とある従者の不思議な探検。そのに。
がしゃん、と硝子の割れる音が室内に響き渡る。
粉々になった容器の欠片が、地面に散らばった。
中に入っていた緑色の液体が床に撒き散らされ、絨毯を暗緑色に染める。
「よぉ。お前が、かの『賢者』殿か?」
目の前に立ち塞がった大男が、その大柄な体格にふさわしい声音で告げる。
黒い甲冑に、黒い兜。顔は面覆いに隠され、表情はほとんどわからない。
にやりと釣り上がった、口元。それだけが、彼が笑っているということを示していた。
「誰、ですか。アクイラ伯の使い…では、ありませんね」
もしそうであるのならば、鎧の何処かにコルレオニス騎士団の紋章があるはず。
何の紋章も描かれていない、黒い鎧。それは、この大男が非正規のならず者であることを意味する。
所属不明の、黒い騎士。
危険な香りを感じ取り、『賢者』は傍らに立てかけられた杖に手を伸ばそうとした。――しかし、
「おっと。余計な真似はしないで貰えるかい?」
そう言いながら、黒い騎士は親指で背後を指さす。
『賢者』は釣られて視線をそちらへと向け、そして凍りついた。
「――マリア…っ!」
人形のようにだらりと垂れ下がった、線の細い肢体。
黒い騎士の部下らしき二人によって両脇を抱えられた彼女は、ピクリとも動かない。
眠るように目を瞑る彼女の額には、奇妙な文字が記された紙が貼り付けられている。
何らかの、呪物。『賢者』の脳裏が、真っ白に染め上げられる。
「そういうことだ。そういえば、死なないんだってなコイツ。
試しにぶった切ってみてもいいんだが…まあ、やめとくか。その必要もなさそうだ」
片手で手斧を弄びながら、黒い騎士は飄々と言ってのける。
怒りに、身を任せては、いけない。
歯を噛み締めながらも、『賢者』は努めて冷静になろうと呼吸を整える。
確かに、少し斬りつけられたくらいでは彼女はびくともしない。
しかし、相手はおそらく、彼女の正体を知っている。下手に手を出せば、彼女がどうなるかわからない。
「…何が、目的、ですか」
振り絞るような声で、『賢者』は訥々と述べる。
笑みを形作っていた黒い騎士の口元が、さらに歪みを増す。
「何、大したことじゃない。とある捜しモノに、お前とお前の知識が必要らしいんでね。
まあ、詳しい説明は後だ。ご同行願おうか、『賢者』殿。
――お前の『聖女』を、無事返して欲しけりゃな」
黒い騎士が、背を向ける。彼女が、連れ去られていく。
相手がただの野盗であったのならば、他にやりようはあった。
しかし、彼らの動きは明らかに訓練された人間のそれだった。選択の余地は、ない。
無力感に苛まれながら、『賢者』は傍らに置かれた杖に手を伸ばした。
彼女を――僕の『聖女』を、守るために。
●
マンドラゴラ。
女性の姿をした根を持つ、植物型の魔物。
草原や森に生息すると呼ばれるが、この国での目撃例はほとんどない。
性格は非常に臆病で、地面から引き抜かれた際の悲鳴を除けば害はない。
その根は様々な薬の原料として重宝され、魔術師の間では高値で取引されている。
「――と、そのようなモノと記憶していますが、お探しのものはそれで間違いないでしょうか?」
「ええ、その通りです。流石は『森の隠者』殿。よくご存知ですね」
対面の椅子に座るレオンハルトが、屈託の無い笑みを浮かべる。
すらりとして凛々しい外見とは裏腹に、笑うとまるで幼い少年の様に見えた。
その眼差しに必要以上の畏敬の念を感じ、アレクは少し気不味い気持ちになった。
「あの…『森の隠者』というのは、私のことですか?」
「そうですが…おや、もしかして、自身がそう呼ばれていることをご存じなかったのですか?」
「ええ…まあ、そうですね」
曖昧な返答を返しながら、アレクはちらりとレオンハルトの右隣に座っているマルクに視線を向ける。
どうしてこんなことになっているのか、説明して欲しい。
そんな意思を視線に乗せてみたが、その疑問に答えたのはレオンハルトの左隣に座っていたもう一人の来訪者だった。
「この近辺では、結構有名っすよー。人里離れた森に住んでる、知識豊富で説教上手の隠者様って触れ込みで。
どんな揉め事だったとしても、魔法でも掛けられているかのように当事者が納得してしまうとか何とか」
どこか軽い雰囲気のこの男は、レオンハルトの部下でテオバルトというらしい。
鉄製の甲冑と剣という一般的な騎士らしい風体。
あからさまにやる気がなさそうだが、不思議とどこか愛嬌があるように見える。
