連載小説
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三夜目:ヘルハウンド(時々ドラゴン) 前編
ーー本当に、いいのね?

目の前のサキュバスに、アタシは頷いてみせる。

相手の手には、つい先日まで一緒に暮らしていた少年の手が握られている。ガラス玉のように、何一つ感情の輝きを持たない瞳に見つめられ、ズキリと胸が痛んだ。

ーー二年間、アタシはコイツと一緒にいた。けど、アタシにはこれが限界みたいだ。悪ィけど、後はそっちで頼むよ。

ーー二年も一緒にいたんでしょう?貴方は、それで本当にいいの?

アタシは、力無く笑ってみせた。

二年間掛かっても、コイツに生きる気力を与えてやることは出来なかった。これ以上一緒にいたところで、事態が好転するとは思えない。

ーー今のコイツには、ずっと一緒にいられる家族が必要なのさ。チンピラのアタシにゃ、どうしようもできないからね。アンタに預けた方がコイツのためさ。

ーーそう……わかったわ。この子は、私が責任を持って育てるから。

その言葉を聞いて、安心した。

少年の前に膝をついて、その真っ白な頬を撫でた。

ーー中途半端な保護者で悪ィな。けど、ちょくちょく顔を見に来る。こっちが落ち着いたら、今度こそ一緒に……

アタシは首を横に振った。こっちの勝手で押し付けたくせに、そんな都合の良いことを口にしてもいいはずがない。

でも、せめて最後にーーー

アタシは少年の身体を抱きしめ、頬に口付けをする。目一杯少年の匂いを吸い込んで、立ち上がった。

ーーじゃあな、マルク。

これは遠い日の、ある人間と魔物の別れの記憶ーーー



「あんっ!やぁっ、あぁんっ!イイっ、お兄さんのココ、気持ち良すぎだよぉっ!」

天井に吊るされたランタンによってうっすらと照らされた部屋に、女性の艶やかな嬌声が響き渡っていた。

しかも、それは一つだけではない。幾つもの異なる女達の喘ぎ声が折り重なり、土の地面にただカーペットを敷き詰めただけのその部屋には荒く鼻を鳴らしながら腰を振るオークから活発そうなゴブリンといった何十人もの魔物娘と、彼女達によって組み敷かれ、陵辱の限りを尽くされる男達の姿があった。

彼女達の周囲には引き千切られたと思われる男達の衣類の残骸が散らばっており、男達はもはや抵抗も出来ないほど息も絶え絶えといった様子である。相当な時間、少なくとも半日は精を搾られているに違いない。

「も……もう勘弁してくれ……これ以上されたら、死んじまう……」

「だいじょーぶ♪お兄さんのおちんちん、まだこんなに元気なんだもん。ほら、私の魔力も分けてあげちゃう。だから頑張って……ちゅー♪ 」

手足を投げ出した青年の上で激しく腰を振りながら無邪気にゴブリンの少女は覆い被さるようにキスをする。繋がった唇から彼女の魔力が補填されるように流れ込み、青年の身体をより上質な精を製造できる身体へと作り替えていく。

搾っては送り込み、さらに搾っては送り込む。そのサイクルを今日の昼頃から何度も続け、今に至る。

だが、それでも男の方には限界があるらしい。遂に気を失ってしまい、どんなに責めても何一つ反応をしなくなった男から愛液と精液まみれの腰を上げ、満足げな笑みを浮かべた別のゴブリンの少女は、とてとてと部屋の隅で退屈そうに椅子に腰掛け、テーブルに頬杖をつく一人の魔物へと駆け寄っていった。

「おやぶーん!今日の獲物はなかなか上質ッス!おやぶんも一人どうですか!?」

少女への返事の代わりに、頬杖をついていた魔物はテーブルに転がされていた琥珀色の酒の瓶を掴み、コルクを親指で弾き飛ばすと、ゴクゴクと喉をならして一気に中身を流し込んだ。

その女はランタンの明かりに照らされてなお、黒かった。色黒の肌と、手足と胴体の一部を覆う黒毛。腰下まで伸ばされたややクセのある黒髪から、犬のような尖った耳が顔を出す。手足を鋭い爪によって武装し、眼光は鷹よりも鋭く、双眸は紅玉のような妖しくも美しい輝きを湛えていた。

動物の皮を鞣しただけの粗雑な革を胸と腰に巻き付け、申し訳程度の防具として鉄製の無骨な胸当てを身につける。見るからに無法者といった身なりだが、胸はギチギチと防具を内側から押し上げるほどに豊満で、腰巻きの裾から覗く締まった太股はむっちりと健康的な張りがある。高貴な美しさとは違う、荒々しい野性的な美しさを誇っていた。

