魅月尾の『仕事』
季節は冬、になろうとする11月下旬。青々と茂っていた木の葉たちはすでに赤く色づき、はらはらと幹の足下へと身を重ねていた。
この季節、鬼灯色の屋根はよく映えた。青い空と紅葉、そしてその屋根の色がより秋らしさを感じさせた。そして日の沈み掛ける頃には一体が他にも増して赤く染まるのだ。
その家の東側の壁の一番北の窓を覗けば、そこには派手でもないが決して地味では無い白を基調とした着物を着た黒髪の女性が木の椅子に座って本を読んでいた。
吹き込んだ緩い風が、彼女の長い髪をそよそよと靡かせた。穏やかな表情で黙読しているのは
『魔力学書 〜高等結界、高等探知編〜 魔物向け
ハルサード=テラー著』
と書かれた一般的な大きさの本だ。これを読んでいると言うことは、上級の結界か、魔力探査術を身につけたいに違いない。
「…地に這わせるように…ねぇ」
彼女はそう呟くと静かに目を閉じて深呼吸し、一瞬周りから音が消えたような感覚が彼女を包んだ。ほんの僅かに床につもった小さな埃や、いつの間にか部屋の中に入り込んでいた落ち葉が風が吹いたようにふわりと浮いた。
そのすぐ後に目を開けた彼女は立ち上がって、本を窓際に置くと部屋の出口へ向かって歩き出した。そして部屋の襖に手を掛けた瞬間から彼女の姿は変化し始めた。
廊下を歩く間に髪の毛は光を反射する金色に輝きを纏い、頭頂部には獣耳、そして腰からは金色の毛の尾が『三本』生えてきた。そして隣の和室の障子を開けた時に変化は終了した。
彼女は部屋の東の障子を開けた。そして鉄柵の向こうの茂みをじっと見た。
すると正面の茂みの中から一人の女性が現れた。といっても普通に現れたのではなく、木の枝を飛び移ってきたかのように地面に着地したのだ。
まぁ実際の所彼女は木の枝を飛び移ってきたわけだが。
「何かご用があるようですね?」
「ええ」
鉄柵の向こうの女性にそう問いかけ、魅月尾はその返答を確認した。魅月尾が左手を前にかざし左にスライドさせるように動かした。
「どうぞ」
すると今までその場で止まっていたその女性は鉄柵を跳び越えて庭に入った。彼女の身体能力は人間のそれを上回り、その茂みからなら一飛びで越えて入ってきそうなものだが、それをしなかったのは決して礼儀だけではなかった。
二人は立ったまま互いを見合っていた。
「私はロアン。噂を聞いてここに」
「でしょうね。私は魅月尾よ」
噂は魔物達の間で広まっていたが、彼女が『仕事』始めたのはここ二ヶ月ほどだった。
「あの結界…誰かに狙われているの?」
「いいえ、念のための用心です」
魅月尾は龍瞳に言われたのもあって、この館の周りに結界を張っていた。それが彼女、ロアンの入ってこなかった、いや、入ってこれなかった理由だった。
たとえまだ尾が三本しかないとは言っても妖狐の魔力は強力であり、進入を拒むには十分だった。
「そう。
…人の匂いがするわ。その尾の内の二本を生やした男性(ひと)の香りかしら?」
「うっふふ…そうですけれど、そんなことを言いに来た訳じゃないでしょう?
