1-1 高嶺の花からの挑戦状
夕刻、陽は西へと傾き、濃紺の夕闇が東から空を覆い始めていた。
とある高校では、校庭では野球部とサッカー部の部員がトンボを引き、片づけを始めていた。校舎の灯りも点々と消え始め、同時に帰宅の途につく生徒が続々と玄関から現れた。体育館もキュッキュと窓ふきのように鳴り響いていた床と室内シューズの擦れる音が止み、やがて人の声もしなくなると、照明が落ち、一気に闇に包まれた。
この高校では、原則としてこの時間までに当日の部活を終えることを定めている。そのため、ほぼすべての部活では片づけが完了し、部員たちは岐路へとついていた。教師も例外ではなく、止むを得ない事情がなければこの時間までに終業するように定められていた。部活の顧問をしている教師も例外ではない。
そのため、この時間を過ぎることには、校内の灯りはすべて消え、辺りは静寂に包まれているのが普通だった。
しかし、そんな中、校内の一角、一つ灯りが灯ったままの場所があった。体育館一階の一室、リングが常設してある格技室、ボクシング部の活動拠点だった。
口内で今唯一灯りが灯るこの部屋からは、キュッキュと風呂場のタイルを磨くような音、バシンバシンと布団を叩いたような打撃音が響いていた。
「うげっ……!!」
まるで世界中に散らばった願いを叶える七つの球を集める漫画の戦闘シーンのように、雄二はリングコーナーへと吹き飛ばされた。そして膝から崩れ落ちると、両手をついて四つん這いの体勢で激しく喘いだ。
「どうした、もうノックアウトか?まだ一ラウンド残っているぞ」
そんな彼を見下ろし、抑揚のない淡々とした声で挑発しているのは、雄二の担任にして、ボクシング部顧問のシグリアであった。種族は腰に二対の白翼を生やしたヴァルキリー。勇者となる者に付き添い、教え導く戦乙女である。最も勇者の育成という役割は魔王と主神の争いだとか、冒険だとかそういったファンタジーと無縁なこちらの世界では無用の長物と化している。
二人は実戦形式の練習、スパーリングの最中であった。この手の練習は、ヘッドギアを身に着け、予期せぬ怪我を防止するのが常識であるのだが、ヘッドギアをつけた雄二に対して、頭部に何も身に着けていなかった。しかし、ヘッドギア、ランニングシャツの肌が露出した部分が所々赤くなっている雄二に対し、シグリアの肌は未踏の新雪のように傷一つ無く、二人の実力の差を否応なく物語っていた。
因みにこの練習、遅刻した雄二に対して、シグリアが担任として課したペナルティの一環であり、この二人以外、部室に誰も残っていない理由でもある。
「うぐはっ……まだ……いけます……ぐほっ……」
雄二は震える脚で立ち上がった。ヘッドギア越しとはいえ、ストレートにフックを撃ち込まれた左右の頬がズキズキと熱く脈打っており、ボディーブローが沈み込んだ腹は未だに抉られ続けているかのように重く沈み込む痛みがいつまでも治まらなかった。本音ではこのまま倒れて起き上がらず、自分のKO負けで終わりにしたい雄二だったが、そういうわけにはいかなかった。今日こそは五ラウンド耐えきって強くなったことをシグリアに証明する、そして自らの思いを告白する。そう決めていたのだった。そう、雄二はシグリアに恋をしていたのである。
しかし、実際はうまくいかなかった。プロボクサーを副業とし、数多くの勝利をあげたシグリアの圧倒的強さの前に、四ラウンド目の雄二は立つのがやっとの状態だった。
「ほう、今日は耐えるな」
シグリアは冷淡な表情でトントンと子気味の良いリズムでステップを踏んでいた。それは有り余る体力を持て余している様子だった。スポブラとトランクスの間から覗かせる板チョコのように割れた腹筋、よく熟れたサツマイモのように膨らんだ二の腕、スポブラ越しでも伝わる岩のような凹凸の背筋、その実力は彼女の身体が何よりの主張していた。
「負けるわけには……いかないんだ!!」
雄二は痛みを堪えながらもファイティングポーズを取った。試合続行の意思を示すために。だがその刹那、彼の意思を汲み取ると同時にシグリアは獲物を捕らえる獣のように雄二へと突進し距離を詰めるとその勢いを乗せたストレートを叩きこんだ。更にガードが崩れた顔面へとワンツーのコンボを続けて叩きこんだ。今の彼女に容赦の二文字はなかった。
「お前はコーナーを背にして戦うのが好きなのか?」
「ぐっ……くそっ……」
「シュッ、シュッ!!」
気が付くと雄二はコーナーへと追い込まれていた。シグリアの攻撃をスウェーバッグで躱すことに夢中で自分の立ち位置を失念する雄二の悪い癖だった。シグリアは追い込んだ雄二へとワンツーフックアッパーの連打、ラッシュを叩きこんだ。
「シュッ!シュッシュッ!!ハッ!!」
「(ここから脱出するには……しめた!!)」
ラッシュの合間、右半身を引いたのが見えた。ストレートを打つ基本動作だった。それを見抜いた雄二はダッキングですんでのところで右ストレートを躱した。
「やった……」
やっとの思いで攻撃を躱した雄二が上体を戻す軌道に乗せ、アッパーを撃ち込もうとしたその時だった。
ドスッ!!
