かわらない過去、かわる未来

忌々しいものである。
如何に速く飛ぼうとも、如何に高度を変えようとも、如何に姿形を変えようとも、絶えずぶつかって来る雨風に、ニュウは、その既に険しい顔を更に強ばらせる。
噛み締め直された奥歯から、甘い茶菓子の香りが、鼻孔を通じて漂ってくる。
今少し、今少しばかりと惚けていた、数刻前の己が嫌になる。
遠く雷の音を聞いたあの時、窓の外が暗がりとなったその時、用意された茶菓子が切れたこの時。
己は大人しく帰途に就くべきであった。
そうすれば、こんなずぶ濡れになる事は、きっと、ぎりぎり、巧みに、完璧に避けられた筈である。
そう、きっと、そうに違い無いのだ。
鱗の隙間だけに飽き足らず、皮膚にさえ染み込まんとする、顔面の雨粒を拭い去り、自らを鼓舞する様に鼻を大きく鳴らすと、ニュウは飛ぶ速度を更に加速させる。
背より生える、身体よりも大きな翼をはためかせ、連なる幾つもの山脈を、運河を飛び越えていく。
そうして、何とか自らの“巣”へと着く頃には、雲上に有ったであろう太陽は消え失せ、昨日よりも一足も、二足も早い夜の帳が落ちていた。
といって、遮る物の少ない周囲の平野が、すっかり夜闇に呑み込まれているのとは違い、新たなる“巣”は、普段と変わらぬ、精々少しばかり陰っただけの、明るい光を外壁の外へ漏らしていた。
自然、ニュウの頬が綻ぶ。
やはり良いものだ、自らが所有する地、巣、国へと帰るのは。
この街の元の姿がどうであったかなどは知らぬ。
そも、興味も無い。
経済的に豊かであったのか、死に体であったのかなどは無論の事、立地上の特質や、実際に寝起きする住まいの外観に関しても、奪い取ったその時まで、知りもせなんだ。
なれば、この街を陥落させた理由は何なのかと問われれば、それは単に、見栄と言える。
ただ、多くの同胞たちが、自らの新たなる“巣”、新たなる住処、手に入れた夫の事を、細やかに、それとなく、しっかりと自慢するのが、あまりに癪だったが故に、手近なる、目に付いたこの街を落としたに過ぎぬのだ。
何が絶景か、何が旨い食事か、何が良き夫婦生活か、クソめが。
そんなモノたちなど、ほんの少しばかり本気となれば、こうして手に入るではないか。
偉そうに語りおってからに。
だがしかし、こうして幾許の時を過ごしてみると、彼女たちの言い分に嘘偽りが無かった事が分かる。
特に、こうして出掛けより帰って来た時などは、彼女たちが熱っぽく語っていた言葉の一つ一つに頷ける想いである。
朝も無く、夜も無く、好きな時に、好きな者たちが働き、営み、動かされていく、我が退廃の街。
其処に建つ建物が、灯る明かりが、暮らす人々が、愛おしく感じられた。
顔にぺっとりとくっつく前髪を掻き上げ、今一度眼下に広がる、愛する所有物を眺めていると、ふと、ニュウの目を引くものがあった。
それは、降りしきる雨の中を伸びる、人や馬車の大群であった。
闇夜の迫る平原にまではみ出したそれは、一体の大蛇が身体をうねらせる様に、ぬるぬると動いては止まるを繰り返しながら、連なる先の外門へと向けて進んでいく。
何をしているのだ、こんな雨の中で……。
ニュウはほんの少し思案した後、外門近くへと降り立った。
門前に掛かる、手摺りと呼べそうな残骸も少なく、所々などは抜け落ちてしまっている石橋の上には、雨に濡れきった人馬と、それが担ぐ荷物の群れがごった返していた。
彼らの表情は、皆一様に暗い。
押しの強さや元気の良さこそが物を言う商い人が、これではまるで務まらぬであろう事が、少々世間知らずのニュウにすら分かる程に。
荒天より降り立つマレフドラゴンに、挨拶は勿論、もはや見向きすらしない、そんな彼らを暫し呆然と見渡していると、ニュウはすぐにその原因が理解出来た。
「行って良いですよ」
最前に停まる馬車の荷台より降り、門横に設置された金具を操作して、外門をほんの少しばかり開けた少年が、片手で小さな合図を送る。
深いため息と共に、馬車三台を引き連れた一つの商隊が、のろのろと街の中へと入っていく。
検査を終えた商人たち全てが入りきると、少年はまた門を閉じ、進んできた新たな商人、馬車の荷物検査を、慣れた様子でまた始めるのだった。
商人の精気を吸い出しているのは、此奴である。
吹き荒ぶ雨風も無論であるが、それに構いもせず、覆い布を剥ぎ取り、閉じられた封を開け、その中身を調べ上げていく、この者の生真面目さ、丹念さ、愚直さこそが、訪問者たちの活気を奪っているのだ。
同じく雨に濡れ、虫の居所を悪くしていたニュウに、自制の気持ちなど微塵も浮かびはしなかった。
如何に大事な手順であろうが、如何に精錬された順序であろうが、斯くも来訪者を無碍にする事が正しい筈は無い。
況して、それが街を更に活性させるやも知れぬ商人たちとあれば、尚の事である。
ぐっしょりと濡れきった板張りに這い蹲りながら、入念に荷を調べる少年の眼前に、ニュウの片脚が振り下ろされる。
「おい、貴様。何時までやっている」
「……お待ちを。もう少しですので」
「駄目だ。今すぐ並んでいる者たち全てを通せ」
「……」
熱と気力を奪う、降り注がれる雨の如く、冷ややかものを思い起こさせるニュウの言葉に、少年はゆっくりと顔と身体を持ち上げる。
小さいものである、思いの外に。
己の目線よりも瞳が下に位置する、小さき少年と立ち並んだニュウの感想は、この様な驚きに尽きた。
貯水量を超え、毛先より雨水を滴らせる、黒と焦げ茶の入り混じった髪。
痩せた身体のラインを象る、継ぎ接ぎ後が其処彼処に走る衣装装具。
飾り気の無い、見窄らしい鞘に収められた、腰の剣と短剣。
そして、自身よりも小さな身体に関わらず、うら若いに関わらず、その活気に乏しい表情、生気に満ちぬ瞳が、あまりに特徴的であったのだ。
ニュウが言葉を紡がずにいると、少年は無言のまま馬車より降り、再び門を開けた。
外門が開き切ると、小さな歓声が湧き起こり、商人たちはぞろぞろと街へと入っていく。
日浅い新領主たるニュウはその様子を、金具の傍らに立つ少年の横で見守った。
反抗的な仕草こそ無いものの、街の中の者程恭順そうでもないこの門番から、何となく目を離す事は出来なかった。
勢いと共に不快さがいや増す雨脚に、怒りや腹立たしさすら鎮火され、ただただ早く、ちょっとでも早く、目の前の住処に、安住の部屋に帰りたいという思いばかりが、冷え切った胸の内で大きくなっていくのを、じっと我慢していると、遂に目の端に映る新たな商隊が無くなった。
あれだけ群れなしていた商人たちは、今やっと目の前を過ぎていく者たちだけとなったのだ。
帰れる、これでようやく帰れる。
帰ったら、まず何より風呂に入って温まろう。メイドを二人くらい連れて行って、存分にこの雨や埃、汗に塗れた身体を磨かせよう。
夕飯は風呂の間に作らせるとしよう。もう何か用意されていたとしても、あのサンドウィッチとかいう、三角形の物だけは作らせてみよう。そうすれば、あの馬鹿げた茶会の席で、また恥をかく事も無かろう。
膨らむ期待は確かな熱となり、ニュウの強張った頬や、冷え固まった翼をじわじわと温めていく。
だが、そんな彼女の期待に水を浴びせる様に、傍らの少年は最後の商隊を引き留めた。
馬車横を歩く、ずぶ濡れの女が恨めしげな視線を投げかける。
「……何か?」
「食べ物を売って貰えませんか?パンでもチーズでも、何でも」
ポケットより取り出された膨らみに欠けるポーチ。
女はそれを受け取らなかった。
商談を断った訳では無い。
態々馬車より取り出し、態々水溜りに投げ入れて汚したパンとチーズとを、金品に交換するだけの、薄汚れた心を持っていなかっただけだった。


