女皇のその後
「ふぃ〜…………」
深く息を吐き、目の前の立派な造りの館を眺める、実に懐かしい建物だ。この実家に帰るのもかれこれ半世紀ぶりくらいだろうか。
ヒトの世界とは異なり暗い紫の空、大気に溢れる濃密な魔力、居るだけで力が漲るようだ。
魔界への門を開き、そこから実家の御者を呼んで馬車に揺られる事約二日。途中で小さな村落に滞在しつつ帰ってきたが、転移系の術を使える魔術師が居ないのがこれほどに苦痛とは思わなかった……。こんな事ならあのバカップルでも連れてくるべきだった。まぁ、転移術なんて高位な術式を行使できる術師なんか辺境の町にはそうそう居ないと決まっているのに楽観して来た自分が悪いのだが。
「では、お嬢様、馬車をしまってきますので、これで失礼致します」
「ん? ああ、御苦労」
今まで馬車を引いてきたデュラハンの御者が言って恭しく頭を下げた、あ、頭が落ちた。落ちた頭を拾ってやると恐縮そうに頭を下げて下がっていったが、また落ちるぞ。
首無し馬が引く馬車が屋敷の裏に消えていく、あれでいて優秀な魔王軍の退役軍人であるのだから恐ろしい。まぁ、戦働きでは優秀だったんだが、昔から粗忽者だったからな。
さて…………
巨大な扉の前に立ち腹を括る、ノッカーに手を伸ばした瞬間……まるで予測していたかのように先に扉が開かれた。
「おかえりなさーい!」
「うぼぁっ!?」
首がもげたかと思うような衝撃、誰かが首に手を回しながら飛びついてきたのだ。いや、それは飛びつくなんて控えめな物じゃない、タックルだな。
柔らかな獣毛にくるまれた手足に強く抱きしめられすぎて背に食い込んだ鉤爪。露出された腹と、胸甲を纏った私とは異なり柔らかな布が巻かれていた薄い胸。そして顔にめり込む立派な角・・・・・・
私と同じ種族、バフォメットであり………………私の母だ。
「母様、角が痛いです」
「久しぶりねぇ〜ミシェール。ああ、私のかわいい娘〜」
そういって頬ずりされる、だから痛いと言っているのだが。話を聞かないのは出ていった時から変わらないな。
痛みに耐えていると、誰かが母を引きはがしてくれた。ああ、これはきっと……
「やめなさいアンジェ、ミシェールの頬が真っ赤じゃないか」
細く引き締まった長身の若々しい男性、短く刈り込んだ髪は爽やかな印象を与える。ゆったりとしたシャツとズボンを纏った姿は普通の青年に見えるが、この男性は立派な魔王軍の重鎮の一人である。
「父様、お久しぶりです」
「ああ、良く帰ったな娘よ」
ティオーダ=アンドレティア。アンドレティア家の婿養子にして男ながらに魔王軍の魔術師連隊を率いる豪傑、2500人の魔術師の長にして山を切り崩す規格外の魔術師。
そして私の父である。
「なにするのよティー! 半世紀ぶりの母娘の再会なのよ!」
「お前は何でもやりすぎるんだ、自分の角のことを考えろ」
父の言葉にむっとして頬をリスのように膨らませる母。今はこんなノリだが、隠居する前は私よりも厳格で女皇の名を冠していたというのだが、この姿からその威容は想像出来ない。
「ただいま戻りました、壮健そうでなによりです」
「お前もよく帰ってきた、サバトとかいうのは順調か?」
「有能な副官がいるので休暇がとれました」
父様に頭をガシガシと撫でられる、小さな子供じゃあるまいし止めてほしいのだが・・・・・・
「ティーばっかりずるい! 私もやるー!」
「おうふっ!?」
そういって父を振りきり母が再び突撃してきた。頭を撫でるんじゃなかったのか、いい加減にしてくれないと首がもげるぞ。
全く、一〇〇〇年以上生きてて何故こうも過保護なのだ、娘は自立して結婚もしているというのに。あ、そういえば…………
「シュヴァルツは……?」
「ああ、婿どのならそろそろ……」
父が言い終えるか否かの間に、エントランスホールの中央に巨大な陣が浮かんだ。青く輝くヘキサグラムの魔法陣だ。魔力が渦巻き、力が陣の中心に集まり……強く発光した。
眩しさに目をつむり、次に開いた時には、あれだけ強く輝いていた陣は消え去っていた。あれは見覚えがある、転移術式の陣だ。
陣の中心だった所には一人の男が立っていた。痩せた長身に少し痩けた頬、顔色は悪く、伸びきった髪はボサボサで脂っこい。何とも言えない気味の悪さをまとわりつかせた男。それを身に纏った暗色のローブが引き立てている。
「シュヴァルツ……か?」
「やぁ、ミシェール、久しぶりだね」
その男こそ我が夫にして、かつて私が屠った勇者の一人、シュヴァルツ=アンドレティアであるのだが……最後に会った時とかなり雰囲気が違うのだが……?
