1-1 アーキ山の隠れ塔
ノースビレッジを発ってから、早くも一月にもなろうとしていてこれまで4つの町を過ぎた。
最初の町で、キャスとフィムは黒ミサに参加し、バフォメットと謁見することが叶った。
幸いにもいい返事をもらうことができたらしく、今のところは滞りなく旅を続けられることができていた。
そしてなんとなくだが、戻ってきたキャスとフィムが前よりも密着しているような雰囲気をトーマ達は感じ取っていた。
それから3つの町を過ぎ、今彼らがいるのは木々が多く茂る山の中だ。
アーキ山とよばれるこの山は標高は800メートルをなだらかな傾斜で上って行くので、そう苦労は感じない。だが今向かっている方角に長く連なっていて、登って下るだけとはいかない。
さらに心配なのは雨天だということ。厚い雨雲が覆い、いつ降り出してもおかしくない。今は辛うじて止んでいるものの、夜中の内も降っていたため足元は悪い。
その足元の悪さが案の定災いを為して、予定していたペースより遅れが目立ってきていた。
「今日中に山を抜けられればいいけど…」
空を仰ぎながらミラは零した。
外套を纏っているため、ずぶ濡れになることはないが当然こんな山の中で雨に会うのは好ましいことではない。
足元はもっと悪くなり、場合によっては視界も奪われるため、大変危険な状態に陥りかねないためだ。
「ああ…そろそろ半分くらいか」
「そうだな。ただこのペースだと今日中に山を越えるのは無理だ」
トレアは地図を見ながら答えた。
「フィア、大丈夫か?」
「うん、全然平気」
トーマは後ろのフィアに気を配った。だが、その言葉通り余裕そうだ。
旅が始まってから、パーティーのみんなはフィアに対して気を配って接していた。まだ旅に慣れていないのもそうだが、1カ月の眠りから覚めたばかりであるためにそもそもの体力が減っていたからだ。
トレアもその事には異論はない、むしろ彼女自身もフィアをサポートすることには注力していると言ってもよかった。
ただ、トーマが誰よりもフィアに意識を向けていることが彼女には気に食わなかった。別に悪い事とは言わない、ただ、その様子を見ていると落ち着かないのだ。
「トレア」
ミラが唐突に彼女の名前を呼ぶ。
「なんだ、ミラ」
「顔に出てるわよ♪」
「へ!?」
トレアはバッと顔に手を当てた。
「どうした、トレア」
素っ頓狂な声を挙げたために、トーマとフィアが彼女に注視した。
「い、いや、なんでもない、ほんとにっ」
「…そうか?」
「ちょっとみなさぁん、急がないと夜になっちゃうよぉ?」
「あ、悪い、ノルヴィ…行こう」
先を行くノルヴィとフィムたちにトーマは早足で寄った。ミラとトレアもその後を追う、もちろんフィアも。ただ、彼女はトレアに視線を向けたままだった。
やがてポツリポツリと雨が降り始めた。
「あかん、降ってきおった…」
「急ぎましょう」
トーマ達は外套のフードを被って先を急いだ。
それからもう1分もしない間に雨脚は勢いを増し、10メートル程先も霞んで見えないほどの土砂降りになった。
7人は小走りになって山道を進んだ。
「みんな、足元には注意してっ」
「ああ」
やがて日も落ちてきたため、辺りの様子は一層見づらくなった。
だから気付かなかった、道を外れてしまった事に。
「………」
最初に異変に気付いたのはミラだった。
(なにかしら…この違和感…)
「ミラ、どうかしたのか?」
浮かない顔をしていたミラにトーマが声をかけた。それをきっかけにみんなの足が止まる。
「あ、大したことじゃないんだけど…なんだか違和感があるのよ…」
「違和感?」
「どういうこっちゃ…」
ミラも違和感の正体に気付いていないので、どう説明していいのか分からない。
「…そうね…なんて言えばいいのかしら…」
ミラが言葉を探していると、トレアは雨が落ちてくる空を覗いて言った。
「一まず先に進まないか?雨も強くなってきているし、足元も舗装されていないようだし…」
「…そうだな、とにかくどこか落ち着けそうな場所にでも…」
途端、キャスが「あ…」と声を挙げた。
「どないしたんや?」
「この山の道って、キャラバンが往来するから道って舗装されてるはずじゃなかったの?」
その一言で全員が「あ…」と気付いた。別にアスファルトがあるわけでも石畳になっているわけでもないが、さっきまでの道は今いる場所ほどぬかるみは酷くなかった。
「じゃあ、俺たちは道を外れてきてたってことか?」
「みたいだね」
「どうするの?戻る?」
フィアは後ろを振り向きながら言った。
「今からやと確実に日ぃ暮れるで」
「フィムの言う通りだよ、このまま進んで、今日はどこか雨を凌げそうなところを探そう」
そうして彼らは不安を思いつつも、歩を進めるしかなかった。
日が暮れてしまう少し前だった、それを見つけたのは。
「なんだ、あれ…」
「さぁ…人工の物には間違いないが…」
雨の降りしきる中、彼らは見つけた。
「ミラ、知ってる?」
「いいえ、私も知らないわ…」
そこは、山の中にできた大きな穴、いや、窪みと言った方がいい。直径200メートル以上、深さは優に100メートルはあるであろう、その窪みの中央。
