第三話『番犬』
壁の中から抜け出てきたそれは、強力な前肢の一撃で扉を吹き飛ばして、部屋の外に出てきてしまった。
(なるほど、この場所が妙に広かったのは、棺を守る存在が十分な働きが出来るように、って訳かよ)
キサラギは降ってきた石を避けつつ、グルリと周囲を見回してから低い唸り声を上げている最後の番人、いや、番犬を冷ややかな目で見つめた。
『番犬』の体長は10m、肩までの高さは3mを有に超えているだろう。体重は石畳にはっきりと刻まれていく足跡から軽く見積もっても200kgはあるに違いない。
そして、特徴的なのは頭部が二つ、と言う事。
「オルトロス、か・・・・・・実物、しかも、生きてるのを拝めるとは冒険者冥利に尽きちまうな、まったくよ」
魔獣の中でも最高位の戦闘力を持つオルトロス。それぞれに意思を持つ双頭からは地獄の業火を吐き、視界に入る全ての敵を焼き払う、と言われている凶暴かつ残忍な種だ。また、石の壁をまるで砂糖菓子のようにいとも容易に打ち砕いた事からも窺えるように、四肢での攻撃も半端ではない。
しかし、数十年前に魔王に代替わりをし、敗れ去った先代・魔王の恩恵を受けていた他の魔族や魔獣と共に滅びの道を辿り、今ではこの世界に存在していない・・・はずだった。
キサラギも図書館の片隅に置かれていた、古代史を纏めた書物の挿絵で見た事があるだけで、まさか、自分の前に現れるとは予想もしていなかった。
入る前に目を通させて貰った調査書によれば、この遺跡は少なくとも百年以上前の物らしい。
恐らくは、この遺跡を建てさせた王が自分の眠る棺を守らせる為に、当時はまだ、堂々と闊歩していたオルトロスを捕らえてきて壁の中に封印したのだろう。武・知・運を兼ね備えた者がこの遺跡の最下部まで下りて来てしまった時、その者を速やかに排除するよう命令をして。
もしかすると、首輪に隷属魔術が組み込まれているのかも知れない、とキサラギは思ったが、命令があろうと無かろうと餓えているオロトロスは侵入者を食い殺すに違いない、と口の端を吊り上げた。
キサラギが思った通り、体感時間はわずか数日である可能性はあったが、百年近くも飲まず食わずを強いられていたオルトロスの彼を見る目の色は番犬ではなく、捕食者のそれだった。
しょうがない、と思いつつも、かつて食物連鎖の上位に位置していた猛者と戦えるとなれば、芯のある強さを得たいが為に世界中を回ろうと決めているキサラギの頬が自然と緩んでしまうのも無理のない話だった。
ゆっくりと刀を抜き、凛とした構えを取ったキサラギ。
自分と比べたらちっぽけな餌が、それなりの抵抗をして来そうだと直感したらしいオルトロスの右側の頭は警戒するように低く濁った唸り声を漏らし、左側の頭は久しぶりに楽しめそうな狩りの予感に剥き出した牙の隙間から、鼻がひん曲がってしまいそうな悪臭を放つ涎を石畳に溢し出す。
先に動いたのは、実力的に大きく劣るキサラギだった。
(先手必勝!!)