ああ、因みに長く離れている理由はあくまで仕事の都合であって不仲な訳では無いぞ? 手紙のやりとりはしていたし、私も夫を愛している。まぁ、どうしてもお互い忙しい役職なんぞに就いているから仕方がないのだが。
夫は魔王軍勇者部隊の経理係で、私がサバトの支部ひとつを任されるのとほぼ同時期に経理の長に任命された。基本的に奔放でおおざっぱな部署の、更に不明瞭な経理を司る役職なのでその忙しさは戦場の比ではない。
「だ……大丈夫か?」
「ああ、これかい?」
夫は伸びた髪の襟足をつまんで言った。理知的なつり目にもあまり精気が無い。
「どうにも忙しくてね、人員は増えるばかりなのに事務系の人員が増えないからてんてこまいでね。僕も責任者だからなかなか休めなくて」
勇者部隊はヒトの王が勇者を送り込む度に増えていく。未だにどの勇者も刃を魔王陛下に届かせる所か大抵入り口で撃破され、こちら側に寝返っているからそれに比例して増えていくのだ。まぁ、魔王軍が強くなるのはいいのだが、大抵その勇者と御付きのメンバーに経理なんかの仕事ができそうな者が居ないのが問題である。勇者やその御付きに必要な能力でないから仕方がないのだが、ある意味一番の問題だ。何せ部署が新人を満足に教育できない程忙しいのなど、組織としては大きな問題なのに半ば以上放置されているのだから。
夫の髪や痩けた頬もそのせいであろう。
「最後にまともに食事をしたのは何時だ?」
「さぁ……最近はサンドイッチとかしかつまんでないから分からないなぁ」
つまり少量の小麦と野菜しかとれていない訳か……
「母様!」
「なぁに?」
「食事を用意してくれ」
「全員分の用意は済んでるわよ?」
「風呂は?」
「それならば今シルキー(家に付いて奉公する妖精の呼び方)達に用意させている。食事が終わる頃には終わるだろう」
ふむ、よしよし・・・・・・では。
「我が夫よ」
「何かね妻よ」
「まずは食事としよう」
長い食卓に家族四人で並ぶ。一応姉妹は居るのだが、今は皆外にでている。何だかんだで家はそこそこの名門なので大抵みんな忙しいのだ。隠居している母様はともかく、父様や夫は相当無理して休みをとってくれたのだろう。
食前のスープを片づける。シャンタク鳥の卵と根菜のポタージュ、味は甘みと深みがあって美味い。
「いやぁ、久しぶりに人間らしい食事が採れた。食べ物ってのはこんなに舌に楽しい物だったんだね」
暗く濁っていた瞳に僅かだが光が戻り始めていた。
「そんなに忙しいのかね婿殿」
「いやね、御義父さん。四〇〇人、つまり旅団規模に近い部隊なのに経理が一二人しか居ないんですよ? これじゃあ輜重部隊もまともに組めやしない」
そうとう無茶な部隊だな、なんで規模の十分の一以下の人員しか居ないんだ。良く回るものだな。
「あら……陛下は何ておっしゃってるの? 嘆願条とか出した?」
「どこも手一杯だそうです……新人の教育ができればずいぶんとマシになるんでしょうけどねぇ」
会話の合間にスープが終わり、シルキー達が食器を下げて、今度は前菜のサラダが来た。
黒い魔界産のレタスと紫の玉葱のスライス、それに金色のドレッシングが回しかけられている。少しのっている小さい物は鳥のささみであろうか。
「家の師団も結構あれでね、人間の術者と違って杖が要らないのはいいんだけどどうしても人件費がね。独り身の術者には男を紹介してやった方がいいからお見合いのセッティングもあるし……神経がささくれまみれだよ」
魔力は基本的に寝たり等して休憩すれば回復するのだが、やっぱり精を取り込んだ方が回復が早い。一応魔王軍の糧食には精製した精を込めた物があるが、不評なのだ。不味いと。まぁ、市井のヒトが提供してくれる血や精液で作っても、どうしても加工する課程で味が変質してしまうのでどうしようも無いのだが。
「私の方は極めて順調だな。部下が大抵片づけてくれる……と、いうより私があまり手を出さねば良いところが多いので逆に寂しいのだが」
サバトの支部は運営費は自分で賄わなければならない。かといって教団の教会みたいにお布施をむしり取る訳にはいかないので独自に稼がなければならないのだ。家はヴァルドが交易に明るいので通商交易で儲けているのだが、余所の事情はあまり知らない。
ついでに、人事も事務的に信者を登録する必要もないから大してすることが無いのだ。布教も私自身がでていく必要は無い……むしろ出ていかないほうがいいから本当にする事がないのだ。
「忙しすぎるのも問題だけど暇なのも大変だよね……仕事してないって吊し上げられそうだしね」
その通りである。私の仕事は人心掌握と組織の全体把握に、本山との折り合いをつける事である。仕事をしないのではなく、無理に手を出さないのだ。組織にとって一番やっかいなのは働かない上役ではなく、無能で働き者な上役なのだ。第一私が交易になんぞ手を出しても酷い目にあうのが目に見えてるからな。
だが、なんとなくだが肩身が狭いような気がしてきた。皆忙しいというのに自分だけ、というのはちょっとアレなものだ。
前菜が終わりかけた頃、母が何とも無しにすさまじい事をぬかしてくれた。それこそ戦術級術式並の威力の事をだ。
「そういえば、二人は子供を作らないの?」
下品な話だが口に含んでいたワインを吹き出しそうになった。食事時に何を言い出すのだこの母親は。
「ああ、二人とも、もう結婚して200年くらいになるのにね。家の部下には勇者部隊出の2世やら3世がごろごろしてるんだけど」
駄目だ、真面目だった父様もすっかり魔王城でのただれた生活に慣れきってしまっている……
「確かにそうですけど、滅多に会えませんからねぇ。僕も子供はほしいんですけど」
お前もか夫よ……。一瞬少し残ったサラダに突っ込みそうになったぞ。
「で、どうなのミシェール?」
何とも楽しそうに聞いてくる母様。ああ、この状態を見越してのネタ振りだったのか……。この人の趣味の一つは性質の悪い事に娘イジリなのだ、初等学校の頃から酷い目に遭わされてきたが……これは効くなぁ。