彼女は、ヘルハウンドのグレア。その種族は、数多くの魔物娘の中でも凶暴性は折り紙付き。人間ならば誰もが恐れる、恐怖の象徴とも言える存在であった。

「お……おやぶーん……?」

「…けっ、人買いが通り掛かったもんで拐ってみりゃ、なんて根性の無さだ。どいつもこいつも、一時間も経たねぇ内に泣き言をほざきやがる。とんだ腑抜け野郎どもだ」

憎々しげに呟き、ゴブリンから親分と呼ばれたヘルハウンドは空になった酒瓶を壁に向かって投げつける。盛大な音を鳴らしてガラスが砕け散るが、大絶賛乱交中の部下達の耳には一切届かなかったらしい。彼女の苛立ちを余所に盛る部下達にさらなる怒りを覚えつつも、気を紛らわせるように新しい酒に手を伸ばした。

ここは、魔界と外界の境界近くにそびえる険しい山岳地帯のとある洞窟。彼女達は、グレアを筆頭にこの付近で暗躍する盗賊団であった。

獲物は主に、彼女達の縄張りに迷い込んだ商人や旅人、そして勇者の一団である。金目の物は根こそぎ強奪し、男であれば精魂尽き果てるまで犯し尽くして、女ならばサキュバスに変えてから仲間に加える。

今回はたまたま奴隷商の一団が通りがかったため、捕らえて腐った性根を叩き直すべく、お仕置きを兼ねて近場で夫のいない魔物娘達を呼び集め、集団逆レイプと洒落込んでいる最中であった。奴隷商達に捕まっていた哀れな奴隷達も、今頃別室でたっぷりと精を搾られ、部下達の伴侶にされていることだろう。

「お、おやぶん、おやぶんはヤらないんですかい?今回は割と綺麗所多いし、好きなだけ選び放題ですぜ!」

「ふん……」

手元の酒から視線を上げ、グレアは壁際に立たされながら部下達に品定めされている哀れな男達を視界に映した。

しかし、数秒と経たない内に重い溜め息。すっかり興醒めだとばかりにテーブルに足を乗せ、天井を見上げた。

「…アタシはいらねぇ。お前らで決めちまいな」

「はーい!あっ、お兄さん起きたぁ♪」

元気よく返事をして楽しい搾精タイムに向かおうとするゴブリンの腕を、グレアは突然掴まえた。

「おい、アタシは明日街に出る。お前らは適当にヤって待ってな」

「えーっ!おやぶんだけズルいッス!皆も連れてって下さいよ!」

「バカ、こんな大所帯で出歩けるか。土産物買ってきてやるから、留守番でもしてろ」

「むぅ……絶対ッスよ!」

「よし……良い子だ」

手を離してやると、ゴブリンは男の元に戻っていく。直後、悲痛な男の叫び声が上がったが、グレアは我関せずと瞳を閉じた。

「…そろそろ、迎えに行ってもいいか……なぁ、マルク……」

そう呟くグリアの脳裏に浮かぶ、ある一人の少年の顔。ほんのりと黒い肌を桜色に染めながら、彼女の意識は深い眠りの中へと落ちていったーーー



銀雪館。それは、魔王城城下町で一番人気の男娼館。その由来は主人のサキュバスとその夫が初めて出会った場所、もしくは新婚旅行に行った場所の景色と噂されているが、真相は定かではない。

そんな男娼館だが、他の店と比べると明らかに雰囲気が違う、と利用した魔物達は口を揃える。スタッフも男娼も、生まれも種族も違うのに皆家族のようにお互いを慕っている。

基本的に、こうした身体を売る店というのは雰囲気がなんとなく殺伐としがちなのだが、その明るい雰囲気について、秘訣は何なのか。店の主人であるサキュバス、クラウディアはこう答えている。

「そうねぇ……週に何回か、レクリエーションをやってるからかしら♪」

そのレクリエーションは主に男娼が計画し、発案した男娼が休みの日に行われるのだとか。ちなみに、本日の休みは銀雪館の一番人気、マルク。彼が発案したレクリエーションとはーーー

「…えっとね、ここはこう。こっちに繰り上がるから……そう、合ってるよ」

ここは、銀雪館一階のスタッフルーム。部外者一切立ち入り禁止となっているそこでは幾つもの長机が並べられており、男娼達が机に向かってペンを持ち、勉学に励んでいるのだった。

