葵という女性
私の乳母。
名は葵。
彼女は私が望むことなら、なんでもしてくれた。
私と10しか違わない歳もあって、まるで優しい姉のような存在だった。
しかし周囲に対しては(もちろん私も含めて)常に丁寧な振る舞いをしていた。
寂しくなかったかと言えば、嘘になる。
*
雨上がりのカラスのような髪の色だった。濡れたように美しい髪だったが、頼んで触らせてもらうとさらさらと流れた。
そして葵には、髪と同じ色の狐の耳と尻尾があった。それは何かある度くるりくるりと動いた。どこかで大きな音が鳴ると、彼女の両耳は一斉にそちらを向いた。何も無い時もゆらゆら揺れていた。
私が猫みたいだと言うと「坊っちゃま、狐と猫との見分けぐらい付けてもらわないと困ります」とむくれた。
かわいらしかったが、怒られるのも嫌なので「ごめんなさい」と素直に返事をした。
本人が言うには、稲荷という妖怪だそうだ。私の母も稲荷であるが、子宮に魔力絶縁の結界を張って人間の私を生んだと聞いている。
*
彼女は私を育てる乳母、そして召使らしく、地味な色の着物を着ていた。
しかしみすぼらしいとか粗末だとか、そういうことは決してなかった。風呂にも毎日入るし(しかも、私と一緒に!)、髪はべっ甲の櫛で毎日整えていたし(私の髪を整えてくれることすらあった)、着物のほつれや汚れは自分できちんと直していた。
彼女の性格とも相まって、その佇まいはみすぼらしさというよりむしろ、富とか清貧とかいうような既存の価値観で例えがたい、何か素朴な美しさを醸し出していた。
*
彼女はいつも幸せそうな顔をしていた。
喜怒哀楽さまざまな表情も見せたが、その礎として常に存在するのは彼女の笑顔であった。
暑さを和らげる風鈴のような声だった。
心の清涼剤だった。学校で嫌なことがあっても、彼女に打ち明ければ、相槌と解決策とを彼女の優しい声色で聞いているか、彼女の胸を借りて泣いているうちに大抵すっきりした。
*
そして彼女はまた、優しいだけの存在ではなかった。
決して声を荒らげることはなかったが、悪いことをしたとき、私を叱る彼女の声色を聞く時は、まるで丸裸で氷を抱きしめているかののように背筋が凍って、彼女の目を見ることすら敵わなかった。
しかし、私はそんな彼女の姿に、透き通るような冷たい美しさをも感じていた。
しかし彼女に被虐趣味の変態みたいに思われるのが嫌だったのと、また叱られるのが嫌だったので言っていない。
そして今なお、そういうことはあまり思い出したくない苦い思い出である。
*
鈴の髪飾りを付けていた。ちりん、ちりん、と鳴っては、私の心を癒やしてくれた。耳障りではなかった。
かんざしだとかそういうものはしていなかった。その代わりに控えめな音の鈴の髪飾りを、黒い狐耳の近く、前髪の右から2分のあたりに付けていた。
ある時心配になって尋ねた事がある。
「いくら控えめな音でも、耳元に鈴を付けていてちりんちりんうるさくないの?」
「ええ、大丈夫ですよ。頭が耳と鈴をいい具合に遮ってくれるんです」
「そうなんだ」
その時の私はだいぶ緩んだ顔をしていたように思う。
「でもぼっちゃま、どうして唐突にそんなことを?」
「いや、なんとなく……だけど、ずっとそう思ってて。大丈夫なのかな、って」
物心ついてしばらく経ったころだったから、自分の思いについて説明するのはあまり得意ではなかった。でも、葵は汲み取ってくれた。
「心配してくれたんですね、坊っちゃまに人を気遣う心があって、葵は嬉しいです」
そう言って葵は抱きしめてくれた。葵の長髪に隠れた白いうなじから、着物の防虫香の香りと、葵独特のさわやかな甘い匂いがした。服越しの豊満な乳房の感触が、あたたかくて心地よかった。
それ以来私は、葵の鈴の音を静かな場所で聞くのが、すっかり好きになった。
そよ風、虫の声、氷の鳴る音。葵と扇ぎ扇がれながら、小さな仕草の度に鳴る葵の鈴の音を聞く度、心の中で暴れる何かは静まって、夏の小路に涼風が吹き込むようだった。
*