扉を開けると、てきぱきと雑務を熟す、幾人かのメイドたちの姿が目に入る。
ぴっしりと鱗に覆われた両手に、掃除用具やら食器類やらを抱えながら、頭に乗せた、或いは、角に引っ掛けたカチューシャや、大きめのスカートとそこから伸びる尻尾を揺らすその様は、ひどく愛らしげなものである。
常に日頃であれば、その柔らかな臀部や乳房を、挨拶代わりに揉みしだいやるものだが、今晩のニュウに限っては、そんな活気は何となく無かった。寧ろ、誰かと顔を合わせる事さえが、何故だが避けたい様な気さえしていた。
といって、早々に灯された、柔らかな明かりを放つランプに照らされる廊下や、そこに敷かれたカーペットを、汚い雨水で濡らす事も出来ず、玄関で立ち竦んでいると、幾人かのメイドたちがすぐさま気づき、ぱたぱたと駆け寄って来る。
「お帰りなさいませ、御主人様。お風呂が沸いておりますので、まず身体を温めてくださいまし」
「あっ……あぁ、うむ……」
昆虫が創り上げる繭の様に、大きなタオルを幾つも羽織らされたニュウは、ぎこちなく頷くと、先導するメイドの後ろを素直について行く。
高台に建ち、テラスからは街全体を見下ろせるこの豪邸の間取りを、お出かけ好きの新たなる領主は、未だ把握しきれずにいた。
自室が何処かも分からぬ者に、浴室など分かろう筈も無かった。
右へ、左へ、また右へ、今度も右へ。
何となく右へと曲がることが多いらしい事以外には、窓へと打ちつける雨脚の強さばかりに目が惹きつけられ、結局道順など覚えられぬまま、ニュウは浴室へと到着した。
豪華絢爛な調度品が犇めく各部屋と違わず、浴室内にもありとあらゆる、賑やかなものが設置されている。
灯し辛い不可思議な形の燭台に、開く事も無い褐色に輝く小さな食器棚、踏みつけるのが難儀な猛獣の毛皮のカーペット、煤と薪の見当たらぬ暖炉など。
前の者は一体此処で何をしていたのであろう。
自らには、およそ無用の長物である置物たちを一瞥し、その使い道を思案するも、やはり何一つ良い使い道が見当たらぬ事を再確認してから、浴室の真ん中に、でぇんと置かれた、大きな浴槽に入り込む。
ぴりぴりと寒暖差に表皮が震える。
胸の内のものではない、また別の心臓が出来上がったかの様に、足裏や腿の血脈が熱っぽい拍動を繰り返す。
それを嫌った寒気は、湯に浸からぬ顔や頭皮へと逃げていくも、湯船より沸き上がる湯気に静かに霧散されていく。
ニュウはほぉと息を吐き出す。
これだけである、これだけで良いのである。
浴室とは、己が身を清らかにする所であり、それ以外を望む所では無かろう。
「お湯加減は如何ですか?御主人様」
「ふぅむ、心地良いぞぉ〜」
ニュウの呑気な返事にメイドはニコリと微笑む。
何の気なしにさえ掴みたくなる様な美しい乳房に加え、大きな動作の度に、丈夫な竜の尾と共に揺れる形の良い尻を曝け出したメイドは、浴槽からはみ出たニュウの両翼に湯を掛け流し、冷え固まった髪を梳かしていく。
湯浴み如きに多くを望みはせぬ。
華美なインテリアなどは以ての外である。
……が、こんな愛らしい使用人の一人や三人くらいは、侍らせても良かろう。
言われるがまま、されるがまま、身体をメイドたちへと預けていると、重く閉ざされた瞼の表で、ぴかりと何かが光り輝く。
きゃっ、という愛らしげな悲鳴が上がり、続いて、それを打ち消す様に轟音が鼓膜と館を震わせる。
雨雲はちゃんとお仲間も引き連れてきたらしい。
ニュウはそっと目を開け、柔らかな心地良さと、温かさが消え失せていく右手を少しばかり動かし、メイドに腰振りを促す。
美しく手入れのされた股の間に、再び消えては現れるを繰り返す、我が利き手。
しかし、そんな痴態を見つめながらも、ニュウの心は何処か腫れぬ思いであった。
夢見心地であった筈の彼女に、あの雷は、あの雨を思い起こさせていた。
そして、あの雨は、せっかく癒やされていた筈の彼女に、あの少年を思い起こさせていた。
「御主人様……?如何致しましたか?」
「つかぬ事を尋ねるが、お前は、北門の門番を知っているか?あの少年の門番だ」
「……えぇ、知っていますわ、勿論。彼が何か?」
「……いや、大した事ではない。帰ってくる時、長蛇の列を作っているのを見かけてな。門番の癖に何事だと、怒ってやったのよ」
「あらあら、それは御苦労様でございました。こんなにお濡れになったのはそのせいだったのですね」
「あぁ。だから、念入りに洗い、温めてくれよ?」
股から引き抜かれると同時に、ぴっしょりと濡れた秘所を撫で上げ、尻を叩くと、メイドは健気で甘い返事をし、一心不乱に腰を使いだす。
主人の為というよりは、どちらかといえば、己の快楽の為に。
無論、責める気はない。
我が血を分け与えたメイドの事、そんな姿もまた、純粋無垢で愛らしいではないか。
そして、それ故にこそ、もうあの少年について聞くことは止めておく。
頻りに光り輝くようになった窓には、もはや気にも止めず、ニュウはまた目を閉じる。
ほんの少し、ほんの少しである。
ほんの少しだけ、メイドはニュウの質問、あの門番少年に対する文言に戸惑っていた。
それがどうしても気掛かりで仕方が無かったのだ。
あの少年、一体何者なのであろう?


珍しい。
どういう訳か、珍しくぱたりと閉まる戸に、リュウは一人驚く。
偶の雨水を吸い込み、木が膨張したのであろうか。
何にせよ、閉じきらぬ常々よりはずっと良い。
戸の機嫌を損ねぬよう、そっと離れると、小屋の隅にかため置かれた、何もかもが小さな家具たちに一歩で近づく。
それから、足先が入りきらぬようになって久しいベッドに腰掛け、数日分の水分を吸い込んだ衣服を、座れば膝の方が上に来る小椅子に干し、腰位置に来る欠け月型の机に、夕飯を置く。
有り難い事に、今日の飯はタダもののパンとチーズである。
泥水に濡れてこそいるが、表面を削いで、少々火を通せば良かろう。
擦り切れたぼろ布で身体の表面を拭い、ひびの走る壺に、衣服の雨水を絞ってから、ルゥは小屋内で一番の幅を利かす暖炉へと近づく。
薪や枝木、マッチはまだあった。
さて、後は上手く点くか、どうか。
水気を含んだ指先のせいか、マッチ自体もひどく締めっているように感じる。
それでもヤスリに擦り付けると、案の定、マッチは折れてしまった。
何時買ったかも分からず、丁重に保管していた訳でもない故、仕様の無い事である。
ルゥは薄く白色の吐息を吐き出しつつ、持ち手側を暖炉に投げ込むと、尚も短くなったマッチを擦り付ける。
そして、指先に鋭い痛みが走った瞬間、持っていた火薬部分も暖炉へと投げ入れた。
じんわりと痛む指先に舌を這わせていると、暖炉は独りでに音と熱を放ち始める。
外で瞬く光り輝きとは違う、ぼんやりとした温かな火に、ルゥはやっと人心地つく思いであった。
疲れた。
今日も今日とて、疲れた。
正しく疲れる事が出来た。
ただ、やはり最後の始末には納得がいかない。
絶対者たる領主の命令とはいえ、迂闊にも、積み荷を改めぬ商人たちを街へと入れてしまうとは。
これでは責務を果たせていない、過酷な門番の威厳を守れていない、唯一の存在意義を保てていない。
これでは楽をしていると見なされる、同情に値せぬと見なされる、必要無き者と見なされる。
パンやチーズに付いた泥汚れを払い落としていたルゥの手が、大きな身震い一つと共に止まる。
苦しい、苦しい、苦しい……。
肩を抱き、目を瞑り、歯を噛み締め、悶え、のたうち回り、暴れなくては、頭だけでない、自身の全てが壊れてしまいそうな気さえする、酷い胸の痛みがルゥを突如蝕みだす。
ルゥは必死で手にしていた食料を喉奥へと押し込む。
小さな胸より溢れだし、他の多くの者にさえ魔の手を伸ばしていきそうな、如何にも邪悪なそれに、まるで供物を捧げる様に。
そして、約束を誓った。
これからもちゃんと苦しみます。
もっともっと苦しみます。
だから、だから、だから、赦してください。
おぇ、げぇ……。
突き返された物を、ルゥはそのまま吐き出す。
胸の痛みこそ引いたものの、口の中と喉がざらざらとした感触にまみれ、気持ちが悪い。
だが、それでも、ルゥは吐瀉物に舌を這わせるのだった。
涙が流れようと、涎が垂れようと、鼻水が混ざろうと、関係ない。
そういっているのだから。
そう命じているのだから。
そう願っているのだから。
あの悪魔が。
あの母が。


