バンシーズ・クライ
俺の名は、フランキー・ケブンナッグだ。今年は88だ。
一生このフィオナハの地で暮らして、畑を耕して食ってきた。
趣味は、まあビールを飲むことと、村のパブで歌うぐらいかな。
だが、もう今年の体はあちこちガタが来ちまってる。酒を飲むどころか、パブまで足を運ぶことすらままならん。
ずいぶん長く生きてきたってのに、どうしても怖くてたまらねえものがある。
なぜかって?うちケブンナッグ家にゃあ、結構おっかねえ伝説があるんだ。
昔ぁ、飢饉で村ひとつまるごと消えた家もあった。墓ばっか増えて、泣く女の声だけが残ったって話だ。
詳しい事情はわからんが、要は「バンシー」という化け物が、うちの人間を一人、また一人と、あの世へ連れていくんだそうだ。
毎回、うちに死人が出る時に、すんごい不気味な泣き声が聞こえるんだ。
まるで、女が泣いている、みたいな声っていうやつ。沼の湿った土から掘り出され、石の壁を通り抜けて、風と一緒にやってくる感じの、死んだ女の声。おっかねえだろ?まるでこれから誰か死ぬことを知らしめているみてえだ。うちぁぜってえ悪魔に目ぇつけられたに違いねえ。
ま確かにうちの連中は大体天寿をまっとうして死ぬもんなんだから、悪ぃことでもないからさっ。通夜になりゃ、親戚が集まって、祈って、飲んで、泣いて、昔話まで始まる。わいわいと死んだじいちゃんばあちゃんに別れを告ぐ。
……だが、怖いもんは怖いんだ。
俺が初めてその泣き声を聞いたのは、せいぜい四つか五つのころだ。
その夜は嵐が強く、空が暗くて月も見えない、西から吹く土砂降りの最悪の夜だ。
その泣き声はまるで女の悲鳴みたいに、もう怖くて怖くてしょうがなくて。
ガキのころの俺は、布団の中に隠れるしかなかった。
父ちゃんや母ちゃんに聞いてもさ、風が扉の間を通り過ぎた音だけでしょ、怖いなら主神に祈りなって。
確かに雷も鳴いてるし、雨もうるさいし、外には魔物もいるし。変な音が聞こえたとしても、おかしくないだろう。だけど、俺はその日から彼女の声が忘れねえんだ。
その次の日、じいちゃんのとこ行こうとしたら、手紙が来てな。「じいさんは昨日、息を引き取った」って。
それでも、俺ァあの日から、あの声が頭から離れなくなった。うちは本当に呪われてるんだと、俺は知っちまったんだ。
家族みんなが集まって通夜の時、大叔父に聞いたんだ。あれは「バンシー」ってやつで、死の兆しを運んでくる悪魔の一種なんだと。
……で、その大叔父にとっちゃ兄貴にあたる、俺のじいちゃんも、そいつに魂を狩られたってわけだ。そこはなんとかしろよ神様。
たいていそれを聞こえてるのは俺しかないんだが、いとこのショーンからは、なんか見たことがあるって言った。
なんか、目が血みてえに赤くて、血の涙を流してたらしい。いやあおっかねえ。
しかもうちだけじゃねえんだ。古い家系にだけ、ああいう女がつく。昔からそう言われてきた。
タイグんとこのオネイル家も、クイーリンちゃんとこのオグラディ家もそうだ。他にもいるらしいが、二百年ほど前の飢饉でみんな死に絶えて、血筋ごと途絶えちまったんだ。
今言った家は、俺んちと同じく、このフィオナハじゃそこそこ大きな家系だ。
金持ちってわけじゃねえが、親戚があちこちにいる、そんな感じの大家族でな。
それに、家の開祖はえらい別嬪だったって話もある。
まあ悩んでも仕方ねえから、普通に暮らそうと思ってた。