葵は、美人だった。垂れ目気味の整った顔と腰まで伸ばした美しい黒髪は、街の美人番付に載せたいと新聞屋が来るほどであった。
しかしその度に「召使が主人より目立ってはいけないから」と丁重に断っていた。主人である私の母が自分の一つ上に乗ると聞いてなお、である。
そしてその美人ぶりは、栄えた街を歩けば心の軽い色男に話しかけられる事もあろうかと思われるほどであった。
しかしそれを思うと、なぜだか少し寂しくなって、しかめっ面で葵の着物の裾を掴んだりした。
他人から見れば、ただ意味もなくふてくされているだけの得体の知れない坊主に見えただろう。
でも葵は、そうして私が膨れるたびに、
「あらあら。どうしました、坊ちゃん」
などと優しい言葉を私に掛けては、理由も聞かず抱きしめて、ただ頭を撫でてくれた。
何か悲しいこと、つらいこと、腹立たしいことあるたびに葵は慰めてくれたが、今思えば幼き日の私は、機嫌が悪くなる度心の何処かでそれを心待ちにしていたのだ。
しかし今となっては子供の頃の話である。
*
時は冬のころ、布団で寝るときに彼女のもふもふの尻尾を抱くと暖かいので、ぬいぐるみのように抱きしめていたら「私の方が暖かいですよ」と言って、抱きしめて尻尾でくるんでくれた。
彼女の豊満な胸の感触は着物の上からでも分かった。むにむにとしていて心地がよかった。上質な綿と水の入った柔らかい袋との間の子のような感触だった。彼女の綿あめのような甘い妖怪の体臭と着物の香の匂いに、幼い私は性欲というよりかは懐かしさを覚えた。
悲しいわけも嬉しいわけでもないのに、自然と泣きたくなった。泣くことでしか自分を表現できない、赤ん坊のようだった。この思いが彼女の暖かな気質による事だけは明らかだったが、彼女の胸に抱かれているときはそんなことすら考えられなかった。ふと気づけば眠りに落ちていた。朝起きたらかわいらしい顔ですうすうと寝息を立てる葵が、目の前にいた。
天国であった。
名は葵。
彼女は私が望むことなら、なんでもしてくれた。
私と10しか違わない歳もあって、まるで優しい姉のような存在だった。
しかし周囲に対しては(もちろん私も含めて)常に丁寧な振る舞いをしていた。
寂しくなかったかと言えば、嘘になる。
*
雨上がりのカラスのような髪の色だった。濡れたように美しい髪だったが、頼んで触らせてもらうとさらさらと流れた。
そして葵には、髪と同じ色の狐の耳と尻尾があった。それは何かある度くるりくるりと動いた。どこかで大きな音が鳴ると、彼女の両耳は一斉にそちらを向いた。何も無い時もゆらゆら揺れていた。
私が猫みたいだと言うと「坊っちゃま、狐と猫との見分けぐらい付けてもらわないと困ります」とむくれた。
かわいらしかったが、怒られるのも嫌なので「ごめんなさい」と素直に返事をした。
本人が言うには、稲荷という妖怪だそうだ。私の母も稲荷であるが、子宮に魔力絶縁の結界を張って人間の私を生んだと聞いている。
*
彼女は私を育てる乳母、そして召使らしく、地味な色の着物を着ていた。
しかしみすぼらしいとか粗末だとか、そういうことは決してなかった。風呂にも毎日入るし(しかも、私と一緒に!)、髪はべっ甲の櫛で毎日整えていたし(私の髪を整えてくれることすらあった)、着物のほつれや汚れは自分できちんと直していた。
彼女の性格とも相まって、その佇まいはみすぼらしさというよりむしろ、富とか清貧とかいうような既存の価値観で例えがたい、何か素朴な美しさを醸し出していた。
*
彼女はいつも幸せそうな顔をしていた。
喜怒哀楽さまざまな表情も見せたが、その礎として常に存在するのは彼女の笑顔であった。
暑さを和らげる風鈴のような声だった。
心の清涼剤だった。学校で嫌なことがあっても、彼女に打ち明ければ、相槌と解決策とを彼女の優しい声色で聞いているか、彼女の胸を借りて泣いているうちに大抵すっきりした。
*
そして彼女はまた、優しいだけの存在ではなかった。