「おい、テオバルト。その口調をどうにかしろといつも言っているだろう」
「良いじゃないっすか。頭の硬いお歴々の相手してるわけじゃないんですし。
隠者様も、あまり仰々しいのはお好みではないでしょう?」
「ええと…私は、森に居を構えているだけの――修道士です。
言葉に関しましては、どうぞお構い無く。ただ、隠者様というのは少々慣れないので、アレクとお呼び下さい」
いつの間にか、近辺の人々にとっては周知の存在になってしまったらしい。
頼られるのは嫌いではない。しかし、必要以上に目立つのはあまり好ましいことではない。
今度からは、世間体についてもう少し注意する必要があるかもしれない。
「わかりました。それでは、今後はアレクさんとお呼びします。私のことはレオンとお呼び下さい。
騎士様と呼ばれるのも嫌いではないのですが…少々こそばゆいものがありまして」
「ついでに、俺はテオでお願いします」
「わかりました。レオンさんに、テオさんですね。
ええと…それで、マンドラゴラを探しているとのことですが…」
なぜ、教会圏に属し、魔物を嫌う国家の一員である彼らが魔物を探しているのか。
当然疑問には思ったが、それを尋ねるべきか、アレクは一瞬迷った。
そんなアレクの心境を看破したのか、レオンは困ったような顔をする。
「疑問は、ごもっともかと思います。
理由につきましては、秘密にすることでもありませんので、お話しします。
アレクさんは、『黒い死神』という疫病について、ご存知ですか?」
「…名前は知りませんでしたが、疫病が流行っている、とは友人から聞きました。
何でも、かなりの死人が出ているとか」
友人とは、もちろんヤンの事。
俗世の情報は、大抵がマルクかヤンからもたらされている。
深刻な面持ちで、レオンが軽く頷く。
「疫病は、我がレオニス公国全体に蔓延しています。
貧富や老若男女を問わず、多くの人々がその病に苦しめられているのです。
事態を重く見たレオニス公の命により、我々コルレオニス騎士団は、今日まで対応策の捜索を行っておりました。
幸い、病にかかる人々の人数は収束に向かっているのですが、未だ明確な治療法が見つかっていないというのが現状です」
「で、色々と調査した結果、治療にはマンドラゴラの根が必要、ってことがわかりましてねぇ。
昔の記録だと、この辺りに生息していたって情報がありまして。まあ、そういうことです」
「成程。そういうことですか…」
レオニス公の、命令。
まさか、疫病がそれほどのものだとは思わなかった。
コルレオニス騎士団は、この国唯一の騎士団にして、この国最強の武力を持つ軍事集団。
その実態は公国内の領主や騎士を将とした混成部隊だが、兵力は十数万に及ぶ。
通常は敵国が侵略してきた際にその都度収集されるが、今回はおそらく特例だろう。
「貧富を問わず、ということでしたね。もしかして、既に貴族の方もお亡くなりに?」
「…ええ、既に何人かが命を落としています」
おそらく、そうやって何人かの貴族が命を落としている間に、かなりの民衆が疫病で命を落としているのだろう。
自らが危機に晒されてやっと、あの老人達も重い腰を上げたということか。
「この近辺の事を最もよく知っているのは、アレクさんであるとお聞きしました。
噂によれば、此処近辺の森には魔物が出没するとのことですが…
アレクさんは、マンドラゴラらしきものに遭遇したことはありませんか?」
アレクは、ちらりと後方へと意識を向ける。
反応は、ない。どうやら、口を出すつもりはないらしい。
「…残念ながら、遭遇したことはありません。
それ以外の魔物に関しても、めったに遭遇することはありませんし」
巧みに隠してはいたが、レオンの表情が消沈に沈んだのが見て取れた。
嘘は言っていない。実際、今まで会ったことがある魔物といえば、メディとルイスの二人だけ。
尤も、彼女達以外の魔物がいないわけではなさそうだが。
「そう、ですか…わかりました。
我々は、しばらくマルクさんの村に滞在する予定です。
もしマンドラゴラを見つけることがあれば、教えて頂けませんか?」
「わかりました。もし見つけたときは、お伝えします。
…ああ。お酒のおかわりは如何ですか?」
「あ、こりゃどーも」
すかさず反応するテオ。
差し出されたジョッキに、アレクは苦笑気味に果実酒を注いだ。
レオンの眦が、少しだけ釣り上がった気がした。
「おい、テオバルト。少しは遠慮しろ」
「えー、良いじゃないッスか。こんな辺境でこれだけの上物にありつける機会なんて、そうありませんよ?