それからここでなら『戻って』も大丈夫よ。それともそっちの方が楽かしら?」
魅月尾は顔を一瞬赤らめて笑い、すぐ元に落ち着いてそう言った。三本目の尾が生えたのはここ最近で、二本目が生えるよりも行為の割に周期的には遅かった。
「そうね、ごめんなさい。私はこのままでいいわ。
本題ね。実は私は今町に住んでいるんだけど、知り合い…幼なじみから知らせがあったの」
「その『知らせ』が今回の依頼の事ね?」
「ええ。実は彼女の妹が病気にかかってしまって、少し危ないらしいの。私たちには薬草や治療の知識はそこまで深くはないし、近くにはマンドラゴラ達の様なそう言うことに詳しい魔物も居ないの。
町の医者に見せたいけれど、何せ彼女たちは『野生』だからすんなりそうとも出来なくてね。けどその子もまだ小さいから長引かせられないし」
「だから何とかして欲しいのね?」
「ええ。ここなら何とかしてくれると、そう聞いてきた」
「わかりました、なんとかしてみます」
「ありがとう。見返りは一ヶ月分の食料でどうかしら?」
「十分よ」
「じゃあ、お願い…」
ロアンはそう言うと柵を跳び越え紅葉のなかへ消えた。魅月尾は障子を閉めてその部屋から出ると廊下を西へ進み、着物を仕舞ってある部屋に入った。
そこから再び姿を現した魅月尾は変化して、人の身となっていた。そして先程のような着物ではなく、細身のハーフパンツに緑地の丈の短い着物を着て、太めの黄色い帯を後ろで蝶結びに結んでいた。髪の毛はツインテールに結ってある。
彼女は玄関に向かい、薄緑のミュールを履いて館を出た。彼女が向かったのは龍瞳がいる東の町である。
町に着いた魅月尾はまず酒場を目指した。商店街を抜けてその酒場へ着くと酒場の店主に歩み寄った。
「あの少しお聞きしたいのですが…」
「ん?なんだい?」
「龍瞳様はどちらにおられますか?」
「え?龍のダンナかい?
そうさな、もう少しすればギルドの依頼も終えて戻るだろうが…」
「待たせていただいてよろしいですか?」
「どうぞどうぞ。せっかくだから何か飲むかい?酒以外にも何かとあるが」
「では、おまかせで」
「あいよ」
魅月尾はカウンターの席に座って店主の差し出した飲み物を飲みながら待っていた。
「龍のダンナとはどういう関係で?」
「そうですねぇ…秘密です」
その時龍瞳が酒場に入ってきた。
「あれ?魅月尾」
「あ、龍瞳様」
「どうしたの?こんなとこまで」
龍瞳がそう訊くと、魅月尾はウインクしてその意志を伝えた。
「あぁ…わかった。
マスター、ギルドの報酬は後で」
「ええ、構いませんよ」
「じゃあ」
龍瞳と魅月尾は表に出て互いに聞こえるだけの声で話した。
「で、今回の依頼主は?」
「ワーキャットのロアンという人よ。幼なじみの妹が病にかかって少し危ないみたいで、町の医者に見せたくてもロアン以外は野生で躊躇っているからどうにかして欲しいと」
「そうか。じゃあ、俺は信用できる人を連れて行くから魅月尾は屋敷へその子を連れてきておいて」
「はい」
龍瞳と魅月尾はそこで別れて魅月尾は町の外に出た。そして数十メートル歩いて道の脇の森へ入ると、そこで目を閉じて深呼吸をした。
辺りの落ち葉が一瞬不自然に数センチ浮き、魅月尾は少しの間そのまま動かなかった。
やがて目を開けた魅月尾は北西の方を向いて変化を解き始めた。元の姿に戻った彼女は木の枝に飛び乗って、一呼吸置いてからその先の木の枝に次々と飛び移って行った。
日頃魅月尾の身体能力の高さを垣間見る機会はそうない。しかしその身体能力は人間を凌ぎ、ミュールという不安定な履き物であっても木の枝を飛び移って移動するには支障とはならなかった。
(この匂い、彼女のね…あと…)
彼女はロアンの匂いを嗅ぎ付けて、その方角で間違いなかったと裏付けした。それから一分もしない間に遠くにロアンらしき影を肉眼で見つけた。
魅月尾は地上に降りると、落ち着いた様子でロアンに向かって歩き始めた。近づくに連れ、彼女の他にもう一人ワーキャットが居るのは匂いで判断は付いていたが、しっかりと目で確認した。
もう一人のワーキャットは特に変化する様子もなく、灰色と黒の縞のある四肢や耳、髪の毛、尾が周りの紅葉の中で浮いていた。
「ロアン、コハルは…助かるのか?」
「分からないけど、噂の妖狐に頼んでみたから大丈夫だと思う」
「だけど―」
「大丈夫よ、二人とも」
魅月尾は二人の話を遮ってそう言った。
「あっ」
「ロアンさん、そちらの方があなたの幼なじみね?」
「ええ、ミハルよ」
「あんたが噂の?