全力で石畳を蹴ったキサラギは一瞬で、オルトロスの腹の下へと潜り込んだ。
そうして、腹を切り裂いてやろうと刀を素早く振ったが、巨躯に見合わぬ敏捷さでオルトロスはキサラギの一閃を避けて見せた。
さすがに、完全には避けられなかったのか、刃先は皮一枚を切ったようで、天井まで飛び上がり、壁を蹴って着地したオルトロスの腹部からは真紅の血が幾らか滴り落ちた。
命が天秤に載せられた戦いなのだから、緊張感を持たねばと思うキサラギだったが、どうしても口元の笑みを引っ込める事が出来ないでいた。
(真剣勝負となると、嫌でも自分の未熟さが露になっちまうなぁ、おい)
毒を含んでいる可能性もあるのでカッコつけて舐めずに刀を振って、刃先の血を飛ばしたキサラギは構え直す。
キサラギが負わせたのは、致命傷どころか浅手にすらなっていない一太刀だったが、オルトロスを更に興奮させるには十分だったようだ。
今度は、逆にオルトロスからキサラギに突っ込んできた。
内心でこそ、オルトロスのスピードに驚きつつも、左の頭が繰り出してきた強烈な一噛みを宙で半回転して躱したキサラギは右の頭の眉間を斬りつける。 そうして、オルトロスの背に乗ると、尾まで一気に駆け抜ける。
キサラギが着地し、オルトロスが壁にぶつかる間際で方向転換をした瞬間、オルトロスの巨大な胴体に刻まれた多くの細かい傷が一気に開き、鮮血が宙に舞い散る。
刃に感じた感触は思っていたよりも固かった。やはり、まともに切れたのは皮までのようだ。
(もっと力を入れないと駄目かぁ?)
体格差がここまである以上は動きを止めず、手数で攻めようと思っていたのだが、あまりダメージを負わせられないのでは、オルトロスを翻弄するべく動いた分だけ、無駄に体力を消耗してしまうだけである。
キサラギは頭を切り替えようとするも、一つの懸念に眉を顰めた。
致命傷までは行かなくとも、それなりのダメージを負わせるには、それなりに攻撃に力を込めねばならない。しかし、力を溜めるという事は、その瞬間は嫌でも動きが止まってしまう。
オルトロスは間違いなく、その一瞬を狙ってくるだろう。見るからに凶暴そうな爪の一撃を受ければ、いくら鍛えていると言っても、自分は紙屑のように引き裂かれてしまうだろう。防御がまるで意味を成さないに違いない。
狙いを定められないように動き続け、なおかつ、ダメージを負わせられるだけの攻撃を放たねばならない。
(今の俺の実力で、その二つがこなせるかねぇ・・・・・・ま、やるしかねぇわな)
やれなければ、死ぬだけである。
歯茎に痛みを覚えるほどに噛み締め、グッと腹に力を入れたキサラギの瞳に灯る光が強まったのを見たオルトロスは、更に唸り声を低くし、唾液を派手に垂れ流す。
「いざっっ!!」
彼が地面を蹴りつけようとした瞬間だった、両方の頭が顎を外しかねないほど口を開いたのは。
危険だ、と視た瞬間に判断を下したキサラギの体は勝手に動いていた。
キサラギが前ではなく、右方向に地面を蹴ったのと同時に、右の頭が「ゴォォォォ」と低い音を上げながら息を吸い込み、左の頭が真っ赤な炎をキサラギに向かって吐き出した。
間一髪で炎の息吹を回避できた彼の背中には、ひんやりとした大粒の汗がびっしりと噴き出していた。
チラリと視線を送れば、炎に舐められた石壁は溶けているではないか。
耐火服を着た人間が数秒とかからずに灰すら残らずに焼かれてしまうのも頷ける。
頬を伝った汗を手の甲で拭ったキサラギはゆっくりと立ち上がり、焦燥と恐怖の感情を腹の底へと引っ込ませるように、息を細く吹いた。
再び、オルトロスが二つの口を思い切り開ける。
そこを突くように、キサラギは飛び出した。
炎の息吹は一直線に吐き出される。扇状であったら危なかったが、その狭い攻撃範囲にさえ入らなければ、懐に潜り込める。
ジグザグに走りながらオルトロスへと迫っていくキサラギ。
だが、彼の考えは裏切られる。
炎を吐いたのは、今度は左の頭ではなく右の頭、しかも、炎の砲弾だった。
息吹よりも有効範囲はぐっと狭まってしまったが、炎の砲弾の速度は凄まじかった。
