読切小説
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生きる為に食い、食う為に生きる【後】
 その日は、体力を完全に回復する為に野営をする事になった。
 崖を登るから荷物はなるべく減らした為、テントや寝袋の類は持ってきていなかったのだが、ワーバットも確認できず、いい具合に夜の寒気と雨露を凌げそうな洞穴で一夜を過ごしたカグラさんと私。
 岩の陰に人骨を見つけてしまった時には思わず、私はカグラさんの首筋に抱きついてしまった。
 しかし、カグラさんは自分の胴体に巻きつけられた私の尾から簡単に抜け出ると、頭蓋骨を拾い上げて、数年前に命を落とした二十代の男性で戦士の類ではなく魔術師だろう、と推察した。また、死因は病気ではなく、右胸を刺された事による失血死。
 「恐らくは、ここらに跋扈していた山賊に雇われていたんだろう。
 何らかのヘマをしたのか、取り分でモメたのか・・・・・・」
 「よよよよ、よく平然と推理できますね」
 「慣れてっから」と飄々とした面持ちで返してきたカグラさん。冒険者だから慣れているのか、料理人だから慣れているのか、どっちだろう。
 カグラさんは頭蓋骨を岩の陰に戻すと、おもむろに手を合わせた。しばらく迷っていた私も、指と指を組んで鎮魂の祈りを捧げてやる。
 その夜の食事はバナナに乾パン、鯵の缶詰、干し肉、ドライフルーツだった。
 私は恐かったが洞穴の奥、カグラさんは侵入者を警戒してか、入り口近くの岩に背中を預けて眠りに付いた。洞穴の外には獣が近づけないように火を焚き、魔獣が近づいて来れないよう、刺激の強い薬草を焼いた粉を撒いておいた。
 そっと寝返りを打って、岩壁に背中を預けて腰掛けているカグラさんを盗み見れば、既に穏やかな寝息を漏らしていた。
 (まだ何分も経ってないのに・・・)
 寝付きが良いと言うよりは、緊迫した状況でも体力の回復を優先できるのだろう。元来の性質なのか、いつ命を落としても不思議じゃない冒険生活で自然に備わった癖なのか。
 (―――・・・ここは、魔物娘の・・・・・・『本能』に従わなきゃ)
 若干、使い方が間違っている気もしたが、カグラさんへの夜這いを決意した私。
 そっと、音を立てないよう近づこうとした時だった、カグラさんの肩が揺れ、鋭く重い気迫を叩き付けられてしまう。
 「曲刀で首を落とされる」イメージが頭の中にはっきりと浮かぶ。
 (や、やばっ)
 慌てて、元の位置まで戻ると、気迫は嘘のように霧散した。
 何度か深呼吸を繰り返して、恐怖で速まっている心臓を必死に宥める。錯覚だろうが、体内で喧しい鼓動が、体の外にも漏れてしまっている気がした。しかも、薄暗い洞穴の壁で反響して、余計に五月蝿さを増してしまい、カグラさんを起こしてしまうのでは、と心配になってしまう私は胸を痛いくらいに(少し、気持ちよくなってしまうが)押さえる。
 (むむむむむ無理、襲おうとしたら、間違いなく・・・・・・)
 カグラさんの寝込みを襲えるのは恐らく、いや、間違いなく、ランカーでも限られているだろう。アンブルさんでも難しいかも知れない。もっとも、あの高潔な彼女が寝込みを襲うなんて卑怯な真似をするとは想像しにくいが。
 一気に血の気が引いてしまった私はカグラさんを見習って、一刻も早く1%でも多く、体力を回復して明日に備える事に決め、瞼を下ろした。寝ようと決めてしまうと、あれだけ昂ぶっていた頭の蛇達も素直に長い体に入れていた力を抜いて、お互いに重なるようにして眠り出した。

 翌朝、芳しい香りに鼻をくすぐられて身体を起こすと、いつの間にやら、身体に毛布代わりにマントがかけられていたらしく、マントは私の肌を滑って行く。
 「起きたな」と言う声に、マントを手にしながら視線を向ければ、カグラさんが携帯乾麺をお湯で戻していた。
 「あ、あの、これ」
 「夜、急に冷え込んで、くしゃみを繰り返していたんで。
 すまねぇな、こんな野暮ったい物を被せちまって」
 「ありがとうございました」
 「どういたしまして」
 マントを受け取って畳んだカグラさんは鍋の中身を掻き混ぜていたフォークで洞穴の外を指す。
 「出来上がるまでまだ時間がかかるから、顔だけじゃなく体も洗ってきたらどうだ?
 昨日は遅かったから体の汚れも落とせなかったしよ」
 (わ、私、そんなに臭うのかしら?)
 思わず、服の匂いを確かめてしまった私は彼の言葉に甘えて、水浴びに向かった。正直に言えば、覗かれるかも知れないと思ったのだが、すぐに彼が私なんかの裸に興味を持つわけがないわね、と自嘲の笑みが浮かんでしまう。

 地熱の影響なのか、池の表面からはうっすらと湯気が立ち上っていた。
 着替えを手が届くよう、同時に不埒な輩に盗まれてしまわないよう岩の窪みに置き、私は汗がたっぷりと染み込んでしまっている服を脱ぐ。そうして、尾の先で水温を確かめてから、ゆっくりと浸かる。
 「ふああああ」
 程よい温さの池に肩まで浸かった私は思わず、気の抜けた声を漏らしてしまう。あまりに緩んだ声が恥ずかしくなり、私は乱暴に顔を洗った。
 しばらく微温湯に体を浮かせていた私。
 汚れた着替えを丹念に洗ってから、洞穴に戻ると、朝食は完成していた。
 近くで見つけたと思わしき卵を浮かばせたヌードル、干し魚、各種サプリ、あとは近場で採って来たと思わしき果物が幾つか。
 「一時間後にはここを出っから、そのつもりでお願いするぜ」
 カグラさんの言葉に、私は頭の蛇と共に首を縦に振って、フォークを手に取った。

 一時間後、出発したカグラさんと私。
 やはり、中央地帯に近づきあるからだろう、カグラさんの威嚇が通用しない屈強な獣や魔獣が私達を襲ってきた。その度に、カグラさんは針や手刀で意識を奪い、私は邪視で体の自由を奪って難をやり過ごした。
 意外な事に魔物娘は現れなかった。
 (多分、ホーネットにはカグラさんの『情報』が回ってるのね)

