魔女達の宴
質素で手狭な部屋に備え付けられた巨大な執務机、部屋の三分の一を占める巨大なそれの上には切り立った山脈の如く、書類の束が積み上げられていた。大半は交易品の収支報告や買い付け証、都市の領主からの手紙や条文、部下や部外者からの嘆願や苦情、それに紛れて少量の親書や新たな交易路構築事業への参加の誘い。処理すべき物は掃いて捨てる程あるが、処理する自分は一人きり、動かす腕は二本あれども思考する脳は一つきり。自分か、自分と同じ処理能力を持った人間があと三人ほどいれば今日中には終わるだろうが、このままでは控えめに考えても三日徹夜しようが終わりそうにはない。稀にとんでもない内容の書類が紛れ込んでいるから確認せず判を捺すわけにもいかなので大変だ。
内容を吟味し、問題が無ければ署名し判を捺す。署名と判の捺しすぎで腕が面白いことになってきているが、精神力でカバーする。ヒーリングが使えればいいのだが私には使えない。むしろ此処には使える人間が全くと言っていいほど居ない。
先日購入したヒトの術者を養成する為の基礎魔術教本二〇冊、締めて金貨60枚。同じく魔力集束の為の魔術短杖が20本で金貨一二〇枚。全て銀貨に換算して考えればこの部屋が埋め尽くされる量である。支払いの認可証に署名する。魔力をインクに込めて変性させた文字は決して変えたり歪めたりする事は出来ず、消せもしない。魔力を込めた羊皮紙は火でも焼けず、斬れず折れない、ただインクを垂らしても弾くから書類の抹消も不可能である。偽装や焚書出来ないようにするためとはいえ、この官用紙は一枚一枚が馬鹿みたいに高い、そこそこ良いレストランでフルコースが食べられる程のお値段である。
処理済みの箱に書類を放り込み、次の一枚に手を伸ばした時、執務室の扉が盛大に跳ね開かれた。壊れたらどうするつもりだ。
「ヴァルド様! ヴァルド様!」
耳に響く甲高い声、幼い少女の物だ。入り口に目をやると、そこに立っているのは一人のおっとりとした顔つきの少女である。紅いローブともコートともつかない法衣を纏い、頭には大きな三角帽を被っている。そして、手には身長を超える長さの杖。
これだけみればただの魔術師見習いの少女であるが、全く違う。
法衣の前は大きく開かれ、裾は腰の辺りから左右に流れて下半身を隠さない。開襟の胸元を止めるのはボタンではなく三本の金の鎖、無論鎖骨から胸元を遮る物は何もない。堂々と晒された下半身を隠すのは、年相応の子供が着るに価しない面積が小さい水着のような下着と膝元まである長い同色のブーツ。剰りにも際どすぎる姿だ。柔らかな金の短髪が頂く帽子も、法衣と同じく朱に染め抜かれ、細い鎖やバッジのような物で飾り立てられている。最後に、手に持つ杖は、柄は普通の鉄で作られた黒い棒だが、先端に据え付けられているのは魔力集束用の宝石ではなく、なんと巨大な雄山羊の頭蓋。頭蓋の喉元は黒いボアで飾られ、額にはペンタグラフが刻み込まれている。
少女は魔女である。
魔女とは、ヒトの女性術者を指す物ではない。何らかの理由で強い魔力を浴び、ヒトから魔物へと転んだヒトの女性を指す。原因は様々で実験の失敗や召還の返り、そして……
魔物に捕食される事。
魔物と呼ばれるヒトとは異なるヒトに近しき者共。かつては雌雄を有したが、それは気が遠くなるほど昔のこと、少なくとも私が産まれる前の話である。今、彼等は雌性体しかおらず、ゆっくりとヒトの社会に食いこみながら生きている。
人間の技術としてでの魔術ではなく、彼等は生き物として備えた能力として魔術を行使する。魔術は世界に意志で干渉する力、彼等はヒトを大きく越える力を持っていた。
山を切り崩し、湖を蒸発させ、空を啼かせる。ヒトには御せぬ大きな力、ヒトはそれを恐れた。
だが、むこうはどうか。こちらを蟻の如く踏み散らす力を持ちながらも、彼等は自分たちの世界に住み、領域を深く侵す事はない。あくまで一個体が好きにこちらで暮らすだけだ。
彼女もその一人である。
「喧しいぞアリシア、ノックしてから入りなさい」
「でもヴァルド様!」
「でも、も糞もない」
「されども!」
「…………」
「しかれども!」
喧しいコマネズミを黙らせるべく法衣に包まれた右手を翳し、意志を込める。純然たる破壊の意志を込め、掌に数個の小さな光弾を精製し……
投擲する。
音より速く飛ぶ破壊の光はコマネズミの胸を穿ち、その華奢な体を部屋の外まではじき飛ばした。
やり過ぎと思う者もいるやもしれないが、正直これでは足りない。今のレベルの光弾であったならば20グロス以上たたき込まねば気絶すらしないだろう。
「痛いですよヴァルド様〜どうせならベッドの上でお願いします〜」
ほら、案の定頭に蛆とカビが沸いたような事を撒き散らしながら戻ってきた。魔物の中でも強い魔力への耐性を持つ魔女がこの程度で死ぬ訳がない。それにこの娘は転ぶ前から強大な魔力を秘めていたので尚更である。
「何の用だ……」
「マイスターが呼んでますよ?」
「それを先にいわんかっ!?」
「きゃわんっ!?」
今度は2ダースほど光弾を頭に叩き込んだ。盛大に吹き飛びはしたが掠り傷一つついていない、畜生。
執務室を早足に出て廊下で横たわっている阿呆を踏み越え奥に進む。何で此奴は一〇年以上此処にいて私が定めた規則を覚えんのだ。
石造りの廊下を進んでいると復帰したアリシアが後ろに付いてくる。何をにやついているのだ此奴は。