右の頭の大きく開かれた口の中で圧縮され、放たれた炎の砲弾は慌てて止まろうと急ブレーキをかけ、砂埃を巻上げていたキサラギを直撃した。勢いは全く緩まず、壁に激突したのと同時に爆音を上げて拡散した。
久しぶりの餌を食い損ねた事に落胆したような面持ちのオルトロスは、守らなければならない棺のある部屋に戻ろうと、二つの頭をそちらへと向ける。
だが、次の瞬間、オルトロスの無防備で守りが緩んでいた横っ腹に、全速力で馬車が突っ込んできたのと同じだけの衝撃力が込められた空中右回し蹴りがブチこまれた。
200kg以上もある巨体を支える四肢が、わずかだが確かに地を離れた。
ギャアン
苦痛の声を漏らしつつも、オルトロスは地面を蹴って、次の攻撃を避ける。 しかし、衝撃は内臓まで届いてしまったようで、堪え切れなかったオルトロスの左の頭は胃液を勢い良く床にブチ撒けてしまう。
そうして、どうにか痛みに耐えたオルトロスが唸り声を上げ、殺意の篭もった視線を向けた先に立っていたのは、肩で息をしつつも、火傷一つ負っていないキサラギだった。
確実に当たっていた筈だと、オルトロスの右の頭は振り返る。そうして、鼻を動かしてみれば、燃え猛る炎からは肉の焼ける臭いがしていない事に今更ながら気付かされる。
忌々しげに視線を動かしたオルトロスは、炎の中心、つい先程までキサラギがいた場所の石畳が剥がされているのを見て、回避は不可能と判断した彼が一瞬で力づくで剥がした石畳を盾に使い、砕けたそれを目暗ましにして、自分の懐へと気配を見事に殺して潜り込んできた上に予想以上に重い蹴りを叩き込んできた。
ここで、オルトロスはキサラギを食べる事を諦めた。
目の前の餌、否、敵はここで息の根を止めねばならない存在だ、と考えを改めたオルトロスは四肢を地面を踏み締めるように大きく開いて、初めて戦闘体勢を取った。
熊相手なら内臓を破裂させて悶絶させられる一撃だったにも関わらず、少しばかり小刻みに揺らしつつも決して膝を地面に落とさなかったオルトロスを今の一撃で本気にさせられた事が純粋に嬉しくなったキサラギもまた、鞘に戻していた刀を抜き、淡い光を放つ刃先をオルトルスへと向ける。
首周りを覆う翡翠色の毛を逆立てたオルトロスは二つの口を大きく開けた。
左右どちらかが炎を吐くにしても止まっていては危険だと判断したキサラギは、刀をだらりと下げて、ゆったりとした歩調で歩き出した。瞬発力ではオルトロスに到底、敵わないとこれまでの長くはない攻防で潔く悟っていた彼は、虚を突く為に今の所はチェンジオブペースで攻めてみるのが一番だと考えた。
右の頭の口の中に炎が溜められる。
(砲弾か)
キサラギは自分の動きに合わせて、頭を細かく動かすオルトロススに狙いを付けさせないように、歩調を速めたり緩めたりを繰り返す。
緩急が見事に付けられた歩法と、手や刀の些細で意味を成さないように見えて、実際は意識を鈍らせる動きも相まって、オルトロスの四つの目にはキサラギが何人にも分裂したように見えていた。
だが、その程度で慌てるほど、オルトロスの戦闘経験値は低くは無かった。
何人にもなったのなら、全て焼くだけだとオルトロスは一旦、右の口の中に溜めていた炎を体内に戻し、すぐさま左の口から炎を吐き出した。しかも、首を大きく振って、炎を広げる。
キサラギの生み出した残像は全て炎に飲まれたが、オルトロスが炎を引っ込めた一瞬で、高速移動に入ったキサラギは壁を蹴って、オルトルスの背後を取っていた。
壁に亀裂が入った音を聞いたオルトロスは反射的に尾を振ったが、次の瞬間、尾に激痛を覚え、苦痛の声を上げてしまう。
グアアアアン
オルトロスは太い尾を床に叩きつけたが、その時にはキサラギは尾を突き刺していた刀を抜いて、安全かつ次の攻撃にすぐ移れる場所まで下がってしまっていた。尾はただ床を砕いただけで、余計な痛みを自分に与えてしまったオルトロスは殺意に染まった唸り声を上げた。
再び、首の毛が逆立つ。
右の頭が炎の砲弾を小分けにして放ってきた。
(質より量かよ!)