お世辞抜きに、故郷に土産として持って帰っても良い出来栄えですよこれ」
「ええと…お褒めに預かり、光栄です。一本ほどであれば、お譲りしますが」
「いえ、結構です。この後、我々にはまだ仕事がありますので。これにて失礼致します」
物言いたげな視線を送るテオを差し置いて、レオンは音もなく立ち上がった。
貴族らしい優雅な挙措で、レオンは出口へと向かう。
テオはジョッキに注がれた果実酒を一気に飲み干し、しぶしぶとそれに続いた。
最後に、マルクが元より小さい体をより小さくしながら、二人の後についていく。
「それでは、アレクさん。マンドラゴラのこと、もし見つけたらよろしくお願い致します」
「ええ。確かに承りました」
「それと…その」
これまで、ずっと明瞭で聞き取りやすい口調で言葉を紡いできたレオンが、初めて何かを言い淀んだ。
誰かに聞かれていることを恐れているように、レオンはぼそぼそと小さな声で続きを語る。
「この辺りで、少年を見かけませんでしたか?
成人前で…確か、胸に十字架のペンダントを付けているはずなのですが」
「少年、ですか? いえ、残念ながら見ていません」
「そう、ですか。…わかりました。
そちらの件に関しましても、もし見つけたらご連絡をお願い致します」
レオンとテオは各々の形の一礼をした後、小屋の外へと出て行った。
最後に残ったマルクが、申し訳なさそうな顔でアレクに頭を下げる。
「すみません、旦那。突然押しかけてしまいやして」
「いえ、火急の用とのことでしたから。仕方ありませんよ」
「それと…その、ニコの事も」
ニコ。先日、アレクが手を振り払ってしまった行商人。
昨日のことを思い出し、アレクは思わず俯いてしまった。
そういえば、彼とはあれから一度も口を聞いていない。
「確かに、今回はちょいと面倒なことをしてくれましたが…アイツも、それほど悪い奴じゃないんです。
アイツは、私があの村に住みつく前からの仲でして。
がめついところはありますが、仲間思いで気のイイ奴なんですよ。だから、その…」
おそらく、人々の仲を取り持つのも彼の仕事なのだろう。
人のつながり無しに世は回らず、人々の軋轢は不利益を生む。
純粋に打算もあるのだろうが、その様子からはマルクがニコのことを大切に思っていることも伺える。
必死に弁明を続けるマルクに、アレクは努めて明るく笑いかける。
「あの時は、申し訳ありませんでした。
私も、少し疲れていて、気がたっていたのかもしれません。
もし彼に会うことがあれば、私が謝罪していたことを伝えてもらえますか?」
その言葉に、マルクはほっと息を吐きだした。
マルクの表情が、いつもの商人前とした笑顔に戻る。
「わかりました。確かに、伝えておきます。
それでは旦那。今後とも、ご贔屓に」
「こちらこそ。今度もまた、よろしくお願いします」
深々と会釈した後、マルクは二人の騎士の後を追って小屋を出て行った。
3人はマルクを先頭に、村の方角へと去っていく。
アレクはそれを、小屋の窓からさりげなく見つめ続けていた。
訪れる、静寂。しかし次の瞬間、がたんと鳴らされた大きな音によって、それは破られた。
「やぁれやれ、やっと帰ったか」
部屋の奥、床に取り付けられた板を押し開けて現れたのは、ヤンだった。
先程、彼らが部屋に入ってきた瞬間に、醸造のための地下室へと逃げ込んでいたらしい。
「…ヤン。まさかとは思うけど、地下の果実酒にまで手を出してないだろうね」
「出してねーよ。まだ作り中でマズイだろあれ。
それに、コイツに見張られてたから妙なことなんて出来なかったっつーの」
そう言いながらヤンが下方に指を向けると、地下室からのそり、と何者かが顔を出した。
茶色い猫耳に、緑の眼。姿を現したのは、ワーキャットのルイス、もといルイだった。
何処かへ出かけたと思っていたが、地下室にいたらしい。
「…にゃふぅ」
顔を洗い、欠伸を一つすると、ルイはアレクの足元へと近づいてきた。
そして、ゴロゴロと喉を鳴らしながら顔を擦り付けてくる。
おそらくは、ヤンを見張っていたことについて褒めて欲しいのだろう。
「ところで、どうして隠れたの?」
「べっつにー。俺ぁ騎士や貴族って奴が嫌いでね。顔を合わせたくなかっただけさぁ」
「ふぅん…そう、なんだ」
アレクはルイの頭を撫でる。ルイは嬉しそうに目を瞑る。
ヤンの様子から察するに、何やら複雑な事情があるらしい。
あまり深入りされたくはなさそうなので、アレクは話題を変えることにした。
「そういえば、さっきの話しだけど…多分聞こえてたよね」
「おぅ。マンドラゴラだっけか?」
「森のことなら、ヤンのほうが詳しいと思うんだけど…何か知ってる?」
「いや、残念ながら見たことねぇな。いるって話も聞いたことねぇ」
この森に最も詳しいヤンが知らないと言うのなら、この森にいる可能性は低いように思う。
レオンと名乗っていた騎士には悪いが、彼の仕事を手伝うことはできないかもしれない。
「まぁ、一応調べてみるけどな。詳しそうな奴知ってるし」
「あれ、手伝ってくれるの? 騎士は嫌いって今言ったばかりだけど」
「嫌いは嫌いだが、金になりそうなんでね。そろそろお前にツケを返さねぇとな」
ぴくり、とルイの耳が揺れる。そして、怪訝そうな視線をヤンへと向ける。
驚きの視線で、アレクはヤンを見つめていた。
「…えーっと、明日は雨だったりするのかな。ヤンがそんなことを言うとは、思わなかった」
「おい。お前ら揃って俺にどんな印象持ってんだコラ。
今までは単に金がなかっただけで、一応払う気はあったっつーの」
そうは言っても、ヤンがこれまでツケと言って溜め込んできた額は半端ではない。
払う気がないと思ってもおかしくはないと思う。
しかし、確かに現在のマンドラゴラの価値を考えれば、返済は可能かもしれない。
「そういや、あの金髪の騎士、最後になんか言ってたけど…なんだったんだ?
