〜序〜 稲荷姫と若殿様
ジパングのある地方、蜜河の国は妖怪の多く棲まう地として知られている。
国の中心にはこの地方最大の稲荷宮があり、九つの尾と白銀の髪を持つ稲荷『白瑠璃』が、その神通力を以てこの地に豊穣をもたらしている。
その為かこの国の人々は妖怪に対して他のジパングの国にも増して友好的であり、この地を治める国主『豊河氏』も白瑠璃を初めとする稲荷の一族を祭司として保護し、町で人と共に住むその他の妖怪達を庇護すべき領民として遇してきた。
また稲荷の一族以外にも古くから妖怪が多く、北の山地に棲むカラステングや雪女の一族、山地から無数に流れる河川に住まう河童達、南の海の妖怪達との交易は、この国を大いに栄えさせてきたのである。
だが魔王が代替わりは決して小さくない波として、この国にも押し寄せて来ようとしていた。
蜜河の国の国府、瑠璃宮の町には、二つの中心がある。
一つは町の中心そびえる国主豊河氏の居城、瑠璃宮城。
そしてもう一つが、町の東の丘に鎮座するこの地方の稲荷宮の総本山、蜜河大明神。
その奥ノ院にて、今一組の男女が向き合っていた。
男は元服直後と思しき若武者。先ごろ先代より豊河当主の座を受け継いだ、蜜河の国主、豊河政景。
女は白銀の巫女姫。代々この地に豊穣をもたらしてきた九尾の稲荷、白瑠璃御前。
蜜河の国における人と妖怪の両巨頭。
この二人は、今ある問題に対し頭を悩ませていた。
「では、やはり確かでしたか…」
「ええ、此度の異変、原因は他に無いわ」
苦い顔の政景と憂いを浮かべた白瑠璃。
二人が確かめ合ったのは、ある事実。
つまり、魔王の代替わり。
ある日それは唐突に起きた。
町に住まう妖怪たちの姿が女性へと姿を変わっていったのだ。
この地を治める国主 政景は、この大異変に対し原因を方々にわたり調べさせた。
そして分かったのが、全ての魔物が淫魔化しつつあるという事実だった。
幸い、この地にすむ妖怪たちは元々の気性からか、異国のように男を積極的に襲うと言う事はなく、表向きに大きな混乱はない。
しかし元々妖怪の多いこの地は魔力の影響も大きい。
幾つかの事例から、このまま放置したならばこの国は早々に魔界と化すことが予想された。
その為、政景は何らかの打開策を求め、白瑠璃の元へと知恵を求めたのである。
「魔物からは人や魔物の男は生まれず、魔物は容易に人を魔物にできる、か。随分歪だが、それが今後の世の道理とは…」
「そう、それが新たなる魔王の影響…でも、彼女の望んだ形には今一歩届いていないわ。主神と呼ばれる者の影響はまだ覆せない」
魔王の魔力による影響は、着実に世界を覆い始めている。
魔王が望んだ、人類と魔物を1つの種族に統合する姿も、何時かは叶うのかもしれない。
だが…
「それが何時かは判らぬ以上、我は国主としてこの地を魔界化は避けねばなりません」
今の時点で国が魔界に沈むというのは、ただ国が亡ぶだけでなく、この地の安寧が脅かされることでもある。
魔王の代替わり後、近隣の国に主神信仰が入り込んでおり、周辺国から迫害された妖怪が流れてくるという事例が増えてきている。
もし蜜河が魔界化したならば、この国は主神派の近隣の侵略に大義名分を与え、侵攻を受けるのは必至。
その際、国として体を為していなければ、この地には悲劇が満ちる事になるだろう。
だからと言って、この地の繁栄と平和は妖怪とともにもたらされてきた以上、彼女たちを排斥することなどできはしない。
それこそ、自ら喉を突くに等しい行いだ。
何より、もし仮に妖怪を排斥せねばならないとしたら、この地で最も力を持つ妖怪が標的となる。
それは誰有ろう、白瑠璃に他ならない。