土嚢を落としたような重い音と共に鉄球をぶつけられたような衝撃が雄二への腹へと突き刺さった。ガードを固めていたものの、右ストレートを躱した際に開いた両腕の間隙をシグリアは見逃さなかった。ラッシュの際に引いた手左拳を下へ捻ると、左半身に全体重を込め、その間隙から雄二への鳩尾へとボディーブローを叩きこんだのだった。
「ぐぼぉあっっ!!」
「お前の悪い癖だ。顔のガードばかりに気を取られ、脇が開く。ボディが隙だらけだ」
「げほっ……うぉえっ!!」
雄二は青コーナーの下で腹を押さえ蹲った。それと同時に、四ラウンド目終了を告げるタイマーのブザー音が響き渡った。
「四ラウンド終了だ、次が最終ラウンドだが……」
「げほっ……!!ぐぼっ、うぉおおえっ……!!」
雄二は大量の唾液と共にマウスピースをマット上に吐き出していた。呼吸が乱れ、激しく咳き込み、悶え苦しんでいた。そんな彼をシグリアは、構えていた両腕を下ろし、睨みつけるような三白目で見降ろしていた。
「その様子では無理だな、お前のTKO負けだ」
「ゲホッゲホッ……ぐぇええぇぇぇ……!!」
人を凍てつかせるような冷淡な声でシグリアは雄二の敗北を宣言した。会心の一撃を受けた雄二には反駁する力はもはや残されていなかった。
四ラウンド終了間際のTKO負け、ここまで持ったのは最高記録だった。しかし、息もまともにできない腹の痛みと最後まで戦えぬ自身の弱さに打ちひしがれ、雄二は暫く立つことができなかった。
◇ ◇ ◇ ◇ ◇
「忘れ物はないな?閉めるぞ」
「すみません、遅くなって……」
後片付けを終えた雄二とシグリアは格技室を後にした。ジャージを着て、トレードマークの眼鏡をかけ、いつもの見慣れた姿になっていた。室の照明を落とすと学校全体が完全に闇に包まれ、僅かに誘導灯の緑と非常警報設備表示灯の赤が辺りを照らすのみとなった。
「しかしな、お前も素直な奴だな」
「はい?」
「私の罰など、なんの拘束力持たないのに律義に毎度居残りするからな。さっさと帰ってしまっても別に内申に響かんというのに」
「だって、強くなれるいい機会だし……バックレるのは申し訳ないですし……」
「ほう、そうか」
二人はとりとめのない雑談を交わしながら暗い廊下を歩いていた。舌先に氷でも乗っているかのような冷淡な口調、眼光だけで人を殺せそうな鋭い目つきとぶっきらぼうな印象で、スパーリングに見せた容赦のない冷酷無比な面も持つ彼女だが、会話をしたり、人交わることが苦手というわけではなかった。特に担任に顧問と二つの立場で接する機会の多い雄二との関係は良好だった。
「……本当にそれだけか?他にも理由があるのだろう?」
「えっ?」
ビクリと雄二の身体が跳ね上がった。本当は今日伝えるはずだった彼女への恋心。それを見透かされた気がして焦りを覚えていた。実際のところ、律義に居残りしていたのは、より長い時間彼女と同じ時間を共有することが真の目的だった。自分を庇護してくれる強い女性、そんなタイプを好む雄二にとってシグリアはまさに理想の存在だった。自身のクラスの担任になったその日には一目ぼれしていた。また、全く未経験だったボクシング部へと入部したのも彼女が顧問だったことが決め手の一つだった。
「ど、どういう意味ですか……」
「何、毎度敗北に敗北を重ねても私に挑んでくるプラナリア並のしぶとさの理由にしては弱すぎると思ってな。他にあるのだろう?言ってみろ。私の勘はよく当たるんだ」
本人はそのつもりはないのだろうが、容赦のない鋭利な目つききで問い詰める様は被疑者への尋問彷彿とさせるものだった。雄二は足を竦ませていた。なんとか誤魔化してその場を凌ごうと思ったが雄二は嘘をつくのが苦手だった。嘘をつこうものなら挙動不審な態度でよくバレたものだった。今のシグリアなら確実に見抜いてしまうだろう。この人には隠し事ができない、そう悟った雄二はこの場で白状しようと決意した。