あれだけ声が小さくて聞こえなかったんだけど」
「嗚呼、えーっと確か…誰かを探してるって言ってた。
十字架のペンダントをつけた、少年とか何とか」
「ガキ? なんでまた?」
「さあ…? 理由とかは特に言ってなかったね」
アレクは、その少年について語っていた時の、レオンの曖昧な表情を思い出す。
彼は、十字架のペンダント以外の容姿や特徴を一切話さなかった。
もしかしたら、表沙汰にしたいことではなかったのかもしれない。
「――にゃ」
ぴくり、とアレクに撫でられるままだったルイが顔を上げた。
それに釣られてアレクが視線を向けると、何やら足音のような音が聞こえてきた。
足音というよりは、何かを引きずるような音。
がちゃり、と音を立てて、小屋の扉が開かれる。
「ただいまー」
聞き慣れた挨拶と共に、メディがひょっこりと扉の隙間から顔を出す。
アレクは、ほっと息を吐き出す。
野盗が押し入ってきたのではないかと、一瞬だけだが冷や冷やした。
「おかえり、メディ。今日は、少し早かったね」
「うん。ちょっと、色々、あって。
ところで、アレク。薬草、残ってたよね。擦り傷、用の」
「え? 確か、そこのツボの中だと思うけど…なんでまた?」
「んー、えっと、ね…」
なんと説明したらいいかわからない、といったような表情をするメディ。
しばしの間言葉を探している様子だったが、結局説明を諦めたらしい。
少しだけ開いていた扉をさらに開き、身体を滑り込ませる。
視界の端で、ヤンの眼が驚きに見開かれるのが見えた。
「誰だ、ソイツ。行き倒れ?」
「森の中で、拾った。全身、傷だらけ。入れてあげても、良い?」
メディの背には、半ばメディの身体に埋まるようにして、一人の子供が背負われていた。
身の丈は、メディより少し小さいくらい。
髪の毛や外套は水に落ちたように濡れていて、全身に泥や草が纏わりついている。
川にでも、落ちたのだろうか。
「それは…もちろん。ええと…とりあえず、そこに寝かせてあげて。
ヤン、そこの藁を床に敷いてくれない?」
そう言いながら、アレクは棚から傷薬が入ったツボを取り出す。
メディは、藁の上に子供を慎重に横たえる。そこで初めて、その子供の顔が露になった。
中性的な顔立ちだが、おそらくは男。
少年の顔に見覚えはない。少なくとも、此処近辺の村の住人ではない。
「おい、アレク。コイツがあの騎士の探し人じゃねぇの?」
「え?」
「十字架のペンダントだろ。それじゃね?」
ヤンが指を向けた先は、少年の胸辺り。
明らかに村人では手が出すのが難しい、高価な衣服。
その上に、銀製の十字架が光っていた。
何の飾りもない、シンプルな意匠の十字架。それを見た瞬間、嗚呼、とアレクは納得した。
何とも、不思議な因果もあったものだ。これは――どうしたものか。
「…ねぇ。アレク。一つ、聞いて良い?」
「ん? 何、メディ」
一先ず傷の具合を確かめようと、アレクはちょうど少年の外套を脱がしたところだった。
神妙な顔つきで、メディはアレクを見つめていた。
もじもじと体を揺らし、とても言いづらそうで、しかし言わなければ気が済まないという様子。
アレクは首を傾げる。一体何を言おうとしているのか。
「その…正直に、言ってね?」
「う、うん…何?」
大分勿体ぶった挙句、メディは決心したようにしかめっ面になる。
アレクがゴクリと息を飲み、ヤンとルイが状況を理解出来ないといった微妙な顔をする中、
果たして、メディは言った。
「この子、アレクの…子供、なの?」
粉々になった容器の欠片が、地面に散らばった。
中に入っていた緑色の液体が床に撒き散らされ、絨毯を暗緑色に染める。
「よぉ。お前が、かの『賢者』殿か?」
目の前に立ち塞がった大男が、その大柄な体格にふさわしい声音で告げる。
黒い甲冑に、黒い兜。顔は面覆いに隠され、表情はほとんどわからない。
にやりと釣り上がった、口元。それだけが、彼が笑っているということを示していた。
「誰、ですか。アクイラ伯の使い…では、ありませんね」
もしそうであるのならば、鎧の何処かにコルレオニス騎士団の紋章があるはず。
