神への誓いと黒い死神。(前編)
注:この物語は、本編のサイドストーリーです。
本編をまだ読んでいない方は、本編を先に読むことをオススメします。
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『聖騎士物語』
昔々あるところに、一人の王様が治める国がありました。
王様は王としては凡庸な男でしたが、とても敬虔な男でした。
彼は毎日のように教会に通い、自国の民の幸せを願っていました。
神がその願いが聞き入れてくれたからでしょうか。
彼の国は争い事もなく、交易の拠点として繁栄を遂げていました
しかしその平和は、突如打ち砕かれました。
彼の国の隣には広大な森が広がっており、そこには一人の魔王が治める国がありました。
ずっと人間と非干渉を守り続けていた魔王でしたが、突如何の前触れもなく王様の国に攻めてきました。
屈強な魔物を引き連れた魔王は、王様にこう言いました。
「お前の娘を私の嫁によこせ。さもなくば、お前の国の民を皆殺しにしてやろう」
それを聞いた王様は、とても困りました。
彼の娘は病弱でしたが、それはそれは可愛い少女でした。
王妃を早くに亡くした王様にとっては、彼女は唯一の家族でした。
しかし、娘を渡さなければ大勢の民が殺されてしまいます。
王様はどうにかして魔王に対抗しうる方法を探しましたが、強大な魔王に立ち向かうすべはありませんでした。
何人もの名を馳せた騎士たちが魔王に挑みましたが、帰ってくる者は一人もいませんでした。
優しく敬虔な王様は、自国の民のために、泣く泣く娘を魔王に引き渡そうとしました。
そんな王様の前に、一人の青年が現れました。
彼は、お金も、功績も、家名もない、ただの村人でした。
「ぅおーい。何だ、その超つまらさそうな童話」
「…っ!」
突然背後から声をかけられ、アレクはぎょっとして振り向く。
椅子に座っていたアレクの一歩後ろ辺りに、相も変わらず目付きの悪いヤンが腕を組んで立っていた。
「ごほっ…ヤン。いい加減に、こっそり入ってくるのやめてくれない? 心臓に悪いんだけど」
「一応ノックはしたぞ。返事がなかったからそのまま入ってきただけだ」
「普通、返事がなかったら入ってきちゃいけないと思うんだけど…」
「ああ、ぶっちゃけ入ってこなきゃ良かったと思ってる。
つーか、何。まぁたお前らイチャついてんの?」
苛立だしげな様子で、ヤンは言った。
別に、イチャついているつもりはない――と、言いたいところだが、
確かに、この状況では否定できない。
「ねーアレク、続き、早く」
「ん、っ…ごめん。一応、ヤンの要件を聞いてからでいい?
もしかしたらマルクさんの伝言とかかもしれないし」
「むー」
不満そうに、メディは頬を膨らませる。
そんな彼女の現在位置は、アレクの膝の上。
椅子に座ったアレクの上にメディが座り、アレクがメディの顔の前で本を広げている状態。
「おいアレク。人が遥々村からこんな山奥まで歩いて来たってのに、水の一つも出ねぇの?」
「そうしたいのは山々なんだけど…」
アレクはレッドスライムであるメディの体に、しっかりと椅子に縫いつけられていた。
何気なく、メディに向けてどいてくれるよう視線を送る。
メディは口を尖らせながらも、しぶしぶとアレクの膝から離れていく。
「それで、今日は…っ…どんな用事?」
「お察しの通り、マルクからの伝言…っつーか、手紙だ。
だが、それよりもまず水だ。じゃなきゃ酒。村から歩き続けで喉乾いた」
「ヤン、相変わらず、穀潰し」
「ああ?」
ぎろり、とヤンは平時でも悪い目つきをさらに悪化させる。
ささっ、とメディは絵本を胸に抱えながらアレクの影に隠れる。
やれやれ、とアレクは苦笑しながら果実酒をジョッキに注いだ。
「それで、手紙って?」
「これだ。何やら急ぎの用事らしい」
そう言いながら、ヤンは丸められた手紙を差し出す。
筒状に丸められた羊皮紙。ただの手紙にしては、大仰な装丁。
アレクは手紙を受け取ると、慎重に紐を解いて中身に軽く目を通す。
「マルクさんは、なんて?」
「何だかよく分からねーけど、中身を確認したらできるだけ早く返してくれってさ。
絶対に無くすな、とも言われたな。何なんだそれ」
「手紙っていうか…これ、契約書だよ。僕が前に関わった仲裁の結果、みたいなものかな。
どこか間違ってたり、変なことが書いてないか調べる必要があるんだよね」
「へぇ…」
ヤンはジョッキに口をつけながら、ちらりと契約書に目を向ける。
しかし、すぐに興味を無くしたように視線を外した。
そしてきょろきょろと、何かを捜すように視線を巡らせる。
「そういえば、あの猫はどうしたんだ? 最近あまり見ねぇけど」
「ああ、ルイの事? ルイは多分散歩中。普段は、ここにいることの方が少ないから」
猫は基本的に自由気ままだが、それはルイにも言えることだった。
妙に擦り寄って来ることもあれば、逆に距離をとって何かを言いたげにこちらを見ていたり。