「何ともけったいなもんやなぁ…」
「出来てから時間がかなり経ってるみたい。僕が生まれるよりも前…もしかしたら魔王の代替わり前からかも…」
窪みの淵に立つトーマたちの目線の高さを軽々と越え、それは、その塔はそびえ立っていた。
「…まぁなんにしても…雨宿りはできるよねぇ…」
外壁には蔦が茂り、所々崩れているところも見受けられた。だが崩落などするような兆候もなく、堅牢そのものと言った感じだ。
鉄の扉を開けて中に入ると、エントランスが如く広い空間があり、奥にも空間があった。上層階へ続く階段が左右それぞれの壁沿いに作られている。
「まぁ、雨宿りはできそうだよね、確かに」
「…でもなんか不気味…ちょっと苦手…かな」
フィアはそう言うと無意識にトーマに体をくっつけた。トーマは中を見回し、警戒していた。
「フィアにはしょうがないとこだが、私は戦士だ、いざとなれば剣を持って「あ、あのシミ人の顔みたい」っ―――!」
威勢よく話していたトレアだったが、キャスのふとした横槍の攻撃力は凄まじかったらしく、一瞬でトーマにすり寄りフィアと同じく腕にしがみ付いていた。
「…2人とも…」
トーマは両腕にしがみ付く彼女たちを見ながら苦笑した。
「で、トレア、剣を持ってなんだって?」
「う、うるさい…」
分が悪くなったと思っていると、フィアがこちらを見ているのに気付いた。
「…苦手な物の1つや2つ、誰にだってあるよ…」
「…ああ…全く…全くだ…」
フィアに慰められている自分が情けなく思えたトレアは、若干やけくそ気味に言った。
そんな乙女2人とは対照的に、フィムとノルヴィは臆すことなく空間の中央まで進んでいた。
さらには荷物を下ろすと、その場にシートを敷きランタンを置いて明かりを付け、傍に薪木を積んで足の付いた鍋をその上に置き、水を入れて火を付けた。いわずもがな、さっさと食事をする気満々である。
まぁ2人の手際が良いこと良いこと。無駄な動き一切なく、気が付けば食材の調理まで始まっていた。
「あのさ…2人とも、もうちょっと躊躇うとか何かしないの?」
フィアがその様子にむしろ感心するほど呆れて言った。
「「なんで(や)?」」
ミラは息のぴったりと合った2人の返事がツボにはまったのか、肩を震わせて笑いを堪え、キャスは「何か手伝うことある?」と言ってフィムとイチャつき出した。
そしてトーマ達3人はそれぞれ違う色のため息を吐いて、明かりの元へ向かった。
夕飯を食べ終わり、それぞれ外套を敷いた寝床に横になっていた。
「…にしても、ここは何なんだろう?」
キャスが辺りを見回しながら呟いた。
「そらまぁ誰かしらが何かしらのために作ったもんやろ…」
隣でキャスに腕枕をしているフィムが言う。
「その『誰かしら』と『何かしら』のとこが知りたいんだけど?」
「そないなもん知らんわ」
夫婦漫才か、とミラ以外の4人はキャスとフィムに目を向けた。
ミラは何か引っかかることがあるらしく、先ほどから考えに耽っている。
「あ、もしかして…」
唐突に彼女は呟いた。
「あら、ミラっちなんか思い出した感じ?」
「ええ…確かじゃないけれど、魔王の代替わり前の時代にこの辺りを魔物が占拠したことがあったの。
人間たちは事前にそうなることを懸念して、山の中に避難用の建物を作っていたっていうのを本で読んだことがあるわ」
「つまり、この建物がそうだと?」
「多分そうだと思うわ…私も本で読んだだけだから。………?」
ミラは突然奥の空間に視線を向け凝視した。
「どうしたんだ?」
「いえ…なにか気配が…」
「け…気配…?」
トレアとフィアの表情が強張る。
「…だが…こ、こんな所に誰かがいるとは…」
「そうとは限らない、ここは盗賊が根城にするには恰好の場所にも思えるが?」
「…確かにそうだな」
トレアはトーマの意見で気を取り直したのか、剣の柄に手を掛けて注意しながらジリジリと奥の方へ詰め寄る。
その後を援護するようにトーマとミラも武器に手を掛け近づいて行った。
トレアが奥の空間への入り口に着き、そっと中を覗きこんだ。その時。
目の前に血色の悪い女の顔。
「っ…!?うわぁぁぁッ―!!!!!」
トレアはあまりの驚きに一瞬固まり、大慌てで後ろに下がろうとして足が絡まり尻餅をついた。
「っ!」
「これは…!」
トレアは慌てて起き上がり、瞬時にトーマ達の辺りまで下がった。
奥の闇からゆっくりとした足取りで出てきたのは、ゾンビの群れ。1人や2人ではない、続々と20近いゾンビたちが姿を現した。
「あらあら…やっかいね…」
3人は一歩後ろに下がる。
そして何よりその光景に混乱したのはフィアだというのは間違いない。
「え、えっ…な、なんなのよ!?」
「ぁちゃ〜…ゾンビさんたちの大群じゃな〜い…」
「へ…ぞ…ゾンビ…って…」
当然フィアの中にあるのは元の世界におけるゾンビのイメージだ。彼女はガクガクと立ち上がり、壁伝いに遠ざかる。
「フィア、大丈夫よ、別に食べられたりしないわ。性的な意味とは別としてね…」