 水分補給をしながら、進行方向を念入りに確かめている時だった。
 「・・・・・・ん?」
 不意に、カグラさんが眉をきつく寄せた。そうして、キョロキョロと周囲を見回し出す。
 不思議に思った私も頭の蛇に四方八方を確認させる。
 「あ」
 (今、甘い香りが・・・・・・した?)
 ほんの半瞬だが、甘い何かが香ってきた方向に全ての蛇を向け、同じく、顔を向けて鼻を小さく動かしてみる私。
 (!! やっぱり、する)
 衝動的に、その甘い香りに引っ張られるようにして、私は進み出した。
 私が木の葉を派手に撒き散らせながら蛇行して行くのに気付いたカグラさんが、慌てた様子で私を追ってきた。
 (・・・・・・状況さえ違ってたら、最高だったでしょうに)
 進む毎に香りに含まれている甘さが増す。
 確信を深めた私は下半身をくねらせる速度を上げる。
 茂みを抜けようとした時だった、
 「!! 危ねぇっっ」
 そう叫んだカグラさんに両手で思い切り突き飛ばされ、そして、殴り飛ばされたカグラさんが思わず地面に手をついて顔から腐葉土に突っ込む事だけは回避した私の頭上を肉片や血を撒き散らしながら、横回転をしながら宙を舞ったのは。
 「え?」と頬を叩いた血飛沫に驚く私。
 頭の蛇たちは藪に上半身を突っ込み、両足でVサインを表している、ピクリとも動かないで痙攣を繰り返しているカグラさんを見ていたが、私が二つの目で見ていた、いや、目を逸らせないでいた相手は・・・・・・
 「グオオオオオオオオオオオオオ」
 体長3mは有に超えているであろう、二本の足で立ち上がって野太い咆哮を周りの木々を揺らすほど放つ、眉間から真っ直ぐに天を突く一角を生やした巨大な灰色毛の熊であった。
 その熊はどう見たって、この辺りの『主』だった。
 左膝から下の自由を失うまでは猟師として活躍していたらしい、雑貨屋さんのご隠居さんが言っていた『主』とは間違いなく、真っ青になってしまっている私の目の前で吼え続けているコイツだろう。
 後ろに下がりたかったが、激しい尿意を覚えてしまうほどの恐怖で体が固まってしまっている。
 相手を石に変えるメドゥーサが情けない、と言われてしまっても、今の私なら怒らずに聞き流せる自信が胸中に芽生えていた。そんな偉そうな事を言うであろう輩は、こんなに恐ろしい物に威嚇された経験がないのだろう。本当に恐ろしい物に境遇してしまった覚えのある者なら、そんな子供みたいな真似は決してしないに違いない。
 あまりにテンパりすぎて、やけに安穏な事を考えてしまっている私を笑いたいが、口の端は引き攣るだけで、苦笑にすらなってくれない。
半ば自棄になってしまった私。
 限界まで魔力を瞳に集中させる。負荷がかかり、私は視神経が捻られるような痛みで呻き声を上げたくなるが必死に奥歯を噛み締めた。
 「石になれ!!」
 これ以上は溜めていられないと見切った刹那、私は邪視を放った。
 私の毒の視線に射抜かれた熊はビクリと体を一瞬だけ震わせた・・・しかし
 「う、嘘・・・・・・」
 熊はゆっくりと仰け反らせていた体を戻してしまう。
 私は確信した、この熊の強さを。
 熊はつまらない反抗を見せた私に怒ったようだ。
 「ガアアアアアアアア」
 怒号で宙を舞っていた木の葉が木っ端微塵になる。
 私はもう気力の糸が切れ、その場にへなへなと崩れ落ちるしかない。
 力を使いすぎて霞み出した視界に、熊が掌を振り上げる動きがやけにゆっくりと映った。
 (あ、死ぬな、これ)
 そう思った時だった、私は一つの事実に思い当たった。
 (・・・・・・カグラさんは石化防止の道具も持ってなかったし、術も使ってなかったんだわ)
 単に、カグラさんの実力が私より遥かに勝っていた。故に邪視が通用せず、石像に変えられなかっただけだったんだ、と。
 熊が掌をボケッと考え事をしている私の頭を狙って振り下ろした。
 木の葉だけでなく、空気までもがその陰惨な光を放つ爪に引き裂かれる音が聞こえた。
 一瞬の浮遊感。
 これが「死なのね」と淡々と思った私だったが、すぐに何処も痛くない事に気付く。あまりの衝撃で痛覚が麻痺してしまっているのかと考えたが、乱暴に地面に背中から落とされて、その痛みで自分がまだ生きているどころか、どこにも傷を負っていないのに気が付く。
 驚いた私は目を上げて、「ひっ」と息を呑んでしまった。
 熊の容赦ない一撃から私を庇って死んだかと思っていたカグラさんが、そこに立っていたからだ。
 しかし、私が言葉を失ってしまったのは、カグラさんが生きていた事よりも、彼の胸の傷が塞がり出していたからだ。目を背けたくなる痛々しい傷の縁が蠢き、見え隠れしている骨をヌラヌラとピンク色の肉が覆っていく、「ズブズブ」や「メリメリ」と言った耳障りな音を漏らしながら。
 胃の腑から酸っぱいものが込み上げてきたが、咄嗟に私は口を手で覆って、それに耐える。
 カグラさんの体前面を真っ赤に染め、乾き出していた血液も、まるで単純な意識を持つ生物のように皮膚の上を這い、傷の中へと凄まじい速度で吸い込まれていく。
 「な、何で・・・・・・」
 私の震える声での問いに、カグラさんは罰の悪そうな視線を落としてきた。
 「それは、何で死んでないのか、何でその傷で動けるのか、どうして傷が何もしていないのに治りつつあるのか、と言う意味で聞いてるのか?」
 コクコクと私は首をぎこちなく縦に振る。
 「・・・・・・俺は『死に難い』体質なんだ。
 まぁ、死にてぇ訳じゃないんで、どうやったら死ねるか、なんて考えた事もねぇが。
 ともかく、俺は常人が間違いなく死ぬような致命傷でも、しぶとく生き永らえちまう訳だな、これが」
 「!? その肌に浮かんでるのは・・・呪い」
 カグラさんの上半身には、私などが一見しただけでは解析できないほど難解で複雑な魔法陣が淡い空色や翡翠色、白銀色の光を放っていた。
 しかし、その魔法陣は治療用の物で無い事だけはすぐに理解できた。肌に痛いほど感じる、魔法陣から感じる気配は『呪い』のそれだった、しかも、並みの憎悪ではここまでの物は刻み込めないだろう。
 なのに、呪いの魔法陣は本来、標的の命を削るものなのに、逆に、傷を塞いでしまっている。
 「これのおかげで、大抵の傷は一分もすれば塞がっちまうんだよ。一度、ドラゴンのファイヤーブレスを浴びて下半身が炭になっちまったんだが、一日、じっとしてたら足がちゃんと生えてきたよ。でも、まぁ、再生の間、断面が痒くて堪らなかったぜ。
 心臓を潰された事もあったが、三十秒もしない内に新しい心臓が出来上がっちまう」
 さすがに、自ずと浮かべてしまった想像には耐えられず、私は胃の中にあった朝食の成れの果てを思いっきり、地面へとブチ撒けてしまった。
 「そんな事を話している内に、塞がったみたいだな」
 カグラさんは、ついさっきに爪で抉られた事など解らなくなった胸を一撫でした。
 そうして、私達を怒りで真っ赤に染まった瞳で見下ろしている熊を睨み返す。
 「しかしだな―――治っちまうとは言え、攻撃されれば痛ぇし、人の十倍近い速度で再生しちまうから、逆にソッチの方が痛ぇんだよな」
 (た、戦う気?!)
 「だ、駄目ですよっ、カグラさん!!」
 私は慌てて、カグラさんの胴に巻きついて彼を止めようとしたが、やはり目にも止まらず、無駄のない動きで避けられてしまった。
 「あれはただの熊じゃありません!! 眉間を見てください」
 「・・・・・・鬼熊だな、どう見たって」とカグラさんは雄々しい角を一瞥し、淡々と呟いた。
 「ここは逃げましょう」
 「鬼熊はその巨体に似合わず、狼なみの速度で獲物を追えるそうだ」
 その指摘に、私は続ける言葉に詰まってしまう。
 「それに・・・・・・料理人たるもの、美味い食材を前にして背を向けちゃいけない」
 「え」
 信じ難い一言を放ったカグラさんの姿が私だけでなく、鬼熊の前からも土煙だけを残して消えてしまった。
 だが、すぐにカグラさんは姿を現した、鬼熊の顔の左側に。
 「しゃっっ」
 ニヤッと口の端をちょっとだけ上げたカグラさんは、鬼熊の無防備な左頬を張り飛ばす。
 そうして、右の頬まで突き抜けた痛みでようやくカグラさんに気付いた鬼熊が唸り声と一緒に振り抜いた腕を軽々と避けて、私の元へと戻ってきたかと思えば、再び、私を抱き上げると、自分の邪魔にならない所まで私と荷物を地面を一度蹴っただけで一気に運んでしまう。
 「ここから動かないでくれよ。
 正直、あの鬼熊と戦いながらじゃヴィアベルさんを庇えねぇし、間合いに入り込まれたら自動的に攻撃を加えちゃうからよ」
 そんな事を言われたら、私は引き攣った顔で頷くしかできない。
 「さて、鬼熊を仕留めるとなると・・・・・・」
 カグラさんは唐突にシャツを脱ぎ捨てた。そうして、慌てて目を手で覆った私の前に、腹に巻いていた重しを落とす。スドンと鈍い音を上げて、その重しは地面に数cmもメリ込んだ。
( 嘘でしょ、こんなモノをつけて、崖登りをして、あんなに素早く動けたの、この人)
 「久しぶりに、50%でやらないとキツいか」
 私は眩暈すら覚えそうになる。あんな恐ろしい魔獣を相手にするのに、この人は本気を出さない、と言うのか。
 そんなツッコミが聞こえたのか、愕然とした私の表情を見下ろしたカグラさんはニッと口の左端だけを高々と吊り上げてみせた。
 「なまじ、全力を出したら、十秒もしないで殺しちゃうからな」
 「いや、だって、仕留めるですよね、鬼熊を」
 「どんなに美味い食材でも、それに見合ったタイミングを逃したり、正しい手順に沿わなければ台無しにしちまう」
 「タイミング? 手順?」
 「鬼熊に関しては手順に無理にこだわる必要はねぇんだが、タイミングだけは何よりも大事なんだよ。
 少なくとも、十秒じゃ駄目だろうな」
 解ったような、解らないような、ともかく、カグラさんは例え、実力の半分しか出さなくても鬼熊に勝てる、ずば抜けた戦闘力の持ち主である事だけは理解できた。
 そんな人間の枠を超えてしまっているカグラさんに、私の邪視が通用しないのも当然の話か。
 「念の為に、もう一度、言っておくが」
 「ここから動かなければ良いんですよね。もっとも、若干、腰が抜けちゃってるんで動くのは無理です」
 「なら、大丈夫だな」
 そうして、トォンと軽く跳び上がったカグラさんは高速移動し、自分の前から消え失せた私達をやっと見つけて、太い四本の足で駆けて来ていた鬼熊の鼻っ面にカウンター気味に膝を叩き込んだ。
 「ギャアアアアン」
 予想もしていなかった反撃に鬼熊は怒りを膨らませる。
 (角が赤くなりだした!!)
 聞いた話では、鬼熊は怒れば怒るほど、額の角が根元から次第に赤く染まり出し、獰猛になっていくらしい。カグラさんはわざわざ、鬼熊を怒らせる気なのか?
 潰れた鼻から血を撒き散らしながら、後ろ肢だけで立ち上がった鬼熊は左の掌を振り下ろしたが、カグラさんの目にも止まらないスピードで打ち出されたパンチで弾かれて強引に軌道を変えられてしまう。カグラさんは鬼熊の体勢がわずかに揺れると、一瞬で鬼熊の背後へと移動し、隙だらけの後頭部を蹴り飛ばした。
 後方からの衝撃に耐え切れず、顔面から地面へと突っ込む鬼熊。
 カグラさんは追撃の手を緩めない。宙で一回転して勢いをつけると、無防備なままの鬼熊の背中へと肘打ちを容赦なく叩き込んだ。メコッ、と嫌な音を上げて、鬼熊の背中がわずかに凹んだ。
 鬼熊は地面を前足で叩くと、土煙を派手に巻き上げながら転がって、カグラさんから距離を置いた。
 「タフでな、オイ」
 二本足で立ち上がった鬼熊の角は三分の一ほど赤くなっていた。
 「グオオオオオオオオン」
 「主」の貫禄に満ちた咆哮に、カグラさんも表情を険しくした。
