読切小説
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ホーンテッドタウンへの帰郷
 街道を長身の女性が一人だけで歩いている。
 腰まで伸びた金色の髪を揺らし、腰には剣を帯び、背にある外套を風に靡かせて、足に履いたブーツの足音高く、一路魔界に沈んだ街へと向かう道を進んでいる。
 しかしその格好は、その道の先にある魔界へ向かう冒険者にしては軽装に過ぎ、金属や厚皮の鎧を身に纏うこともせず、演劇で出てくる女性軽装騎士の様に動き易さ優先の、胸元腰元に肌が見える程の衣の服を身に着けているだけ。
 教団の勇者でさえ、たとえ全身を鎧で覆っていたとしても、向かうだけで心痛で倒れそうな魔界への道を歩くには、その格好は無謀や無茶という言葉が真っ先に浮かぶ。
 だが彼女の表情は、彼女の性格を現しているかの様に、青空に浮かぶ太陽の様に光り輝く笑顔。
 歩む足運びは、見知った場所へ向かうかのごとく、警戒感がまったく無い軽快さで、腰に剣さえなければ、ピクニックにでも出かけているのではないかと錯覚させるほど。
 そんな足取りで進んでいた彼女は、小高い丘の頂上に足を付け、そこで一度足を止め、歩いている道の先――魔界に沈んだ街の全貌を見つめる。
 人の目では街の詳細を見ることは出来ないが、遠眼鏡や遠見の魔法が使えるものが見れば、此処からでもあの街を闊歩している存在まで、ちゃんと目に入れることが出来る。
 どうやらアンデット系統の魔物娘で支配されているのか、街道には一人身のゾンビやスケルトンがうろついて獲物を探し、路地裏ではグールが男を銜え込んで喘いでいる。建物の窓のガラス越しに、ゴーストらしき何人もの影が躍る。
 そんな街中に、支配者が如何にも住んでいそうな、大きな屋敷が街の中心部分にある。
 魔界に沈んでいるにしては、そこは庭園が小奇麗に整えられ、建物も手入れされているのか汚れてはいない。ただ全ての窓に、分厚いカーテンが閉められているのは気になる所ではある。
 そこで一陣の風が空気を運んでくるかのように、丘へ向かって吹き抜けてきた。

「あはっ。久しぶりだね、この空気」

 風に外套と髪の毛を揺らされながら、風の中にあった魔界の匂いに、懐かしさが込み上げてきたかのように、彼女の頬はより緩み微笑んでしまっていた。




 あの街に入り込んだ彼女を、街道をうろついているアンデット系の魔物娘たちは、襲うことをしなかった。
 男性であれ女性であれ、見つけ次第仲間に引き入れようとする彼女らにとって、この事は大変珍しいことだ。
 そのまま彼女は街道の真ん中を堂々と歩き、やがて街の中心にある屋敷の、固く閉ざされた鉄の門扉にまでたどり着いていた。
 普通の冒険者ならば、さあ行くぞと気を引き締める場面だろうに、彼女はあっさりと門扉を手で押し開き、庭園の植木並木に目を奪われる事も無く、中に入っていく。
 しかし庭園の中心にある噴水の前に一つの人影。
 この屋敷の執事だろうか、白いシャツと黒いベストに赤の短ネクタイを上に、下に黒いズボンに身を包んだ、短く綺麗に整えられた黒髪と、柔和そうな目の黒瞳を持つ、二・三十代の成年男性が一人。
 彼女を迎え入れるかのように、そっと腰を折って頭を下げる。

「お帰りなさいませ、ラピルお嬢様。お出迎えが遅れた事をお詫びいたします」
「もしかして、ハーディかな。よく僕だと判ったね?」
「自分が、ラピルお嬢様を見分けられぬ訳が御座いません」
「もう、背も体も見違えて大きくなったって言うのに、昔と変わらず勤務中は固いねハーディ。僕には畏まらなくても良いって、いつも言っていたでしょ」
「ラピルお嬢様は、我が主の妹君に在らせられるので、そう言う訳にも参りません」
「でも僕、姉上の様なヴァンパイアじゃなくて、一族の嫌われ者のダンピールだよ?」
「関係御座いません」

 腰を折りつつそう断言する執事――ハーディに、ヴァンパイアの腹から生まれながら、ヴァンパイアの天敵の定めを持つダンピールへ、ヴァンパイアを仰ぐハーディが嫌悪を抱くのではなく、主へ向ける信と変わらぬものを差し出している事に、ラピルは苦笑してしまっている。
 そんなラピルの心情を察しているのか居ないのか、お辞儀をしているハーディの顔は見えず、彼の言葉の真意を窺うことも出来ない。
 そうしてラピルの苦笑が引っ込むのを待っていたかのように、ハーディは腰を伸ばし顔を上げると、途端に困ったような表情になってしまう。

「しかしながら、折角ラピルお嬢様がお帰りになられていて申し訳ないのですが。只今主は睡眠の真っ最中で御座いますし、大旦那様と大奥様はお部屋にお篭もりになられていますので。お嬢様が対面なされるには、日が落ちるまでお待ち頂く事になってしまうのですが。宜しいでしょうか?」
「じゃあ待たせてもらおうかな。あ、僕の部屋まだある?」
「はい。いつラピルお嬢様がお帰りになられても良い様に、手入れさせてもらっております」
「じゃあ部屋で一休みしようかな。旅の疲れ癒したしたいし」
「では、浴槽に湯をお張りしましょう。ゆっくりと浸かれば、疲れも癒えるかと」
「そうしようかな――ん?ちょっと待って」

 そう告げて、ラピルを先導するようにハーディは屋敷の中へと続く扉へと歩こうとして、そこでラピルに声を掛けられて踏み出した足を止めた。

「どうかなさいましたか?」
「ハーディ。いつから『黒手袋』するようになったの?」
「……つい一年ほど前でしょうか。大旦那様が、本格的にお篭もりになられる前でしたので」

 自分の手にはめられた黒い手袋を見てから、感慨深げに何かを思い出しながら答える。
 そんなハーディの様子から、この屋敷の中において、黒手袋を嵌めるというのは、それほどに価値があることなのだろう。
 感傷に浸るハーディに対し、ラピルは途端に楽しそうな笑みを浮かべると、腰から細身の剣を引き抜いて彼に突きつける。