ねぇ、コハルは…妹は…」
「大丈夫よ、安心して。
だから、あなたの妹を私の館へ連れていきたの。いいかしら?」
ミハルは少し俯いて考えてから、真っ直ぐ魅月尾は見つめた。
「分かった。こっち」
ミハルは木の枝に飛び乗って、そのまま木の枝を渡って移動し始めた。二人もその後に続いて行った。
一時間ほどして川を越えた森の中にいた。三人は更に森の奥へと進み、ミハル達が住処にしている辺りに着いた。
秋だというのに、辺りには緑があった。なぜなら、倒れた倒木に苔が付いていたり、針葉樹やそのほかにも年中緑の葉を付ける木や草があったからである。もちろん紅葉した落ち葉やまだ落ちていない葉もあった。
そこには他にも数名のワーキャット達が居て、その中の二人の間に毛布にくるまれた10、11才くらいのワーキャットが寝かされていた。ミハルと同じ毛の色で、姉とは違い髪の毛はウェーブがかかっていた。
「彼女ね?」
「妹のコハルだ。もう二日寝たきりのままで…」
そのとき、眠っていたコハルが眼を覚ました。
「ぅ…ん、おねーちゃん…?」
「コハル、気分はどう?」
「ちょっと…しんどい…」
「そう」
「コハルちゃんね?はじめまして」
「うん…はじめまして」
「今からコハルちゃんには私の館に来てもらいたいの。あなたの病気を治すために」
「おねーちゃん、お医者さん?」
「いいえ、ちがうわ。だけどちゃんと治してくれる人が来るわ」
「うん」
魅月尾はコハルを優しく抱き抱えた。
「じゃ、行きましょ」
魅月尾達が館に着いてから半時間が経った。コハルを二階の一室に寝かせ、様子を伺いながら三人は近くに座っていた。
魅月尾の耳がピクリと動いた。
「ふふ、来たわね」
魅月尾がそう言ってから、玄関がガラッと開いて人が入ってくる気配があった。やがて足音は階段を上がってその部屋までやってきた。
「ごめん、少し遅くなったか?」
「いいえ、龍瞳様。
そちらの方が?」
「初めましてみなさん。僕は鹿臥槌(かがつち)、町で医者をしています。
…この子が龍瞳さんの行っていた子だね?」
部屋に入ってきたのは龍瞳ともう一人、ショートヘアで山吹色の服を着た男性だった。
「ええ。コハル、私の妹です」
「そう、分かった。僕に任せて」
「…あの」
「ん、なに?」
鹿臥槌が白衣を着ながら聞き返した。
「魔物、恐くないんですか?」
「ははは、そんなことか…」
ワーキャット二人の心配は全くの杞憂だった。
「僕は、ジパング生まれだからね。身近に魔物達がいたんだ、医者じゃなくても、ジパングじゃ体外の仕事に魔物と関わることがあるんだ。恐くなんか無いよ」
明るい返事にロアンとミハルは顔を緩めた。鹿臥槌はその間に白衣に着替え終わり、コハルに被せられた布団を除けると彼女の身体を注意深く見渡した。
「………」
彼は無言のまま顎を親指と人差し指の横で挟むようにして数秒考えた。
「コハルちゃん、起きて」
「…ん……あなたは?人間?」
コハルは初めて間近で見る人間の男性に目を丸くした。
「ああ、そうだよ。それに僕は『医者』なんだ、君の病気を治せるかもしれない」
「ほんとぉ?」
「ああ。だから、ちょっと辛いかもしれないけど君の身体を調べさせてくれないか?」
「どんなことするの?」
「まあ色々…かな。じゃあ両腕を見せて」
コハルは言われるがままに両腕を鹿臥槌に差し出した。鹿臥槌はその腕をマジマジと見つめ、次に自分の掌の上にコハルの掌を置くように指示した。
「………。
わかった。三人とも、悪いけど今からコハルちゃんの全身をくまなく調べて虫さされから何らかの異変まで全部報告してほしい。僕たちは外に出てるから」
鹿臥槌は魅月尾達にそう言い残すと龍瞳と共に部屋を出ていった。
「それじゃあ、調べましょうか」