 鬼熊はたった一撃でヘシ折った木を持ち上げると、カグラさんに向かって投げつける。
 左右のどちらへも避けなかったカグラさんは、逆に前に出た。彼は木にぶつかる寸前で地面を蹴って跳ぶと、足元を通過していく木を今一度、思いっきり蹴りつけて加速をつける。
 そうして、ギョッとした鬼熊の鼻にまた膝を叩き込んだ。
 だが、鬼熊もさすがにやられてばかりではない。自分の顔面に飛び膝蹴りを叩き込んだ為に宙で身動きが取れないカグラさんを叩き飛ばす。
 容赦ない一撃で背中を大木に叩きつけられるカグラさん。
 「カグラさん!!」
 私は衝動的に藪の中から飛び出したくなるが、彼との約束を思い出して、尾を近場の幹へと巻きつけ、助力したい気持ちを必死に押さえ込む。
 よろよろと立ち上がったカグラさんの、咄嗟に一撃から頭を守った左腕は曲がっちゃいけない方向に幾度も曲がっている。それでも、普通なら切断しなければならないほど、血管や筋肉が潰れ、骨も街医者や二流所の医療魔術師では修復不可能なほどに粉々になっているはずの左腕は嫌な軋みを放ちながら、ありえない動きを幾度か繰り返して、元の状態に戻ってしまう。
 手を開閉させて、違和感が残っていない事を確認したカグラさんは夥しい血が垂れ出ている鼻を押さえて、自分を殺意に染まった目で睨んできている鬼熊を見て笑った。
 「さすがに強ぇなぁ・・・・・・
 今すぐ、首の骨を折ってやりてぇほど怖いなぁ・・・・・・
 でも、今、ブチ殺したら、食えなくなっちまうもんなぁ、グッと我慢しねぇとなぁ・・・・・・」
 不気味な笑みを浮かべ、小刻みに震え出した自分の体にカグラさんは両腕を回す。
 (こ、怖がってる?
 ・・・・・・違う、そんな感じじゃない・・・感情任せになりかけてる自分を抑え込んでるんだわ)
 「ゴオオオオオオオ」
 一際、強い威嚇を放った鬼熊。その角は半分以上が真っ赤になっている。
 その時、カグラさんの体の震えが不自然なほど急に止まった。
 「―――・・・喧しいぞ、この熊っっっ」
 吼えたカグラさんの背後にそれは現れた。
 腰の辺りが冷たい、と思って目を落とせば、私は失禁してしまっていた。
 カグラさんの気迫が密度を増した事で見えるようになったソレは鬼神。
 風もないのに四方八方に乱れている髪は雷光を思わせる眩い光を放ち、カグラさん以上に逞しい肉体は焼けた鉄を思わせる赤銅色に染まっている。耳まで割れた口からは唾液で濡れた鋭い牙が並び、吊り上がった二つの目と額の眼はその暴力性を示すかのように、真紅に爛々と光っている。そうして、その両手には背に負った太鼓を叩く為に使うのか、もしくは、相手を情け容赦なく撲殺する為に使うのか、棘がびっしりと生えた棍棒を握り締めていた。
 この世に生を受けて初めて味わう、純粋な恐怖。
 心臓が痛い。
 やはり、この辺りの『主』だけはある、鬼熊はカグラさんの気迫に後ずさらなかった。
 この間の落石で、餌場を失ってしまい、相当の空腹を覚えているのか、鬼熊も必死なのだろう。
 (それか、あの鬼熊もヘビーイチゴを狙ってる?)
 鱗を逆向きに剥がされるような緊迫感で忘れてしまっていたが、鼻を小刻みに動かせば、まだあの甘い匂いが漂っている。
 恐らくは、鬼熊はこの辺りのハニービーの集めた、甘さが凝縮された蜜を何度も奪っているだろう。そんな鬼熊がこんな甘い匂いに誘われない筈がない。
 つまり、今、あの鬼熊はカグラさんを餌と言うよりは、自分が狙っている獲物を同様に狙っている敵と判断して対峙しているのだろう。
 「よっしゃああああ、筋肉がイイ感じに温まって来たぜぇぇぇ」
 胴体の魔法陣から溢れ出ている光が幾本もの直線となって、カグラさんの肌の上を額や指先を目がけて走っていく。ズボンで隠れているから見えないが、光線は恐らく、足にまで及んでいるんだろう。
 とてつもない魔力が全身に満ち出しているからか、カグラさんの口調が変わり出す。
 「50%、出すぜぇぇぇぇぇぇ」
 「へ?」
 地面を抉れるほどに強く蹴ったカグラさんは一気に鬼熊の懐に迫った。
 そして、強烈な左ストレートを鳩尾へと叩き込む。
 銅鑼を鳴らしたような豪快な音が上がり、大きく開けた口から黄色い液体を勢い良く吐き出した鬼熊が後ろへ吹き飛んだ。
 とんでもない音を上げ、ぶつかられた大木が真っ二つにへし折れる。
 今の今まで、カグラさんは本当に50%で戦っていなかったらしい。
 (攻撃力が高くなってる!!)
 歩いてくるカグラさんに向かって、起き上がった鬼熊は折れた大木を投げ飛ばしたが、彼は自分に凄まじい速度で迫ってきたそれを今度は避けずに、回し蹴りで木っ端微塵に砕いて見せた。
 「ギャオオオオオオン」
 腹部の中央が凹んだ鬼熊の角は八割方が真っ赤だ。
 「・・・・・・そろそろ、か」
 鬼熊の尋常じゃない怒りっぷりに、カグラさんは口の両端を高々と吊り上げた。
 完全に頭へ血が昇ってしまっている鬼熊は今までの物とは比べ物にならない濃厚な殺気を、その巨躯から惜しみなく四方八方に放出させた。
 それまで、カグラさんの放った殺気で遠ざかりつつも、この戦いを観ていたと思われる高レベルの魔獣の気配が一秒と掛からずに消え失せた。恐らくは、カグラさんの殺気に打たれて弱っていた精神が、続けざまに放たれた鬼熊の殺気に耐えてきれず、泡を噴いてその場に倒れこんでしまったのだろう。
 魔物娘の気配もかなり薄くなった。相当な距離まで避難したのか。
 出来る事なら、私も逃げたかったが、もうここまで来たら、最後まで見続ける義務があるのだろう。私はそう勝手に決めて、どんな些細な動きも見逃すまいと二つの眼、蛇の目を総動員する。
 先に動いたのはカグラさんだった。
 派手に土煙を巻き上げたカグラさんは真正面から鬼熊に突っ込んでいった。 「ちょっ?!」 
 当然、死角に回りこまれたならともかく、真正面から来た相手を見失うほど鬼熊も愚かではない。
 自分の潰れた鼻を狙って拳を振り上げながら地面を蹴りつけようとしたカグラさんを、鬼熊は右掌で全力で地面へと叩きつけた。
 しかし、掌の下で粉々になったのはカグラさんの頭蓋骨や脳漿などではなく、鬼熊自身がヘシ折って投げつけた大木だった。
 (変わり身!?)
 「十六夜(いざよい)」
 鬼熊の攻撃の隙を突いて跳んだカグラさんは、宙で十六人に分かれる。
 闘気が十二分に篭もった拳が、掌底が、肘が、手刀が、脛が、膝が、爪先が、踵が、鬼熊の急所と言う急所に叩き込まれた。皮が破れ、肉が裂け、骨が砕ける派手な音はカグラさん達が地面に降り立つ寸前、一人に戻った時に一斉に鳴り響いた。
 速く重い連なる攻撃を全身に、一瞬の間すら置かれずに受けてしまった鬼熊は既にフラフラだ。その角は先端まで真っ赤になっていた。
 それを見たカグラさんの目がギラリと光った。そうして、私の元へと戻って来たかと思えば、ニホントーを手に掴んで、カグラさんは再び、棒立ちの鬼熊へと高速で迫る。
 「鳳仙花(ほうせんか)」
 そして、カグラさんと鬼熊が擦れ違う刹那、光が閃いた。
 肩で息をする、汗だらけのカグラさんの全身を覆っていた魔法陣の光が収束しきったのと同時に、鬼熊の巨大な体は解体されていた。
 (あの一瞬で捌いたの?!)
 危ないほどに美しい、濡れた光を放つニホントーを鞘へと納めたカグラさん。
 「ヴィアベルさん、もう来ても大丈夫だぜ」
 語勢が穏やかな物に戻ったカグラさんに声をかけられた私はビクビクとしながら、藪の中から這い出て、数え切れない部位に分けられた鬼熊に近づく。
 「バラバラ・・・・・・血も出てない」
 地面はほんの少しも汚れていなかった。
 昔、街を訪れたジパングの剣士が真っ二つにした林檎をくっつける技を見せてくれたが、カグラさんの剣捌きはそれに匹敵するだろう。
 その瞬間だった、私が思い出したのは。
 (そうだ、前にアンブルさんが見せてくれたランキングに載ってたんだ、この人!!)
 カグラ・ムラマサ、世界で十本の指に入る至高の剣士にして、世界で三番目に優れている、人間の中では最も腕の立つ料理人だ。そして、星の数ほどいる人間の料理人の中で唯一、魔王様に自分の料理を振る舞い、絶賛された人間。
それが、目の前に立つこの人か。
 アンブルさんに彼の名が載っているランキングを見せてもらったのは一年も前だったので、すぐに記憶を引っ張り出せなかった。
 しかし、私は驚きを顔には出さないように努めた。あえて、自分の経歴を語らなかったのは謙遜もあるのだろうが、それなりに深い事情もあるのだろう。ならば、聞かないのが礼儀と言う物じゃないだろうか、人間でも魔物娘でも。
 「・・・・・・でも、本当に鬼熊って食えるんですか?」
 「普通なら、硬すぎて食べられねぇし、三日三晩、煮込んだって臭みも簡単には抜けちゃくれねぇ。無理に食べれば、一週間は下痢に苦しんじまうしな。
 だけど、角が尖端まで真っ赤に染まりきった瞬間に捌いてしまえば、その肉は程よい噛み応えだけが芯に残った、脂に自然のサッパリとした甘さが満ちた肉になるんだ。
 しかも、これだけの大きさだ、その美味しさは普通の熊の比じゃねぇぜ」
 今度は口許が生温かい。不思議に思った私が口許を手の甲で拭うと、凄い量の唾液が溢れ出ていた。
 「さて・・・・・・」
 シャツに袖を通したカグラさんは鞄から十枚の魔術札を取り出すと、その内の九枚だけをバラバラになっている鬼熊の肉を囲むように置き、残った一枚に魔力を注ぎ、込められている術式を発動させる。
 「開け、蠅王の喰蔵庫(ハングリーボックス)」
 小刻みに揺れだした地面と平行となるように、空中に髑髏を模した王冠を被った巨大な蠅が表面に彫られた、禍々しい扉が現れる。
 カグラさんがその扉に魔術札を投げ、表面に貼り付ける。
 すると、数秒後、蠅の眼が赤く光って「ガチャリ」と甲高い音が響き、二枚の戸が軋みながらゆっくりと外側に向かって開き出した。
 そして、扉が完全に開ききった瞬間、濁った空気の中から数え切れないほどの腕が噴き出し、地面に並べられている肉を鋭い爪で掴むが速いか、扉の中に引っ込んでしまった。
 「なっ」と慌てて、カグラさんが頑張って手に入れた肉を守ろうと飛び出そうとした私を彼は肩へ手を置いて引き止めた。
 ものの数十秒であれだけあった肉は全て持っていかれてしまった。
 大半の腕は扉に引っ込んだが、まだ何本かはウロウロとしている、まるで捕らえるべき獲物を未だに探しているようだ。
 「閉じろ、蠅王の喰蔵庫(ハンガーボックス)」
 カグラさんが声も高く叫ぶと扉が先程より大きい軋みを漏らしながら閉じていく。外に出ていた腕は千切られては堪らない、とばかりに慌てて内側に戻っていく。
 完全に閉じきると同時に、巨大な扉は風に吹かれた煙のように跡形もなく消え失せてしまう。
 「あ、あれは?」
 「俺が昔馴染から貰った道具の一つだよ。
 扉の中は時間の流れが不規則な異次元空間に繋がっていて、中に仕舞い込まれた食材は最高の鮮度を保ってくれる。
 いつでも食材を外に出せるんだけどな、油断をしてると中にいる食材の管理をしてくれている『何か』に喰べられてしまう。。
 何度か、苦労して入手したレア食材を奪われて、実に悔しい思いをしたよ」
 「な、何がいるんですか?」と私が恐る恐る尋ねると、カグラさんは実にとぼけた表情で「さぁ? 命が惜しいから中に入った事はねぇよ、俺も」と首を傾げた。
 「さて、腹ごしらえをしますかねぇ」
 歯茎を剥き出すようにして笑ったカグラさんはいつの間に脇に避けていたのか、鬼熊の肉を掲げて見せた。
 「どうだい、アンタらも」
 そう言って、戦いが終わったと見て近くまで戻ってきていたのか、藪や枝の上で様子を窺っていた魔物娘たちに声をかけたカグラさん。