さて、困ったものだ。
陽がずっと顔を出さぬ、頭上の曇り空の様に、ニュウの心も何となくモヤモヤとした、晴れきらぬものであった。
その根本的理由は、昨夕より気に掛かっている、あの少年のせいである。
門番としての任務を律儀過ぎる程に果たしているものの、このマレフドラゴンが統べる街に相応しくない程に生気も、活気も無い彼の事を、ニュウは気にしていた。
ただ、好意かと問われれば、何とも返答に困るものである。
あの小さな雄と交わる自身の姿を妄想出来ぬではないし、彼を娶り、共に子を育む姿も空想出来ぬではない。
しかし、魔物娘としての、雌としての、本能的な裏打ちや、確固たる確信がある訳でもなかった。
子宮的な疼きというよりは、もっと上の辺り、心や知性的な部分での疼き、歯がゆさを感じていた。
つまり、端的に言えば、この街の為、この秩序の為、そして、あの少年自身の為にも、その律儀さ、健気さや堕落させてやりたいのだった。
その手段を問わず。
だが、ニュウの前途は、まだ正午を回らぬ刻にあって、多難な様相を色濃くしていた。
というのも、あの少年についての情報を集めようとする、新たな領主に対して、民たちは皆不親切であったのだ。
知らぬ存ぜぬを口にし、そそくさと立ち去るならばまだ良い。気分を害するのは、恰も腫れ物やら爆薬やらを隠し通す様に、口を噤み、果てはそれをこちらにまで促しさえする輩が、少なくない数存在する事である。
誠けしからぬものだ。
そんな態度を取られれば、取られるほど、あの少年の正体が気になって、気になって仕方がなくなるではないか。
ニュウは深い溜め息を吐き出しながら、どんどんと重たくなる足腰を、噴水の端に落ち着ける。
陽に温められる事も、雨に冷やされる事も無く、気温差が生まれぬせいか、街に吹き溜まる空気は、変わらず重苦しい。
時も、人目も関係無く、色恋に浮かれ、情欲を育む我が領民たちの姿形も、何処か寒々しく、白々しく感じる。
ずぅ、と噛み締めた歯の間を、深い吐息がすり抜ける。
さて、どうしたものか……。
ありとある力に物を言わせるのは造作も無い。
しかし、たかだか一人の少年の為に、長い付き合いとなろう領民たちとの、発展途上にある信頼関係を崩してしまうというのも、何だか不釣り合いな話である。
そも、彼らは何故あの少年の事を話したがらぬのであろう。
存在そのものを知らぬ幼子が首を横に振るのはともかく、知っていそうな者たちの殆どが、その口を噤みたがるのは、もはや奇怪である。
もしや、自らには聞かせられぬ、大層な秘密でも隠しているのだろうか。
ニュウはまた、ずぅ、と音を鳴らして、頬杖を突く。
思い通りにいかぬ不愉快さと、気だるさに、自然、視線は鋭くなる。
通りを行き交い民たちは足早で、仕事に勤しむ民たちは伏し目がちで、普段なら繁殖行為に精を出し、出させあっている民たちですら、互いの陰部を撫で回すだけに留める程節制的であった。
もしかしたら、気のせいなのかもしれないが。
しかし、少なくとも、新たなる領主には、そう感じられてならなかったのだった。
仕方が無い。
本当ならば、このマレフドラゴンとしての知略と誉れを持ってして、すまーとに、すぺしゃるに、すまいりーに事を進め、彼の者を陥落させたかったものだが、こうとなれば、本人より直接聞き出した方が良かろう。
民たちの機嫌も、自分の機嫌も、これ以上悪化させる理由はない。
そうと決まれば、ニュウは早速、広げれば噴水台にも匹敵する、大きなその両翼を構え、一気に飛び立つ。
思い立ったら、熱いうちに、急いで、旨いものは喰え、とも言う。
何も悪い事など起こるまい。


目的の北門へは、数十秒と掛からずに到着した。
昨晩から未明にかけて降りしきった雨の名残が、大中小な水溜りの形となって、水捌けの悪い石橋に点在している。
商人や引かれた馬車たちは、それらを気にせず踏みしていく。
半日前あれだけ通したというのに、門の前には、またまた長い行列が出来ていた。
理由は、もはや考えるまでもない。
昼食は街の中でゆっくりと、とでも考えていたのであろう商人たちは、荷台から態々卸したらしい貧相な食料を。実に不本意らしく食んでいる。
そんな彼らを横目に、ニュウは橋先の門へと近づく。
その光景は、やはり昨晩と変わらない。
小動物やら、昆虫やらが下生えを揺らめかせる様に、彼は、荷台の荷物を検査していた。
一つ一つ律儀に、一つ一つ入念に。
おい、と声を掛けると、彼は顎を僅かに動かす、生意気な会釈をした後、ニュウを無視して、門を開ける金具を引き絞った。
黒々と湿った木製の門は、水滴を滴らせ、きしきしと軋み音を上げながら開いていく。
長いこと、長いこと待っていたのであろう、すっかり木の棒の様に固まった両足をぎこちなく動かして、商人一行は門を潜っていく。
ニュウは前と同じ様に、少年と金具の傍らへと立って、その様子を眺めていた。
そして、検査を終えた者だけを通した門を、少年が再び閉じようとした時、その手を叩き落すのだった。
怒るであろう。
そう予想し、やや身構えていたニュウに、門番たる少年は、意外にも呆気に取られたらしい、困惑の表情を向ける。
「閉めなくて良い。このまま全員通せ」
「でも……」
「良い。領主である我が許すのだ、お前如きに文句は言わせぬ」
「……」
ニュウを見上げる少年の目に、確かな怒りの色が浮かぶ。
叩き落とされた手には、今一度力が込められ、剣を携えた方とは逆側に腰が傾いていく。
遠巻きの者たちのざわめき、目前の者たちの息を呑む音が聞こえる。
が、結局、それ以外の音が、ニュウの耳に届く事は無かった。
針で縫い付けられたかの様に、一文字にぴっしりと閉ざされた少年の口からは、何の不満の言葉も這い出してはこなかった。
その小さな身体から滲み出す、色濃い激情の影とは裏腹に。
軽い挨拶の言葉に手招きを交えて、門前に溜まっていた商人や旅行者たち全てを街へと通し終えると、ニュウは大きく伸びをする。
丁度良く壊れ、座りやすくなった欄干より見上げる空は、相変わらずの曇り模様である。
清廉潔白の権化から、花天酒地の伝道師へと変態した教会が鳴らす、だいたい合っている気がする鐘の音が聞こえなければ、今が本当に午後なのかもよく分からなかった。
その内、また日の入り辺りに雨となろう、不穏な空から視線を下げる。
さて、しかし、これからどうしたものか。
凝り固まった身体に、血が巡りだすのを感じつつも、再び頬杖を突いて、ニュウはじっと考える。
視線の先、門前に変わらず立ち続ける、彼の少年の態度は、変わらず冷淡なものであった。
うん、とも、すん、とも言わぬ訳ではないが、余計な事は何一つ答えぬ。
ニュウに対してだけではない。
気の良さそうな者たちが、何気なく、気さくな立ち振る舞いを見せても、むっつりとするばかりであった。
街について尋ねられても、知らぬ存ぜぬと返すものだから、代わって領主であるニュウが答えねばならぬ場面さえあった。
叱責の一つでも食らわせようかとも思ったものだが、どうにもそれは気が引けた。
人目を気にしたというのもあるが、それ以上に、彼が本当に街の内を知らぬ様に感じたからであった。多くの者たちにその存在を知られる、門番であるにも関わらず。
果たして、彼は一体、本当に何者なのだろう。
意を決し、その答えを追求しようと、ニュウが口を開きかけたその時、ふと、腹に出来た隙間より、虫の音が鳴った。
恥ずかしがる様子もなく、じっと前方を見つめる少年に、ニュウは微笑みかける。
「何だ貴様、腹が減っているのか?なら、共に昼食を取らぬか?」
「結構です。これくらい、何てことありません」
「腹が減っては何とやら、そうもいくまい。集中力が切れた状態で、門番が務まるものか」
「貴女が余計な事をしなければ、集中力は続いていました」
顔は向けず、横目で、少年はニュウの方を見遣る。
矛先、剣先、切っ先。
幾度も幾度も向けられたそれらや、それらに必ずや纏わり付いていた、深い深い憎悪の念を思い起こさせる程、彼の者の瞳は鋭く細められていた。
さすがに、不愉快極まる。
口角より火やら毒やらが漏れそうになるのを堪えつつ、ニュウは言葉を紡ぐ。
「そもそもこの街に門番など、もはや不要なのだがな」
「……どういう意味です?」
「どうも何も、そのままの意味だ。我が街は来る者拒まず、去る者去らせず、だからな」
「それで、街の治安をどう維持するのですか?」
「維持も何も、今や此処では殆どの事が許されている。貴様が門を守る必要はもうないのだ。それに、あんなにも一つ一つに時間を掛けていたのでは、せっかくの商機も逸する」
「辞めろと……?」
少年の言葉に、ニュウは頷いて見せる。
深く、強く、嫌らしく。
視界から一瞬ばかり少年の姿形が消え、足元の水溜りばかりが一瞬だけ映る。
そして、また少年の横顔が見えた瞬間、ニュウの心に後悔の念が、ふっと湧き出た。
目の前の少年は音も無く、崩れ落ちていたのだ。