廊下の左右には数メートル間隔で扉があるが、ここは外に立てられた建物ではない。地下を掘り進んで建てた物だ。元は大降臨以前に迫害されていた教団の一派が皇帝の目を逃れる為に築いたカタコンベで迷宮のような造りをしている。それこそ地下には無数の亡骸を治めた石室やら古いゴレム(魔物ではなく、魔術で動く自動人形を指す)が多数安置されている。道を知らずに入り込んだら二度と生きては出られまい。
暫くすると目的の場所についたが、なんでこうも広いんだここは。せめて執務室に使える場所がもう少しあれば良いのだが。
目的地には大きな扉があった。大して背の高くない私でも歩くのに苦労するカタコンベの廊下の大きさを遙かに超えた扉で、その扉の手前だけ空間が大きく取られている。
ここは元々礼拝堂だった場所だ。教団の教祖たる聖なる乙女が神託を授かった神に祈る場所、かつて私が依った場所である。
「開けろ」
言うと、扉の前に設置された一対のゴレムが無骨な手で凄まじい重量を誇る樫の扉を軽々と開いた。このゴレムは限られた人間にしか反応しない、そう創ったからだ。額にこめられたEMETH(真理)の文字には意味よりもずっと深い物が刻み込まれているのだ。
扉の向こうに広がる空間は地下とは思えぬ高い天井と、広大な面積を誇る部屋だった。紅く毛足の長い絨毯が一面に敷かれ、天井には無数の鬼火が封じ込められたシャンデリアがいくつも吊られている。元は礼拝の為の長椅子やら説教代や聖なる乙女の像が飾られていたのだが、それらは全て取り払われ、変わりに部屋の最奥に一つの椅子があった。
巨大な背もたれを持つ典雅な装飾がなされた椅子。それは形容するならば正しく玉座と呼ぶに相応しい物であった。
その椅子に腰を降ろすのは幼い容貌をした美少女。しかし、侮るなかれ、そこそこ長生きしていると自負する私の数百倍の時を彼女は生きている。そして、彼女こそが我が永遠の誓った主君である。
頭から生える一対の山羊の角。手足を覆う柔らかな獣皮と鋭いかぎ爪。晒された腹は柔らかそうで鬼火の光を眩しく跳ね返し、薄い胸は申し訳程度の胸甲に隠されている。玉座の右に控える魔女はワインとグラスを乗せた盆を持ち、右に侍るゴーレム(魔物の一種でゴレムとは異なり、自我を持つオートマトン)は主の武具である巨大な鎌を捧げ持つ。
正しく王の威厳を宿した少女、彼女はバフォメットと呼ばれる種の魔物で、魔物の中でも最高の魔力を有する魔界の貴族だ。ヒトなど彼等の前ではか細い蝋燭の火と等価である。
絨毯を践んで進む。背後でゴレムが扉を閉じる音がした。
目前まで歩み寄り、足下に跪く。稀に部下から自分より数段若い見た目の女子に跪くのは不本意ではないかと問われるが、そんな事は全くない。むしろ、彼女の前に立って跪けずに居られる者がどれほど居ようものか。
「お呼びで御座いますが、我が主よ」
私の呼びかけに主は答えない。だが、頭は上げない。許可なく頭を上げるのは不敬にあたるからだ。
「ヴァルド……」
幼くも威厳に溢れる声、これぞ為政者の威厳である。
「はっ」
「お前な、そのかたっくるしいのをやめろ」
先ほどとはうってかわって主の声が軽い調子の物に変わった。年相応の少女の物と比べて、そのあどけなさは遜色無い。
軽く体重を崩しそうになったが我慢だ、我慢せねば不敬にあたる。
「そういう訳にもいきません」
「あのなぁ……一二〇年前から言い続けてるけど、本当にやめろって。私の右腕と言われてるけど、この組織ってほんと階級に頓着ないんだから」
我が主ながら本当に気の抜ける事を言ってくれる。確かにそう言う風潮なのは知っているが、誰か一人くらいしっかりしていないと組織がなりたたんでしょうが……
背後でアリシアが笑いを堪えているのを感じる。しかもアリシアだけでなく前で主の給仕をしている魔女やゴーレムまでも笑いを堪えていた・
胃の腑にしくしくと響く痛みを感じながら、私はただ跪いて絨毯を眺め続けた。
私は玉座から我が最高の従僕を眺めつつ内心溜息をついた。
我が名はミシェール=アンドレティア。西方の交易都市フィリップのカタコンベを根城にする“サバト”という宗教団体の長を務める身分である。
魔界から出てかれこれウン十数年、私がここまでやってこれたのは此奴のおかげであることは重々承知しているが、如何せん硬すぎて良くない。
我が従僕にして教団の裏切り者、かつては黒き不死王とよばれし死霊術師。ヴァルド=ファンダイク。外見は中肉中背の目立たぬ青年、特徴らしい特徴は無い。精々少し影がある程度の物。目立たぬ容姿に溢れる魔力とを隠し、それを統括する強靱な意志で老いすらもねじ伏せ、二〇〇年以上生きているヒトの中でも最高峰の魔術師なのだが……どうにも長く生きすぎたのかいろんな事に硬い上に無感動で困る。かつては使役した死霊で師団(2500人)を構成し魔界に侵攻をかけるような人間だったのにどうしてこうなったのか……
あ、いや、最初からこんな感じだったか? やはり私も長く生きすぎて相当昔の記憶は結構あやふやなんだよなぁ……
確か普通教団が唾棄する死霊術師でも、あいつは使役する代価に死者の魂をヴァルハラに導く術式を行使するから受け入れられて、神託で来たんだっけか。
ああ、何となく思い出してきた。
最初は騎士団相手に良い勝負してたけど、鉄量で競ったら死者を使役する奴には勝てないから私が来て、結局術式を砕いて屈服させたんだっけ。そうそう、確かに昔からこんな感じだったよな、誰と勘違いしてたんだ私は。うーん、老いたかなぁ? 一旦魔界に帰ってリフレッシュした方がいいのかねぇ?