 カグラさんは慣れた動きで、ハーピーやワーウルフが運んできた石で即席の竃を作ると、湧き水を張った鍋を鉤に吊るし、火の魔術札を薪の中に放り込んだ。
 そうして、適当な大きさに切った野菜と鬼熊の肉を放り込む。
 野菜と肉の出汁が混ざり合い、言葉に出来ない程の芳醇な、極端な説明をすれば、腹に穴を開けられてベッドの上で死に掛けている兵士ですらコカトリス並みの速度で椀を持って駆けて来ても何ら不思議じゃない、空腹感を厭らしいほどに刺激する香りだった。
 腹の虫が大声で鳴き出したのは私だけではなく、鍋を中心にして円になっている魔物娘達もだったので安堵し、お互いに赤らめた頬で苦笑いを見せ合った。
 出汁を一口ばかり啜ったカグラさんは「うん」と力強く頷いた。そうして、鞄の中から小さな壷を取り出した。
 「それは?」
 「ジパングに伝わる調味料だよ」
 カグラさんが蓋を開いて見せてくれた壷の中には、程好い発酵臭が鼻をくすぐる茶色い代物。見た限りでは、あまり固くはなさそうで、ピーナッツバターほどだろうか。
 「調味料なんですか?」
 「ミソ、と言う。大豆から作るんだ。
 これはこっちの豆を使って作っているから、本来の物とは少し風味が違っちまってるんだが、個人的には最高の出来だと思ってる」
 そうして、カグラさんは「ミソ」なる調味料をスプーンで豪快に掬って、出汁に溶かす。白濁していた出汁はあっという間に「ミソ」と同じ色に染まっていった。
 「うわぁ」
 思わず、私達は驚嘆の声を上げてしまう。「ミソ」が溶け込んだ瞬間、匂いの奥深さが一気に増したのだ。
 「さぁ、どうぞ」
 晴れやかな表情のカグラさんに促されるも、私達は若干の躊躇を抱いてしまう。確かに、匂いは良いのだが、この肉が今日まで大暴れしていた『主』のそれだと思うと・・・
 「―――・・・じゃあ、俺一人で全部、食べ」
 「駄目ですよっっ」
 私達は慌てて、鍋の中身をお椀に入れる。
 数秒間ばかり目を閉じて迷っていたが、結局は香りによって増幅してしまっていた空腹に負けた。
 そして、恐る恐る、スープを口に含んだ瞬間、私達は全員、目をこれでもかと見開いてしまう。
 私達は言葉もなく、手に持っている椀の中身を信じられない思いで見つめてしまう。
 (こ、これが、鬼熊の肉!!)
 体験した事の無い美味さだった。あんなに粗暴な外見からは想像できなかった、舌の上で解れるような繊細さがスープにしっかりと出ている。それでいて、野性味に溢れ余る力強さもあり、あれだけ疲労で重かった体に力が瞬く間に戻ってしまった。
 もう止まれなかった、体がこの味をもっと求めている、その衝動を抑えられない。
 「歯応えが思った以上にあるだろう?」
 カグラさんに問われた私達は一斉に頷いてしまう。
 「鬼熊は普通の熊の三倍は長く冬眠をする。
 故に、その巨躯に蓄える脂は普通の熊肉の比じゃねぇんだ」
 噛めば噛むほど、奥からジュワリと染み出てくる脂はまるでしつこくない。
しかも、飲み込む瞬間、喉の奥から何とも言えない、ふっくらとした香りが立ち昇ってきた。アルラウネのフェロモンにも匹敵しかねない、頭の天辺から指の先まで蕩けるような錯覚が襲ってくる。
 なのに、私達はお椀を傾けてしまう。喉を鳴らしながら、スープを飲み干そうとしてしまう。
 「・・・・・・え?」
 私達は不意に上げたお互いの顔を見て、息を呑んでしまう。
 全員の唇がグロスも塗っていないのに、淫靡に光っていたのだ。
 「高価いだけのルージュを使うより、男を誘惑できますね、これなら」
 「実際、大昔の貴族の女性達は冬、唇が罅割れてしまった時は薬などは使わず、熊の脂を塗ったそうだ」
 鍋に入れないでおいた肉を遠火で焙って頬張っているカグラさんの唇も、私達に負けないほどピカピカになっていた。

