことは、なかった。もうすぐ、帰ってくると思う」
「そう、良かった。お腹を空かせてると思うから、少ししたらご飯を作らないとね」
レッドスライムのお嬢さんはにこやかに頷き、そして徐に旦那の方へと駆けていく。
椅子に座る旦那の傍らに立ち、何かを期待するようにそわそわと旦那を見上げている。
旦那はにこりと笑い、お嬢さんの頭に撫でる。
お嬢さんは、まさに至福の一時といった様子だった。
「嗚呼、成程。さっき旦那とお嬢さんがあそこにいたのは、あのアクイラ伯の従者さんの行方を確かめるためだったのですかい」
「まあ…そんなところです。ルイが付いているから大丈夫だとは思ったのですが、メディが心配だと言って聞かなくて」
マルクは、ちらりと頭を撫でられているお嬢さんを見やる。
元々レッドスライムは危険度の低い魔物と言われているが、それでもこれだけ人に懐いているのは珍しい。
「やっぱり、旦那は魔物の伴侶としては珍しい部類ですね」
「…え?」
ぽつりと、マルクは思わず呟いてしまった
旦那の視線が、お嬢さんからこちらへと戻る。ついでに、お嬢さんの視線もこちらへと向いた。
「いや、お気を悪くしたらすみません。悪い意味じゃないのですよ。
ええと…お嬢さんの手前、少々言いづらいのですが…魔物の夫というのは、魔物に手篭めにされやすいのですよ。
基本的に、魔物は力だったり、夜の営みの技だったりが人間を上回ってますからねぇ…夫となった人間は、妻の言いなりになってしまうことがほとんどなのです」
「嗚呼…成程。そういう意味ですか」
納得したように返答する旦那の顔は、若干苦笑に引き攣っていた。
やはり、見に覚えがないわけではないらしい。
その傍らで、その伴侶たるお嬢さんが可愛らしく首を傾げる。
「マルクさん、手篭め、って、何?」
「え? あー、ええと…相手を無理やり抑えこんで、為すがままにしてしまうこと、ですかねぇ」
「…あ。それなら、今朝、私もアレクのこと――むぐぅ」
何かを口走ろうとしたお嬢さんの口が、即座に塞がれる。
お嬢さんがむーむーと呻き声を挙げる中、旦那がにこやかな笑みをこちらへと向ける。
「なんでもありません。気にしないでください」
「…はぁ」
深くは追求しないでおこう。そう、マルクは結論付けた。
「――それじゃ、私はこれで。お二人の邪魔しちゃ悪いですしね」
ジョッキを机の上に置き、マルクは手荷物を手に立ち上がる。
しかし旦那は、何か言い残したことがあったらしい。ふと思い出したように、面を上げる。
「あ――マルクさん。最後に、一つだけお願いしてもよろしいですか?」
「はて、なんでしょうか?」
「その…ニコさんのことで、少し」
ニコ。その名を聞き、マルクは内心ぎくりとしてしまった。
それはつい先日、ちょっとした手違いで旦那と不仲になっていたはずの男であり、先ほどマルクが間違えて口に出してしまった男の名前。
商人見習いだった頃からの親友であり、今でも交流を続けている数少ない商人仲間。
アイツがまた、何かをやらかしてしまったのだろうか。
「ニコの奴が…その、なんでしょうか? また、何かやらかしたとか?」
「いえ、そうではありません。先日は謝っておいて欲しいと事伝しましたが、やはり私自ら謝っておいたほうがいいと思いまして。もし彼がまた村へやってきたら、私に教えて頂けませんか?」
「嗚呼…そういうことですか。わかりました、確かに伝えておきます」
心配していた話ではなかったことに、マルクはほっと一息ついた。
それにしても…旦那は相変わらず律儀な御方だ。普通、一度仲違いをしたら会うのを嫌がりそうなものだが、彼はきちんと自ら関係を清算しようとしている。
人付き合いで争いが絶えないニコの奴に、爪の垢を煎じて飲ませてやりたいくらいだ。
「それでは、今度こそ失礼します。美味しい果実酒をありがとうございました」
「いえ、こちらこそ。興味深い話が聞けました」