政景にとって、それは絶対に避けねばならない事態だ。
何故なら、
「姉上、何か良い手はありましょうか?」
「…太郎坊、妾をそう呼ぶのはおよしなさい。もうそなたは一人前の国主です。みだりに妾を上に置くようでは、下々にも示しがつかぬでょう?」
「姉上こそ、我を幼名で呼んでいるではないですか」
政景にとって白瑠璃は、国主が国を守護する神を貴ぶ以上に、幼い頃から慕った姉のような存在だからだ。
元々国主豊河一族は、古くから稲荷一族と親交が深かった。
中でも政景は白瑠璃の特にお気に入りであり、稲荷としての祭礼の合間を見ては政景と共にいるたことは有名であった。
故に、お互いごく親しい者達のみの場では、幼名で呼ばれていた頃のように接してしまうのだった。
「まぁ、今はそれはいいでしょう………この地を魔界とせず、同時に妖怪も保護し、その上で他国の侵略から蜜河を守る……難題ですわね」
「……されど、何らかの方法で、これらを為さねばなりません」
この国に住まう多くの人妖は、政景達のような親しい関係をこれまで結べてきた。
仮に妖怪が皆女性になるだけなら、その結びつきの多くが男女の仲と化すだけでいっそこれまで以上に関係が良好になるだけだっただろう。
それだけに、何らかの方法で対策さえ打て得るなら、この地はこれまで以上に栄える可能性もあった。
「せめて、魔界化や魔物化がある程度御し得るなら…」
そう、魔界化や無差別に人が魔物と化さなければ、それは可能だと政景は感じている。
「………太郎坊、それができれば、何か方策はあるのですね?」
「ええ、法令にてある程度は。無暗に魔界と化さず、人の妖怪化を制御し得るならば」
政景は強く頷く。
それを見ると、白瑠璃はおもむろに己が頭に手をやると、美しい白銀の髪を一本抜き取り、何やら唱え始めた。
すると、白銀の髪の毛はするりとひとりでに宙に流れ出ると政景の手首に巻きつき、次の瞬間美しい組紐の腕輪へと変わっていた。
「…姉上、これはいったい?」
「太郎坊、稲荷の魔力の制御の事は、以前教えておいたわね? これはそのカギとなるものよ」
「…魔力の制御というと、大陸の妖狐が魔力をただ周囲に放射するのとは違い、稲荷は魔力を特定の場所へ向け得るという、あれですか」
己が手首に巻かれた純白の組紐を不思議そうに眺める政景。白瑠璃は身を乗り出し、そっと組紐と政景の手に触れる。
「あ、姉上?」
「稲荷の魔力の制御は、淫魔となっても同じように扱えるの。淫魔となった稲荷は、夫となる相手に自分から溢れる魔力を集中させる…そうすることで、夫は魔力に狂い、稲荷と睦みあう事だけを望むようになるの」
チロリと整った唇から、朱い舌をのぞかせる白瑠璃。
いつしか、只触れられていただけのはずの政景の手は、白い蛇女が絡みつくが如くに熱く握りしめられていた。
同時に、組紐が巻きついている手首が、熱く乾くように疼く。
「こ、これは…姉上、まさか!?」
「……ごめんね、太郎坊…皆にあがめられてる妾でも、魔王の魔力には逆らえなかったみたい…でも、安心なさい。その組紐がある限り、そなたが妖怪となる事は無いわ」
「…それはいったいどういう…っ?」
淫魔たる稲荷と化した白瑠璃の言葉に疑問を唱える間もなく、政景は白瑠璃の豊かな胸元へと抱き寄せられる。
甘い蕩ける様な香りが、政景の疑念や驚きを絡みとり、甘い蜜のような陶酔へと消してゆく。
「詳しい説明は、もう少し後に、ね。今は…妾の渇きを癒させて……」
政景の口元へ濡れた白瑠璃の唇が下りてゆく。
数瞬前まで澄ました表情だったはずの白瑠璃の顔は、今は情欲と愛欲に熱く染まっていた。