「それじゃあお風呂の前に、屋敷の新しい守護者様に、手合わせ願おうかな」

 心に湧き上がる興奮からか、ラピルの目つきも身体も、もう既に臨戦態勢に入っていた。
 それを見たハーディは、どうしたものかと困った表情になる。

「ラピルお嬢様。お戯れは……」
「僕をこの屋敷のお嬢様じゃなくて、襲ってきたハンターと認識してくれないかい?」

 軽くハーディの目元を斬りつけるように、ラピルの剣が振るわれる。
 そんな確かめるような剣筋を、ハーディは半歩後ろに下がってかわす。もうその時には、彼の柔和そうだった目は、外敵を排除しようという意思が含まれる、鋭い物へと変わっている。

「仕方がありません。ではハンター殿に、一手ご指南頂きましょうか」
「手加減無用だからね、ハーディ」
「必要以上に叩きのめす趣味は、此方には御座いません」

 そんな挑発に似た言葉を吐いたハーディは、ラピルに半身で向かい合うと、膝と手指を軽く曲げる。しかし武器を持つ素振りも、顔の横に手を添えるといった構える素振りも見せない。
 しかしその身から放たれる威圧感に、ラピルのハンターとしての顔が、強敵に出会えた愉悦に歪む。

「言ってくれるね!」

 そして手加減出来ない相手だと悟ったラピルは、素早くハーディの顔の中心を抉るような突きを放つ。
 しかし彼はそれを引いて避けるのではなく、前に進みながら顔を傾ける事で避けると、ラピルの突いた右腕を巻き込むように彼の左腕が翻る。
 次の瞬間には、彼女の顔の直ぐ前で止められた拳。その風圧に、ラピルの前髪が揺れる。
 寸止め。明らかに手加減されている。
 ハーディのその行動に、言外に相手にならないと言われたように感じたのか、かっとしたラピルは、剣の間合いの内にいるハーディの顎に向かって、左の拳を叩き込もうと腕を下から振り上げる。
 だがハーディはその拳に手を添えて軌道を操ると、ラピルの左脇側から抜け出て、彼女の背後に回る。そして少し強めの力加減で、彼女の背中を押した。
 たたらを踏んだラピルが、振り向き様に剣を横薙ぎに振るうが、既にハーディは剣の間合いの外にいた。

「どうしました。それで終わりでしょうか?」
「さすがに父様から黒手袋を許されただけはあるね。でも、まだまだ僕は諦めてないよ」

 今のは小手調べだと言いたげに、手にある剣を再度ハーディに突きつけた後、剣筋を読まれない様にするためか、ラピルの剣先が横八の字に揺らめき始める。

「では此方も、少々本気でお相手いたしましょう」

 ラピルの剣が人を操るタクトであるかのように、それが揺らめく度にハーディの上体もゆらゆらと揺れ始める。そして彼の足元も、体の揺れに合わせる様に小刻みにステップを踏む。更にはだらりと垂らした手の黒手袋に、魔力の光が灯る。

「ハンターの剣の冴え、見せてあげるよ」
「守護者として、跳ね除けてご覧に入れましょう」

 申し合わせたようにそう言い合い、数秒相手の様子を伺った後、ピタリと二人の動作が同時に止まったと思った瞬間、二人とも地面を蹴って相手へと飛び掛った。





 庭園での決闘紛いの戯れの後、二人は屋敷の廊下を仲良く歩いていた。

「ちぇ〜。まともに当たるどころか、服にも掠らないって。自信なくすなー」
「いえいえ。此方の魔力で硬くした手袋をボロボロにされたのですから、もっと自信をお持ちになっても良いかと。勇者並の実力です」

 あの戦いでお互いに怪我らしい怪我は無く、唯一ボロボロなったのは、ラピルの剣への楯にするために、硬化魔法を掛けたハーディの黒手袋だけ。
 それも彼のズボンのポケットに押し込まれ、今彼の手を真新しい黒手袋が覆っているため、初めて今の二人を見た人ならば、つい数分前に真剣を使用しての戦いをしていたとは思えないことだろう。

「その割には、ハーディ涼しげじゃない?」
「普通の勇者に遅れを取る様でしたら、黒手袋を手に出来ませんので」
「言ってくれるじゃない……あー、でもいい汗掻いたー。これでお風呂に気持ち良く入れるよ」
「では早速、お湯をお張りします」

 バスルームの扉を開けてラピルを招き入れた後、ハーディは浴槽の横にある狼の頭を模した金属製のレリーフを撫でる。
 すると魔法によってその空けられた口から、湯気の立つ湯が流れ出て、あっという間に浴槽の中ほどまで溜まる。
 ラピルが入っても零れない程度に、出る湯量を狼のレリーフの撫で方で調節して湯を張り終えた後、一つラピルに頭を下げてから、バスルームからハーディは出て行こうとする。
 そこにラピルの声が掛かる。

「僕が魅力的だからって、入浴姿を覗かないでよ?」
「ご要望と在れば、お背中をお流し致します」

 ちょっとだけでもハーディを焦らせようという、魂胆が見え見えのラピルの言葉を、さらりと彼は流してしまう。
 ラピルの身体など興味は無いというハーディの様子に、少し女として面白くないのか、彼女は憮然とした表情を作る。

「……まさか、姉上の背中を流したりなんかしてないよね?」
「流れ水が苦手な主の身体を拭き、丁寧に香油を塗るのも、執事たるものの役目です」
「なに。ハーディは、僕のような順調に成長した豊満な肉体じゃなくて、姉上のような成長の遅いヴァンパイアの、発展途上の寸胴体型が好きなの?」
「……仰っている意味を図りかねます」

 ラピルの拗ねたような物言いに、ハーディは混乱しているようだ。
 彼の頭の中には、主のヴァンパイアを性的な対象として認知することも、その妹であるラピルも、そういう目で見るという発想も無いのだろう。
 そんな執事の鑑のような思考回路を持つ彼に、ラピルは大げさに溜息を吐き出した。

「はぁ〜。魔界の常識が、人間のとは違うとは判っていたけど、それがハーディにも適応されるとは思わなかったよ」
「申し訳御座いません。物心付いたときから、このお屋敷で育てられておりましたので」
「そうだったよね。姉上の執事にするべく、父様が人間界から孤児を貰ってきたんだったよね」
「正確に言うのでしたら、お生まれになるお子様――つまりは、今の主たるラキル様と、双子の妹で在らせられるラピル様のためです」

 ラピルを気遣ってか。訂正するハーディの言葉に、当のラピルは少々思うところがあるのか、少し憮然とした態度を取る。
 それにしても魔物娘が懐妊するのは稀で、しかもそれが双子となれば奇跡に近い確率である。
 しかし腹に出来た片方が、生まれる条件が特殊なダンピールというのは、天文学的な確率であろう事は、想像に難くない。