「ゾンビたちは他の魔物と同じで、人間の男を襲って精を摂取するんだけど…たまに間違えて人間の女や魔物娘にも襲い掛かるんだよ…」
「…そ…それでどうなるの…?」
「男だったらヤりまくりで済むけど…女だったらゾンビになっちゃう」
「…そんなっ…」
フィアの顔が青ざめる。彼女からすれば冗談ではない、元の世界と過程が違うだけで結果はほぼ同じだ。
そうしている間にも彼女たちは歩み寄ってきている。トーマ達も徐々に下がり、7人は固まって後退していた。
そしてフィアにはもちろん、全員にさらに悪い情報が入る。
「…それになぁ、こいつら精が枯渇しとって思考能力がほぼない…こういうのがいっちゃん危ないんや…」
「うそ…」
フィアはもう驚愕も恐怖も通り越して苦笑いを浮かべてしまった。
トーマは後ろ腰の剣から手を離し、両サイドにある階段を交互に見やった。
「それで…?この子たちに出会ったらどうするものなんだ…?」
「おっさんたちに訊かなくても分かるでしょ? 逃げるが定石ッ―!!」
「だよなッ―!」
彼らはまず二手に分かれて階段で上に逃れようとした。
後ろには出口があったが真っ先に排除された選択肢だ。なぜなら閉じてしまっている扉は鉄製で、入る時にも開けるのに重くて時間がかかった。そんなことをしていては彼女たちに襲い掛かられてしまう。
左の階段にはミラ、フィム、キャスが向かい、右の階段にはトーマ、トレア、ノルヴィ、フィアが走った。
ゾンビたちは精が枯渇している所為もあり、通常にもまして動きがとろい。本当なら余裕で逃れられるはずだったのだが、そうもいかなかった。
「おっと…!」
トーマが階段を登りかけて急に止まった。
「なんだっ!?」
「…こっちからもお出でなすったって?」
階段の上からまた新たにゾンビたちが群れで押し寄せている。
「4人とも、こっちよっ!」
トーマ達は壁伝いに走って反対側の階段までたどり着いて、先を行くミラたちを追った。
階段を駆け上がって行く彼らだったが、階段の横の通路からまたゾンビたちは現れ、どんどんと増えて行った。
そしてある所でフィアをフォローしながら最後尾を行くトレアとフィアの間に、横通路からゾンビが顔を出した。
「っ!」
「トレアっ!」
トレアは6人から分断されてしまった。
「私は平気だ、行ってくれ!」
「…分かったわ、無事でね!」
「ああ!」
トレアはその階の通路を奥へと進んでいった。
そしてその次の階に着きさらに上へ行こうとすると、また上からゾンビたち。しかたなくその階の通路を進むと、通路は枝分かれを繰り返していた。
部屋の中からもゾンビたちが現れ、それを避けて逃げているうちにトーマ・フィアとノルヴィ・ミラ・キャス・フィムの二手に分かれてしまう。
さらにノルヴィたちも途中ではぐれてしまい、7人はバラバラになってしまったのだった。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
塔5階、南側通路―
トレアはトーマ達と別れた後、物陰に潜み何とかゾンビたちを撒くことに成功した。
今さらながら、トレアたち魔物はゾンビに万が一襲われてもゾンビ化するというようなことはない。ただし、ゾンビたちは例え女性であろうが誰であろうが、相手から精を得ようとするために延々性的な意味で食べ続ける。
つまりは、彼女たちがやっと『この相手から精は吸い取れない』と気付くまでの長い間、ずっと責め続けられることになるのだ。
さすがに魔物娘といえど、それは勘弁いただきたいことだ。どこかではゾンビ数人に襲われた魔物娘がいて、三日三晩休みなしで責め立てられたという話があるとかないとか。
一まずトレアは、その快楽への欲求が一瞬疼いてしまうような流れは免れたのだが、他の6人を探して真っ暗な通路を進んでいた。
その顔はどこか不安げだが、その理由はいつまた彼女たちに出くわすかもしれない、という心配だけではなかった。
(もおぅ…なんでこんなことになったんだぁ…)
もうここに入ってきたときのリアクションでもお分かり頂ける通り、トレアは何を隠そう『こういう状況』が大の苦手だ。
別にゾンビやアンデッド種の魔物が苦手というわけではない。ただ、もし『魔物でないモノ』が万が一にも出たらと思うと怖くなってくるのだ。その発端は小さいころに聞いたジパングの『怪談』が原因である。
彼女は別の階段を見つけ、その階段を登って行った。なるべく足音を立てないよう、注意深く、慎重に。
上の階へ着くと、曲がり角の陰に身を隠しながらトーマ達を探した。
ある扉の前でトレアは立ち止まった。扉が不自然に開いているので、中に誰かがいるのではないかと様子を窺う。
隙間からだけでは確認できず、仕方なく中へ入ることにした。周りを警戒するがゾンビたちはいない、扉が立てる軋む音に内心ヒヤヒヤしながら最低限の隙間を開け進入した。
部屋の中は暗く、カビと湿気の臭いがした。トレアはランプに火を灯すと、部屋の中を見回す。
誰かが住んでいたような形跡がある。棚やテーブルなどの家具があり、そのどれにも厚く砂埃のような塵が積もっていた。
(…あれ?)