「ま……まぁ、確かに子供は欲しいさ。だがな、流石に身重でサバトの仕事をするのも……」
「あらぁ、妊婦プレイする人とかいないの? 私が現役だった頃は大きいお腹で黒ミサに参加する魔女もたくさん居たと思うんだけどねぇ」
今度こそ完全に机に突っ伏した、隙をみてサラダを回収してくれた目端の利くシルキーに感謝だ。しかし物を食べている時に妊娠がどうだのと言わないでほしいんだが。
「お母さんそろそろ孫が見たいなー」
「妹達のだったらもう曾孫くらいまでいるだろう・・・・・・」
「あら、長女の孫ってのが一番感慨深いものなのよ? たしかに初孫のアレクシアは今でも可愛いけどねぇ」
ああ、私の姪か。アレクシアは確か軍付きだったかな、私と同じく勇者とくっついたと聞くけど……
「来年あたり一族がそろえたらいいんだけどねぇ」
顔を覚えてる限り、祖母だけで20人位居るんだがどうやって集めればいいってんだ。そもそもバフォメットは長生きし過ぎるからどうしても一族の数が凄まじい事になりがちなんだよなぁ。
結局私は食事が終わるまでさんざん母にからかわれ続けた。正直、何を食べても味が分からなかった………………
何故こんな事になった……私はだだっぴろい大理石の風呂場で夫の髪を洗いながらそう思った。
確かに長い間水浴びができなかったせいで頭が油だらけだった夫を風呂に放り込む事は確定していた。うん、それは私が決めたから何の問題もない。だが……なんでこうなった。
あれよあれよと言う間に風呂場に放り込まれてしまった……いや、まぁ、な。確かにあれだ、風呂が終わったら一戦……とは思ってはいたんだ、うん。そりゃ私だって魔物だからな、精が欲しくなる事だってあるさ……
だからってこんな事になるなんて思ってもみなかったぞ。風呂でいたした事が無いかと聞かれれば無いとは言えないが、それはまだ青い新婚カップルだった時分のことであって……
「痛い、痛いよミシェール」
「あ、ああ、済まない」
おっと、知らず知らずの家に体が強ばって力が……泡まみれの頭を石鹸で洗っていたが、恐ろしい事に油のせいでいくら塗りたくっても泡が打ち消されてすごい事になっている。
「流すぞ」
「頼むよ」
桶にお湯を汲んでゆっくりかけて泡を流してやる。五回ほどかけて綺麗になったら、もう一度石鹸を手に取る。
「ん? もう一回やるのか?」
髪が垂れて左目が隠れた夫がこちらを振り返り、右目だけで見返してくる。うん、顔色も目の精気も痩けた頬もマシになってきた、我が夫ながら二枚目だな。
「一回くらいであの汚れが落ちるか、ほら、前を向け」
「ああ、分かった」
石鹸を泡立て、再び塗りたくる。人間の手と構造が違うから大変だが、爪を使えばある程度は融通が利くし、爪をしまえば肉球で頭を擦ってやれる。爪がない分ヒトがやるより頭皮に傷を付けないで済む。
「……ありがとうな……」
「ん?」
「忙しいのに帰ってきてくれて」
夫は少し黙った後で、小さく言った。
「なぁに、夫らしい事を何一つできない駄目男だからね、これくらいはしないと」
「それを言ったら私も駄目女だ、妻失格だ」
間……沈黙が痛い。普通の夫婦なら半世紀も離れたりはしないだろう、たしかに父母もこんな境遇だったらしいが、職場が同じ魔王城だったからまだマシだったはずだ。顔を一切あわさない夫婦なんて何の冗談だ。
「……だったらさ、どっちも失格なんだから、頑張ってお互い合格できるように頑張ろうよ」
…………顔が塗れててよかった、夫が顔を伏せていてよかった、前に鏡がなくてよかった。こんな風に、年甲斐もなく泣いてしまうなんて。
私はきっとこういう所に惚れたんだろうなぁ……勇者なんて数え切れない程見てきたが、夫以外に心を揺れ動かされた事何て無い。鎌と剣で初めて斬り結んだあの瞬間から惚れた気で居たけど、きっと私はこの彼の優しさを瞳に見たのだろう。殺意でも無く、世界を守る意志に燃えていた瞳に映ったあの優しさに。
「……そうだな、うん、頑張ろう、うん……」
「僕も頑張るよ」
「ああ、私もだ」
頭に泡を乗せ目を閉じた夫の前に気配を消して回り込み、深く唇を合わせた。深く口を合わせ、背に手を回すと応えるように抱き返してくれた。
舌と舌が軟体生物の如く絡み合い、唾液が混ざり合う。貪るように唾液を飲み込み、また、飲まれる。なんでこう、惚れた相手の唾液は甘く感じるんだろうか。まさに甘露というやつだな、頭の芯がしびれて思考が麻痺してきた。
このままコトに及んでしまいたくもあるが、泡をブクブクさせたままでは夫は目を開けられない。口を合わせたまま泡を流すと口に入って酷い目に合うだろうから一端口を離す。口にかかる銀色の橋、そんな表現を誰かから上納された自作の官能小説で見たが、こんな雰囲気なら詩的な表現も悪くないな。
「どうしたの?」
「まぁ待て、まず泡を流そう、話はそれからだ」
「肉体言語だね」
ひとしきりくだらない事を言い合いながら泡を流す、こんな短い恋人時代のような睦事を楽しむのも昔を思い出して楽しいものだな。
さて、泡を流し終えると湯船に浸かる。ヒトの平民はサウナで垢をふやかしてから水を浴びるのが風呂らしいが、それでは相当味気ない気もする。しかも王侯貴族に至っては風呂に入らないそうだ、なんでもヒトの界隈では黒死病が水を媒介にすると信じられているからだそうだ。錬金術を取り締まるから大事な事を知らないのだろうな。
湯船には香水が入れられており、僅かにだが香しい薔薇の臭いがした。
「いい匂いだ」
夫が私を抱きしめ、鼻を髪に埋めてくる、くすぐったいが気持ちいい。
「ああ、薔薇の香りだな」
「いや、君のさ」
突然脇に手を差し込まれ、湯船の縁に持ち上げられた、そのまま首筋に吸い付かれ膨らみに乏しい胸を揉まれる。
「あっ、そこは弱い・・・・・・」
「う〜ん、勇者だった頃は大きい方が好きだったんだけど、今は君のが一番好きだなぁ。これも惚れた弱みってやつかな?」