「あの………そ、その……じ、実は!!」
「何だ、早く言え」
「せ、せせせせせんしぇいがしゅきなんでしゅ!!僕!!」
「…………ほう?」
世紀の告白は悲惨な結果に終わった。緊張のあまり悲惨な滑舌になった雄二。一方のシグリアも動揺した様子はなく、表情筋一ミリも動かない無表情のままだった。そしてそんな自分の現状も見えていない雄二は聞かれてもいないのに自分の思いを早口で語り続けていた。
「だけども、先生みたいに強い人には僕みたいな軟弱者には釣り合わないだろうって思って伝える勇気がなかったんです!でも先生と一緒にするスパーリングは痛いけど、伸びていく終了時間で成長を実感できて、何より先生と多くの時間を共有できてとっても有意義な時間だったんです!この思いは最終ラウンドまで耐え抜いて強くなったところを見せてから明かそうと思ってたんですけど……今日だって結局無理で……」
「バカ者!!そんなくだらない理由で私との練習に臨んでいたのか!?」
雄二はジェットコースターに乗った時のようなショックを覚えた。初めて聞くシグリアの怒鳴り声だった。普段は睨みつけたり、きつい言葉で追いこんだりと静かに怒りを表現するシグリアが表立って怒りを表現することは滅多になかった。
「いいか!?スポーツは健全な心身を育むものだ!恋愛などという邪な理由で取り組むものではない!!そんな理由で私を利用していたとなると不愉快極まりない!」
「…………あ、ああ……?」
シグリアの口から発せられる容赦のない怒号に雄二は氷漬けにされたように固まっていた。その時雄二は心臓にパンチを食らったときのように、ショックで呼吸と発声が自分の意思通りにできなくなっていた。
「お前の言った通り、私はお前に不釣り合いだ。そのような理由が分かったからには、お前との居残りは金輪際なしだ!」
「あ……そんな……」
そう吐き捨てるとシグリアは氷漬けにされたように固まる雄二を置いてさっさと歩いて行ってしまった。彼女の怒鳴り声が止むと雄二は先ほどのダウンのように膝から崩れ落ち、両手をついて地面を見ていた。視界がぼやけていると思ったら、大粒の滴がぼとりと雄二の目から零れ落ちた。自分の青春はあっけなく終わってしまった。そんな深い絶望感が雄二を支配していた。だが、
「一つチャンスをやろう」
「はい?」
雄二が面を上げると一〇メートルほど先にシグリアがこちらを向いて仁王立ちで立っていた。その距離からもはっきり聞こえる大声でシグリアは続けた。
「この高校の文化祭では屋外に特設リングが設営され、格闘技系部活・同好会によるエキシビジョンマッチが行われるのが恒例だ。そこで私と勝負しろ。勝負は二分一ラウンドの計一〇ラウンド、このラウンドを最後まで耐え抜いたらお前との交際を認めてやろう。但しルールはプロ準拠、当然ヘッドギアなしだ」
「えっ……それって……」
困惑する雄二を他所にシグリアは更に捲し立てた。
「それまでに私が認める強い男になってみせろ。ま、四ラウンド耐えた程度で満足しているようなら難しいだろうな。せいぜい頑張るといい」
そう言い捨ててシグリアは踵を返して速足で立ち去って行った。後には膝をついて呆然としている雄二だけが残されていた。
「先生とつき合える……?でも一〇ラウンド耐えるなんて無理……」
雄二は膝をついたまま、夜空を見上げていた。憧れのシグリアと恋仲になれる微かな希望を感じた歓喜と、数か月の間でシグリアに一〇ラウンドも耐えきれるまで強くなれるのかという絶望に近い不安が雄二の中で渦巻いていた。
◇ ◇ ◇ ◇ ◇
速足で進んでいたシグリアは人気のない所で突然歩みを止めた。そして機械的な首を動かして辺りを見渡し、だれもいないことを確認すると、その場にしゃがみこんだ。