大人になったら、誰かが死ぬたび、決まってあの女は泣く。
あれを聞くと、骨の髄まで寒気が走る。夜には悪夢まで見ちまう。
夢の中じゃ、俺が魂を狩られる番なんだ。
あの化け物が血のような目で俺をにらみ、首を締めてきやがる。俺は息もできず、飛び起きるしかなくなる。
そして、俺は、悲しくも、88歳になっても、お嫁をもらえなかった。
もともと弟のパドリーグ一家と暮らしてたんだが、俺が三十のころ、隣国との戦争が起きてな。パドリーグは領主に徴兵され、出征してから数週間もしねえうちに、あのバンシーの泣き声が聞こえた。そのあと、弟の女房はガキどもを連れて実家へ戻っちまった。
「うちの子を、こんなしょうもねえ悪魔に殺されたくない」ってつったんだ。
義妹もなかなかの美人さんだ。俺の嫁でもなろうよと言ってみたかったんだ。
あの日以来、俺に寄ってくる女なんざ、ひとりもいなかった。
そうして俺ぁ、とうとうこの歳までひとり身のままだった。
今夜もひでえ雨だ。雷もうるせえし、風も強い。ぜんっぜん眠れねえ。
体のどこでもいい感じやしねえ。筋肉が痛くて、内臓がヒリヒリとする。頭がじゃがいも袋でもぶら下げたみてえに重い。横になっても、関節がガタガタと悲鳴をあげるばかりだ。
こんな時だけが、寂しいもんだ。
俺にも女房がいたらなぁ。俺と一緒に歳を取って、ばあさんになって、俺の隣にいて、「泣くんじゃないよ、このクソじじい」と言われてみてぇ。
だがもうなにもかも遅い。
泥炭の匂いが染みついた家で、俺はびくびくしながら、あの泣き声を待っていた。
戸の向こう、嵐の音に混じって、あの泣き声がようやく遠くから聞こえた。
心臓が、やけに痛くなってきた。
寒気が身体中に走って、血の巡りが止まっちまったみてえだ。
……まったく、ついに来やがったのか。
勘弁してくれ。今夜ばかりは、ひとりで死ぬのはまっぴらごめんだ。
「うぅぅぅぅ…ぐすっ…う゛ぅぅぅぅぅ…」
どう思っても無理だ。今夜は死ぬんだ、俺。
…なんでだろうな。自分が旅立つ番になった今夜に限って、あの泣き声が、ほんとうに俺の死を悲しんでるように聞こえるんだ。
「うぅぅぅ……う゛ぅぅぅぅぅぅ……ぐすっ…」
なかなか綺麗な女の声だ。
もしかして、あのバンシーも、とんでもねえ別嬪かもしれんな。
あいつに最期を見取られたら、それもまあ、悪かねえかもしれん。
「ひくっ……ひくっ……う゛ぅぅぅ……おねがい……ぐすっ……いかないで……」
泣き声の合間に、女が何かを訴えるような声が混じった。『お願い』だとか、『死なないで』だとか、そんなふうに聞こえた。
深く考えてみたいのだが、もうこの老いぼれの身体も限界らしい。
意識がぼやけてきた。体からなにも感じねえ。動かせる力もねえ。
あの世に行けば、先に逝っちまったみんなにも会えるだろう。
だが、八十八まで生きて、生涯孤独のままだなんて、向こうでぜってえ笑われちまうな。
俺は最後の息を吸って、誰もいないこの屋敷で遺言を吐いた。
「バン…シーの…嬢ちゃん…いるなら……俺の…最期を…頼むぜ……先に…いく。」
〜〜〜〜
雷光が閃いた、その刹那だった。
轟く雷鳴とともに、ひとりの女がフランキーの寝床の前に現れた。
女の頬を伝う涙は、顎先から音もなく落ちていく。
彼女は静かに跪き、眠るように動かなくなったフランキーの頬に、そっと指先を触れた。
「ごめんね…さいごまで…あえなかった…うぅぅぅぅ…」
彼女は、フランキーの干からびた唇に口づけた。