「うん」
魅月尾はコハルの服を脱がせると、まず真正面から上から下まで眺めてみた。胸辺りにはミハルと同じ色の体毛がサラシの様に生えている。だが下の毛はまだ生えておらず綺麗の一言に尽きた。
三人は本当に見逃すところ無く彼女の身体を調べ、服を着せると二人を呼び込んだ。
「どうだった?」
「お腹の左に虫さされ、背中の中央よりも下よりに痣」
「私たちが見つけられたのはそのくらいだけど…」
それを聞いて鹿臥槌は何度か頷いて笑みを浮かべた。
「どういう病気か分かったよ、対処法も知ってる」
「ホントか?!」
「ああ。多分『急性魔力放出不全』だ。
原因は背中の痣だね。その痣のあるところにツボがあって何かの時にぶつけて魔力の放出が阻害されているんだ。
魔力は体外にそれなりの量を放出しないと色々と支障が出る。15才以上なら自然に放出が再開するけど、それ以下の子は再開しないこともあるんだ」
「対処法は?」
「そうだね…魔法陣と魔法で魔力の放出を再開させるのが、今回の事例だと一番手っ取り早いよ。
コハルちゃんそこに寝てくれる?それで服を捲ってお腹を見せて」
「うん」
コハルは服を上げて腹を見せると、鹿臥槌は鞄の中から筆と墨を取りだして筆に墨を付けるとコハルの腹に魔法陣を書き出した。
「くふっ…んっふふ…ふははっ…」
コハルはそのくすぐったさに笑い始めたが、一分もしない間に陣を書き終わるとその上に手をかざした。
「閉ざされた蓋、妨げるモノ、龍脈よ 経絡の封を解け…」
鹿臥槌はそう唱えると掌でコハルの腹を少し強めに押した。特に変わった変化は見受けることは出来なかったが、効果は確かに出ていた。
「………。
…よし、魔力が少しずつ出始めたね。治療終了」
「コハル、気分はどう?」
ミハルが訊いた。
「…なんだか、楽になってきた。
ありがと」
「どういたしまして。けど、あんまり放置しておくと危なかったんだ。魔力が出ないって言うのは力の流れが止まることだからね。
あと一日も経っていたら、後遺症が残るくらいにはなってたかも」
「…よかった…」
ロアンとミハルは胸をなで下ろした。
翌日の朝。龍瞳と魅月尾は園側に座って軽い酒を飲んでいた。少し冷たい外気だが、そこに射す日の光が心地良い。
「この二ヶ月で10回か…週一の感覚だな」
「ええ。実際、困っていても手を打つことが出来ないような魔物達は多いから…
そう言えば、聞きそびれていたけどあの鹿臥槌という人とはどんな関係なの?」
「ん?あいつか。あいつとはこの仕事を始める前からちょっとした仲でな、僕が怪我をした時にはあいつに見て貰ったりもしてたんだ。
あいつの顔は表にも裏にも多少利くみたいで、その筋の輩も診てもらいにきたりはしてる」
「じゃあトラブルとかはないの?」
「ん、あぁ…なんつーか、あんまりもめると『魔法でケチョンケチョンにしますヨ』って言って半分脅したりはしてるな………
あいつが身体を治療する魔術が使えるって事は、逆の作用も知ってるてことになるからな…」
「あぁら、思ったより恐いのねぇ」
「ま、そのお陰で俺もその道の奴と顔見知りにもなって、情報を貰ったりもしたりしてるからな…
それにしても、魅月尾も今までの半分の仕事は、魅月尾一人でこなしてるからな。流石妖狐ってところか…」
「だって魔物だもん♪
下手な冒険家より魔術の腕も身体能力も上よ」
「ははっ…そうだな」
「ねえぇ〜、それよりさ…昨日はみんなが居て出来なかったから、ね?」
「ん?っふふ…」
龍瞳は少し笑って盃の酒を飲み干し、魅月尾と一緒に部屋の中へ姿を消した。
魔物達の間で近頃評判になり出した『妖狐・魅月尾の魔物対象ギルド』には多くの魔物達が依頼にやってくる。
お悩みの魔物の方は、一度伺ってみては?