「……太郎坊……愛して、いるわ」
「あ、姉…う、え…」
――奥ノ院に響く嬌声は、元々そうあるのが定められていたかのように、他の誰にも届く事は無かった。
「……身代わり? 魔力のですか?」
「そう。その組紐は、身に着けた者がその身に魔力を送り込まれたときに、魔力の受け皿となるの。稲荷が夫に魔力を集中させるのと同じで、組紐は身に着けた者へ送られる魔力を集めるの。だから、人が妖怪化するほどには体内に魔力をためないで済む…少なくても、妖怪化する最後の一線を越えさせないように出来るわ。私のような九尾と契って、まだ人の身である太郎坊自身がその証拠よ」
「…自らの身で実験することになるとは」
いつの間にか用意されていた寝具の上、胸元に甘えてくる白瑠璃の言葉に苦笑しながら、政景は自己嫌悪せずにはいられずにいた。
こう見えて、政景は既に正妻、黒絹姫がいる。この場に居ない妻に内心平謝りする政景に、白瑠璃は苦笑する。
黒絹もまた、白瑠璃を姉のように慕う少女だった。そして内密に女同士戯れあう仲でもある。
今宵の事も実は先以て知らせて了承を得ており、実際知らぬのは政景だけという有様だった。
とはいえ政景にしてみれば、九尾の稲荷である白瑠璃であるならと、妖怪化への対策を相談しに来たのである。
それが見事に獲物となり、自ら口中へ潜り込むにも等しいとなれば、頭を抱えたくもなる。
今思えば、奥ノ院に他の誰もいないことを考えても、政景が来た時点でこうなることは火を見るより明らかだったらしい。
だが、腕に巻きつく純白の組紐は、ここに来たことが無駄ではないと示していた。
「稲荷の組紐を身に着けさせれば、男女ともに妖怪化は防げるわ」
「逆に、妖怪になろうと望むなら?」
「その時は、組紐へかけた術を解けばいいの。そうすれば、組紐の中にため込んだ魔力が一気に体内に還元されて、妖怪となるでしょうね」
「なるほど…姉上、先に言った方策ですが、これで目途が付きそうです」
政景は一人頷いた。これならば、ある程度の妖怪化への制御が可能だろう。であれば、政景の考える法令も現実味を帯びる。
あと一つ、土地の魔界化さえどうにかなれば。
「それだけじゃないわよ、太郎坊。同じことは蜜河の領地そのものにも可能よ」
「……どういうことですか?」
「この国自体に陣を布くわ。効果は同じね…違うのは、組紐の代わりにこの蜜河稲荷宮の領域を使う事、ね」
「!? それではここがすぐさま魔界にっ」
「…当然参道と祭殿は、参拝者のために外すわ。でも、それ以外の領域は…遠からず、そうなるでしょうね」
「姉上…」
たしかに、その方法ならば、この国自体は魔界化を免れるだろう。だが…これでは、白瑠璃達稲荷の一族にその労苦を背負わせるようなものではないか。
「そんな顔をしないのよ、太郎丸。妾たちはもう淫魔となる道は避けられない。でも、遠く未来にかけてこの国を守ろうと願うそなたと、この国の民の安寧の為なら…ね。それに、そなたの方策には都合がよいでしょう?」
確かに、その通だった。
白瑠璃がなそうという助力は、政景の思う方策を後押しする。
ならば、後は国主として政景が力を振るうべきだ。
「ええ…明日にも、法令を布こうと思います」
この後、蜜河の国にはいくつかの有名な法令が施行されることとなる。
一つ、妖怪も領民とす。
一つ、みだりに妖怪化するべからず。
一つ、多妻を認む。但し、一人は人間である事。
一つ、人間同士で3人以上子をなした場合、妖怪化を認む。
一つ、上記に反した場合、労役または税務等の罰則を行う。
人妖令と呼ばれたこの法は、蜜河の国が明確に人と妖怪が共に歩むことを選んだ証として広く知られてゆく事になる。