サバトの教義から幼い容姿を好まれるのは本望なんだろうが、実は胸が乏しいのはコンプレックスだったりする。元々軍から引き抜かれたのであって、教義に感動して入信した訳ではないのだ。理由? お金だ、貴族ってのは金がかかるものなのだよ、ヒトも魔物もそこは変わらんのだ。
「揉んだら大きくなるかな?」
「流石にならんよ……子供ができたらどうだろうな」
言って乳首に吸い付く夫の頭を撫でてやる、子供に乳をやるのはこんな感じなんだろうか。
「こらこら、そんなに吸ってもなにも出ないぞ」
「出たらおもしろいんだけど」
「じゃあ出るようにしてみるか?」
見つめ合い……二人同時に微笑んだ。
夫の下半身を見ると、逸物は痛々しいほどに肥大化していた。半世紀ほど会っていないが流石に処理していなかった訳ではないが、相当たまっているようだ。
「凄いな、どれだけため込んだんだ」
「ざっと半世紀かな?」
絶句した。夫は冗談はあまり言わないし嘘もつかない、目をみると本気だ。もしかして……
「いやぁ、半世紀も禁欲したヒトは初めてじゃないかな?」
「冗談めかして言ってるが、ある意味快挙だぞ」
「あはははは」
しかし……超高位術師が半年ため込んだ精か…………ちょっと怖い物があるな。
「あ〜と、不躾なんだけどさ、ちょっと一杯一杯なんだけど……」
申し訳なさそうに笑う夫。
「安心しろ、私もだ」
実は私も最初の言葉だけで十分に濡れていた。まぁ、いうなら私も半世紀ほど禁欲していたからな……自慰は好きじゃないんだ、終わった後空しくなるからな。
「じゃあ……いくよ」
「ああ…………」
夫の物が私に潜り込んだ瞬間、目の前が黄色く光った。余りに久しぶりすぎて脳が快感に耐えきれなかったのだ。挿入されただけで絶頂に達してしまった。
「かっ……かはっ…………」
声が出ない……視界の端では夫が私の胸に頭を埋めて射精を必死にこらえていた、私と同じように長い間禁欲していたせいで快楽への耐性が無くなっていたようだ。
お互いにゆっくり体を動かし始める、さぐり合うように体を擦り合い、唇を深く合わせる。
浅くゆっくりだった注送は次第に速くなっていき、最後には深く私の奥を抉るようになっていった。いくらか慣れてきたとはいえ体は快楽に弱く、視界が白く染まっていく。縁に乗せていた上体を起こして夫の体に抱きつく、細く引き締まった体に腕を回し、肩口に歯を立てる、そうでもしなければ快感に狂ってしまいそうだったんだ。
「ごめ……そろそろ…………!」
「あっ……ああ、いつでもいいぞ…………!」
絶頂は同時だった。埋め込まれたモノが激しくのたうち、内蔵が焼け付くそうな熱い物が吐き出された瞬間、脳髄が焦げ付くような快感が体を走り、私の意識は白い光の中に消えていった…………
「うふふふふふふふふふふふふふ」
凄まじい笑みを浮かべて妻が邪悪極まりない笑みを垂れ流している。場所は久しぶりに戻ってきた寝室だが、妻はベッドの足下に大きな水盆を置き、にやにやと笑いながら水面を穴よ開けといわんばかりに見つめている。魔術を展開して異層空間を経由し我が家の風呂場の映像を拾っているのだ。
「うふふふふふ、これで一年後には孫が増える。にゅふふふふふ」
徐々に笑いが気持ち悪くなっているが、これでも我が妻なので聞かなかったことにしよう、正直百年の恋も冷める笑い方だ。まぁ高々百年さめたとてあと900年くらい残ってるから何の問題もないがね。
水盆に映っているのは我が娘夫婦の睦事、若いからか激しいな……ん? 気絶した? まぁ、風呂で激しい運動をすれば上せて当然か。
さて、そろそろ止めるか。これ以上放っておいたら盛大に暴走しかねないからな、風呂に乱入されたら面倒だし。
「あっ、ちょっとティー、何するのよ! あんっ、あ、ちょっと待って…………」
娘夫婦も頑張っている事だし、僕たちも新しく娘を作るとしよう。
あれから半年程が過ぎた。あの後魔王陛下に謁見し幾つかねぎらいの言葉を頂いた。その後はしばらく夫といちゃいちゃしながら過ごしたが、百歳ほど若返った気分だ、心持ち魔力もかなり増大している気がする。
そして休暇が終わったので私はサバトの支部が存在する都市、フィリップに帰ってきた。夫は休みを取った代償で今は激務に駆られているようだ。今は玉座に座り、いつも通り酒杯……ではなく白湯を啜っている。
玉座の隣には武器持ちのゴーレムや側仕えの魔女の代わりに我が副官たるヴァルドと、その妻であるアリシアが控えている。手に持つのは業務報告を記した洋皮紙だ。
ただの報告ならいいのだが、正直母様よりも鬱陶しい。やれ腹を冷やすなとクソ熱い中、分厚い毛布をかけられ、やれ酒も紅茶も胎児によくないと禁じられ、飲める物は白湯かヴァルドが煎じた不思議な甘みのある薬湯くらいのもの。食事も徹底的に野菜だらけでバランスはとれているのだろうが凄まじく物足りない。心配されているのだろうが、魔物の胎児、それもバフォメットみたいな上位種族の胎児はそんなに弱くないぞ。母親になるのは随分大変な事なんだな……。まぁ言われた事を律儀に守っている私も私だが。
「収支報告ですが、新たに開拓した交易路から仕入れる香辛料を転移させて輸送しているので中間料を取られる事なく多量の利益を得られました。具体的には金貨が20000枚以上になりますが、中間料をとれなかったヒトの国家から攻撃を受ける心配が出てきましたがいかが致しましょうか」
「ああ・・・・・・良きにはからえ」
「はい。利益を用いて通商護衛の艦隊を強化します、砲船を整備しましょう。香辛料などの高価な交易品なら転移しても利益が費用に釣り合いますが、それ以外の細かい物を運ぶのはまだまだ船の仕事ですからね。
最近は戦列艦が主流になりつつあるので中型フリゲートを配備すれば私掠船も手を出せなくなるでしょう」
本当に得難い部下だよ、私には商売の事はどうにも分からん。軍団の運用は陸が主だったからなぁ。
おや……
「どうなさいました?」
「今蹴ったぞ」
まるまると大きくなった腹、その中に居る我が子。腹の中で蹴ってくるというのは聞くが、ここまで力強いものなのか……