この季節、鬼灯色の屋根はよく映えた。青い空と紅葉、そしてその屋根の色がより秋らしさを感じさせた。そして日の沈み掛ける頃には一体が他にも増して赤く染まるのだ。
その家の東側の壁の一番北の窓を覗けば、そこには派手でもないが決して地味では無い白を基調とした着物を着た黒髪の女性が木の椅子に座って本を読んでいた。
吹き込んだ緩い風が、彼女の長い髪をそよそよと靡かせた。穏やかな表情で黙読しているのは
『魔力学書 〜高等結界、高等探知編〜 魔物向け
ハルサード=テラー著』
と書かれた一般的な大きさの本だ。これを読んでいると言うことは、上級の結界か、魔力探査術を身につけたいに違いない。
「…地に這わせるように…ねぇ」
彼女はそう呟くと静かに目を閉じて深呼吸し、一瞬周りから音が消えたような感覚が彼女を包んだ。ほんの僅かに床につもった小さな埃や、いつの間にか部屋の中に入り込んでいた落ち葉が風が吹いたようにふわりと浮いた。
そのすぐ後に目を開けた彼女は立ち上がって、本を窓際に置くと部屋の出口へ向かって歩き出した。そして部屋の襖に手を掛けた瞬間から彼女の姿は変化し始めた。
廊下を歩く間に髪の毛は光を反射する金色に輝きを纏い、頭頂部には獣耳、そして腰からは金色の毛の尾が『三本』生えてきた。そして隣の和室の障子を開けた時に変化は終了した。
彼女は部屋の東の障子を開けた。そして鉄柵の向こうの茂みをじっと見た。
すると正面の茂みの中から一人の女性が現れた。といっても普通に現れたのではなく、木の枝を飛び移ってきたかのように地面に着地したのだ。
まぁ実際の所彼女は木の枝を飛び移ってきたわけだが。
「何かご用があるようですね?」
「ええ」
鉄柵の向こうの女性にそう問いかけ、魅月尾はその返答を確認した。魅月尾が左手を前にかざし左にスライドさせるように動かした。
「どうぞ」
すると今までその場で止まっていたその女性は鉄柵を跳び越えて庭に入った。彼女の身体能力は人間のそれを上回り、その茂みからなら一飛びで越えて入ってきそうなものだが、それをしなかったのは決して礼儀だけではなかった。
二人は立ったまま互いを見合っていた。
「私はロアン。噂を聞いてここに」
「でしょうね。私は魅月尾よ」
噂は魔物達の間で広まっていたが、彼女が『仕事』始めたのはここ二ヶ月ほどだった。
「あの結界…誰かに狙われているの?」
「いいえ、念のための用心です」
魅月尾は龍瞳に言われたのもあって、この館の周りに結界を張っていた。それが彼女、ロアンの入ってこなかった、いや、入ってこれなかった理由だった。
たとえまだ尾が三本しかないとは言っても妖狐の魔力は強力であり、進入を拒むには十分だった。
「そう。
…人の匂いがするわ。その尾の内の二本を生やした男性(ひと)の香りかしら?」
「うっふふ…そうですけれど、そんなことを言いに来た訳じゃないでしょう?