部屋の奥に進むと、トレアは違和感を覚えた。
(ここだけ埃が積もってない…どうして…)
その部屋は寝室のようで、ベッドと小さなデスクが置いてあるだけだったが、どちらにもそれまでのように埃が積もっていなかった。さらにベッドのシーツにはシワ1つなく、明らかに小奇麗だった。
(…いや、今はそれよりもみんなを探さなければ…)
「無事ならいいが…」
トレアはみんなの身を案じてそう呟くと、後ろを振り向き戻ろうとした。
彼女の思考はまた一瞬停止した。
目の前に逆さまの少女の顔があった、やんわりと向こうが透けている気もする。
「こんばんわ、お姉ちゃん」
目の前の彼女はニコッと笑った。
「ひゃあぁぁッ―!!!」
トレアは思わず叫び声をあげて、転げそうになりながら後ろに逃げるとそのまま勢い余ってベッドに倒れ込んだ。
「あっははっ、可愛い声ー♪」
少女はそう言うとくるりと回って上下を戻した。少女の体は青白く、丸いシルエットのショートヘアでワンピースのような服を着ている。ただ一番の特徴として宙に浮いていて足がない。
「あぅ…あぅ…」
トレアはあまりの驚きで言葉を失っている。少女、もといゴーストの彼女はにこやかな顔をしたままトレアに近づいた。文字通り、音もなく。
「『無事ならいいけど』って、あのお兄ちゃんたちのことだよね?」
「な…」
「うっふふ、お姉ちゃんたちがここに来てからずっと見てたんだよ」
ゴーストの少女は薄ら笑みを浮かべた。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
塔9階・西側の一室―
荒くなった息を静かに整えるように、トーマは呼吸音を押し殺していた。
ドアの下の隙間から外の様子を窺うと、安堵した様子で大きく深呼吸をする。
「はぁ〜…」
(トレアや…みんなが無事ならいいが…)
トーマはミラたちと別れた後、フィアを安全そうな部屋に匿い、自ら囮となってゾンビたちから逃走していた。
そして今はドアの鍵が開いていたこの部屋に隠れ、体力を回復している。
(なんとか…ゾンビたちからは逃げ切れた…)
彼は腰のポーチからライトを取り出し、スイッチを入れた。もちろん明かりが外に漏れ出ない向きにはしてある。
トーマはゾンビたちから逃げ切っていた。囮となった後は引き離し過ぎないようにフィアを匿った部屋からゾンビたちを離し、十分に引き付けたところで見事逃げ切った、そこまでは良かった。
(ただ…どうしてこう…やっかいな奴と遭っちまうんだか…)
「はぁ…」
今度は深呼吸ではなく溜め息を吐く。今の状況を悲観しつつ、トーマは耳を澄ませた。
部屋の外から微かに、ヒタヒタと裸足であることを教える足音がゆっくりとだが近づいてきている。トーマは部屋の中を見回した。
「どこ行ったぁ?」
トーマは息を潜め、ライトを消して先ほど見て記憶した部屋の壁の後ろへと隠れる。
入り口から離れても足音が聞こえるほど、奴は接近していた。今度はスンスンと空気が擦れるような音がしたかと思うと、ドアが開き奴が中へと入ってくる。
「あはっ♪」
奴はそう笑ったかと思うと、次の瞬間には行動を起こしていた。
「っ―!」
トーマは気配と微かな視覚情報でそれを感じ取り、その場所から前に飛び込んで躱した。
後ろに木材が破砕されるような音を聞きながら灯りを点けて振り向く。そこには赤黒い体色と銀色の髪をした女が、バラバラになった木の棚の破片の中に立っていた。
「あ、避けたぁ♪」
「…当り前だ、避けなかったら俺がその棚見たくなってただろうな…」
(たくっ…なんつーばか力だよ…?)