何日か姿を消すこともあれば、ひょっこり顔を見せて何日か小屋に居座ることもある。
「…それって、飼い主としてどうなんだ。良いのか? そんな放し飼いで」
「良いんじゃないかな。これといって問題もないみたいだし」
ルイの首輪を外してからこれまで、ルイが村人に迷惑をかけたという話は聞かない。
マルクから貰った魚を盗まれたり、果実酒を倒されたりといった被害はあるが、それはまあ仕方がない。
僕にだったらいくら迷惑をかけてもいい。ルイにはそう言ってしまっている。
「そういえば、僕が外出する時はすぐに駆けつけてくれるんだよね。どこにいても」
「は。そりゃまた、大層な騎士っぷりで。それにまあ、確かに人間には迷惑かけちゃいねぇか」
「ん、それってどういう――って、ヤン。ドサクサに紛れて二本目に突入しないでくれるかな」
「ち、バレたか」
さりげなくテーブルの上の瓶へと伸ばしていた手を、ヤンは舌打ちと共に引っ込めた。
アレクの右脇辺りにしがみついていたメディが、ヤンを睨みつけながらボソリと呟く。
「ヤン、相変わらず、手癖が悪い。あの泥棒猫と、同じ」
「おい嬢ちゃん。俺をあの猫と同列にしてもらっちゃ困る。俺ならもっとうまくやれるぞ」
「そう言いながら、今度は食料に手をつけようとしないでくれるかな」
「ち、だんだんと鋭くなってきたなお前」
さりげなく背後の樽の蓋を後ろ手に開けようとしていたヤンの手が、外套の中に引っ込む。
油断も隙もない。
以前は盗まれたことに全く気づかなかったこともあったが、最近は慣れてきた。
「窃盗罪は、『断手刑』。泥棒は、しない方が、良い」
ぎょっとするような単語が聞こえてきて、アレクとヤンはほぼ同時に振り向いた。
二人が振り向いたその先で、メディがきょとんとした顔で二人を見上げていた。
本を胸に抱きしめながら首を傾げるその様は、とても可愛らしい。
だからこそ、先程の言葉から生まれる違和感は、かなり大きかった。
「…メディ、そんな言葉、どこで覚えたの?」
「本に、書いてあったよ? あそこに、置いてあるヤツ」
メディが指を差した先には木製の棚があり、確かにそこには幾つかの本が置いてあった。
アレクがここに住みつく前から置いてあった、ボロボロの本。
おそらくは、昔ここを訪れた誰かがおいて行った物。
「おい…ちなみに、その言葉の意味、わかってんのか?」
「窃盗は、盗むって意味、だよね。でも、『断手刑』は、よく分からな、かった。
刑って、くらいだから、悪いことをした人にする、罰みたいなもの、なんだよね」
「えっと…まあ、そうなんだけど…んんっ」
アレクは軽く咳き込みながら、どう返答したものかと思案する。
メディが読んだのは、おそらくどこかの街の法をまとめた物だろう。確か、そんな本が混じっていた。
刑罰に関する詳しい説明がなかったのは幸いだ。正直、情操教育上あまりよくない気がする。
「つーかアレク、いつの間にこの嬢ちゃんは文字が読めるようになったんだ?」
「いや、少し前までは全く読めなかったんだけど。
なんか、メディが突然文字を覚えたいって言い始めて。最近、勉強し始めたばかり」
「…ああ、だからさっき童話なんか読んでたのか」
しかしそれも、ほんの数日前に始めたばかりだ。
文字の読み書きを覚えるのは、並大抵のことではない。
まずは数十種の記号を覚えることから始まり、次にその記号からなる単語を、そしてその次には文法を。
アレクがしたのは、基礎となる記号を木の板に書いて教え、数日童話を読み聞かせただけ。
たったそれだけで、小難しい法書を読むことができるようになるものだろうか。
「そういえば、ヤンって、文字、読めるの?」
「あ? …まあ、その。少しは読めるに決まってんだろ」
「じゃあ、これはなんて読むか、わかる?」
メディは徐に、アレクが手に持っていた契約書の一文を指差す。
う、とヤンは怖気付いたように大袈裟に一歩下がる。
じろり、とメディは鋭い視線をヤンへと向ける。
「ヤン、やっぱり、嘘つき」
「う、うっせぇな、悪いかよ。どうせ俺は文字とは無縁の世界の人間だよ。
つーか、お前はわかんのかよ」
「んー…たぶんだけど、これから、葡萄とか果物を、ここに書かれた値段で、売ったり買ったり、します。
あ、あと、それを、神様に誓いますって、そういう意味、だよね?」
「う、うん…正解。よく、わかったね」
驚きに目を丸くしながら、アレクはメディを賞賛する。
メディはえへへ、と照れ笑いを浮かべると、突然アレクの首にすがりついた。
そして、耳元で呟く。
「アレクの、ため」
「え?」
「アレク、最近忙しそうだったから。私も文字、読めれば、手伝える」
「…あ」
そう言われて、アレクは思い出した。
最近、アレクは仲裁の仕事――契約書の執筆や確認を、この小屋で行うことが増えていた。
あまり仕事を家に持ち込まないようにはしているが、時に夜遅くまで契約書に目を通していることがあった。