その瞬間、フランキーの亡骸から青白い光がふわりと浮かび上がる。
光はゆらゆらと揺れながら人の輪郭を結び、やがて若き日のフランキーの姿を形づくった。
彼の魂だった。
フランキーは、ゆっくりと目を開けた。
〜〜〜〜
俺は、家の中でふっと目を覚ました。
胸の痛みは消えていた。
あれほど身体を縛っていた寒気もない。
息も苦しくない。
やけに身体が軽く、頭まですっきりしている。
なんだ、助かったのか。
目の前の寝台に、ひとりの老人が横たわっていた。
頬はこけ、唇は干からび、胸はもう二度と上下しない。
しわだらけの両手を胸の上にのせた、その老いぼれは――
俺だった。
八十八年を生きて、ついさっき息を引き取った、まぎれもない俺自身の亡骸だった。
「……どうなってんだ、こりゃ?」
呆けたように呟いた俺のすぐ傍らで、ひとりの女が膝をついていた。
泣いていた。
白い頬を涙で濡らし、まるでこの世の終わりみてえに、静かに、痛ましげに。
そして、まじでとんでもねえ別嬪だった。
濡れた睫毛、透き通るような白い肌、震える唇。
悲しげな、白い目の中に、涙が止まらないほど溢れている。
嵐の夜の薄闇の中でもわかるほど、その女は恐ろしいほど美しかった。
しかも、胸がでけえ。下手すりゃ俺の頭ぐらいありそうだ。
「よかった……目がさめた……うまくいったみたい……」
ああ。
この声だ。
俺が、ガキのころから何十年も聞いてきた、あの泣き声の主は。
こいつだったのか。
「お前さんは…誰だ?」
「わたし……サーシャ。バンシー……この家の、始まりの女……」
女は涙をぬぐいもせず、かすかに笑った。
「ずっと……あなたを迎えに来たかった…」
「俺を? なんでだ?」
「あなただけは……ずっと、わたしの声が聞こえていたでしょう?」
「ずっと、気になってた……ずっと、見てた……」
「どうしてこんなに、あなたばかり見てしまうのか……わからなかった。」
女はそこでまた声を詰まらせた。
「……七日前、ようやく、こんなふうに体を持って現れられるようになったの。」
「それで……やっとわかった…」
「わたし、ずっと……あなたが愛おしかったの…」
「しあわせにしてあげたかった……」
「でも、生きているあなたには、触れることができなかった。」
「あなたが、もうすぐ逝ってしまうって感じて……悲しくて、悲しくて……う゛ぅぅぅぅぅ……」
……そりゃまた、とんでもねえ話だな。
死んでから、そんな別嬪に口説かれるたぁ思わなんだ。
生きてるうちに来てくれりゃ、もうちっと話は早かったんだがな。
俺は、彼女の頭を、そっと撫でた。
まるで、できたこともねえ孫娘の頭を撫でるみてえだった。
「嬉しいけどさ…ちぃと遅すぎやしねえかい、サーシャちゃん?こんな老いぼれジジイになってから会いに来るなんて…」
「ううん…大丈夫……そのために、フランキーを蘇らせたから…。」
サーシャは、腰から手鏡を取り出した。
「お化けになったら鏡にゃ映らねえだろう……あーれっ?」
その手鏡には、死んだ俺の魂の姿がはっきり映っていた。
しかも、ジジイの姿ではなく、俺が30代のころの顔だった。
「そう来たか…」
どうりで、さっきから声もやけに若えと思った。魂まで若返っちまったらしい。
「ま、まあ悪ぃことじゃないからさ。若返った魂になったのはいいけど、この世に引き止められて、何になるんだ?」
サーシャは涙に濡れた顔のまま、ふっと笑った。