フッと口の端を吊り上げたキサラギはあろうことか、自ら炎の砲弾に向かって駆け出した。
オルトロスは彼の行動に驚いたが、次の瞬間、度肝を抜かれた。
大きさこそ小さくなってしまったものの、その分だけスピードは上がっている、十数個はある炎の砲弾を、キサラギはまるで幼子が投げて寄越してくる鞠であるかのような動作で避け、砲弾の隙間を縫うようにしながら自分に近づいてきたのだ。
傍目から見れば、軽々と避けているようだったが、当のキサラギは全身に冷水を浴びせられているような心持ちだった。ギリギリまで引き付けた上で避けている為に、前髪が焦げる臭いがはっきりと鼻を刺すのだ。それでも、恐怖と同じくらいに膨らむ歓喜が彼の足を前へと進ませ、体を動かしていた。
まずい、と判断したオルトロスは炎の砲弾を吐くのを止め、慌てて後ろに跳んだ。オルトロスが地面を蹴ろうと前足に力を入れるのを見逃さなかったキサラギが刀を振り向いたのは同時ではあったものの、刃先はオルトロスの右の頭の鼻先をわずかに掠めただけだった。
双頭を一つ振って血を飛ばしたオルトロスは針で刺されるような痛みで、眉間に皺を寄せつつも一つの疑念を胸に抱いていた。
どうして、このチョロチョロ動く二本足で立てる生き物は、自分の吐く炎を避けてばかりなのだろうか、と。
最初の、炎の息こそ突っ込んできていた為に避けられずに石畳で防いで回避の為の時間を稼いでいた。封じられる前、自分を捕らえようとしていた人間の大半は、炎を水や氷の障壁で防いだり、吸収して自分の魔力に変えてしまったし、威力もそのままに跳ね返したりしてきたのに、この敵は魔術を展開する素振りすら、先程からまるで見せない。
低く唸るオルトロスが抱いている疑念を察した彼は自嘲気味に口許を歪めた。
(・・・・・・バレちまったかね)
キサラギは炎を防ぐ為の魔術を使わないのではない、使えないのだ。
(なるほど、この場所が妙に広かったのは、棺を守る存在が十分な働きが出来るように、って訳かよ)
キサラギは降ってきた石を避けつつ、グルリと周囲を見回してから低い唸り声を上げている最後の番人、いや、番犬を冷ややかな目で見つめた。
『番犬』の体長は10m、肩までの高さは3mを有に超えているだろう。体重は石畳にはっきりと刻まれていく足跡から軽く見積もっても200kgはあるに違いない。
そして、特徴的なのは頭部が二つ、と言う事。
「オルトロス、か・・・・・・実物、しかも、生きてるのを拝めるとは冒険者冥利に尽きちまうな、まったくよ」
魔獣の中でも最高位の戦闘力を持つオルトロス。それぞれに意思を持つ双頭からは地獄の業火を吐き、視界に入る全ての敵を焼き払う、と言われている凶暴かつ残忍な種だ。また、石の壁をまるで砂糖菓子のようにいとも容易に打ち砕いた事からも窺えるように、四肢での攻撃も半端ではない。
しかし、数十年前に魔王に代替わりをし、敗れ去った先代・魔王の恩恵を受けていた他の魔族や魔獣と共に滅びの道を辿り、今ではこの世界に存在していない・・・はずだった。
キサラギも図書館の片隅に置かれていた、古代史を纏めた書物の挿絵で見た事があるだけで、まさか、自分の前に現れるとは予想もしていなかった。
入る前に目を通させて貰った調査書によれば、この遺跡は少なくとも百年以上前の物らしい。
恐らくは、この遺跡を建てさせた王が自分の眠る棺を守らせる為に、当時はまだ、堂々と闊歩していたオルトロスを捕らえてきて壁の中に封印したのだろう。武・知・運を兼ね備えた者がこの遺跡の最下部まで下りて来てしまった時、その者を速やかに排除するよう命令をして。
もしかすると、首輪に隷属魔術が組み込まれているのかも知れない、とキサラギは思ったが、命令があろうと無かろうと餓えているオロトロスは侵入者を食い殺すに違いない、と口の端を吊り上げた。
キサラギが思った通り、体感時間はわずか数日である可能性はあったが、百年近くも飲まず食わずを強いられていたオルトロスの彼を見る目の色は番犬ではなく、捕食者のそれだった。
しょうがない、と思いつつも、かつて食物連鎖の上位に位置していた猛者と戦えるとなれば、芯のある強さを得たいが為に世界中を回ろうと決めているキサラギの頬が自然と緩んでしまうのも無理のない話だった。
ゆっくりと刀を抜き、凛とした構えを取ったキサラギ。
自分と比べたらちっぽけな餌が、それなりの抵抗をして来そうだと直感したらしいオルトロスの右側の頭は警戒するように低く濁った唸り声を漏らし、左側の頭は久しぶりに楽しめそうな狩りの予感に剥き出した牙の隙間から、鼻がひん曲がってしまいそうな悪臭を放つ涎を石畳に溢し出す。
先に動いたのは、実力的に大きく劣るキサラギだった。
(先手必勝!!)