そんなアレクを、メディは所在無げに見つめていた気がする。
「もっと、文字を覚えたら、手伝わせて、ね」
最後にそう言って、メディはアレクから離れた。
片手に持っていた本をテーブルの上に置き、そして扉へと駆けていく。
「なんだ、どこか行くのか?」
「果物拾いの、時間。じゃあ、アレク、行ってきまーす」
「あ、うん。行ってらっしゃい。気をつけて、ね」
「ん」
メディは滑るような動きで体を動かしながら、小屋の外へと出て行った。
ぱたん、と扉が閉まる。そして、静寂が訪れる。
後には、呆れ顔のヤンと、呆然とした顔のアレクが取り残された。
「健気だねぇ、お前さんの嬢ちゃんは。少し妬ましいぞ」
「そう、だね…」
献身的なメディの行動に、アレクはいつも救われている。
メディは賢く、一度教えたことは忘れない。
日を重ねる毎に、メディの知識が増えていくのを感じる。
だからこそ、不安なこともあった。知識を蓄えた末に、一体メディは――どうなるのだろうか。
「…おい、どうしたんだアレク。何だか上の空じゃねぇか」
「え? あ、ごめん。ちょっとぼーっとしてた」
「おーい、しっかりしてくれよ。俺はその契約書とやらを折り返し持ってく必要があるんだからよ。
マルクは最悪明日でも良いって言ってたが、出来れば今日持ってったほうが楽なんだが」
「あ、うん。そうだね。確かに今は他にやることもないし、少ししたら読み終わると思うから」
そう言って、アレクは契約書に視線を戻す。
一度軽く目は通したが、今度はゆっくりと一字一句見逃さないように視線を走らせる。
「契約書、ねぇ。俺には必要性がよく分からねぇな」
「約束を紙に残す事は、大切だよ。人間は、いい加減だからね。
前々からこうすると決めていても、口約だと齟齬にされる可能性があるし」
「しかし契約書っつっても、燃やされたら意味なくね?」
「まあ、確かにそうだけど…それでも、口約束よりは信頼できるんだよ」
口約束を覆すには、後でただ否定するだけで良い。
しかし、契約書に書いてあることを覆すには――神に逆らわなければならない。
神に誓ったことを覆すのは、神に逆らうも同義。だからこそ、契約書は絶対である。
そう、修道院で教わった。
「よし、終わったよ」
契約書をまた丸め直し、紐で留めてヤンに差し出す。
ヤンは釈然としないといった感じの顔をしながら、筒状の契約書を受け取る。
「妙にあっさりだな。言ったわりには確認は直ぐに終わったが、それでいいのか?」
「この契約書の確認はもう二度目だからね。主だったところは、…っ、もう直してあったから」
「たったこれだけの確認のために、俺は村と此処を往復するのか…これでも無賃なんだぜ俺」
「此処に来るたびに只酒飲んでる癖に…それに、マルクから少しは何か貰ってるでしょ。お金以外で。あと、ドサクサに紛れて果実酒二本も持ってかないでくれるかな。せめて一本だけにしてよね」
「ち、バレてたか。しゃあねぇな、一本だけにしてやるか」
テーブルに果実酒の瓶を一本戻し、ヤンは一本の果実酒と契約書を懐に入れる。
アレクはやれやれと首を横に振りながら、ヤンが使っていたジョッキを片付けようとする。
「おい、アレク。そういえば、気になることがあるんだが」
「ん、何?」
「お前、さっきから妙な咳してるだろ。どこか悪いのか?」
「ああ…よく気づいたね」
実を言うと、昨日の夜からあまり調子が良くない。
此処最近何日か村に通い詰めで、しかも夜遅くまで起きていたせいかもしれない。
少し体が熱っぽく、体の節々が痛いような気がした。
「村の酒場で聞いたんだが、最近色んな街で妙な伝染病が流行ってるらしい。
あまり、無理はしないほうが良いぞ」
「確かに、そうだね。出来るだけ早く休むことにするよ」
「そう言いながら、結局夜遅くまで仕事やってそうだよな、お前」
ため息混じりに言われてしまった。
しかし、ちょうど実際に今夜も少しばかり別件の契約書をまとめてから寝ようと思っていた矢先だった。
ぐうの音も出ない。
「熱心に神様に誓いを立てるなとは言わねぇが、やっこさんは気まぐれだ。
過労で倒れて死にそうになっても、助けてくれるとは限らないだろ」
「ご忠告ありがと。それじゃヤン、マルクによろしく」
「おう、また今度な」
ひらひらと手を振りながら、ヤンは颯爽と去っていった。
ばたん、と二度目の扉が閉まる音が鳴り、アレクは小屋に一人残される。
ふう、とアレクは小さく息をつく。その瞬間、くらりと頭がふらついた。
「…っ…」
一人になって、緊張が解けてしまったのだろうか。
しかし、急を要するほど体調が悪化しているとは思えないし、まだ休むには時間的に早過ぎる気がする。
ヤンにはああ言ったが、契約書の草案を考えておく位はしておいてもいいだろう。
頼まれた仕事は、出来るだけ終わらせておきたい。
マルクに、自分を信用して仕事を任せてくれた人々に、あまり迷惑を掛けたくない。