「うふふ……じゃ、わたしと、くないでくれる?」
「くないで…って?え?」
「つまり、わたしを、あなたの女房にして。あなたと、ひとつになりたいの…」
「死んでしまったのに、まだ誰かのぬくもりも知らないなんて……そんなの、わたし、かなしくて……ぐすん…」
彼女は俺の手を掴んで、その胸に置いた。
バカ柔けぇ。
その瞬間だった。
さっきまで胸の奥に燻っていた熱が、いきなり男の欲として燃え上がった。
別嬪だから、ってだけじゃねえ。
あの泣き声を聞くと、どうしても心の中のどこかでじわじわくるんだ。
抱きしめたくなる。口づけたくなる。泣きやませたくなる。
それなのに、もっと泣かせて、自分のものにしてしまいてえような熱まで湧いてきやがる。
「だから……よかったら、今夜から……わたしを、あなたの妻…あなたのものにしてくれる?」
俺は、思わず息を呑む。
そんな超絶別嬪さんに、そんな顔でそう言われたら、男としてたまったもんじゃねえ。
「……ああ。頼む、俺の嫁になってくれ。よろしく頼む、……サーシャ。」
「あ…ああ…とうとう…わたしと……あなたと…ぐすっ…うぅぅぅぅ…よかったぁ……よかったぁ……」
またくしゃくしゃに泣き出す彼女を見たら、俺の中の男まで、どうにも黙っちゃいられなくなった。
死んだ身のはずなのに、男としての熱だけは妙に生々しく残っていた。
腰のあたりに、隠しようのねえ熱が脈打っていた。
よし。あの泣き顔は、俺が慰めてやらにゃならん。
「だからおねがい、フランキー…こんやは…わたしを…」
その言葉に、俺はそっと彼女を抱き寄せた。
濡れた睫毛が震える。
泣き顔のまま見上げてくる彼女の唇に、俺は静かに自分の唇を重ねたーーー
一生このフィオナハの地で暮らして、畑を耕して食ってきた。
趣味は、まあビールを飲むことと、村のパブで歌うぐらいかな。
だが、もう今年の体はあちこちガタが来ちまってる。酒を飲むどころか、パブまで足を運ぶことすらままならん。
ずいぶん長く生きてきたってのに、どうしても怖くてたまらねえものがある。
なぜかって?うちケブンナッグ家にゃあ、結構おっかねえ伝説があるんだ。
昔ぁ、飢饉で村ひとつまるごと消えた家もあった。墓ばっか増えて、泣く女の声だけが残ったって話だ。
詳しい事情はわからんが、要は「バンシー」という化け物が、うちの人間を一人、また一人と、あの世へ連れていくんだそうだ。
毎回、うちに死人が出る時に、すんごい不気味な泣き声が聞こえるんだ。
まるで、女が泣いている、みたいな声っていうやつ。沼の湿った土から掘り出され、石の壁を通り抜けて、風と一緒にやってくる感じの、死んだ女の声。おっかねえだろ?まるでこれから誰か死ぬことを知らしめているみてえだ。うちぁぜってえ悪魔に目ぇつけられたに違いねえ。
ま確かにうちの連中は大体天寿をまっとうして死ぬもんなんだから、悪ぃことでもないからさっ。通夜になりゃ、親戚が集まって、祈って、飲んで、泣いて、昔話まで始まる。わいわいと死んだじいちゃんばあちゃんに別れを告ぐ。
……だが、怖いもんは怖いんだ。
俺が初めてその泣き声を聞いたのは、せいぜい四つか五つのころだ。
その夜は嵐が強く、空が暗くて月も見えない、西から吹く土砂降りの最悪の夜だ。
その泣き声はまるで女の悲鳴みたいに、もう怖くて怖くてしょうがなくて。
ガキのころの俺は、布団の中に隠れるしかなかった。