「えと、また、来て、下さい」
旦那とレッドスライムの嬢ちゃんに見送られながら、マルクは扉を通り抜けた。
扉が閉まる音を聞きながら、マルクは空を見上げる。
日は、まだそれほど沈んでいない。
近くに停めてある馬車に乗れば、暗くなる前に村に着けるだろう。
歩き始めながら、マルクは最後の話題に上がった友の事を思う。
彼は今、何をしようとしているのだろうか。
「………」
ニコ・チャップマンは、自他共に認める吝嗇家だが、同時に誰よりも仲間思いだ。
かつて破産して奴隷船送りになりかけたマルクが助かったのは、自ら泥を被ってまで賠償金を掻き集めてきた彼のおかげだった。
しかし、彼は金のためなら手段を選ばず、危険なことに足を突っ込む悪い癖がある。
マルクは罪深い商人の業に懲りて、今は此処でこうして辺境の村に落ち着いている。
しかし、彼はまだ利益を――金を、追い続けている。
――金があれば、全てが手に入る。隣人を救うことができる。
金を集め続ければ、こんな罪深い俺でも、いつか救われる気がするんだよ。
脳裏に、アイツの口癖が蘇る。
ニコは旦那に賄賂を渡してまで、検問を避けて何かを自らが所属する商会に送ろうとしていた。ごたごたの挙句、結局何事も無く荷は送られたらしいが――あれはやはり、最近需要が高まり出した、マンドラゴラに関するモノなのだろうか。
「…あの、馬鹿野郎」
そういうモノに手を出したら、禄な目に合わないことはよくわかっているだろうに。
言い知れぬ悪い予感を感じながら、マルクは神に友の無事を祈った。
●
ぐらり、と眼前で人影が揺らめく。
その口から、今にも消え入りそうな声が漏れる。
「――神、よ――」
神に縋る、弱者の言葉。
人影は膝を突き、うつ伏せに倒れ付す。
腕が妙な方向に曲がり、口から鮮血を漏らしているそれは、ピクリとも動かなくなっていた。
少しの間があった。俺はようやく、自らの失態に気づく。
「嗚呼――やっちまった」
まさか、たったこれだけで死んでしまうとは思わなかった。
武器も使っていなければ、本気で殴ったつもりもない。篭手を付けたままだったのが、まずかったのかもしれない。
人間とは――こんなにも脆いモノだっただろうか。
「隊長。何か、吐きましたか?」
いつの間にか、細身の長剣を腰に挿した中年の男――ドミニクが、背後に立っていた。
ドミニクには他の連中の面倒を見るよう言っておいたはずだが、心配になってやってきたのかもしれない。
しかし、どうやら来るのが少し遅かったようだ。俺は両手のひらを上に向けながら、口の端を歪めてみせる。
「悪い、死んじまった。一応加減したつもりだったんだけどな」
その言葉に、ドミニクはぎょっとして地面に転がっている男の顔を見やり、そしてあからさまに顔をしかめて見せた。
日が落ちているせいで地面に付した男の様子はわかりづらいが、おそらくひどいことになっているだろう。
ドミニクは大袈裟な挙措で首を左右に振り、そして非難がましい視線をこちらへと向けてくる。
「勘弁して下さいよ…どうするんですか、数少ないマンドラゴラの情報源だったのに」
「うっせぇなぁ…やっちまったもんはしゃあねぇだろ。元はといえば、お前らがコイツを逃がすからいけねぇんだろうが」
「それは申し訳ないと思ってますが、隊長はやりすぎなんですよ…」
途方にくれた様子で、ドミニクはうなだれる。
しかし、どのみちこの行商人からは大した情報は得られなかっただろう。
商人に限らず、裏切りに対して容赦のない組織に所属する人間は、基本的に口が堅い。
もし組織を裏切れば、死より恐ろしい報いがある場合もあるからだ。
この男は、明らかにその類だった。文字通り、死んでも情報を譲らなかったということ。
「で? コイツの荷物の方はどうだったんだ?」
「残念ながら、マンドラゴラに直接繋がるモノはありませんでしたよ。