 一時間後、私達は汁の一滴すら残さずに鍋を空っぽにした。
 魔物娘たちはカグラさんに丁寧に謝辞の言葉を告げ、それぞれの住処に戻っていく。
 「じゃあ、行きますか」と片付けを終えたカグラさんに頷き返した私は荷物を掴んだ。
 準備を整えた私達は甘い香りがより濃く漂ってくる方向、森の中央を目指して歩き出した。

 そして、森に入ってから二日、ついにカグラさんと私は中央地帯に辿り着いた。
 「す、凄い匂い」
 私は抑えようとしても溢れ出てきてしまう唾液を手の甲で拭う。
 「『命の果実』と呼ばれるに相応しい香りだな」と冷静に漏らすカグラさんだったが、やはり、口の端からは涎が垂れかけていた。
 一つ深呼吸をして、昂ぶる気持ちを宥めたカグラさんは、まるで深窓の姫を守る忠誠心が硬き屈強な兵士を思わせる茨をニホントーをたった一度振るっただけで細切れにしてしまった。
 麻痺毒が染み出ている茨で肌を切らないように注意しながら進んでいった私達の目の前にそれは姿を現した。
 高価な苺をよく「甘いルビー」と表現する者がいるが、目の前のヘビーイチゴはそんな月並みな表現には当て嵌まらなかった。
 「お、お、大きいっっ」
 目の前のヘビーイチゴは、くす玉ほどはある大きさだった。
 高さ2mばかりの木の細い枝は、見るからにズッシリとしている実の重さに耐え切れず今にも折れてしまいそうだ。
 「・・・・・・雑草が全く生えちゃいねぇな」
 カグラさんの指摘に地面を見れば、確かにヘビーイチゴの木を中心に3mの地面には雑草がまるで生えていない。
 その場にしゃがみこんだカグラさんは地面に触れ、指先に付いた土を擦り合わせ、匂いを嗅いでみる。そうして、おもむろに舌の先で土を舐め、納得したように頷いた。
 「危険なほどに大食いだな、このヘビーイチゴは。
 地面の栄養分はほとんど吸い尽くされてるぞ」
 道理で、雑草が生えない筈である。どんなに生命力に溢れている、屈強な雑草でもこんな大食感な植物にいられたら、一時間と経たずに栄養分にされてしまうだろう。
 「しかも、この甘い香りで鳥やら小動物を誘き寄せて、茨の毒で動けなくした上、自分の糧にしてるのか」
 カグラさんは地面から、ほんの少しだけ覗いていた骨を指した。彼が摘み上げようとすると、限界以上に養分を吸い取られていたらしい骨はいとも簡単に崩れてしまった。
 「五十年近くかけて、じっくりと弄るようにして、最高にして極上の甘さを溜め込んできたようだな、このヘビーイチゴは。
 しかも、先代のヘビーイチゴは誰にも食べられず、大地に還った・・・このヘビーイチゴはその栄養分も蓄えてると見たね」
 歓喜と感嘆、そして、感動の声を漏らしたカグラさんは、眩いオーラをその丸々とした形から放っているヘビーイチゴを見つめる。
 「・・・・・・・・・では、収穫させてもらおうかね」
 威風堂々としたヘビーイチゴに、最大級の敬意を払うように頭を下げたカグラさんは緩慢な足取りで歩み寄り、腰のニホントーへと手を伸ばした。
 「チィン」と硝子の鈴を指で弾いたような軽い音が響いた時には、ヘビーイチゴのヘタはカグラさんの目にも映らぬ抜刀術で枝から切り離されていた。
 「!?」
 実を採られた木は瞬く間に、私達の目の前で音も立てずに朽ち果てていった。
 「見た目以上に・・・・・・重いな、こりゃ」
 戻ってきたカグラさんが私に実を持たせてくれた。
 凄い。大きさこそ規格外だが、重さは想像以上だ。これを天秤の皿の片側に置いた時、真っ直ぐにする為にどれだけの金が必要になるだろうか。
 恐る恐る、私はカグラさんの手へとヘビーイチゴを戻した。
 カグラさんは実に鼻を近づけ、目を細める。
 「鼻腔をくすぐるどころか、脳味噌を容赦なく鷲掴みにしてくる、甘酸っぱい香りだな。
 ただの水道水でも、この香りを移せたら馬鹿売れするな、こらぁ」
 一概に否定を出来なかった私はカグラさんの言葉を聞かなかった事にした。
 「さて、と」
 一通り、色、重さ、香りを愉しんだカグラさんは懐から折り畳み式のナイフを取り出した。そうして、彼はナイフの尖端をヘビーイチゴにそっと、浅く入れる。
 「ヴィアベルさん、どうぞ」
 「え?! 私も良いんですか」
 「もちろん、良いに決まってるじゃねぇの」と呆れたように笑ったカグラさんは一口大に切り取ったヘビーイチゴを私の手に乗せた。
 「で、では、いただきます」
 チビチビと食べるのは逆に勿体ない、と私は思い切って、掌の上のヘビーイチゴを口の中に含んだ。
 その瞬間、口の中で『大爆発』が起こった。
 甘さと酸っぱさの間髪なき波状攻撃。しかも、甘さは後頭部まで一気に突きぬけ、Uターンして舌の上で踊り出す始末。
 (今日の今日まで食べてきた苺は、苺じゃなかったのかしら)
 口の中が麻痺してしまうような、どギツい甘酸っぱさの中ではなく、春のそよ風の様に優しさがある。いつまでも、口の中に含んでいたいと思わせ、歯を立てる事を躊躇ってしまうほどだ。
 だが、言葉にしようとすると、「美味しい」しか頭の中に浮かばない。文字通り、ヘビーイチゴの比類なき味は美しかった。
 私は一抹どころか九抹の名残惜しさを覚えながら、口の中の温度で溶け出していたヘビーイチゴをゆっくりと飲み込んだ。喉を、食道を、最高の甘さを振り撒きながら胃へと落ちていくヘビーイチゴ。
 そうして、胃に辿り着いた瞬間、最後の『大爆発』が起こる。
 「――――――・・・・・・ほぉ」と思わず、苺の爽やかな香りに染まった息を漏らしてしまう私。
 重量級ボクサーの王者の右ストレートより威力があった。冗談なしで、私はヘビーイチゴにKOされてしまったようだ。これから、店先で売っているような普通の苺で笑顔になれる自信がまるでない。
 しかし、ふと、横に目をやった私は驚かされた。
 二つ目を食べているカグラさんはその味に頬こそ緩めているものの、目には明らかに落胆の色をはっきりと浮かべていたからだ。
 「お、美味しくないんですか?」
 「いや、とっても美味ぇ」と緩んでいる頬を撫でるカグラさんは哀しそうだった。
 「俺も料理人の端くれだからよ、今まで多くの種類の苺を口にしてきたんだ。
 それだけに、このヘビーイチゴ以上の物には今後、出逢えないだろうと断言できるな。
 ミノタウロスの巨斧の一撃を思い出させた、甘みをこの大きな実にたっぷりと蓄えているヘビーイチゴは紛う事なき、世界最大、そして、最高の苺だろう、賭けてもいい」
 カグラさんは何度も力強く、首を縦に振った。
 「だけど、このヘビーイチゴも俺が探していた物じゃなかったらしいな、残念ながら」
 おどけるように小さく肩を竦めて見せたカグラさんの寂しい微笑が、私の胸を衝いた。
 「・・・・・・と言いつつも、胸と胃は甘酸っぱい幸福感で満ち溢れてるんだから、俺も現金な人間だよ、まったく」
 表情から寂しさを一瞬で消し去ったカグラさんの口許に、先程のまでのモノと代わるように浮かべられた笑みは温かかった。
 「さて、これを街の皆さんにも食べさせてやろうかね。
 美味しい物は大勢で食べれば、もっと美味いからよぉ」
 カグラさんは再び、扉を召喚する為の準備を始めた。