「……あの、我が主よ、如何用にて私をお呼びに」
いかんいかん、すっかり忘れていた。本当に一回帰った方がいいな、実家に帰ってゆっくりするのも悪くない。魔王様と旦那様にも謁見してないしなぁ。
さて、本題だ。
我等が所属するサバトは、初代の意志で幼い子供を愛する男を作ることを教義としている。姦淫やら幼い子供と交わる事から教団から目の敵にされているが、マゾヒストの偽善者に何を言われても痛くも痒くもないわ、勝手に偉そうにしてるくせに様子も見に来ない唯一神とやらに祈っているが良い。
集まった会員は月に二〜三回集まって特殊な集会を開く。まぁ、新しく開発した淫具や、新入会員のお披露目名目にした乱交パーティーなのだが。あ、乱交といっても、大抵決まった相手としか交わらんぞ? 衆人環視の下に愛し合って高ぶる事が目的だからな。こう見えて我々は一途なのだよ、それこそ裏では何をしているか分からんヒトとは違ってな。
その集会は黒ミサと呼ばれる。誰が決めたかはしらんが、ずっと昔の事だ。
「ああ、次のミサだがな。王の聖誕祭とかさなるのだよ」
「ほぉ」
教団で救世主とその番になる聖なる乙女が神の子を産み落とした大静謐の晩を祝うのと同じく、我々魔物も王たる存在、魔王の聖誕祭を祝うのだ。その日は皆盛大に呑んだり詠ったり交わったりするが、せっかく重なったから何かしようと思うのだ。
そうそう、黒ミサの開催日は天文術や数秘術で一番良い日を探して決めているから選んで重なる訳ではないのだ。今回のはほんの偶然である。
「と、なると盛大に行った方がよさそうですな」
「そうなんですかぁ〜」
此奴の背後に立つ一人の魔女、アリシア=アルガシアが気の抜けるような声で言った。確か此奴が転化してからサバトと聖誕祭が重なるのは初めてであったな。今までこの偶然も幾度かあった事だが転んで精々一〇年そこらの新米には珍しい事であろう。
「うむ、規模は普段の倍でどうだ?」
「その気になれば一〇倍でも可能ですが、控えめに三倍で如何でしょうか?」
ふむ……三倍か……悪くないな。
「ではそのように進めよ。子細は全て貴様に任せるぞ」
「有り難き仕合わせ」
本当にどうして一〇〇年以上私に付き従って黒ミサの監督もしてるのにこうもストイックなんだろうか、此奴。何とかならんものか……
「では、行け」
「はっ」
きびきびと立ち去っていくヴァルドと、その後ろの良く懐いた子犬の如く付き従うアリシア。その姿を見てふと思いつく。
ははぁん……アリシアは彼奴を好いてくっついているが、未だに生娘であったよなぁ……一〇年以上待ち続けるのは我等の性分からしてもさぞ辛いことであったろうに……
魔王の生誕を祝う誰もが幸せな気分に浸る日、彼奴にも良い事が起こっても誰も咎めまい。我ながら素晴らしい考えではないか、これで彼奴もやわっこくなればいいのだが。
おっと、一部は硬くならなくてはこまるのか。
下品な思いつきだが、私はどうにも笑いを堪えることは出来なかった。
次の瞬間には、礼拝堂には笑いをぶちまけてしまった。
さて、あれよかれよとしている内に聖誕祭の日がやってきた。黒ミサの準備も満タン。サバトの信者で料理の上手いヒトや魔物をかき集めて古今東西の豪勢な料理を用意したし、何もしないでも派手な礼拝堂は普段以上に派手に飾り付けた。
無数の紙輪の鎖にくりぬかれたカボチャ、紙輪もカボチャもアリシアがせっせと作った物だが、カボチャはイベントが違わないか?
それだけでなく、空を舞う用に術式を込めた蝋燭に鬼火を改良したウィル・オ・ウィプスの模造品。机の上で踊る主や魔女達を模して創った掌サイズのオートマトン、我ながらそこそこの物と自負している。
黒ミサの開幕を宣言する主の隣で参加者達を眺めると、大抵が幼い姿の魔物達である。彼女達は主の秘技で姿を若返らせ成長を止めている。そして、その隣に並び立つのは彼女たちの番である男性達。これもまた皆同じく年若い者が多い。サバトの勧誘の文句に若返りと永遠の命とあるが、それは決して嘘ではないのだよ。主の秘技で若返らせ、そしてサキュバス特性の魔法薬で不老のインキュバスに仕立て上げる。定期的に魔物と交わらなければならないが、その点は問題なかろう、魔物の番が交わらぬ夜など滅多に無いのだろうからな。
まれに独り身の男や魔物もいるが、このミサに参加して相手を探しに来ているのだ。分かりやすく言えば集団お見合いもかねていると言えばよかろう。
最初は皆歌ったり料理に舌鼓を打つ。私も玉座から離れ会場の端でワインを啜っていた。
鼻の奥に抜けていく豊潤な香り、今日の黒ミサで出すワインは全てそこそこ高級な物にした。特別な日なんだから安酒で誤魔化す必要もあるまい。
「あの、ヴァルド様」
呼ばれて振り向くと、いつも通りの際どい法衣を身に纏ったアリシアが居た。手には一本のワインを持っている。
「どうした」
「これ、如何ですか?」
真っ赤な顔で差し出される一本のワイン。普段の此奴らしくないな。黒ミサの日ともなろうと獣の如く襲いかかってくるというのに。なんで今日に限ってしおらしいのだ。
手に取ったワインのラベルを見ると、今から丁度二〇〇年と少し前の生産年が記されていた。
これは…………
「えへへ、ヴァルド様の産まれ年のワインです。ワイン、お好きですよね」
「ああ……」
此奴、どこでこんな物を……。私の誕生年はブドウの当たり年で、この年のワインは上等とされて飛ぶように売れた筈なのだ。一本も残っている筈がないのに……
二〇〇年物のロゼ、それも一番とされるブラッシュ地方産で当たり年のワイン。そんな物王侯貴族なら金貨で満載の四頭立て馬車数台を使ってでも欲しがるだろう。