トーマは呆れつつ表情を険しくした。
彼女は入り口を入ってすぐの場所から斜め前上方に跳び、壁を蹴って方向を変え、壁の裏に隠れていたトーマに襲い掛かろうとしていたのだ。その身体能力たるは、恐るべきものだ。
(間違いない…こいつはグールだ…)
以前ミラから借りて読んだ魔物娘図鑑を思い出しながら、彼は確信した。
「避けなかったら手加減したって♪」
「説得力が欠片もないな…」
淫靡な笑みを浮かべ指を咥えるグールと、相手から目を離さないようにして後ずさりをするトーマ。
(俺の場所がばれたのは…匂いか、たしか嗅覚が鋭かったな……あとは…あの口でどこか一部でも咥えられたらアウトか…)
ピンチだからこそ頭を冷静にする。軍にいた頃に体に染みついたことだった。
「さっきはあの眩しい奴で逃げられたけど、もう逃がさない♪」
彼女のいう眩しい奴とはスタングレネードのことだ。
出会い頭に襲い掛かられそうになり、逃げながら後ろ向きに放り投げた。そのお蔭で時間は稼いだが、どうやら嗅覚による判断ができる彼女には効果はもうなさそうだ。
(部屋はそれなりに広いが…奥側に向かったのはミスだったな。出口はあそこだけ、しかも真ん前に超級身体能力の相手と来た………さて、どうする…)
「あははっ♪」
得物を見つけた捕食者の笑い声に、トーマは気を引き締め直すのだった。
最初の町で、キャスとフィムは黒ミサに参加し、バフォメットと謁見することが叶った。
幸いにもいい返事をもらうことができたらしく、今のところは滞りなく旅を続けられることができていた。
そしてなんとなくだが、戻ってきたキャスとフィムが前よりも密着しているような雰囲気をトーマ達は感じ取っていた。
それから3つの町を過ぎ、今彼らがいるのは木々が多く茂る山の中だ。
アーキ山とよばれるこの山は標高は800メートルをなだらかな傾斜で上って行くので、そう苦労は感じない。だが今向かっている方角に長く連なっていて、登って下るだけとはいかない。
さらに心配なのは雨天だということ。厚い雨雲が覆い、いつ降り出してもおかしくない。今は辛うじて止んでいるものの、夜中の内も降っていたため足元は悪い。
その足元の悪さが案の定災いを為して、予定していたペースより遅れが目立ってきていた。
「今日中に山を抜けられればいいけど…」
空を仰ぎながらミラは零した。
外套を纏っているため、ずぶ濡れになることはないが当然こんな山の中で雨に会うのは好ましいことではない。
足元はもっと悪くなり、場合によっては視界も奪われるため、大変危険な状態に陥りかねないためだ。
「ああ…そろそろ半分くらいか」
「そうだな。ただこのペースだと今日中に山を越えるのは無理だ」
トレアは地図を見ながら答えた。
「フィア、大丈夫か?」
「うん、全然平気」
トーマは後ろのフィアに気を配った。だが、その言葉通り余裕そうだ。
旅が始まってから、パーティーのみんなはフィアに対して気を配って接していた。まだ旅に慣れていないのもそうだが、1カ月の眠りから覚めたばかりであるためにそもそもの体力が減っていたからだ。
トレアもその事には異論はない、むしろ彼女自身もフィアをサポートすることには注力していると言ってもよかった。
ただ、トーマが誰よりもフィアに意識を向けていることが彼女には気に食わなかった。別に悪い事とは言わない、ただ、その様子を見ていると落ち着かないのだ。
「トレア」
ミラが唐突に彼女の名前を呼ぶ。
「なんだ、ミラ」
「顔に出てるわよ♪」
「へ!?」
トレアはバッと顔に手を当てた。
「どうした、トレア」
素っ頓狂な声を挙げたために、トーマとフィアが彼女に注視した。
「い、いや、なんでもない、ほんとにっ」
「…そうか?」
「ちょっとみなさぁん、急がないと夜になっちゃうよぉ?」
「あ、悪い、ノルヴィ…行こう」
先を行くノルヴィとフィムたちにトーマは早足で寄った。ミラとトレアもその後を追う、もちろんフィアも。ただ、彼女はトレアに視線を向けたままだった。
やがてポツリポツリと雨が降り始めた。
「あかん、降ってきおった…」
「急ぎましょう」
トーマ達は外套のフードを被って先を急いだ。
それからもう1分もしない間に雨脚は勢いを増し、10メートル程先も霞んで見えないほどの土砂降りになった。
7人は小走りになって山道を進んだ。
「みんな、足元には注意してっ」
「ああ」
やがて日も落ちてきたため、辺りの様子は一層見づらくなった。
だから気付かなかった、道を外れてしまった事に。
「………」
最初に異変に気付いたのはミラだった。
(なにかしら…この違和感…)
「ミラ、どうかしたのか?」
浮かない顔をしていたミラにトーマが声をかけた。それをきっかけにみんなの足が止まる。
「あ、大したことじゃないんだけど…なんだか違和感があるのよ…」
「違和感?」
「どういうこっちゃ…」
ミラも違和感の正体に気付いていないので、どう説明していいのか分からない。
「…そうね…なんて言えばいいのかしら…」
ミラが言葉を探していると、トレアは雨が落ちてくる空を覗いて言った。
「一まず先に進まないか?雨も強くなってきているし、足元も舗装されていないようだし…」
「…そうだな、とにかくどこか落ち着けそうな場所にでも…」
途端、キャスが「あ…」と声を挙げた。
「どないしたんや?」
「この山の道って、キャラバンが往来するから道って舗装されてるはずじゃなかったの?」