「本当ですかっ!? 触らせてくださいマスター」
「ああ、構わんぞ」
派手な法衣ではなく、落ち着いたデザインの法衣に着替えたアリシアは口調も声のトーンも素に戻ったせいか見た目は幼いのにとても大人びて見える。大きくなったお腹の隣に立ち、毛布の上からそっと撫でて、感嘆の息を漏らした。
「凄いですよね……」
「なぁに、お前さん達も直ぐにできるだろうさ」
「私たちが抜けたらだれがここを回すんですか」
と、ヴァルドが頭をかきむしりながらいった。
「後輩の育成がすんで、ここを任せられるくらいになったら隠居しましょう。そうして子供も沢山こさえますよ」
老いをねじ伏せる驚異の魔術師二人の子供、しかも片方は魔女。うーん、かなりの高位術師がぽこぽこ産まれてくるのか、優秀なサバトの構成員になってくれそうだな。
先は大きく開け、そこからは光が溢れ出ている。世は事もなし、この安定は神にさえ打ち砕く事はできないだろう。むしろさせてたまるものかね。
もし奴等が最後の審判なるものを下そうものならば、私は鎌を取って戦おう、我が子とそれに連なる者達や、私につき従う者達の為に。何の役にも立たない私だが、それくらいならばできる。その為に私はここに座っているのだろう。
「ヴァルドよ」
「はっ」
「悪くないものだな」
「そうですな」
私は我が子を納めた腹を一つ叩き、小さく呟いた。
「さっさと産まれてこい、外は楽しい事で一杯だぞ?」
まさに世は事もなし…………
深く息を吐き、目の前の立派な造りの館を眺める、実に懐かしい建物だ。この実家に帰るのもかれこれ半世紀ぶりくらいだろうか。
ヒトの世界とは異なり暗い紫の空、大気に溢れる濃密な魔力、居るだけで力が漲るようだ。
魔界への門を開き、そこから実家の御者を呼んで馬車に揺られる事約二日。途中で小さな村落に滞在しつつ帰ってきたが、転移系の術を使える魔術師が居ないのがこれほどに苦痛とは思わなかった……。こんな事ならあのバカップルでも連れてくるべきだった。まぁ、転移術なんて高位な術式を行使できる術師なんか辺境の町にはそうそう居ないと決まっているのに楽観して来た自分が悪いのだが。
「では、お嬢様、馬車をしまってきますので、これで失礼致します」
「ん? ああ、御苦労」
今まで馬車を引いてきたデュラハンの御者が言って恭しく頭を下げた、あ、頭が落ちた。落ちた頭を拾ってやると恐縮そうに頭を下げて下がっていったが、また落ちるぞ。
首無し馬が引く馬車が屋敷の裏に消えていく、あれでいて優秀な魔王軍の退役軍人であるのだから恐ろしい。まぁ、戦働きでは優秀だったんだが、昔から粗忽者だったからな。
さて…………
巨大な扉の前に立ち腹を括る、ノッカーに手を伸ばした瞬間……まるで予測していたかのように先に扉が開かれた。
「おかえりなさーい!」
「うぼぁっ!?」
首がもげたかと思うような衝撃、誰かが首に手を回しながら飛びついてきたのだ。いや、それは飛びつくなんて控えめな物じゃない、タックルだな。
柔らかな獣毛にくるまれた手足に強く抱きしめられすぎて背に食い込んだ鉤爪。露出された腹と、胸甲を纏った私とは異なり柔らかな布が巻かれていた薄い胸。そして顔にめり込む立派な角・・・・・・
私と同じ種族、バフォメットであり………………私の母だ。
「母様、角が痛いです」
「久しぶりねぇ〜ミシェール。ああ、私のかわいい娘〜」
そういって頬ずりされる、だから痛いと言っているのだが。話を聞かないのは出ていった時から変わらないな。
痛みに耐えていると、誰かが母を引きはがしてくれた。ああ、これはきっと……
「やめなさいアンジェ、ミシェールの頬が真っ赤じゃないか」
細く引き締まった長身の若々しい男性、短く刈り込んだ髪は爽やかな印象を与える。ゆったりとしたシャツとズボンを纏った姿は普通の青年に見えるが、この男性は立派な魔王軍の重鎮の一人である。
「父様、お久しぶりです」
「ああ、良く帰ったな娘よ」
ティオーダ=アンドレティア。アンドレティア家の婿養子にして男ながらに魔王軍の魔術師連隊を率いる豪傑、2500人の魔術師の長にして山を切り崩す規格外の魔術師。
そして私の父である。
「なにするのよティー! 半世紀ぶりの母娘の再会なのよ!」
「お前は何でもやりすぎるんだ、自分の角のことを考えろ」
父の言葉にむっとして頬をリスのように膨らませる母。今はこんなノリだが、隠居する前は私よりも厳格で女皇の名を冠していたというのだが、この姿からその威容は想像出来ない。
「ただいま戻りました、壮健そうでなによりです」
「お前もよく帰ってきた、サバトとかいうのは順調か?」
「有能な副官がいるので休暇がとれました」
父様に頭をガシガシと撫でられる、小さな子供じゃあるまいし止めてほしいのだが・・・・・・
「ティーばっかりずるい! 私もやるー!」
「おうふっ!?」
そういって父を振りきり母が再び突撃してきた。頭を撫でるんじゃなかったのか、いい加減にしてくれないと首がもげるぞ。
全く、一〇〇〇年以上生きてて何故こうも過保護なのだ、娘は自立して結婚もしているというのに。あ、そういえば…………
「シュヴァルツは……?」
「ああ、婿どのならそろそろ……」
父が言い終えるか否かの間に、エントランスホールの中央に巨大な陣が浮かんだ。青く輝くヘキサグラムの魔法陣だ。魔力が渦巻き、力が陣の中心に集まり……強く発光した。
眩しさに目をつむり、次に開いた時には、あれだけ強く輝いていた陣は消え去っていた。あれは見覚えがある、転移術式の陣だ。
陣の中心だった所には一人の男が立っていた。痩せた長身に少し痩けた頬、顔色は悪く、伸びきった髪はボサボサで脂っこい。何とも言えない気味の悪さをまとわりつかせた男。それを身に纏った暗色のローブが引き立てている。
「シュヴァルツ……か?」
「やぁ、ミシェール、久しぶりだね」
その男こそ我が夫にして、かつて私が屠った勇者の一人、シュヴァルツ=アンドレティアであるのだが……最後に会った時とかなり雰囲気が違うのだが……?