その一心で、アレクは軽く頭を振って目眩を振り払い、そしてテーブルの上に転がっていた羽根ペンを拾い上げた。
●
――騎士の称号を得た青年は、賢者から授かった聖剣を持って魔王の居城に乗り込み、たった一人で魔王の軍勢に立ち向かいました。
メディは森の中を進みながら、アレクに読んで貰っていた童話の結末を思い出していた。
ヤンが乱入してきたせいで、アレクに読んで貰えたのは半分ほどだけ。
しかし実を言うと、メディはある程度文字を覚えてから、アレクに本を読んで貰う前に『予習』をすることにしていた。
――そしてついに、騎士は魔王を打ち倒し、攫われていた姫君を救出することができました。
一度教えてもらった文字は、忘れない。
だからこそ、比較的簡単な言葉だけで書かれていたあの童話は、読んで貰うまでもなく殆ど理解できた。
それにも関わらず読んで貰ったのは、予習の読み取った言葉の意味が正しいのか確かめたかったから。
そして、最近仕事で外出することが多いアレクと、少しでも長く一緒に居たかったから。
――魔王を倒した功績で青年は聖騎士の称号を得て、代々王様に仕えることになりました。
童話の内容は、典型的な反魔物の物語。
吟遊詩人に語られていたものを、教会が本にまとめたものらしい。
アレクはこの童話を話すのを妙に渋っていたのは、魔物である私のことを慮っての事、だったのかもしれない。
しかし、そんなことは、大して気にならなかった。
気になったのは、別の事。
――こうして、王様の国に平和が訪れたのでした。めでたしめでたし。
本当に?
メディは、なぜかそう思った。
最後に、平和になって終わるのは、別に不思議ではない。
これまで聞かせて貰ったすべての童話は、全てその終わり方だった。
問題なのは、次の一節。
――そしてついに、騎士は魔王を打ち倒し、攫われていた姫君を救出することができました。
なぜかその一節に、メディは違和感を覚えた。
騎士が、魔王を、倒した。姫様が、騎士に、救われた。
――本当に?
ずきり、と頭が痛む。何かが思い出せそうで、思い出せない。
今日は、早くアレクのところに帰りたい。
そして頭を撫でて貰えば、この痛みも無くなるような気がした。
モヤモヤとした何かを感じながらも、メディは黙々と果実を摘む作業に勤しんでいた。
――その時、
「…ん?」
何かが、聞こえた。
というよりも、何かが近づいてくる音が聞こえた。
「――ニャあッ!」
傍らの草むらから、それは勢い良く飛び出してきた。
ばさり、と茶色い布が大きく揺れる。それは、最近アレクによって新調された、新しい外套。
見覚えのある一対の緑色の眼が、何やら切羽詰った様子でこちらを睨みつけていた。
ワーキャットの、ルイス。アレクの、『騎士』。
「…何か、用?」
不満げな声になってしまうのは、おそらく私がこの猫の事をあまり好きではないから。
アレクにとっての一番は、私。それはアレクに、断言して貰った。
それでも、相変わらずお互いライバル意識を持ったままになってしまっている。
いつもは、会う度に睨み合いが始まる。しかし今日は、何やら様子が変だった。
「にゃあ、にゃあッ!」
今日の猫は、そんなことはどうでもいいから早く来い、と言っているかのよう。
私は一体何事かと目を細め――そして、すぐに気づいた。
「――アレ、ク?」
猫がやってきたのは、小屋の方角。アレクに――何かが、あった?
その結論に達した瞬間、メディは脇目もふらず駆け出した。
猫の頭に触れれば、もっと詳しい意思疎通ができたかもしれない。
しかし、その時間すら惜しかった。
メディはうまく走ることができない自らの身体に苛立ちながらも、可能な限り早く元の道を駆け戻る。
急かすように並走する猫の鳴き声を聞きながら疾走を続け、やっとのことで小屋まで辿り着いた。一度猫が入った後だったからか、扉は開いたまま。
「――あ」
扉を通り抜けたその瞬間、メディは愕然とした。
黄昏に染まる部屋の中は、むせ返る程のお酒の匂いに包まれていた。
瓶の欠片が辺りに散乱しており、零れた果実酒が床を湿らせている。
そして、
「アレク!」
アレクは、そこにいた。
テーブルの下の床で、うずくまるようにして、倒れていた。
右手に羽根ペンを握りしめたまま、苦しげに、震えていた。
「ぁ…あ…っ!」
頭が真っ白になりながらも、メディはアレクに駆け寄る。
息はしている。でも、意識は――ない。目を固く瞑り、浅い呼吸を繰り返している。
誰かに、襲われた? でも、それにしては荒らされた跡が、少ない。
小屋はお酒の匂いに包まれている。
しかし、瓶の欠片が散らばっているのは、テーブル付近だけ。
「あ…」
咄嗟に抱き上げた、アレクの顔。
そこに、奇妙なものがあった。首より上、頬の後ろのほう。
濃い紫色の、斑点のような、もの。
「アレ、ク」
それが何かは、わからなかった。
しかし、本能的に、メディは感じた。
これは――とても不吉なモノ、であると。
本編をまだ読んでいない方は、本編を先に読むことをオススメします。