「せ、先輩ッ!ここの計算は一体何がどうなっちまってんですか!?俺ァ頭が爆発しちまいそうだ!」

「はいはい、ちょっと待ってね。そんなに難しく考えなくても、ここをこうして……」

三人分の椅子に座り、頭を掻き毟りながら喚き散らす巨漢、ドルカス。マルクは机の間を抜けて彼の元へと駆け寄っていった。

彼が発案したのは、週に一度の勉強会。男娼といえど、文字や算数など必要最低限の知識は身に付けなければならないと、彼自ら教卓に立ち、休みが重なった男娼達に勉強を教えているのであった。

その生徒は、小さな少年からマッチョの中年まで。手の空いたスタッフに手伝われながら、マルクは並べられた机の間を忙しく走り回っていた。

「まったく……寿命の短い人間が学業に時を費やすなど、無駄にしか思えんな。この世のあらゆる生物の最終到達点は子孫繁栄以外に何があるというのやら……」

腕組みをしながら壁に寄りかかり、そうぼやくのはローレット。せっかくマルクと同じ日に休みを勝ち取ったというのに、全く構ってもらえずに少々機嫌が悪そうだ。

「到着点だけじゃなくて、過程だって大切ですよ。好きな人と一緒になった後も、こうして働くわけにもいきませんから。文字が書ければ代筆の仕事が出来ますし、算数が出来ればお金の計算が出来ます。ローレットさんみたいに、皆お金に余裕があるわけじゃないですから」

「金が無ければ、狩りをすればいいだろう?食える動物など、その辺にいくらでもいるぞ」

「生きていくことは出来ますけど、お金があるだけで、人は生活だけじゃなくて心も豊かになれます。実りある夫婦生活には、やっぱりお金が必要なんですよ」

「ならばマルク、お前はやはり私のものになるべきだな。ちょうど金ならば腐るほどある。いっそ、城で終始乳繰りあっているアホ共の領土の一角を買い取って、私達だけの国を作ろう。うむ、それがいい」

「僕はまだお店を離れるつもりは無いので、遠慮させて頂きますね。お金に満たされた生活、というのも理想とちょっと違うので」

然り気無くぶっ込んだ誘いを、あっさり断られてしまった。ローレットは周囲に聞こえない程度に、そっぽを向きながら舌打ちをした。

「あらあら、皆頑張ってるわねぇ。そろそろ一息入れない?美味しいクッキーが焼けたのよ〜」

ローレットが黙ってからペンを走らせるだけの音が聞こえる部屋にやってきたのはクラウディア。その手にはチョコチップを散りばめたクッキーの入った大皿が抱えられ、焦げたチョコの芳ばしい香りが勉強で疲れた身体に染み渡るようだ。

「ありがとうございます、クラウディアさん。じゃあ皆、今日はこれくらいにしようか」

『はーいっ!!』

「ふぃ〜……頭が割れそうだぜ……」

まだまだ元気な少年男娼達はバタバタとクラウディアに群がっていき、終わりと同時にばったりと力尽きるドルカス。さほど疲労は感じていないマルクも他の男娼に混ざって大皿から一枚のクッキーを摘まみ、かじりついた。

「マルクちゃんのおかげで助かるわ〜。男女二人で支え合う生活こそ、本当の夫婦って感じだもの♪」

「私ならば、夫を働きに出したくはないものだな……いつでも、すぐ手の届く位置に置いておきたい」

マルク君達を少し離れた位置から眺めながら、クラウディアとローレットは他愛ない言葉を交わす。種族が違うため感性に違いがあるのは仕方の無いことだが、夫に対する愛情はどちらも高い。

すると、ふとローレットにある疑問が浮かんできた。

「しかし……マルクはどこで学力を身に付けたのだ?」

「あら、そういえばそうね……」

ローレットとクラウディアは顔を見合せ、揃って首を傾げる。

マルクは文字の読み書きに計算の他、さらに難解な計算式や宗教学など、大方通常生活する分には不必要な学力までも身に付けていた。

それだけの知識を身に付けようとするのならば、街の私塾などでは到底足りない。もっと大きな街にある学校や、レスカティエ皇国が熱心な信者にのみ門を開く宗教学校に通う必要がある。