父ちゃんや母ちゃんに聞いてもさ、風が扉の間を通り過ぎた音だけでしょ、怖いなら主神に祈りなって。
確かに雷も鳴いてるし、雨もうるさいし、外には魔物もいるし。変な音が聞こえたとしても、おかしくないだろう。だけど、俺はその日から彼女の声が忘れねえんだ。
その次の日、じいちゃんのとこ行こうとしたら、手紙が来てな。「じいさんは昨日、息を引き取った」って。
それでも、俺ァあの日から、あの声が頭から離れなくなった。うちは本当に呪われてるんだと、俺は知っちまったんだ。
家族みんなが集まって通夜の時、大叔父に聞いたんだ。あれは「バンシー」ってやつで、死の兆しを運んでくる悪魔の一種なんだと。
……で、その大叔父にとっちゃ兄貴にあたる、俺のじいちゃんも、そいつに魂を狩られたってわけだ。そこはなんとかしろよ神様。
たいていそれを聞こえてるのは俺しかないんだが、いとこのショーンからは、なんか見たことがあるって言った。
なんか、目が血みてえに赤くて、血の涙を流してたらしい。いやあおっかねえ。
しかもうちだけじゃねえんだ。古い家系にだけ、ああいう女がつく。昔からそう言われてきた。
タイグんとこのオネイル家も、クイーリンちゃんとこのオグラディ家もそうだ。他にもいるらしいが、二百年ほど前の飢饉でみんな死に絶えて、血筋ごと途絶えちまったんだ。
今言った家は、俺んちと同じく、このフィオナハじゃそこそこ大きな家系だ。
金持ちってわけじゃねえが、親戚があちこちにいる、そんな感じの大家族でな。
それに、家の開祖はえらい別嬪だったって話もある。
まあ悩んでも仕方ねえから、普通に暮らそうと思ってた。
大人になったら、誰かが死ぬたび、決まってあの女は泣く。
あれを聞くと、骨の髄まで寒気が走る。夜には悪夢まで見ちまう。
夢の中じゃ、俺が魂を狩られる番なんだ。
あの化け物が血のような目で俺をにらみ、首を締めてきやがる。俺は息もできず、飛び起きるしかなくなる。
そして、俺は、悲しくも、88歳になっても、お嫁をもらえなかった。
もともと弟のパドリーグ一家と暮らしてたんだが、俺が三十のころ、隣国との戦争が起きてな。パドリーグは領主に徴兵され、出征してから数週間もしねえうちに、あのバンシーの泣き声が聞こえた。そのあと、弟の女房はガキどもを連れて実家へ戻っちまった。
「うちの子を、こんなしょうもねえ悪魔に殺されたくない」ってつったんだ。
義妹もなかなかの美人さんだ。俺の嫁でもなろうよと言ってみたかったんだ。
あの日以来、俺に寄ってくる女なんざ、ひとりもいなかった。
そうして俺ぁ、とうとうこの歳までひとり身のままだった。
今夜もひでえ雨だ。雷もうるせえし、風も強い。ぜんっぜん眠れねえ。
体のどこでもいい感じやしねえ。筋肉が痛くて、内臓がヒリヒリとする。頭がじゃがいも袋でもぶら下げたみてえに重い。横になっても、関節がガタガタと悲鳴をあげるばかりだ。
こんな時だけが、寂しいもんだ。
俺にも女房がいたらなぁ。俺と一緒に歳を取って、ばあさんになって、俺の隣にいて、「泣くんじゃないよ、このクソじじい」と言われてみてぇ。
だがもうなにもかも遅い。
泥炭の匂いが染みついた家で、俺はびくびくしながら、あの泣き声を待っていた。
戸の向こう、嵐の音に混じって、あの泣き声がようやく遠くから聞こえた。
心臓が、やけに痛くなってきた。
寒気が身体中に走って、血の巡りが止まっちまったみてえだ。
……まったく、ついに来やがったのか。