「でも僕が此処を出る時、僕の旅仲間にならなかったじゃない。それに、今では列記とした姉上の執事でしょ?」
「それは、仰る通りなのですが……」

 当時のことを思い出したのか、ハーディの表情は、犯した間違いに苦悶する罪人の様。
 そしてラピルは先ほどの発言が、失言だったことを悟り、困ったような表情に。

「ごめん。こんな事、言う心算じゃなかったんだ」
「いえ。あの時のラピル様の心情を考えれば……」
「無し無し。そう言うのは無し。過去の事は、お互いに水に流して、忘れよう!」
「水に、流すですか?」
「何か問題があるかな。ダンピールも人間も、流れ水で発情したりしないでしょ?」

 そんな冗談とも取れないラピルの発言に、思わずハーディは苦笑してしまう。
 そして会話が一区切り付いたことで、彼女の心遣いに感謝するように一つ頭を下げてから、バスルームから出て行こうとする。

「ちょ、ちょっと。どこに行くの」
「なにか?」
「背中、流してくれるんじゃないの?」

 ラピルの方はまだまだ、ハーディを逃がす心算は無いようだ。


 ぴちょんと、バスタブに張った湯に、天井からの滴が落ちる。
 バスタブの中には、全裸のラピルが浸かり、柔らかなブラシで白い肌の整った足を磨いている。
 その横には、手袋を取り腕を捲くったハーディが、彼女の金糸の様な細く艶やかな髪を、丁寧に洗っている最中。
 しかし彼の手つき顔つきは、完全に親が子に対するそれに近く、劣情とはまったくの無縁に見える。

「どうかな。僕は姉上に比べて」

 ちょっとでもハーディを誘惑したいのか、ラピルは自分の体を彼に見せるように、少しだけ身体を斜めに傾ける。
 その目には、染み一つ無い、色白で綺麗なラピルの肢体が入っているはずなのに、ハーディはそれに見惚れる所か、息を呑むことすらせず、質問の意味がわからないかのように首を傾げた。

「どうと申されましても、抽象的で、返す言葉が見当たりません」
「何かあるでしょ。エロいオッパイだねとか、形の良いお尻だねとか」

 ラピルは自分の大きめな胸を掴んで揺らしたり、足からお尻そして腰にかけてをなで上げながら、男なら思わず襲って仕舞いそうな仕草をする。
 しかしその行為はハーディには不評だったようで、彼は不快そうに少し眉を潜める。

「その様な下品な真似は……」
「下品って……ハーディって、不能じゃないよね。ちゃんとミルク出る?」
「ラピルお嬢様?」

 どうやらハーディは下ネタに対して耐性が無いのか、ラピルの彼の股間に向けられた視線と品の無い言葉に、彼の瞳に少しだけ怒りの色が混じる。
 旅で出会った冒険者には受けが良いのに、と言葉を漏らしつつ、無意味な挑発行為は止めることにしたようで、ラピルは大人しく自分の体を洗う事に専念し出した。
 ハーディもラピルが聞き分けて安心したのか、瞳に会った怒りが消え、止まっていた髪を洗う手つきも、愛しい人の髪を扱う様な、優しさが溢れるものになる。
 会話が止まり、ラピルが下半身を磨き終え、ハーディーも彼女の髪を洗い終えた所で、ふと漏れるようにラピルの口から言の葉が出る。

「髪が終わったら、前を洗ってくれないかな?」
「使用人が入浴のお手伝いできるのは、髪と背中までで御座います」
「じゃあさ。ハーディ」
「何で御座いましょう」
「あの時、何で僕に付いて来なかったか、聞いても良い?」

 ラピルの髪に潤いを与える薬液を塗っていた、ハーディーの手が止まる。

「それは水に流した事では?」
「いま身体の汚れと一緒に、水に流している最中だから良いの」
「……」

 ハーディを見上げるラピルの瞳に浮かんだ意思の光に、彼女が引く心算が無いと判ると、ハーディはどうしたものかと溜息をそっと漏らした。

「あの時は、お嬢様に付いていくほどの実力が――」
「それは嘘だね。あの当時でも、ハーディは並の冒険者位の力はあったよ」
「では、この屋敷から出る勇気が――」
「それも嘘。あの時、ハーディも旅支度してくれていた事、知っているんだから」
「でしたら――」
「本当の事、言ってくれないの?」

 真実をひた隠しにするハーディの態度に、ラピルは悲しそうな瞳で見上げる。
 嘘を真実と誤認してくれればと、そう思っていた節があったハーディだが、そのラピルの目を見て、真実の一端を喋る決意をしたようだ。

「申し訳ありません。主との約束で、あの当時の事は語れないのです」
「姉上に脅迫されているの?」
「脅迫ではなく、お願いされているのです」
「お願いだったら、こっそり教えてくれないかい。聞いたって事、僕は黙っているからさ」
「しかし……」

 主のお願いを反故にするわけにもいかないのか、ハーディは言葉を詰まらせた。
 しかし命令ではなくお願いであるために、ハーディの心理的拘束力が弱いのか、彼の口からは提案を拒否する言葉は出てこない。
 この調子ならもう一押しすれば、漏らしてくれるかもしれないと、ラピルが口を開こうとした瞬間、バスルームの扉が大きな音を立てて開かれた。
 そして開いた扉のそこに立っていたのは、金髪を肩口で綺麗に整えた、ロリータ調の黒い衣装を身に纏う一人の女の子。ラピルを子供の頃まで巻き戻したとしたら、こうなるのではないかという可愛らしい少女。

「ハーディ。何をしているの?」

 夫の浮気現場を目撃したラミアの如く、冷ややかな視線を、バスタブに居る女性の髪を扱っているハーディに向ける少女。
 それは暗に、その女は誰かとハーディに問うている。

「ラキル様。少々お目覚めにはお早いのでは?」
「そうね。ちょっと不快な魔力を屋敷の中に感じて、起きてしまったの。それで、何をしているのかしら?」

 会話の調子外れな物言いをしたハーディに、会話の筋を反らそうとしていると邪推したのか、少しだけラキルは不快な視線を彼に向ける。
 ハーディはハーディで、何でラキルがそんな視線を向けてくるのか判らないのか、キョトンとした目をしている。