決して声を荒らげることはなかったが、悪いことをしたとき、私を叱る彼女の声色を聞く時は、まるで丸裸で氷を抱きしめているかののように背筋が凍って、彼女の目を見ることすら敵わなかった。
しかし、私はそんな彼女の姿に、透き通るような冷たい美しさをも感じていた。
しかし彼女に被虐趣味の変態みたいに思われるのが嫌だったのと、また叱られるのが嫌だったので言っていない。
そして今なお、そういうことはあまり思い出したくない苦い思い出である。
*
鈴の髪飾りを付けていた。ちりん、ちりん、と鳴っては、私の心を癒やしてくれた。耳障りではなかった。
かんざしだとかそういうものはしていなかった。その代わりに控えめな音の鈴の髪飾りを、黒い狐耳の近く、前髪の右から2分のあたりに付けていた。
ある時心配になって尋ねた事がある。
「いくら控えめな音でも、耳元に鈴を付けていてちりんちりんうるさくないの?」
「ええ、大丈夫ですよ。頭が耳と鈴をいい具合に遮ってくれるんです」
「そうなんだ」
その時の私はだいぶ緩んだ顔をしていたように思う。
「でもぼっちゃま、どうして唐突にそんなことを?」
「いや、なんとなく……だけど、ずっとそう思ってて。大丈夫なのかな、って」
物心ついてしばらく経ったころだったから、自分の思いについて説明するのはあまり得意ではなかった。でも、葵は汲み取ってくれた。
「心配してくれたんですね、坊っちゃまに人を気遣う心があって、葵は嬉しいです」
そう言って葵は抱きしめてくれた。葵の長髪に隠れた白いうなじから、着物の防虫香の香りと、葵独特のさわやかな甘い匂いがした。服越しの豊満な乳房の感触が、あたたかくて心地よかった。
それ以来私は、葵の鈴の音を静かな場所で聞くのが、すっかり好きになった。
そよ風、虫の声、氷の鳴る音。葵と扇ぎ扇がれながら、小さな仕草の度に鳴る葵の鈴の音を聞く度、心の中で暴れる何かは静まって、夏の小路に涼風が吹き込むようだった。
*
葵は、美人だった。垂れ目気味の整った顔と腰まで伸ばした美しい黒髪は、街の美人番付に載せたいと新聞屋が来るほどであった。
しかしその度に「召使が主人より目立ってはいけないから」と丁重に断っていた。主人である私の母が自分の一つ上に乗ると聞いてなお、である。
そしてその美人ぶりは、栄えた街を歩けば心の軽い色男に話しかけられる事もあろうかと思われるほどであった。
しかしそれを思うと、なぜだか少し寂しくなって、しかめっ面で葵の着物の裾を掴んだりした。
他人から見れば、ただ意味もなくふてくされているだけの得体の知れない坊主に見えただろう。
でも葵は、そうして私が膨れるたびに、
「あらあら。どうしました、坊ちゃん」
などと優しい言葉を私に掛けては、理由も聞かず抱きしめて、ただ頭を撫でてくれた。
何か悲しいこと、つらいこと、腹立たしいことあるたびに葵は慰めてくれたが、今思えば幼き日の私は、機嫌が悪くなる度心の何処かでそれを心待ちにしていたのだ。
しかし今となっては子供の頃の話である。
*
時は冬のころ、布団で寝るときに彼女のもふもふの尻尾を抱くと暖かいので、ぬいぐるみのように抱きしめていたら「私の方が暖かいですよ」と言って、抱きしめて尻尾でくるんでくれた。
彼女の豊満な胸の感触は着物の上からでも分かった。むにむにとしていて心地がよかった。上質な綿と水の入った柔らかい袋との間の子のような感触だった。彼女の綿あめのような甘い妖怪の体臭と着物の香の匂いに、幼い私は性欲というよりかは懐かしさを覚えた。
悲しいわけも嬉しいわけでもないのに、自然と泣きたくなった。泣くことでしか自分を表現できない、赤ん坊のようだった。この思いが彼女の暖かな気質による事だけは明らかだったが、彼女の胸に抱かれているときはそんなことすら考えられなかった。ふと気づけば眠りに落ちていた。朝起きたらかわいらしい顔ですうすうと寝息を立てる葵が、目の前にいた。
天国であった。
17/09/07 11:49更新 / 御渡杜人
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