 「・・・・・・カグラさんは何かを探して、旅をしているんですか?」
 私は前を、来た時よりも若干、重そうな足取りで進むカグラさんの背中に思わず尋ねてしまった。質問が口を飛び出てしまった瞬間こそ、激しい後悔に襲われたが、わずかに振り返ったカグラさんが気を悪くしたようではなかったので、思わず安堵の息を漏らしてしまう。
 「厳密には、物と人を探して、世界中を回ってるんだけどな」
 「一体、何と誰を探しているんですか?」
 だが、「さぁ」とカグラさんが罰の悪そうな表情で首を大きく傾げたものだから、私は危うく尾を滑らせそうになってしまう。
 「大丈夫かよ?」とやっぱり、目にも止まらない速度で私の横まで下がってきたカグラさんが私の腕を掴んで支えてくれる。
 「あ、ありがとうございます」とカグラさんが触れた箇所に心地良い熱を私は感じてしまう。
 「そ、それで、カグラさんは自分が探している物と人を知らずに、こんなに危ない場所に何度も足を踏み入れているんですか?」
 聞いた話では、この人は魔王様の許可を得て、あの『触手の森』にも足を踏み入れているらしい、未知の食材を見つけて食べる為に。
 恐らくは、『探し物』は食べ物に間違いないだろう。しかし、それも解っていないのに、ランク7以下の食材は存在しない場所に深くまで踏み込んでいるのか? 頭の螺子が十本近く跳んでしまっているとしか思えない。
 私は考えている事が気付かない内に、顔に出てしまっていたのだろう、カグラさんが苦笑いを浮かべた。
 「お恥ずかしい事に」
 そう頭を掻くカグラさん。
 「――――――・・・・・・鬼熊と闘っている時、俺の肉体に浮かんだアレが何だか、ヴィアベルさんには理解できたかぃ?」
 「・・・・・・呪いですよね、しかも、かなり高度な」
 「あぁ、その通り。
 だけど、俺自身が誰かの怒りを買って、貰っちまった物じゃねぇんだよ、あの呪いは」
 「え? ・・・じゃあ」
 「俺の父方のひいひいお祖父さん、つまりは五代前の先祖が受けた物を、たった一人だけ生まれる息子が受け継いでいるだよ」
 そこで一旦、口を閉じたカグラさんはボトルを軽く傾けて口の中を潤わせてから、話を再開した。
 「どうして、先祖がこんな呪いを受けてしまったのか、何をやらかしたのか、は資料にも残っちゃいなかった。
 と言うか、呪いについてはほとんど解ってねぇんだ、正直なとこ。
 解ってるのは、ご先祖様が事故や人並みの寿命で死んでる事からしても、永劫の時を孤独に過ごさせるような類の物じゃないって事も含めて片手で数えられる事だけ。
 先祖に呪いをかけたのが妖狐なのか、魔女なのか、エキドナなのか、バフォメットなのか、も。術者の正体が判れば、解呪の段取りも付けられたんだが、あまりにも昔過ぎて、それもハッキリしない」
 「一体、どんな類の呪いなんですか?」
 「俺のは灰化だよ」
 「・・・・・・俺のは?」
 含みのある言い方に私は首を傾げてしまう。
 「時代によって、発言する呪いが違うんだよ。
 俺の父さんは肉体が硝子化してしまう物だった。
 ただ、即時に発動する呪いではなく、条件が揃うと緩慢に進行する類の物である、それは共通してる」
 「条件?」
 「あぁ」と頷いたカグラさんはおもむろに、自分の胸を指す。
 「無力感、自己嫌悪、厭世観、絶望感、要するに、自分が不幸だと感じると『核』が刺激を受けて、呪いが発動してしまう」
 そうして、カグラさんは己の厚い胸板をトントンとリズム良く叩いた。
 「・・・・・・要するに、常に幸福感を抱いていれば、呪いは発動も進行もしないんですか?」
 「ちょっと危ない言い方だけどよ」とカグラさんは口の端を上げる。
 「実際、先程、ヴィアベルさんが見た魔法陣は呪いその物ではなく、呪いを抑え込む為の制御式なのさ」
 「じゃあ、その制御式はカグラさんのご先祖様が呪いを封じる為に考案して、子孫に受け継がせてるんですね」
 すると、そこでカグラさんは困惑交じりの微笑を漏らして、首を大きく横に振って見せた。
 「いいや、奇妙な話になっちまう訳だが、制御式を組み込んだ呪いなんだよ、これ」
 「え!? じゃあ、ご先祖様を苦しめる為に呪いを打ち込んだんじゃないんですか、その術者は」
 「その辺りも曖昧なんだよな、これが。
 ちなみに、組み込まれているのは制御式だけじゃなく、変換式も」
 「変換式?」
 「制御式で強引に抑え続けると、前触れも無く呪いのエネルギーは外へと放出され、周囲に害を及ぼしてしまう、作物が育たなくなったり、疫病が蔓延したり、と。
 術者はそれを危惧したのかどうかは知る事は出来ねぇが、体内に抑え込んだエネルギーを質の異なるエネルギーに変えて循環させる式も一緒に組み込んだ。
 そして、ムラマサの姓を受け継いだ男子は、そのエネルギーでたった一つだけ、魔術を発動させられるんだ」
 「発言する呪いがそれぞれ違うように、使える魔術も違うんですか?」
 「さすがだねえ」とカグラさんは私を感心したように見下ろしてきた。私はその視線がくすぐったくて、思わず顔を伏せてしまう。
 「五代前のご先祖様は磁力操作が可能となり、鋼材を使った、理論上ではありえない形状の作品を生み出す前衛芸術家として名を馳せたそうだ。
 四代前は無機物の声を聞け、魂の形が視えるようになり、どんな物でも修復できる職人として頼りにされたらしい。
 祖父さんは肉体を八色の炎を変えられ、それを生かしてジャグリングを得意とするピエロとなって、サーカスの花形として世界中を回っていたらしいな。
 父さんは氷結魔術に目覚め、主に動物をモデルとした彫刻家として活躍してた。時々、魔物娘殻の依頼も受けてたよ。
 今でも、魔王軍が管理・運営してる美術館の幾つかには、溶けてしまわないよう処理を施された、魔王様をモデルにした氷像が展示されてる。ちなみに、ご先祖様の作品も一緒に置いてあった。
 知ってるかぃ?」
 カグラさんにご先祖様とお父様の名を教えて貰った私はしきりに頷いてしまう。私も、大空に向かって十字槍を雄々しく突き上げている魔王様の氷像を見に行った事があった。当時、色々な事情で私は人間全体に対して、あまりプラスのイメージを抱いていなかったのだが、この氷像を目の前にした瞬間、皮肉にも私の胸の中の不信感は跡形も無く溶けてしまった。
 こんな素晴らしい芸術品を作れる人間がいるなら信じるべきだろうし、逆に自分から交流を深めるべきじゃないだろうか、と考えを改める事が出来たのだ。残念な事に、写真撮影の許可が下りておらず、私は細部まで脳味噌に焼き付けておこうと、閉館時間まで粘ってしまったのも、今ではワインを飲みながら思い出せる話の一つだ。
 「じゃあ、カグラさんが使える魔術は」
 「お察しの通り、身体能力の強化さ、特に走ったり跳んだりと言った下半身の能力が上げられる。
 さすがに、自由に空を飛べねぇから、カラステングやハーピーを始めとした空を飛べる魔物娘には手を焼いちまうが、コカトリスやワーラビットとは良い勝負が出来ると自負してるよ。
 あと、見て分かったと思うが、再生能力も魔物娘並みかね」
 いや、あれだけの深手が一瞬で塞がるのは魔物娘でもドラゴンやヴァンパイア、アヌビスと言った上級種だけだろう。私のようなメドゥーサではあんな攻撃を受けた瞬間に痛みで死んでしまうだろうし、運よく即死しなくても、幾らも経たないうちに酷すぎる出血でやはり命はあるまい。
 「幼い頃こそ、足の速さを生かして陸上選手になれると思っていたんだがね、結局は呪いの副産物であって、自分の実力ではない以上、どれだけ勝ち星を重ねようが、メダルを手に入れようが満足も出来ないし、幸福にもなれないな、と思って、頭を切り替えた。
 そんなこんなで、俺が一生の職業に選んだのは」
 「料理人だったんですね。だけど、どうして」
 「元々、誰かの為に料理を作るのは嫌いじゃなかったし、運動能力や戦闘能力を上げられれば、多少の危ない場所でも行けるし、手強い相手ともそれなりに戦り合える。
 優秀な冒険者は逃げ足が速いものだ、と祖父さんから言われたのも理由の一つかね」
 「なるほど」と私は納得する。
 「あと、料理人なら何処に行っても雇って貰えっし、自分の欲しい『情報』を聞ける機会も増えるだろう、と思った」
 「情報・・・・・・探し物と探し人についてのですか?」
 カグラさんは小さく、首を縦に振る。
 「探している人と言うのは、俺の呪いを解ける力を持っている者なんだが、こちらは実際問題、望み薄だろうなぁ」
 私が眉を寄せると、カグラさんはまた、胸を指先で叩く。
 「この呪い、魔王軍の魔術兵団を指揮してるバフォメットのサジェス様にも匙を投げられちまってるんだよ」
 世界最高峰の魔術を駆使する魔王軍の精鋭の頂点に立つサジェス・コネサンス様でも無理となると、確かに期待は出来ないだろう。
 「魔王様にも、『これは私の手には負えないわねぇ』とも言われちまったんだ。
 なんで、旅の目的は基本、探し物だね」
 「探し物はやはり、食べ物ですか?」
 「・・・・・・本当に、勘が良いんだなぁ、アンタ。
 俺、嫌いじゃないぜ、ヴィアベルさんのような一を聴いて十を知れる女性」
 いきなりの褒め言葉に、私は頭の蛇まで真っ赤になってしまう。
 「大丈夫かよ?」
 心配そうな表情のカグラさんに俯けた顔を覗き込まれそうになった私は慌てて、距離を置く。
 「も、問題ありません」
 「なら良いんだがね。
 俺が探しているのは、端的に言えば、呪いを無効化できる食材だ。
 今現在、人間・魔物娘も含めて世界の住人に知られている食材はまだ一部。
 きっと、この広い世界のどこか、未開の地には未知の食材が隠されているに違いねぇ」
 「ヘビーイチゴのように?」
 「ま、残念ながらハズレだったけどよ、今回も。
 でも、まぁ、目当ての食材じゃなかったとしても、美味しい事には変わらねぇからよ、俺は十二分に幸せになれる、毎回ね。
 とは言え、俺自身と言うか、父さんも祖父さんもこの境遇には困ってねぇんだよ。むしろ、ちょっと強いだけの普通の人間に戻るのは困る。
 ただ、子孫に厄介な魔術が発現してしまった時、そこで呪いの連鎖を絶つ事が叶うように、何だかんだで自由な職に就いてる俺が今から骨を折ってる訳だな」
 カグラさんはカラカラと軽い笑い声を上げる。
 「じゃあ、しばらくは結婚とかは考えてないんですか?」と私が平静を装いながら尋ねると、笑い声を止めた彼はほんの少しだけ眉を困ったように寄せた。
 「そうだなぁ・・・・・・
 厄介事は先に片付けておきたいと言えば聞こえは良いけどよ、やっぱり、もうしばらくは自分の欲求を満たすのが先決かね」
 (だから、寝てる時も気を許さないのね)
 初日以降、私は懲りずにカグラさんに夜這いをかけようとしていたのが、毎度、強烈すぎるプレッシャーに阻まれてしまい、毛布を涙と愛液で濡らしていたのだ。二日目の夜は喘ぎ声を聞かせていたのだが、カグラさんがまるで反応してくれなかったので、逆に恥ずかしくなってしまい、絶頂を迎える前に気持ちが冷めてしまった。
 「ちなみに、理想のタイプは?」
 「料理が上手な人かね」
 「ハ、ハードルが高いっっ」