「ラピル様の、入浴のお手伝いを」
「お邪魔しているよ。ラキル姉上さま」

 バスタブの中からヒラヒラと手を振って、軽い調子で挨拶をするラピル。
 その普通の人間の女性にしか見えないラピルに、ラキルは嫌悪感も露な視線を向ける。

「ラピル?……乳が無駄に肥えたその豚が、私の妹ですって?」
「自分の体が貧相だからって、僕の完璧な肢体の事を、肥えているって言うのはどうかなと思うよ」
「その自らの事を『僕』と呼称する所や、私の事を姉とも思わないその態度。まさにラピルそのものですわね」

 バスタブの中の女が自分の妹だと知って、ラキルの態度が軟化するかと思いきや、より一層その視線は敵意で硬化していく。

「それでハーディは、何でラピルの髪を洗っているのかしら?」
「使用人は、家人のお世話をする義務が御座いますので」
「ラピルは家を出奔した身でしょうに」
「でしたら態々足を運んでくださった一人の魔物娘の客人として、ラピル様を持て成すのが筋で御座います。もしそうならば尚更に、この家の使用人は客人に満足な持て成しが出来無いなどと、誤解されるような扱いなど出来ません。それはラキル様の名を貶める事に繋がります」

 使用人が主人に対して弁明しているというより、ハーディの心に刻まれた使用人の矜持をそのまま明かしているような物言いに、ラキルはすっかり毒気を抜かれた様子。
 しかしそれはハーディの心の内を聞いて安心したというより、むしろハーディがラピルの事を、彼が『一人の家人』や『唯の客人』としてしか見ていない事に安心している様に見えた。

「というわけで、ハーディの事借りているからね」
「ラピル。ハーディが優しいからと、余り調子に乗らない事ね」
「僕が調子に乗っている様に見えるのかな?」
「ラピル様。はしたないですよ」

 バスタブの縁に、たわわに実った果実のような胸を乗せて、ラキルに対して挑発するラピルに、ハーディはそっと釘を刺す。
 しかし双子の妹で、人間然とした態度のラピルが気に入らないのか。それとも発育が寿命に応じて遅いヴァンパイアである事を、ラピルが暗に虚仮にする態度が癪に障ったのか。
 ラキルの可愛らしい相貌に癇癪筋が浮かぶ。

「そもそも、厚顔無恥な程に、よくもまあこの家に帰って来れたわね」
「自分の家に帰るのに、心構えなんか要らないんじゃないかな?」
「自分の親に、何をしたか忘れたとは言わせないわよ!」
「僕は唯単に、ダンピールとしての性に従っただけ。今では、母様も泣いて喜んでいるじゃないかな」
「誇りも忘れ、男に跨って喘いで喜ぶのがヴァンパイアの幸せだと、本気で思っているの?」
「本当に喜んでいるんじゃないかな。だってほら、僕のようなダンピールを孕むぐらいだから、母様は相当な好きモノでしょ?」
「それは、母様への侮辱と受け取るわよ……この屋敷から、叩き出して差し上げる!」

 尖った歯を剥き出しにして、ラキルはラピルを威嚇しながら、バスルームの中に入って彼女ににじり寄ろうとする。
 その踏み出した足の先に、ラピルはバスタブのお湯を掛けて、ラキルの足を止めさせた。

「おっと、近づいていいのかな。こっちには、僕の魔力を吸った水がたっぷりあるよ?」
「この忌々しいダンピールが妹だと思うと、苛々する」
「僕も、自分の姉が聞き分けの無い、頭の固いヴァンパイアだと思うと、腹立たしいよ」
「その下等な人間の真似をして媚び諂う態度、鶏冠に来ますわね」
「人間を下等と決め付けるその態度、益々気に入らないな」

 人形のように美しい相貌を、妹であり宿敵でもある相手に対する敵意で歪めるラキル。街で知らぬ人は居ない街娘になれる程の整った顔を、矯正すべき歪みを見つけた執政者の様な決意で覆うラピル。
 そんな一触即発の状況で、真っ先に動いたのは、傍らで状況を見守っていたハーディだった。

「――お二人とも」

 一歩だけ二人の間に割って入るかのように歩みを進めたハーディ。
 咄嗟に邪魔をするなと睨んだ二人は、ハーディの顔つきと、彼から発せられる威圧感に、少しだけ頭に上っていた血が下がった。

「品が無さ過ぎます」

 ハーディがその顔に湛えていたのは笑顔。それも静かに微笑むような笑顔だった。
 しかしその身体から吹き出る怒気と合わさると、それが異様なものにしか見えない。

「たかが使用人の分際で、主のする事に指図するなど、おこがましいわよ」
「主人の行動や言動を諌めるのもまた、『たかが使用人の分際』の仕事ですので」

 長年勤めている使用人であっても、人間に指図されるのが気に入らなかった様子のラキルだったが、向けられたハーディの瞳が笑っていない事を見て、二の句が告げなくなっていた。

「やーいやーい。怒られて――」
「ラピル様も。当家に争い事を持ち込まれるお心算でしたら、排除させて頂きます。それもまた使用人の仕事ですので」

 ハーディの言葉尻に乗ろうとして、当の彼に叩き落される様に、念押しされるような事を言われたラピルは、しゅんとしてバスタブの中に縮こまってしまう。
 双方の言い争いを鎮火した事を確認して、ハーディはベストから懐中時計を取り出すと、その文字盤を眺める。

「どうやらラキル様は、寝不足でお気が立っているご様子。お時間になるまで、お部屋でお眠りください」
「ねえ、ハーディ。人間の分際で、ヴァンパイアで主でもある私に命令なんて、何様の――」
「お眠り下さい、宜しいですね?」

 少しだけでもヴァンパイアの矜持を守ろうとするラキルの発言を、ハーディは問答無用と切って捨てた。
 彼の物言いを下種な言い方で表すとするならば、『うだうだ言ってないで、とっとと部屋に戻り、頭を冷やせ』と言った所だろうか。
 そんな無礼な態度に、何かを言おうとするラキルだが、その胸の内に渦巻く何かを言い表す事が出来ないのか、涙目になるとバスルームから飛び出て、廊下を走り去っていってしまった。

「ふう……ラピル様も、無用な挑発はお止め下さい」
「仕方ないじゃんか。素直じゃないヴァンパイアを見た途端、喧嘩腰になっちゃうのは、ダンピールの性なんだから」
「ラピル様……」
「ぶぅ……はーい、わかりましたー」

 不承不承といった感じで、バスタブの中で身体を磨くのを再開するラピル。
 ハーディも、途中になっていた彼女の髪の手入れを再開する。その手つきは、最初に比べてやや荒っぽかった。