国の中心にはこの地方最大の稲荷宮があり、九つの尾と白銀の髪を持つ稲荷『白瑠璃』が、その神通力を以てこの地に豊穣をもたらしている。
その為かこの国の人々は妖怪に対して他のジパングの国にも増して友好的であり、この地を治める国主『豊河氏』も白瑠璃を初めとする稲荷の一族を祭司として保護し、町で人と共に住むその他の妖怪達を庇護すべき領民として遇してきた。
また稲荷の一族以外にも古くから妖怪が多く、北の山地に棲むカラステングや雪女の一族、山地から無数に流れる河川に住まう河童達、南の海の妖怪達との交易は、この国を大いに栄えさせてきたのである。
だが魔王が代替わりは決して小さくない波として、この国にも押し寄せて来ようとしていた。
蜜河の国の国府、瑠璃宮の町には、二つの中心がある。
一つは町の中心そびえる国主豊河氏の居城、瑠璃宮城。
そしてもう一つが、町の東の丘に鎮座するこの地方の稲荷宮の総本山、蜜河大明神。
その奥ノ院にて、今一組の男女が向き合っていた。
男は元服直後と思しき若武者。先ごろ先代より豊河当主の座を受け継いだ、蜜河の国主、豊河政景。
女は白銀の巫女姫。代々この地に豊穣をもたらしてきた九尾の稲荷、白瑠璃御前。
蜜河の国における人と妖怪の両巨頭。
この二人は、今ある問題に対し頭を悩ませていた。
「では、やはり確かでしたか…」
「ええ、此度の異変、原因は他に無いわ」
苦い顔の政景と憂いを浮かべた白瑠璃。
二人が確かめ合ったのは、ある事実。
つまり、魔王の代替わり。
ある日それは唐突に起きた。
町に住まう妖怪たちの姿が女性へと姿を変わっていったのだ。
この地を治める国主 政景は、この大異変に対し原因を方々にわたり調べさせた。
そして分かったのが、全ての魔物が淫魔化しつつあるという事実だった。
幸い、この地にすむ妖怪たちは元々の気性からか、異国のように男を積極的に襲うと言う事はなく、表向きに大きな混乱はない。
しかし元々妖怪の多いこの地は魔力の影響も大きい。
幾つかの事例から、このまま放置したならばこの国は早々に魔界と化すことが予想された。
その為、政景は何らかの打開策を求め、白瑠璃の元へと知恵を求めたのである。
「魔物からは人や魔物の男は生まれず、魔物は容易に人を魔物にできる、か。随分歪だが、それが今後の世の道理とは…」
「そう、それが新たなる魔王の影響…でも、彼女の望んだ形には今一歩届いていないわ。主神と呼ばれる者の影響はまだ覆せない」
魔王の魔力による影響は、着実に世界を覆い始めている。
魔王が望んだ、人類と魔物を1つの種族に統合する姿も、何時かは叶うのかもしれない。
だが…
「それが何時かは判らぬ以上、我は国主としてこの地を魔界化は避けねばなりません」
今の時点で国が魔界に沈むというのは、ただ国が亡ぶだけでなく、この地の安寧が脅かされることでもある。
魔王の代替わり後、近隣の国に主神信仰が入り込んでおり、周辺国から迫害された妖怪が流れてくるという事例が増えてきている。
もし蜜河が魔界化したならば、この国は主神派の近隣の侵略に大義名分を与え、侵攻を受けるのは必至。
その際、国として体を為していなければ、この地には悲劇が満ちる事になるだろう。
だからと言って、この地の繁栄と平和は妖怪とともにもたらされてきた以上、彼女たちを排斥することなどできはしない。
それこそ、自ら喉を突くに等しい行いだ。
何より、もし仮に妖怪を排斥せねばならないとしたら、この地で最も力を持つ妖怪が標的となる。
それは誰有ろう、白瑠璃に他ならない。
政景にとって、それは絶対に避けねばならない事態だ。
何故なら、