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『聖騎士物語』
昔々あるところに、一人の王様が治める国がありました。
王様は王としては凡庸な男でしたが、とても敬虔な男でした。
彼は毎日のように教会に通い、自国の民の幸せを願っていました。
神がその願いが聞き入れてくれたからでしょうか。
彼の国は争い事もなく、交易の拠点として繁栄を遂げていました
しかしその平和は、突如打ち砕かれました。
彼の国の隣には広大な森が広がっており、そこには一人の魔王が治める国がありました。
ずっと人間と非干渉を守り続けていた魔王でしたが、突如何の前触れもなく王様の国に攻めてきました。
屈強な魔物を引き連れた魔王は、王様にこう言いました。
「お前の娘を私の嫁によこせ。さもなくば、お前の国の民を皆殺しにしてやろう」
それを聞いた王様は、とても困りました。
彼の娘は病弱でしたが、それはそれは可愛い少女でした。
王妃を早くに亡くした王様にとっては、彼女は唯一の家族でした。
しかし、娘を渡さなければ大勢の民が殺されてしまいます。
王様はどうにかして魔王に対抗しうる方法を探しましたが、強大な魔王に立ち向かうすべはありませんでした。
何人もの名を馳せた騎士たちが魔王に挑みましたが、帰ってくる者は一人もいませんでした。
優しく敬虔な王様は、自国の民のために、泣く泣く娘を魔王に引き渡そうとしました。
そんな王様の前に、一人の青年が現れました。
彼は、お金も、功績も、家名もない、ただの村人でした。
「ぅおーい。何だ、その超つまらさそうな童話」
「…っ!」
突然背後から声をかけられ、アレクはぎょっとして振り向く。
椅子に座っていたアレクの一歩後ろ辺りに、相も変わらず目付きの悪いヤンが腕を組んで立っていた。
「ごほっ…ヤン。いい加減に、こっそり入ってくるのやめてくれない? 心臓に悪いんだけど」
「一応ノックはしたぞ。返事がなかったからそのまま入ってきただけだ」
「普通、返事がなかったら入ってきちゃいけないと思うんだけど…」
「ああ、ぶっちゃけ入ってこなきゃ良かったと思ってる。
つーか、何。まぁたお前らイチャついてんの?」
苛立だしげな様子で、ヤンは言った。
別に、イチャついているつもりはない――と、言いたいところだが、
確かに、この状況では否定できない。
「ねーアレク、続き、早く」
「ん、っ…ごめん。一応、ヤンの要件を聞いてからでいい?
もしかしたらマルクさんの伝言とかかもしれないし」
「むー」
不満そうに、メディは頬を膨らませる。
そんな彼女の現在位置は、アレクの膝の上。
椅子に座ったアレクの上にメディが座り、アレクがメディの顔の前で本を広げている状態。
「おいアレク。人が遥々村からこんな山奥まで歩いて来たってのに、水の一つも出ねぇの?」
「そうしたいのは山々なんだけど…」
アレクはレッドスライムであるメディの体に、しっかりと椅子に縫いつけられていた。
何気なく、メディに向けてどいてくれるよう視線を送る。
メディは口を尖らせながらも、しぶしぶとアレクの膝から離れていく。
「それで、今日は…っ…どんな用事?」
「お察しの通り、マルクからの伝言…っつーか、手紙だ。
だが、それよりもまず水だ。じゃなきゃ酒。村から歩き続けで喉乾いた」
「ヤン、相変わらず、穀潰し」
「ああ?」
ぎろり、とヤンは平時でも悪い目つきをさらに悪化させる。
ささっ、とメディは絵本を胸に抱えながらアレクの影に隠れる。
やれやれ、とアレクは苦笑しながら果実酒をジョッキに注いだ。
「それで、手紙って?」
「これだ。何やら急ぎの用事らしい」
そう言いながら、ヤンは丸められた手紙を差し出す。
筒状に丸められた羊皮紙。ただの手紙にしては、大仰な装丁。
アレクは手紙を受け取ると、慎重に紐を解いて中身に軽く目を通す。
「マルクさんは、なんて?」
「何だかよく分からねーけど、中身を確認したらできるだけ早く返してくれってさ。
絶対に無くすな、とも言われたな。何なんだそれ」
「手紙っていうか…これ、契約書だよ。僕が前に関わった仲裁の結果、みたいなものかな。
どこか間違ってたり、変なことが書いてないか調べる必要があるんだよね」
「へぇ…」
ヤンはジョッキに口をつけながら、ちらりと契約書に目を向ける。
しかし、すぐに興味を無くしたように視線を外した。
そしてきょろきょろと、何かを捜すように視線を巡らせる。
「そういえば、あの猫はどうしたんだ? 最近あまり見ねぇけど」
「ああ、ルイの事? ルイは多分散歩中。普段は、ここにいることの方が少ないから」
猫は基本的に自由気ままだが、それはルイにも言えることだった。
妙に擦り寄って来ることもあれば、逆に距離をとって何かを言いたげにこちらを見ていたり。
何日か姿を消すこともあれば、ひょっこり顔を見せて何日か小屋に居座ることもある。