全力で石畳を蹴ったキサラギは一瞬で、オルトロスの腹の下へと潜り込んだ。
そうして、腹を切り裂いてやろうと刀を素早く振ったが、巨躯に見合わぬ敏捷さでオルトロスはキサラギの一閃を避けて見せた。
さすがに、完全には避けられなかったのか、刃先は皮一枚を切ったようで、天井まで飛び上がり、壁を蹴って着地したオルトロスの腹部からは真紅の血が幾らか滴り落ちた。
命が天秤に載せられた戦いなのだから、緊張感を持たねばと思うキサラギだったが、どうしても口元の笑みを引っ込める事が出来ないでいた。
(真剣勝負となると、嫌でも自分の未熟さが露になっちまうなぁ、おい)
毒を含んでいる可能性もあるのでカッコつけて舐めずに刀を振って、刃先の血を飛ばしたキサラギは構え直す。
キサラギが負わせたのは、致命傷どころか浅手にすらなっていない一太刀だったが、オルトロスを更に興奮させるには十分だったようだ。
今度は、逆にオルトロスからキサラギに突っ込んできた。
内心でこそ、オルトロスのスピードに驚きつつも、左の頭が繰り出してきた強烈な一噛みを宙で半回転して躱したキサラギは右の頭の眉間を斬りつける。 そうして、オルトロスの背に乗ると、尾まで一気に駆け抜ける。
キサラギが着地し、オルトロスが壁にぶつかる間際で方向転換をした瞬間、オルトロスの巨大な胴体に刻まれた多くの細かい傷が一気に開き、鮮血が宙に舞い散る。
刃に感じた感触は思っていたよりも固かった。やはり、まともに切れたのは皮までのようだ。
(もっと力を入れないと駄目かぁ?)
体格差がここまである以上は動きを止めず、手数で攻めようと思っていたのだが、あまりダメージを負わせられないのでは、オルトロスを翻弄するべく動いた分だけ、無駄に体力を消耗してしまうだけである。
キサラギは頭を切り替えようとするも、一つの懸念に眉を顰めた。
致命傷までは行かなくとも、それなりのダメージを負わせるには、それなりに攻撃に力を込めねばならない。しかし、力を溜めるという事は、その瞬間は嫌でも動きが止まってしまう。
オルトロスは間違いなく、その一瞬を狙ってくるだろう。見るからに凶暴そうな爪の一撃を受ければ、いくら鍛えていると言っても、自分は紙屑のように引き裂かれてしまうだろう。防御がまるで意味を成さないに違いない。
狙いを定められないように動き続け、なおかつ、ダメージを負わせられるだけの攻撃を放たねばならない。
(今の俺の実力で、その二つがこなせるかねぇ・・・・・・ま、やるしかねぇわな)
やれなければ、死ぬだけである。
歯茎に痛みを覚えるほどに噛み締め、グッと腹に力を入れたキサラギの瞳に灯る光が強まったのを見たオルトロスは、更に唸り声を低くし、唾液を派手に垂れ流す。
「いざっっ!!」
彼が地面を蹴りつけようとした瞬間だった、両方の頭が顎を外しかねないほど口を開いたのは。
危険だ、と視た瞬間に判断を下したキサラギの体は勝手に動いていた。
キサラギが前ではなく、右方向に地面を蹴ったのと同時に、右の頭が「ゴォォォォ」と低い音を上げながら息を吸い込み、左の頭が真っ赤な炎をキサラギに向かって吐き出した。
間一髪で炎の息吹を回避できた彼の背中には、ひんやりとした大粒の汗がびっしりと噴き出していた。
チラリと視線を送れば、炎に舐められた石壁は溶けているではないか。