ああ、因みに長く離れている理由はあくまで仕事の都合であって不仲な訳では無いぞ? 手紙のやりとりはしていたし、私も夫を愛している。まぁ、どうしてもお互い忙しい役職なんぞに就いているから仕方がないのだが。
夫は魔王軍勇者部隊の経理係で、私がサバトの支部ひとつを任されるのとほぼ同時期に経理の長に任命された。基本的に奔放でおおざっぱな部署の、更に不明瞭な経理を司る役職なのでその忙しさは戦場の比ではない。
「だ……大丈夫か?」
「ああ、これかい?」
夫は伸びた髪の襟足をつまんで言った。理知的なつり目にもあまり精気が無い。
「どうにも忙しくてね、人員は増えるばかりなのに事務系の人員が増えないからてんてこまいでね。僕も責任者だからなかなか休めなくて」
勇者部隊はヒトの王が勇者を送り込む度に増えていく。未だにどの勇者も刃を魔王陛下に届かせる所か大抵入り口で撃破され、こちら側に寝返っているからそれに比例して増えていくのだ。まぁ、魔王軍が強くなるのはいいのだが、大抵その勇者と御付きのメンバーに経理なんかの仕事ができそうな者が居ないのが問題である。勇者やその御付きに必要な能力でないから仕方がないのだが、ある意味一番の問題だ。何せ部署が新人を満足に教育できない程忙しいのなど、組織としては大きな問題なのに半ば以上放置されているのだから。
夫の髪や痩けた頬もそのせいであろう。
「最後にまともに食事をしたのは何時だ?」
「さぁ……最近はサンドイッチとかしかつまんでないから分からないなぁ」
つまり少量の小麦と野菜しかとれていない訳か……
「母様!」
「なぁに?」
「食事を用意してくれ」
「全員分の用意は済んでるわよ?」
「風呂は?」
「それならば今シルキー(家に付いて奉公する妖精の呼び方)達に用意させている。食事が終わる頃には終わるだろう」
ふむ、よしよし・・・・・・では。
「我が夫よ」
「何かね妻よ」
「まずは食事としよう」
長い食卓に家族四人で並ぶ。一応姉妹は居るのだが、今は皆外にでている。何だかんだで家はそこそこの名門なので大抵みんな忙しいのだ。隠居している母様はともかく、父様や夫は相当無理して休みをとってくれたのだろう。
食前のスープを片づける。シャンタク鳥の卵と根菜のポタージュ、味は甘みと深みがあって美味い。
「いやぁ、久しぶりに人間らしい食事が採れた。食べ物ってのはこんなに舌に楽しい物だったんだね」
暗く濁っていた瞳に僅かだが光が戻り始めていた。
「そんなに忙しいのかね婿殿」
「いやね、御義父さん。四〇〇人、つまり旅団規模に近い部隊なのに経理が一二人しか居ないんですよ? これじゃあ輜重部隊もまともに組めやしない」
そうとう無茶な部隊だな、なんで規模の十分の一以下の人員しか居ないんだ。良く回るものだな。
「あら……陛下は何ておっしゃってるの? 嘆願条とか出した?」
「どこも手一杯だそうです……新人の教育ができればずいぶんとマシになるんでしょうけどねぇ」
会話の合間にスープが終わり、シルキー達が食器を下げて、今度は前菜のサラダが来た。
黒い魔界産のレタスと紫の玉葱のスライス、それに金色のドレッシングが回しかけられている。少しのっている小さい物は鳥のささみであろうか。
「家の師団も結構あれでね、人間の術者と違って杖が要らないのはいいんだけどどうしても人件費がね。独り身の術者には男を紹介してやった方がいいからお見合いのセッティングもあるし……神経がささくれまみれだよ」
魔力は基本的に寝たり等して休憩すれば回復するのだが、やっぱり精を取り込んだ方が回復が早い。一応魔王軍の糧食には精製した精を込めた物があるが、不評なのだ。不味いと。まぁ、市井のヒトが提供してくれる血や精液で作っても、どうしても加工する課程で味が変質してしまうのでどうしようも無いのだが。
「私の方は極めて順調だな。部下が大抵片づけてくれる……と、いうより私があまり手を出さねば良いところが多いので逆に寂しいのだが」
サバトの支部は運営費は自分で賄わなければならない。かといって教団の教会みたいにお布施をむしり取る訳にはいかないので独自に稼がなければならないのだ。家はヴァルドが交易に明るいので通商交易で儲けているのだが、余所の事情はあまり知らない。
ついでに、人事も事務的に信者を登録する必要もないから大してすることが無いのだ。布教も私自身がでていく必要は無い……むしろ出ていかないほうがいいから本当にする事がないのだ。
「忙しすぎるのも問題だけど暇なのも大変だよね……仕事してないって吊し上げられそうだしね」
その通りである。私の仕事は人心掌握と組織の全体把握に、本山との折り合いをつける事である。仕事をしないのではなく、無理に手を出さないのだ。組織にとって一番やっかいなのは働かない上役ではなく、無能で働き者な上役なのだ。第一私が交易になんぞ手を出しても酷い目にあうのが目に見えてるからな。
だが、なんとなくだが肩身が狭いような気がしてきた。皆忙しいというのに自分だけ、というのはちょっとアレなものだ。
前菜が終わりかけた頃、母が何とも無しにすさまじい事をぬかしてくれた。それこそ戦術級術式並の威力の事をだ。
「そういえば、二人は子供を作らないの?」
下品な話だが口に含んでいたワインを吹き出しそうになった。食事時に何を言い出すのだこの母親は。
「ああ、二人とも、もう結婚して200年くらいになるのにね。家の部下には勇者部隊出の2世やら3世がごろごろしてるんだけど」
駄目だ、真面目だった父様もすっかり魔王城でのただれた生活に慣れきってしまっている……
「確かにそうですけど、滅多に会えませんからねぇ。僕も子供はほしいんですけど」
お前もか夫よ……。一瞬少し残ったサラダに突っ込みそうになったぞ。
「で、どうなのミシェール?」
何とも楽しそうに聞いてくる母様。ああ、この状態を見越してのネタ振りだったのか……。この人の趣味の一つは性質の悪い事に娘イジリなのだ、初等学校の頃から酷い目に遭わされてきたが……これは効くなぁ。
「ま……まぁ、確かに子供は欲しいさ。だがな、流石に身重でサバトの仕事をするのも……」
「あらぁ、妊婦プレイする人とかいないの? 私が現役だった頃は大きいお腹で黒ミサに参加する魔女もたくさん居たと思うんだけどねぇ」
今度こそ完全に机に突っ伏した、隙をみてサラダを回収してくれた目端の利くシルキーに感謝だ。しかし物を食べている時に妊娠がどうだのと言わないでほしいんだが。
「お母さんそろそろ孫が見たいなー」