何の紋章も描かれていない、黒い鎧。それは、この大男が非正規のならず者であることを意味する。
所属不明の、黒い騎士。
危険な香りを感じ取り、『賢者』は傍らに立てかけられた杖に手を伸ばそうとした。――しかし、
「おっと。余計な真似はしないで貰えるかい?」
そう言いながら、黒い騎士は親指で背後を指さす。
『賢者』は釣られて視線をそちらへと向け、そして凍りついた。
「――マリア…っ!」
人形のようにだらりと垂れ下がった、線の細い肢体。
黒い騎士の部下らしき二人によって両脇を抱えられた彼女は、ピクリとも動かない。
眠るように目を瞑る彼女の額には、奇妙な文字が記された紙が貼り付けられている。
何らかの、呪物。『賢者』の脳裏が、真っ白に染め上げられる。
「そういうことだ。そういえば、死なないんだってなコイツ。
試しにぶった切ってみてもいいんだが…まあ、やめとくか。その必要もなさそうだ」
片手で手斧を弄びながら、黒い騎士は飄々と言ってのける。
怒りに、身を任せては、いけない。
歯を噛み締めながらも、『賢者』は努めて冷静になろうと呼吸を整える。
確かに、少し斬りつけられたくらいでは彼女はびくともしない。
しかし、相手はおそらく、彼女の正体を知っている。下手に手を出せば、彼女がどうなるかわからない。
「…何が、目的、ですか」
振り絞るような声で、『賢者』は訥々と述べる。
笑みを形作っていた黒い騎士の口元が、さらに歪みを増す。
「何、大したことじゃない。とある捜しモノに、お前とお前の知識が必要らしいんでね。
まあ、詳しい説明は後だ。ご同行願おうか、『賢者』殿。
――お前の『聖女』を、無事返して欲しけりゃな」
黒い騎士が、背を向ける。彼女が、連れ去られていく。
相手がただの野盗であったのならば、他にやりようはあった。
しかし、彼らの動きは明らかに訓練された人間のそれだった。選択の余地は、ない。
無力感に苛まれながら、『賢者』は傍らに置かれた杖に手を伸ばした。
彼女を――僕の『聖女』を、守るために。
●
マンドラゴラ。
女性の姿をした根を持つ、植物型の魔物。
草原や森に生息すると呼ばれるが、この国での目撃例はほとんどない。
性格は非常に臆病で、地面から引き抜かれた際の悲鳴を除けば害はない。
その根は様々な薬の原料として重宝され、魔術師の間では高値で取引されている。
「――と、そのようなモノと記憶していますが、お探しのものはそれで間違いないでしょうか?」
「ええ、その通りです。流石は『森の隠者』殿。よくご存知ですね」
対面の椅子に座るレオンハルトが、屈託の無い笑みを浮かべる。
すらりとして凛々しい外見とは裏腹に、笑うとまるで幼い少年の様に見えた。
その眼差しに必要以上の畏敬の念を感じ、アレクは少し気不味い気持ちになった。
「あの…『森の隠者』というのは、私のことですか?」
「そうですが…おや、もしかして、自身がそう呼ばれていることをご存じなかったのですか?」
「ええ…まあ、そうですね」
曖昧な返答を返しながら、アレクはちらりとレオンハルトの右隣に座っているマルクに視線を向ける。
どうしてこんなことになっているのか、説明して欲しい。
そんな意思を視線に乗せてみたが、その疑問に答えたのはレオンハルトの左隣に座っていたもう一人の来訪者だった。
「この近辺では、結構有名っすよー。人里離れた森に住んでる、知識豊富で説教上手の隠者様って触れ込みで。
どんな揉め事だったとしても、魔法でも掛けられているかのように当事者が納得してしまうとか何とか」
どこか軽い雰囲気のこの男は、レオンハルトの部下でテオバルトというらしい。
鉄製の甲冑と剣という一般的な騎士らしい風体。
あからさまにやる気がなさそうだが、不思議とどこか愛嬌があるように見える。
「おい、テオバルト。その口調をどうにかしろといつも言っているだろう」
「良いじゃないっすか。頭の硬いお歴々の相手してるわけじゃないんですし。
隠者様も、あまり仰々しいのはお好みではないでしょう?」
「ええと…私は、森に居を構えているだけの――修道士です。
言葉に関しましては、どうぞお構い無く。ただ、隠者様というのは少々慣れないので、アレクとお呼び下さい」