「これは……」
「ミシェール様に売ってもらったんです。魔界のご実家にあるワインセラーに眠ってた物なんですって」
正に奇跡の一品だ。恐らくこれが現存する最後の一本だろう。こんな貴重な物を……
「お前、なんで……」
「今日は魔物にとって嬉しい日です。でも……ヒトであるヴァルド様にとって嬉しい日であって欲しかったんです」
此方を見つめる真摯な瞳。大きな垂れ目が涙に潤んでいる。
……私は……これ程に想われていたのだな。それに応える事は出来ないが、此奴にはもっと優しくしてやろう。
「こい、こんな良い物だ、静かな所で堪能したい」
「はいっ!!」
扉の付近のゴレムに命じてほんの小さな間を開けさせ二人で抜け出す。目指すは私の執務室だ。ついでにサラミやらチーズを失敬してきたので良い酒が飲めそうだ。
本当に、得難い部下持ったな、私は。
今、私の前ではヴァルド様が苦しそうにしておられます。でも、普通の苦しそうではなく、抑えきれない衝動を無理に抑えている、そんな感じなのです。
私がヴァルド様に贈ったワイン、あれは、マイスターが私に下さった物なのですが、ただのワインではないのです。
あ、偽物ではないですよ? 本当にヴァルド様の産まれ年に造られたワインで、マイスターのご実家に保管されていた物なのです。
ただ、マイスターが高度な魔術を込められた以外は。
味も質も香りも変質しないで、遅効性の媚薬成分を込めたそうです。ただ変質しただけならヴァルド様が恒常的に張り巡らせている対抗術式に打ち消されてしましますので、本人にも術式にも気付かれないようにじわり、じわりと効いていくように造られているそうで。効果が発動しきるのは丁度ワインを一本消費しきる位の時間が経ってかららしいです。私にはとてもではないですが、造れそうにありませんね。
さしものヴァルド様も完全にかかってからでははね除けられないようです。極端に高ぶっていたりすると、意志による魔力の集束が上手くいかずに対抗術式を展開できないのです、ですから出来るのは純粋に意志の力で押さえつけるだけ、今のヴァルド様はただのヒトと変わりません。
「お前……私を謀ったのか……」
「本当に申し訳ありませんヴァルド様……いえ、今だけはこうお呼びいたしましょう。お師匠様」
私は元はただのヒトです。少し魔術の才能があって、偶然ヴァルド様に見込まれて従卒にしていただいた、ただの修道女に過ぎませんでした。
でも、あの御方がどう考えても無茶な神託の名を借りた処刑を受けて、私は神を信じられなくなったのです。
私は独断で師を追い、魔界に入り込みました。魔界に侵入するだけの力を得るのですら一〇〇年近くの研鑽を必要としました、それでも彼等には敵わなかったのです。そこで囚われ、理由を話すとマイスターの下へ連れて行かれました。そして、こう誘われたのです。
「彼奴は神を見限った。お前も来るかね? さすれば共に居ることが出来るぞ?」
迷う事はありませんでした、私は直ぐにマイスターに魔女に変えてもらい、師匠の部下になりました。
でも、師匠は私を受け入れてくれませんでした。自分なんかの為にかつての従卒を魔物に変えてしまった、師の中に僅かに残った神の下僕であった頃の意志が、私を拒んだのです。
今までは耐えてきました、師の意志を踏みにじる訳にはいかない。でも、一〇〇年は長すぎました。幾ら魔物に成ろうとも、意志はヒトであった頃と変わりません、あの燃えるような恋心も……
「私はもう我慢できないのです、あなたに拒まれる事も、遠ざけられる事も。そして…………貴方が苦しむのを見る事も」
口調が元に戻ってしまいましたね。自分を偽る為や教義の為に精一杯子供っぽい口調を意識していたのですが、我を通す事に決めたらどうにも繕えなくなってしましました。
帽子を脱ぎ、法衣の鎖を外す。一本、二本、三本……支えを失った法衣は肌をするりと抜けて床に落ち、私の裸体が外気に晒される。何ででしょうね、いつも望んでいた事なのに、いざ本番となると凄く恥ずかしい……。多分今鏡をみたら私の顔はトマトのように赤く染まっていることでしょう。
あの頃とは大きく違ってしまった体。なだらかな起伏の無い体に、瑞々しい肌。本当に子供の頃と何にも変わりません。
「もう、神の名に苦しまないでください。私も、自分を偽るのを辞めます。これ以上…………貴方の意志を殺さないでください」
そっとよりそって苦しそうに震える体を掻き抱く。これはきっと媚薬の為だけではないのでしょう。最初は力もなく押しのけようとされましたが、やがて諦めたのか認めたのかはわかりませんが、背中に手が回され、私は柔らかく包み込まれました。
……暖かい…………。
「私は……」
震える声での独白、嗚咽をかみ殺したような声。
「知らぬうちにお前を押しのけるだけでなく、お前の心を殺そうとしていたのかもしれないな」
今日本当に拒絶されていたら私は多分こわれていたでしょう。そうすればもう私は脳天気に貴方に付き従うアリシアにも、忠実な従卒だったアリシアにも戻れなかった筈です。自分勝手ですけど、誰だって傷つき過ぎたら壊れちゃうんですから……
「だったら……癒してください。貴方ならできるでしょう?」
知らぬ間に涙が浮かんできてしまいました。上手く声が出せません。こんな涙混じりの声では伝わらないかも…………
そんな思いは杞憂に終わりました。
唇に覆い被さった優しいぬくもりと感触。
ああ…………本当に……暖かい……
白亜の玉座に腰を降ろし、下界の乱痴気騒ぎを見下ろす一人の女帝は足下に広げた水盆を眺めて、優しげな慈母の笑みを浮かべた。