単純な話、勉強には莫大な金が掛かるのだ。マルクがどうやって知識を身に付けたのか、確かに気になるところではあった。

「ならば、直接本人に尋ねてみるとするか。おい、マルク」

「ちょ、ちょっとローレットちゃん……!」

「はい?なんですか、ローレットさん?」

談笑を中断して、マルクは振り返った。何故か必死に止めてくるクラウディアを、ローレットは片腕で制していた。

「いや、一つ気になったのだが……どこでそれだけの知識を身に付けたのだ?お前の生まれは一体どこにーーー」

「ローレットちゃんっ!」

耳元で大声を出され、鼓膜だけは常人程度だったローレットは思わず耳をすくませる。

「なんだ、先ほどから騒々しい。お前も気になると言っただろうが」

「ち、違うのよローレットちゃん。こういうお店で、そういうことはーーー」

「…いいんですよ、クラウディアさん。僕は、そういうのあまり気にしてませんから」

「そらみろ。お前は何を気にしてーーー」

なにやら焦っているクラウディアを押しやり、再びマルクへと顔を向けるローレット。

しかし、この瞬間、彼女はクラウディアの焦る理由を理解し、浅はかな自分の台詞を後悔することとなった。

普段通りの笑みを浮かべているマルクだが、彼の笑みから伝わってくるのは、光すら届かない深海のような悲壮感。感受性豊かなローレットが察せないはずがなく、マルクの異変に気付いた他の男娼達もピタリと口を閉じていた。

「…よくお店を利用されていたローレットさんに、僕から一つ良いことを教えてあげますね。こういうお店で働いている人間に、そういうことを尋ねるのはマナー違反というものですよ」

自ら、このような店で働きたいという者はほとんどいない。ある者は戦争で、またある者は親に売られ、何かしら辛い思い出と傷を背負って働いている。聞いて楽しい話題が出るはずがないのだ。

「い、いや、マルク……その、だな……決して悪気があったわけではないのだが……」

「ええ、わかっていますよ。ローレットさんは優しい方ですから、単なる好奇心で尋ねただけだと思いますから」

さすがに悪いことを聞いてしまったという罪悪感があったのだろう。まごまごと小さくなっていくローレットに、マルクは今度こそいつもの笑顔を見せた。笑顔の裏に張り付いていた悲壮感も、どこかへと消え去ってしまっていた。

「…そ、そろそろ、今日はお開きにしましょうか!さぁ皆、片付けたらお部屋に戻ってちょうだい。お出掛けする人は誰でもいいからついてもらうのよ」

無理矢理暗い雰囲気を払拭しようとしたクラウディアの功が奏した。皆部屋を出るタイミングを窺っていたのか、バタバタとスタッフルームから我先にと飛び出していった。

それに便乗して、どうやらクラウディアも退散したらしい。あとに残されたのはマルクと、脱出のタイミングを誤って取り残されたローレットだけであった。

「ま、マルク、本当にすまない。頼むから、見限らないではもらえないか……」

「ですから、気にしてませんってば。あんまりしつこいと本当に怒っちゃいますよ?」

恐る恐る尋ねてみるローレットだったが、どうやら杞憂だったらしい。ホッと胸を撫で下ろし、いよいよ本題とばかりに咳払いをした。

「ん、んんっ、ではお詫びといってはなんだが……この近くで旨い飯屋を見付けたんだが、一人で食っては味気無くてな。ほら、今日は互いに休暇なのだから、一緒にーーー」

「ろ、ローレットさん!まだいるかしら!」

ローレットの言葉を遮り、スタッフルームに飛び込んできたのはスタッフのサキュバス。その慌てぶりから、なにやらただ事ではなさそうだが、ローレットは無表情のまま自分を呼ぶ相手を振り返った。

「…月夜ばかりと思うなよ」

「はぇ?」

「いや、何でもない。何があった?」

「そ、それが……」

「何をやってやがるッ!さっさと出さねぇか!」

と、玄関ホールから聞こえてきたのは物凄い怒号。相当苛立っているらしく、聞いているだけでも思わず身がすくんでしまいそうだ。

「一体何があった?ただ事ではなさそうだが……」

「じ、実は、マルク君を出すように仰るお客様がいらっしゃって、今日は勤務日ではないことをお伝えしたのですが、そうしたら途端に怒り始めてしまったんです。アークさんとクラウディアさんは先ほどお出掛けしてしまいましたし……今のスタッフだけじゃどうにもならないんです!」