いつの間にか、近辺の人々にとっては周知の存在になってしまったらしい。
頼られるのは嫌いではない。しかし、必要以上に目立つのはあまり好ましいことではない。
今度からは、世間体についてもう少し注意する必要があるかもしれない。
「わかりました。それでは、今後はアレクさんとお呼びします。私のことはレオンとお呼び下さい。
騎士様と呼ばれるのも嫌いではないのですが…少々こそばゆいものがありまして」
「ついでに、俺はテオでお願いします」
「わかりました。レオンさんに、テオさんですね。
ええと…それで、マンドラゴラを探しているとのことですが…」
なぜ、教会圏に属し、魔物を嫌う国家の一員である彼らが魔物を探しているのか。
当然疑問には思ったが、それを尋ねるべきか、アレクは一瞬迷った。
そんなアレクの心境を看破したのか、レオンは困ったような顔をする。
「疑問は、ごもっともかと思います。
理由につきましては、秘密にすることでもありませんので、お話しします。
アレクさんは、『黒い死神』という疫病について、ご存知ですか?」
「…名前は知りませんでしたが、疫病が流行っている、とは友人から聞きました。
何でも、かなりの死人が出ているとか」
友人とは、もちろんヤンの事。
俗世の情報は、大抵がマルクかヤンからもたらされている。
深刻な面持ちで、レオンが軽く頷く。
「疫病は、我がレオニス公国全体に蔓延しています。
貧富や老若男女を問わず、多くの人々がその病に苦しめられているのです。
事態を重く見たレオニス公の命により、我々コルレオニス騎士団は、今日まで対応策の捜索を行っておりました。
幸い、病にかかる人々の人数は収束に向かっているのですが、未だ明確な治療法が見つかっていないというのが現状です」
「で、色々と調査した結果、治療にはマンドラゴラの根が必要、ってことがわかりましてねぇ。
昔の記録だと、この辺りに生息していたって情報がありまして。まあ、そういうことです」
「成程。そういうことですか…」
レオニス公の、命令。
まさか、疫病がそれほどのものだとは思わなかった。
コルレオニス騎士団は、この国唯一の騎士団にして、この国最強の武力を持つ軍事集団。
その実態は公国内の領主や騎士を将とした混成部隊だが、兵力は十数万に及ぶ。
通常は敵国が侵略してきた際にその都度収集されるが、今回はおそらく特例だろう。
「貧富を問わず、ということでしたね。もしかして、既に貴族の方もお亡くなりに?」
「…ええ、既に何人かが命を落としています」
おそらく、そうやって何人かの貴族が命を落としている間に、かなりの民衆が疫病で命を落としているのだろう。
自らが危機に晒されてやっと、あの老人達も重い腰を上げたということか。
「この近辺の事を最もよく知っているのは、アレクさんであるとお聞きしました。
噂によれば、此処近辺の森には魔物が出没するとのことですが…
アレクさんは、マンドラゴラらしきものに遭遇したことはありませんか?」
アレクは、ちらりと後方へと意識を向ける。
反応は、ない。どうやら、口を出すつもりはないらしい。
「…残念ながら、遭遇したことはありません。
それ以外の魔物に関しても、めったに遭遇することはありませんし」
巧みに隠してはいたが、レオンの表情が消沈に沈んだのが見て取れた。
嘘は言っていない。実際、今まで会ったことがある魔物といえば、メディとルイスの二人だけ。
尤も、彼女達以外の魔物がいないわけではなさそうだが。
「そう、ですか…わかりました。
我々は、しばらくマルクさんの村に滞在する予定です。
もしマンドラゴラを見つけることがあれば、教えて頂けませんか?」
「わかりました。もし見つけたときは、お伝えします。
…ああ。お酒のおかわりは如何ですか?」
「あ、こりゃどーも」
すかさず反応するテオ。
差し出されたジョッキに、アレクは苦笑気味に果実酒を注いだ。
レオンの眦が、少しだけ釣り上がった気がした。
「おい、テオバルト。少しは遠慮しろ」
「えー、良いじゃないッスか。こんな辺境でこれだけの上物にありつける機会なんて、そうありませんよ?