「姉上、何か良い手はありましょうか?」
「…太郎坊、妾をそう呼ぶのはおよしなさい。もうそなたは一人前の国主です。みだりに妾を上に置くようでは、下々にも示しがつかぬでょう?」
「姉上こそ、我を幼名で呼んでいるではないですか」
政景にとって白瑠璃は、国主が国を守護する神を貴ぶ以上に、幼い頃から慕った姉のような存在だからだ。
元々国主豊河一族は、古くから稲荷一族と親交が深かった。
中でも政景は白瑠璃の特にお気に入りであり、稲荷としての祭礼の合間を見ては政景と共にいるたことは有名であった。
故に、お互いごく親しい者達のみの場では、幼名で呼ばれていた頃のように接してしまうのだった。
「まぁ、今はそれはいいでしょう………この地を魔界とせず、同時に妖怪も保護し、その上で他国の侵略から蜜河を守る……難題ですわね」
「……されど、何らかの方法で、これらを為さねばなりません」
この国に住まう多くの人妖は、政景達のような親しい関係をこれまで結べてきた。
仮に妖怪が皆女性になるだけなら、その結びつきの多くが男女の仲と化すだけでいっそこれまで以上に関係が良好になるだけだっただろう。
それだけに、何らかの方法で対策さえ打て得るなら、この地はこれまで以上に栄える可能性もあった。
「せめて、魔界化や魔物化がある程度御し得るなら…」
そう、魔界化や無差別に人が魔物と化さなければ、それは可能だと政景は感じている。
「………太郎坊、それができれば、何か方策はあるのですね?」
「ええ、法令にてある程度は。無暗に魔界と化さず、人の妖怪化を制御し得るならば」
政景は強く頷く。
それを見ると、白瑠璃はおもむろに己が頭に手をやると、美しい白銀の髪を一本抜き取り、何やら唱え始めた。
すると、白銀の髪の毛はするりとひとりでに宙に流れ出ると政景の手首に巻きつき、次の瞬間美しい組紐の腕輪へと変わっていた。
「…姉上、これはいったい?」
「太郎坊、稲荷の魔力の制御の事は、以前教えておいたわね? これはそのカギとなるものよ」
「…魔力の制御というと、大陸の妖狐が魔力をただ周囲に放射するのとは違い、稲荷は魔力を特定の場所へ向け得るという、あれですか」
己が手首に巻かれた純白の組紐を不思議そうに眺める政景。白瑠璃は身を乗り出し、そっと組紐と政景の手に触れる。
「あ、姉上?」
「稲荷の魔力の制御は、淫魔となっても同じように扱えるの。淫魔となった稲荷は、夫となる相手に自分から溢れる魔力を集中させる…そうすることで、夫は魔力に狂い、稲荷と睦みあう事だけを望むようになるの」
チロリと整った唇から、朱い舌をのぞかせる白瑠璃。
いつしか、只触れられていただけのはずの政景の手は、白い蛇女が絡みつくが如くに熱く握りしめられていた。
同時に、組紐が巻きついている手首が、熱く乾くように疼く。
「こ、これは…姉上、まさか!?」
「……ごめんね、太郎坊…皆にあがめられてる妾でも、魔王の魔力には逆らえなかったみたい…でも、安心なさい。その組紐がある限り、そなたが妖怪となる事は無いわ」
「…それはいったいどういう…っ?」
淫魔たる稲荷と化した白瑠璃の言葉に疑問を唱える間もなく、政景は白瑠璃の豊かな胸元へと抱き寄せられる。
甘い蕩ける様な香りが、政景の疑念や驚きを絡みとり、甘い蜜のような陶酔へと消してゆく。
「詳しい説明は、もう少し後に、ね。今は…妾の渇きを癒させて……」
政景の口元へ濡れた白瑠璃の唇が下りてゆく。
数瞬前まで澄ました表情だったはずの白瑠璃の顔は、今は情欲と愛欲に熱く染まっていた。
「……太郎坊……愛して、いるわ」
「あ、姉…う、え…」