 街に戻ってきた私とカグラさんは、住人の皆さんに驚嘆と歓喜の悲鳴で出迎えられた。皆、私達が思っていた通り、なかなか帰ってこないので、私は森に棲んでいる魔獣の餌食となり、カグラさんは魔物娘の奴隷にされてしまった、と思っていたらしい。
 だが、どうだ、私の方は生傷こそあったが、両方とも無事な姿で帰ってきたものだから、住人の皆さんが興奮するのも無理はなかった。
 胸の中に飛び込んできて、大声で泣き咽ぶカルムを宥めるのは大変だった。
 翌日、カグラさんが手間隙かけて作った、ヘビーイチゴのジャムと私の作ったラスクが配られた。良いタイミングで、アンブルさんも依頼を片付けて街に帰ってきていた。
 街の皆さんは初めて見るヘビーイチゴに驚いていたようだったが、その味にはやはり、顔色と言葉を失っていた。私の作ったラスクでジャムを台無しにしてしまうんじゃないか、と不安だったのだが、皆さん全員、ラスクも美味しいと褒めてくれ、安心した。
 アンブルさんは街に帰ってくる途中で、カグラさんが自分の予想していた者だと確信したようで、彼の顔を見るなり、背中の鞘からトゥーハンドソードを抜いて勝負を挑んできた。
 食材を捌く以外では、ニホントー(名は『クロジシ』と言うらしい)は抜きたくないと断ったが、「お願いだ」と食い下がられ土下座をされてしまって、ついに根負けしたらしく、渋い表情で首を横に振った。
 だが、リザードマンの性質をよく知っていたらしい、カグラさんは決して自分から攻撃せず、並みの男なら失禁してしまいそうな咆哮を上げるアンブルさんの猛攻をまるで風に逆らわない柳の葉を思わせる華麗な回避を見せ、彼女を柔らかな微笑を浮かべて翻弄し続けた。まるで、最初から最後まで申し合わせて段取りをしっかりと付けられている剣舞を見ているようだった。
 結局、それは一時間も続き、これ以上はアンブルさんの方が危険だと判断した町長さんが「そこまで」と声をかけ、強引に間に割り込んだ事で終わった。 傍目から見れば、勝者はカグラさんな訳だったが、結果としては引き分けになった。
 勝負の後、喉を焼くようなウィスキーを生で飲みながら、アンブルさんはまるで本気を出していなかったカグラさんに「今度、どこかで会ったら容赦しないぞ」と息巻いていた。ジンを注いだグラスを回しながら、飄々とした微笑を口許に携えたカグラさんは「楽しみにしてるっす」と、彼女がまるで抑える気も無い闘気を安々と受け流していた。

 翌日から、カグラさんはまだまだ大鍋いっぱいに残っているジャムを、次々と持って来られる小瓶に惜しむ事なく分けてあげた。アンブルさんは「もったいないな、王族にでも売れば、相当な旅費になるだろうに」と眉を顰めていたが、小さく首を横に振ったカグラさんは手作りのジャムパンを彼女の愚痴を零す口の中に突っ込んだ。
 「旅費には今の所、困っちゃいない。
 俺は料理人だから、作った料理を大勢の人に食べて貰って、その笑顔を見る方が、舌の肥えている貴族に食べられるより幸せを何倍も感じるのさ
 それに、また食べたくなったら、採りに来れば良いだけさ」
 「え?」と私が驚くと、カグラさんはまだあの森には、自分達が収穫した物以外にもヘビーイチゴが成っている筈だ、と嬉しそうにした。もっとも、それを守っていたり、狙っている獣の強さも相当だろうがね、と付け加えていたが。
 三日後、ヘビーイチゴのジャムは小瓶一つ分を残して、全て街の人々に分けられた。
 カグラさんは再び、『蠅王の喰蔵庫』を召喚し、這い出てきた腕の一本にジャムを詰めた小瓶を「レンタル代だと言って、あの御方に渡しておいてくれ」と告げて渡した。腕自体にそれなりの意思があるのか、ぎこちない動作でOKサインを出した後、カグラさんが差し出していた手から半ば奪うようにして小瓶を掴むと、すぐさま扉の中に引っ込んだ。

 「カグラさん、これからどうするんですか?」
 たまたま、街を訪れたサーカスに鬼熊の干し肉を売って、当座の旅費を難なく稼いだカグラさんと、喫茶店でお茶を飲んでいた私はさりげなく尋ねてみた。
 「さて、どうしようかねぇ」と少し気の抜けた様子でカグラさんは、ミルクを渦を描くようにして注いだ紅茶をゆっくりとスプーンで混ぜながら遠くを見つめた。
 「ヘビーイチゴに関しては、前に働いていた貴族のお屋敷の図書室で知ったんだ。
 しばらくは、旅費が無くなるまでブラブラしてみようかな、とは思っちゃいるんだが」
 「そうですか・・・・・・」
 カグラさんがカップをそっと受け皿に置き、私が胸の中で渦巻かせていた言葉を意を決して言おうとした時だった、「郵便でーーーす」と元気欲叫びながら、鞄を担いだハーピーが喫茶店の前に降り立ったのは。
 「貴方がカグラさんですかー?」
 間延びした声で尋ねられたカグラさんは「あぁ、俺がカグラ・ムラマサだが」と若干の驚きを滲ませながら頷く。
 「お手紙でーす。これにサインか印鑑をくださーい」
 帽子を少し傾けて笑ったハーピーはカグラさんに一通の手紙と受取証を差し出した。カグラさんは受取証にサインを書き殴り、手紙を受け取る。
 「何かお出しになる郵便物はございますかぁ?」
 「いや、今は無いな」
 「では、また何かありましたら、団扇印の天狗便をご贔屓にして下さい」
 ビッと右の翼で敬礼をしたハーピーは地面を軽く蹴って跳び上がると、一つ両の羽で空を打って彼方に飛んでいった。
 「誰からだ? ・・・・・・キサラギか」
 「キサラギ? ・・・・・・あぁ、この間、火山ガスで凶暴になっちゃったミノタウロスの一団をたった一人、かつ誰も殺さずに制圧して、ランキング二〇位になった二刀流の剣士のキサラギ・サイノメですか?」
 「その、キサラギ・サイノメだ。
 あぁ、前の職場から転送されてきたのか」
 カグラさんは封を切って、中に入れられていた手紙を読み出したが、次第に穏やかだった表情が興奮で赤らみ出した。しかも、笑い方が、体に刻まれている『呪印』も発動している時のそれに近しくなっている。
 「ど、どうかしたんですか、カグラさん?」
 彼がその長躯からまるで抑えずに全力で放っている気迫に、肌を容赦なく打たれてしまった私は胃に、針で突かれるような痛みを覚えつつ聞いてみた。
 すると、一際、口の右端を高々と吊り上げたカグラさんが私の方に向き直る。
 「次に行く場所が決まった」
 「え? どこへ行かれるんですか?」
 「スヴェトリャーク」
 カグラさんが口にした地名は、ここから早馬で二日半ほどの所にある港町だった。
 私はカグラさんに手紙を読ませてもらう。

 拝啓
 お久しぶりです、神楽さん
 お元気でしょうか
 私は以前と変わらず、風任せ波任せ運任せの一人旅を送っております
 ついこの間には、やっとランキング入りを果たせました
 これに驕らず、神楽さんを追い越せるよう頑張る所存です

 突然のお手紙、驚かせてしまったと思います
 実は、神楽さんとコンビを組んでいた頃、旅の途中で知り合ったディアモンさんに頼まれて、ある貴族の船旅の護衛団に雇われていたんですが、海底に沈んでいた海賊船の財宝調査をした際に成り行きでクロガネマグロの捕獲に成功しました
 いきなり、こんなお願いを、しかも手紙でするのも不躾だとは思うのですが、私では最高の味を閉じ込めたままで、150kgもあるクロガネマグロを捌くのは不可能ですし、放っておけば味が更に落ちてしまうと判断した為、この手紙を書きました
 私は現在、スヴェトリャークにおります。
 クロガネマグロは術で周囲の時を凍らせて貰ってあるので、しばらくは保つ筈です
 もし、可能でしたら、早急に足を運んで頂ければ幸いです
 草々