「ああああああああ私は何てことを言ってしまったんだぁ!!!!告白された照れ隠しに勝負を挑むバカがどこにいるんだぁあああ!!!私のバカ!!大バカ者!!!」
頭を抱えたかと思うと、その場で叫び出した。傍から見たら情緒不安定な女である。
「確かに強い男が好きだぞ!?でも最初から強いのではなくて、私の見てるところで徐々に強くなっていく男が好きなのだ!そう、なんかの物語で見た『昔は虫にすら怯えていた泣き虫のハナタレ小僧が師匠の下で鍛錬を積み、いつしか国一番の騎士にまで上り詰め、叙任の際に「ここまでこれたのは師匠がいてくれたおかげです。あなたにふさわしい人になりたくてここまで頑張れました。師匠、あなたが好きです。僕と結婚してください」という具合に最後に恋愛感情を打ち明けて師弟の関係を超えた夫婦関係になる』といった話に憧れていたが、実際に奴と私の関係はそれに近しいものだったのに、私が深入りしたばかりに……!!あああああ私のバカバカバカ!!」
普段のクールな彼女とはあまりにもかけ離れた戦乙女の姿がそこにはあった。誰かに愚痴を聞いてもらっているわけでもないのに、本心やら信念やら理想やらを全開にした蛇口のように吐露していた。
「私が技の指導をし。あいつが私の指導を習得して全く同じ技を使う。そんな具合にあいつの中に私の片鱗が見える度にどれほど歓喜したことか……それをもっと時間をかけてじっくりとやって、そしていつしか奴は私の教えを独自に発展させ、私の技術と奴自身の努力の合わせ技で師である私を打ち破る……みたいな具合に行きたかったのに何だ、文化祭までって!しかも一〇ラウンド耐久だ?多すぎるだろ!八ラウンドが良かったか?いっそ今日と同じ五ラウンド……できるのか?私が手加減苦手なの、誰もが知ってることだろう?そもそも私は全力で戦うことが好きだし、奴とも本気で殴り合える関係になりたいのに……あ、でも好き合っているなら殴らないのが普通なのでは?いや、好き合っているからこそ、お互いの本気を包み隠さず出し合うものでは?ああ!!私に恋愛などわからん!!しかし今更約束を取り消すことなど私のプライドが許さん!ああ……どうしたらいいものか」
こんなことを言っているものの、手加減が苦手なことも含めて、彼女のこの一面を知っている者は殆どいない。自らの感情を口や表情に滅多に出すことがなく冷淡、寡黙な印象で通っているからである。加えて、その心情をすべて吐露できる知己朋友がいないことも一因だった。
悩める戦乙女シグリアは立ち上がると速足で帰途についた。これらの悩みは結局一人で喚いたところでこの日は何も解決しなかった。
高嶺の花への苛烈な試練を課せられた男雄二と、奇妙な恋愛観を抱き、過酷な挑戦を突き付けてしまった戦乙女、シグリアとの文化祭までの長いようで短い日々のカウントダウンが今始まったのだった。
とある高校では、校庭では野球部とサッカー部の部員がトンボを引き、片づけを始めていた。校舎の灯りも点々と消え始め、同時に帰宅の途につく生徒が続々と玄関から現れた。体育館もキュッキュと窓ふきのように鳴り響いていた床と室内シューズの擦れる音が止み、やがて人の声もしなくなると、照明が落ち、一気に闇に包まれた。
この高校では、原則としてこの時間までに当日の部活を終えることを定めている。そのため、ほぼすべての部活では片づけが完了し、部員たちは岐路へとついていた。教師も例外ではなく、止むを得ない事情がなければこの時間までに終業するように定められていた。部活の顧問をしている教師も例外ではない。
そのため、この時間を過ぎることには、校内の灯りはすべて消え、辺りは静寂に包まれているのが普通だった。
しかし、そんな中、校内の一角、一つ灯りが灯ったままの場所があった。体育館一階の一室、リングが常設してある格技室、ボクシング部の活動拠点だった。
口内で今唯一灯りが灯るこの部屋からは、キュッキュと風呂場のタイルを磨くような音、バシンバシンと布団を叩いたような打撃音が響いていた。