――奥ノ院に響く嬌声は、元々そうあるのが定められていたかのように、他の誰にも届く事は無かった。
「……身代わり? 魔力のですか?」
「そう。その組紐は、身に着けた者がその身に魔力を送り込まれたときに、魔力の受け皿となるの。稲荷が夫に魔力を集中させるのと同じで、組紐は身に着けた者へ送られる魔力を集めるの。だから、人が妖怪化するほどには体内に魔力をためないで済む…少なくても、妖怪化する最後の一線を越えさせないように出来るわ。私のような九尾と契って、まだ人の身である太郎坊自身がその証拠よ」
「…自らの身で実験することになるとは」
いつの間にか用意されていた寝具の上、胸元に甘えてくる白瑠璃の言葉に苦笑しながら、政景は自己嫌悪せずにはいられずにいた。
こう見えて、政景は既に正妻、黒絹姫がいる。この場に居ない妻に内心平謝りする政景に、白瑠璃は苦笑する。
黒絹もまた、白瑠璃を姉のように慕う少女だった。そして内密に女同士戯れあう仲でもある。
今宵の事も実は先以て知らせて了承を得ており、実際知らぬのは政景だけという有様だった。
とはいえ政景にしてみれば、九尾の稲荷である白瑠璃であるならと、妖怪化への対策を相談しに来たのである。
それが見事に獲物となり、自ら口中へ潜り込むにも等しいとなれば、頭を抱えたくもなる。
今思えば、奥ノ院に他の誰もいないことを考えても、政景が来た時点でこうなることは火を見るより明らかだったらしい。
だが、腕に巻きつく純白の組紐は、ここに来たことが無駄ではないと示していた。
「稲荷の組紐を身に着けさせれば、男女ともに妖怪化は防げるわ」
「逆に、妖怪になろうと望むなら?」
「その時は、組紐へかけた術を解けばいいの。そうすれば、組紐の中にため込んだ魔力が一気に体内に還元されて、妖怪となるでしょうね」
「なるほど…姉上、先に言った方策ですが、これで目途が付きそうです」
政景は一人頷いた。これならば、ある程度の妖怪化への制御が可能だろう。であれば、政景の考える法令も現実味を帯びる。
あと一つ、土地の魔界化さえどうにかなれば。
「それだけじゃないわよ、太郎坊。同じことは蜜河の領地そのものにも可能よ」
「……どういうことですか?」
「この国自体に陣を布くわ。効果は同じね…違うのは、組紐の代わりにこの蜜河稲荷宮の領域を使う事、ね」
「!? それではここがすぐさま魔界にっ」
「…当然参道と祭殿は、参拝者のために外すわ。でも、それ以外の領域は…遠からず、そうなるでしょうね」
「姉上…」
たしかに、その方法ならば、この国自体は魔界化を免れるだろう。だが…これでは、白瑠璃達稲荷の一族にその労苦を背負わせるようなものではないか。
「そんな顔をしないのよ、太郎丸。妾たちはもう淫魔となる道は避けられない。でも、遠く未来にかけてこの国を守ろうと願うそなたと、この国の民の安寧の為なら…ね。それに、そなたの方策には都合がよいでしょう?」
確かに、その通だった。
白瑠璃がなそうという助力は、政景の思う方策を後押しする。
ならば、後は国主として政景が力を振るうべきだ。
「ええ…明日にも、法令を布こうと思います」
この後、蜜河の国にはいくつかの有名な法令が施行されることとなる。
一つ、妖怪も領民とす。
一つ、みだりに妖怪化するべからず。
一つ、多妻を認む。但し、一人は人間である事。
一つ、人間同士で3人以上子をなした場合、妖怪化を認む。
一つ、上記に反した場合、労役または税務等の罰則を行う。
人妖令と呼ばれたこの法は、蜜河の国が明確に人と妖怪が共に歩むことを選んだ証として広く知られてゆく事になる。
11/08/18 21:06更新 / ミスターTYN
戻る
次へ