長い間お互いを想うが故に傷つけ合ったふたりがやっとの事で受け入れ合えたのだ。女帝は愛おしい配下を慈しみの目で眺めつつ、ふとこう想った。
これも我等が偉大なる魔王陛下のおかげなのやもしれないな。
神よ、天に座する傲慢なる神よ。彼等の幸せを打ち砕けるものなら砕いてみせよ。貴様の偽りの愛では何も救えんぞ……
手に持った酒杯を掲げ、バフォメットの女帝は小さく呟いた、誰にも聞こえないような小さな声で。
「魔王陛下万歳」
あれからの事だ。神の呪縛から逃れた二人の信徒は番になったと聞く。
今も彼等は神を信じた者が逃げ込んだ場所で、神から逃れて愛し合っている。
「師匠」
「何だ」
女は従卒時代の自分を意識させないためにわざと子供っぽく装っていたのを辞め、男は無理に嫌われようと強く当たるのを辞めた。
「ちょっとお腹たるんでません?」
「…………良い度胸だ、面に出ろ、稽古をつけてやる」
「ええーっ!?」
…………今日もフィリップのサバト支部は平常運転だ。
内容を吟味し、問題が無ければ署名し判を捺す。署名と判の捺しすぎで腕が面白いことになってきているが、精神力でカバーする。ヒーリングが使えればいいのだが私には使えない。むしろ此処には使える人間が全くと言っていいほど居ない。
先日購入したヒトの術者を養成する為の基礎魔術教本二〇冊、締めて金貨60枚。同じく魔力集束の為の魔術短杖が20本で金貨一二〇枚。全て銀貨に換算して考えればこの部屋が埋め尽くされる量である。支払いの認可証に署名する。魔力をインクに込めて変性させた文字は決して変えたり歪めたりする事は出来ず、消せもしない。魔力を込めた羊皮紙は火でも焼けず、斬れず折れない、ただインクを垂らしても弾くから書類の抹消も不可能である。偽装や焚書出来ないようにするためとはいえ、この官用紙は一枚一枚が馬鹿みたいに高い、そこそこ良いレストランでフルコースが食べられる程のお値段である。
処理済みの箱に書類を放り込み、次の一枚に手を伸ばした時、執務室の扉が盛大に跳ね開かれた。壊れたらどうするつもりだ。
「ヴァルド様! ヴァルド様!」
耳に響く甲高い声、幼い少女の物だ。入り口に目をやると、そこに立っているのは一人のおっとりとした顔つきの少女である。紅いローブともコートともつかない法衣を纏い、頭には大きな三角帽を被っている。そして、手には身長を超える長さの杖。
これだけみればただの魔術師見習いの少女であるが、全く違う。
法衣の前は大きく開かれ、裾は腰の辺りから左右に流れて下半身を隠さない。開襟の胸元を止めるのはボタンではなく三本の金の鎖、無論鎖骨から胸元を遮る物は何もない。堂々と晒された下半身を隠すのは、年相応の子供が着るに価しない面積が小さい水着のような下着と膝元まである長い同色のブーツ。剰りにも際どすぎる姿だ。柔らかな金の短髪が頂く帽子も、法衣と同じく朱に染め抜かれ、細い鎖やバッジのような物で飾り立てられている。最後に、手に持つ杖は、柄は普通の鉄で作られた黒い棒だが、先端に据え付けられているのは魔力集束用の宝石ではなく、なんと巨大な雄山羊の頭蓋。頭蓋の喉元は黒いボアで飾られ、額にはペンタグラフが刻み込まれている。
少女は魔女である。
魔女とは、ヒトの女性術者を指す物ではない。何らかの理由で強い魔力を浴び、ヒトから魔物へと転んだヒトの女性を指す。原因は様々で実験の失敗や召還の返り、そして……
魔物に捕食される事。
魔物と呼ばれるヒトとは異なるヒトに近しき者共。かつては雌雄を有したが、それは気が遠くなるほど昔のこと、少なくとも私が産まれる前の話である。今、彼等は雌性体しかおらず、ゆっくりとヒトの社会に食いこみながら生きている。
人間の技術としてでの魔術ではなく、彼等は生き物として備えた能力として魔術を行使する。魔術は世界に意志で干渉する力、彼等はヒトを大きく越える力を持っていた。
山を切り崩し、湖を蒸発させ、空を啼かせる。ヒトには御せぬ大きな力、ヒトはそれを恐れた。
だが、むこうはどうか。こちらを蟻の如く踏み散らす力を持ちながらも、彼等は自分たちの世界に住み、領域を深く侵す事はない。あくまで一個体が好きにこちらで暮らすだけだ。
彼女もその一人である。
「喧しいぞアリシア、ノックしてから入りなさい」
「でもヴァルド様!」
「でも、も糞もない」
「されども!」
「…………」
「しかれども!」
喧しいコマネズミを黙らせるべく法衣に包まれた右手を翳し、意志を込める。純然たる破壊の意志を込め、掌に数個の小さな光弾を精製し……
投擲する。
音より速く飛ぶ破壊の光はコマネズミの胸を穿ち、その華奢な体を部屋の外まではじき飛ばした。
やり過ぎと思う者もいるやもしれないが、正直これでは足りない。今のレベルの光弾であったならば20グロス以上たたき込まねば気絶すらしないだろう。
「痛いですよヴァルド様〜どうせならベッドの上でお願いします〜」
ほら、案の定頭に蛆とカビが沸いたような事を撒き散らしながら戻ってきた。魔物の中でも強い魔力への耐性を持つ魔女がこの程度で死ぬ訳がない。それにこの娘は転ぶ前から強大な魔力を秘めていたので尚更である。
「何の用だ……」
「マイスターが呼んでますよ?」
「それを先にいわんかっ!?」
「きゃわんっ!?」
今度は2ダースほど光弾を頭に叩き込んだ。盛大に吹き飛びはしたが掠り傷一つついていない、畜生。
執務室を早足に出て廊下で横たわっている阿呆を踏み越え奥に進む。何で此奴は一〇年以上此処にいて私が定めた規則を覚えんのだ。
石造りの廊下を進んでいると復帰したアリシアが後ろに付いてくる。何をにやついているのだ此奴は。