「うげっ……!!」
まるで世界中に散らばった願いを叶える七つの球を集める漫画の戦闘シーンのように、雄二はリングコーナーへと吹き飛ばされた。そして膝から崩れ落ちると、両手をついて四つん這いの体勢で激しく喘いだ。
「どうした、もうノックアウトか?まだ一ラウンド残っているぞ」
そんな彼を見下ろし、抑揚のない淡々とした声で挑発しているのは、雄二の担任にして、ボクシング部顧問のシグリアであった。種族は腰に二対の白翼を生やしたヴァルキリー。勇者となる者に付き添い、教え導く戦乙女である。最も勇者の育成という役割は魔王と主神の争いだとか、冒険だとかそういったファンタジーと無縁なこちらの世界では無用の長物と化している。
二人は実戦形式の練習、スパーリングの最中であった。この手の練習は、ヘッドギアを身に着け、予期せぬ怪我を防止するのが常識であるのだが、ヘッドギアをつけた雄二に対して、頭部に何も身に着けていなかった。しかし、ヘッドギア、ランニングシャツの肌が露出した部分が所々赤くなっている雄二に対し、シグリアの肌は未踏の新雪のように傷一つ無く、二人の実力の差を否応なく物語っていた。
因みにこの練習、遅刻した雄二に対して、シグリアが担任として課したペナルティの一環であり、この二人以外、部室に誰も残っていない理由でもある。
「うぐはっ……まだ……いけます……ぐほっ……」
雄二は震える脚で立ち上がった。ヘッドギア越しとはいえ、ストレートにフックを撃ち込まれた左右の頬がズキズキと熱く脈打っており、ボディーブローが沈み込んだ腹は未だに抉られ続けているかのように重く沈み込む痛みがいつまでも治まらなかった。本音ではこのまま倒れて起き上がらず、自分のKO負けで終わりにしたい雄二だったが、そういうわけにはいかなかった。今日こそは五ラウンド耐えきって強くなったことをシグリアに証明する、そして自らの思いを告白する。そう決めていたのだった。そう、雄二はシグリアに恋をしていたのである。
しかし、実際はうまくいかなかった。プロボクサーを副業とし、数多くの勝利をあげたシグリアの圧倒的強さの前に、四ラウンド目の雄二は立つのがやっとの状態だった。
「ほう、今日は耐えるな」
シグリアは冷淡な表情でトントンと子気味の良いリズムでステップを踏んでいた。それは有り余る体力を持て余している様子だった。スポブラとトランクスの間から覗かせる板チョコのように割れた腹筋、よく熟れたサツマイモのように膨らんだ二の腕、スポブラ越しでも伝わる岩のような凹凸の背筋、その実力は彼女の身体が何よりの主張していた。
「負けるわけには……いかないんだ!!」
雄二は痛みを堪えながらもファイティングポーズを取った。試合続行の意思を示すために。だがその刹那、彼の意思を汲み取ると同時にシグリアは獲物を捕らえる獣のように雄二へと突進し距離を詰めるとその勢いを乗せたストレートを叩きこんだ。更にガードが崩れた顔面へとワンツーのコンボを続けて叩きこんだ。今の彼女に容赦の二文字はなかった。
「お前はコーナーを背にして戦うのが好きなのか?」
「ぐっ……くそっ……」
「シュッ、シュッ!!」
気が付くと雄二はコーナーへと追い込まれていた。シグリアの攻撃をスウェーバッグで躱すことに夢中で自分の立ち位置を失念する雄二の悪い癖だった。シグリアは追い込んだ雄二へとワンツーフックアッパーの連打、ラッシュを叩きこんだ。
「シュッ!シュッシュッ!!ハッ!!」
「(ここから脱出するには……しめた!!)」
ラッシュの合間、右半身を引いたのが見えた。ストレートを打つ基本動作だった。それを見抜いた雄二はダッキングですんでのところで右ストレートを躱した。
「やった……」
やっとの思いで攻撃を躱した雄二が上体を戻す軌道に乗せ、アッパーを撃ち込もうとしたその時だった。
ドスッ!!