「…それって、飼い主としてどうなんだ。良いのか? そんな放し飼いで」
「良いんじゃないかな。これといって問題もないみたいだし」
ルイの首輪を外してからこれまで、ルイが村人に迷惑をかけたという話は聞かない。
マルクから貰った魚を盗まれたり、果実酒を倒されたりといった被害はあるが、それはまあ仕方がない。
僕にだったらいくら迷惑をかけてもいい。ルイにはそう言ってしまっている。
「そういえば、僕が外出する時はすぐに駆けつけてくれるんだよね。どこにいても」
「は。そりゃまた、大層な騎士っぷりで。それにまあ、確かに人間には迷惑かけちゃいねぇか」
「ん、それってどういう――って、ヤン。ドサクサに紛れて二本目に突入しないでくれるかな」
「ち、バレたか」
さりげなくテーブルの上の瓶へと伸ばしていた手を、ヤンは舌打ちと共に引っ込めた。
アレクの右脇辺りにしがみついていたメディが、ヤンを睨みつけながらボソリと呟く。
「ヤン、相変わらず、手癖が悪い。あの泥棒猫と、同じ」
「おい嬢ちゃん。俺をあの猫と同列にしてもらっちゃ困る。俺ならもっとうまくやれるぞ」
「そう言いながら、今度は食料に手をつけようとしないでくれるかな」
「ち、だんだんと鋭くなってきたなお前」
さりげなく背後の樽の蓋を後ろ手に開けようとしていたヤンの手が、外套の中に引っ込む。
油断も隙もない。
以前は盗まれたことに全く気づかなかったこともあったが、最近は慣れてきた。
「窃盗罪は、『断手刑』。泥棒は、しない方が、良い」
ぎょっとするような単語が聞こえてきて、アレクとヤンはほぼ同時に振り向いた。
二人が振り向いたその先で、メディがきょとんとした顔で二人を見上げていた。
本を胸に抱きしめながら首を傾げるその様は、とても可愛らしい。
だからこそ、先程の言葉から生まれる違和感は、かなり大きかった。
「…メディ、そんな言葉、どこで覚えたの?」
「本に、書いてあったよ? あそこに、置いてあるヤツ」
メディが指を差した先には木製の棚があり、確かにそこには幾つかの本が置いてあった。
アレクがここに住みつく前から置いてあった、ボロボロの本。
おそらくは、昔ここを訪れた誰かがおいて行った物。
「おい…ちなみに、その言葉の意味、わかってんのか?」
「窃盗は、盗むって意味、だよね。でも、『断手刑』は、よく分からな、かった。
刑って、くらいだから、悪いことをした人にする、罰みたいなもの、なんだよね」
「えっと…まあ、そうなんだけど…んんっ」
アレクは軽く咳き込みながら、どう返答したものかと思案する。
メディが読んだのは、おそらくどこかの街の法をまとめた物だろう。確か、そんな本が混じっていた。
刑罰に関する詳しい説明がなかったのは幸いだ。正直、情操教育上あまりよくない気がする。
「つーかアレク、いつの間にこの嬢ちゃんは文字が読めるようになったんだ?」
「いや、少し前までは全く読めなかったんだけど。
なんか、メディが突然文字を覚えたいって言い始めて。最近、勉強し始めたばかり」
「…ああ、だからさっき童話なんか読んでたのか」
しかしそれも、ほんの数日前に始めたばかりだ。
文字の読み書きを覚えるのは、並大抵のことではない。
まずは数十種の記号を覚えることから始まり、次にその記号からなる単語を、そしてその次には文法を。
アレクがしたのは、基礎となる記号を木の板に書いて教え、数日童話を読み聞かせただけ。
たったそれだけで、小難しい法書を読むことができるようになるものだろうか。
「そういえば、ヤンって、文字、読めるの?」
「あ? …まあ、その。少しは読めるに決まってんだろ」
「じゃあ、これはなんて読むか、わかる?」
メディは徐に、アレクが手に持っていた契約書の一文を指差す。
う、とヤンは怖気付いたように大袈裟に一歩下がる。
じろり、とメディは鋭い視線をヤンへと向ける。
「ヤン、やっぱり、嘘つき」
「う、うっせぇな、悪いかよ。どうせ俺は文字とは無縁の世界の人間だよ。
つーか、お前はわかんのかよ」
「んー…たぶんだけど、これから、葡萄とか果物を、ここに書かれた値段で、売ったり買ったり、します。
あ、あと、それを、神様に誓いますって、そういう意味、だよね?」
「う、うん…正解。よく、わかったね」
驚きに目を丸くしながら、アレクはメディを賞賛する。
メディはえへへ、と照れ笑いを浮かべると、突然アレクの首にすがりついた。
そして、耳元で呟く。
「アレクの、ため」
「え?」
「アレク、最近忙しそうだったから。私も文字、読めれば、手伝える」
「…あ」
そう言われて、アレクは思い出した。
最近、アレクは仲裁の仕事――契約書の執筆や確認を、この小屋で行うことが増えていた。
あまり仕事を家に持ち込まないようにはしているが、時に夜遅くまで契約書に目を通していることがあった。
そんなアレクを、メディは所在無げに見つめていた気がする。
「もっと、文字を覚えたら、手伝わせて、ね」