その一言で全員が「あ…」と気付いた。別にアスファルトがあるわけでも石畳になっているわけでもないが、さっきまでの道は今いる場所ほどぬかるみは酷くなかった。
「じゃあ、俺たちは道を外れてきてたってことか?」
「みたいだね」
「どうするの?戻る?」
フィアは後ろを振り向きながら言った。
「今からやと確実に日ぃ暮れるで」
「フィムの言う通りだよ、このまま進んで、今日はどこか雨を凌げそうなところを探そう」
そうして彼らは不安を思いつつも、歩を進めるしかなかった。
日が暮れてしまう少し前だった、それを見つけたのは。
「なんだ、あれ…」
「さぁ…人工の物には間違いないが…」
雨の降りしきる中、彼らは見つけた。
「ミラ、知ってる?」
「いいえ、私も知らないわ…」
そこは、山の中にできた大きな穴、いや、窪みと言った方がいい。直径200メートル以上、深さは優に100メートルはあるであろう、その窪みの中央。
「何ともけったいなもんやなぁ…」
「出来てから時間がかなり経ってるみたい。僕が生まれるよりも前…もしかしたら魔王の代替わり前からかも…」
窪みの淵に立つトーマたちの目線の高さを軽々と越え、それは、その塔はそびえ立っていた。
「…まぁなんにしても…雨宿りはできるよねぇ…」
外壁には蔦が茂り、所々崩れているところも見受けられた。だが崩落などするような兆候もなく、堅牢そのものと言った感じだ。
鉄の扉を開けて中に入ると、エントランスが如く広い空間があり、奥にも空間があった。上層階へ続く階段が左右それぞれの壁沿いに作られている。
「まぁ、雨宿りはできそうだよね、確かに」
「…でもなんか不気味…ちょっと苦手…かな」
フィアはそう言うと無意識にトーマに体をくっつけた。トーマは中を見回し、警戒していた。
「フィアにはしょうがないとこだが、私は戦士だ、いざとなれば剣を持って「あ、あのシミ人の顔みたい」っ―――!」
威勢よく話していたトレアだったが、キャスのふとした横槍の攻撃力は凄まじかったらしく、一瞬でトーマにすり寄りフィアと同じく腕にしがみ付いていた。
「…2人とも…」
トーマは両腕にしがみ付く彼女たちを見ながら苦笑した。
「で、トレア、剣を持ってなんだって?」
「う、うるさい…」
分が悪くなったと思っていると、フィアがこちらを見ているのに気付いた。
「…苦手な物の1つや2つ、誰にだってあるよ…」
「…ああ…全く…全くだ…」
フィアに慰められている自分が情けなく思えたトレアは、若干やけくそ気味に言った。
そんな乙女2人とは対照的に、フィムとノルヴィは臆すことなく空間の中央まで進んでいた。
さらには荷物を下ろすと、その場にシートを敷きランタンを置いて明かりを付け、傍に薪木を積んで足の付いた鍋をその上に置き、水を入れて火を付けた。いわずもがな、さっさと食事をする気満々である。
まぁ2人の手際が良いこと良いこと。無駄な動き一切なく、気が付けば食材の調理まで始まっていた。
「あのさ…2人とも、もうちょっと躊躇うとか何かしないの?」
フィアがその様子にむしろ感心するほど呆れて言った。
「「なんで(や)?」」
ミラは息のぴったりと合った2人の返事がツボにはまったのか、肩を震わせて笑いを堪え、キャスは「何か手伝うことある?」と言ってフィムとイチャつき出した。
そしてトーマ達3人はそれぞれ違う色のため息を吐いて、明かりの元へ向かった。
夕飯を食べ終わり、それぞれ外套を敷いた寝床に横になっていた。
「…にしても、ここは何なんだろう?」
キャスが辺りを見回しながら呟いた。
「そらまぁ誰かしらが何かしらのために作ったもんやろ…」
隣でキャスに腕枕をしているフィムが言う。
「その『誰かしら』と『何かしら』のとこが知りたいんだけど?」
「そないなもん知らんわ」
夫婦漫才か、とミラ以外の4人はキャスとフィムに目を向けた。
ミラは何か引っかかることがあるらしく、先ほどから考えに耽っている。
「あ、もしかして…」
唐突に彼女は呟いた。
「あら、ミラっちなんか思い出した感じ?」
「ええ…確かじゃないけれど、魔王の代替わり前の時代にこの辺りを魔物が占拠したことがあったの。
人間たちは事前にそうなることを懸念して、山の中に避難用の建物を作っていたっていうのを本で読んだことがあるわ」
「つまり、この建物がそうだと?」
「多分そうだと思うわ…私も本で読んだだけだから。………?」
ミラは突然奥の空間に視線を向け凝視した。
「どうしたんだ?」
「いえ…なにか気配が…」
「け…気配…?」
トレアとフィアの表情が強張る。
「…だが…こ、こんな所に誰かがいるとは…」
「そうとは限らない、ここは盗賊が根城にするには恰好の場所にも思えるが?」
「…確かにそうだな」
トレアはトーマの意見で気を取り直したのか、剣の柄に手を掛けて注意しながらジリジリと奥の方へ詰め寄る。
その後を援護するようにトーマとミラも武器に手を掛け近づいて行った。
トレアが奥の空間への入り口に着き、そっと中を覗きこんだ。その時。
目の前に血色の悪い女の顔。
「っ…!?うわぁぁぁッ―!!!!!」
トレアはあまりの驚きに一瞬固まり、大慌てで後ろに下がろうとして足が絡まり尻餅をついた。
「っ!」
「これは…!」
トレアは慌てて起き上がり、瞬時にトーマ達の辺りまで下がった。
奥の闇からゆっくりとした足取りで出てきたのは、ゾンビの群れ。1人や2人ではない、続々と20近いゾンビたちが姿を現した。
「あらあら…やっかいね…」
3人は一歩後ろに下がる。
そして何よりその光景に混乱したのはフィアだというのは間違いない。