廊下の左右には数メートル間隔で扉があるが、ここは外に立てられた建物ではない。地下を掘り進んで建てた物だ。元は大降臨以前に迫害されていた教団の一派が皇帝の目を逃れる為に築いたカタコンベで迷宮のような造りをしている。それこそ地下には無数の亡骸を治めた石室やら古いゴレム(魔物ではなく、魔術で動く自動人形を指す)が多数安置されている。道を知らずに入り込んだら二度と生きては出られまい。
暫くすると目的の場所についたが、なんでこうも広いんだここは。せめて執務室に使える場所がもう少しあれば良いのだが。
目的地には大きな扉があった。大して背の高くない私でも歩くのに苦労するカタコンベの廊下の大きさを遙かに超えた扉で、その扉の手前だけ空間が大きく取られている。
ここは元々礼拝堂だった場所だ。教団の教祖たる聖なる乙女が神託を授かった神に祈る場所、かつて私が依った場所である。
「開けろ」
言うと、扉の前に設置された一対のゴレムが無骨な手で凄まじい重量を誇る樫の扉を軽々と開いた。このゴレムは限られた人間にしか反応しない、そう創ったからだ。額にこめられたEMETH(真理)の文字には意味よりもずっと深い物が刻み込まれているのだ。
扉の向こうに広がる空間は地下とは思えぬ高い天井と、広大な面積を誇る部屋だった。紅く毛足の長い絨毯が一面に敷かれ、天井には無数の鬼火が封じ込められたシャンデリアがいくつも吊られている。元は礼拝の為の長椅子やら説教代や聖なる乙女の像が飾られていたのだが、それらは全て取り払われ、変わりに部屋の最奥に一つの椅子があった。
巨大な背もたれを持つ典雅な装飾がなされた椅子。それは形容するならば正しく玉座と呼ぶに相応しい物であった。
その椅子に腰を降ろすのは幼い容貌をした美少女。しかし、侮るなかれ、そこそこ長生きしていると自負する私の数百倍の時を彼女は生きている。そして、彼女こそが我が永遠の誓った主君である。
頭から生える一対の山羊の角。手足を覆う柔らかな獣皮と鋭いかぎ爪。晒された腹は柔らかそうで鬼火の光を眩しく跳ね返し、薄い胸は申し訳程度の胸甲に隠されている。玉座の右に控える魔女はワインとグラスを乗せた盆を持ち、右に侍るゴーレム(魔物の一種でゴレムとは異なり、自我を持つオートマトン)は主の武具である巨大な鎌を捧げ持つ。
正しく王の威厳を宿した少女、彼女はバフォメットと呼ばれる種の魔物で、魔物の中でも最高の魔力を有する魔界の貴族だ。ヒトなど彼等の前ではか細い蝋燭の火と等価である。
絨毯を践んで進む。背後でゴレムが扉を閉じる音がした。
目前まで歩み寄り、足下に跪く。稀に部下から自分より数段若い見た目の女子に跪くのは不本意ではないかと問われるが、そんな事は全くない。むしろ、彼女の前に立って跪けずに居られる者がどれほど居ようものか。
「お呼びで御座いますが、我が主よ」
私の呼びかけに主は答えない。だが、頭は上げない。許可なく頭を上げるのは不敬にあたるからだ。
「ヴァルド……」
幼くも威厳に溢れる声、これぞ為政者の威厳である。
「はっ」
「お前な、そのかたっくるしいのをやめろ」
先ほどとはうってかわって主の声が軽い調子の物に変わった。年相応の少女の物と比べて、そのあどけなさは遜色無い。
軽く体重を崩しそうになったが我慢だ、我慢せねば不敬にあたる。
「そういう訳にもいきません」
「あのなぁ……一二〇年前から言い続けてるけど、本当にやめろって。私の右腕と言われてるけど、この組織ってほんと階級に頓着ないんだから」
我が主ながら本当に気の抜ける事を言ってくれる。確かにそう言う風潮なのは知っているが、誰か一人くらいしっかりしていないと組織がなりたたんでしょうが……
背後でアリシアが笑いを堪えているのを感じる。しかもアリシアだけでなく前で主の給仕をしている魔女やゴーレムまでも笑いを堪えていた・
胃の腑にしくしくと響く痛みを感じながら、私はただ跪いて絨毯を眺め続けた。
私は玉座から我が最高の従僕を眺めつつ内心溜息をついた。
我が名はミシェール=アンドレティア。西方の交易都市フィリップのカタコンベを根城にする“サバト”という宗教団体の長を務める身分である。
魔界から出てかれこれウン十数年、私がここまでやってこれたのは此奴のおかげであることは重々承知しているが、如何せん硬すぎて良くない。
我が従僕にして教団の裏切り者、かつては黒き不死王とよばれし死霊術師。ヴァルド=ファンダイク。外見は中肉中背の目立たぬ青年、特徴らしい特徴は無い。精々少し影がある程度の物。目立たぬ容姿に溢れる魔力とを隠し、それを統括する強靱な意志で老いすらもねじ伏せ、二〇〇年以上生きているヒトの中でも最高峰の魔術師なのだが……どうにも長く生きすぎたのかいろんな事に硬い上に無感動で困る。かつては使役した死霊で師団(2500人)を構成し魔界に侵攻をかけるような人間だったのにどうしてこうなったのか……
あ、いや、最初からこんな感じだったか? やはり私も長く生きすぎて相当昔の記憶は結構あやふやなんだよなぁ……
確か普通教団が唾棄する死霊術師でも、あいつは使役する代価に死者の魂をヴァルハラに導く術式を行使するから受け入れられて、神託で来たんだっけか。
ああ、何となく思い出してきた。
最初は騎士団相手に良い勝負してたけど、鉄量で競ったら死者を使役する奴には勝てないから私が来て、結局術式を砕いて屈服させたんだっけ。そうそう、確かに昔からこんな感じだったよな、誰と勘違いしてたんだ私は。うーん、老いたかなぁ? 一旦魔界に帰ってリフレッシュした方がいいのかねぇ?