降ってきた。
特段の当てももはや無く、身体と手を揺らしながら、気ままに街をふらつき、屋敷へと帰り着いたその時、雨粒は音を鳴らし始めた。
大きな正面扉の奥からは、メイドたちの悲鳴と、指示出しの声が聞こえてくる。
おおかた、ぎりぎりまで選択物を取り込まずにおいたのだろう。
相変わらず健気で、愛らしい者たちである。
しかし、昨日に続いて、ニュウはそんなメイドたちと顔を合わせるのが、何となく気まずかった。
後にルゥという名だけを、何とか拾い聞いた、例の少年に関して、屋敷のメイドたちもまた、閉口する者ばかりであったのだ。
街一番と言えど、所詮は一屋敷の内。
報告やら、連絡やら、相談やらは、昨晩の内に頭から末端まで、びびびびっと、雷の様に伝わるものなのだろう。
結果として、何も尋ねられたくないメイドたちが距離を取り、その空気を察したニュウは距離を詰められず終いであった。
これでは、もはや先程の事を、相談など出来そうにない。
それでも、今更雨の中、遊び飽きた商店街やらに行くのも馬鹿らしく、そっと屋敷へ入ると、数人のメイドたちが頭を下げながら、そそくさと駆けていくばかりであった。
ちょっぴり待ってみても、昨日の様な歓迎は無かった。
朧気な記憶を頼りに、何とか自室へと辿り着くと、ニュウはへとへとの身体をベッドへと沈ませる。
さて、どうしたものか……。
状況こそ刻々と変化しながらも、結局同じ様に、この先の行動について、深く考えねばならなかった。
門番の少年、ルゥは、あの後、姿をくらませていた。
崩れた両脚を何とか正し、門の傍らに建つボロ屋に戻ると、それっきりであった。
ニュウが街へと誘おうとしても、彼はそれを、頑なに、苦しげに拒んだ。その理由も答えはしなかった。
そして、取り付く島も無しと判断したニュウが、遅めの昼食、三人前のサンドウィッチを片手に戻った時には、もう彼の姿は何処にも無かった。
街の中は勿論、平野が続く外界にも。
何故。ニュウには全くその訳が分からなかった。
少なくとも、自身の言動が、あまりに常軌を逸するものであったとは思えぬ。
確かに不愉快な視線に苛立ち、嫌味な物言いではあったかもしれないが、卒倒するまでいくのは、どう考えても。彼の心の方に問題があろう。
ニュウはぽすぽすと、柔らかな枕に額を打ちつける。
では、その問題とは何であろうか。
門番を辞めさせられそうになったくらいで、まるで人形にとっての生命、操り糸が切れたかの様にぶっ倒れる、その問題とは。
時刻的な猶予も段々と無くなり、夜の帳が早々に落ちかけて、次第に薄暗くなっていく内で、ニュウがただ一人で考えていると、おもむろに、扉が叩かれる。
返答すると、扉はほんの少しだけ開き、暗闇にあってもまだ見える、真っ白い紙と、それを持つ肌色の手が差し込まれた。
「お嬢様、お手紙がきております」
「む?あぁ、そうか分かった。床にでも置いておいてくれ、後で見ておく」
上体だけを起こし、ベッドよりニュウがそう答えるも、手はなかなか手紙を離そうとはしない。
今すぐに読んでもらいたいかの様に、下へと動いては、また逡巡して、上へと戻ってくる。
気になりつつも、ニュウが同じ旨を告げると、手は渋々といった様にやっと離し、挨拶も無く、扉を閉じて去って行った。
無礼な。
作法の出来ていないメイドへ、不満を募らせつつも、何処か気になったニュウは、置かれた、というよりも、投げ捨てられた手紙に目を通した。
手紙は、他の同胞からであった。


雨が強くなってきた
季節のものか、降り出すのは、昨日とさほど変わらぬが、降りっぷりの良さは昨日の比ではない。
街の外を走る、お堀の水かさがまた増えていく。
もう数日もこんな天気が続けば、何時ぞやの様に、雨水が溢れかえるのやもしれぬ。
そして、溢れかえったものは、重力的、立地的な都合により、また我が小屋を水浸しにするのだろう。
橋下の薄暗い土塁に腰を下ろし、次第に迫り上がって来る小汚い泥水面を見つめながら、ルゥはそんな事を考えていた。
そんな、在っても無くても大して変わらぬ、なけなしの財産やら、権利やらに及ぶ、みみっちい被害について、僅かに頭を回す事しか出来なかった。
他に出来るのは、どうしようもなく震える身体を、悴む両手で抱く事だけだった。
お前は要らない子。
どんなに言い換えても、どんなに着飾っても、どんなに取り繕っても、どんなにフォローしても、どんなに正当化しても、どんなに希望的に推察してみても。
あのドラゴンが告げた言葉は、自身にとっては聞き慣れた、言われ慣れた言葉と、何も変わらなかった。
やつれた母より漏れ続け、呟かれ続けた、哀願のそれと。
お前は要らない、お前は邪魔、お前は消えていい、お前はどうか死んでおくれ。
ぼろの衣服に食い込むルゥの指先に、弱々しくも力が加わる。
奥歯は噛み締められ、頬までもがふるふると震え出す。
だが、それでも、目からは、涙が溢れてならなかった。
己が何をした?
仕事を為していただけではないか。律儀に熟していただけではないか。目上の者たる街人誰一人と関わらず過ごしてきたではないか。苦しみも甘んじて受けていたではないか。
ただ、それでも、生きていただけではないか。
それすらも、余所者には赦されぬというのか。そんなにも、この街はケチで、狭量なのか。
心の奥深くに蓄えていた、怒りの言葉を、否定の言葉を、呪いの言葉を、腹より込み上がらせ、胸より迫り上がらせる。
身体へとしがみついていた両手は、泥濘んだ土へと爪を突き立てる。
しかし、いくら力んでも、食いしばっても、言葉は糞便の様に、ひり出されることはなかった。
か弱きルゥに、そんな言葉を吐きだす勇気はなかった。
硬く硬く瞑った筈の瞼の裏には、あの母の姿が見えるだから。
塞ぎに塞いだ鼓膜の奥からは、あの母の声が響くだから。
たんこぶなど凹んで久しい頭に、あの母の手を感じるのだから。
彼女の望まぬ事を口にすれば、何をされるか、何をして貰えなくなるか、分からないのだから。
だから、堪えるのだ。
堪えて、言いつけを護るのだ。生きていても良い、そう赦されるまで苦しむだけなのだ。そうするしかないのだ。
喉元まで上ってきてくれていた呪詛の言を、ルゥは嗚咽混じりに呑み込むと、また、その小さな身体を抱きしめ、顔を股に埋める。
石橋を隔てた頭上では、雨脚が強まり、雷雲が息巻き始めていた。
これからどうすれば良いのだろうか……。
新たな領主たるニュウからの、突然の御払箱に、ルゥは未だ混乱し、困惑していた。
この門とあの小屋以外のものを、ルゥは知らなかった。
無論、知識として、北に数里、或いは、西に山一つと歩けば、他の街がある事は理解しているが、その地で生きていく方法が分からなかった。
自分は、門番として、如何なる苦難をも堪え、そして、人知れず死んでいくものと、覚悟していたのだ。
むしろ、母の言葉通り、そうせねばならぬものと信じていた。
それが今更になって、この地にさえ不要などと言われては、もはやどうすれば、何をすれば良いのか。
そっと、ルゥは顔を僅かに持ち上げる。
天より打ちつけられる同胞を喜ぶかの様に、足元まで迫ってきていた水面が波打つ。
腰のベルトから外していた剣は、もう半分以上が水に浸かっていた。
「楽になれるのかな……」
返事など無い。
引き寄せんとして、鞘から抜けかけた剣の刃が、音よりも早い雷の閃光によって、妖しく輝くばかりであった。
そして、そんな、何時もより妙に重たく、妙に冷たく感じる刃が、首筋に触れた時であった。
頭上に架かる橋を、幾つもの人足が、悲鳴やら奇声やらを上げながら踏みつけていく音が、ルゥの耳に届くようになったのは。
襲撃だ。
橋へと這い上がったルゥは、街で起こる事態について、すぐに合点がいった。
雨降りしきる街では、彼方此方で火の手が燃え上がり、黒い煙が立ち込めている。
門前にありながら、喉を捕まれている様な違和感を感じる。
大きな爆発音と共に、新たな箇所で炎が渦巻きだす。
それは、まるで一匹の大蛇の様に蠢き、他の建物へとぶつかって、被害を拡大させていった。
何かおかしな奴が居るらしい。
魔法使いか、魔術師か、まず片付けるなら、そいつらだろう。
尻の泥を払い落とし、破り裂いたぼろっちい上着を、ルゥは口元へと巻き付ける。
そして、街へと駆けだそうとした時、すぐにでも消えてしまいそうな、掠れた悲鳴が上がる。
今度は、背後からであった。
振り返ると、武器を構えた者たちが、丸腰で逃げのびてきた街人たちを待ち構えている。
助けて。
誰かがそう叫ぶと、周りの者たちもまた、同じ言葉を身勝手に叫びだす。
襲撃者たちは憎らしげな笑みを浮かべる。
それと同じ様に、ルゥの頬も緩む。
あれほど重たかった心が軽くなった。
此処だ。
此処にしよう。
此処で死のう。
ルゥは手に持っていた、剣の鞘を投げつける。
それは、くるくると回転しながら、街人の後頭部へとぶつかった。
殆どの者たちの顔が驚愕の色に染まる。
苦悶の表情を浮かべたのは、鞘に当たった無辜なる街人と、駆け寄ったルゥが袈裟切りにした、襲撃者の内の一人だけであった。
確かな手応えを伝える刀身を斜めに振り抜くと、ルゥは余った身体の勢いのまま横薙ぎに振り払う。
瞬間、二人分の腹が開かれ、辺りに大量の血飛沫が飛び散った。