お世辞抜きに、故郷に土産として持って帰っても良い出来栄えですよこれ」
「ええと…お褒めに預かり、光栄です。一本ほどであれば、お譲りしますが」
「いえ、結構です。この後、我々にはまだ仕事がありますので。これにて失礼致します」
物言いたげな視線を送るテオを差し置いて、レオンは音もなく立ち上がった。
貴族らしい優雅な挙措で、レオンは出口へと向かう。
テオはジョッキに注がれた果実酒を一気に飲み干し、しぶしぶとそれに続いた。
最後に、マルクが元より小さい体をより小さくしながら、二人の後についていく。
「それでは、アレクさん。マンドラゴラのこと、もし見つけたらよろしくお願い致します」
「ええ。確かに承りました」
「それと…その」
これまで、ずっと明瞭で聞き取りやすい口調で言葉を紡いできたレオンが、初めて何かを言い淀んだ。
誰かに聞かれていることを恐れているように、レオンはぼそぼそと小さな声で続きを語る。
「この辺りで、少年を見かけませんでしたか?
成人前で…確か、胸に十字架のペンダントを付けているはずなのですが」
「少年、ですか? いえ、残念ながら見ていません」
「そう、ですか。…わかりました。
そちらの件に関しましても、もし見つけたらご連絡をお願い致します」
レオンとテオは各々の形の一礼をした後、小屋の外へと出て行った。
最後に残ったマルクが、申し訳なさそうな顔でアレクに頭を下げる。
「すみません、旦那。突然押しかけてしまいやして」
「いえ、火急の用とのことでしたから。仕方ありませんよ」
「それと…その、ニコの事も」
ニコ。先日、アレクが手を振り払ってしまった行商人。
昨日のことを思い出し、アレクは思わず俯いてしまった。
そういえば、彼とはあれから一度も口を聞いていない。
「確かに、今回はちょいと面倒なことをしてくれましたが…アイツも、それほど悪い奴じゃないんです。
アイツは、私があの村に住みつく前からの仲でして。
がめついところはありますが、仲間思いで気のイイ奴なんですよ。だから、その…」
おそらく、人々の仲を取り持つのも彼の仕事なのだろう。
人のつながり無しに世は回らず、人々の軋轢は不利益を生む。
純粋に打算もあるのだろうが、その様子からはマルクがニコのことを大切に思っていることも伺える。
必死に弁明を続けるマルクに、アレクは努めて明るく笑いかける。
「あの時は、申し訳ありませんでした。
私も、少し疲れていて、気がたっていたのかもしれません。
もし彼に会うことがあれば、私が謝罪していたことを伝えてもらえますか?」
その言葉に、マルクはほっと息を吐きだした。
マルクの表情が、いつもの商人前とした笑顔に戻る。
「わかりました。確かに、伝えておきます。
それでは旦那。今後とも、ご贔屓に」
「こちらこそ。今度もまた、よろしくお願いします」
深々と会釈した後、マルクは二人の騎士の後を追って小屋を出て行った。
3人はマルクを先頭に、村の方角へと去っていく。
アレクはそれを、小屋の窓からさりげなく見つめ続けていた。
訪れる、静寂。しかし次の瞬間、がたんと鳴らされた大きな音によって、それは破られた。
「やぁれやれ、やっと帰ったか」
部屋の奥、床に取り付けられた板を押し開けて現れたのは、ヤンだった。
先程、彼らが部屋に入ってきた瞬間に、醸造のための地下室へと逃げ込んでいたらしい。
「…ヤン。まさかとは思うけど、地下の果実酒にまで手を出してないだろうね」
「出してねーよ。まだ作り中でマズイだろあれ。
それに、コイツに見張られてたから妙なことなんて出来なかったっつーの」
そう言いながらヤンが下方に指を向けると、地下室からのそり、と何者かが顔を出した。
茶色い猫耳に、緑の眼。姿を現したのは、ワーキャットのルイス、もといルイだった。
何処かへ出かけたと思っていたが、地下室にいたらしい。
「…にゃふぅ」
顔を洗い、欠伸を一つすると、ルイはアレクの足元へと近づいてきた。
そして、ゴロゴロと喉を鳴らしながら顔を擦り付けてくる。
おそらくは、ヤンを見張っていたことについて褒めて欲しいのだろう。
「ところで、どうして隠れたの?」
「べっつにー。俺ぁ騎士や貴族って奴が嫌いでね。顔を合わせたくなかっただけさぁ」
「ふぅん…そう、なんだ」
アレクはルイの頭を撫でる。ルイは嬉しそうに目を瞑る。
ヤンの様子から察するに、何やら複雑な事情があるらしい。
あまり深入りされたくはなさそうなので、アレクは話題を変えることにした。
「そういえば、さっきの話しだけど…多分聞こえてたよね」
「おぅ。マンドラゴラだっけか?」
「森のことなら、ヤンのほうが詳しいと思うんだけど…何か知ってる?」
「いや、残念ながら見たことねぇな。いるって話も聞いたことねぇ」
この森に最も詳しいヤンが知らないと言うのなら、この森にいる可能性は低いように思う。
レオンと名乗っていた騎士には悪いが、彼の仕事を手伝うことはできないかもしれない。
「まぁ、一応調べてみるけどな。詳しそうな奴知ってるし」
「あれ、手伝ってくれるの? 騎士は嫌いって今言ったばかりだけど」
「嫌いは嫌いだが、金になりそうなんでね。そろそろお前にツケを返さねぇとな」
ぴくり、とルイの耳が揺れる。そして、怪訝そうな視線をヤンへと向ける。
驚きの視線で、アレクはヤンを見つめていた。
「…えーっと、明日は雨だったりするのかな。ヤンがそんなことを言うとは、思わなかった」
「おい。お前ら揃って俺にどんな印象持ってんだコラ。
今までは単に金がなかっただけで、一応払う気はあったっつーの」
そうは言っても、ヤンがこれまでツケと言って溜め込んできた額は半端ではない。
払う気がないと思ってもおかしくはないと思う。
しかし、確かに現在のマンドラゴラの価値を考えれば、返済は可能かもしれない。
「そういや、あの金髪の騎士、最後になんか言ってたけど…なんだったんだ?