「え、えっ…な、なんなのよ!?」
「ぁちゃ〜…ゾンビさんたちの大群じゃな〜い…」
「へ…ぞ…ゾンビ…って…」
当然フィアの中にあるのは元の世界におけるゾンビのイメージだ。彼女はガクガクと立ち上がり、壁伝いに遠ざかる。
「フィア、大丈夫よ、別に食べられたりしないわ。性的な意味とは別としてね…」
「ゾンビたちは他の魔物と同じで、人間の男を襲って精を摂取するんだけど…たまに間違えて人間の女や魔物娘にも襲い掛かるんだよ…」
「…そ…それでどうなるの…?」
「男だったらヤりまくりで済むけど…女だったらゾンビになっちゃう」
「…そんなっ…」
フィアの顔が青ざめる。彼女からすれば冗談ではない、元の世界と過程が違うだけで結果はほぼ同じだ。
そうしている間にも彼女たちは歩み寄ってきている。トーマ達も徐々に下がり、7人は固まって後退していた。
そしてフィアにはもちろん、全員にさらに悪い情報が入る。
「…それになぁ、こいつら精が枯渇しとって思考能力がほぼない…こういうのがいっちゃん危ないんや…」
「うそ…」
フィアはもう驚愕も恐怖も通り越して苦笑いを浮かべてしまった。
トーマは後ろ腰の剣から手を離し、両サイドにある階段を交互に見やった。
「それで…?この子たちに出会ったらどうするものなんだ…?」
「おっさんたちに訊かなくても分かるでしょ? 逃げるが定石ッ―!!」
「だよなッ―!」
彼らはまず二手に分かれて階段で上に逃れようとした。
後ろには出口があったが真っ先に排除された選択肢だ。なぜなら閉じてしまっている扉は鉄製で、入る時にも開けるのに重くて時間がかかった。そんなことをしていては彼女たちに襲い掛かられてしまう。
左の階段にはミラ、フィム、キャスが向かい、右の階段にはトーマ、トレア、ノルヴィ、フィアが走った。
ゾンビたちは精が枯渇している所為もあり、通常にもまして動きがとろい。本当なら余裕で逃れられるはずだったのだが、そうもいかなかった。
「おっと…!」
トーマが階段を登りかけて急に止まった。
「なんだっ!?」
「…こっちからもお出でなすったって?」
階段の上からまた新たにゾンビたちが群れで押し寄せている。
「4人とも、こっちよっ!」
トーマ達は壁伝いに走って反対側の階段までたどり着いて、先を行くミラたちを追った。
階段を駆け上がって行く彼らだったが、階段の横の通路からまたゾンビたちは現れ、どんどんと増えて行った。
そしてある所でフィアをフォローしながら最後尾を行くトレアとフィアの間に、横通路からゾンビが顔を出した。
「っ!」
「トレアっ!」
トレアは6人から分断されてしまった。
「私は平気だ、行ってくれ!」
「…分かったわ、無事でね!」
「ああ!」
トレアはその階の通路を奥へと進んでいった。
そしてその次の階に着きさらに上へ行こうとすると、また上からゾンビたち。しかたなくその階の通路を進むと、通路は枝分かれを繰り返していた。
部屋の中からもゾンビたちが現れ、それを避けて逃げているうちにトーマ・フィアとノルヴィ・ミラ・キャス・フィムの二手に分かれてしまう。
さらにノルヴィたちも途中ではぐれてしまい、7人はバラバラになってしまったのだった。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
塔5階、南側通路―
トレアはトーマ達と別れた後、物陰に潜み何とかゾンビたちを撒くことに成功した。
今さらながら、トレアたち魔物はゾンビに万が一襲われてもゾンビ化するというようなことはない。ただし、ゾンビたちは例え女性であろうが誰であろうが、相手から精を得ようとするために延々性的な意味で食べ続ける。
つまりは、彼女たちがやっと『この相手から精は吸い取れない』と気付くまでの長い間、ずっと責め続けられることになるのだ。
さすがに魔物娘といえど、それは勘弁いただきたいことだ。どこかではゾンビ数人に襲われた魔物娘がいて、三日三晩休みなしで責め立てられたという話があるとかないとか。
一まずトレアは、その快楽への欲求が一瞬疼いてしまうような流れは免れたのだが、他の6人を探して真っ暗な通路を進んでいた。
その顔はどこか不安げだが、その理由はいつまた彼女たちに出くわすかもしれない、という心配だけではなかった。
(もおぅ…なんでこんなことになったんだぁ…)
もうここに入ってきたときのリアクションでもお分かり頂ける通り、トレアは何を隠そう『こういう状況』が大の苦手だ。
別にゾンビやアンデッド種の魔物が苦手というわけではない。ただ、もし『魔物でないモノ』が万が一にも出たらと思うと怖くなってくるのだ。その発端は小さいころに聞いたジパングの『怪談』が原因である。
彼女は別の階段を見つけ、その階段を登って行った。なるべく足音を立てないよう、注意深く、慎重に。
上の階へ着くと、曲がり角の陰に身を隠しながらトーマ達を探した。
ある扉の前でトレアは立ち止まった。扉が不自然に開いているので、中に誰かがいるのではないかと様子を窺う。
隙間からだけでは確認できず、仕方なく中へ入ることにした。周りを警戒するがゾンビたちはいない、扉が立てる軋む音に内心ヒヤヒヤしながら最低限の隙間を開け進入した。
部屋の中は暗く、カビと湿気の臭いがした。トレアはランプに火を灯すと、部屋の中を見回す。
誰かが住んでいたような形跡がある。棚やテーブルなどの家具があり、そのどれにも厚く砂埃のような塵が積もっていた。
(…あれ?)