「……あの、我が主よ、如何用にて私をお呼びに」
いかんいかん、すっかり忘れていた。本当に一回帰った方がいいな、実家に帰ってゆっくりするのも悪くない。魔王様と旦那様にも謁見してないしなぁ。
さて、本題だ。
我等が所属するサバトは、初代の意志で幼い子供を愛する男を作ることを教義としている。姦淫やら幼い子供と交わる事から教団から目の敵にされているが、マゾヒストの偽善者に何を言われても痛くも痒くもないわ、勝手に偉そうにしてるくせに様子も見に来ない唯一神とやらに祈っているが良い。
集まった会員は月に二〜三回集まって特殊な集会を開く。まぁ、新しく開発した淫具や、新入会員のお披露目名目にした乱交パーティーなのだが。あ、乱交といっても、大抵決まった相手としか交わらんぞ? 衆人環視の下に愛し合って高ぶる事が目的だからな。こう見えて我々は一途なのだよ、それこそ裏では何をしているか分からんヒトとは違ってな。
その集会は黒ミサと呼ばれる。誰が決めたかはしらんが、ずっと昔の事だ。
「ああ、次のミサだがな。王の聖誕祭とかさなるのだよ」
「ほぉ」
教団で救世主とその番になる聖なる乙女が神の子を産み落とした大静謐の晩を祝うのと同じく、我々魔物も王たる存在、魔王の聖誕祭を祝うのだ。その日は皆盛大に呑んだり詠ったり交わったりするが、せっかく重なったから何かしようと思うのだ。
そうそう、黒ミサの開催日は天文術や数秘術で一番良い日を探して決めているから選んで重なる訳ではないのだ。今回のはほんの偶然である。
「と、なると盛大に行った方がよさそうですな」
「そうなんですかぁ〜」
此奴の背後に立つ一人の魔女、アリシア=アルガシアが気の抜けるような声で言った。確か此奴が転化してからサバトと聖誕祭が重なるのは初めてであったな。今までこの偶然も幾度かあった事だが転んで精々一〇年そこらの新米には珍しい事であろう。
「うむ、規模は普段の倍でどうだ?」
「その気になれば一〇倍でも可能ですが、控えめに三倍で如何でしょうか?」
ふむ……三倍か……悪くないな。
「ではそのように進めよ。子細は全て貴様に任せるぞ」
「有り難き仕合わせ」
本当にどうして一〇〇年以上私に付き従って黒ミサの監督もしてるのにこうもストイックなんだろうか、此奴。何とかならんものか……
「では、行け」
「はっ」
きびきびと立ち去っていくヴァルドと、その後ろの良く懐いた子犬の如く付き従うアリシア。その姿を見てふと思いつく。
ははぁん……アリシアは彼奴を好いてくっついているが、未だに生娘であったよなぁ……一〇年以上待ち続けるのは我等の性分からしてもさぞ辛いことであったろうに……
魔王の生誕を祝う誰もが幸せな気分に浸る日、彼奴にも良い事が起こっても誰も咎めまい。我ながら素晴らしい考えではないか、これで彼奴もやわっこくなればいいのだが。
おっと、一部は硬くならなくてはこまるのか。
下品な思いつきだが、私はどうにも笑いを堪えることは出来なかった。
次の瞬間には、礼拝堂には笑いをぶちまけてしまった。
さて、あれよかれよとしている内に聖誕祭の日がやってきた。黒ミサの準備も満タン。サバトの信者で料理の上手いヒトや魔物をかき集めて古今東西の豪勢な料理を用意したし、何もしないでも派手な礼拝堂は普段以上に派手に飾り付けた。
無数の紙輪の鎖にくりぬかれたカボチャ、紙輪もカボチャもアリシアがせっせと作った物だが、カボチャはイベントが違わないか?
それだけでなく、空を舞う用に術式を込めた蝋燭に鬼火を改良したウィル・オ・ウィプスの模造品。机の上で踊る主や魔女達を模して創った掌サイズのオートマトン、我ながらそこそこの物と自負している。
黒ミサの開幕を宣言する主の隣で参加者達を眺めると、大抵が幼い姿の魔物達である。彼女達は主の秘技で姿を若返らせ成長を止めている。そして、その隣に並び立つのは彼女たちの番である男性達。これもまた皆同じく年若い者が多い。サバトの勧誘の文句に若返りと永遠の命とあるが、それは決して嘘ではないのだよ。主の秘技で若返らせ、そしてサキュバス特性の魔法薬で不老のインキュバスに仕立て上げる。定期的に魔物と交わらなければならないが、その点は問題なかろう、魔物の番が交わらぬ夜など滅多に無いのだろうからな。
まれに独り身の男や魔物もいるが、このミサに参加して相手を探しに来ているのだ。分かりやすく言えば集団お見合いもかねていると言えばよかろう。
最初は皆歌ったり料理に舌鼓を打つ。私も玉座から離れ会場の端でワインを啜っていた。
鼻の奥に抜けていく豊潤な香り、今日の黒ミサで出すワインは全てそこそこ高級な物にした。特別な日なんだから安酒で誤魔化す必要もあるまい。
「あの、ヴァルド様」
呼ばれて振り向くと、いつも通りの際どい法衣を身に纏ったアリシアが居た。手には一本のワインを持っている。
「どうした」
「これ、如何ですか?」
真っ赤な顔で差し出される一本のワイン。普段の此奴らしくないな。黒ミサの日ともなろうと獣の如く襲いかかってくるというのに。なんで今日に限ってしおらしいのだ。
手に取ったワインのラベルを見ると、今から丁度二〇〇年と少し前の生産年が記されていた。
これは…………
「えへへ、ヴァルド様の産まれ年のワインです。ワイン、お好きですよね」
「ああ……」
此奴、どこでこんな物を……。私の誕生年はブドウの当たり年で、この年のワインは上等とされて飛ぶように売れた筈なのだ。一本も残っている筈がないのに……
二〇〇年物のロゼ、それも一番とされるブラッシュ地方産で当たり年のワイン。そんな物王侯貴族なら金貨で満載の四頭立て馬車数台を使ってでも欲しがるだろう。
「これは……」
「ミシェール様に売ってもらったんです。魔界のご実家にあるワインセラーに眠ってた物なんですって」
正に奇跡の一品だ。恐らくこれが現存する最後の一本だろう。こんな貴重な物を……
「お前、なんで……」
「今日は魔物にとって嬉しい日です。でも……ヒトであるヴァルド様にとって嬉しい日であって欲しかったんです」
此方を見つめる真摯な瞳。大きな垂れ目が涙に潤んでいる。