それからここでなら『戻って』も大丈夫よ。それともそっちの方が楽かしら?」
魅月尾は顔を一瞬赤らめて笑い、すぐ元に落ち着いてそう言った。三本目の尾が生えたのはここ最近で、二本目が生えるよりも行為の割に周期的には遅かった。
「そうね、ごめんなさい。私はこのままでいいわ。
本題ね。実は私は今町に住んでいるんだけど、知り合い…幼なじみから知らせがあったの」
「その『知らせ』が今回の依頼の事ね?」
「ええ。実は彼女の妹が病気にかかってしまって、少し危ないらしいの。私たちには薬草や治療の知識はそこまで深くはないし、近くにはマンドラゴラ達の様なそう言うことに詳しい魔物も居ないの。
町の医者に見せたいけれど、何せ彼女たちは『野生』だからすんなりそうとも出来なくてね。けどその子もまだ小さいから長引かせられないし」
「だから何とかして欲しいのね?」
「ええ。ここなら何とかしてくれると、そう聞いてきた」
「わかりました、なんとかしてみます」
「ありがとう。見返りは一ヶ月分の食料でどうかしら?」
「十分よ」
「じゃあ、お願い…」
ロアンはそう言うと柵を跳び越え紅葉のなかへ消えた。魅月尾は障子を閉めてその部屋から出ると廊下を西へ進み、着物を仕舞ってある部屋に入った。
そこから再び姿を現した魅月尾は変化して、人の身となっていた。そして先程のような着物ではなく、細身のハーフパンツに緑地の丈の短い着物を着て、太めの黄色い帯を後ろで蝶結びに結んでいた。髪の毛はツインテールに結ってある。
彼女は玄関に向かい、薄緑のミュールを履いて館を出た。彼女が向かったのは龍瞳がいる東の町である。
町に着いた魅月尾はまず酒場を目指した。商店街を抜けてその酒場へ着くと酒場の店主に歩み寄った。
「あの少しお聞きしたいのですが…」
「ん?なんだい?」
「龍瞳様はどちらにおられますか?」
「え?龍のダンナかい?
そうさな、もう少しすればギルドの依頼も終えて戻るだろうが…」
「待たせていただいてよろしいですか?」
「どうぞどうぞ。せっかくだから何か飲むかい?酒以外にも何かとあるが」
「では、おまかせで」
「あいよ」
魅月尾はカウンターの席に座って店主の差し出した飲み物を飲みながら待っていた。
「龍のダンナとはどういう関係で?」
「そうですねぇ…秘密です」
その時龍瞳が酒場に入ってきた。
「あれ?魅月尾」
「あ、龍瞳様」
「どうしたの?こんなとこまで」
龍瞳がそう訊くと、魅月尾はウインクしてその意志を伝えた。
「あぁ…わかった。
マスター、ギルドの報酬は後で」
「ええ、構いませんよ」
「じゃあ」
龍瞳と魅月尾は表に出て互いに聞こえるだけの声で話した。
「で、今回の依頼主は?」
「ワーキャットのロアンという人よ。幼なじみの妹が病にかかって少し危ないみたいで、町の医者に見せたくてもロアン以外は野生で躊躇っているからどうにかして欲しいと」
「そうか。じゃあ、俺は信用できる人を連れて行くから魅月尾は屋敷へその子を連れてきておいて」
「はい」
龍瞳と魅月尾はそこで別れて魅月尾は町の外に出た。そして数十メートル歩いて道の脇の森へ入ると、そこで目を閉じて深呼吸をした。
辺りの落ち葉が一瞬不自然に数センチ浮き、魅月尾は少しの間そのまま動かなかった。
やがて目を開けた魅月尾は北西の方を向いて変化を解き始めた。元の姿に戻った彼女は木の枝に飛び乗って、一呼吸置いてからその先の木の枝に次々と飛び移って行った。
日頃魅月尾の身体能力の高さを垣間見る機会はそうない。しかしその身体能力は人間を凌ぎ、ミュールという不安定な履き物であっても木の枝を飛び移って移動するには支障とはならなかった。
(この匂い、彼女のね…あと…)
彼女はロアンの匂いを嗅ぎ付けて、その方角で間違いなかったと裏付けした。それから一分もしない間に遠くにロアンらしき影を肉眼で見つけた。
魅月尾は地上に降りると、落ち着いた様子でロアンに向かって歩き始めた。近づくに連れ、彼女の他にもう一人ワーキャットが居るのは匂いで判断は付いていたが、しっかりと目で確認した。
もう一人のワーキャットは特に変化する様子もなく、灰色と黒の縞のある四肢や耳、髪の毛、尾が周りの紅葉の中で浮いていた。
「ロアン、コハルは…助かるのか?」
「分からないけど、噂の妖狐に頼んでみたから大丈夫だと思う」
「だけど―」
「大丈夫よ、二人とも」
魅月尾は二人の話を遮ってそう言った。
「あっ」
「ロアンさん、そちらの方があなたの幼なじみね?」
「ええ、ミハルよ」
「あんたが噂の?