全く、不愉快極まるとは、正にこの事である。
拭えども拭えども垂れてくる雨粒を、溜めた唾液と一緒くたにして、ぺっ、とニュウは吐き出す。
結論から言えば、あの手紙は、何かの間違いであった。
緊急を要する事案につき、ぜび参上して貰いたい。
という旨を、飾りに飾り付けた、無用に長い文言でもって記された手紙を抱えて、ニュウが大急ぎですっ飛んで行くと、当の同胞は何食わぬ顔で、伴侶のモノを咥え込んでいた。
良識有る伴侶の言葉に従い、渋々ながらも応対した同胞は、ニュウの手紙を一瞥した後、たちまちに破り捨てた。
知らん、出しておらん、と。
食い下がる気にはならなかった。
取り付く島など無い事は、びんびんに張り詰めた乳首や、とめどなく愛液を溢れさせる股、そして何より、情欲を必死に抑える、血走ったその瞳を見れば、明らかであった。
それ故、仕方なくも家路に着いたニュウは、今こうして憤懣やるかたない想いを、忌々しい雨空にぶつけるのだった。
しかし、である。
なれば、あの手紙は一体何だったのだろう。
差出人が違った、或いは、送り先を間違えたなどの、何らかの手違いがあったのであろうか。
だが、あの外面ばかり気取った様な文体は、確かに同胞が記してきたものだった。
その同胞が知らぬ物が、何故こちらに流れてきたのか。
叩きつける雨粒の不快さに、目を細めながら、ニュウは考える。
考えながら、山越え谷越え、風を切って飛ぶ。
そんなニュウの鼻に、耳に、目に、違和感が飛び込んでくるのは、そう時間は掛からなかった。
遠く西の彼方に残る、僅かな夕陽を背景に、街は赤々と燃えていた。
それはまるで、闇夜に焚きつけられた焚き火の様に、囲われた内で燃え盛っていた。
目の前の光景が、ありありとするにつれて、こんがらがっていた筈の頭が冴え渡っていく。
水気と嫌気に重くなっていた両の翼は、はためきを加速させていく。
止めない、止まらない、止められない
ニュウは流れ星が衝突する様に、燃える街の、一際燃える箇所へと突っ込んだ。
そして、間髪入れずに、翼を大きくはためかせ、吹き荒ぶ雨粒すら凍えさせる様な、強烈な突風を、全方位へと向けて放つ。
何度も、何度も、何度も。
灰や炭、瓦礫と化していた物が飛び散り、何とかバランスだけを保っていた建物が、折りたたまれる様に崩れいく。
街内に居た者たちは、その多くが地面へとしがみつき、突然の衝撃波に堪えるも、新たなる領主を少しも知らぬ者、領主たるニュウが少しも知らぬ者たちだけは、空に吸い出される様に、天高く打ち上げられていく。
街人が消せども消せども、息を吹き返し、被害を広げていた永遠の大火は、ようやくにして、一瞬で消え去った。
灯りを無くした街には、雨風を足音に、闇夜がひたひたと駆け寄って来るのだった。


あの人と何か関わらなければ良かった。
母は口癖の様に、そう言った。
勿論、他にも言っていた事はあったが、思い起こせるものは、この言葉、消えた父を、憎らしい父を、悪く言う言葉が多かった。
その理由は、態々聞かずとも、子ども心に理解し、共感出来た。
父は、街外に暮らす、見捨てられ人の一人であった。
何処ぞより流れされてきた、多種多様な者たちが、何となしに集まり、形成された、集落とも呼べぬ小さな部落。
街内の者たちは、皆これを嫌悪していた。
不寝番の任に幾年立とうとも、血みどろの刑吏の任を忠実に全うしようとも、美しい革製品と仕立てようとも。
穢れは消えない、性根は直らない、得たい知れずは変わらないものと。
だが、慈悲深き母は、そんな者たちを思い遣った。被差別者である父と結ばれた。自分の様な者を産みもした。
そうして、街人として生まれ持っていた筈のモノ全てを無くしたのだ。
街医者たる家柄も、麗しい美貌も、聡明なる頭脳も、何者からも好かれる心意気も、何もかも。
母が過去を悔いるのは、当然であろう。
母が未来を嘆くのは、当然であろう。
母が父を恨むのは、当然であろう。
だから、母が、街外の混血たる僕に、より深い苦しみを、より耐え難い辛さを、より惨めなる死を願うのも、また当然なのであろう。


起きない方が良い。
痛みと違和感、そして、張りつめたままの緊張から、無意識的に上体を起き上がらせるルゥを、男はそっと制する。
袖などがごっそりと焦げた白衣に、ひび割れて折れ曲がった眼鏡、首からぶら下がる片側の欠けた触診器などから、男の正体は、医者やら、医療従事者やらであろう事は、誰の目にもすぐに理解出来る。
見渡せば、何人もの怪我人たちが、診療所の物とは思えぬ、豪華なベッドに寝かしつけられ、手当を受けていた。
だが、ルゥはそんな男の言葉には従わなかった。
一度は地べたに転がった筈の左手に力を込め、砕かれた筈の右足を引き寄せ、内臓を晒した腹筋に力を込めて、脂汗塗れの身体を何とか起こす。
部屋に居た、意識有る者たち全員が、息を呑んだ。
治療の為、そこら中に蝋燭を灯された、決して暗くはない部屋において、全身を赤黒い包帯で包まれ、唯一晒け出す、焼け焦げた目元、口元を、痛みと嫌悪に歪めるルゥの姿は、同じ人とは見えぬのだった。
吹き出る冷や汗に傷口を侵され、煤けた喉を通り抜ける吐息にさえ苦しむルゥの背を、医者は優しく擦る。
「止めましょう、ルゥ君。無理をしてはいけません」
「はぁ……はぁ、ふぅぅ……。だい、じょうぶ、ですよ、叔父、さん……」
「……」
「ぼ、くが、死んだって……。誰も……気にしませんよ……。母の、ときみたいに……」
「それは……」
医者は口を噤み、ルゥに触れていた手を力無く引き戻す。
柔らかな温もりが背より消え去ると、ルゥは今一度全身に力を込め直す。
そうして、誰の手助けも、邪魔も無く身体を起き上がらせるも、その小さなボロボロの身体は、とある拍子にがくりと崩れた。
何者かが、ルゥを押し戻したのだ。
普段横になる、壊れかけた骨組みに薄っぺらな布を敷いただけの粗末な物などよりも、ずっとずっと柔軟で弾力のあるベッドながらも、それでも、満身創痍たるルゥの全身には、堪え難い痛みが響き渡った。
凄絶な努力を、一瞬で水疱に帰されたルゥは、涙ながらに、視線を持ち上げる。
ベッド横には、いつの間にかニュウが立っていた。
「馬鹿者、頑張り過ぎは毒だ。大人しく寝ておけ」
「ふぅ……ふぅ……。貴女にだって、関係何か、ないでしょう……!」
「無い訳あるまい。街を護った英雄である貴様をないがしろにしては、領主としての面目が立たぬであろう。それとも、貴様は、我が面子を潰そうというのか?」
「……知りませんよ、そんなもの。僕には……関係ありません」
限りなく底を突いた力を振り絞り、尚気丈で、痩せ我慢な言葉を吐き捨てるルゥに、医者を含めた、彼を知る、特に彼の過去を知る者の多くが、沈鬱な表情を浮かべた。
窓を叩く雨音に混じって、ゴロゴロという不気味な雷鳴が、部屋の内に響き、蝋燭の火をぶるぶると震わせる。
それは恰も、身の丈に合わぬ程の怒りと憎悪に身悶えする、幼いルゥの内心を表わしているかの様に、多くの者には感じられた。
言葉を紡ぐ事は出来なかった。
今更何を言ったとて、彼は決して赦しはしまい。
整わぬ呼吸をそのままに、ルゥがまた身体を起こし始める。
あぁ、彼は、ルゥはまた、街の外へと出て行ってしまう。
誰もが、そう諦めかけた時、その傷だらけの小さな身体は、静かに、優しく、しかし、力強く抱き寄せられた。
「何時までも甘えた事ばかり抜かすな、馬鹿者」
「……な、なにを」
「知らない、関係無い。そうやって謝罪を受けつけねば、街の皆は何時までも遠慮してくれる。だから、そうやっているのだろう?そうやって、他者の罪悪感につけ込んでいるのだろう?」
「……」
反論の言葉は出てきはしなかった。
心臓を鷲掴みにされ、そのまま握り潰されている様な、酷い苦しさこそあれ、それを撥ね返すだけの嘘や詭弁を、これ以上続ける余力が無かった。
ニュウの言葉は真実である。
ルゥ自身それを、心の何処かで自覚していた。
自覚しつつも、受け入れる勇気が、ちょっとも無かったのだ。
だから、母の呪詛、復讐の念を間借りしていたのだ。
ニュウの手が、胸に抱いたルゥの包帯に包まれた頭を、優しく撫でつける。
「詐欺師であれば、賢いやり方かもしれぬ。だが、貴様はそこまで落ちぶれてはいまい。貴様は、本当は優しい子の筈だろう?街の者の為に、命さえ擲てる程に」
「……違う」
「む?違うのか?」
「違う、ただ、死にたかった、だけです……。楽に、なりたかった、だけです……」
「……そうか。だが、貴様が為した偉大さに変わりは無い。そして、街の者たちが、貴様に為してきた事も変わらない。なら、ここで手打ちとしよう。彼らを赦してやってはくれぬか?」
「赦す……。うぅっ……」
ルゥは身体が大きく震わせ、嘔吐くと、そのままニュウの胸の中で、全てを吐き出した。
泥と砂利塗れの吐瀉物に、血反吐の混じった胃液、そして、何者かへの恨み辛みの言葉の全てを。
ニュウはそれを黙って受け止めるのだった。