「妹達のだったらもう曾孫くらいまでいるだろう・・・・・・」
「あら、長女の孫ってのが一番感慨深いものなのよ? たしかに初孫のアレクシアは今でも可愛いけどねぇ」
ああ、私の姪か。アレクシアは確か軍付きだったかな、私と同じく勇者とくっついたと聞くけど……
「来年あたり一族がそろえたらいいんだけどねぇ」
顔を覚えてる限り、祖母だけで20人位居るんだがどうやって集めればいいってんだ。そもそもバフォメットは長生きし過ぎるからどうしても一族の数が凄まじい事になりがちなんだよなぁ。
結局私は食事が終わるまでさんざん母にからかわれ続けた。正直、何を食べても味が分からなかった………………
何故こんな事になった……私はだだっぴろい大理石の風呂場で夫の髪を洗いながらそう思った。
確かに長い間水浴びができなかったせいで頭が油だらけだった夫を風呂に放り込む事は確定していた。うん、それは私が決めたから何の問題もない。だが……なんでこうなった。
あれよあれよと言う間に風呂場に放り込まれてしまった……いや、まぁ、な。確かにあれだ、風呂が終わったら一戦……とは思ってはいたんだ、うん。そりゃ私だって魔物だからな、精が欲しくなる事だってあるさ……
だからってこんな事になるなんて思ってもみなかったぞ。風呂でいたした事が無いかと聞かれれば無いとは言えないが、それはまだ青い新婚カップルだった時分のことであって……
「痛い、痛いよミシェール」
「あ、ああ、済まない」
おっと、知らず知らずの家に体が強ばって力が……泡まみれの頭を石鹸で洗っていたが、恐ろしい事に油のせいでいくら塗りたくっても泡が打ち消されてすごい事になっている。
「流すぞ」
「頼むよ」
桶にお湯を汲んでゆっくりかけて泡を流してやる。五回ほどかけて綺麗になったら、もう一度石鹸を手に取る。
「ん? もう一回やるのか?」
髪が垂れて左目が隠れた夫がこちらを振り返り、右目だけで見返してくる。うん、顔色も目の精気も痩けた頬もマシになってきた、我が夫ながら二枚目だな。
「一回くらいであの汚れが落ちるか、ほら、前を向け」
「ああ、分かった」
石鹸を泡立て、再び塗りたくる。人間の手と構造が違うから大変だが、爪を使えばある程度は融通が利くし、爪をしまえば肉球で頭を擦ってやれる。爪がない分ヒトがやるより頭皮に傷を付けないで済む。
「……ありがとうな……」
「ん?」
「忙しいのに帰ってきてくれて」
夫は少し黙った後で、小さく言った。
「なぁに、夫らしい事を何一つできない駄目男だからね、これくらいはしないと」
「それを言ったら私も駄目女だ、妻失格だ」
間……沈黙が痛い。普通の夫婦なら半世紀も離れたりはしないだろう、たしかに父母もこんな境遇だったらしいが、職場が同じ魔王城だったからまだマシだったはずだ。顔を一切あわさない夫婦なんて何の冗談だ。
「……だったらさ、どっちも失格なんだから、頑張ってお互い合格できるように頑張ろうよ」
…………顔が塗れててよかった、夫が顔を伏せていてよかった、前に鏡がなくてよかった。こんな風に、年甲斐もなく泣いてしまうなんて。
私はきっとこういう所に惚れたんだろうなぁ……勇者なんて数え切れない程見てきたが、夫以外に心を揺れ動かされた事何て無い。鎌と剣で初めて斬り結んだあの瞬間から惚れた気で居たけど、きっと私はこの彼の優しさを瞳に見たのだろう。殺意でも無く、世界を守る意志に燃えていた瞳に映ったあの優しさに。
「……そうだな、うん、頑張ろう、うん……」
「僕も頑張るよ」
「ああ、私もだ」
頭に泡を乗せ目を閉じた夫の前に気配を消して回り込み、深く唇を合わせた。深く口を合わせ、背に手を回すと応えるように抱き返してくれた。
舌と舌が軟体生物の如く絡み合い、唾液が混ざり合う。貪るように唾液を飲み込み、また、飲まれる。なんでこう、惚れた相手の唾液は甘く感じるんだろうか。まさに甘露というやつだな、頭の芯がしびれて思考が麻痺してきた。
このままコトに及んでしまいたくもあるが、泡をブクブクさせたままでは夫は目を開けられない。口を合わせたまま泡を流すと口に入って酷い目に合うだろうから一端口を離す。口にかかる銀色の橋、そんな表現を誰かから上納された自作の官能小説で見たが、こんな雰囲気なら詩的な表現も悪くないな。
「どうしたの?」
「まぁ待て、まず泡を流そう、話はそれからだ」
「肉体言語だね」
ひとしきりくだらない事を言い合いながら泡を流す、こんな短い恋人時代のような睦事を楽しむのも昔を思い出して楽しいものだな。
さて、泡を流し終えると湯船に浸かる。ヒトの平民はサウナで垢をふやかしてから水を浴びるのが風呂らしいが、それでは相当味気ない気もする。しかも王侯貴族に至っては風呂に入らないそうだ、なんでもヒトの界隈では黒死病が水を媒介にすると信じられているからだそうだ。錬金術を取り締まるから大事な事を知らないのだろうな。
湯船には香水が入れられており、僅かにだが香しい薔薇の臭いがした。
「いい匂いだ」
夫が私を抱きしめ、鼻を髪に埋めてくる、くすぐったいが気持ちいい。
「ああ、薔薇の香りだな」
「いや、君のさ」
突然脇に手を差し込まれ、湯船の縁に持ち上げられた、そのまま首筋に吸い付かれ膨らみに乏しい胸を揉まれる。
「あっ、そこは弱い・・・・・・」
「う〜ん、勇者だった頃は大きい方が好きだったんだけど、今は君のが一番好きだなぁ。これも惚れた弱みってやつかな?」
サバトの教義から幼い容姿を好まれるのは本望なんだろうが、実は胸が乏しいのはコンプレックスだったりする。元々軍から引き抜かれたのであって、教義に感動して入信した訳ではないのだ。理由? お金だ、貴族ってのは金がかかるものなのだよ、ヒトも魔物もそこは変わらんのだ。
「揉んだら大きくなるかな?」
「流石にならんよ……子供ができたらどうだろうな」
言って乳首に吸い付く夫の頭を撫でてやる、子供に乳をやるのはこんな感じなんだろうか。
「こらこら、そんなに吸ってもなにも出ないぞ」
「出たらおもしろいんだけど」
「じゃあ出るようにしてみるか?」
見つめ合い……二人同時に微笑んだ。
夫の下半身を見ると、逸物は痛々しいほどに肥大化していた。半世紀ほど会っていないが流石に処理していなかった訳ではないが、相当たまっているようだ。
「凄いな、どれだけため込んだんだ」
「ざっと半世紀かな?」
絶句した。夫は冗談はあまり言わないし嘘もつかない、目をみると本気だ。もしかして……
「いやぁ、半世紀も禁欲したヒトは初めてじゃないかな?」