最後にそう言って、メディはアレクから離れた。
片手に持っていた本をテーブルの上に置き、そして扉へと駆けていく。
「なんだ、どこか行くのか?」
「果物拾いの、時間。じゃあ、アレク、行ってきまーす」
「あ、うん。行ってらっしゃい。気をつけて、ね」
「ん」
メディは滑るような動きで体を動かしながら、小屋の外へと出て行った。
ぱたん、と扉が閉まる。そして、静寂が訪れる。
後には、呆れ顔のヤンと、呆然とした顔のアレクが取り残された。
「健気だねぇ、お前さんの嬢ちゃんは。少し妬ましいぞ」
「そう、だね…」
献身的なメディの行動に、アレクはいつも救われている。
メディは賢く、一度教えたことは忘れない。
日を重ねる毎に、メディの知識が増えていくのを感じる。
だからこそ、不安なこともあった。知識を蓄えた末に、一体メディは――どうなるのだろうか。
「…おい、どうしたんだアレク。何だか上の空じゃねぇか」
「え? あ、ごめん。ちょっとぼーっとしてた」
「おーい、しっかりしてくれよ。俺はその契約書とやらを折り返し持ってく必要があるんだからよ。
マルクは最悪明日でも良いって言ってたが、出来れば今日持ってったほうが楽なんだが」
「あ、うん。そうだね。確かに今は他にやることもないし、少ししたら読み終わると思うから」
そう言って、アレクは契約書に視線を戻す。
一度軽く目は通したが、今度はゆっくりと一字一句見逃さないように視線を走らせる。
「契約書、ねぇ。俺には必要性がよく分からねぇな」
「約束を紙に残す事は、大切だよ。人間は、いい加減だからね。
前々からこうすると決めていても、口約だと齟齬にされる可能性があるし」
「しかし契約書っつっても、燃やされたら意味なくね?」
「まあ、確かにそうだけど…それでも、口約束よりは信頼できるんだよ」
口約束を覆すには、後でただ否定するだけで良い。
しかし、契約書に書いてあることを覆すには――神に逆らわなければならない。
神に誓ったことを覆すのは、神に逆らうも同義。だからこそ、契約書は絶対である。
そう、修道院で教わった。
「よし、終わったよ」
契約書をまた丸め直し、紐で留めてヤンに差し出す。
ヤンは釈然としないといった感じの顔をしながら、筒状の契約書を受け取る。
「妙にあっさりだな。言ったわりには確認は直ぐに終わったが、それでいいのか?」
「この契約書の確認はもう二度目だからね。主だったところは、…っ、もう直してあったから」
「たったこれだけの確認のために、俺は村と此処を往復するのか…これでも無賃なんだぜ俺」
「此処に来るたびに只酒飲んでる癖に…それに、マルクから少しは何か貰ってるでしょ。お金以外で。あと、ドサクサに紛れて果実酒二本も持ってかないでくれるかな。せめて一本だけにしてよね」
「ち、バレてたか。しゃあねぇな、一本だけにしてやるか」
テーブルに果実酒の瓶を一本戻し、ヤンは一本の果実酒と契約書を懐に入れる。
アレクはやれやれと首を横に振りながら、ヤンが使っていたジョッキを片付けようとする。
「おい、アレク。そういえば、気になることがあるんだが」
「ん、何?」
「お前、さっきから妙な咳してるだろ。どこか悪いのか?」
「ああ…よく気づいたね」
実を言うと、昨日の夜からあまり調子が良くない。
此処最近何日か村に通い詰めで、しかも夜遅くまで起きていたせいかもしれない。
少し体が熱っぽく、体の節々が痛いような気がした。
「村の酒場で聞いたんだが、最近色んな街で妙な伝染病が流行ってるらしい。
あまり、無理はしないほうが良いぞ」
「確かに、そうだね。出来るだけ早く休むことにするよ」
「そう言いながら、結局夜遅くまで仕事やってそうだよな、お前」
ため息混じりに言われてしまった。
しかし、ちょうど実際に今夜も少しばかり別件の契約書をまとめてから寝ようと思っていた矢先だった。
ぐうの音も出ない。
「熱心に神様に誓いを立てるなとは言わねぇが、やっこさんは気まぐれだ。
過労で倒れて死にそうになっても、助けてくれるとは限らないだろ」
「ご忠告ありがと。それじゃヤン、マルクによろしく」
「おう、また今度な」
ひらひらと手を振りながら、ヤンは颯爽と去っていった。
ばたん、と二度目の扉が閉まる音が鳴り、アレクは小屋に一人残される。
ふう、とアレクは小さく息をつく。その瞬間、くらりと頭がふらついた。
「…っ…」
一人になって、緊張が解けてしまったのだろうか。
しかし、急を要するほど体調が悪化しているとは思えないし、まだ休むには時間的に早過ぎる気がする。
ヤンにはああ言ったが、契約書の草案を考えておく位はしておいてもいいだろう。
頼まれた仕事は、出来るだけ終わらせておきたい。
マルクに、自分を信用して仕事を任せてくれた人々に、あまり迷惑を掛けたくない。
その一心で、アレクは軽く頭を振って目眩を振り払い、そしてテーブルの上に転がっていた羽根ペンを拾い上げた。
●