勘弁してくれ。今夜ばかりは、ひとりで死ぬのはまっぴらごめんだ。
「うぅぅぅぅ…ぐすっ…う゛ぅぅぅぅぅ…」
どう思っても無理だ。今夜は死ぬんだ、俺。
…なんでだろうな。自分が旅立つ番になった今夜に限って、あの泣き声が、ほんとうに俺の死を悲しんでるように聞こえるんだ。
「うぅぅぅ……う゛ぅぅぅぅぅぅ……ぐすっ…」
なかなか綺麗な女の声だ。
もしかして、あのバンシーも、とんでもねえ別嬪かもしれんな。
あいつに最期を見取られたら、それもまあ、悪かねえかもしれん。
「ひくっ……ひくっ……う゛ぅぅぅ……おねがい……ぐすっ……いかないで……」
泣き声の合間に、女が何かを訴えるような声が混じった。『お願い』だとか、『死なないで』だとか、そんなふうに聞こえた。
深く考えてみたいのだが、もうこの老いぼれの身体も限界らしい。
意識がぼやけてきた。体からなにも感じねえ。動かせる力もねえ。
あの世に行けば、先に逝っちまったみんなにも会えるだろう。
だが、八十八まで生きて、生涯孤独のままだなんて、向こうでぜってえ笑われちまうな。
俺は最後の息を吸って、誰もいないこの屋敷で遺言を吐いた。
「バン…シーの…嬢ちゃん…いるなら……俺の…最期を…頼むぜ……先に…いく。」
〜〜〜〜
雷光が閃いた、その刹那だった。
轟く雷鳴とともに、ひとりの女がフランキーの寝床の前に現れた。
女の頬を伝う涙は、顎先から音もなく落ちていく。
彼女は静かに跪き、眠るように動かなくなったフランキーの頬に、そっと指先を触れた。
「ごめんね…さいごまで…あえなかった…うぅぅぅぅ…」
彼女は、フランキーの干からびた唇に口づけた。
その瞬間、フランキーの亡骸から青白い光がふわりと浮かび上がる。
光はゆらゆらと揺れながら人の輪郭を結び、やがて若き日のフランキーの姿を形づくった。
彼の魂だった。
フランキーは、ゆっくりと目を開けた。
〜〜〜〜
俺は、家の中でふっと目を覚ました。
胸の痛みは消えていた。
あれほど身体を縛っていた寒気もない。
息も苦しくない。
やけに身体が軽く、頭まですっきりしている。
なんだ、助かったのか。
目の前の寝台に、ひとりの老人が横たわっていた。
頬はこけ、唇は干からび、胸はもう二度と上下しない。
しわだらけの両手を胸の上にのせた、その老いぼれは――
俺だった。
八十八年を生きて、ついさっき息を引き取った、まぎれもない俺自身の亡骸だった。
「……どうなってんだ、こりゃ?」
呆けたように呟いた俺のすぐ傍らで、ひとりの女が膝をついていた。
泣いていた。
白い頬を涙で濡らし、まるでこの世の終わりみてえに、静かに、痛ましげに。
そして、まじでとんでもねえ別嬪だった。
濡れた睫毛、透き通るような白い肌、震える唇。
悲しげな、白い目の中に、涙が止まらないほど溢れている。
嵐の夜の薄闇の中でもわかるほど、その女は恐ろしいほど美しかった。
しかも、胸がでけえ。下手すりゃ俺の頭ぐらいありそうだ。
「よかった……目がさめた……うまくいったみたい……」
ああ。
この声だ。
俺が、ガキのころから何十年も聞いてきた、あの泣き声の主は。
こいつだったのか。
「お前さんは…誰だ?」
「わたし……サーシャ。バンシー……この家の、始まりの女……」
女は涙をぬぐいもせず、かすかに笑った。
「ずっと……あなたを迎えに来たかった…」
「俺を? なんでだ?」
「あなただけは……ずっと、わたしの声が聞こえていたでしょう?」