土嚢を落としたような重い音と共に鉄球をぶつけられたような衝撃が雄二への腹へと突き刺さった。ガードを固めていたものの、右ストレートを躱した際に開いた両腕の間隙をシグリアは見逃さなかった。ラッシュの際に引いた手左拳を下へ捻ると、左半身に全体重を込め、その間隙から雄二への鳩尾へとボディーブローを叩きこんだのだった。
「ぐぼぉあっっ!!」
「お前の悪い癖だ。顔のガードばかりに気を取られ、脇が開く。ボディが隙だらけだ」
「げほっ……うぉえっ!!」
雄二は青コーナーの下で腹を押さえ蹲った。それと同時に、四ラウンド目終了を告げるタイマーのブザー音が響き渡った。
「四ラウンド終了だ、次が最終ラウンドだが……」
「げほっ……!!ぐぼっ、うぉおおえっ……!!」
雄二は大量の唾液と共にマウスピースをマット上に吐き出していた。呼吸が乱れ、激しく咳き込み、悶え苦しんでいた。そんな彼をシグリアは、構えていた両腕を下ろし、睨みつけるような三白目で見降ろしていた。
「その様子では無理だな、お前のTKO負けだ」
「ゲホッゲホッ……ぐぇええぇぇぇ……!!」
人を凍てつかせるような冷淡な声でシグリアは雄二の敗北を宣言した。会心の一撃を受けた雄二には反駁する力はもはや残されていなかった。
四ラウンド終了間際のTKO負け、ここまで持ったのは最高記録だった。しかし、息もまともにできない腹の痛みと最後まで戦えぬ自身の弱さに打ちひしがれ、雄二は暫く立つことができなかった。
◇ ◇ ◇ ◇ ◇
「忘れ物はないな?閉めるぞ」
「すみません、遅くなって……」
後片付けを終えた雄二とシグリアは格技室を後にした。ジャージを着て、トレードマークの眼鏡をかけ、いつもの見慣れた姿になっていた。室の照明を落とすと学校全体が完全に闇に包まれ、僅かに誘導灯の緑と非常警報設備表示灯の赤が辺りを照らすのみとなった。
「しかしな、お前も素直な奴だな」
「はい?」
「私の罰など、なんの拘束力持たないのに律義に毎度居残りするからな。さっさと帰ってしまっても別に内申に響かんというのに」
「だって、強くなれるいい機会だし……バックレるのは申し訳ないですし……」
「ほう、そうか」
二人はとりとめのない雑談を交わしながら暗い廊下を歩いていた。舌先に氷でも乗っているかのような冷淡な口調、眼光だけで人を殺せそうな鋭い目つきとぶっきらぼうな印象で、スパーリングに見せた容赦のない冷酷無比な面も持つ彼女だが、会話をしたり、人交わることが苦手というわけではなかった。特に担任に顧問と二つの立場で接する機会の多い雄二との関係は良好だった。
「……本当にそれだけか?他にも理由があるのだろう?」
「えっ?」
ビクリと雄二の身体が跳ね上がった。本当は今日伝えるはずだった彼女への恋心。それを見透かされた気がして焦りを覚えていた。実際のところ、律義に居残りしていたのは、より長い時間彼女と同じ時間を共有することが真の目的だった。自分を庇護してくれる強い女性、そんなタイプを好む雄二にとってシグリアはまさに理想の存在だった。自身のクラスの担任になったその日には一目ぼれしていた。また、全く未経験だったボクシング部へと入部したのも彼女が顧問だったことが決め手の一つだった。
「ど、どういう意味ですか……」
「何、毎度敗北に敗北を重ねても私に挑んでくるプラナリア並のしぶとさの理由にしては弱すぎると思ってな。他にあるのだろう?言ってみろ。私の勘はよく当たるんだ」