鼻先を、ひんやりとした風が撫でていく。
たっぷりに湿気を含んだそれは、潤いに満ち溢れた、心地良い虫たちのさざめきも運んでくる。
重たい瞼を持ち上げると、其処は変わらず、上質なベッドの上であった。
部屋中に灯されていた蝋燭は、一つ残らず消され、ほんの少し開かれた窓より入り込む、柔らかな月光だけが、薄暗い部屋に淡い色を与えている。
隣からは、安らかな寝息が聞こえてくる。
音無く動かせそうな内で、静かに顔を向けると、直ぐ傍には、ニュウが眠っていた。
顔が酷く熱くなるのを、ルゥは感じた。
晒してしまった醜態の件もあるが、それ以上に、一瞬とはいえ、美女の寝顔に見蕩れそうになった事実が恥ずかしかった。
慌ててそっぽを向くも、反対側には、誰も寝てはいなかった。
並べられていた筈のベッドすらも無く、そも、部屋の構造すらも縮んでいた。
どうやら、寝付いた後、部屋を移動させられたらしい。
ぼっ、という音と、どくん、という音が、己が内より確かに聞こえた気がした。
決して狭くない、寧ろ一畳間で暮らすルゥとして、あまりに広々とし過ぎた部屋ではあるが、幾人も招き入れるには不適当な大きさの一室に、それも、ベッドの上に、自身とニュウが二人きりで居るという事実。
それが、無垢なルゥの心身全てを苦しめた。
寝よう、寝てしまおう、と強く決心してみても、爛々と輝く瞼の裏を見つめる瞳は、まるで休まろうとはしない。
雨の匂い、土の匂いを運ぶ、冷たい夜風を嗅ぎ、微睡んでいた筈の鼻は、気づけば異性特有の香りばかりを嗅ぎ取っていた。
早鐘打つ鼓動の響きに、しっかりと揺れてしまう鼓膜は、穏やかな虫のさざめきを、拾い損ね続けた。
苦しい。
何が苦しいのか、それはルゥ自身よく分からなかったが、ただ苦しいと、言わざるを得なかった。
そう言う事が正しい、そんな気さえした。
それでも、それでもどうしても、最後の最後に、もう一度だけニュウの方に、顔を向ける。
今度こそ、ルゥの心が大きくはねて、それから止まった。
ニュウと目が合ったのだ。
薄暗闇の中、包帯を被らぬ僅かな部分からでも察せられる程に赤面し、ぷるぷると震える、純真無垢な少年を、領主は笑う。
「くくっ、なかなかむっつりだな、貴様も。寝ている女を前に、一体何を考えておった?」
「ち、違っ……!」
「違うのか?なら、何故そんな顔を赤くしている?何故、そんなにも呼吸を乱している?さぁ、言ってみろ」
「うぅ……。そ、それは……」
「くっくっ、あっはっは!そう怯えるな、ちょっとした冗談だ」
鼻先にすら汗を滲ませるルゥの頭を、ニュウは優しく撫でる。
包帯越しに感じる、人の物とは違う、大きなドラゴンの手の温もりは、ルゥの胸に、僅かな懐かしさと、深い哀しみを思い起こさせていく。
力無く閉じられた目から、ぽろぽろと涙が零れ落ちる。
汚い、情けない、みっともない、そんな母の言葉が、耳の内で響く。
しかし、涙は止まらない。
ニュウが、優しいその手を止めず、泣くことにも、何も言わないのだから。
「少しは落ち着いたか?」
「……大丈夫です、すみませんでした」
「謝るな。泣くくらいなんだ、貴様は何も悪い事などしておらんぞ」
「……ありがとうございます。でも、何故、ですか?」
「何がだ?」
「何故、僕なんかに、こうも接してくれるのですか?」
「そ、それはだな……。うむ……。うん……」
頭部を行き来していたニュウの大きな手が、ぴたりと止まる。
綻ばせながらも、じっとこちらを見つめていてくれた、そも、見合う事自体が、ひどく失礼な気さえする、そんな美しい瞳が宙を見遣った。
仄暗い疑心が、ルゥの胸の内で蠢き出す。
やっぱり、この人にも、理由があるのだろう。
こんな自分に、優しく接する、いや、接しなくてはならぬ、大事な理由が。
ようやっと枯れた涙が、今一度、最後の一滴を、ルゥから流れそうになった時、ニュウはそっと、顔を寄せた。
「怒るなよ?その……堕としてやろうと思ったのだ」
「そう……えっ?おと、す……?」
「う、うむ……。あまりに律儀に、というか、馬鹿正直に働いている貴様の姿が、ちょっぴり気に入らなくてな……。堕落させたら、その落差が面白かろうと思って……」
「はぁ……?」
「それで、本当は未婚のメイドでも行かせようと思っていたんだが……。うむ、貴様は貴様で、色々訳ありであっただろう?だから、行かせられなくて、その……今に至る。うん……」
「……」
正直、口を噤む、それ以外に出来る事はなかった。
湯が沸く様に、ふつふつとしていた疑心も、まるで最初から存在していなかったかの様に、こそこそ鳴りを潜めていく。
気高きドラゴンたり、新たなる領主たる者の内心が、斯くも幼稚なものとあっては、ちんけな疑心を抱く事自体に、気恥ずかしいものを覚えてならなかった。
勿論、心優しきニュウが、気を利かせて、冗談めかしてくれただけなのやも知れぬ。
だが、正面を見据えず、未だ目のやり場に困り果てるニュウの言葉を、ルゥは純粋に信じた。
信じる事が出来た。
「……という訳で……怒ったか?」
「い、いえ、別に。むしろ、すみませんでした。貴女の意向に添えず、非効率な仕事ばかりしていて」
「あっ……いや、その事、何だが……。すまん、あれはやはり貴様が正しかった。今回の一件で身に染みた……」
「どういう意味です?」
「むぅ、そうか、貴様はまだ子細を聞いておらぬのか」
ルゥが頷くと、ニュウは頬の辺りを引っ掻きつつ、今日発生した、襲撃事件について語った。
襲撃者の正体は、ニュウが一夜で追い散らした、前領主と、彼らが雇った数多くの傭兵たちであった。
彼らは密かに武器などを運び込み、街の内から転覆の機会を窺おうとしていたらしい。
しかし、ルゥがきちんと門番をしている間は、彼らの大半が門前払いを受け、計画は全く進行せず、離反者も続出していた。
そんな彼らに転機を与えてしまったのが、皮肉にも、新領主であるニュウであった。
ルゥの職務が妨害された事で、街へと大量に入り込んだ襲撃者たちは、遂に計画を実行。
絶対的なマレフドラゴンたるニュウを、街外へと連れ出し、その間に、街を奪還しようとした。
奪還とはいっても、手当たり次第火事を起こす、過激、過剰なやり方から鑑みれば、意趣返し的な想いの方が強かったのだろう。
そして、結局、決行以前に、多くの離反者を出していたせいもあってか、街の者たち、特に鬼神の如き戦意を見せつけた、門番ルゥの抵抗に遭い、襲撃は失敗に終わった。
主犯である前領主も、他の者同様、ルゥに斬り伏せられていた。
今現在分かっている事を、一通り伝えると、ニュウはため息を吐く。
「浅はかであった。あれが偽りの手紙だと気がついていれば……。いや、そもそも、貴様を邪魔しなければ、こんな事にはならなかった……。本当に、すまなかった」
「いえ、僕の方こそ、すみません。怪しい人物が居ると知りながら、その事を誰にも伝えられませんでした……。それに、仕事が遅過ぎたのも、確かですから」
「いいや、門番とはあれくらい用心深く、責任感を持って熟すべきなのだ。……それで、貴様さえ良ければ、このまま門番を続けてはくれぬか?」
「良いのですか?」
「あぁ、むしろ、頼みたい。だが、住処に関しては、別に用意させて貰うぞ?あのボロ屋は、あまり良いとは思えんからな」
「……街の中ですか?」
「あぁ、此処だ」
「え?ここ?でも、このお屋敷は貴女の物では……?」
「……貴様さえ良ければ、貴様の物とも呼べるようになる」
ニュウの意味深な、謎かけめいた言葉に、ルゥは疑問符を浮かべ、首を傾けて見せる。
自分さえ良ければ、自分の物になる。
およそ女手一つで育て上げられ、母以外との人付き合いも無く、これからもずっと一人きりで生きていくものと、つい先刻まで決意していたルゥにとって、遠回しなニュウからのアプローチの言葉は、小難しいものであった。
暫しの間を置き、尚純潔な、清らかな、やや赤らんだ顔を向けるルゥに、仕方なくも、ニュウは身体を寄せる。
心に浮かんでは消えていく、きっと、口にすれば、目の前の少年などは、顔と下半身を特に真っ赤にしそうな、所謂お下品な言葉を吐き出せば、彼とて、こちらの想いを理解出来よう。
だが、血筋か、種族柄か、口先からは、あんな格好付けた言葉しか、出てきそうになかった。
だから、ニュウは目の前の小さな少年を、また胸に抱えた。
茹だっていく顔中に、何度も口づけし、膨らんでいく股間を愛撫する。
そうして、碌な抵抗など出来もせず、生まれて間もない短き人生において、僅かばかりしか経験した事の無い絶頂に達し、放心するルゥに、ニュウは改めて問いかける。
「我が夫となれ。良いな、ルゥ?」