「ずっと、気になってた……ずっと、見てた……」
「どうしてこんなに、あなたばかり見てしまうのか……わからなかった。」
女はそこでまた声を詰まらせた。
「……七日前、ようやく、こんなふうに体を持って現れられるようになったの。」
「それで……やっとわかった…」
「わたし、ずっと……あなたが愛おしかったの…」
「しあわせにしてあげたかった……」
「でも、生きているあなたには、触れることができなかった。」
「あなたが、もうすぐ逝ってしまうって感じて……悲しくて、悲しくて……う゛ぅぅぅぅぅ……」
……そりゃまた、とんでもねえ話だな。
死んでから、そんな別嬪に口説かれるたぁ思わなんだ。
生きてるうちに来てくれりゃ、もうちっと話は早かったんだがな。
俺は、彼女の頭を、そっと撫でた。
まるで、できたこともねえ孫娘の頭を撫でるみてえだった。
「嬉しいけどさ…ちぃと遅すぎやしねえかい、サーシャちゃん?こんな老いぼれジジイになってから会いに来るなんて…」
「ううん…大丈夫……そのために、フランキーを蘇らせたから…。」
サーシャは、腰から手鏡を取り出した。
「お化けになったら鏡にゃ映らねえだろう……あーれっ?」
その手鏡には、死んだ俺の魂の姿がはっきり映っていた。
しかも、ジジイの姿ではなく、俺が30代のころの顔だった。
「そう来たか…」
どうりで、さっきから声もやけに若えと思った。魂まで若返っちまったらしい。
「ま、まあ悪ぃことじゃないからさ。若返った魂になったのはいいけど、この世に引き止められて、何になるんだ?」
サーシャは涙に濡れた顔のまま、ふっと笑った。
「うふふ……じゃ、わたしと、くないでくれる?」
「くないで…って?え?」
「つまり、わたしを、あなたの女房にして。あなたと、ひとつになりたいの…」
「死んでしまったのに、まだ誰かのぬくもりも知らないなんて……そんなの、わたし、かなしくて……ぐすん…」
彼女は俺の手を掴んで、その胸に置いた。
バカ柔けぇ。
その瞬間だった。
さっきまで胸の奥に燻っていた熱が、いきなり男の欲として燃え上がった。
別嬪だから、ってだけじゃねえ。
あの泣き声を聞くと、どうしても心の中のどこかでじわじわくるんだ。
抱きしめたくなる。口づけたくなる。泣きやませたくなる。
それなのに、もっと泣かせて、自分のものにしてしまいてえような熱まで湧いてきやがる。
「だから……よかったら、今夜から……わたしを、あなたの妻…あなたのものにしてくれる?」
俺は、思わず息を呑む。
そんな超絶別嬪さんに、そんな顔でそう言われたら、男としてたまったもんじゃねえ。
「……ああ。頼む、俺の嫁になってくれ。よろしく頼む、……サーシャ。」
「あ…ああ…とうとう…わたしと……あなたと…ぐすっ…うぅぅぅぅ…よかったぁ……よかったぁ……」
またくしゃくしゃに泣き出す彼女を見たら、俺の中の男まで、どうにも黙っちゃいられなくなった。
死んだ身のはずなのに、男としての熱だけは妙に生々しく残っていた。
腰のあたりに、隠しようのねえ熱が脈打っていた。
よし。あの泣き顔は、俺が慰めてやらにゃならん。
「だからおねがい、フランキー…こんやは…わたしを…」
その言葉に、俺はそっと彼女を抱き寄せた。
濡れた睫毛が震える。
泣き顔のまま見上げてくる彼女の唇に、俺は静かに自分の唇を重ねたーーー
26/03/16 20:43更新 / 瞬間爆発型W