本人はそのつもりはないのだろうが、容赦のない鋭利な目つききで問い詰める様は被疑者への尋問彷彿とさせるものだった。雄二は足を竦ませていた。なんとか誤魔化してその場を凌ごうと思ったが雄二は嘘をつくのが苦手だった。嘘をつこうものなら挙動不審な態度でよくバレたものだった。今のシグリアなら確実に見抜いてしまうだろう。この人には隠し事ができない、そう悟った雄二はこの場で白状しようと決意した。
「あの………そ、その……じ、実は!!」
「何だ、早く言え」
「せ、せせせせせんしぇいがしゅきなんでしゅ!!僕!!」
「…………ほう?」
世紀の告白は悲惨な結果に終わった。緊張のあまり悲惨な滑舌になった雄二。一方のシグリアも動揺した様子はなく、表情筋一ミリも動かない無表情のままだった。そしてそんな自分の現状も見えていない雄二は聞かれてもいないのに自分の思いを早口で語り続けていた。
「だけども、先生みたいに強い人には僕みたいな軟弱者には釣り合わないだろうって思って伝える勇気がなかったんです!でも先生と一緒にするスパーリングは痛いけど、伸びていく終了時間で成長を実感できて、何より先生と多くの時間を共有できてとっても有意義な時間だったんです!この思いは最終ラウンドまで耐え抜いて強くなったところを見せてから明かそうと思ってたんですけど……今日だって結局無理で……」
「バカ者!!そんなくだらない理由で私との練習に臨んでいたのか!?」
雄二はジェットコースターに乗った時のようなショックを覚えた。初めて聞くシグリアの怒鳴り声だった。普段は睨みつけたり、きつい言葉で追いこんだりと静かに怒りを表現するシグリアが表立って怒りを表現することは滅多になかった。
「いいか!?スポーツは健全な心身を育むものだ!恋愛などという邪な理由で取り組むものではない!!そんな理由で私を利用していたとなると不愉快極まりない!」
「…………あ、ああ……?」
シグリアの口から発せられる容赦のない怒号に雄二は氷漬けにされたように固まっていた。その時雄二は心臓にパンチを食らったときのように、ショックで呼吸と発声が自分の意思通りにできなくなっていた。
「お前の言った通り、私はお前に不釣り合いだ。そのような理由が分かったからには、お前との居残りは金輪際なしだ!」
「あ……そんな……」
そう吐き捨てるとシグリアは氷漬けにされたように固まる雄二を置いてさっさと歩いて行ってしまった。彼女の怒鳴り声が止むと雄二は先ほどのダウンのように膝から崩れ落ち、両手をついて地面を見ていた。視界がぼやけていると思ったら、大粒の滴がぼとりと雄二の目から零れ落ちた。自分の青春はあっけなく終わってしまった。そんな深い絶望感が雄二を支配していた。だが、
「一つチャンスをやろう」
「はい?」
雄二が面を上げると一〇メートルほど先にシグリアがこちらを向いて仁王立ちで立っていた。その距離からもはっきり聞こえる大声でシグリアは続けた。
「この高校の文化祭では屋外に特設リングが設営され、格闘技系部活・同好会によるエキシビジョンマッチが行われるのが恒例だ。そこで私と勝負しろ。勝負は二分一ラウンドの計一〇ラウンド、このラウンドを最後まで耐え抜いたらお前との交際を認めてやろう。但しルールはプロ準拠、当然ヘッドギアなしだ」
「えっ……それって……」
困惑する雄二を他所にシグリアは更に捲し立てた。
「それまでに私が認める強い男になってみせろ。ま、四ラウンド耐えた程度で満足しているようなら難しいだろうな。せいぜい頑張るといい」
そう言い捨ててシグリアは踵を返して速足で立ち去って行った。後には膝をついて呆然としている雄二だけが残されていた。