ただ、マンドラゴラについて言及した書きかけの手紙がいくつか見つかったようです」
「よし、ならそいつを回収して、あの役立たず共をさっさと撤収させろ。
――嗚呼、あとコイツの馬車から食料を運び出すのも忘れんな」
その言葉を聞いた瞬間、目庇の下にあるドミニクの口元が苦々しく歪められる。
…この男は、この歳にもなって未だ略奪に対して躊躇いがあるらしい。
「…よろしいのですか? 異国ならともかく、自国で民から荷物を強奪するなど――」
「じゃあ、俺達は明日から何を喰えばいいんだ?」
「それは…」
兵糧の現地調達は、遠征時の基本だ。
正規の後ろ盾がない以上、食料調達の方法はそれしかない。
寂れた村がほとんどであるこの辺境の地で、他にどうやって食料を調達しろというのか。
確かに、神は『隣人から強奪するべからず』と言っている。
神の言葉で、心は休まるかもしれない。だが、それで腹は膨れない。
「お前は、『隣人』の幅が広すぎるんだよ。
信心深いのは勝手だが、守るべきモノとそうでないモノの区別くらいつけやがれ。
妙な痕跡を残すな。野党の仕業に見せかけろ」
「…了解しました」
ドミニクは不承不承といった様子で慇懃に一礼し、暗闇の中に消えていく。
それを見送りながら、俺は深々と溜息をついた。
今回の仕事は、思ったより条件が多い。
中央のお偉方や辺境伯だけでなく、それに仕える騎士といった連中に気取られず、マンドラゴラを得ることに意味がある。
そのためには、盗賊騎士紛いの事も数多くしなければならない。
…まあ、今回に限った話ではないが。
「隊長」
「…ユーリか」
暗闇の中から、無機質で鬱々とした声が聞こえてきた。
姿はよく見えないが、こんな声音をしているのは部下の中でも一人しか居ない。
「村の様子は?」
「少なくとも、あの村には辺境伯子飼いの騎士らしき連中は居なかった。
辺境伯への使者と説明したところ、備蓄用の納屋であれば使っても良いと村おさが」
もちろん、使者というのは虚言。
連れてきた連中も、そろそろ野宿では精神力が持たなくなってくる頃だ。
多少危険はあるが、後々荒事がある可能性を考えればその村を拠点として休ませる他無い。
「魔術師殿は?」
「先行した3人が、納屋で見張っている」
「よし、俺達も事が済み次第村へ向かう。
お前は先に戻ってろ。一応言っとくが、妙な騒ぎは起こすなよ」
「了解」
淡々とした声が帰ってきたかと思うと、ユーリの気配は煙のように消える。
ドミニクの次に使える奴だが、愛想がなくて口数が少なすぎるのがたまに傷だ。
やれやれと頭を振りながら、馬車を漁っている連中と合流しようと歩き出した――その時、
「――ん?」
足の裏に何やら硬い感触。鉄製の何かが、地面に落ちている。
俺は何気なく地面を探り、それを拾い上げてみた。
それは、そこそこ凝った意匠の首飾りだった。どうやら、先ほど殴り殺してしまった男が持っていたモノらしい。
首飾りの中心に描かれていたのは、棘のついた蔓に絡み付かれた、黒薔薇――
奴隷商、ニージェルローゼ商会の紋章。
「…アイツの、部下だったのか」
うつ伏せに倒れる男に、視線を向ける。しかし、それも一瞬のこと。
男の背にペンダントを投げ捨て、俺は今度こそ歩き出す。
――商人は、あまり好きではない。
連中はいつも目先の利益の囚われ、自分が本当は何をしたかったのかを忘れてしまう。
その挙句不幸を周りにまき散らして、路上で無様に野垂れ死ぬことになる。
最後の結末に関しては、俺達もそう変わりないのかもしれないが。
「悪りぃな、これも仕事なんだ。運が悪かったと思って、諦めてくれ」
願わくば、アイツにはそうなって欲しくないところだ。
そう心の心の中で独りごちながら、漆黒の騎士は闇の中へと消えていった。
11/08/07 22:26更新 / SMan
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