「要するに、手に負えんタチの悪い客なのだろう?よし、私が追い払ってやる。マルク、続きは後だ」

「は、はい……」

邪魔をされた報復をしてやるとばかりにいきり立ち、ローレットはノシノシとスタッフルームに向かっていった。

だが、マルクはそのタチの悪い客の声に聞き覚えがあった。

「今の声は、確か……あっ」

思い出して、ポンと手を打つ。そうと決まればローレットを止めなければと、マルクも小走りに玄関ホールへと駆けていった。

「なんだテメェはッ!関係ねぇヤツは引っ込んでろッ!」

「ふん……よく吠える駄犬だ。あまりおイタが過ぎると摘まみ出すぞ」

マルクが玄関ホールに出てみると、他の客やスタッフがザワつく中、カウンターの前で睨み合うローレットと、騒ぎの根源らしい魔物、ヘルハウンドの姿。

互いに豊かな胸を押し付け合うように詰め寄り、鼻先数センチと無いほど顔を近付けてメンチを切りあっていた。

「あのー……ローレットさーーー」

「テメェ……あんまナメてっと容赦しねェぞ。アタシはマルクを出せって言ってるだけだろうが」

「マルクは休みだ。今日は客は取らん。その足らん頭でも理解できるように言っているはずだが?」

「理解してねぇのはテメェだろうが。なんなら、今ここでテメェをぶっ飛ばしてマルクを引きずり出してもいいんだぜ?アタシが優しく言ってる内に、さっさと出せって言ってるんだ。わかるか?……トカゲ野郎」

「…次、その言葉を吐いてみろ。貴様を塵芥の一つも残らず焼いてくれる」

文字通り逆鱗に触れ、ローレットの怒りのボルテージが一気に有頂天。激しく睨み合う二人には、マルクの姿が一切目に入らないようであった。

だが、このまま店内で喧嘩をされては目も当てられない。かなりの力を持つ二人が争えば、ここまで育った店が瓦礫の山になるのは目に見えている。

それだけは、断じて阻止しなければ。マルクは最後の手段と、ポケットに手を突っ込んだ。

「やれるモンならやってみろ!このトカゲ野郎!トカゲ野郎!!トカゲ野郎ーーーッ!!!!」

「言ったな駄犬がァッ!!」

完全に頭に血が昇ったか、一撃必殺の拳が振り上げられる。これが降り下ろされた時が、破滅の開幕。救世主と成り得るか、マルクはポケットの中に忍ばせておいた物を掴んだ。

「ローレットさん、すみませんっ!」

マルクが取り出したのは、毒々しい緑色の綿が詰められた親指ほどの小さな小瓶。彼は小瓶のコルクを引き抜き、ローレットの鼻先へ向かって小瓶を突き出した。

「死にさら……むっ?なんだ、この匂、い……うぉああああーーーッ!?」

その瞬間、ローレットは悶絶卒倒。目に沁みるのか大号泣しながら鼻を押さえてバタバタと床の上で転げ回った。

「良かった、間に合った……」

ホッと一息。マルクは小瓶にコルクを戻した。

この小瓶は、先日ミラから護身用として渡されたもの。マルクが嗅いでも特段何も感じないのだが、ドラゴンだけが感応する強烈な刺激臭がするという。

早い話が、ミラからローレットに対する嫌がらせである。

「なんだ、コイツ。急にぶっ倒れやがって……って、マルクじゃねぇか!なんだよ、いるならいるって言えよお前!」

「ずっといましたけど、気付かなかっただけじゃないですか、グレアさん。それに、前にもお店で騒がないで下さい、って言いましたよね」

「いいじゃねぇか。すぐにお前を出さねぇ店の奴らが悪いんだからよ」

グレアと呼ばれたヘルハウンドは、マルクに気付くなりローレットから完全に興味を失って直ぐ様彼に抱き付いた。先ほどまでの殺気はどこへやら、わしわしと乱暴に頭を撫でながら、フカフカの毛皮に包まれた腕でぎゅっとマルクを抱きしめる。

「ただいま〜……って、あら、グレアちゃんじゃない!久しぶりねぇ」

「久しぶり、ってほど前じゃないだろ。大体一ヶ月くらい前じゃないか」

「まぁ、そんくらいじゃねぇか?それにしてもマルク、お前はやっぱ良い匂いだなぁ。他の女の匂いが邪魔くせぇけど」

「そういうお仕事なんですから、仕方ないじゃないですか……」

店の扉が開き、買い物に行っていたらしいクラウディアとアークが買い物袋を提げて登場。しかも、グレアとは顔見知りだったようで、困惑する周囲を置き去りにマルク達と和やかな会話に加わった。

「…そろそろ、説明をしてはもらえないか……」

やっと落ち着いたらしいローレットは力無く手足を床に投げ出したまま、周りの意見を代弁するように、なんとかそれだけの言葉を絞り出した。

「あら、そういえばローレットちゃんは初対面だったわねぇ。この子はグレアちゃん。泣く子も犯す盗賊団の頭領さんをやってるの」

「そのキャッチフレーズは止めておいた方がいいとあれほど……まぁいい。まぁ、簡単に言うとだな……」

ポリポリと言いにくそうにアークは頬を掻き、躊躇いがちに口を開いた。

「グレアは……マルクの育ての親だ」
17/11/22 09:25更新 / Phantom
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