 
 風呂を終えたラピルは、屋敷の中の自室へと通された。
 そこは埃やチリも無く、彼女が家から飛び出たときのままに保たれていた。
 だが彼女が出たときには無かったものもある。

「わぁー、懐かしい。この家族の肖像画って、広間に飾ってあったやつだ……」

 恐らく出奔した者――しかもダンピールが入った絵は、屋敷内では大っぴらに飾る事の出来ないので、置き場所に困ったのだろうか、ラピルの部屋の壁一面を覆う程の大きな絵画がそこにあった。
 絵の中心には大きな椅子に座る一組の男女、多分ラピルとラキルの両親であろう者が斜めに向かい会う様に描かれ、その二人の膝の上には幼い少女。
 その絵の端に隠す様に描かれている、使用人服に身を包んだ男の子と、その腕に抱えられている幼さの残る少女。
 それらの配置を元に考えると、両親の膝の上に居るのがラキルで、使用人服の男の子がハーディ、彼の腕に抱えられているのがラピルだろうか。
 ここにもヴァンパイアとダンピールの、種族的な相容れなさが、透けて見えてくる。
 そうなると、さも過去のハーディの腕に抱かれているラピルは、両親から不遇の扱いを受けて不満顔であろうと思いきや、絵師が修正したとは思えないほどのニコニコ笑顔で描かれている。むしろ両親の膝の上よりも、彼の腕の中が自分の居場所であると思っているような、そんな屈託の無い笑顔である。
 過去の自分が何を思っていたのかを思い出したのか、郷愁を覚えた指使いで、そっと絵の額縁をなぞるラピル。
 そこにノックの音が扉から発せられた後、ラピルの部屋の扉が開かれた。

「ラピル様。お夕食の準備が整いました」
「その顔色だと、姉上のご機嫌取りは上手く言ったのかな?」
「ラピル様……」
「ごめん。ちゃんと反省している。でも旅暮らしが長かったから、こういう冗談が意図せずにするりと出ちゃうのさ」

 どういった機嫌の取り方をしたのか、血色の悪い青い顔色をしているハーディに、ラピルは苦笑交じりにそう告げた。
 視線だけでその癖を出さないで欲しいと釘を刺したハーディは、ラピルを伴って食堂へと向かう。
 その道すがら、彼の首筋に二つの穴が開いた噛み痕をラピルは見つけたようで、興味津々な表情でそこを見ようとし始めた。

「しかし、随分と吸われた様だね。姉上、朝食必要ないんじゃないのかな。うわー、ぽっかり穴開いてるよ」
「ラピル様。あまりそこをじっくりと見つめられると」
「いいじゃないか。減るものじゃなし」
「情事の痕跡を覗かれているようで、落ち着きませんので、お止め下さい」
「意外な返しがハーディから来たよ」

 まさかハーディから、下ネタのようなものが飛び出てくるとは思わなかったのか、少し驚いた様子で彼の横顔を見るラピル。
 しかしハーディは先ほどのを失言だと思っているのか、少しだけ頬に紅が差している。

「あー、照れてるよ。可愛い〜」
「ラピル様、余りその様な言葉は……」
「いいじゃない。そういう初心っぽいところ、魔物の女の子に受け良いよ?」
「……だから嫌なんです」

 過去にどこかの魔物と何かあったのか、『受けが良い』という言葉で、ハーディが少し苦い表情を作る。
 さてはこの屋敷で他種の魔物を呼んでのパーティや何かで、年上のサキュバス辺りに何かされたのかと予想したらしいラピルは、それを問い詰めようと口を開こうとして、それより数瞬早くハーディの手が食堂の扉にかかる。

「どうぞ、ラピル様」
「ちぇ、タイミングが良いのやら悪いのやら」
「何か?」
「いやいや。ありがとうね」

 ハーディが開いた扉から、ラピルは食堂の中に入る。
 昔と変わらず、無駄に広い空間の真ん中に、無駄に長い机が一つと、それに合わせて無駄に多い椅子が、部屋の中を支配していた。
 一番位の高い者が座る場所に一つの人影。先ほどと同じ衣装のラキルがそこに居た。
 食事の用意をするためか、ハーディは食堂に入らずに扉を閉じると、彼の足音が廊下を歩いていく。

「あらら。姉上だけしか居ないんだ。父様と母様は?」
「私だけだと不満なのかしら?」

 ラキルに警戒を抱かせるほどに近いわけでも、会話が成立しないほど遠いわけでもない、絶妙な位置にある椅子に腰をかけるラピル。
 出会った時とは打って変わり、ラピルに朗らかな笑みを見せる程の余裕を見せるラキル。
 どうやらハーディのご機嫌伺いは、思いのほか成功していたようだ。

「久しぶりだから、両親の顔見たいって思うのは自然じゃない?」
「貴方の魔力の所為で、部屋で交わりっぱなしだというのに……」
「あくまで、僕の魔力は『ヴァンパイアを素直にする』だけで、一過性のものだよ。だから欲に溺れているのは、母様の性質の問題じゃないかな」
「……否定出来ませんわ」

 ラキルは困ったものだと溜息。それはその腹から生まれたと思いたくないという思いと、同属に向ける哀れみも含まれているだろう。
 ラピルはヴァンパイアの矜持を持つと大変だ、とばかりに笑みを浮かべる。

「その割には妹は居ないんだよね。不思議だ」
「唯でさえ孕み難い魔物が、『双子』に『希少種』とたて続きに奇跡を起こせば、愛神エロス様のご加護は当分回ってこないでしょう。子を願う魔物は、思いの他多いのだから」
「でもラキル姉上は、妹が出来たら溺愛しそうだよね」
「身近な妹が生意気ですので、その分愛を注ぐでしょうね」

 双方の冗談の応酬は、長年離れて暮らしていたとは思えないほどにスムーズで、ヴァンパイアとダンピールという種族の違いはあれど、双子の二人の間に確かな絆があることが伺える。
 そこにハーディがカートを押して入ってきた。

「お待たせいたしました」
「ハーディ。それは少々多いのではないかしら」

 確かに持ってきたのは、瓶詰めワイン数本の他に、前菜としてはかなりの量のある、切った野菜の山。
 前菜というよりは、それだけで一食を賄えそうだ。

「ラピル様は、旅人らしく健啖家だとお見受けしましたので」
「そうそう、旅人は食べられるときに沢山食べるものだからね。こんなの前菜にちょうど良いぐらいだよ」
「……考えられませんわね」