――騎士の称号を得た青年は、賢者から授かった聖剣を持って魔王の居城に乗り込み、たった一人で魔王の軍勢に立ち向かいました。
メディは森の中を進みながら、アレクに読んで貰っていた童話の結末を思い出していた。
ヤンが乱入してきたせいで、アレクに読んで貰えたのは半分ほどだけ。
しかし実を言うと、メディはある程度文字を覚えてから、アレクに本を読んで貰う前に『予習』をすることにしていた。
――そしてついに、騎士は魔王を打ち倒し、攫われていた姫君を救出することができました。
一度教えてもらった文字は、忘れない。
だからこそ、比較的簡単な言葉だけで書かれていたあの童話は、読んで貰うまでもなく殆ど理解できた。
それにも関わらず読んで貰ったのは、予習の読み取った言葉の意味が正しいのか確かめたかったから。
そして、最近仕事で外出することが多いアレクと、少しでも長く一緒に居たかったから。
――魔王を倒した功績で青年は聖騎士の称号を得て、代々王様に仕えることになりました。
童話の内容は、典型的な反魔物の物語。
吟遊詩人に語られていたものを、教会が本にまとめたものらしい。
アレクはこの童話を話すのを妙に渋っていたのは、魔物である私のことを慮っての事、だったのかもしれない。
しかし、そんなことは、大して気にならなかった。
気になったのは、別の事。
――こうして、王様の国に平和が訪れたのでした。めでたしめでたし。
本当に?
メディは、なぜかそう思った。
最後に、平和になって終わるのは、別に不思議ではない。
これまで聞かせて貰ったすべての童話は、全てその終わり方だった。
問題なのは、次の一節。
――そしてついに、騎士は魔王を打ち倒し、攫われていた姫君を救出することができました。
なぜかその一節に、メディは違和感を覚えた。
騎士が、魔王を、倒した。姫様が、騎士に、救われた。
――本当に?
ずきり、と頭が痛む。何かが思い出せそうで、思い出せない。
今日は、早くアレクのところに帰りたい。
そして頭を撫でて貰えば、この痛みも無くなるような気がした。
モヤモヤとした何かを感じながらも、メディは黙々と果実を摘む作業に勤しんでいた。
――その時、
「…ん?」
何かが、聞こえた。
というよりも、何かが近づいてくる音が聞こえた。
「――ニャあッ!」
傍らの草むらから、それは勢い良く飛び出してきた。
ばさり、と茶色い布が大きく揺れる。それは、最近アレクによって新調された、新しい外套。
見覚えのある一対の緑色の眼が、何やら切羽詰った様子でこちらを睨みつけていた。
ワーキャットの、ルイス。アレクの、『騎士』。
「…何か、用?」
不満げな声になってしまうのは、おそらく私がこの猫の事をあまり好きではないから。
アレクにとっての一番は、私。それはアレクに、断言して貰った。
それでも、相変わらずお互いライバル意識を持ったままになってしまっている。
いつもは、会う度に睨み合いが始まる。しかし今日は、何やら様子が変だった。
「にゃあ、にゃあッ!」
今日の猫は、そんなことはどうでもいいから早く来い、と言っているかのよう。
私は一体何事かと目を細め――そして、すぐに気づいた。
「――アレ、ク?」
猫がやってきたのは、小屋の方角。アレクに――何かが、あった?
その結論に達した瞬間、メディは脇目もふらず駆け出した。
猫の頭に触れれば、もっと詳しい意思疎通ができたかもしれない。
しかし、その時間すら惜しかった。
メディはうまく走ることができない自らの身体に苛立ちながらも、可能な限り早く元の道を駆け戻る。
急かすように並走する猫の鳴き声を聞きながら疾走を続け、やっとのことで小屋まで辿り着いた。一度猫が入った後だったからか、扉は開いたまま。
「――あ」
扉を通り抜けたその瞬間、メディは愕然とした。
黄昏に染まる部屋の中は、むせ返る程のお酒の匂いに包まれていた。
瓶の欠片が辺りに散乱しており、零れた果実酒が床を湿らせている。
そして、
「アレク!」
アレクは、そこにいた。
テーブルの下の床で、うずくまるようにして、倒れていた。
右手に羽根ペンを握りしめたまま、苦しげに、震えていた。
「ぁ…あ…っ!」
頭が真っ白になりながらも、メディはアレクに駆け寄る。
息はしている。でも、意識は――ない。目を固く瞑り、浅い呼吸を繰り返している。
誰かに、襲われた? でも、それにしては荒らされた跡が、少ない。
小屋はお酒の匂いに包まれている。
しかし、瓶の欠片が散らばっているのは、テーブル付近だけ。
「あ…」
咄嗟に抱き上げた、アレクの顔。
そこに、奇妙なものがあった。首より上、頬の後ろのほう。
濃い紫色の、斑点のような、もの。
「アレ、ク」
それが何かは、わからなかった。
しかし、本能的に、メディは感じた。
これは――とても不吉なモノ、であると。
11/06/26 22:04更新 / SMan
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