ねぇ、コハルは…妹は…」
「大丈夫よ、安心して。
だから、あなたの妹を私の館へ連れていきたの。いいかしら?」
ミハルは少し俯いて考えてから、真っ直ぐ魅月尾は見つめた。
「分かった。こっち」
ミハルは木の枝に飛び乗って、そのまま木の枝を渡って移動し始めた。二人もその後に続いて行った。
一時間ほどして川を越えた森の中にいた。三人は更に森の奥へと進み、ミハル達が住処にしている辺りに着いた。
秋だというのに、辺りには緑があった。なぜなら、倒れた倒木に苔が付いていたり、針葉樹やそのほかにも年中緑の葉を付ける木や草があったからである。もちろん紅葉した落ち葉やまだ落ちていない葉もあった。
そこには他にも数名のワーキャット達が居て、その中の二人の間に毛布にくるまれた10、11才くらいのワーキャットが寝かされていた。ミハルと同じ毛の色で、姉とは違い髪の毛はウェーブがかかっていた。
「彼女ね?」
「妹のコハルだ。もう二日寝たきりのままで…」
そのとき、眠っていたコハルが眼を覚ました。
「ぅ…ん、おねーちゃん…?」
「コハル、気分はどう?」
「ちょっと…しんどい…」
「そう」
「コハルちゃんね?はじめまして」
「うん…はじめまして」
「今からコハルちゃんには私の館に来てもらいたいの。あなたの病気を治すために」
「おねーちゃん、お医者さん?」
「いいえ、ちがうわ。だけどちゃんと治してくれる人が来るわ」
「うん」
魅月尾はコハルを優しく抱き抱えた。
「じゃ、行きましょ」
魅月尾達が館に着いてから半時間が経った。コハルを二階の一室に寝かせ、様子を伺いながら三人は近くに座っていた。
魅月尾の耳がピクリと動いた。
「ふふ、来たわね」
魅月尾がそう言ってから、玄関がガラッと開いて人が入ってくる気配があった。やがて足音は階段を上がってその部屋までやってきた。
「ごめん、少し遅くなったか?」
「いいえ、龍瞳様。
そちらの方が?」
「初めましてみなさん。僕は鹿臥槌(かがつち)、町で医者をしています。
…この子が龍瞳さんの行っていた子だね?」
部屋に入ってきたのは龍瞳ともう一人、ショートヘアで山吹色の服を着た男性だった。
「ええ。コハル、私の妹です」
「そう、分かった。僕に任せて」
「…あの」
「ん、なに?」
鹿臥槌が白衣を着ながら聞き返した。
「魔物、恐くないんですか?」
「ははは、そんなことか…」
ワーキャット二人の心配は全くの杞憂だった。
「僕は、ジパング生まれだからね。身近に魔物達がいたんだ、医者じゃなくても、ジパングじゃ体外の仕事に魔物と関わることがあるんだ。恐くなんか無いよ」
明るい返事にロアンとミハルは顔を緩めた。鹿臥槌はその間に白衣に着替え終わり、コハルに被せられた布団を除けると彼女の身体を注意深く見渡した。
「………」
彼は無言のまま顎を親指と人差し指の横で挟むようにして数秒考えた。
「コハルちゃん、起きて」
「…ん……あなたは?人間?」
コハルは初めて間近で見る人間の男性に目を丸くした。
「ああ、そうだよ。それに僕は『医者』なんだ、君の病気を治せるかもしれない」
「ほんとぉ?」
「ああ。だから、ちょっと辛いかもしれないけど君の身体を調べさせてくれないか?」
「どんなことするの?」
「まあ色々…かな。じゃあ両腕を見せて」
コハルは言われるがままに両腕を鹿臥槌に差し出した。鹿臥槌はその腕をマジマジと見つめ、次に自分の掌の上にコハルの掌を置くように指示した。
「………。
わかった。三人とも、悪いけど今からコハルちゃんの全身をくまなく調べて虫さされから何らかの異変まで全部報告してほしい。僕たちは外に出てるから」
鹿臥槌は魅月尾達にそう言い残すと龍瞳と共に部屋を出ていった。
「それじゃあ、調べましょうか」
「うん」