 二人のグラスにワインを注いだ後、ハーディはまずラキル様にと、皿の中心にちょこんと盛られたサラダに、手製のドレッシングを回しかけて差し出す。
 ラピルの方にはボウルかと思うほどの大きさの皿に、サラダを山盛りにしてドレッシングをかけ、全体を馴染ませるためにかき混ぜてから、そのままラピルの方へ差し出す。むろん取り分けようの皿は添えてある。

「いただきーっす!」
「ちょっと待ちなさい。そんな珍妙な掛け声ではなく、きちんと堕落神様へのお祈りしなさい」
「知らないの。いま冒険者とか旅人の間で、ジパング風の食前の祈りが流行っているんだよ。短いからすぐに食べられるからって」

 もうすでにサラダにフォークを突き刺し、取り皿を使う事無くもしゃもしゃと食べ、ぐびぐびとワインを飲み始めているラピルの様子に、頭の痛くなる思いをしているのか、可愛らしい眉間に皺がよっている。

「そんな短い祈りの言葉があるわけが――」
「お嬢様。少々お耳を」

 主に失言をさせないようにか、ラキルの耳元でラピルの発した言葉の由来などを説明するハーディ。
 一通り説明を受け、視線で嘘ではないかと問うたラキルだったが、ハーディのその瞳に嘘はないと判断すると、色々と抱えた思いを溜息として吐き出してから、自分はキッチリと食前の祈りを捧げる。
 そしてラキルは、ワインの香りを楽しんでから一口含み味を確かめる。

「まずまずですわね」
「恐縮で御座います」

 ラピルがお代わりを催促するように捧げている、飲み終わったグラスへとワインを入れながら、ラキルの評価に笑みを向けるハーディ。
 どうやらラキルの放つまずまずという言葉は、褒め言葉のようである。

「これでまずまずって……今度姉上に、場末酒場の絞りかすのようなワイン飲ませたら、どんな顔するのか見て見たいかも」
「企み事ならもう少し声を控えなさい。聞こえてますわよ」

 視線を食べている皿の上のサラダから離さずに、ラキルはラピルにそう釘を指す。
 聞こえていたかと大げさに嘆きながら、サラダを食べるのを再開するラピルの様子から、わざと聞こえる声量で言った事が判る。

「メインの牛肉のローストで御座います」
「……ラピル。本当にその量食べられるの?無理なら残しても良いのよ」

 皿の上に行儀良く、小さなトランプ大に四切れ程並べられたラキルのに比べ、ラピルの顔を覆い隠すほどの大きさと、指の第一関節が埋まりそうな厚さのある肉の塊を見て、思わずといった感じでラキルは尋ねてしまう。
 
「余裕余裕。むしろ足りないかなーと思ったり。うん、ワインとの相性が最高。ハーディ、いい働きするねー」
「お褒めに預かり、光栄に存じます」

 礼を言いつつも、ハーディは新しいワインの栓を開け、空になったラピルのグラスに注ぐ。
 しかし本当に味わっているのか、ラピルはキコキコとナイフを走らせて、女性が食べるには大きな四角い肉塊にしてから、それを次々と口の中に放り込み、もぎゅもぎゅと口を動かし、口の空間の隙間を埋める様にワインを飲んでいく。
 もう昔に身に着けていた食事作法など忘れ、旅人や冒険者の流儀に染まりきっているラピルの食べ方に、見ていたラキルの顔が青くなる。

「うッ……ハーディ。これ、下げて良いわ」
「宜しいのですか。まだ一口しか」
「あの食べっぷりを見ていたら、胸焼けしてきたの。だから下げて頂戴」
「あ、じゃあ、それも僕が食べる。皿頂戴!」

 ハーディが視線をラキルに向けると、彼女は目の前にある皿を追い立てるように、手を振ってやる。
 主の許しが出たのならばと、皿をラピルに差し出すと、ラピルは三枚と半分残っていた肉を、ナイフで刺して一纏めにすると、そのまま口の中に押し込んでしまった。
 そしてまたもぐもぐと口を動かしながら、グラスのワインを空ける。

「ハーディ。もう無くなりそうだから、お代わりお願いね」
「ワインですか、それともローストでしょうか?」
「ローストまだあるの?だったら両方お願い」

 そのラピルの答えに、食後のデザートを口に含んでいたラキルの顔が、気分を悪くしたようにますます青くなり、彼女の好物であるショコラを食べる手が止まってしまっていた。



 食事を終えて、ラキルは本格的に気分が悪くなったのか、青い顔で自室に引き上げて一眠りするとハーディに告げて、食堂から出て行ってしまった。
 ラピルも食休みとして自室に引き上げていったため、ハーディは空いた時間で主の夜半食の支度をしていた。
 程なくして愛し合い疲れきった様子のラピルとラキルの父親と、満面の笑みを浮かべる母親が現れ、ハーディがラピルが帰っている事を告げると、二人とも顔を見せに彼女の部屋に向かっていった。
 ハーディはその後、ラキルに気分を落ち着ける薬を飲ませに彼女の部屋に向かったため、どんな会話が三人で交わされたかわからないが、ハーディが食事の用意を再開しようとして、食堂にラピルが居るのが見えた。

「ラピル様、どうかなさいましたか?」
「うん。久しぶりに僕の魔力を浴びたいって母様が言ったから、ちょっと大目に浴びせたら盛り出しちゃって。危うく僕の部屋でしようとするから、あわてて隣の部屋に押し込んだところ」
「それは災難で御座いましたね」
「いやいや。災難なのは、母様の喘ぎ声が壁を通して聞こえてくるから、部屋で寝るのは無理かなーっていう事だよ。折角ふわふわのベッドで寝られると思ったのに……」

 本当に残念だと長机に突っ伏すラピル。
 しかしハーディは小首を傾げる。ベッドならば、この屋敷の中に売るほどあるのだ。

「でしたら客間のベッドでも宜しいのでは」
「折角家に帰ってきたのだから、懐かしさに抱かれて寝たかったのさ。可笑しい?」

 ホームシックという訳でもないだろうが、ラピルはそんな女性らしい、しおらしい一面を見せた。
 格好から男勝りな印象を受けるが、ラピルも列記とした女性――しかも、伴侶を持たない乙女な魔物娘なのだから、そんな面があっても可笑しくは無い。
 その部分を見て、過去の彼女を思い出したのか、ふとハーディの口から言葉が漏れた。