窓の外を見つめると、また雨が降り出していた。
降っては止み、止んでは降るを繰り返す、はっきりとしない、覚束ない天気には、ほとほと困らされる。
およそ殆どの復興が終わり、昼も夜も関係無く、鮮やかな灯火を灯せる様になったとはいえ、街の全てが元通りになった訳ではない。
今少しの復興作業は残っているのだが、流石に時雨降りしきる中でも決行、という訳にはいかなかった。
それに、作業員といっても、ほんの少しの刺激で、白昼堂々情事を見せびらかしてしまう者たちである。
雨などという、仕事を中断するのには、打って付けの言い訳を、見逃す筈もなかった。
ルゥは深いため息を吐いた後、自らの身体を眺める。
あれから数週間、全身を覆っていた包帯は、全て取り払われている。
最後まで残されていた、冗談抜きで、正に穴が開いていた腹部のものも、今夜からはもう巻き直さずとも良い事になっていた。
全治全快、とは言い切れぬが、調子は良いものであった。
少なくとも、あの小屋に居た頃よりも、ずっと。
だが、ニュウは頑なに、ルゥの肉体労働を許可しようとはしなかった。
傷口が開いたらどうする、骨が変になったらどうする、死んだらどうする。
時に本気で怒り、時に涙すら滲ませながら引き止め、しかし、夜の営みだけは欠かさぬ、愛しいニュウの心遣いを、無碍には出来なかった。
その結果、復興計画に数週間の遅れを生じさせているのだった。
ただ、それも今晩までの事であろう。
ルゥは熱く、重たくなる額を、外気に冷やされる窓にくっつける。
包帯を外して良いという許しを得た以上、手厚い加護に甘んじている訳にはいかない。
何とか心配性のニュウを説得して、復興作業は勿論、門番としても復帰しなくては。
生温かい空気を一息吸い、それを窓へと吐きつけて、ルゥは振り返る。
目の前には、黙々と湯気を上らせる、大きな大きな浴槽が置かれている。
浴室のど真ん中に在りながら、部屋の過半以上を埋め尽くすそれは、この日、ルゥの肉体が治り、夫婦揃って湯浴みを楽しめる日の為に、ニュウが特注した物であった。
医者である叔父に詰め寄り、今日という日を逆算させてからは、毎日指折り数え、楽しみにしていたニュウならば、さぞ機嫌も良かろう。
なれば、交渉するのは、此処以外にあり得ない。
次第に早鐘へと変わっていく鼓動を、深呼吸で落ち着けていると、浴槽越しに扉が、静かに開かれる。
顔が一気に熱くなる。
全身に一気に血が回っていく。
夫との入浴を楽しむ為にやって来たニュウの、当然に一糸纏わぬその姿が、あまりに美しく、
あまりに魅惑的であった。
水滴に塗れた床を慎重に、ぺたぺたと歩んでくると、ニュウはいつもの様に、ルゥの頬に唇を寄せる。
「待たせたな。先に入っても良かったのだぞ?」
「そ、そういう訳にも……」
「ふふっ、相変わらず優しいな。……それとも、我にコレを見せびらかしたかったのか?」
ニュウはにやりと微笑み、呆気なくも、既に大きくなってしまっているルゥのモノを撫でる。
未だ少年と呼ぶに相応しい、幼いルゥの口から、情けない吐息が漏れ出す。
顔を合わせる度に、熱い口付けを交わし、しない日などないくらい、肌を重ね合わせ、互いに数えきれぬ程の絶頂に達しても、ルゥの心身が、ニュウの魅了に慣れる事はない。
それどころか、その魅力や妖艶さに、日に日に惹きつけられてさえいた。
……駄目だ、しゃんとしなくては。
奥歯を噛み締め、下腹部同様に蕩けそうになる頭を振ると、ルゥはたどだどしい手つきで、ニュウを浴槽へと導く。
主の為と、普段以上に気合いの入ったメイドたちによる、入念な準備のお陰か、湯は丁度良い、何時までも入っていたくなる温かさに保たれていた。
首筋に手を回し、抱きついたニュウが、やや不満げな顔を向ける。
「もう入るのか……。一、二発くらい、外で出させてやりたかったのに」
「うぅ、勘弁してください……。流石に昨日みたい、十回も出したりすると、きついです」
「戯け、その程度では、我が夫は務まらぬぞ。それに、無理なら無理で、小さくし続ければ良いのだ」
「無理ですよ、そんな事……」
「ふふん、何故だ?」
「綺麗過ぎるんですよ、貴女が……!」
「正直でよろしい」
頬をやや赤らめたニュウが、また唇を寄せる。
示し合わせずとも、それが深いものとなろう事を察したルゥは、自ずと舌を絡め合わせた。
お互いの唾液が混じり合う、淫らな水音が、音の殆どない浴室に響き渡る。
耳はすっかりそれに犯され、鼻もニュウの色香に惑っていく。
両手はその柔肌を離せず、目は端正な顔と、整った乳房、そして、水面にぐちゃぐちゃと映る秘部に釘つけであった。
もう限界だ。
唇同士の繋がりが解かれ、代わって、ニュウの手がルゥのモノとの繋がりを求めた瞬間、彼の身体はぶるりと震えた。
「あ〜あ、もう湯が汚れてしまったな」
「ご、ごめんなさい……」
荒ぶる呼吸と共に上下するルゥのモノを片手で扱きつつ、ニュウは先端より溢れる、泥の様に固まった、白濁液を掬う。
そして、今にも火が噴き出しそうなくらい恥ずかしく、また、情けない想いに、意気消沈する夫を励ます様に、軽く口付けると、手のものを一気に呑み込んだ。
だから、そういう所なのである。
狂おしい程に愛しいニュウが魅せる、その深い愛情表現に、ルゥの下腹部は、また大量の血液を自然と欲し始めてしまう。
ニュウは悪戯っぽく笑み、扱く手を少し早める。
先っぽの残り汁が出なくなった頃には、二発目の発射準備が整っていた。
ルゥは慌てて、ニュウの手を制する。
このままずるずると行っては、大事な話が出来そうにない。
「あ、あの……!少し、待ってください!」
「む?何だ?せっかく乗って来た所なのに」
動きだけを止め、モノをがっちりと掴んだまま、ニュウは口と目つきを尖らせる。
一呼吸ついた後、ルゥはゆっくりと胸の内を吐露した。
身体を動かして働きたい事、ニュウの心配が有り難かった事、そして、心と身体が前よりもずっとずっと良い事を。
ニュウは黙ってそれを聞いていた。
だが、その返事はあまりに簡素なものであった。
「駄目だ、ルゥ。お前はもう少し、休んでいろ」
「何故です?身体は十分……」
「身体の事ではない」
ニュウはため息交じりに首を横に振る。
それから、鼓動を聞くように、ルゥの胸へと、両手と頭をぴたりとくっつける。
「我が心配しているのはな、ルゥ。此処なのだ」
「心臓?」
「うむ。お前の心だ」
「……」
「我は、またお前が頑張り過ぎるのではないかと、心配しているのだ。頑張って働いて、街の者たちに報いねばならないなんて、またそんな馬鹿な考えを起こしているのではないかと、不安なのだ」
「ニュウ……」
何処かより、か細い隙間風が吹き抜ける。
それは、ニュウの身体を小さく震わせ、縮こめられたものを、更に縮こめる。
並び立てば、未だ背の高さで負け、器量の大きさ、人望の厚さでも遠く及ばぬ筈のニュウが見せる、普段とはあまりにかけ離れた、弱々しい姿に、ルゥは胸を締め付けられる思いであった。
驚き以上に、嬉しさ以上に、申し訳ない気持ちが、何より強かった。
ルゥはニュウの身体を抱きしめ、顔中に口付けを堕としていく。
愛しい妻を、慰める様に、安心させる様に、勇気づける様に、
「ありがとうございます、僕の事を、そんなにも考えていてくれて」
「……当然だろう。我はお前の妻だぞ」
「えぇ、そして、僕は貴女の夫です。でも、だからなんです。だから、汗水垂らして、また働きたいんです。貴女の為に」
「……」
「正直に言えば、街の方々には、まだ後ろめたさがあります。でも、前程じゃありません。笑って話しも出来ますし、一緒に作業をサボったりもします。償いとか、報いたいとか、そういう気持ちに、今はもう振り回されてはいません」
「働きたいのは、あくまで、我の為だと……」
「はい。領主である貴女の役に立ちたいんです。隣に居ても恥ずかしくない夫になりたいんです。それから……」
「それから?」
「貴女にもっと褒めて貰いたいんです。好きになって貰いたいんです。愛して貰いたいんです」
口にしてから、ルゥは一人苦笑いを浮かべた。
情けない理由であると端から分かりきっていたが、こうして口にしてみると、想像よりもずっと情けない。
況してや、その為に、要らぬ心配をさせているとあっては、情けないにも程がある。
しかしながら、ほんとのほんとに、これだけなのだ。
今のルゥにとっては、ニュウから好かれ、褒められ、愛される事が全てであった。
今に満足していない訳ではない。
ただ、もっと頑張れば、もっと愛して貰えるのではないか。
幼稚に、そう考えただけなのだ。
ぴちゃ、ぴちゃ、と水滴の滴る音だけが、浴室に響く。
ルゥは、抱きしめたままのニュウからの返事を、じっと待ち続けた。
「……分かった。お前の気持ちは良く分かった」
「なら……」
「あぁ、身体を動かす事を許可してやる。但し……!」
がばっと、一瞬身体を引き離したニュウの顔が、再びルゥの胸へと着地する。
より正確に言えば、快楽の余韻に浸り、硬くなったままであった片乳首に、鋭い牙が襲いかかった。
驚きとも、喜びとも取れる、奇妙な悲鳴が漏れるも、それは直ぐに甘い喘ぎ声一色に代わっていく。
過去に如何なる肉をも噛み砕いてきたニュウの牙にとって、びんびんに隆起したルゥの柔らかな乳首を弄ぶなど、造作も無かった。
片側を口で、もう片側を手で、そして、当然に硬さを取り戻していく股間のそれを、ニュウは濡れに濡れた秘部で擦り上げ、刺激していく。
二回目の絶頂も、すぐであった。
湯船が、また白く濁っていく。
両の乳首を赤く膨らまし、だらしなく垂らした舌先から涎を垂れさせて、ぶる、ぶると震えるルゥに、ニュウはいやらしい笑みを浮かべる。
「但し、この我を、お前が出す以上にいかせられたらな?」