 追伸
 ディアモンさんは神楽さんに、かなり会いたがっていました。むしろ、私ではなくカグラさんに護衛の仕事を頼みたかったようです
 あの事件のことで、顔を合わせたくないお気持ちは察しますが、あまり蔑ろにされると、余計に鬱憤が溜まってしまうと思われます。私は世界が平和な方が助かります

 「クロガネマグロ!?」
 手紙の途中に出てきた超が三つ付いてもおかしくない高級魚に私は目を剥いてしまい、頭の蛇も思わず天に向かって真っ直ぐに成ってしまう。
 200kg超えなら、中規模の城なら余裕で建てられる値段で競り落とされても不思議じゃない魚だが、幻の魚と言われる所以はそこではない。
 素人どころか、玄人の漁師ですら捕獲が難しいからだ。
 時速250km以上で海中を泳ぐのも捕れない原因の一つなのだが、このクロガネマグロ、半端じゃなく硬い。「海のミサイル」の異名で呼ばれるクロガネマグロは止まれない。止まったが最後、心臓が止まってしまうからだ。また、表皮が硬すぎて鰭も尾も自分の思うように動かさず、基本的に直進しか出来ない。
 そして、自分の進路に障害物があった場合、真っ直ぐにしか泳げないクロガネマグロが出来る行動は一つ・・・やはり、直進、しかも、障害物を容赦なくブチ抜いて。
 実際、魔王軍の戦艦はこのクロガネマグロに横っ腹に穴を開けられてしまい、沈められた過去があった。その為、そんな物騒な魚を釣り上げようとする漁師など現れる筈などなく、年に一人か二人、命知らずの冒険者が挑んで海の藻屑にされる。大体の船は、レーダーなどでクロガネマグロの進路を事前に調べて、自分達の方から避けているのだ。
 そんなクロガネマグロを捕まえる、とは、キサラギと言う剣士、只者ではあるまい。手紙にはカグラさんとコンビを組んでいた頃、とあるから、その実力はカグラさんに認められるほどに違いない。

 「すぐに発つんですか?」
 「キサラギがクロガネマグロを捕まえたのは二日前。
 その硬い皮のおかげで、すぐに味が落ちてしまうような魚じゃありゃしねぇが、速いに越した事はないからな」
 既に、カグラさんの頭と心は至高の食材で埋め尽くされかけているようで、その目は遠くを見出していた。
 今、この瞬間を逃してはならない、と生まれて初めてと言っても過言じゃない直感に後押しをされた私は勢いに任せる。
 「あの、後払いの報酬の件なんですけど」
 そこで、はたと我に返ったカグラさんはポンと手を強めに打った。
 「そうだった、そうだった、すぐに小切手を書いちまうわ」
 だが、私は鞄に手を伸ばしかけたカグラさんの手を渾身の邪視で止める、もっとも、一秒と経たずに魔力を弾かれてしまい、反動で脳の奥に鋭い痛みを覚えてしまったが。
 「・・・・・・どうかしたかぃ?」
 予想していたとは言え、キツい痛みに目を顰めてしまった私を、鞄から手を遠ざけた彼は心配そうに見つめてきた。
 「お金はいりません」
 「? 現物支給がお望みか?」
 「いいえ」
 昂ぶる心臓を宥めるように胸を幾度か撫でた私は、一つ息を大きく吐き出してからカグラさんに頭を、髪の蛇ごと勢いよく下げる。
 「私をカグラさんの旅に同行させて下さいっっっ!!」
 あの危険な場所から帰ってきて、干した薬草の粉末を溶かしたお風呂で人心地ついている時、私の疲れきって尾の先まで重い体は不思議と満足感に満たされていた。お湯に溶けている薬草の効果で塞がり出している、刺々しい葉や尖った枝先で切れた腕の傷が妙に愛おしくなった。
 (ホント、短い間に色々な事がギュッと凝縮されてた)
 私は傷にお湯をかけながら腕をゆっくりと撫で、胸が躍った事や怖かった事を思い出してみた。
 そして、生きて帰ってこれた事を本当に嬉しく思えた。
 その瞬間、私の脳内で稲妻が疾走った。
 (あれだけの体験をしても、私は自分がやりたい事を見つけられなかった、と思ってた。
 だけど、違ったのね。
 私が初めて「こうしたい」って心の底から思ったのは、こんな明日をも知れぬ旅だったんだわ。
 今は興奮でそんな勘違いをしているのかも知れない。
 だけど、今の私は旅を、いいえ、カグラさんと一緒に世界を巡ってみたい、どんなに危険な場所でもいいから。
 きっと、カグラさんに着いて行かずに、微温湯のような変化に乏しい生活を送り続けたら、私は寿命を迎えた時、きっと、最後の瞬間に激しい後悔に襲われてしまう。
 本当に旅の途中で命が、息を吹きかけられた蝋燭みたいに一瞬で消えるような事になってしまっても、そんな最後よりよほどマシだわ)
 いざ、口に出してみると、私は胸の中で猛っていた自分の考えを巧く伝えられなかった。
 だが、カグラさんは椅子に腰を下ろし直して右目を閉じたままで、次第に興奮しだしてしまって余計にたどたどしくなってきた言葉を重ねる私の、旅への憧れ、輪郭がボヤけたままの夢についての話を、我慢強く最後まで耳を傾けてくれていた。
 そうして、おもむろに立ち上がったカグラさんは頭を冷やすためにレモンスカッシュを一気飲みしている私を冷たいが不思議と穏やかな瞳で見下ろす。
 「足手まといだと判断したら、遠慮なく、魔獣が闊歩する密林の中、弾丸の雨が降り注ぐ戦地でも置き去りにするぜ、俺ぁ」
 「!? じゃあ、一緒に」
 「さっきも言ったが、俺はさっさと出発してぇ。
 世話にはなったから、少しは待つが、準備に手間取るようだったら、遠慮しないで先に出立させて貰うぜ」
 その言葉に慌てた私は大きく頷いて、自分の代金を支払うと喫茶店を飛び出た。

 二十分後、大事な物だと迷わずに言える物と今回のヘビーイチゴ収穫で役立った道具を詰め込んでパンパンに膨らんだ鞄を背負って戻ると、カグラさんは丁度、支払いを終えて店を出て来た所だった。
 「おや、いいタイミングだな」
 「これからお世話になります!!」
 「こちらこそ」
 カグラさんは柔らかい笑顔を浮かべ、私に一目で厳しい修行を重ねてきたと想像させる右手を堂々と差し出してきた。一瞬こそ迷ってしまった私だったが、彼の自分を真っ直ぐに見つめてくれている瞳で肚も決まり、掌の汗をシャツの裾で丁寧に拭ってから、カグラさんの大きく逞しい手をそっと握った。
 「ところで・・・・・・キサラギ、さんはあのクロガネマグロをどうやって仕留めたんでしょう?」
 「キサラギは親父さん譲りの、内部破壊の技を持っているんだよ。
 アイツの『ハッケイ』の前じゃ、どんなに堅固で重厚な鎧も無意味なのさ。
 俺もアレを一発でも貰ったら、足を止められるかもな」
 一体、どんな技だというのだ、そのハッケイとは・・・・・・
 「ちなみに、カグラさんはクロガネマグロを捌いた事は?」
 「修行時代に、50kgクラスの物を一度だけ。
 それにしたって、次の日、筋肉痛になるくれぇ、全力で鋸を引かなきゃならなかった。しかも、鋸を五回も代えなきゃならなかった」
 150kgとなると、大仕事になっちまうぜ、ホント。
 キサラギももうちょっと、サイズを落としてくれればいいものを」
 渋い口調で言いつつもそう言いつつも、カグラさんは嬉しそうだった。
 (あぁ、この人にとって、世界は大きな食糧庫なのね)
 「さぁ、行くか、ヴィアベルさん。まだ味わっていない食材を食べるべく」
 「はい!!」
 こうして、私は、これまでの生き方を踏まえた上で新しい自分を見つける為の長くも、充実するであろう旅へ出た。
11/06/11 22:39更新 / 『黒狗』ノ優樹

■作者メッセージ
 「どうかしましたか、カグラさん?」
 「え?」
 「いえ、何だか懐かしそうな表情をしていたので」
 「そんな顔をしてたか、俺は。
 いえね、ヴィアベルさんと初めて会った日の事、そして、貴女が私と一緒に旅を始めた日の事を不意に思い出した」
 「・・・・・・何とか、置き去りに済んでますね、今の所は」
 「実際、俺は半年の内にギブアップするか、命を落とすと思ってたよ、今だから白状するがね」
 「ひ、ひどいですね」
 「でも、ヴィアベルさんは何だかんだで生き延び、自身のスキルを上げてきた。
 今や、アンタは立派な食材ハンターで、実に有能な助手に成長したと思うよ、俺は」

二作目完成です
ちなみに、私、島袋先生の『トリコ』が大好きです

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