部屋の奥に進むと、トレアは違和感を覚えた。
(ここだけ埃が積もってない…どうして…)
その部屋は寝室のようで、ベッドと小さなデスクが置いてあるだけだったが、どちらにもそれまでのように埃が積もっていなかった。さらにベッドのシーツにはシワ1つなく、明らかに小奇麗だった。
(…いや、今はそれよりもみんなを探さなければ…)
「無事ならいいが…」
トレアはみんなの身を案じてそう呟くと、後ろを振り向き戻ろうとした。
彼女の思考はまた一瞬停止した。
目の前に逆さまの少女の顔があった、やんわりと向こうが透けている気もする。
「こんばんわ、お姉ちゃん」
目の前の彼女はニコッと笑った。
「ひゃあぁぁッ―!!!」
トレアは思わず叫び声をあげて、転げそうになりながら後ろに逃げるとそのまま勢い余ってベッドに倒れ込んだ。
「あっははっ、可愛い声ー♪」
少女はそう言うとくるりと回って上下を戻した。少女の体は青白く、丸いシルエットのショートヘアでワンピースのような服を着ている。ただ一番の特徴として宙に浮いていて足がない。
「あぅ…あぅ…」
トレアはあまりの驚きで言葉を失っている。少女、もといゴーストの彼女はにこやかな顔をしたままトレアに近づいた。文字通り、音もなく。
「『無事ならいいけど』って、あのお兄ちゃんたちのことだよね?」
「な…」
「うっふふ、お姉ちゃんたちがここに来てからずっと見てたんだよ」
ゴーストの少女は薄ら笑みを浮かべた。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
塔9階・西側の一室―
荒くなった息を静かに整えるように、トーマは呼吸音を押し殺していた。
ドアの下の隙間から外の様子を窺うと、安堵した様子で大きく深呼吸をする。
「はぁ〜…」
(トレアや…みんなが無事ならいいが…)
トーマはミラたちと別れた後、フィアを安全そうな部屋に匿い、自ら囮となってゾンビたちから逃走していた。
そして今はドアの鍵が開いていたこの部屋に隠れ、体力を回復している。
(なんとか…ゾンビたちからは逃げ切れた…)
彼は腰のポーチからライトを取り出し、スイッチを入れた。もちろん明かりが外に漏れ出ない向きにはしてある。
トーマはゾンビたちから逃げ切っていた。囮となった後は引き離し過ぎないようにフィアを匿った部屋からゾンビたちを離し、十分に引き付けたところで見事逃げ切った、そこまでは良かった。
(ただ…どうしてこう…やっかいな奴と遭っちまうんだか…)
「はぁ…」
今度は深呼吸ではなく溜め息を吐く。今の状況を悲観しつつ、トーマは耳を澄ませた。
部屋の外から微かに、ヒタヒタと裸足であることを教える足音がゆっくりとだが近づいてきている。トーマは部屋の中を見回した。
「どこ行ったぁ?」
トーマは息を潜め、ライトを消して先ほど見て記憶した部屋の壁の後ろへと隠れる。
入り口から離れても足音が聞こえるほど、奴は接近していた。今度はスンスンと空気が擦れるような音がしたかと思うと、ドアが開き奴が中へと入ってくる。
「あはっ♪」
奴はそう笑ったかと思うと、次の瞬間には行動を起こしていた。
「っ―!」
トーマは気配と微かな視覚情報でそれを感じ取り、その場所から前に飛び込んで躱した。
後ろに木材が破砕されるような音を聞きながら灯りを点けて振り向く。そこには赤黒い体色と銀色の髪をした女が、バラバラになった木の棚の破片の中に立っていた。
「あ、避けたぁ♪」
「…当り前だ、避けなかったら俺がその棚見たくなってただろうな…」
(たくっ…なんつーばか力だよ…?)
トーマは呆れつつ表情を険しくした。
彼女は入り口を入ってすぐの場所から斜め前上方に跳び、壁を蹴って方向を変え、壁の裏に隠れていたトーマに襲い掛かろうとしていたのだ。その身体能力たるは、恐るべきものだ。
(間違いない…こいつはグールだ…)
以前ミラから借りて読んだ魔物娘図鑑を思い出しながら、彼は確信した。
「避けなかったら手加減したって♪」
「説得力が欠片もないな…」
淫靡な笑みを浮かべ指を咥えるグールと、相手から目を離さないようにして後ずさりをするトーマ。
(俺の場所がばれたのは…匂いか、たしか嗅覚が鋭かったな……あとは…あの口でどこか一部でも咥えられたらアウトか…)
ピンチだからこそ頭を冷静にする。軍にいた頃に体に染みついたことだった。
「さっきはあの眩しい奴で逃げられたけど、もう逃がさない♪」
彼女のいう眩しい奴とはスタングレネードのことだ。
出会い頭に襲い掛かられそうになり、逃げながら後ろ向きに放り投げた。そのお蔭で時間は稼いだが、どうやら嗅覚による判断ができる彼女には効果はもうなさそうだ。
(部屋はそれなりに広いが…奥側に向かったのはミスだったな。出口はあそこだけ、しかも真ん前に超級身体能力の相手と来た………さて、どうする…)
「あははっ♪」
得物を見つけた捕食者の笑い声に、トーマは気を引き締め直すのだった。
12/12/11 23:36更新 / アバロンU世
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