「では昔の様に、自分のベッドで一緒に寝ますか?」
「……良いの?」

 先ほどから一転して、期待に満ち溢れた瞳を向けるラピルに、ハーディは出してしまった言葉を取り消そうとする事無く、彼女に頷きでもって返す。

「ご自身のベッドに比べれば、懐かしさは薄れると思いますが。それでも宜しいのでしたら」
「やったー。ハーディと一緒のベッド!」
「しかし、自分の今日の仕事が終わってからになりますよ」
「えー……それって何時?」
「早くて夜中の二時、遅くて四時と言った所でしょうか」
「もう結構眠いんだけど、ハーディが仕事終わるまで、僕起きてなきゃいけない?」
「眠気に耐えられないようでしたら、先にベッドにお入りになっていて宜しいですが」
「やったー。ふふっ、でも「先にベッドに入っていていい」なんて、なんか情事の前に交わす言葉みたいだね」
「……下品な冗談を言うのでしたら、この話はなかった事に」
「嘘嘘、ごめん〜。ちょっと調子に乗っただけだから〜」

 そんなやり取りの後に二人は別れ、そして時間が経ち自分の仕事を終えたハーディが、主であるラキルに就寝の挨拶をしたのは、夜中の三時。
 たとえラキルが夜明けぎりぎりまで起きる心算だったとしても、ハーディの手が必要が無くなる時間。
 部屋に戻り、使用人の服を脱ぎ、簡素な身なりに着替えたハーディは、彼のベッドの中で幸せそうに眠るラピルを眺めた。
 そしてふと彼が昔に彼女へしていたように、そっと頭を撫でる。
 彼の手が与えるむず痒さを寝ていても感じ取ったのか、薄っすらとラピルの瞳が開かれる。

「ハー兄ちゃん??」

 夢で過去に戻っていたのか、ラピルの口から昔に彼女がハーディを呼ぶのに使っていた愛称が漏れる。

「ラピル。ちょっとベッドを開けてもらっても良いかな?」
「うん……」

 昔のに戻した口調でハーディが語りかけたからか、ラピルは眠気眼のまま、素直にハーディの入る場所を空ける。

「有難う、ラピル」
「ハー兄ちゃ〜ん。うにゅぅ〜〜」

 開いたその場所に、ラピルをこれ以上覚醒させないように気遣いながら、ハーディがベッドに入り込むと、ラピルは甘えるように彼に抱きつき、その胸板に頬を擦り付ける。
 そんな微笑ましい光景を見て、ハーディの口も優しさが混じった笑みの形になると、彼はラピルの頭に腕枕をし、もう片方の手で彼女の頭を優しく撫でた。
 ハーディの手の感触を感じて、より一層安心したのか、ラピルはそのまますやすやと寝入ってしまう。 

「うにゅ〜、ハーにぃちゃ〜……むにゅむにゅ」
「お休み。ラピル」

 一体どんな夢を見ているのか、寝言をむにゃむにゃと出しながら寝るラピルを抱き寄せて、ハーディも瞳を閉じて寝てしまう。


 翌朝先に起きたのは、ハーディよりも先にベッドに入っていたラピルの方だった。
 最初、ラピルが目を覚ました時、目の前に男の顔があって驚き、そしてその腕に抱かれている事に焦った。
 まさか旅の道すがらに間違いを犯したのかと考え、何かされたのかと身体を調べようとして、そこでようやく自分が実家に帰っている事を思い出した。
 そして自分を抱きしめて眠っている男が、ハーディである事も思い出したラピルは、緊張で強張っていた体の力を抜くと、再度ハーディの腕の中に自ら納まる。
 知らず知らずの内に寝てしまっていた事を後悔しながら、昔にそうした様にハーディの身体を両腕で抱き寄せる。
 その手に感じる感触は、過去のハーディが持っていた子供特有の発展途上の柔らかさのあるものではなく、成人した男の力強さが秘められている鍛えられた筋肉のもの。
 その鼻に感じるのは、青さが消えて円熟した大人の色香を放つハーディの匂い。
 その耳に感じるのは、昔と変わらないハーディの警戒の色が無い寝息と、彼の心臓が血潮を送り出す規則正しい心音。

「ハーディ……」

 その全てがラピルに安心感を抱かせる。
 こんな安心感は、ついぞ旅の中でラピルが感じた事の無いものだった。
 それは彼女の奥底にある何かが、ハーディに全幅の信頼を置いているという事。旅で出会えなかった、生涯の伴侶がこの男だと、魔物の本能が告げている結果。
 ふと視線を上げれば、ラキルが付けた歯形とは反対の、何者にも汚されていない、日には焼けているが真っ更なハーディの首筋。
 送り出される血潮すら見えそうなその首筋を見て、ラピルの血が騒ぎ、体が振るえ、歯が疼く。
 血がこの男を放すなと、心臓が身体に血液を送る。連動した身体の奥底から、この男を犯せと命令が発せられる。そしてこの男の首筋に証を付けろ、血を吸ってやれと歯が軋む。
 衝動に突き動かされる様に、ラピルの首が伸び、ハーディの首筋へと唇を触れさせようとする。
 その時、身の危険を感じたのか、ハーディの目が開かれる。
 至近距離。お互いの息遣いが聞こえる程に、もう少しで唇が触れ合いそうにな距離で、お互いの目がお互いの瞳を見る。
 
「おはようラピル。でも、もう少し寝かせて」

 しかしハーディは、目の前に居るのがラピルだと知ったからか、安心した様にラピルを抱き寄せると、そのまま寝入ってしまう。
 ラピルが自分を害する事は無いと、完全に信じきったハーディの行動に、ラピルの身体に渦巻いていた吸血衝動が収まっていく。
 それはハーディの信頼を裏切りたくないという思いと、もし衝動に負けてそんな事をすれば、ハーディはきっと嫌いになるからという打算の合わさったものだった。

「ハーディ。それはずるいよ……」

 そう呟き彼の胸板に収まろうとして、心の奥底に残った残り火に突き動かされて、ラピルはハーディの首筋に唇を付ける。
 しかしそれは血を吸うためではない。首筋に牙を立てるためでもない。
 唇で吸い付き、彼の首筋に証を残すため。
 それは姉のラキルに対する戦線布告と、ハーディに自分の思いを伝えるためのキスマーク。
 しっかりとそれがハーディの首筋に刻まれた事を見て、満足したように彼の腕の中で、再度眠りに入っていくラピルだった。


 そんな事をすればどうなるか。
 無論日が落ちた頃起きてきたラキルが、彼の首筋の痕に気が付いき、怒髪天を突く形相でラピルと言い争いをし、それが取っ組み合いに発展するのだが。そんな物は、家に居座る事に決めたラピルのお陰で、この先ずっと続く光景であるため、割愛させていただく事にする。
 そう、ハーディが晴れてインキュバスになるその日まで、三人の間柄は変わることなく続いていく。
 彼がインキュバスになった後はどうかというと。
 それはあの三人だけの、秘密のお話である。