魅月尾はコハルの服を脱がせると、まず真正面から上から下まで眺めてみた。胸辺りにはミハルと同じ色の体毛がサラシの様に生えている。だが下の毛はまだ生えておらず綺麗の一言に尽きた。
三人は本当に見逃すところ無く彼女の身体を調べ、服を着せると二人を呼び込んだ。
「どうだった?」
「お腹の左に虫さされ、背中の中央よりも下よりに痣」
「私たちが見つけられたのはそのくらいだけど…」
それを聞いて鹿臥槌は何度か頷いて笑みを浮かべた。
「どういう病気か分かったよ、対処法も知ってる」
「ホントか?!」
「ああ。多分『急性魔力放出不全』だ。
原因は背中の痣だね。その痣のあるところにツボがあって何かの時にぶつけて魔力の放出が阻害されているんだ。
魔力は体外にそれなりの量を放出しないと色々と支障が出る。15才以上なら自然に放出が再開するけど、それ以下の子は再開しないこともあるんだ」
「対処法は?」
「そうだね…魔法陣と魔法で魔力の放出を再開させるのが、今回の事例だと一番手っ取り早いよ。
コハルちゃんそこに寝てくれる?それで服を捲ってお腹を見せて」
「うん」
コハルは服を上げて腹を見せると、鹿臥槌は鞄の中から筆と墨を取りだして筆に墨を付けるとコハルの腹に魔法陣を書き出した。
「くふっ…んっふふ…ふははっ…」
コハルはそのくすぐったさに笑い始めたが、一分もしない間に陣を書き終わるとその上に手をかざした。
「閉ざされた蓋、妨げるモノ、龍脈よ 経絡の封を解け…」
鹿臥槌はそう唱えると掌でコハルの腹を少し強めに押した。特に変わった変化は見受けることは出来なかったが、効果は確かに出ていた。
「………。
…よし、魔力が少しずつ出始めたね。治療終了」
「コハル、気分はどう?」
ミハルが訊いた。
「…なんだか、楽になってきた。
ありがと」
「どういたしまして。けど、あんまり放置しておくと危なかったんだ。魔力が出ないって言うのは力の流れが止まることだからね。
あと一日も経っていたら、後遺症が残るくらいにはなってたかも」
「…よかった…」
ロアンとミハルは胸をなで下ろした。
翌日の朝。龍瞳と魅月尾は園側に座って軽い酒を飲んでいた。少し冷たい外気だが、そこに射す日の光が心地良い。
「この二ヶ月で10回か…週一の感覚だな」
「ええ。実際、困っていても手を打つことが出来ないような魔物達は多いから…
そう言えば、聞きそびれていたけどあの鹿臥槌という人とはどんな関係なの?」
「ん?あいつか。あいつとはこの仕事を始める前からちょっとした仲でな、僕が怪我をした時にはあいつに見て貰ったりもしてたんだ。
あいつの顔は表にも裏にも多少利くみたいで、その筋の輩も診てもらいにきたりはしてる」
「じゃあトラブルとかはないの?」
「ん、あぁ…なんつーか、あんまりもめると『魔法でケチョンケチョンにしますヨ』って言って半分脅したりはしてるな………
あいつが身体を治療する魔術が使えるって事は、逆の作用も知ってるてことになるからな…」
「あぁら、思ったより恐いのねぇ」
「ま、そのお陰で俺もその道の奴と顔見知りにもなって、情報を貰ったりもしたりしてるからな…
それにしても、魅月尾も今までの半分の仕事は、魅月尾一人でこなしてるからな。流石妖狐ってところか…」
「だって魔物だもん♪
下手な冒険家より魔術の腕も身体能力も上よ」
「ははっ…そうだな」
「ねえぇ〜、それよりさ…昨日はみんなが居て出来なかったから、ね?」
「ん?っふふ…」
龍瞳は少し笑って盃の酒を飲み干し、魅月尾と一緒に部屋の中へ姿を消した。
魔物達の間で近頃評判になり出した『妖狐・魅月尾の魔物対象ギルド』には多くの魔物達が依頼にやってくる。
お悩みの魔物の方は、一度伺ってみては?
10/06/15 23:26更新 / アバロンU世
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