「先生とつき合える……?でも一〇ラウンド耐えるなんて無理……」
雄二は膝をついたまま、夜空を見上げていた。憧れのシグリアと恋仲になれる微かな希望を感じた歓喜と、数か月の間でシグリアに一〇ラウンドも耐えきれるまで強くなれるのかという絶望に近い不安が雄二の中で渦巻いていた。
◇ ◇ ◇ ◇ ◇
速足で進んでいたシグリアは人気のない所で突然歩みを止めた。そして機械的な首を動かして辺りを見渡し、だれもいないことを確認すると、その場にしゃがみこんだ。
「ああああああああ私は何てことを言ってしまったんだぁ!!!!告白された照れ隠しに勝負を挑むバカがどこにいるんだぁあああ!!!私のバカ!!大バカ者!!!」
頭を抱えたかと思うと、その場で叫び出した。傍から見たら情緒不安定な女である。
「確かに強い男が好きだぞ!?でも最初から強いのではなくて、私の見てるところで徐々に強くなっていく男が好きなのだ!そう、なんかの物語で見た『昔は虫にすら怯えていた泣き虫のハナタレ小僧が師匠の下で鍛錬を積み、いつしか国一番の騎士にまで上り詰め、叙任の際に「ここまでこれたのは師匠がいてくれたおかげです。あなたにふさわしい人になりたくてここまで頑張れました。師匠、あなたが好きです。僕と結婚してください」という具合に最後に恋愛感情を打ち明けて師弟の関係を超えた夫婦関係になる』といった話に憧れていたが、実際に奴と私の関係はそれに近しいものだったのに、私が深入りしたばかりに……!!あああああ私のバカバカバカ!!」
普段のクールな彼女とはあまりにもかけ離れた戦乙女の姿がそこにはあった。誰かに愚痴を聞いてもらっているわけでもないのに、本心やら信念やら理想やらを全開にした蛇口のように吐露していた。
「私が技の指導をし。あいつが私の指導を習得して全く同じ技を使う。そんな具合にあいつの中に私の片鱗が見える度にどれほど歓喜したことか……それをもっと時間をかけてじっくりとやって、そしていつしか奴は私の教えを独自に発展させ、私の技術と奴自身の努力の合わせ技で師である私を打ち破る……みたいな具合に行きたかったのに何だ、文化祭までって!しかも一〇ラウンド耐久だ?多すぎるだろ!八ラウンドが良かったか?いっそ今日と同じ五ラウンド……できるのか?私が手加減苦手なの、誰もが知ってることだろう?そもそも私は全力で戦うことが好きだし、奴とも本気で殴り合える関係になりたいのに……あ、でも好き合っているなら殴らないのが普通なのでは?いや、好き合っているからこそ、お互いの本気を包み隠さず出し合うものでは?ああ!!私に恋愛などわからん!!しかし今更約束を取り消すことなど私のプライドが許さん!ああ……どうしたらいいものか」
こんなことを言っているものの、手加減が苦手なことも含めて、彼女のこの一面を知っている者は殆どいない。自らの感情を口や表情に滅多に出すことがなく冷淡、寡黙な印象で通っているからである。加えて、その心情をすべて吐露できる知己朋友がいないことも一因だった。
悩める戦乙女シグリアは立ち上がると速足で帰途についた。これらの悩みは結局一人で喚いたところでこの日は何も解決しなかった。
高嶺の花への苛烈な試練を課せられた男雄二と、奇妙な恋愛観を抱き、過酷な挑戦を突き付けてしまった戦乙女、シグリアとの文化祭までの長いようで短い日々のカウントダウンが今始まったのだった。
21/02/20 02:09更新 / 茶ック・海苔ス
戻る
次へ