……私は……これ程に想われていたのだな。それに応える事は出来ないが、此奴にはもっと優しくしてやろう。
「こい、こんな良い物だ、静かな所で堪能したい」
「はいっ!!」
扉の付近のゴレムに命じてほんの小さな間を開けさせ二人で抜け出す。目指すは私の執務室だ。ついでにサラミやらチーズを失敬してきたので良い酒が飲めそうだ。
本当に、得難い部下持ったな、私は。
今、私の前ではヴァルド様が苦しそうにしておられます。でも、普通の苦しそうではなく、抑えきれない衝動を無理に抑えている、そんな感じなのです。
私がヴァルド様に贈ったワイン、あれは、マイスターが私に下さった物なのですが、ただのワインではないのです。
あ、偽物ではないですよ? 本当にヴァルド様の産まれ年に造られたワインで、マイスターのご実家に保管されていた物なのです。
ただ、マイスターが高度な魔術を込められた以外は。
味も質も香りも変質しないで、遅効性の媚薬成分を込めたそうです。ただ変質しただけならヴァルド様が恒常的に張り巡らせている対抗術式に打ち消されてしましますので、本人にも術式にも気付かれないようにじわり、じわりと効いていくように造られているそうで。効果が発動しきるのは丁度ワインを一本消費しきる位の時間が経ってかららしいです。私にはとてもではないですが、造れそうにありませんね。
さしものヴァルド様も完全にかかってからでははね除けられないようです。極端に高ぶっていたりすると、意志による魔力の集束が上手くいかずに対抗術式を展開できないのです、ですから出来るのは純粋に意志の力で押さえつけるだけ、今のヴァルド様はただのヒトと変わりません。
「お前……私を謀ったのか……」
「本当に申し訳ありませんヴァルド様……いえ、今だけはこうお呼びいたしましょう。お師匠様」
私は元はただのヒトです。少し魔術の才能があって、偶然ヴァルド様に見込まれて従卒にしていただいた、ただの修道女に過ぎませんでした。
でも、あの御方がどう考えても無茶な神託の名を借りた処刑を受けて、私は神を信じられなくなったのです。
私は独断で師を追い、魔界に入り込みました。魔界に侵入するだけの力を得るのですら一〇〇年近くの研鑽を必要としました、それでも彼等には敵わなかったのです。そこで囚われ、理由を話すとマイスターの下へ連れて行かれました。そして、こう誘われたのです。
「彼奴は神を見限った。お前も来るかね? さすれば共に居ることが出来るぞ?」
迷う事はありませんでした、私は直ぐにマイスターに魔女に変えてもらい、師匠の部下になりました。
でも、師匠は私を受け入れてくれませんでした。自分なんかの為にかつての従卒を魔物に変えてしまった、師の中に僅かに残った神の下僕であった頃の意志が、私を拒んだのです。
今までは耐えてきました、師の意志を踏みにじる訳にはいかない。でも、一〇〇年は長すぎました。幾ら魔物に成ろうとも、意志はヒトであった頃と変わりません、あの燃えるような恋心も……
「私はもう我慢できないのです、あなたに拒まれる事も、遠ざけられる事も。そして…………貴方が苦しむのを見る事も」
口調が元に戻ってしまいましたね。自分を偽る為や教義の為に精一杯子供っぽい口調を意識していたのですが、我を通す事に決めたらどうにも繕えなくなってしましました。
帽子を脱ぎ、法衣の鎖を外す。一本、二本、三本……支えを失った法衣は肌をするりと抜けて床に落ち、私の裸体が外気に晒される。何ででしょうね、いつも望んでいた事なのに、いざ本番となると凄く恥ずかしい……。多分今鏡をみたら私の顔はトマトのように赤く染まっていることでしょう。
あの頃とは大きく違ってしまった体。なだらかな起伏の無い体に、瑞々しい肌。本当に子供の頃と何にも変わりません。
「もう、神の名に苦しまないでください。私も、自分を偽るのを辞めます。これ以上…………貴方の意志を殺さないでください」
そっとよりそって苦しそうに震える体を掻き抱く。これはきっと媚薬の為だけではないのでしょう。最初は力もなく押しのけようとされましたが、やがて諦めたのか認めたのかはわかりませんが、背中に手が回され、私は柔らかく包み込まれました。
……暖かい…………。
「私は……」
震える声での独白、嗚咽をかみ殺したような声。
「知らぬうちにお前を押しのけるだけでなく、お前の心を殺そうとしていたのかもしれないな」
今日本当に拒絶されていたら私は多分こわれていたでしょう。そうすればもう私は脳天気に貴方に付き従うアリシアにも、忠実な従卒だったアリシアにも戻れなかった筈です。自分勝手ですけど、誰だって傷つき過ぎたら壊れちゃうんですから……
「だったら……癒してください。貴方ならできるでしょう?」
知らぬ間に涙が浮かんできてしまいました。上手く声が出せません。こんな涙混じりの声では伝わらないかも…………
そんな思いは杞憂に終わりました。
唇に覆い被さった優しいぬくもりと感触。
ああ…………本当に……暖かい……
白亜の玉座に腰を降ろし、下界の乱痴気騒ぎを見下ろす一人の女帝は足下に広げた水盆を眺めて、優しげな慈母の笑みを浮かべた。
長い間お互いを想うが故に傷つけ合ったふたりがやっとの事で受け入れ合えたのだ。女帝は愛おしい配下を慈しみの目で眺めつつ、ふとこう想った。
これも我等が偉大なる魔王陛下のおかげなのやもしれないな。
神よ、天に座する傲慢なる神よ。彼等の幸せを打ち砕けるものなら砕いてみせよ。貴様の偽りの愛では何も救えんぞ……
手に持った酒杯を掲げ、バフォメットの女帝は小さく呟いた、誰にも聞こえないような小さな声で。
「魔王陛下万歳」
あれからの事だ。神の呪縛から逃れた二人の信徒は番になったと聞く。
今も彼等は神を信じた者が逃げ込んだ場所で、神から逃れて愛し合っている。
「師匠」
「何だ」
女は従卒時代の自分を意識させないためにわざと子供っぽく装っていたのを辞め、男は無理に嫌われようと強く当たるのを辞めた。
「ちょっとお腹たるんでません?」
「…………良い度胸だ、面に出ろ、稽古をつけてやる」
「ええーっ!?」
…………今日もフィリップのサバト支部は平常運転だ。
10/05/11 01:24更新 / 霧崎