ぱんぱん、ぐちゃぐちゃ、あんあん……。
そんな音と声のみが、すっかり湯気と熱気に埋もれた浴室に、数刻響き続けていた。
もはや、達した回数など、共に正確には数えてはいなかった。
理性と思考が蕩けきり、ただ本能的に、目の前の妻を悦ばせ、善がらせ、酔わす為、遮二無二と腰を振り、濁り汁を飛び散らせるルゥは無論の事。
夫からのあどけないラブコールに、母性と子宮とをすっかり擽られ、一匹の雌へと堕ちてしまったニュウも、似た様な有様であった。
ただ、ニュウには、その差が縮まりつつある様に感じられていた。
「ま、待て……!イッた……!今イッてるから……!んああっ!」
「ニュウ……!ニュウ!」
まるで一体化でもしてしまったかの様に、膣内から離れきる事無く、ずっと動き続けるルゥのモノに、ニュウは涎を垂らしながら喘ぐ。
絶頂を迎え、密壺が迷宮の様に捩れても、形を矯正し、強引に奥へと入り込んでくる夫のモノの前には、それ以外に為せる事が無かった。
枯れかけた声で愛を囁いても、夫は止まらず。
牙がガクガクと震える口で、口淫を誘っても、夫は見向きもせず。
手形、歯形さえつく、乳房や乳首をいくら揺らしてみても、夫の興味は少しも逸れぬのだ。
双方から止めどなく溢れる異種、異性の粘液同士が絡み合い、結合部はすっかり泡立って、淫らな音を鳴らし続ける。
それは、屋敷中に響いていそうな嬌声を上げるニュウの耳にも、不思議と届き、更なる愛液を分泌させていく。
そして、突けば突く程、出せば出す程、滑らかで、艶やかとなる膣に、ルゥの本能は刺激され続けた。
「んっ!」
「あぐっ……」
浴槽の縁に捕まっていた筈のニュウの身体が、ほんの少しだけ浮き上がる。
妻を気持ち良くする為、妻を悦ばせる為、妻を孕ませる為、ルゥは、いつもそうする様に、我慢の限界まできたモノそれを、思い切り射し込んだのだ。
ばちゅん、という男女の肉と、粘液と、濁り湯とがぶつかる音は、もうニュウには聞こえなかった。
聞こえるのは、力尽きる様に覆い被さってくる、ルゥの胸から伝わる鼓動音と、己の腹の中でどくどくと轟く、それに似た何かの音だけだった。
そして、その音も、遂に聞こえなくなった。
ルゥの腰が、また激しく振られ始めたのだ。


おめでたです。
ルゥの叔父にあたる街医者より、そう伝えられたニュウは、特に驚きはしなかった。
あれだけヤっていれば、然もありなん。
むしろ、嘔吐やら、発熱やらの体調不良に、錯乱したかの様に気を動転させた、ルゥとメイドたちによって、泣く泣く受けさせられた、凡そ半日掛かりの検査がやっと終わった事に、安堵する想いの方が強かった。
無論、嬉しい事は嬉しいが。
待合室にて、心配性の夫たちを納得させる為の、何十枚もの書類の作成を、のんびり待っていると、ふと、窓の外で白い物がちらつき始める。
雪だ。
寝ても覚めても、何処までも続き続けていた曇り空から、遂に雪が降り始めた。
路行く者たちも空を見上げ、喜びはしゃぐ、或いは不愉快そうに歩みを早めていく。
どうやら、自身が強烈な催眠剤と共にベッドに縛り付けられている間に降雪は無く、これが初雪らしい。
「おや、降って来ましたね」
「あぁ、その様だ。出来たのか?」
診察室より出てきた街医者は、分厚い紙の束と、湯気を発する茶色の液体の入ったカップを差し出す。
ニュウはそれらを暫し見つめた。
検査結果と書かれた紙の束には、小難しいというか、間怠っこしいというか、まるで虫が這いずり回るかの様に、要点が散りに散りばめられた、とどのつまりは、妊娠を祝うだけの文章が、だらだらと書き連ねられている。
気苦労な者たちへの手土産品を、ものの数秒で読破したニュウが、逆に訝しげな顔を向けたのは、カップの方であった。
紅茶よりもやや濃い茶色をしたそれは、香りも知っているものとは違う。
恐る恐る口をつけると、酷い苦味が口中に広がっていく。
「うぇ……。何だ、これは……?」
「たんぽぽ茶、というものだそうです。なんでも妊婦の方の身体には、特に良いとか」
「こんな苦いだけのものがか……?」
「良薬は口に苦し、という言葉もあります。それに、効能については確かです」
「ふん。全く何処でこんな物を手に入れるのか……。いや、待てよ、これはまさか、ルゥか?」
「えぇ。初めはあの子が持って来てくれたんです」
空いた座席に書類とカップを置き、ニュウは溜め息を吐く。
セックス勝負に、一応引き分けて以来、再び門番の任に就いたルゥは、以前変わりなく、律儀な仕事を続けている。
だが、妊娠によってニュウの体調が優れぬ様になると、彼は手当たり次第に、やって来る商人たちより、身体に良さそうな物品を購入するようになっていた。
病に効く薬草、心を落ち着かせる香りの花、筋力を保つ道具、悪い気を遠ざける家具、読めば幸せになる本、などなどなどなど。
数えればきりが無く、片付ければ部屋一室を満杯にしそうな、ゴミの数々。
今日、ニュウが仕方なくも、検査を受けたのは、こんな夫の心配性を癒やすのが、何よりの目的であった。
それにしても、自身の母を見捨てた筈の叔父にさえ、怪しげな物を渡しているとは思わなかった。
彼を、街の者たちを赦すことが出来たのだろうか。
ニュウがその事を尋ねると、医者は、はにかんだ微笑みを浮かべる。
「どうなのでしょうね?あの子はただ、本当にこのお茶が貴女に効くのかどうか、聞きに来ただけでしたから」
「なんだ、それだけか……」
「それだけです。でも、僕としては、今はそれだけでも十分です。きっと、他の方々もそう思っているはずです。ずっと、見捨てるに見捨てられず、でも、救う事も出来無かったあの子が、元気に街の中を駆け回っている。それも、愛する者の為に。それだけでも、僕としては救われる想いです」
「……」
男の言葉に、ニュウは無言で応えた。
本音を言えば、街医者の言葉は、身勝手以外の何ものでもなかった。
如何なる風習、因習が在ろうとも、街外へ出た実の妹とその夫、そして、その子であるルゥを忌避してきたという過去は取り消せぬ。
例え、領主が人でない者に代わろうとも。
辛き、苦き過去を語ってから、涙を滲ませながら眠りに就く、幼気なルゥの横顔が、脳裏に浮かぶ。
だが、ルゥ自身が吐露した様に、彼もまたその弱き地位を奮っていたのも事実である。
母の恨み辛みを隠れ蓑に、街の者たちの罪悪感を駆り立て、心と身体に無理矢理な延命処置を施していた。
どっちも、どっち、か。
ニュウはたんぽぽ茶を一気に飲み干すと、笑みの浮かばぬ自然な顔で礼を告げて、診療所を出る。
透明なガラス一枚通して見た時よりも、降る雪の粒は多く、大きいものであった。
熱っぽい頭を空に向け、ぼんやりと霞む瞳で空を見つめていると、整備されたばかりの街路を蹴りつける、激しい足音が近づいてくる。
「ニュウ!」
名を呼ばれて、やっと顔を向ける。
其処には、曝け出した頬や鼻先を真っ赤に染め、口と鼻から真っ白な吐息を吐き出す、ルゥの姿があった。
「ルゥ?お前、門番の仕事は?」
「サボって、きました……!心配だったので……!」
「むぅ……。そ、そうか、それは、手間を掛けさせてすまんな」
「大丈夫です、たぶん……!それで、結果はどうでしたか……!?やっぱり、何かの病気か何かでしたか……?」
「あぁ、案ずるな。単に身籠もっただけだ。体調不良もそのせいだ」
「身籠もる、それって、つまり……」
「お前との子どもが出来た、という事だ」
幾重にも巻かれた腹巻きの上から、ニュウは愛おしげに自らの腹部、新たな生命が宿った部位を撫でて見せる。
すると、せめぎ合っていた筈のルゥの紅白は、一気に紅に傾いた。
案の定、彼の頭の中に妊娠の二文字は無かったらしい。
息さえもが止まり、赤一色になるルゥの頬を、ニュウはぺちぺちと叩く。
「しっかりせい。そんな姿、子には見せられぬぞ?」
「は、はい……!すみません、気をつけます……!」
「ふふっ、ならば良い。では帰ろう」
絡め合う様に手を繋ぐと、夫婦は帰路についた。
屋敷へと向かう道すがら、二人が話したのは、未来の事であった。
変えようのない暗い過去でなく、きっと明るいものとなろう、いや、必ずや明るいものする、希望の未来の事だけを。
そして、まだ見ぬ子に誓い合うのだった。
皆を愛し続ける事を。
皆で幸せになる事を。

24/09/24 21:55 ゆうおく


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