「冗談めかして言ってるが、ある意味快挙だぞ」
「あはははは」
しかし……超高位術師が半年ため込んだ精か…………ちょっと怖い物があるな。
「あ〜と、不躾なんだけどさ、ちょっと一杯一杯なんだけど……」
申し訳なさそうに笑う夫。
「安心しろ、私もだ」
実は私も最初の言葉だけで十分に濡れていた。まぁ、いうなら私も半世紀ほど禁欲していたからな……自慰は好きじゃないんだ、終わった後空しくなるからな。
「じゃあ……いくよ」
「ああ…………」
夫の物が私に潜り込んだ瞬間、目の前が黄色く光った。余りに久しぶりすぎて脳が快感に耐えきれなかったのだ。挿入されただけで絶頂に達してしまった。
「かっ……かはっ…………」
声が出ない……視界の端では夫が私の胸に頭を埋めて射精を必死にこらえていた、私と同じように長い間禁欲していたせいで快楽への耐性が無くなっていたようだ。
お互いにゆっくり体を動かし始める、さぐり合うように体を擦り合い、唇を深く合わせる。
浅くゆっくりだった注送は次第に速くなっていき、最後には深く私の奥を抉るようになっていった。いくらか慣れてきたとはいえ体は快楽に弱く、視界が白く染まっていく。縁に乗せていた上体を起こして夫の体に抱きつく、細く引き締まった体に腕を回し、肩口に歯を立てる、そうでもしなければ快感に狂ってしまいそうだったんだ。
「ごめ……そろそろ…………!」
「あっ……ああ、いつでもいいぞ…………!」
絶頂は同時だった。埋め込まれたモノが激しくのたうち、内蔵が焼け付くそうな熱い物が吐き出された瞬間、脳髄が焦げ付くような快感が体を走り、私の意識は白い光の中に消えていった…………
「うふふふふふふふふふふふふふ」
凄まじい笑みを浮かべて妻が邪悪極まりない笑みを垂れ流している。場所は久しぶりに戻ってきた寝室だが、妻はベッドの足下に大きな水盆を置き、にやにやと笑いながら水面を穴よ開けといわんばかりに見つめている。魔術を展開して異層空間を経由し我が家の風呂場の映像を拾っているのだ。
「うふふふふふ、これで一年後には孫が増える。にゅふふふふふ」
徐々に笑いが気持ち悪くなっているが、これでも我が妻なので聞かなかったことにしよう、正直百年の恋も冷める笑い方だ。まぁ高々百年さめたとてあと900年くらい残ってるから何の問題もないがね。
水盆に映っているのは我が娘夫婦の睦事、若いからか激しいな……ん? 気絶した? まぁ、風呂で激しい運動をすれば上せて当然か。
さて、そろそろ止めるか。これ以上放っておいたら盛大に暴走しかねないからな、風呂に乱入されたら面倒だし。
「あっ、ちょっとティー、何するのよ! あんっ、あ、ちょっと待って…………」
娘夫婦も頑張っている事だし、僕たちも新しく娘を作るとしよう。
あれから半年程が過ぎた。あの後魔王陛下に謁見し幾つかねぎらいの言葉を頂いた。その後はしばらく夫といちゃいちゃしながら過ごしたが、百歳ほど若返った気分だ、心持ち魔力もかなり増大している気がする。
そして休暇が終わったので私はサバトの支部が存在する都市、フィリップに帰ってきた。夫は休みを取った代償で今は激務に駆られているようだ。今は玉座に座り、いつも通り酒杯……ではなく白湯を啜っている。
玉座の隣には武器持ちのゴーレムや側仕えの魔女の代わりに我が副官たるヴァルドと、その妻であるアリシアが控えている。手に持つのは業務報告を記した洋皮紙だ。
ただの報告ならいいのだが、正直母様よりも鬱陶しい。やれ腹を冷やすなとクソ熱い中、分厚い毛布をかけられ、やれ酒も紅茶も胎児によくないと禁じられ、飲める物は白湯かヴァルドが煎じた不思議な甘みのある薬湯くらいのもの。食事も徹底的に野菜だらけでバランスはとれているのだろうが凄まじく物足りない。心配されているのだろうが、魔物の胎児、それもバフォメットみたいな上位種族の胎児はそんなに弱くないぞ。母親になるのは随分大変な事なんだな……。まぁ言われた事を律儀に守っている私も私だが。
「収支報告ですが、新たに開拓した交易路から仕入れる香辛料を転移させて輸送しているので中間料を取られる事なく多量の利益を得られました。具体的には金貨が20000枚以上になりますが、中間料をとれなかったヒトの国家から攻撃を受ける心配が出てきましたがいかが致しましょうか」
「ああ・・・・・・良きにはからえ」
「はい。利益を用いて通商護衛の艦隊を強化します、砲船を整備しましょう。香辛料などの高価な交易品なら転移しても利益が費用に釣り合いますが、それ以外の細かい物を運ぶのはまだまだ船の仕事ですからね。
最近は戦列艦が主流になりつつあるので中型フリゲートを配備すれば私掠船も手を出せなくなるでしょう」
本当に得難い部下だよ、私には商売の事はどうにも分からん。軍団の運用は陸が主だったからなぁ。
おや……
「どうなさいました?」
「今蹴ったぞ」
まるまると大きくなった腹、その中に居る我が子。腹の中で蹴ってくるというのは聞くが、ここまで力強いものなのか……
「本当ですかっ!? 触らせてくださいマスター」
「ああ、構わんぞ」
派手な法衣ではなく、落ち着いたデザインの法衣に着替えたアリシアは口調も声のトーンも素に戻ったせいか見た目は幼いのにとても大人びて見える。大きくなったお腹の隣に立ち、毛布の上からそっと撫でて、感嘆の息を漏らした。
「凄いですよね……」
「なぁに、お前さん達も直ぐにできるだろうさ」
「私たちが抜けたらだれがここを回すんですか」
と、ヴァルドが頭をかきむしりながらいった。
「後輩の育成がすんで、ここを任せられるくらいになったら隠居しましょう。そうして子供も沢山こさえますよ」
老いをねじ伏せる驚異の魔術師二人の子供、しかも片方は魔女。うーん、かなりの高位術師がぽこぽこ産まれてくるのか、優秀なサバトの構成員になってくれそうだな。
先は大きく開け、そこからは光が溢れ出ている。世は事もなし、この安定は神にさえ打ち砕く事はできないだろう。むしろさせてたまるものかね。
もし奴等が最後の審判なるものを下そうものならば、私は鎌を取って戦おう、我が子とそれに連なる者達や、私につき従う者達の為に。何の役にも立たない私だが、それくらいならばできる。その為に私はここに座っているのだろう。
「ヴァルドよ」
「はっ」
「悪くないものだな」
「そうですな」
私は我が子を納めた腹を一つ叩き、小さく呟いた。
「さっさと産まれてこい、外は楽しい事で一杯だぞ?」
まさに世は事もなし…………
10/06/13 12:30更新 / 霧崎