耐火服を着た人間が数秒とかからずに灰すら残らずに焼かれてしまうのも頷ける。
頬を伝った汗を手の甲で拭ったキサラギはゆっくりと立ち上がり、焦燥と恐怖の感情を腹の底へと引っ込ませるように、息を細く吹いた。
再び、オルトロスが二つの口を思い切り開ける。
そこを突くように、キサラギは飛び出した。
炎の息吹は一直線に吐き出される。扇状であったら危なかったが、その狭い攻撃範囲にさえ入らなければ、懐に潜り込める。
ジグザグに走りながらオルトロスへと迫っていくキサラギ。
だが、彼の考えは裏切られる。
炎を吐いたのは、今度は左の頭ではなく右の頭、しかも、炎の砲弾だった。
息吹よりも有効範囲はぐっと狭まってしまったが、炎の砲弾の速度は凄まじかった。
右の頭の大きく開かれた口の中で圧縮され、放たれた炎の砲弾は慌てて止まろうと急ブレーキをかけ、砂埃を巻上げていたキサラギを直撃した。勢いは全く緩まず、壁に激突したのと同時に爆音を上げて拡散した。
久しぶりの餌を食い損ねた事に落胆したような面持ちのオルトロスは、守らなければならない棺のある部屋に戻ろうと、二つの頭をそちらへと向ける。
だが、次の瞬間、オルトロスの無防備で守りが緩んでいた横っ腹に、全速力で馬車が突っ込んできたのと同じだけの衝撃力が込められた空中右回し蹴りがブチこまれた。
200kg以上もある巨体を支える四肢が、わずかだが確かに地を離れた。
ギャアン
苦痛の声を漏らしつつも、オルトロスは地面を蹴って、次の攻撃を避ける。 しかし、衝撃は内臓まで届いてしまったようで、堪え切れなかったオルトロスの左の頭は胃液を勢い良く床にブチ撒けてしまう。
そうして、どうにか痛みに耐えたオルトロスが唸り声を上げ、殺意の篭もった視線を向けた先に立っていたのは、肩で息をしつつも、火傷一つ負っていないキサラギだった。
確実に当たっていた筈だと、オルトロスの右の頭は振り返る。そうして、鼻を動かしてみれば、燃え猛る炎からは肉の焼ける臭いがしていない事に今更ながら気付かされる。
忌々しげに視線を動かしたオルトロスは、炎の中心、つい先程までキサラギがいた場所の石畳が剥がされているのを見て、回避は不可能と判断した彼が一瞬で力づくで剥がした石畳を盾に使い、砕けたそれを目暗ましにして、自分の懐へと気配を見事に殺して潜り込んできた上に予想以上に重い蹴りを叩き込んできた。
ここで、オルトロスはキサラギを食べる事を諦めた。
目の前の餌、否、敵はここで息の根を止めねばならない存在だ、と考えを改めたオルトロスは四肢を地面を踏み締めるように大きく開いて、初めて戦闘体勢を取った。
熊相手なら内臓を破裂させて悶絶させられる一撃だったにも関わらず、少しばかり小刻みに揺らしつつも決して膝を地面に落とさなかったオルトロスを今の一撃で本気にさせられた事が純粋に嬉しくなったキサラギもまた、鞘に戻していた刀を抜き、淡い光を放つ刃先をオルトルスへと向ける。
首周りを覆う翡翠色の毛を逆立てたオルトロスは二つの口を大きく開けた。
左右どちらかが炎を吐くにしても止まっていては危険だと判断したキサラギは、刀をだらりと下げて、ゆったりとした歩調で歩き出した。瞬発力ではオルトロスに到底、敵わないとこれまでの長くはない攻防で潔く悟っていた彼は、虚を突く為に今の所はチェンジオブペースで攻めてみるのが一番だと考えた。
右の頭の口の中に炎が溜められる。