あれだけ声が小さくて聞こえなかったんだけど」
「嗚呼、えーっと確か…誰かを探してるって言ってた。
十字架のペンダントをつけた、少年とか何とか」
「ガキ? なんでまた?」
「さあ…? 理由とかは特に言ってなかったね」
アレクは、その少年について語っていた時の、レオンの曖昧な表情を思い出す。
彼は、十字架のペンダント以外の容姿や特徴を一切話さなかった。
もしかしたら、表沙汰にしたいことではなかったのかもしれない。
「――にゃ」
ぴくり、とアレクに撫でられるままだったルイが顔を上げた。
それに釣られてアレクが視線を向けると、何やら足音のような音が聞こえてきた。
足音というよりは、何かを引きずるような音。
がちゃり、と音を立てて、小屋の扉が開かれる。
「ただいまー」
聞き慣れた挨拶と共に、メディがひょっこりと扉の隙間から顔を出す。
アレクは、ほっと息を吐き出す。
野盗が押し入ってきたのではないかと、一瞬だけだが冷や冷やした。
「おかえり、メディ。今日は、少し早かったね」
「うん。ちょっと、色々、あって。
ところで、アレク。薬草、残ってたよね。擦り傷、用の」
「え? 確か、そこのツボの中だと思うけど…なんでまた?」
「んー、えっと、ね…」
なんと説明したらいいかわからない、といったような表情をするメディ。
しばしの間言葉を探している様子だったが、結局説明を諦めたらしい。
少しだけ開いていた扉をさらに開き、身体を滑り込ませる。
視界の端で、ヤンの眼が驚きに見開かれるのが見えた。
「誰だ、ソイツ。行き倒れ?」
「森の中で、拾った。全身、傷だらけ。入れてあげても、良い?」
メディの背には、半ばメディの身体に埋まるようにして、一人の子供が背負われていた。
身の丈は、メディより少し小さいくらい。
髪の毛や外套は水に落ちたように濡れていて、全身に泥や草が纏わりついている。
川にでも、落ちたのだろうか。
「それは…もちろん。ええと…とりあえず、そこに寝かせてあげて。
ヤン、そこの藁を床に敷いてくれない?」
そう言いながら、アレクは棚から傷薬が入ったツボを取り出す。
メディは、藁の上に子供を慎重に横たえる。そこで初めて、その子供の顔が露になった。
中性的な顔立ちだが、おそらくは男。
少年の顔に見覚えはない。少なくとも、此処近辺の村の住人ではない。
「おい、アレク。コイツがあの騎士の探し人じゃねぇの?」
「え?」
「十字架のペンダントだろ。それじゃね?」
ヤンが指を向けた先は、少年の胸辺り。
明らかに村人では手が出すのが難しい、高価な衣服。
その上に、銀製の十字架が光っていた。
何の飾りもない、シンプルな意匠の十字架。それを見た瞬間、嗚呼、とアレクは納得した。
何とも、不思議な因果もあったものだ。これは――どうしたものか。
「…ねぇ。アレク。一つ、聞いて良い?」
「ん? 何、メディ」
一先ず傷の具合を確かめようと、アレクはちょうど少年の外套を脱がしたところだった。
神妙な顔つきで、メディはアレクを見つめていた。
もじもじと体を揺らし、とても言いづらそうで、しかし言わなければ気が済まないという様子。
アレクは首を傾げる。一体何を言おうとしているのか。
「その…正直に、言ってね?」
「う、うん…何?」
大分勿体ぶった挙句、メディは決心したようにしかめっ面になる。
アレクがゴクリと息を飲み、ヤンとルイが状況を理解出来ないといった微妙な顔をする中、
果たして、メディは言った。
「この子、アレクの…子供、なの?」
11/07/02 21:44更新 / SMan
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