 


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おまけ――使用人の理想的な謝り方(風呂と食事の場面間の出来事)


 屋敷の中の一つの部屋の前に、ハーディは佇んでいた。
 整っている身なりを、何かを決意するかのように軽く整え直すと、その部屋の扉を三度ノックする。

「ラキル様。ハーディです。入ってもよろしいでしょうか?」

 そのハーディの言葉に返事は無い。
 普通ならば部屋から引き返してしまうのだろうが、ハーディはそれがラキルの消極的な肯定であるという事をよく知っていた。
 ドアノブを回し、彼が扉を押し広げると、完全に窓をカーテンで閉め切り、蝋燭の光だけで照らされた薄暗い部屋に、ラキルは不機嫌そうに豪奢な椅子に座り、頬杖を付いて入ってきたハーディを睨み付けていた。

「何しに来たの?」
「主に対して、無礼な態度を取ってしまった駄目な使用人が、詫びをしに参りました」

 腰を折り、頭を下げながら告げたハーディの言葉を聞き、ラキルは鼻で笑う。

「ふん。今更ご機嫌伺いしたって遅いわ。ほとほとお前に愛想が尽きたの。出て行ってくれる」
「畏まりました」

 すっと上体を上げると、ハーディはラキルに近づきながら、手にしていた黒手袋を取り外していく。
 そして彼女が座る横のテーブルに、壊れ物を扱うような慎重な手つきで、その黒手袋を置いた。

「なに、これ?」
「出て行けと申されましたので。短い間でしたが、ありがとう御座いました」
「ま、待ちなさい。屋敷を出て、これからどうする心算なの?」

 深々と頭を下げた後、振り返りもせずに部屋を出ようとするハーディに、思わずといった感じで、ラキルは呼び止めてしまう。
 それを無視していくかと思いきや、屋敷を出るまでは使用人として在ると誓っているのか、ハーディは足を止めてラキルに向き直る。

「大旦那様から頂いた技を使用し、冒険者か拳奴にでもなろうかと」
「馬鹿な事を言わないで。此処魔界の街なのよ、人間の貴方が外に出た途端、ゾンビどもの餌になるわよ」
「街の外へと逃げ切る自信はありますが。もしそうなったのなら、それでも宜しいかと」
「……ラピルに頼るって選択肢は無いの?」

 本当は別の名前を出したかったのか、それともラピルの名前を出すためか、少しだけラキルの言葉が詰まった。

「自分が使用人で無くなれば、ラキル様もラピル様も、赤の他人で御座いますので、頼るのは筋近いかと」
「赤の、他人、ですって?」
「そうで御座いましょう。ラキル様にラピル様と自分との間柄は、仕える家の方と使用人という関係です。使用人でなくなるのならば、赤の他人でございましょうに」

 何を変な事をと言いたげな表情のハーディの言葉に、ラキルの顔が怒りに赤く染まる。
 元使用人が大層な口を利くからとか、下等と見下す人間が生意気だからとか、もっともな理由は幾らでもあるだろうが、「赤の他人」という言葉に、なぜ此処までラキルが怒るのか、彼女自身も頭では判っては居ない事だろう。

「気が変わったわ。人間の使用人一人を御せない様だと、ヴァンパイアの面子に係わるし」

 怒りで赤くなった顔を隠すことなく、テーブルの上の黒手袋一組を引っ掴むと、ラキルはつかつかとハーディに歩み寄り、その胸元にその手袋を押し付けた。

「今まで通り、死ぬまで私に仕えなさい。でも、その主を主と思わない態度、追々矯正していくわよ」
「畏まりました。不肖の身ながら、誠心誠意尽くさせて頂きます」
「何時もそんな風に傅いてなさい。そうすれば、私も怒らずにすむのよ。でも……そうね、きっちりと、誰が所有者か、誰の目にも明らかにする必要があるわね」

 ラキルが手招きすると、ハーディはその場に膝を着き、首筋を差し出す。
 ハーディの首筋に指を這わせ、熱い血潮が流れる管を確認してから、ラキルはそこに噛み付いた。
 鋭い牙はハーディの皮膚を突き破り、その下に通っていた血管に達する。
 そこから溢れ出る血潮を溢すことなく、甘露を舐めたかのような至福の表情で、ラキルはハーディの血を飲み下していく。
 傍目から見れば、このヴァンパイアは愛する男の血を飲み恍惚となっていると判るのに、当の本人は気が付いていない様子。しかし自分が満足するまで口を離す心算も無いのか、ハーディの身体を引き寄せながら、怒りとは違った赤ら顔で彼の血を飲んでいく。
 今までの怒りも忘れて血を味わっているような、ラキルの様子を目の端で見たハーディは、少しだけ安心した様子で、目つきも柔らかいものへと変わる。
 しかしながら、そんな素直になれない所か、自分の気持ちにすら気が付いていない様子のラキルに、彼女に聞こえない様な小ささで、そっとハーディは溜息を吐いた。
 それは「素直じゃないヴァンパイアと仲直りするのは大変だ」と言わんばかりの、重いものだった。

12/08/11 20:45更新 / 中文字

■作者メッセージ
というわけで、ダンピールさん(+ヴァンパイアさん)のSSでしたが、どうで御座いましたでしょうか。
今回は着地点を決めずにだらだら描いたら、まったくもって取り留めの無い、エロも無いSSになってしまった事は、個人的に反省しております。

何はともあれ、クロス様のダンピールの絵を初見し、まず思い抱いたのは、宝塚っぽいなーというものでした。w
なので、宝塚の男役の男っぽい口調で、ラピルさんは喋ってもらっています。

あと、双子ネタが掲示板の方と被ったのでお蔵入りさせようかと思いましたが、もう大半描き終えた所だったので、どうしようか悩んで書き上げることに。

さらに、エロが無いのは、ダンピールの特性を生かそうとしても、レズ調教ものは嫌いだし、ヴァンパイアさんのプライドをへし折るのは私には荷が重い。
かといって普通にエロエロするなら、別にダンピールじゃなくても良いし。
つまりはしょうがないのです。(人それを責任転嫁というw)


では次のSSでお会いしましょう。

ラキルとラピルという、大変に通った名前を付けた事を、誤字確認の際に後悔しつつ。

中文字でしたー ノシ

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