(砲弾か)
キサラギは自分の動きに合わせて、頭を細かく動かすオルトロススに狙いを付けさせないように、歩調を速めたり緩めたりを繰り返す。
緩急が見事に付けられた歩法と、手や刀の些細で意味を成さないように見えて、実際は意識を鈍らせる動きも相まって、オルトロスの四つの目にはキサラギが何人にも分裂したように見えていた。
だが、その程度で慌てるほど、オルトロスの戦闘経験値は低くは無かった。
何人にもなったのなら、全て焼くだけだとオルトロスは一旦、右の口の中に溜めていた炎を体内に戻し、すぐさま左の口から炎を吐き出した。しかも、首を大きく振って、炎を広げる。
キサラギの生み出した残像は全て炎に飲まれたが、オルトロスが炎を引っ込めた一瞬で、高速移動に入ったキサラギは壁を蹴って、オルトルスの背後を取っていた。
壁に亀裂が入った音を聞いたオルトロスは反射的に尾を振ったが、次の瞬間、尾に激痛を覚え、苦痛の声を上げてしまう。
グアアアアン
オルトロスは太い尾を床に叩きつけたが、その時にはキサラギは尾を突き刺していた刀を抜いて、安全かつ次の攻撃にすぐ移れる場所まで下がってしまっていた。尾はただ床を砕いただけで、余計な痛みを自分に与えてしまったオルトロスは殺意に染まった唸り声を上げた。
再び、首の毛が逆立つ。
右の頭が炎の砲弾を小分けにして放ってきた。
(質より量かよ!)
フッと口の端を吊り上げたキサラギはあろうことか、自ら炎の砲弾に向かって駆け出した。
オルトロスは彼の行動に驚いたが、次の瞬間、度肝を抜かれた。
大きさこそ小さくなってしまったものの、その分だけスピードは上がっている、十数個はある炎の砲弾を、キサラギはまるで幼子が投げて寄越してくる鞠であるかのような動作で避け、砲弾の隙間を縫うようにしながら自分に近づいてきたのだ。
傍目から見れば、軽々と避けているようだったが、当のキサラギは全身に冷水を浴びせられているような心持ちだった。ギリギリまで引き付けた上で避けている為に、前髪が焦げる臭いがはっきりと鼻を刺すのだ。それでも、恐怖と同じくらいに膨らむ歓喜が彼の足を前へと進ませ、体を動かしていた。
まずい、と判断したオルトロスは炎の砲弾を吐くのを止め、慌てて後ろに跳んだ。オルトロスが地面を蹴ろうと前足に力を入れるのを見逃さなかったキサラギが刀を振り向いたのは同時ではあったものの、刃先はオルトロスの右の頭の鼻先をわずかに掠めただけだった。
双頭を一つ振って血を飛ばしたオルトロスは針で刺されるような痛みで、眉間に皺を寄せつつも一つの疑念を胸に抱いていた。
どうして、このチョロチョロ動く二本足で立てる生き物は、自分の吐く炎を避けてばかりなのだろうか、と。
最初の、炎の息こそ突っ込んできていた為に避けられずに石畳で防いで回避の為の時間を稼いでいた。封じられる前、自分を捕らえようとしていた人間の大半は、炎を水や氷の障壁で防いだり、吸収して自分の魔力に変えてしまったし、威力もそのままに跳ね返したりしてきたのに、この敵は魔術を展開する素振りすら、先程からまるで見せない。
低く唸るオルトロスが抱いている疑念を察した彼は自嘲気味に口許を歪めた。
(・・・・・・バレちまったかね)
キサラギは炎を防ぐ為の魔術を使わないのではない、使えないのだ。
11/09/23 14:55更新 / 『黒狗』ノ優樹
戻る
次へ